病院でお茶してから、もう1か月くらい経っていた。その間に食事の誘いはなかった。菜々恵の体調が気になって、夜に電話を入れてみた。彼女はすぐに出てくれた。

「元気にしている。その後、どうなの?」

「電話ありがとう。気にかけてくれて。体調は良くなっているわ。マーカー値はあれからまた1桁下がったから。でも間隔を空けても抗がん剤治療の後はやっぱり体調不良になります。でもせいぜい1~2日です」

「でもまたマーカー値が上がってこないか心配だね」

「そんなこと考えても仕方ないから、考えないことにしています。体調も良くなってきているので、今度の週末、この前言っていた食事でもどうですか?」

「夜は何時でも空いているから大丈夫だけど、本当に大丈夫なの?」

「大丈夫です。それなら、今度の金曜日の晩にしましょう。良いお店を知っていますから、予約ができたら連絡します」

「了解した。連絡を待っている」

次の日の昼過ぎにメールが入った。場所は自由が丘の小料理屋で地図も送られてきた。時間は午後7時となっていた。[了解です。楽しみにしています]と返信した。

◆ ◆ ◆
約束の時間の15分前に、僕はその指定された小料理屋に到着した。おそるおそる戸を開けて中に入ると、いらっしゃいませの声。菜々恵がニコニコして待っていた。

奥のテーブル席へ若女将が案内してくれた。菜々恵と若女将とは顔なじみというか、随分親しげだった。彼女は僕を見ると菜々恵に耳打ちをしていた。

「ここの若女将は高校の時の同級生なの。それで井上さんのことも覚えていると言っていました」

「へー」

「文化祭に来てくれたのを覚えていたみたいで、あの時羨ましかったのでよく覚えていると言っていました」

確かにあの時は随分周りからジロジロ見られたし、菜々恵が声を掛けられていたのを覚えている。

「あの頃が懐かしいね」

「こんなことになるなんて想像もできなかった。病気になってから思うようになったの。今を精一杯生きるのが大切だと」

「考え方が変わった?」

「こうなるまでは、いつも先がある、将来があると思っていました。こうなって分かったことは、先のことは分からない。いえ先なんかないのではと、今があるだけだということに気づきました」

「それで今を精一杯生きることが大切だと思うようになったんだ」

「いつ死んでも後悔しないように、今を精一杯生きようと思いました。すると、今なら何でもできると思えるようになりました。そうしたらなぜか元気が出てきました」

「確かに今日は生き生きして元気がみなぎっているように見える」

「あなたにそう言ってもらえてとても嬉しいわ。今日は飲みましょう」

「いや、僕は飲むけど君は飲むのは控えめにした方が良い」

「おっしゃるとおりにしますが、あなたは飲んで下さい」

「ああ、そうする」

それから、菜々恵は中学の頃を思い出しながら淡々と話してくれた。僕と隣の席になった時の気持ちを話してくれた。

お勉強ができる人が隣になったから勉強を教えてもらおうと思ったそうだ。頼んだら分かりやすく丁寧に教えてもらえたので嬉しかったと言っていた。僕もその時を思い出して、物分かりが良くて教えがいがあったと話した。

それから、女子高時代の文化祭の話になった。若女将が料理を持ってきたので、一緒になって話が盛り上がった。

僕は菜々恵からお酒を注がれるままに飲んでいた。僕は酒には弱くはないが、酒を飲むと饒舌になる。まあ、気持ちがシャイからハイになる。

菜々恵との思い出話に花を咲かせるのは悪くはない。あのころが懐かしい。彼女も楽しそうで話がはずむ。また、若女将が居てくれるので、なおさら話しやすい。

すっかり料理を食べ尽くして、お腹も膨れたところで、そろそろお開きにしようかと思ったときに、菜々恵が2次会にカラオケをしたいと言ってきた。大丈夫かと聞くと体調が良いから1時間くらいどうかと行く気満々だった。

「ここの支払いは僕がするから」と言うと、菜々恵は「私が誘ったので私がする」と言って聞かない。それに「もう支払ったから」と言った。若女将は「もういただいています」と言う。しかたなく、ここはご馳走になることにした。それなら2次会は僕が持つと言うことにした。