お見合い結婚します――悔いなく今を生きるために!

蒸し暑かった歩道から中へ入ると空調が効いていてホッとした。もう梅雨に入っているような天候だ。

ここは通勤途中にある総合病院だ。就職してからもう7年くらいになるが、2か月に1回通っている。朝早く出かけてきたのに、受付番号は12番だった。

僕は井上(いのうえ)(さとし)、30歳、大手食品会社の商品開発部に勤めている。今日は午前休暇をとって病院に来ている。でも朝一番で診察を終えてからすぐに出社の予定だ。

松本部長にはこの定期的な検診を話してあり、理解してもらっている。部長もまた2か月に1回ここへ定期検診に来ているとのことだった。

部長は高血圧と中性脂肪が高くて検診を受けているという。40歳を過ぎてからは血圧も高くなったそうだが、薬と食事の工夫で基準値内に抑えているそうだ。

部長は健康に日ごろから人一倍気を遣っているのを知っている。会合でもお酒はできるだけ控えめにしているし、外で飲むことがあっても2次会へはまず行かない。

僕が今の商品開発部に配属になって3年になるが、配属の時に、2か月に1回の検診について話したら、自分もそうだから気にしないで行ったら良いと言ってくれた。

そして「一病息災ということを知っているか」と聞かれた。「初めて聞きました」と答えたら、1つ病気があると健康に気を遣うようになって、それが幸いして無難に生活が続けられるからだと教えてくれた。

健康に自信があると無理をしてしまいがちで、これが災いしてある日突然ポックリということがあるそうだ。部長の同期でも、とても元気でスポーツもしていた人が急死したことがあったと話してくれた。

「まあ、気をつけていても病気に罹る時には罹るが、気をつけていないともっと罹るということだ。お互いに気を付けよう」と言ってくれた。そのとき以来、松本部長にはなんでも気軽に相談している。

僕の症状は病気と言って良いのかはっきりしない。これは入社試験の際の健康診断で分かったことだ。尿中のタンパク値が+に出たのだった。腎臓病の疑いがあったので検診を受けたが異常はなかった。それに尿の再検査では±であったので、健康診査はOKとなった。

ただ、入社した次の年の定期健康診断でまた引っ掛かった。医師の勧めもあって、この病院で精密検査を受けた。腎臓のCTも撮ったが異常は見つからなかった。それ以来、念のため2か月毎に診察を受けている。投薬はない。ただ、尿検査をして血圧を測るだけだ。

ここ数年は時々+が出ることはあるが、主治医は問題視してはいないようだ。原因も不明なので、経過観察といったところだ。それでも健康には気を付けている。特に食事には気を付けており、暴飲暴食は絶対にしないようにしている。

それと過労にならないようにしている。これまでの経験から疲れている時に+になることが多いし、風邪をひいた時にも+になることが分かっている。+になると再検査があるのでそれが出そうな日には診察日を変えている。

「あら、井上君じゃない?」

突然、女性から声をかけられた。振り向くと田村(たむら)菜々恵(ななえ)が立っていた。

「田村さん? 久しぶりだね。こんなところで会うなんて、どうしたの?」

話し始めた時に丁度受付が始まった。

「2か月前に救急車で運ばれてここへ入院したの」

「ええ、また、どうして? 受付番号は何番?」

「ちょうど今来たところなので53番」

「僕は12番」

その時、僕の番号が呼ばれた。話を聞いてみたかったが「じゃあ、またね」と言って僕は席を立って診察受付に向かった。
田村菜々恵は中学3年の時の同級生だ。3年生の最初の席次は、僕は「い」だから窓際で前から2番目、菜々恵は「た」だから教室の中央の前から3番目だったと思う。学年始めは五十音順に席を決めるから大体こうなる。

菜々恵は髪をショートカットにした活発な女の子でしかもクラスでは可愛い方だったと思う。そのころの僕は美人とか綺麗とかの基準を持っていなかったが、彼女の横顔が好きだったので、授業中は離れた席からその横顔を見ていることが多かった。

その頃の僕はシャイで、とても女子に話しかけることなどできなかったし、自分から席の離れた菜々恵に話かけることなど考えもしなかった。ただ、学校に行って、菜々恵の横顔を見るのが楽しみだった。自分の彼女にしたいなんてことは考えもしなかったし、とうてい思い浮かばなかった。僕にとって彼女はただ眩しいあこがれの存在といったところだった。

2学期になって席替えがあって、僕は菜々恵の真横の席になった。嬉しかったが真横になるといつものように眺めている訳にもいかなくなった。でも時々横目で横顔を見ていた。近くで見るとより可愛いのが分かってドキドキした。

ある時、横目で見ていると偶然目が合ってしまった。僕はすぐに目線を外した。きっと彼女からはドギマギして目線を外したように見えたかもしれない。それから横目で見た時に目が合うことが多くなった。そのたびごとにドキッとして目線を外した。

きっと彼女も僕を見ていたのだと思う。だから目線があったのだ。それが気になってくるとまた彼女を見てしまう。僕は可愛い彼女の横顔を見ているだけで十分というか、それだけで満足だった。僕から声をかけることなど考えもしなかった。

席替えがあってしばらくたったころの昼休みだったと思う。席で午前の授業の復習をしていると菜々恵が突然話しかけてきた。

「ねえ、井上君、ここを教えてくれない。分からないので、お願い」

「ええ、いいけど、どこ?」

僕は勉強が得意というか勉強はできた。クラスでも1、2番の成績だったと思う。授業はしっかり聞いていた。家に帰ると、習ったことをノートに書き直して復習をしているだけだったが、成績は良かった。

菜々恵はここが分からないと数学の練習問題を示した。例題が分かっていれば簡単に解けるので、例題を説明してあげた。すぐに分かったようでお礼を言われた。

それからというもの、菜々恵は僕に話かけるようになった。僕は悪い気はしなかった。ただ、直接彼女の目を見て話すことなどできなかった。いつも伏し目がちに話をしていた。眩しくてとてもまともに見られなかった。彼女が僕に好意を持っていてくれたことに、その時気が付いていなかった。

高校受験が近づくと、僕は志望校を目指して勉強に集中した。それで菜々恵のことにまで気が回らなくなっていた。

そして僕は志望校に無事合格することができた。菜々恵はというと志望校の受験に失敗して、滑り止めに合格していた私立の女子高へ進学することになったと聞いた。

「私、お勉強が苦手だから、仕方がないわ。人生、お勉強だけじゃないと思うけど」

菜々恵が話しているのを聞いて、僕はしっかりしていると思った。僕は勉強が一番大事と思っていたから、そのような考えができる彼女を大人だと思った。

彼女は中学校を卒業するときにクラスの同窓会の女子の幹事を引き受けていた。もうひとり世話好きの小川君が男子の幹事を引き受けてくれた。そして毎年1回はクラスの同窓会をしようということになった。僕は菜々恵が幹事なので、必ず出席しようと思った。

僕の高校は有名進学校だったので男子が多くて女子は少なめで半数には満たなかった。それに気の強い女子が多くて、女子と話をするようなことはほとんどなかった。

高校1年の秋ごろ、1回目の同窓会があった日だった。その日は久しぶりに友人と会えて話が弾んだ。ただ、男子とばかり話していた。菜々恵も出席していたが、彼女は女子の友達と話をしていることが多かった。

ここでも僕はそういう菜々恵をただ眺めているだけで、一言も話ができなかった。ただ、相変わらず可愛いなと横目で見ていた。

夕食を終えたころに電話が入った。菜々恵からだった。

「今日、話をするのを忘れていたけど、来週の土日に文化祭があるので、遊びに来ない。私たちのクラスで模擬店を出すので食べに来てもらえないかな?」

「特に予定がないから、行けると思うけど、他の友達も来るの?」

「今日何人かには声をかけたけど、たくさんの人に来てほしいの」

「僕は行くよ。いつごろなら都合がいい?」

「土曜日は始まったばかりで忙しいから、日曜の2時ごろでどうかな? 井上君の分は確保しておくから」

「ありがとう。分かった。じゃあ日曜の2時に」

菜々恵から直接電話で依頼を受けたのが嬉しかった。だからすぐに行くと返事した。僕はこの時、僕だけが招待されているとは思わなかった。

日曜の2時に教えてもらった会場に着いた。菜々恵はきょろきょろしている僕を見つけると跳んできた。

「来てくれてありがとう。こっちで食べて。ケーキとコーヒーを用意してあるから」

2日目の日曜の2時ともなると人出はもう峠を越しているようだった。僕は用意された席へ案内された。料金表が張り出されていたので、席に着くと菜々恵に支払った。私が招待したのでいらないと言ったが、それでは負担をかけて悪いからと受け取ってもらった。僕のほかには同窓生の姿はなかった。

「友達はたくさん来たの?」

「ええ、まあ、一度に来られても案内できないので、時間を指定して来てもらったけど」

「そうなんだ」

食べ終わると菜々恵は会場全体を案内してくれた。クラスの仲間にはちょっと友達を案内してくるねと嬉しそうに言っていた。

彼女と二人だけで会うのはその時が初めてだった。僕は何を話したらいいのか分からずにただ彼女の説明を黙って聞いていた。

時々彼女の友人らしき女子が「菜々恵、彼氏来たの?」と声をかけてくる。そのたびに「そんなんじゃないよ」と答えていたが、まんざらでもなさそうに見えた。

僕はそう答える菜々恵を横目で見ていたが、あの時と同じように目が合った。その目は僕を眩しそうに見ているように思えた。

それからほかの店に入って二人でたわいのない話をしたように思う。今は何を話していたか思い出せない。4時過ぎに僕は学校を後にした。校門まで見送ってくれた菜々恵は後片付けがあると言って戻って行った。
僕は受付を済ませると、2階の内科受付に書類を出して待合室のベンチに腰掛けた。診察室が幾つかあって担当医の名前が掲げられた部屋の前で待つようになっている。診察が始まるまでにはまだ時間がある。そこへ菜々恵が現れた。そして僕の隣に座った。

「ここへ入院したと言っていたけどどうしたの?」

「4月初めのころ、真夜中に突然、高熱が出て、身体に発疹が出たの。私、発疹なんか出たことがなかったので、あわてて救急車を呼んで、そしてここへ運んでもらったの」

「それで」

「丁度、消化器系の専門の先生が当直だった。入院して詳しく調べた方が良いと言われて、翌日、CTを撮ったら胆管がんが見つかって」

「胆管がん? あまり聞かないがんだね」

「私もそれを聞いてとっても驚いたわ」

「早期のがんだったのか?」

「いえ、ステージ4と言われた。手術がもうできないほど進行していたの」

「自覚症状はなかったのか?」

「全くなかった。発疹が初めて」

「最初に診てもらった先生が消化器専門でよかった。ほかの先生なら見逃して、ただの蕁麻疹の診断で終わって、もっと手遅れになっていたと思う」

「それでも、セカンドオピニオンをお願いしなかったのか?」

「先生もそれを勧めてくれたけど、きっと、どこで診てもらっても同じだと思ったの。今の先生の診立てが良かったのでこれでも早く見つかったのだと思った。それで、ここで先生に治療をお願いすることにしたの」

「医師とは信頼関係が大切だからね。それで治療はうまくいっているの」

「それからすぐに抗がん剤治療を受けたの。体力的には辛いものがあったけどそれにも慣れて、今は2週間ごとに抗がん剤の点滴を受けに通院しているところなの」

「がんは小さくなったの?」

「CTで確認したけど、かなり小さくなっているし、マーカー値も始めは千のオーダーだったのが、2桁にまで下がった。ただ、これでも正常値よりもかなり高いみたい。でも一時より随分良くなったと言われた」

「抗がん剤が効いているんだね。ただ、耐性ができて徐々に効かなくなるということを聞くけど、先生はどう言っている?」

「これで様子をみて、効かなくなったらまた考えようと言っています。それでおまかせしています」

「転移などはないの?」

「PETで調べた限りは見つかっていないけど、どうか分からない」

「淡々と話してくれているけど、随分、落ち着いているね」

「診断結果を聞いた時にはすごくショックで落ち込みました。でも受け入れるしかないし、独り身で子供がいる訳でもないし、これといって思い残すこともないから」

「すごいね。僕だったら、きっともっと動揺していたと思う」

「井上さんも時間が経てばきっと私のような心境になっていると思うわ」

「そうかな。君は強いね。ところで、同窓生や友人はこのことを知っているの?」

「まだ、誰にも話していません。心配させても何にもならないから。井上さんが最初です」

「それなら、君が皆に話すまではこのことは誰にも話さないけど、それで良い?」

「ええ、その方が不要な心配をかけなくて良いと思っています」

「僕は2か月毎にここへ来ている。また、一緒になるかもしれないね」

「私は2週に1回、ここへ抗がん剤治療に来ています。これから点滴を始めて終わるのは午後4時ごろです。今度時間があったら、ここの喫茶室でお茶しませんか?」

「ああ、まだいろいろ話したいことがあるからいいね」

それからお互いの電話番号を交換した。僕の名前が先に呼ばれた。もう診察が始まる時間になっていた。菜々恵とはそこで別れた。

診察が終わって出てきたら、菜々恵はいなかった。彼女も診察と治療が始まったみたいだった。
菜々恵とは3年前に二人で会った時以来だった。彼女が中学3年の同窓会幹事だったこともあり、同窓会があるごとに会っていた。高校生の時は毎年、文化祭に招かれて訪ねていた。

菜々恵は僕が行くと嬉しそうに会場を案内してくれた。1年生の時から案内してもらうときはいつも僕一人だった。高校3年生の時は、受験勉強で忙しかったけれども菜々恵のために指定された日時に文化祭に行った。

3年間も行っていると僕のことを覚えている友人もいるようで、二人で歩いていると「また、彼氏が来てくれているのね」と言われることがたびたびだった。菜々恵は「そんなんじゃないよ」とニコニコしていたのを覚えている。

高校を卒業して僕は希望していた大学へ進学することができた。菜々恵は高校の系列の大学の短期大学部へ進学していた。大学へ入ってからも相変わらず中学の同窓会は毎年続いていた。幹事がしっかりしていると同窓会は続くようだ。でも集まる人は徐々に限られてきていた。

短期大学部でも僕は学園祭に招待されて2年で2回訪問した。また、僕も大学の学園祭があるときに菜々恵を招待した。彼女は喜んで来てくれた。そのときまで菜々恵とは5年間ずっと同窓会と文化祭・学園祭で会うことが続いた。

彼女とは付き合っていた訳ではないが、友人以上の特別の友人で、恋人未満とも言えないような間柄だった。お互いに好意を持っていることは分かっていた。ただ、その時の僕は特定の彼女と付き合うという考えはなかった。

短期大学部を卒業してからの同窓会で会った時に、菜々恵が調理師専門学校へ入学したと聞いた。期間は1年で、調理師免許が取れると言っていた。短期大学部は栄養学科で栄養士の資格を取ったみたいだったが、何を思ったのだろう?

それから専門学校を卒業してから中堅のホテルに就職したと聞いていた。彼女が就職してからは同窓会で会うことと、ホテルで催し物があると招待されて行くことがあった。会場では彼女が挨拶をしに来たが、仕事中でもあり、長話はできなかった。

それで夜に電話して催し物の感想やらを伝えた。その折、休みの日にでも一度会おうということになり、休日に会ったりもした。

ただ、それは催し物があった時など、せいぜい年1~2回くらいだったと思う。二人で会った時に何を話していたか覚えていない。たわいのない噂話しかしていなかったのだと思う。

僕が大学を卒業して就職してからも、年に1~2回は会うことが続いていたと思うが、やはり特別な友人のままだった。今から3年位前だったと思う。その時二人はもう27歳になっていた。何かの機会に菜々恵と二人で会っているときに、彼女が突然口にした。

「縁談があってお見合いすることになったの」

菜々恵は僕の彼女に対する気持ちを確かめようとしたのだと思う。僕は菜々恵に好意は持っていたが、異動もあって仕事が忙しくて結婚など考えられない状況だった。ただ、菜々恵には縁談があっても可笑しくない歳だった。

「良い人だったら考えても良いんじゃないか」

僕はそう答えてしまった。菜々恵は僕にそのお見合いを止めて僕と付き合ってほしいと言ってほしかったのだと今は思っている。その時、僕はそこまで考えが及ばなかった。自分のことで精一杯だった。

あの時、菜々恵は「私はあなたが好きだけど私のことをどう思っているの」とは聞かなかった。もし、率直にそう聞かれていたら僕の答えも変わっていたと思う。

翌年の同窓会に菜々恵は来なかった。彼女は幹事を親しい友人に代わってもらっていた。それ以来、菜々恵は同窓会を欠席していた。昨年の同窓会も菜々恵は欠席だった。僕はというと菜々恵がいない同窓会にもう出席する気持ちがなくなってきていた。

この3年間に菜々恵にはいろいろなことがあったことを風の便りに聞いていた。お見合いが結納にまで進んでいたが破談になったと聞いた。勤めていたホテルも辞めていて、それからの消息はつかめていなかった。

その菜々恵にこの病院で会おうとは思いもしなかった。彼女のことが好きだった。この歳になってそれがようやく分かった。彼女が初恋の人だった。
病院で偶然再会したその夜に僕は教えてもらった番号へ電話を入れた。菜々恵はすぐに出てくれた。

「無事に治療は終わったの?」

「5時には家へ着いて、一休みして夕食を終えたところです」

「体調は?」

「絶好調とは言えないまでも悪くはないです」

「それはよかった」

「それで、僕の次の診察は2か月後の8月20日になった」

「私は2週毎に通院しているので、日にちが合うといいですね」

「もし、日にちが合えば病院の喫茶でお茶しよう。積もる話があるから」

「そうですね。楽しみにしています」

もう一度会う確認ができた。短い会話だったが、学生時代の電話がなつかしく思い出された。随分前のことだったけど、ほんの少し前のことのようにはっきりと思い出した。

◆ ◆ ◆
病院で会ってから1か月位たったころ、暑い日が続いたので急に菜々恵のことが気になって、夜8時ごろに電話を入れてみた。すぐに電話には出てくれなかった。呼び出し音が続くだけだった。心配になって、小1時間後に再度電話したがやはり出なかった。

翌朝は土曜日だったので、朝寝をしていると電話が入った。菜々恵からだった。

「昨晩、電話をくれたみたいで、出られなくてごめんなさい。治療から帰ってきて疲れていたので早く寝てしまいました」

「あれから1か月ほど経つけど、元気にしているかなと思って。出てくれないので容体が急変したのかと思って心配していた」

「心配してくれてありがとう。大丈夫です。治療は順調に進んでいます」

「そうなの、安心した。これからも時々電話するから。一人で住んでいるの?」

「いいえ、アパートを借りていましたが、がんが見つかってからは、実家に戻っています。母が身の回りの世話をしてくれますので。妹も近くに住んでいて、気にかけてくれていますので心強いです」

「それならよかった。じゃあ、また」

「じゃあ、また」
大学の理系学部を卒業した僕は大手食品会社に就職した。今は商品企画部の主任になっている。就職した時は勝手が分からずに無我夢中で苦労したが、入社して7~8年にもなると業界の置かれている状況も把握して、無難に仕事をこなせるようになっている。

菜々恵がお見合いをしたころ、僕は丁度27歳で仕事を任されるようになって、恋愛などしている余裕がなかった。それで菜々恵の相談にあんな返答をしてしまった。彼女がお見合いに失敗したことを聞いて、それがずっと心のどこかに引っ掛かっていた。

菜々恵に「お見合いは止めて僕と付き合ってほしい」と言えばよかったと、しばらくは思ったりした。会えなくなるとなおさら思いが募るのかもしれない。もう時間は戻せなかった。

30歳になって主任になったこともあり、部下もついて仕事に余裕もできてきた。同期の中には結婚するものが増えてきて、女性を意識するようになってきた。

僕は菜々恵と会わなくなってから、他の女子と付き合う機会がないこともなかった。関連会社の女子とも付き合う機会があった。同期に誘われて合コンに参加もしてみた。ただ、気持ちを通じ合える気に入った女子には巡り会えずにいた。