お見合い結婚します――悔いなく今を生きるために!

僕は受付を済ませると、2階の内科受付に書類を出して待合室のベンチに腰掛けた。診察室が幾つかあって担当医の名前が掲げられた部屋の前で待つようになっている。診察が始まるまでにはまだ時間がある。そこへ菜々恵が現れた。そして僕の隣に座った。

「ここへ入院したと言っていたけどどうしたの?」

「4月初めのころ、真夜中に突然、高熱が出て、身体に発疹が出たの。私、発疹なんか出たことがなかったので、あわてて救急車を呼んで、そしてここへ運んでもらったの」

「それで」

「丁度、消化器系の専門の先生が当直だった。入院して詳しく調べた方が良いと言われて、翌日、CTを撮ったら胆管がんが見つかって」

「胆管がん? あまり聞かないがんだね」

「私もそれを聞いてとっても驚いたわ」

「早期のがんだったのか?」

「いえ、ステージ4と言われた。手術がもうできないほど進行していたの」

「自覚症状はなかったのか?」

「全くなかった。発疹が初めて」

「最初に診てもらった先生が消化器専門でよかった。ほかの先生なら見逃して、ただの蕁麻疹の診断で終わって、もっと手遅れになっていたと思う」

「それでも、セカンドオピニオンをお願いしなかったのか?」

「先生もそれを勧めてくれたけど、きっと、どこで診てもらっても同じだと思ったの。今の先生の診立てが良かったのでこれでも早く見つかったのだと思った。それで、ここで先生に治療をお願いすることにしたの」

「医師とは信頼関係が大切だからね。それで治療はうまくいっているの」

「それからすぐに抗がん剤治療を受けたの。体力的には辛いものがあったけどそれにも慣れて、今は2週間ごとに抗がん剤の点滴を受けに通院しているところなの」

「がんは小さくなったの?」

「CTで確認したけど、かなり小さくなっているし、マーカー値も始めは千のオーダーだったのが、2桁にまで下がった。ただ、これでも正常値よりもかなり高いみたい。でも一時より随分良くなったと言われた」

「抗がん剤が効いているんだね。ただ、耐性ができて徐々に効かなくなるということを聞くけど、先生はどう言っている?」

「これで様子をみて、効かなくなったらまた考えようと言っています。それでおまかせしています」

「転移などはないの?」

「PETで調べた限りは見つかっていないけど、どうか分からない」

「淡々と話してくれているけど、随分、落ち着いているね」

「診断結果を聞いた時にはすごくショックで落ち込みました。でも受け入れるしかないし、独り身で子供がいる訳でもないし、これといって思い残すこともないから」

「すごいね。僕だったら、きっともっと動揺していたと思う」

「井上さんも時間が経てばきっと私のような心境になっていると思うわ」

「そうかな。君は強いね。ところで、同窓生や友人はこのことを知っているの?」

「まだ、誰にも話していません。心配させても何にもならないから。井上さんが最初です」

「それなら、君が皆に話すまではこのことは誰にも話さないけど、それで良い?」

「ええ、その方が不要な心配をかけなくて良いと思っています」

「僕は2か月毎にここへ来ている。また、一緒になるかもしれないね」

「私は2週に1回、ここへ抗がん剤治療に来ています。これから点滴を始めて終わるのは午後4時ごろです。今度時間があったら、ここの喫茶室でお茶しませんか?」

「ああ、まだいろいろ話したいことがあるからいいね」

それからお互いの電話番号を交換した。僕の名前が先に呼ばれた。もう診察が始まる時間になっていた。菜々恵とはそこで別れた。

診察が終わって出てきたら、菜々恵はいなかった。彼女も診察と治療が始まったみたいだった。
菜々恵とは3年前に二人で会った時以来だった。彼女が中学3年の同窓会幹事だったこともあり、同窓会があるごとに会っていた。高校生の時は毎年、文化祭に招かれて訪ねていた。

菜々恵は僕が行くと嬉しそうに会場を案内してくれた。1年生の時から案内してもらうときはいつも僕一人だった。高校3年生の時は、受験勉強で忙しかったけれども菜々恵のために指定された日時に文化祭に行った。

3年間も行っていると僕のことを覚えている友人もいるようで、二人で歩いていると「また、彼氏が来てくれているのね」と言われることがたびたびだった。菜々恵は「そんなんじゃないよ」とニコニコしていたのを覚えている。

高校を卒業して僕は希望していた大学へ進学することができた。菜々恵は高校の系列の大学の短期大学部へ進学していた。大学へ入ってからも相変わらず中学の同窓会は毎年続いていた。幹事がしっかりしていると同窓会は続くようだ。でも集まる人は徐々に限られてきていた。

短期大学部でも僕は学園祭に招待されて2年で2回訪問した。また、僕も大学の学園祭があるときに菜々恵を招待した。彼女は喜んで来てくれた。そのときまで菜々恵とは5年間ずっと同窓会と文化祭・学園祭で会うことが続いた。

彼女とは付き合っていた訳ではないが、友人以上の特別の友人で、恋人未満とも言えないような間柄だった。お互いに好意を持っていることは分かっていた。ただ、その時の僕は特定の彼女と付き合うという考えはなかった。

短期大学部を卒業してからの同窓会で会った時に、菜々恵が調理師専門学校へ入学したと聞いた。期間は1年で、調理師免許が取れると言っていた。短期大学部は栄養学科で栄養士の資格を取ったみたいだったが、何を思ったのだろう?

それから専門学校を卒業してから中堅のホテルに就職したと聞いていた。彼女が就職してからは同窓会で会うことと、ホテルで催し物があると招待されて行くことがあった。会場では彼女が挨拶をしに来たが、仕事中でもあり、長話はできなかった。

それで夜に電話して催し物の感想やらを伝えた。その折、休みの日にでも一度会おうということになり、休日に会ったりもした。

ただ、それは催し物があった時など、せいぜい年1~2回くらいだったと思う。二人で会った時に何を話していたか覚えていない。たわいのない噂話しかしていなかったのだと思う。

僕が大学を卒業して就職してからも、年に1~2回は会うことが続いていたと思うが、やはり特別な友人のままだった。今から3年位前だったと思う。その時二人はもう27歳になっていた。何かの機会に菜々恵と二人で会っているときに、彼女が突然口にした。

「縁談があってお見合いすることになったの」

菜々恵は僕の彼女に対する気持ちを確かめようとしたのだと思う。僕は菜々恵に好意は持っていたが、異動もあって仕事が忙しくて結婚など考えられない状況だった。ただ、菜々恵には縁談があっても可笑しくない歳だった。

「良い人だったら考えても良いんじゃないか」

僕はそう答えてしまった。菜々恵は僕にそのお見合いを止めて僕と付き合ってほしいと言ってほしかったのだと今は思っている。その時、僕はそこまで考えが及ばなかった。自分のことで精一杯だった。

あの時、菜々恵は「私はあなたが好きだけど私のことをどう思っているの」とは聞かなかった。もし、率直にそう聞かれていたら僕の答えも変わっていたと思う。

翌年の同窓会に菜々恵は来なかった。彼女は幹事を親しい友人に代わってもらっていた。それ以来、菜々恵は同窓会を欠席していた。昨年の同窓会も菜々恵は欠席だった。僕はというと菜々恵がいない同窓会にもう出席する気持ちがなくなってきていた。

この3年間に菜々恵にはいろいろなことがあったことを風の便りに聞いていた。お見合いが結納にまで進んでいたが破談になったと聞いた。勤めていたホテルも辞めていて、それからの消息はつかめていなかった。

その菜々恵にこの病院で会おうとは思いもしなかった。彼女のことが好きだった。この歳になってそれがようやく分かった。彼女が初恋の人だった。
病院で偶然再会したその夜に僕は教えてもらった番号へ電話を入れた。菜々恵はすぐに出てくれた。

「無事に治療は終わったの?」

「5時には家へ着いて、一休みして夕食を終えたところです」

「体調は?」

「絶好調とは言えないまでも悪くはないです」

「それはよかった」

「それで、僕の次の診察は2か月後の8月20日になった」

「私は2週毎に通院しているので、日にちが合うといいですね」

「もし、日にちが合えば病院の喫茶でお茶しよう。積もる話があるから」

「そうですね。楽しみにしています」

もう一度会う確認ができた。短い会話だったが、学生時代の電話がなつかしく思い出された。随分前のことだったけど、ほんの少し前のことのようにはっきりと思い出した。

◆ ◆ ◆
病院で会ってから1か月位たったころ、暑い日が続いたので急に菜々恵のことが気になって、夜8時ごろに電話を入れてみた。すぐに電話には出てくれなかった。呼び出し音が続くだけだった。心配になって、小1時間後に再度電話したがやはり出なかった。

翌朝は土曜日だったので、朝寝をしていると電話が入った。菜々恵からだった。

「昨晩、電話をくれたみたいで、出られなくてごめんなさい。治療から帰ってきて疲れていたので早く寝てしまいました」

「あれから1か月ほど経つけど、元気にしているかなと思って。出てくれないので容体が急変したのかと思って心配していた」

「心配してくれてありがとう。大丈夫です。治療は順調に進んでいます」

「そうなの、安心した。これからも時々電話するから。一人で住んでいるの?」

「いいえ、アパートを借りていましたが、がんが見つかってからは、実家に戻っています。母が身の回りの世話をしてくれますので。妹も近くに住んでいて、気にかけてくれていますので心強いです」

「それならよかった。じゃあ、また」

「じゃあ、また」
大学の理系学部を卒業した僕は大手食品会社に就職した。今は商品企画部の主任になっている。就職した時は勝手が分からずに無我夢中で苦労したが、入社して7~8年にもなると業界の置かれている状況も把握して、無難に仕事をこなせるようになっている。

菜々恵がお見合いをしたころ、僕は丁度27歳で仕事を任されるようになって、恋愛などしている余裕がなかった。それで菜々恵の相談にあんな返答をしてしまった。彼女がお見合いに失敗したことを聞いて、それがずっと心のどこかに引っ掛かっていた。

菜々恵に「お見合いは止めて僕と付き合ってほしい」と言えばよかったと、しばらくは思ったりした。会えなくなるとなおさら思いが募るのかもしれない。もう時間は戻せなかった。

30歳になって主任になったこともあり、部下もついて仕事に余裕もできてきた。同期の中には結婚するものが増えてきて、女性を意識するようになってきた。

僕は菜々恵と会わなくなってから、他の女子と付き合う機会がないこともなかった。関連会社の女子とも付き合う機会があった。同期に誘われて合コンに参加もしてみた。ただ、気持ちを通じ合える気に入った女子には巡り会えずにいた。
この前に電話で話してから1か月くらい経った夜の9時ごろ、携帯に連絡が入った。菜々恵からだった。

「田村です。元気にしていますか?」

「田村さん、そちらこそどうなの?」

「抗がん剤治療を続けています。マーカー値も下がって落ち着いています」

「それはよかった」

「それで抗がん剤治療の間隔をあけて様子を見ようということになっています」

「それは良い方向かな」

「今度の井上さんの通院予定はいつですか?」

「今度の金曜日、8月20日だけど」

「その日は私も診察があります。抗がん剤治療はないのでお茶しませんか?」

「僕は10時までには診察が終わるけど」

「私も10時には終わるので、それからどうですか?」

「午前中は休暇を取っているので時間が取れるから大丈夫だ」

「それなら1階の受付のベンチで待ち合わせしましょう」

「了解した。楽しみにしています」

「私も」

◆ ◆ ◆
今日は患者さんがいつもの日よりも多かった。初診の患者さんがいると診察に時間がかかる。でも10時少し前には診察を終えることができた。

診察は体調を聞かれて、血圧を測るだけだ。血圧が高いと腎臓に負担がかかるので、調べているのだと思う。ネットで調べたらそう記載されていた。血圧はいつも正常の範囲内だ。

また、半年に一度は血液検査をして腎機能を調べている。毎回正常値で異常はない。ただ、尿にタンパクが出ているだけだ。それも±が多い。時々+が出ることもあるが、主治医はあまり気にしていないようだ。

体調を聞かれて「別に変わりありません」と答えると、すぐに2か月後の診察の日を告げられる。都合が良いと答えると診察は終わる。5~6分の診察だ。今日も異常なし。異常があっても困る。

1階のロビーへ降りて行って、順番を待って医療費を支払う。これに結構時間がかかる。今日は菜々恵を待っているので遅くなってもかまわない。

10時過ぎに菜々恵が1階のロビーへ降りてきた。僕を見つけるとニコッと笑った。菜々恵は僕の隣の席に黙って座って支払いの順番が回ってくるまで待っていた。

支払を終えた菜々恵と喫茶室へ向かう。広くはないが席は混んでいない。窓際の場所に二人掛けの席を見つけて座った。コーヒーの券を2枚買ってカウンターに出し、出来上がると呼んでくれる。セルフサービスだが値段も安い。

「どうだった?」

「今日は血液検査でマーカー値などを見るだけだったけど、随分下がってきた」

「良い方に向かっているのか?」

「先生は思った以上に抗がん剤が効いていると言っています」

「これを続けるしかないのか?」

「先生にお任せしているけど、これがベストと言っておられたから」

「最初に会った時から少し痩せて見えるけど、食欲は?」

「このごろ、少し出てきました」

「体力をつけるためにもできるだけ食べて栄養を取った方がいい」

「そう思って、食べられるときはできるだけ食べています」

「大学の友人から聞いた話だけど、がんには免疫能を上げるのが良いそうだ。僕に免疫能が上がる食べ物を勧めてくれたけど、ヨーグルト、バナナ、リンゴが良いそうだ。僕も朝、ジュースにして飲んでいるけど、お腹にも良いみたい」

「ヨーグルト、バナナ、リンゴなら私も嫌いでないからジュースにして飲んでみます」

「イワシの頭も信心から。気休めにしかならないかもしれないけどね」

「試せるものは何でもやってみます」

「仕事は?」

「今は休職中ですが、病院の栄養士をしています」

「働いている病院へ入院したらよかったのに」

「内情を知っているので、救急隊員の人に相談してここにしました。うちの病院だときっとただの蕁麻疹と診断されていたと思います」

「勤めている病院にはなんと言っているの」

「救急車に運ばれたのがこの病院だと言ってあります」

「今は治療に専念するしかないね」

それから、菜々恵は僕のことを聞いてきた。僕はなぜ病院通いをしているかを話した。菜々恵には尿にタンパクが出るので腎機能を定期的に検査していると説明した。彼女はそれ以上のことは聞かなかった。

それから、ここ3年間の仕事の話をした。また、結婚していないことも話した。でも菜々恵は僕がまだ結婚していないことを知っていた。

それから中学の女子の同窓生の話を聞かせてくれた。ほとんど結婚したようだった。僕は菜々恵が婚約して破談になったことやホテルから病院へ職場を変えたことについてはあえて聞かなかった。本当は聞きたかったのだけど、菜々恵にいやなことを思い出させたくなかったからだ。

別れ際に菜々恵は今度、食事でも一緒にしたいと言ってきた。食事を誘われるとは思わなかった。菜々恵は少し変わったと思った。僕は菜々恵の体調の良い時を言ってくれれば、いつでも喜んで付き合うと答えておいた。
病院でお茶してから、もう1か月くらい経っていた。その間に食事の誘いはなかった。菜々恵の体調が気になって、夜に電話を入れてみた。彼女はすぐに出てくれた。

「元気にしている。その後、どうなの?」

「電話ありがとう。気にかけてくれて。体調は良くなっているわ。マーカー値はあれからまた1桁下がったから。でも間隔を空けても抗がん剤治療の後はやっぱり体調不良になります。でもせいぜい1~2日です」

「でもまたマーカー値が上がってこないか心配だね」

「そんなこと考えても仕方ないから、考えないことにしています。体調も良くなってきているので、今度の週末、この前言っていた食事でもどうですか?」

「夜は何時でも空いているから大丈夫だけど、本当に大丈夫なの?」

「大丈夫です。それなら、今度の金曜日の晩にしましょう。良いお店を知っていますから、予約ができたら連絡します」

「了解した。連絡を待っている」

次の日の昼過ぎにメールが入った。場所は自由が丘の小料理屋で地図も送られてきた。時間は午後7時となっていた。[了解です。楽しみにしています]と返信した。

◆ ◆ ◆
約束の時間の15分前に、僕はその指定された小料理屋に到着した。おそるおそる戸を開けて中に入ると、いらっしゃいませの声。菜々恵がニコニコして待っていた。

奥のテーブル席へ若女将が案内してくれた。菜々恵と若女将とは顔なじみというか、随分親しげだった。彼女は僕を見ると菜々恵に耳打ちをしていた。

「ここの若女将は高校の時の同級生なの。それで井上さんのことも覚えていると言っていました」

「へー」

「文化祭に来てくれたのを覚えていたみたいで、あの時羨ましかったのでよく覚えていると言っていました」

確かにあの時は随分周りからジロジロ見られたし、菜々恵が声を掛けられていたのを覚えている。

「あの頃が懐かしいね」

「こんなことになるなんて想像もできなかった。病気になってから思うようになったの。今を精一杯生きるのが大切だと」

「考え方が変わった?」

「こうなるまでは、いつも先がある、将来があると思っていました。こうなって分かったことは、先のことは分からない。いえ先なんかないのではと、今があるだけだということに気づきました」

「それで今を精一杯生きることが大切だと思うようになったんだ」

「いつ死んでも後悔しないように、今を精一杯生きようと思いました。すると、今なら何でもできると思えるようになりました。そうしたらなぜか元気が出てきました」

「確かに今日は生き生きして元気がみなぎっているように見える」

「あなたにそう言ってもらえてとても嬉しいわ。今日は飲みましょう」

「いや、僕は飲むけど君は飲むのは控えめにした方が良い」

「おっしゃるとおりにしますが、あなたは飲んで下さい」

「ああ、そうする」

それから、菜々恵は中学の頃を思い出しながら淡々と話してくれた。僕と隣の席になった時の気持ちを話してくれた。

お勉強ができる人が隣になったから勉強を教えてもらおうと思ったそうだ。頼んだら分かりやすく丁寧に教えてもらえたので嬉しかったと言っていた。僕もその時を思い出して、物分かりが良くて教えがいがあったと話した。

それから、女子高時代の文化祭の話になった。若女将が料理を持ってきたので、一緒になって話が盛り上がった。

僕は菜々恵からお酒を注がれるままに飲んでいた。僕は酒には弱くはないが、酒を飲むと饒舌になる。まあ、気持ちがシャイからハイになる。

菜々恵との思い出話に花を咲かせるのは悪くはない。あのころが懐かしい。彼女も楽しそうで話がはずむ。また、若女将が居てくれるので、なおさら話しやすい。

すっかり料理を食べ尽くして、お腹も膨れたところで、そろそろお開きにしようかと思ったときに、菜々恵が2次会にカラオケをしたいと言ってきた。大丈夫かと聞くと体調が良いから1時間くらいどうかと行く気満々だった。

「ここの支払いは僕がするから」と言うと、菜々恵は「私が誘ったので私がする」と言って聞かない。それに「もう支払ったから」と言った。若女将は「もういただいています」と言う。しかたなく、ここはご馳走になることにした。それなら2次会は僕が持つと言うことにした。
「2次会の会場は決めてある」と菜々恵が言うので、ついて行くと、近くのビルの3階へ案内された。そこも菜々恵の短大時代の友人の開いているスナックだという。

ドアを開けて中に入ると、カウンタ―とボックス席の極ありふれたスナックだった。ここも菜々恵がすでに予約してあったらしく、すぐにママが席に案内してくれた。

今度は止まり木に二人並んで座った。この方が話しやすい。すぐにウイスキーの水割りとつまみが出された。

「何度か来ているの?」

「仕事の帰りに時々一人で寄っていました。なじみというほどではありませんが、ここなら一人でも安心なので」

「歌は歌うの?」

「流行りの歌を練習しています」

「へー」

「どんな歌を歌うの?」

「ちょっと前なら、レモン、今なら香水」

「香水なら僕も歌える」

「へー、歌ってみて」

そういうと、ママに曲をリクエストしてくれた。すぐに曲がかかる。ほかに客が4人ばかりいるがもう歌っておらず、話し込んでいる。

僕は音感が良い方で好きな曲は何回か聞いて練習するとすぐに歌えるようになる。だからカラオケは好きな方だ。一度カラオケの講習に行ったことがある。要するに抑揚をつけてサビを強調して歌うことと、その歌の世界に入って歌うことがポイントだと教わった。

曲に合わせて菜々恵を横目で見つめながら歌いたいように歌った。そういえばあのころよく横目で隣の菜々恵を見ていた。歌いながら思い出していた。

菜々恵はしっかり聞いてくれた。終わったら長い間拍手をしてくれた。その次に「私も歌う」と同じ『香水』をリクエストした。

菜々恵が歌い出した。返歌というべきオリジナルの歌詞だった。そういえばあの歌はどこか僕たち二人にも通じる部分がある。離れ離れになっていた二人が3年ぶりにまた会っている。そしてあのころを思い出している。あのころにはもう戻れない。彼女の歌詞はそんな内容だった。前もって考えていたかのように、菜々恵はうまく歌った。

『突然、あんなところで会うなんてどうしたのかしら、もう3年は会っていなかった。あのころ私たちには時間があった。でも今の私にはもう時間がない。別に君を求めてないけど横にいるとあのころを思い出す。今更君に会って何を言えばいいの? 今の私は空っぽで、涙も出なくなった。二人の楽しかった日々を思い出すけど、もう戻れない。別に君を求めてないけど横にいるとあの頃を思い出す。別に君を求めてないけど、また好きになるくらい君は素敵な人だけど、また同じことの繰り返してって私がふられるんだ』

こんな内容の歌詞だったと思う。

歌い終わって、菜々恵はマイクをママに返した。歌詞が胸に突き刺さって拍手するのを忘れていた。

「歌詞のようにあのころを思い出していた。でも聞いていて悲しくなった」

「ごめんなさい。私はあの頃が懐かしくて。でももう私にはこれからの時間がないのよ」

「今があると言っていたじゃないか?」

「今はあるけど明日はないかもしれない。明日の朝に死んでいるかもしれない」

「そんな悲観的にならなくても」

「私には思い出はある。今もあるけど、その先がないのよ」

「じゃあ、その思い出を僕に聞かせてくれないか」

「そうね、3年前の話を聞いてもらえますか?」

「ああ」

「3年前お見合いをしたんです。勤務先でお世話になっている方の紹介でした。そんなに悪い方でもなく断る理由もなかったので交際して、3か月後に結納をして婚約しました」

「破談になったと聞いたけど、お見合いがあると言う話を聞いた時に、親身になって相談に乗ってあげられなかったことは今でも後悔している」

「すべて私の責任です。私の心構えに問題があったのだと思っています」

「婚約してから彼の部屋に行ったときに求められました。突然抱き締められて、その時咄嗟に思ったのです。この人とはできないと。すぐに拒んで帰りました。それから私の方から破談にしてほしいとお願いしました」

「その人のことが好きになれなかったということか? 婚約までしたのに」

「私にも良く分かりませんでした。でもその時この人とはだめだと思ったのです」

「それで」

「勤務先のホテルでお世話になった人に申し訳なくて、そこを退職しました。そして今の病院へ勤めることにしたのです。そのことがあってから同窓会にも出る気になれず、同窓生とは音信を絶っていました。このごろ、ようやく友人とも連絡を取るようになりました。病気が分かってからは、開き直ったというか、もう何も気にしないことにしました」

「学生のころの友人は良いね。何年経っても変わらない。そのときのまま性格も変わっていない。お互い少し大人になっただけだ」

「あなたも変わらないわね」

「君も変わっていない」

話が途切れた。菜々恵は僕を横目で見ている。目が合うと僕の方が目を外す。ドギマギしてしまうような憂いのある眼差しだった。

「もうこんな時間になっている。ほどほどで引き上げないと身体にさわるから」

「まだ、大丈夫です」

「でも、心配だから、引きあげよう」

「じゃあ、そうします」

支払をすませると二人はスナックを出た。廊下で菜々恵がよろけるので手を貸すと腕を組んで寄り掛かってきた。そのままエレベーターに乗って1階まで降りて外へ出た。まだ、外は蒸し暑さが残っている。菜々恵はタクシーで帰ると言っている。

駅前のタクシー乗り場の方へ歩いていく。今僕が菜々恵を僕の部屋に誘ったら彼女はどう言うだろう。付いて来てくれるだろうか? なぜか一瞬そんな考えが頭をよぎった。でも僕はお酒が醒めてきてもうシャイな僕に戻りかけていた。

菜々恵はそれを期待していた? そうかもしれない。タクシーに彼女を乗せるとき、僕を恨めしそうな目をして見つめた。誘ってくれないの? と言いたかったのかもしれない。別れ際に彼女は僕にこう告げた。

「同窓会の幹事に戻ったの。近々同窓会をするから出席してね」

「分かった。必ず出席するよ。それまで元気でいてね」

タクシーが出て行った。彼女は前向きに精一杯生きようとしている。そう思った。
菜々恵と会った次の週の週末に中学校の同窓会の開催案内の往復はがきが届いた。幹事として小川君と田村菜々恵の名前が印刷されていた。

案内文には今年は事情があって今まで開けなかったが、急遽同窓会を開きたい旨が書かれていた。菜々恵の病状もあるので急いで開催したいのだと思った。小川君は彼女の病状を知っているのだろうと思った。

開催日は1か月後の10月12日(土)、場所は箱根の湖尻のホテルになっていた。返信期限は1週間後までとなっていたのですぐに出席にして投函した。返信先は菜々恵の住所になっていた。菜々恵の住所が分かったので、スマホの電話番号簿に記録しておいた。

◆ ◆ ◆
投函してから2~3日後の夜に菜々恵から電話が入った。

「同窓会出席の返事が届きました。出席してくれてありがとう」

「私の病状もあるので小川さんと相談して急遽今年の同窓会を開くことにしました。この機会を逃すともう私は同窓会には出られないかもしれないので」

「出席の返事はほかにも来ているの?」

「ええ、急だったけど何人かは出席してくれそうです」

「皆に会うのが楽しみだ」

「当日会場へ一緒に行きませんか?」

「いいけど」

「せっかくだから、朝早く出て、新宿駅で落ち合って、途中、見物しながら、ホテルへ向かうことでどうかしら」

「いいね。付き合うよ」

「それなら、スケジュールを考えてメールします」

「了解。送ってくれれば、そのスケジュールどおりにしよう」

「楽しみです」

次の日の夜、メールで落ち合う時間と集合場所を知らせてきた。すぐに[了解]の返信を入れておいた。菜々恵と二人だけの旅行も悪くない。今はそう思う。彼女も思い出を作りたいのだろう。
あの暑い日が続いた夏をようやく忘れられる季節になった。今日は朝から清々しい秋晴れで、同窓会にはうってつけの日になっている。台風の接近を心配していたが、2日前に太平洋に逸れていた。

朝9時に新宿駅で待ち合わせることになっている。昨晩、菜々恵に電話を入れて、体調と落ち合う場所と時間の再確認をした。菜々恵が元気だったので、安心した。

時間の余裕を持って出かけたが、待ち合わせ場所には菜々恵が先に来ていた。僕を見つけると嬉しそうに手を振ってくれた。手には小さめのバッグを持っている。

僕はリュックにした。最近は通勤にも便利な別のリュックを使っている。これなら両手が空くし、菜々恵の荷物を持ってやれると思ったからだ。

リュックを見ている菜々恵にそう話すと「優しいのね」と嬉しそうに笑った。菜々恵はチケットをもう2人分買ってくれていた。

すぐに菜々恵のバッグを持ってロマンスカーに乗り込む。すぐに支払いをしようとしたが、あとでまとめてもらうと言うので、あとで清算してもらうことにした。

電車が動き出した。菜々恵は黙って窓の外を見ている。しばらくは街中と住宅街を走る。見慣れた風景が続く。僕は菜々恵の横顔をジッと見ている。あのころと同じだ。そう思ったとき、菜々恵が僕の方を見たので、目が合った。

「中学3年の時、あなたはいつも私の横顔を見ていたわよね」

ドキッとして僕は口ごもった。そのとおりだった。彼女はそのことを初めて口にした。そして今の僕の気持ちを見透かしたように話し続けた。

「私が振り向くとあなたはいつも目を逸らした」

「ああ、恥かしかったからね」

「私のことが好きだった?」

「好きとかじゃなくて、どちらかというとあこがれだった。僕はシャイでそのときどうして良いか分からなかった。男の子は奥手だからね」

「でも好意は持ってくれていたのでしょ。高校の文化祭にも来てくれた」

「好きだったから行ったのは間違いない。でもそれだけだった」

「それだけって」

「うまく説明ができないけど、それ以上でもなく、それ以下でもない」

「だから、あなたは今でも一人身なのね。分かるわ」

「あの時はそうだったんだ。でも今は少し違うと思っている」

「少しも変わっていないと思うけど」

菜々恵はそう言うとまた窓の外を見た。もう景色は田園風景に変わっていた。僕もつられて外を見ている。僕はこういうところがだめなのは分かっている。今、彼女の手を握ったらどうだろう。

そう思っていると、菜々恵が僕の膝の上の右手に左手を重ねてきた。気持ちを見透かされている? そう思ったら、僕の左手をその上に重ねていた。菜々恵が僕の方を見たのが分かった。僕は知らんぷりで外を見ている。

菜々恵は僕にこんなことができるのだと驚いたに違いない。この前、会って食事をしてカラオケをした時も彼女には少しも触れなかったからだ。

手に神経が集中している。沈黙の時間が過ぎてゆく。二人とも手はそのままにして動かさない。

車内販売が来たので、コーヒーを2杯注文した。その際に僕は手を離した。それから二人は何事もなかったようにコーヒーを飲んだ。

「少し眠りたいから肩を貸してくれる?」

菜々恵が僕に寄り掛かってきた。今度は肩か、悪くない。

「もう疲れたのか? いいよ」

菜々恵はしばらく頭を動かしていたが、動かなくなった。眠ったみたいだった。これで間が持つ。菜々恵が次々に仕掛けてくることにドギマギしなくてもいい。ホッとした。恋人と初めて旅行する時はこんな感じなのか、まあ悪くはない。

気が付くと僕も眠っていた。もう小田原を過ぎてあと2駅で終点、箱根湯本に到着するところだった。川沿いを走って駅に近づいた。

「到着するよ」

「もう着いたの?」

菜々恵が目を覚まして窓の外を見ている。ここで箱根登山鉄道に乗り換える。

狭い線路道を走っていく。ここは修学旅行と会社の同期会で2回ほど通った記憶がある。沿線は春が桜、6月頃はアジサイ、秋は紅葉で知られている。

秋に来たのは初めてだと思う。もう紅葉が始まっている。窓側の菜々恵はそれを目に焼きつけるかのようにじっと見つめている。

「紅葉が思っていた以上に綺麗ね」

「ああ、綺麗だね」

「散りゆくものは綺麗に見えるのね」

「植物は排泄器官がないから、落葉するのは植物がうんこしているのと同じだ。これが肥料にもなる」

「情緒のないことを良く言えるわ、せっかく綺麗だと思ってみているのに」

「御免、解説が科学的過ぎたかな」

「だから、お勉強ばかりしていた人はだめなのよ。折角の景色が台無しでしょ」

「春になればまた芽吹いて、生まれ変わるんだ。新緑も綺麗だよ」

「私もそうありたいわ」

彼女には僕とは違った景色が見えているのだろうか? 

強羅で今度はケーブルカーに乗り換える。箱根は乗り物の連絡がスムースだ。早雲山ではロープウエイに乗り換える。

大涌谷で途中下車した。僕はここで降りたことがなかった。菜々恵も降りたことがないと言うので降りて見物することにした。時間は十分にある。

硫化水素の臭いか、鼻を突く匂いがする。長居は無用だが、菜々恵は見学通路をどんどん進んで行く。

「地獄ってこういう感じ?」

「行ったことがないから分からないけど、こんなだと想像されているから名付けられているのだろう」

「どうせ行くならやっぱり天国ね」

「そうだね。君は大丈夫だと思う」

「どうしてそう言えるの? 私のこと何も知らないくせに」

「長い付き合いだから何となく分かる」

「長い付き合いだったけど、ただ長いだけだったけど」

「そうだね。確かにそうかもしれない」

「私は例え短くても深い付き合いの方がずっと良いと思う」

「そういうふうになるのかはやはり成り行きなのかな」

「あなたらしいわね。そういう言い方」

「御免、また気に障った?」

「黒たまごを食べてみたい」

「後学のために食べてみよう」

すぐに僕は買いに行った。二人でベンチに座って食べた。菜々恵は満足したみたいだった。機嫌が直って良かった。

◆ ◆ ◆
湖尻に到着した。ホテルはここから歩いて数分の距離にある。12時を少し回ったところだった。湖畔にあるレストランで昼食を摂ることにした。客は多くない。窓際の席が空いている。

「疲れていない?」

「大丈夫です。お天気も良いし気分も最高」

「それを聞いて安心した」

菜々恵は湖面を眺めている。僕はその横顔を見ている。いつかの二人と同じだ。菜々恵が振り向いた。でも僕は目を背けずに彼女を見ている。目が合った。菜々恵は微笑んで話しかけてきた。

「サンドイッチでも食べようかしら」

「僕はハンバーガーでも食べよう。今日の夕食はどうなっているの?」

「ホテルのレストランのビュフェスタイルにしたわ」

「急に欠席者が出ても対応できるからね。名案だ」

注文の品が運ばれてきた。コーヒーを飲みながらゆっくり食べる。

「そういえば、高校の時、文化祭に呼んでくれたけど、ひょっとして呼んだのは僕だけだった?」

「そう、あなただけ呼びました。好きな人に来てほしかったから」

「やっぱり、もっと早く気が付くべきだった。僕は本当にこういうことに鈍くて、まあ、この歳になって少しは変わったかもしれないけど」

「私の方から招待したのはあなただけと言えばよかったけど、プライドが邪魔をしたのね。私の方から好きというのはおかしいでしょ。あなたから言ってほしかったから。でもずっと言ってもらえなかった」

「お見合いの相談を受けたときもそうなんだね。気が付かなくて御免、あとから気が付いて後悔した」

「今となってはほろ苦い思い出ね」

「時間はもう取り返せないか?」

「そうね」

菜々恵は湖面を見ながら寂しそうに言った。それから沈黙の時間が過ぎた。僕は菜々恵に何と言ってやればよいか分からなくなっていた。