お見合い結婚します――悔いなく今を生きるために!

結婚式の日程が決まって僕はホッとしていた。結婚式まであと1か月あまりだ。でもお見合いして2か月足らずで結婚することになろうとは思いもつかなかった。

菜々恵には毎日必ず9時ごろに連絡を入れていた。菜々恵の声が聞きたかった。水曜日の夜、電話の声が少し変だ。どうしたのかと聞くと帰宅してから熱が出て、測ったら39℃あると言う。

僕は心臓が止まるかと思うほど驚いてしばらく口が利けなかった。「すぐ行くから」と言って、僕はマンションを飛び出した。

お見合してからすぐに両家の親にお互いを紹介して婚約した。次の週末には結婚式の会場を決めた。今週末には僕のマンションで新居について相談する予定だった。

菜々恵のアパートは日吉にあるというが、まだ訪ねたことがなかった。ここから電車で20分くらいあれば行ける。駅からの道順はスマホで調べたから分かる。

大丈夫であればいいが、いやな予感がする。もう何も考えられない。早くアパートに着いて菜々恵の支えになってやりたい。そういう思いばかりがつのる。

駅前にフルーツショップがまだ開いていたので、おいしそうなカットフルーツのパックとジュースを買った。これならすぐ食べられる。

菜々恵のアパートと思しき建物が見つかった。201号だから2階の端だ。表札は出ていない。部屋の前につくとドアをノックする。

「田村さん、僕だ、井上だ、大丈夫か?」

「はい、ちょっと待ってください」

菜々恵の声がした。電話よりしっかりした声なので少し安心した。ドアが開いてパジャマ姿の菜々恵が立っていた。熱のためだろうか顔が少し赤い。

「入っていい?」

「わざわざ来てくれてありがとう。どうぞ入って下さい」

部屋に通された。僕とほぼ同じつくりの小さめの1LDKだった。ただ、プレハブのアパートとマンションの違いだけで、中はほとんど同じだった。女子の部屋に初めて入った。寝室には布団が敷かれていた。

「熱があると聞いて、心配で居ても立ってもいられなくてやってきた。役に立てるかどうか分からないけど」

「ご心配をおかけしました。大丈夫です」

「大丈夫じゃない。高熱があるんだろう。医者にみてもらったのか?」

「いえ、帰宅の途中から気分が悪くなって、帰って熱を測ったら39℃ありました」

「御免、もう休んで。僕にできることがあればなんでもするから」

菜々恵は布団に横になった。僕はその横に座ってタオルケットをかけた。

「すぐに心配して来てくれて嬉しかった。それだけで十分です。そばにいてくれると心強いです。今日は泊まってもらえますか?」

「もし、迷惑でなかったらそうしたい。一人では置いておけない」

「お布団が1組しかありません。体調不良の私と一緒に寝る訳にもいかないと思います。何か悪い病気で移るかもしれませんから」

「冷房を緩めれば心配ない、大丈夫だ」

「お湯を沸かしてくれませんか? 暖かいコーヒーが飲みたいので」

お湯を沸かしながら、コーヒーの用意をする。インスタントコーヒーがあった。

「夕食は食べたの? 途中でカットフルーツを買ってきたけど、食べる?」

「いつもは自炊するのですが、体調が悪かったので、帰り道でサンドイッチを買って来て食べました。フルーツ、美味しそうなのでいただきます。あなたは?」

「帰りに弁当を買ってきて家で食べた。大体毎日そうだから」

「結婚したら私が美味しい夕食を作ってあげます」

「そういえば、栄養士と調理師免許も持っている料理のプロだった。これは楽しみだ」

お湯が沸いたので、コーヒーを入れた。菜々恵は起きてコーヒーを飲んだ。そしてカットフルーツを平らげた。それを見て食欲があるから大丈夫かなと思った。

菜々恵はそれからまた横になったが、少し寒気がすると言った。熱を測ると39℃だった。すぐに冷房を緩めて、冷凍庫のアイスノンで頭を冷やす。菜々恵が持っていた解熱薬を飲ませた。フルーツで身体が冷えたのかもしれない。

「寒気がするので冷房を切ってくれませんか?」

「分かった。布団に入ってタオルケットをかけて後ろから温めてあげようか」

菜々恵をそっと後ろから抱いてやった。

「ありがとう。安心して眠れます」

本当に安心したのか、すぐに寝息が聞こえてきた。それを聞いて、明かりを落とすと僕もいつの間にか眠ってしまった。

夜中に、菜々恵が汗ばんでいるのに気が付いた。熱のためか汗でびっしょりだった。部屋の中もかなり蒸し暑い。

「ねえ、起きて、着替えをした方が良い。汗でびっしょりだから」

菜々恵は汗をかいていることに気が付いて、着替えをすると言って、衣類棚からタオルとパジャマと下着を出してきた。そしてすぐにタオルで汗を拭いて着替え始めた。薄暗いけど、僕は目のやり場に困った。

菜々恵は僕にかまわずすぐに着替え終えた。そして、脱いだ下着とパジャマとタオルを洗濯籠に入れた。僕はようやく菜々恵の方を見ることができた。

「気が付いてくれてありがとう。あなたが恥ずかしがることはないわ」

「いや、目のやり場に困る」

「元気になったらしっかり見てください」

「冗談が言えるほどなら大丈夫だ。もう熱が下がっているんじゃないか?」

菜々恵は熱を測った。

「36.5℃で今は平熱にもどっています。解熱剤が効いたのね」

「ポットに白湯があるから少し飲んだらいい」

僕がカップに白湯を注ぐと、菜々恵はゆっくりそれを飲んだ。そしてまた布団に入って横になった。それから僕は冷房を軽く入れた。悪寒はなくなったようだ。

僕はまた菜々恵にタオルケットをかけて、その後ろから軽く抱いた。すると菜々恵は向きを変えて僕にしがみついてきた。

菜々恵が元気だったら。僕は我慢して抱き締めるだけにした。菜々恵もそれが分かっていて抱きついているだけだった。また、二人は眠った。
明け方にまた菜々恵の身体が熱っぽいのに気が付いた。測ると38℃あった。

「今日は休んで医者へ行った方がいい。勤めている病院に行く? それとも近くの医院にする?」

「駅前に内科医院があるのでとりあえずそこへ行きます」

「じゃあ、僕がついて行ってあげる」

「会社へ行って下さい。一人で大丈夫です」

「いや、君を一人にしておけない。今日は会社を休む。家族が病気になったからと言って」

「ありがとうございます。お言葉に甘えさせていただきます」

「何か朝食を作ってあげよう。冷蔵庫開けていい?」

「どうぞ、お願いします」

冷蔵庫には牛乳、リンゴ、ヨーグルト、キュウイがあった。バナナが冷凍室にあると教えてくれた。ミキサーがあるのを見つけたので、ミックスジュースを作ろう。卵があったので、目玉焼きを作った。パンを焼いてトーストにしてマーガリンを塗った。

食器は結構そろっている。適当に盛りつけて、リビングングの座卓にそれらを並べて準備完了。まあ、なんとか朝食らしくは見える。時間は20分位かかった。

「できたよ。こっちへきて、食べて」

菜々恵は布団からパジャマのまま出てきて、座卓の上を見て笑った。

「すごい、立派な朝食ね。いただきます」

すぐに食べ始める。喜んで食べてくれてよかった。ジュースを飲んで僕の顔を見てニコッと笑った。これなら心配ないかもしれない。

「ありがとう。とっても美味しい。こんなにしてもらって嬉しい」

「早く良くなってくれ。洗濯もしようか?」

「いえ、そこまでは」

「遠慮するな」

「じゃあ、洗濯機に衣類を入れて、洗剤を適当に入れて、スイッチを入れておいてください。でも、いろいろ見ないで」

「分かった」

菜々恵の汗の匂いがしたが、悪い匂いではない。

「良い旦那様になりそうで安心しました」

「そんなこと分かっているだろう」

「ここまでしてくれるとは思っていませんでした。少しやりすぎです。着ていたものの洗濯まで。でも本当にありがとう」

「もうひと眠りしたほうがいい。時間がきたら起こしてあげるから」

朝食の後片付けを済ませると7時を過ぎたところだった。医院は9時からだからまだ時間がある。菜々恵は眠っているようだった。

テレビをつけて音を絞ってニュースを見る。今日の天気は曇り空で雨は降りそうではない。歩いて行こうか、タクシーを呼んだ方が良いかと考えている。菜々恵の体調次第だ。

8時30分になったので、菜々恵を起こした。熱を測ったら37℃だった。歩いていけそうだというのでそうすることにした。

菜々恵が着替えている間に僕は会社の自分の席へ電話を入れた。もう誰か出社しているはずだ。グループの山本君が出たので、家族が急病で一日休むと伝えた。菜々恵も病院へ発熱したので休むと電話を入れていた。

早めに出かけたので医院での順番は1番だった。昨日から急に発熱したことを伝えて待っていると菜々恵が呼ばれて診察室に入って行った。原因は何だろう。心配で仕方がない。

もう20分ほどになるが出てこない。するとニコニコして菜々恵が出てきた。

「溶連菌の感染でした。抗生物質を出してもらうからもう大丈夫。検査したらすぐに分かった。きっと病院で感染したのね。子供の患者さんから移ったみたい。心当たりがあるから。でも安心しました。ご心配をおかけしました」

「僕もホッとした。再発を心配した」

「実は私も。でもよかった。帰りましょう」

僕たちは薬を受け取ると手を繋いで帰ってきた。コンビニで昼食になりそうなものを見繕って買って帰った。

病は気からと言うとおり、溶連菌感染と分かって、菜々恵はすっかり元気になった。帰ったら熱を測ってみよう。きっともう下がっている。

昼食を食べてから僕は菜々恵のために夕食の買い出しに駅前のスーパーへ行った。何か食べたいものを聞いたが、なんでもいいと言うから、僕にでもできそうな焼きそばを作ることにした。

冷蔵庫にはキャベツやちくわがあったので、そばと豚肉ともやしなどを買い出しに出かけた。ほかに食べたいものを聞くとアイスクリームだった。

スーパーから戻るとベランダに洗濯ものが干してあった。菜々恵は布団で眠っていた。テレビをつけて音量を絞った。菜々恵と話がしたかったが、ゆっくり寝かせてもやりたい。

手持ち無沙汰だった。でもようやく部屋の中を見渡す余裕ができた。菜々恵の部屋は殺風景だった。必要なもの以外は置いてない。まるで、男の部屋みたいな印象だ。心のゆとりがなかったのだろうか? 

寝室の文机の上にケースに入った小さな写真が飾られていた。よくみると僕と菜々恵の写真だった。それは遊覧船の上で彼女が手を伸ばして撮ったものだった。どういう気持ちで彼女はこれを見ていたのだろう? 涙が止まらなかった。

4時過ぎになって菜々恵が目を覚ました。体温を測ると平熱に戻っていた、抗生物質が効いたのかもしれない。

「机の上の写真を見て、泣いてしまった」

「あの写真を見たのですか? 私は泣いたことはありません。見るたびに幸せな気持ちでいっぱいになりました。いつ死んでも悔いはないと」

「あの写真はもう必要なくなっただろう」

「そうですね。じゃあ、写真を撮らせて下さい」

「いいけど」

「私の横に寝てください」

僕が横になると、菜々恵はスマホを僕たちに向けてシャッターを切った。続けて3枚撮った。そして、一番うまく撮れたものを僕に見せてくれた。寝転んだ二人の顔が映っている。

「これに変えます。これを思い出の写真にします」

僕はまた涙が止まらなくなって、菜々恵を抱き締めていた。菜々恵もそういう僕を見て泣いていた。僕がキスしようとすると、菜々恵が叫んだ。

「だめ! 移るから、治ってからにして!」

◆ ◆ ◆
僕は「焼きそばをつくるから」と言って、キッチンに立った。ちくわを切って、キャベツを刻んで、もやしを洗って、豚肉を炒めて、野菜を入れて、麺を入れて、ソースを加えて出来上がり。焼きそばはすぐにできた。

大きめのお皿と小さめのお皿に盛りつける。テーブルに並べて準備完了だ。声をかけると菜々恵が布団から出てきた。

「ありがとう。こんなにしてもらって」

「このくらいしか僕にはできない。味はプロの君にはとうてい及ばないけど」

「いえ、こんなに美味しい焼きそば生まれて初めてです。ありがとう」

菜々恵は黙々と食べていた。発熱したのでお腹が空いた? 味は自分ながらまあまあだと思った。

ずっと付き添ってやりたかったが、原因も分かったし、熱も下がった。菜々恵の都合もある。僕がいるとできないこともあるだろう。後片付けを終えて僕は帰ってきた。

菜々恵は5時ごろに病院へ溶連菌の感染だったと連絡して今後のことを相談していた。2~3日は休まないといけないと話していた。

その週の土日、二人は会うのを止めにした。菜々恵が完治するためには休養が必要なことと、僕への感染のおそれもあると思ったからだ。幸い僕への感染はなかった。
発熱した日から10日ほど経って、菜々恵はすっかり回復した。体調は毎日電話で確かめていた。それで土曜日に僕のマンションで会うことになった。

結婚してからの住まいをどうするか相談しなければならなかったからだ。菜々恵は僕の部屋を見て一緒に住めるかどうか考えると言った。

ここで良ければすぐにでも一緒に住める。ただ、菜々恵の今の勤務先の病院が遠くなり、通勤時間が多くかかるので負担が増えるのが心配だった。でもかかっても3~40分位なので大丈夫と言っていた。でもできれば近いところに転職したいとも言っていた。

ここへは今の部へ異動になってから転居した。就職してから、実家から2駅離れたアパートに住んでいた。部屋は狭かったが、家賃も安くて、食事を実家で食べることもできたりして、それなりに快適だった。

ただ、電車が混んで通勤時間がかかったので、交通の便の良いここに転居した。住み始めてそう長くはないし荷物は増やさない主義なので収納スペースはある。

菜々恵の部屋も殺風景で家具や電気製品は最低限しかなかった。その理由を電話で話す時に聞いてみた。

「ミニマリストって知っている?」

「ああ、最低限の物しかもたないで生活している人のことだろう」

「私はいつ入院することになるかもしれないし、すぐに死んでしまうかもしれないので、身の周りの物はできるだけ持たないようにしています。だって、荷物が多いと後片付けが大変で母や妹に迷惑をかけるでしょう」

「でも不便じゃない?」

「生活して分かったけど、意外に必要なものって少ないの」

「確かに、僕も決まったものしか毎日使っていない」

「それに物があると物に執着するでしょう。使わなくてもこれは高かったから捨てられないとか、使うかもしれないからとっておこうとか、物に縛られることが良く分かったから、無いと気楽だし、身軽だから」

菜々恵は病気になってお釈迦様みたいに悟りの境地に達しているのかもしれない。

◆ ◆ ◆
ここのマンションは商店街を抜けたところで、閑静な住宅街にある。隣にはコンビニがあるし、駅前にはスーパーがあり、飲食店などもあるので、生活には便利なところだ。

菜々恵はスマホで住所から位置を確かめたと言っていたから、大丈夫だろう。でも約束の11時になっても現れなかった。すぐに心配になる。携帯が鳴った。菜々恵からだった。

「ごめんなさい。時間に遅れて、駅前のスーパーで買い物をしていたから、すぐに着きます」

しばらくするとチャイムが鳴った。画面を見ると菜々恵が立っている。すぐに開錠して上へ上がるように伝えた。僕の部屋は3階の307号室だ。

ドアを開けて待っていると、菜々恵がエレベーターを降りてきたので、招き入れる。

「すてきなマンションね」

「新築時に入って2年半ほどになるけどとても気に入っている」

菜々恵がレジ袋をキッチンにおくと、すぐに寝室、浴室、トイレなどの案内をする。今日は朝早くから大掃除をしておいた。

寝室にはセミダブルのベッド、机と本棚が置いてある。菜々恵は黙ってベッドをジッと見つめていた。

浴室は広くはない。でも菜々恵は二人でも入れると言っていた。一通り見終えると、リビングのソファーに座った。僕はその横に少し離れて腰を下ろした。

「私のところより広々としていて素敵ね。気に入ったわ。ここに一緒に住みたい。すぐにでも引越ししたい」

「寝室のクローゼットは整理して空けておいたから、ゆとりはあると思う。後で見ておいて」

「キッチンもあるし、大丈夫ね。試しに今日料理してみるから。でもガスじゃなくてIHなのね。でもなんとかなると思う」

「ここはオール電化なんだ。ここでよければ、あとで詳しく相談しよう」

「ここで十分です。十分すぎるくらいです。無駄な費用と時間をかけないで済むからそうしましょう」

「君がいいのなら、僕は全くかまわない」

「後でと言わずにすぐに相談しましょう」

菜々恵もせっかちだ。でも早く決めて一緒に生活したい。僕もせっかちになっている。

「まず、キッチンはどうする?」

「あなたは食器棚を持っていないのね」

「ああ、棚に入れるほどないから。洗い籠に入れてあるだけ。カップ、コップ、お皿、どんぶりくらいだ。君も同じようなものだった」

「私と同じにしないで下さい。あれでも料理に必要な食器はそろえていますから、それに食器棚もあったでしょう。あれを使いましょう。でも食器は二人分ないから買い増しましょう」

「それが良い。買いに行くときには付き合うから」

「調理器具は片手鍋一つしかないみたいだけど」

「一つあれば十分だけど。お湯を沸かしたり、ゆで卵を作ったり、インスタントラーメンを作ったり、何にでも使える。IH用だよ」

「調理器具はIHに使えるか確かめて、私のものを持ってきます」

「いいよ」

「次にリビンングね。私、ソファーはないけど、リクライニングチャーは持って来たい。ゆったり座って休めるから」

「いいよ。十分置けるから」

「座卓はどう?」

「これは小さいわ」

「一人なら丁度良いけど、二人で食事するとなると確かに小さいね」

「私のテーブルはそれより大きいけど、テーブルは椅子もあるので、場所をとるから、ここでは座卓が良いと思います。リビングを広く使えるから」

「大きめの座卓を買えばいい。僕が買おう」

「そうしてもらえたらありがたいです。私も半分払います」

「いや、僕が払うから」

「じゃあ、甘えさせてください」

「寝室をどうする? 」

「私は布団に寝ているけど、あのベッドで寝てみたい。セミダブルだから抱き合って眠るのには十分な大きさがあると思います。今晩試しに寝てみれば分かると思う」

菜々恵は今日ここへ泊るつもりで来てくれていた。玄関を入った時に大きめのバッグが目に入ったから、そうかなと思っていた。ここで打合せをすることにした時に、本当は泊まってほしかったのに、どうしても口に出して言えなかった。

大切なところでシャイな自分が顔を出す。だから午前11時に来てもらった。その時刻から始めれば十分に時間が取れて日帰りが可能と思ったからだ。菜々恵にリードされるのは今も変わらない。

菜々恵とはあの二人だけの同窓会が最初で最後だった。鮮烈な記憶が今も腕やら胸やら全身に残っている。先週は発熱していたから気持を抑えなければならなかった。今は違う。

僕は菜々恵の手を握り締めて引き寄せた。菜々恵がもたれかかってくる。この部屋に入った時にこうすべきだった。キスをして抱き締める。

再会してから初めてこんなに抱き締めた。胸に腕に菜々恵の感触がよみがえってくる。どのくらい抱き合っていただろう。僕は時間を忘れた。

抱き合って気持ちが落ち着いた。時間は十分ある。今は止めておこう。菜々恵は目を閉じたままだ。

「相談を続けようか?」

菜々恵は「はい」と座り直した。

「君の文机はどうする?」

「小さいので持って来てもよいですか? 置き場所はどこでもかまいませんが」

「リビングか寝室の使いやすいところに置けばいい」

「本は整理しますので、本棚に何冊か入れさせてもらっていいですか? 料理の本ですが」

「僕も整理するから入れてあげられる」

「クローゼットの中は見てないけど、私は衣類が少ないからそんなに場所はとらないと思います」

「男はスーツ何着かとネクタイが数本あればいいけど、女子は毎日服装を変えないといけないみたいだから多く必要だと思うけど」

「私はできるだけ少なくしています。いつ着られなくなるから分からないから最小限にして、その組み合わせを変えるようにしています」

「いつも違っているものを着ているばかりと思っていたけど、そうなの」

「でもこれからはあなたのためにおしゃれするようにします」

「無理することなんかない。今のままで十分だから」

相談に夢中でもうお昼をとうに過ぎていた。

「お昼ご飯を食べに行かないか? 駅前の商店街を案内してあげるから。それに僕が買うと言った座卓を見てこないか。それから二人分の食器を買おう」

「相変わらず、せっかちね。でも時間があるからそれがいいわ」

商店街をぶらぶら歩く。飲食店もここには結構ある。食べたい店があればと言っていたが、カレーの店があったので、そこにした。菜々恵はカレーが好きだと言っていた。美味しい店があると聞くと行っているそうだ。そのうちカレーを作ってあげると言っていた。

それから、近くの総合スーパーへ電車で移動して、食器を買いそろえた。持って帰るのが大変そうなので、配達してもらうことにした。

座卓は近くに良い店がなかったので、後日僕が買うことにした。菜々恵は使いやすいように大きめにしてほしいと言っていた。

菜々恵の負担にならないように2時過ぎにはマンションに帰ってきた。そしてソファーで休ませた。大丈夫と言っていたが、疲れたのか、僕に寄り掛かってしばらく眠った。クーラーが効いて心地よい。そして僕も眠った。

菜々恵が動いたので目が覚めた。4時を少し回ったところだった。菜々恵は夕食を作るという。献立は鰆の西京焼き、肉じゃが、なめこの味噌汁、ほうれん草のお浸しとのことだった。

手伝いは不要と言ってキッチンで作り始めた。電気釜とお米がないのか聞かれた。電気釜はない。お米もない。ただ、サトウのご飯は買い置きがたくさんあると言うとあきれていた。

5時過ぎには座卓に料理が並んだ。鰆の西京焼きは照り焼きに、なめこの味噌汁はおすましになっていた。ここには調味料と言えば砂糖と醤油、それにポン酢、マヨネーズくらいしか置いていない。菜々恵は事前に確かめておけばよかった、いくら調理師でも無理と悔やんでいた。

でも料理はとても美味しかった。バランスのとれた食事になっている。これからの食事が楽しみになる。

後片付けは僕がするからと菜々恵には休んでもらった。このあとがあるというと、菜々恵はそうさせてもらうと素直に従った。
後片付けが終わってソファーのところへ戻ると、菜々恵が僕をじっと見ている。でも、これからすぐに菜々恵と愛し合う気になれなかった。

本当は今日菜々恵が部屋に入ってきた時に抱き締めて愛し合いたかった。菜々恵もそう思っていたのかもしれない。

5年前の二人だけの同窓会では僕はそうした。そうしないといけないと思った。でも今は違う。菜々恵はもう僕のものになっている。時間が空いているがそれは変わりない。昔のシャイな自分に戻っているわけではない。もっと心にゆとりのある大人になっただけだ。

「コーヒーを入れるけど飲む?」

「いただきます」

僕はコーヒーが好きだ。駅前のコーヒー店で気に入った豆を買って来ている。ミルで引いて、IHで沸かしたお湯を注いでドリップで入れる。お湯はすぐに沸くので一人前だとこれが一番簡単に入れられてうまい。

二人分でも同じだ。豆を2倍にするだけだ。でもカップが1つしかない。僕のカップは菜々恵に使って、僕は茶碗でいい。

すぐに二人分できた。菜々恵に砂糖とミルクを聞くとブラックでと言う。僕も最近はブラックが好きになった。豆の味が良く分かる。

「コーヒーを入れるのが上手ですね。美味しい」

「喜んでもらえてよかった」

菜々恵は僕の横でコーヒーを飲んでいる。

「じゃあ、お風呂を準備するよ。ちょっと待って少し時間がかかる」

「狭いけど、一緒に入る?」

「いえ、先に入って上がって待っていて下さい。後から入ります」

「分かった」

僕はお風呂の準備に浴室へ向かった。二人でも入れる広さはあると言っていたが、誘っても入るとは言わなかった。あの時は誘ったら入ってくれた。

給湯のスイッチを入れてから、今度は寝室の準備をする。寝室の照明を少し落とした。室温も丁度良さそうだ。

「お風呂が沸きました」のアナウンスが聞こえた。着替えを持ってお風呂に向かう。菜々恵はソファーに座って緊張した面持ちで僕を見た。

「じゃあ、お先に」

ここのお風呂は気に入っている。バスタブは深くなくて足を伸ばしてゆったり入れる。菜々恵も気に入ってくれるだろう。汗ばんでいた髪を洗うとすっきりした。菜々恵が待っているから早めに上がった。

お風呂から上がると菜々恵はもう入る準備をしていた。「どうぞ」言うと入れ替わるように入っていった。僕は冷たい水のボトル2本を寝室へ運んだ。そしてベッドに菜々恵の場所を作って待っている。

長いお風呂だった。大丈夫かなと見に行こうとしたところに菜々恵が髪をバスタオルで拭きながら入ってきた。薄い黄色の長いTシャツを着ている。胸はノーブラなのが分かる。僕の横に座ったので、ボトルを渡した。

菜々恵はそれを受け取るとゆっくり飲んでいる。僕はバスタオルで髪を拭いてあげる。髪が乾いてきたころ、僕は菜々恵を抱き締めた。その時、菜々恵が思いがけないことを耳打ちした。

「避妊しなくてもいいから」

「どうして」

「できにくいと思うから」

何と言ってやればよいか分からなかった。二人だけの同窓会のあの時、菜々恵は同じように耳元でアフターピルを用意してきたと言った。あの時はもっと妊娠の可能性は低かったはずなのに耳元であんなことを言った。きっと僕を鼓舞するためだったと思う。

じゃあ、今はどうして? 深く考えることはないのかもしれない。「分かった」といって僕が愛し始めると、あの時と同じように「めちゃくちゃにして」としがみついてきた。

◆ ◆ ◆
菜々恵は僕の胸に顔をうずめてしっかり抱きついている。僕は黙って髪を撫でている。髪はもうすっかり乾いていた。覚えていた菜々恵の身体よりもふくよかになっていて、肌に指が吸い込まれそうだった。あのときよりもずいぶん女らしい身体になっていた。

菜々恵は下着をつけていなかったが、Tシャツは最後まで脱がされるのを拒んだ。僕は気にしないのに手術の後を見られたくないと思ったのだろうか。でも僕は口に出してそれを言わなかった。

愛し合っている間に、菜々恵は何度か上りつめたようだった。僕に摑まっている手に力が入ったのでそう思った。

「大丈夫?」

「大丈夫です。でも腰がだるい。眠りたい」

「ゆっくり、おやすみ」

僕は二人の身体に夏布団をかけた。心地よい暖かさが眠りを誘う。

◆ ◆ ◆
明け方、菜々恵が覆いかぶさってきたので、目が覚めた。あの時と同じだ。

「どうしたの?」

「目が覚めたら、また、したくなって」

僕は覆いかぶさっている菜々恵を抱き締める。もう菜々恵の気のすむように好きなようにさせよう。ここでも菜々恵は3回くらい上り詰めていたと思う。

僕の上でぐったりしていたが、やっぱり重い。脇へ下ろしてそのまま抱きしめている。カーテンから朝の光が漏れている。

「ごめんね、我が儘をして」

「いいんだ、好きなようにしてくれて、君がそうして欲しいとは気が付かなかったから。あの時もそうだったね」

「これが最後と思ってしまって」

「今は違うだろう」

「そんなことどうして言えるの? 先のことなんか分からないわ」

菜々恵はスマホに手を伸ばして二人の写真を撮った。3枚ほど撮って一番気に入ったものを残して僕に見せてくれた。微笑んだ菜々恵の顔と照れた僕の顔が映っていた。

「随分感じやすくなったね」

「へへ恥かしい、自分で慰めていたからかな、それがよかったかも」

大胆なことを平気で口にしたので驚いた。

「あの二人で撮った写真を見るとあなたとのことを思い出して、でもそれが生きがいだった。あの日の思い出があったから生きてこられたと思っています。だから、最後に会った時の写真を撮っておきたいの」

「君のスマホに何枚も何枚も二人の写真が溜まっていくようにしよう。メモリがいっぱいになるまで」

僕はそう言って菜々恵を抱き締めてやった。

朝食は僕が作ってあげると言って身繕いをすると、お願いしますと言った。僕が部屋から出ると浴室に行ってシャワーを浴びて身繕いをして出てきた。僕は彼女が長いTシャツを脱いだところを最後まで見なかった。

菜々恵のアパートで作った朝食とほとんど同じになったが、喜んで食べてくれた。朝食を摂りながら、来週に引っ越しをすることに決めた。これから帰って、引っ越しの準備をすると言っていた。そして機嫌よく帰っていった。

僕たちは二人の時間をできるだけ長くとれるように、何事をするにつけ時間を空けない、時間を無駄にしないように心がけ始めている。

僕もこれから、菜々恵がいつ荷物を運び込んでも良いように部屋を整理することにしている。それから大きめの座卓も買いに行かなければならない。
菜々恵から引っ越し屋さんの都合がつかないので、引っ越しは10日後の水曜日になると連絡が入った。急な引っ越しだから仕方がない。その日は休暇を取ることにした。

菜々恵は不用品の整理や手続きなどもあるから結果的には良かったと言っていた。それから勤め先の病院に休職届を出したと言っていた。そのことで会ったら相談したいと言った。

土曜日には新たに購入した座卓の搬入も終わり、僕のマンションの整理が終わった。それで日曜日に菜々恵のアパートに荷造りの手伝いに行く約束をした。

◆ ◆ ◆
お昼ごろに昼食になるもの買って行くから昼食は不要と伝えておいた。ドアを開けると菜々恵が抱きついて来た。1週間ぶりだから抱き締めてキスをする。菜々恵はなかなか離れようとしない。

「お昼にサンドイッチと飲み物を買ってきた。食べよう」

菜々恵は頷いてようやく離れた。部屋はもうすっかり片付いているように見えた。引っ越し屋さんが下見に来た時に不用品の整理も合わせて頼んだと言っていた。

テーブルに二人で座ってサンドイッチを食べ始めようとすると菜々恵が言った。

「相談があります。今の病院は休職にしたけど、結婚したら仕事を辞めたいと思っています。いいかしら? あなたに負担がかかるけど、できればそうしたいと思って」

「通勤時間が長くなるから?」

「二人の時間を大切にしたいから」

「僕もそれを言おうと思っていた。でも君を家庭に縛り付けることにならないかと言いそびれていた。また、君の口から言わせてしまって申し訳ない」

「あなたが私のことを考えてくれているのはよく分かっています。でも少し考え過ぎです。してほしいことは遠慮しないで、はっきり言ってださい。優しすぎるところがあなたの欠点でもあります」

「そうしてくれないか。経済的には全く問題ないから」

「専業主婦というものもしてみたいんです。しばらくでもいいから」

「できればずっとそうしてほしい。でも退屈しないか、あんな狭いところで」

「飽きたら飽きたで、それで満足です。近くで勤め口を探します」

「君らしいな。でも君らしく生きてほしい。僕に遠慮はいらない。一緒に居てくれるだけでいいから」

菜々恵は今の病院に退職届と出すと言っていた。それから今日は荷造りを終えたら母親がいる実家へ移り、結婚式までそこで暮したいと言った。結婚式まで母親との時間も大切にしたいからと言っていた。それがもう一つの相談だった。

僕は引っ越しが終わったら一緒に住めると思っていた。僕は自分のことしか考えていなかった。菜々恵にとってかけがいのない母親としばらくでも一緒に暮らしたいのだろう。それも菜々恵の大切な思い出になる。僕はそれが良いと勧めた。

◆ ◆ ◆
引っ越しの日、僕は朝の9時過ぎに菜々恵のアパートに着いた。菜々恵はもう来ていた。3日前に会ったばかりなのに、とても長い間会っていないように思えて、しばらく抱き合った。

10時に引っ越し屋さんが来たが、荷物が少ないのですぐに搬出は終わった。12時には僕のマンションに搬入できるというので、僕たちは電車でマンションに向かった。マンションにはすぐに着いた。まだ、時間が十分あるのでソファーでもたれ合って休んだ。

12時に搬入が始まったが、これもすぐに終った。菜々恵はすぐに荷造りを解いて前もって決めていた場所にしまっている。僕は手伝うこともなさそうなので、途中で昼食用に買ってきたパンやカットフルーツを座卓に並べて準備した。

コーヒーを入れると菜々恵に声をかける。もう1時を過ぎているのでいいタイミングだ。寝室から出てきた。寝室のクローゼットに衣類を片付けたから、あとはキッチンの片づけだけだと言って食事を摂り始めた。

「ここが片付いたら、夕食はレストランでしないか? 落ち着けるレストランが商店街のはずれにあるから」

「何か簡単なものでも夕食に作ろうと思っていたけど」

「引っ越しの記念日だから、外でどうだい。片付けに疲れただろう。外で二人でゆっくり食べる機会もなかったから」

「そうしたいのなら、そうしましょうか?」

「じゃあ、6時に予約を入れておくよ。それまでゆっくり片付けをしたらいい」

昼食が終わると菜々恵はキッチンを中心に片づけを始めた。運び込んだ食器棚に、この前かった二人分の食器をしまった。手伝いを申し込んだが、使いやすいように考えて入れるから私だけですると断られた。

僕は菜々恵の片づけをソファーに座って見ていた。菜々恵は食器を楽しそうにしまっていた。せっかく入れたのにまた出して入れ直しをしていた。気の済むようにしたいのだろう。

3時に近づいたので、コーヒーを入れて、二人で飲んだ。食器が片付いたので、少し休んでから、今度は調理器具を片付けると言っている。もう少し休んだらと言ったが、すぐに取り掛かった。

調理器具は結構数があったようだが、キッチン下の収納スペースにうまく収まったみたい。調理師だから調理にはこだわりがあるのだろう。これから作ってくれる食事が楽しみだ。

4時前にはすべて片付けが終わった。菜々恵はソファーの僕の隣に座って寄りかかってきた。「少し眠らせて下さい」と言うと、すぐに眠ってしまった。

顔を覗き込むと気持ち良さそうに寝息を立てている。彼女がとてつもなく可愛く思える。もう少しの辛抱だ。毎日、ここで一緒に暮らせる。何事もなく彼女との生活に入りたい。そうなることを祈るばかりだ。

ゆっくりした心地よい時間が過ぎてゆく。僕もうつらうつらする。大きめのバスタオルを持って来て菜々恵にかけてやる。一瞬目を開けたがすぐに僕に寄り掛かってまた眠った。

気が付いたら日が陰っていた。まだ明るいが5時半を過ぎている。そろそろ出かけようかと菜々恵に声をかける。よく眠れたと菜々恵は満足した様子だ。食事を終えたらそのまま実家へ帰ると言ってバッグを持って外へ出た。
待ちに待った結婚式の日が来た。前日の金曜日の夜、僕は会社から早めに帰って、菜々恵に電話して準備の状況を確認した。それから僕は夜遅くまで寝室、リビング、お風呂、キッチンの掃除をした。洗濯もしておいた。旅行の支度を終えて、寝たのは12時を過ぎていた。

目覚ましをかけておいた。でないと寝坊していただろう。目覚ましの音にぼんやりしていたが、気が付いて跳び起きた。パンと牛乳で朝食を簡単に済ませるとキャリイバッグを引いてマンションを出た。さすがにリュックは止めにした。

新婚旅行先はと言うと、菜々恵がどうしてもと言うので、二人だけの同窓会をした同じホテル、同じ部屋を1泊予約してある。ただ、長い旅行は不要と菜々恵は言った。僕も彼女に負担をかけたくないので賛成した。もう今日からはいつも一緒に居られる。

会場へは9時少し前には到着した。式の1時間前に着いて準備しなければならない。菜々恵はというと母親と少し前に到着してもう着替えていると聞いた。

僕はすぐに着替えてから控室に行った。両親と弟がすでに到着していた。ほどなく松本部長夫妻が到着したので、両親に紹介した。

それから菜々恵が母親に付き添われて控室に挨拶に来た。ウエディングドレスの菜々恵は本当に綺麗で輝いて見えた。

両方の母親は旧知の仲だったので、僕の両親は事前に菜々恵の実家を訪問して母親に会って挨拶は済ませていた。

式が進んでいく。誓いの言葉が忘れられない。

「病めるときも健やかなるときも田村菜々恵さんを愛することを誓いますか?」

僕はゆっくりと「誓います」と言った。菜々恵もまたはっきりと力強く「誓います」と言うのが聞こえた。

僕は緊張していたのだろう。記念写真を撮り終えると、どっと疲れを感じた。菜々恵もきっとそうだろう。

僕は着替えをしてロビーの両家の家族と松本夫妻のところへ行った。これから会食を始める。菜々恵が着替えて姿を見せた。旅行へ出かける半袖のベージュの清楚なワンピースに身を包んでいる。

会食が始まった。席次は僕たちが中央で僕の右隣に松本部長、その隣に僕の父親、そのとなりに弟、菜々恵の左隣に松本部長の奥様、その隣に菜々恵の母親、その隣に僕の母親、その隣に菜々恵の妹の順で座った。

合計9名の少人数なので丸テーブルにした。弟の健二は菜々恵の妹の由紀恵さんと隣同士になっている。由紀恵さんは菜々恵に似て可愛い美人だった。まだ独身と聞いて独身の健二はもう話しかけている。あいつはシャイな兄とは違って小学校に通っていたころから女の子には何の抵抗もなく話かけることができていた。

松本部長に挨拶を頼むのは気が引けたので乾杯の発声をお願いして、僕が簡単に挨拶をした。

「今日は僕たちの結婚を祝っていただきありがとうございました。松本部長ご夫妻には離れ離れになっていた僕たち二人をお引き合わせいただき心より御礼申し上げます。僕たちは中学3年生の時に巡り合い、彼女のがんがきっかけで再会して、お互いに好きだったことが分かりました。でもそれゆえに二人はまた別の道を歩み始めてしまいましたが、神様がまた二人を巡り合わせてくださいました。この運命に導かれて、これから死が二人を分かつまで精一杯生きて行こうと今日誓い合いました。どうかこれからも僕たち二人を優しく見守っていただきたく心よりお願い申し上げます」

立っていた僕たち二人は深々と頭を下げた。皆拍手をしてくれた。それから松本部長に乾杯のご発声をお願いした。

「井上君、菜々恵さん、ご結婚おめでとうございます。私たちの紹介でお二人が運命の再会を果たし結ばれたことに驚いておりました。実は私たちもまた運命の再会を果たして結婚したからです。結ばれる二人は運命の赤い糸で繋がっていると申しますが、二人の再会と結婚を目の当たりして、私たちもその思いを新たにしたところです。どうか二人が悔いのない結婚生活を送られることを願ってやみません。では二人のご健康とご多幸を祈念して、乾杯!」

運命の赤い糸か! 僕と菜々恵はその赤い糸で繋がっていた。そう信じるしかない。その糸を大切にして切れないようにしなければならない。それは毎日毎日を二人で精一杯生きるしかない。

会食は和やかなうちに終わった。健二と由紀恵さんはどうだろう。馬が合うように話してはいたが。

松本夫妻をタクシーで見送ってから、家族と別れて、僕たちはスーツケースを引きずりながら東京駅へ向かった。ここから新幹線で小田原へ、小田原から箱根登山鉄道で強羅へと二人だけの同窓会の経路をたどることにしている。

まだ9月半ばだから、紅葉はまだまだだろう。菜々恵が寄り掛かってくる。その腕の感触があのころを思い出させてくれる。
夏が終わったばかりの箱根はまた違った顔を見せていた。高度が高くなると、涼しくなってくるのが分かる。日差しも真夏のころとは明らかに弱くなっている。

ホテルには4時半過ぎに着いた。受付カウンターには僕が行って部屋の確認をしてチェックインした。部屋は5年前と同じ部屋のレイクサイトのスイートを予約してあった。

ロビーの様子はあのころとは絨毯とソファーの配置が変わっていた。ソファーの菜々恵のところへ行くと彼女も同じことを言った。部屋はどうなっているのだろう。あの時と同じだろうか?

ボーイさんが部屋へ案内してくれる。あの時と同じだ。あの時僕は部屋に入ったらどうしようかと考えていた。今はもうゆとりがある。

ボーイさんが部屋の説明をして出て行った。部屋の作りは同じだったが、内装が変わっていた。あのころより座り心地の良さそうなソファーが目に入る。

部屋を見ている菜々恵を後ろから抱き締めた。あの時もそうした。菜々恵もあの時のことを思い出したに違いない。僕の手を握った。僕は菜々恵を抱きかかえてソファーに運んで横たえた。

「ゆっくり休んでほしい。今日は疲れただろう」

菜々恵は恨めしそうに僕を見た。あの時はすぐに寝室へ運んで僕のものにした。それを期待していた? 

「ゆっくり落ち着いて君を愛してあげたい」

「そういえば、言おうと思っていたことがあるの。もう私のことを君と言わないで名前で呼んでくれないかな」

「菜々恵と呼び捨てにするのか?」

「もう結婚したのだから、その方が私はいい。結婚してあなたのものになったという感じがするから」

「正直に言うと今でも僕は君に気後れするときがある」

「どんなとき?」

「君の横顔を見ているとき、綺麗で眩しいなと」

「それならなおさら菜々恵と呼んで下さい」

「分かった。それなら僕のこともあなたと呼ばないで聡と呼んでくれ」

「あなたを呼び捨てになんかできないわ。尊敬しているから」

「尊敬?」

「慕っているという方がいいかもしれません。だから、あなたのままにさせてください」

「慕われている? まあ君の好きなようにしてくれれば僕はそれでいい」

「ほら、また、君と言った」

「分かったよ、菜々恵」

本当は菜々恵と呼びたかった自分がいた。初めて同じクラスになった時、『菜々恵』呼びやすい良い名前だ、そう思った。

食事はその時と同じビュッフェをしていると言うので、予約しておいた。5時から食べられると言うので、ゆっくり休んでから、出かけることにした。時間までソファーで身体を寄せ合って休んだ。

レストランはまだ人が少なかった。あの時と同じだ。菜々恵はやはり窓際の同じ席を見つけて座った。

「同じ席が空いていて良かった。あの時はHしたすぐ後だったから、なんとも言えない高揚した幸せな気持ちで座っていたわ」

「随分落ち着いて座っていたように見えたけど」

「あなたを目の前にして余韻に浸って食事をしていた。何を食べているのか分からなかった。でもデザートだけ覚えている」

「ケーキを別腹だと言って3個も食べていたね」

「変なことを覚えているのね」

「さあ、今日は何を食べようか。好みのものを選んでシェアしよう」

テーブルに料理を盛りつけたお皿が並んだ。それを二人は思い思いに食べていく。僕はあの時と同じで好きなものを食べ過ぎてお腹がいっぱいになった。

菜々恵はやっぱりデザートは別腹といって、ケーキを3個も食べていた。お腹が落ち着いたころで、湖畔を散歩しようということになった。

湖畔の景色は変わっていない。ただ、9月でもお彼岸の前だ。日が落ちたところでまだ辺りは明るい。肌寒いと言うこともなく心地よい気温だ。

湖面を見ている菜々恵を後ろから抱き締めて、こちらを向かせてキスをする。菜々恵がしがみついて来る。あの時と同じケーキの甘い味がした。

ずっと抱き合って湖畔を眺めていたが、周りが暗くなってきたので、部屋に戻ることにした。戻る途中に一緒にお風呂に入ろうと誘った。菜々恵はすぐには答えなかった。部屋にも戻るともう一度お風呂に誘った。

「手術の跡を見せたくないの?」

「そんなことないけど」

「じゃあどうして、このまま僕には見せないの?」

「先に入っていてください」

菜々恵は一緒に入ることを受け入れた。そんなに気にするほどの跡なのか? 見れば分かる。

僕が湯船に浸かっていると、菜々恵が手ぬぐいで前を隠して入ってきた。そして、掛湯をすると僕のそばに浸かった。菜々恵は黙って浸かっている。

「気にしなくていいから」

「私は気にします。私の負い目ですから」

「まだ、そんなことを言っている。温まったら上がろう、先に僕が洗ってあげる」

菜々恵を座らせて、背中から洗い始める。こうして菜々恵の裸の背中を見るのはあの時以来だ。あの時よりふくよかになっているように思った。体調が良くなっている証拠だ。

背中が終わると立たせて、お尻、脚を洗ってゆく。そしてこちらを向かせる。首、乳房、お腹の順に洗っていく。

お腹にカギ型の手術跡があった。もう5年もたっているので、傷跡はあまり目立たなかった。

「そんなに気にするほどの跡じゃないよ」

僕はそう言って、そこをそっとなぞって洗い、大事なところ、脚、足首と洗っていった。洗い終えると「ありがとう」と菜々恵が言った。それから僕を洗ってくれた。

その後、菜々恵は髪を洗っていた。僕はまた湯船に浸かっていた。いいお湯だ。もうすっかり暗くなって、湖面に湖畔の道路の街灯や建物の明かりが映っている。髪を洗い終えた菜々恵が入ってきた。

「思っていたほどじゃなかった。それにもう薄くなっている。気にすることなんか少しもない」

「傷を見るとあの頃を思い出して、だから見ないようにしています」

「そのうち傷跡なんか分からなくなる。そして手術のことも忘れてしまう」

「そうだといいけど」

もう上がろうと言うので、僕は髪を洗ってから上がるからと先に上がってもらった。

僕が上がると、ソファーにいると思った菜々恵がいなかった。姿が見えないと不安になる。「菜々恵」と呼ぶと寝室から「ここにいます」と返事があった。

浴衣姿の菜々恵がベッドに座っていた。そして水のボトルを僕に手渡してくれた。僕が喉を潤して菜々恵を見ると、座り直して「不束者ですがよろしくお願いします」と頭を下げた。

「菜々恵と呼んでくれましたね」

「そう言ったっけ。それより、おしとやかで君らしくないね。でもそう言ってくれて嬉しい。古風な感じがしてとってもいいね。こちらこそよろしく」

そう言うより早いか、菜々恵が抱きついてきた。こっちの方がやはり菜々恵らしい。浴衣の下は何もつけていなかった。もう僕に傷跡を見られたからだろうか?

ゆっくりキスを交わす。それから僕は薄明りの中で傷跡を手で確かめた。一瞬身体をそらして嫌がる様子を見せたがあきらめたのか、なすがままになった。

傷跡を間近に見た。もう筋のようにしか見えない。僕はその傷跡が愛おしくなって思わずなぞってなめてしまった。菜々恵がピクンと反応した。「ダメ」というのが聞こえた。

かまわずになぞってなめた。その傷を癒すように、ゆっくりと何回も何回も。そのたびにピクンピクンと反応した。すすり泣く声が聞こえてきた。菜々恵の手が僕の頭を撫でている。すすり泣く声が快感の声にいつしか変わっていった。

◆ ◆ ◆
菜々恵は僕の右腕を枕にして抱かれている。

「傷跡をなめてもらってありがとう。あんなに感じるなんて思ってもみなかった。とても気持ちよくなって頭が真っ白になったみたい」

「引け目に思っていたところが、性感帯になった?」

「自分が思っている以上にそうされて嬉しかったからだと思う。それになめられて驚いて恥ずかしくて嬉しくて気持ち良くて」

「セックスが免疫能を上げるということがどこかに書いてあった。もしそうなら、僕に今できることは菜々恵をできるかぎり可愛がって免疫能が上がるようにすることだ」

「お願いします」

そう言って、また、菜々恵が抱きついて来た。

◆ ◆ ◆
明け方、菜々恵が僕に覆いかぶさってきた。昨晩はぐったりするほど可愛がってやったが、一眠りしてもうすっかり回復したみたいだ。これなら心配ない。あのおしとやかで古風な菜々恵はもうどこにもいない。好きなようにさせるだけだ。

再び目が覚めたら、菜々恵はすっかり身繕いを終えていた。もうお風呂にも入って化粧もしていた。僕には明け方の頑張りが効いて心地よい疲労が残っている。

「お腹が空いた。早く朝食を食べに行きましょう」

「分かった。でもゆっくり朝風呂に浸かりたい」

そういって、僕は朝のお風呂に入った。何回入ってもここの温泉は最高だ。疲れがとれる。

「まだー?」

菜々恵がドアを開けて覗きこむ。

「すぐに上がるから」

シャワーを浴びてあがると、すかさず菜々恵がバスタオルで身体を拭いてくれる。頭も丁寧に拭いてくれる。侍女が殿の身体を拭いてくれているみたいで悪くない。よっぽどお腹が空いているみたいだ。

菜々恵に手を引かれて朝食へ行った。この前と同じビュフェスタイルの朝食だった。二人とも和食にした。菜々恵はもりもり食べている。このもりもりと言う例えは合っていると思う。

食事を終えた菜々恵は本当に元気いっぱいに輝いていた。それに昨日よりもずっと綺麗に見える。たった一晩で菜々恵はまた変わった。菜々恵を思って精一杯愛して可愛がってやった成果だ。これを続ければ良いだけだ、難しいことなんか少しもないと思った。

今日は遊覧船に乗って湖を一周して、それから高速バスに乗って新宿経由で帰る予定にしている。

ホテルを9時過ぎにチェックアウトした。ホテルで荷物を預かってくれたので、手ぶらで遊覧船に乗って湖を一周できた。この前とは違ってまだ夏の名残のある景色を眺めた。手を繋いで肩を寄せ合ってただ景色を眺めているだけで幸せな気持ちでいられた。

「来年も来れたらいいね」

菜々恵が頷いた。

帰りの高速バスでは二人ともよく眠った。この前もそうだった。僕も昨晩からの疲れがあったのかもしれない。やはり前日から緊張していたのだろう。

◆ ◆ ◆
駅前のスーパーで明日の朝食用のパンや牛乳、フルーツなどを買った。それから夕食用にお寿司の詰め合わせを買った。今日は着いたらゆっくりしたい。菜々恵にもゆっくりさせてやりたい。

マンションに着くとすぐにソファーで一休み。結婚式の前日の夜に大掃除しておいたから部屋は綺麗に整っている。今日は菜々恵に何もさせたくない。

菜々恵は僕に相談していたとおり、病院を辞めた。だから明日は僕を送り出したらゆっくりしていればいい。

夕食のお寿司を食べた。寝る前にお風呂に入るところだが、今日は朝から温泉に入ってきたこともあり、二人はシャワーで済ませることにした。今の季節はまだシャワーで十分だ。

僕がシャワーを終えてソファーにいるとシャワーを終えた菜々恵がパジャマ姿で洗濯物を洗濯機にかけている。明日の朝にはすっかり出来上がっているだろう。

どちらからということもなく二人は寝室へ向かった。僕は明日出勤しなければならない。この後も考えると、二人とも寝坊しないとも限らない。僕はすぐに目覚ましをセットした。

新居での初めての夜だが、ベッドで抱き合ってお互いの身体の心地よい温もりを感じていると、二人ともいつの間にか眠ってしまったみたいだった。なんとめでたい夫婦なのだろう。バスであれだけ寝て来たのに、この2日間よっぽど疲れていたみたいだ。

翌朝、二人とも目覚ましの音で跳び起きた。
会社では結婚式の直前になってから、松本部長に紹介された中学の同窓生と急遽結婚することになったと今の山本部長に報告した。それで家族だけの内輪の結婚式にすることも話した。だからお祝いなどのお気遣いも不要だとも伝えた。

それもあって月曜に出勤すると周りがどうだったと聞いて来た。それで結婚式と会食と旅行先などを簡単に話した。皆もっと詳細に知りたかったようだったが、それ以上は聞いてこなかった。

仕事は定時で切り上げて早めに帰宅することにした。家にいる菜々恵のことが気になった。駅前通りをマンションの方へ歩いて行く。道路から3階の僕の部屋を見ると明かりがついている。いつもは真っ暗だから不思議な気持ちになる。

会社を出るときにメールを入れておいた。鍵を開けて、ドアを開けると菜々恵が迎えに出てきた。

「おかえりなさい」

ニコニコした菜々恵の顔を見るとホッとする。

「すぐにごはんにします? それともお風呂に入りますか?」

聞いてくれた。これを期待していた。でも「それとも、()()()?」ともう一言加えてくれたらもっと良かったのにと思って顔がゆるんでしまった。

「何か可笑しいことでもある?」

そう言う菜々恵を軽くハグして言った。

「いや、ご飯を先にする。お腹が空いた」

寝室で部屋着に着替えて座卓に座るともう料理が並んでいた。和食のフルコースだ。

「今日は最初の夕食だから、張り切って作りました。でも毎回こんなに豪華だと食費がかかり過ぎるから、明日からはほどほどにします」

「週に一度くらいはこうしてくれるといいな」

「そうですね」

菜々恵は栄養士と調理師の両方の資格を持っている。どうして両方を取ったのか聞いたら、栄養的に十分でも美味しいとは限らないから、調理を学びたいと思ったと言っていた。どれも味は抜群だ。どこかの小料理屋で食べているのと同じだ。

全部平らげたので菜々恵は喜んでくれた。後片付けを手伝おうとしたが、不要と言われた。それで洗い物が終わるころを見計らってコーヒーを2人分入れた。

「ありがとう、おいしかった」

「結婚っていいもんだな。待っていてくれる人がいる」

「待っているのも心配なものですよ。顔を見るとホッとします」

「僕も同じだ。顔を見てホッとした」

菜々恵の肩を抱いて抱き寄せる。

「早めに寝ようか? 昨日は二人とも寝落ちしたから」

今朝、目覚ましが鳴った時、僕は身体を丸くした菜々恵を後から抱いて寝ていた。

僕が先にお風呂に入って寝室で待っていると、お風呂から上がった菜々恵が入ってきた。あの長めのTシャツ1枚着ているだけだった。僕の横に寝転がって抱きついてくる。

「さっき、玄関でなぜ笑ったと思う」

「大体想像がつくわ。あのタイミングだと。こうも言ってほしかったんでしょ。それとも、()()()?」

「ええ、なんで分かったの?」

「言おうかなと思っていたから」

「じゃあ、なぜ、言ってくれなかったの?」

「もし、言ったらどう答えた?」

「もちろん、()()()

「そう答えると思ったの。そうしたらせっかくの料理が冷えてしまうし、だからもうちょっとで口に出そうだったけど、やめておいたの」

「そうなの。考えていることは同じだったんだ」

「今度は気分次第でそう聞くね」

「楽しみにしているから」

「じゃあ、このまま眠る? それとも、()()()?」

「もちろん、()()()

そう言って、菜々恵の口を僕の口でふさいだ。ゆっくりキスから始める。それから僕の唇は下へとゆっくり降りて行き、そして、あの傷跡にたどり着く。

そして、丁寧に、優しく、何度も何度もその傷を癒すように舐め続ける。菜々恵は悲しいのか嬉しいのか分からないか細い声を上げ始める。

◆ ◆ ◆
菜々恵が快感を覚えることが身体に一番良いと実感している。セックスは免疫能を上げると信じたい。

一緒に住むようになってから、生理中を除いて毎晩、菜々恵を可愛がっている。菜々恵が上り詰めるのを確認してから、体位を変える。そしてまた上り詰めるのを確認して、次々と試みている。5回以上は毎晩上り詰めていると確信している。それを菜々恵がぐったりするまで続ける。

それを見届けると僕も心地よい疲労の中で眠りに落ちる。ここのところ、朝、菜々恵が僕に覆いかぶさってくることがなくなった。満足している証拠だと思っている。

でも菜々恵は寝起きがとても良い。あれだけぐったりしていたのが、朝は至って元気だ。僕より早く起きて身繕いをして朝食の準備をしてくれる。朝食ではつらつとしている菜々恵を見ると安心する。
菜々恵と結婚してからもう1年近くになる。菜々恵は再発の兆候もなくここまできている。僕は菜々恵を毎晩可愛がるときはこれが最後になるかもしれないといつも思っている。だから悔いが残らないように愛情を注いでいる。

菜々恵も同じ考えのようだ。いつも力の限り抱きついて来る。その力が弱くならないように祈るばかりだ。

菜々恵は3か月前から近くの病院に勤め始めた。菜々恵が言うには十分に専業主婦を楽しませてもらったから、それに体調がよいので働いてみたいとのことだった。身体に負担のかからないようならと賛成した。

ただ、ここ2週間ほど、朝、元気がないと言うか体調がすぐれないようだ。少し食欲がないと言っていた。心配になって病院で見てもらうことを勧めた。1か月前の半年に1回の定期検診も異常がなかったので、もう少し様子を見てからと言っていた。

今日は少し遅くなったが、8時過ぎには帰ることができた。ドアを開けると、菜々恵が跳んできて、すぐにでも話がしたそうだった。悪い話ではなさそうだ。

「どうしたの? 何か良いことでもあった?」

「赤ちゃんを授かりました。妊娠3か月だそうです」

「ええ、体調が優れないと言っていたけど、それが原因?」

「ここ2回ほど生理がなかったので、でもこういうことは以前にも時々あったので、様子を見ていました。もしやと思って、今日勤めている病院で見てもらいました。それで妊娠が分かりました」

「よかったじゃないか。菜々恵は諦めていたみたいだから」

「生んでもいいですか?」

「もちろん、反対の理由なんかないけど」

「体力が持つか心配なので、先生にがんの履歴を相談しました。先生から身体への負担が大きいからご主人と相談するように言われました」

「素直に言えばせっかくできた二人の赤ちゃんだから生んでほしい。でも菜々恵に万一のことがある可能性も否定できないのなら、無理に生むことはない。菜々恵、君が一番大事だ。だから、君次第だ」

「帰ってからずっと考えていました。もし私に万一のことがあったら、この子はどうなるんだろうって」

「もし、菜々恵に万一のことがあって僕一人になっても、君の忘れ形見を立派に育てて見せるから、そんなこと気にかけないで生んでくれればいい」

「私も生みたい。頑張ります」

僕は折角勤め始めたけれど負担になるといけないので、病院を退職することを勧めた。菜々恵はそれに従った。

結婚してから菜々恵は生理もほぼ規則通りにあった。僕たちはずっと避妊していなかったが、妊娠はしなかった。

僕たちは子供をあきらめかけていた。二人の無事な生活が続くとつい欲が出てくる。二人で散歩中に菜々恵は幼児をつれた夫婦を羨ましそうに見ていた。僕は何も話しかけられなかった。

今、ソファーに座っている菜々恵は満ち足りた表情を見せている。僕と愛し合った後の顔とは違った別の顔だ。初めて見る菜々恵の幸せに満ちた顔だった。本当によかった。これからが大切だ。

◆ ◆ ◆
出産が近づいた妊娠後期だったと思う。僕が帰宅すると、定期健診に行ってきたが赤ちゃんが逆子であることが分かったという。それで自然分娩は危険なので帝王切開を勧められたという。

逆子であることは前から分かっていたけど、治ることもあるので、様子を見ていたという。僕は菜々恵と赤ちゃんにリスクのあることは避けた方がよいと帝王切開に賛成した。

菜々恵は予定日に帝王切開で可愛い女の子を生んだ。体重3200gの小さな命だった。帝王切開だったので菜々恵は憔悴することもなく出産を終えることができた。菜々恵の誇らしげな嬉しそうな笑顔が忘れられない。女の子なので沙織(さおり)と命名した。

◆ ◆ ◆
菜々恵親子は退院すると実家へ戻って母親の世話になることにした。経験豊富な母親がそばにいると安心なのだろう。僕も育児休暇を申請して、実家に泊まり込んだ。

ただ、母親も働いており、長くは厄介になるわけにはいかないので、1か月後にはマンションに戻って来た。

僕は寝室のセミダブルのベッドを廃棄して、布団を二組買った。この方が二人で赤ちゃんの世話がしやすいと菜々恵に相談してそうした。

夜中に、沙織がピーと泣くと僕が起きておむつを替えてミルクを作って飲ませる。菜々恵は昼間、沙織の世話で疲れているので、夜間は僕が引き受けてゆっくり寝かせている。大体4時間ごとに起きるけど慣れてきた。菜々恵の負担を最小限にしてやりたいのでそうしている。

僕のために菜々恵が命懸けで生んでくれた沙織は可愛い。何ら負担は感じていない。むしろ、楽しくて嬉しくてしようがない。この日々を大切にしたいと思う。

◆ ◆ ◆
暖かい日差しの中、僕は近くの公園の芝生に座っている。2歳になる沙織が菜々恵に手を引かれて歩いている。もうしっかり歩けるようになった。春の日を浴びた二人がとても眩しく見える。このまま3人の平穏な日々が続くことを祈るばかりだ。


これで二度の別離を乗り越えてお見合い結婚した二人のお話はおしまいです。めでたし、めでたし。

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