奈菜とのお見合いから1か月ほど経っていた。また、お見合いの話があった。こんなことは続くものなのかもしれない。そういう年齢に達していることなのか? めぐり合わせだとしたら、もう成り行きに任せてみようという気になった。
上司の小山部長からの話だった。会議室に呼ばれた。何の話だろうと行ってみると、始めに付き合っている人がいないか尋ねられた。今はいないと答えると、お見合いの話を始めた。
奥さんの付き合いがあって、会社に適当な人物がいれば紹介してほしいと頼まれているそうだ。ここに写真と履歴書があるので、見るだけでもいいから見てもらって、良ければお見合いをしてみないかと言われた。
部長からの話なので、お見合いをすると断るのが面倒だと思って、写真や履歴書も見ないで、今は結婚する気がないと丁寧にお断りした。
「家内から私の顔を立ててほしいと頼まれている。植田君も結婚してもおかしくない歳だろう。付き合っている人がいないならどうかな、なんとか見合いだけでもしてくれないか? むろん私や家内に義理立てする必要は全くないから、断ってもかまわない。どうかな」
そこまで言われると、これ以上断り続けて部長の機嫌を損ねるのもどうかと思った。
「分かりました。お受けします。ご期待に沿えるかどうか分かりませんが」
「結婚は本人同士の気持ち次第だから」
「そう言っていただけると気が楽です」
「それで、ご両親のどちらかにでも同席してもらえると格好がつくのだが」
「ちょっと実家とは距離があるので無理です。兄なら近くに住んでいるので兄でもよろしいですか?」
「お兄さんは結婚していられるのか?」
「3年前に結婚して子供もいます」
「それなら、お願いできないかな。その方が良いから」
確かに兄貴に同席してもらえば、部長の奥様の顔も立つだろう。僕一人で見合いに臨むよりもよっぽど体裁が良い。
兄に見合いの同席の可否を聞いてみると、僕が結婚もしないで独身でいるので心配していたとのことで、喜んで同席を承諾してくれた。
相手の履歴書と写真を渡された。プロが撮った見合い写真だった。目を見張るほどの美人ではなかったが、清楚で気品のある顔立ちだ。人によってはすごい美人だと思うに違いない。
名前は飯塚奈緒、28歳。東京の有名女子大を卒業している。勤務先は金融機関。趣味は料理、読書、旅行といたってありきたりだ。両親と弟の4人家族。
部長から履歴書と写真がほしいと言われたので、すぐにパソコンに作ってあった履歴書をプリントアウトして渡した。それから写真を探した。同窓会の時の写真がメールで送られてきていたのを思い出して、その中からトリミングして作った。なんとか見られる写真はできたが、実際の僕とは相当かけ離れている。実物の方がずっと良いと思う。
お見合いの日時は来週の土曜日の午後2時から、部長のご自宅でということになった。
お見合いの当日になった。部長のお宅は小田急線の成城学園にある。駅から徒歩10分と聞いていて、地図も渡されていた。兄貴とは駅の改札口でゆとりを見て午後1時30分に待ち合わせる約束だった。
僕は今住んでいる池上線の洗足池から電車を乗り継いで来たが、乗り換えに思ったより時間がかかってしまって、駅に着いたのは午後1時50分だった。
兄貴ははらはらしながら待っていたという。こういう大切な時に遅刻はまずいと随分と小言を言われた。こういうことだから結婚できないのだとも言われた。このことと結婚は関係ないと思う。まあ、少し詰めが甘いことは自覚している。
あわてて部長に電話を入れた。道を間違えたので、少し遅れるかもしれないと伝えておいた。それから駅前でお菓子の詰め合わせを買った。そして地図に沿って部長の家へ小走りで急いだ。
午後2時丁度には辿り着くことができた。遅刻はしなかった。でも心証が悪くなると兄から途中で散々小言を言われた。
兄は昔から几帳面で何事も卒なくこなしていた優等生だった。それに反して、弟の僕は兄より成績は悪くなかったが無計画で気まぐれなところがあるといつも両親から注意されていた。
でもそんなことはないはずだ。今日は少し乗り換え時間の設定を誤っただけだ。仕事の打ち合わせや会議、会合に遅れたことは一度もない。その証拠に今日も一応間に合った。
深呼吸して気を取り直す。ここからが本番だ。部長のためにも悪い印象を与えることだけは避けなければならない。
リビングに通されると、すでに先方3名はソファーに座って待っていた。さすが部長のお宅だ。広いリビングに大きなダイニングテーブルがあって、そこに6名分の席が用意されている。
席に座るように言われて、先方がベランダ側の3席に仲人の奥様、本人、母親の順に座った。それに合わせて、部長の奥様、僕、兄の順に座った。奥の端の上座に部長が座った。会社の会議よりもずっと重苦しい雰囲気だ。
飯塚奈緒、本人を間近に見た。写真よりずっと綺麗な娘だった。上品で落ち着いた感じがする。でもお嬢さんと言った感じでもない。まあ、もう28歳だから落ち着いていて当然かもしれない。第一印象は予想以上だった。
部長の奥様が僕と兄を紹介してくれた。奥様には初めてお目にかかったが、人のよさそうな物腰の柔らかい人だった。それから先方の仲人の奥さんが彼女と母親を紹介してくれた。
その奥さんは少し気取って上から目線で話すようなタイプの人だった。名前は土田さんと聞いた。僕はこういう人は苦手で嫌いだ。兄が道すがら、お見合いでは母親をよく見た方が良いと言っていた。母親もそういう人なら断った方がよさそうだ。
始めから先方の仲人の土田さんがよくしゃべった。部長の奥さんの裕子さんは大学のクラブの後輩で、先方のお見合い相手の母親の順子さんとは高校の同級生とか言っていた。それに仲人を随分していてもう何組も結婚していて幸せに暮らしていると言っていた。まあ、よくしゃべるし仕切りたがる。
本人や母親ではなくてその奥さんが僕にいろいろと聞いてくる。仕事の内容、年収、将来の見込みなどは部長の奥さんを通じてすでに聞いているはずだが、本人が聞きにくいところを聞いてあげるとか言って、今まで付き合っていた彼女はいたのかとか、これまでのお見合いの回数やら、休日は何をしているのかとか、貯蓄額などを聞いてきた。
結婚を前提にお付き合いした女性はいないと言っておいた。これは事実だ。お見合いは今回が2回目で、1回目は断られたと正直に話した。理由は?と土田さんが聞くので、自分には似つかわしくないと言われたと話した。本当にそう言われたと思っている。
僕は聞かれたことに対しては本当のところを当たり障りのないように答えておいた。こういうやりとりは仕事でもしょっちゅうしているので、そこいらの奥さんには引けを取らない。
彼女の母親は土田さんに遠慮してか、ほとんど質問しなかった。部長は黙って聞いていた。部長の顔を時々見ていたが、土田さんには好感を持っていないとみえた。
僕はこういう場合は遠慮しないで聞きたいことは聞いておくべきと思っている。何せ、僕のお嫁さんを選ぶお見合いだからだ。
「飯塚さんはこのお見合いは初めてですか?」
「私も2回目です。1回目はお断りしました。なんとなく性格が合わないようでしたので」
彼女の答えも卒がない。真面目に答えてくれていると思った。職場には適齢の男性社員はいないのかとも聞いてみた。年配の既婚者が多くていないとのことだった。
土田さんが彼女の職場について説明をしてくれた。そういうことは聞いているのかよく知っている。相当に会う前に聞いているとみえた。本人の口から直接聞きたいところだ。僕は部長の顔をそれとなく見た。目が合った。
「そろそろ二人で場所を変えてお話してみたらどうかな? 年寄りがいたら若い人が自由に話せないから」
「そうさせていただけるとありがたいです」
僕はすかさずそう言った。彼女を見ると頷いていた。兄と彼女の母親はもう少し話してから帰ると言っていた。あとは交際を希望するかはよく考えてそれぞれの奥様に連絡するということになった。
それで二人が先に部長宅を離れた。駅前にファミレスがあったので、そこで何か食べながらお話をすることにした。途中二人は話をしなかった。彼女も話しかけてこなかった。ちょっと気まずかったかなと思った。
席に案内されると彼女の方から話しかけてきた。
「土田さんには、私のために熱心に縁談を進めていただいておりますので、お気を悪くなさらないでください」
「いや、そんなに頼りになる人がいると心強いですね」
「何組もまとめていらっしゃるみたいです。二人を見ると相性が分かると言っておられました」
「それなら僕たちをどうみたのか、聞いてみれば良かった」
「お気になさらないでください。二人のことですから二人で決めればいいことです」
「僕もそう思ったから、部長の言葉に賛成したんだ」
「私もそう思っていました」
「何か聞いておきたいことはありますか? 何でもいいですから率直に遠慮しないで聞いてください。結婚することになるかもしれませんから今の内です」
「どうしてお見合いをする気になったのですか?」
「もう私も31歳です。結婚はしたいと思っています。それで良い人を見つけるのに手段は選ばないといったところでしょうか? いろいろな出会いの仕方があると思いますが、お見合いは事前に相手の経歴も分かるし、仲介者もいるから信用が置けます。それにお互いが希望すればすぐに結婚を前提にしたお付き合いができますから」
「私もそう思っています。結婚を前提にした真剣なお付き合いができますから、それに紹介者がおられるので、安心してお付き合いができます」
「昔からある良いシステムなのかもしれません。最近は減っていると聞いていますが」
「土田さんのようにお世話をしてくれる人が減っているのかもしれません。それに合コンやスマホなど便利なツールもあるのでお付き合いが容易にできるようになったからだと思います」
「合コンには参加しているのですか?」
「私の職場では年配の人が多いので、誘われることがありません。2度ほど大学の友人に誘われていったのですが、どうもなじめません」
「なじめない?」
「ただ、付き合う相手というか遊び相手を探すために来ているみたいで、結婚まで考えているのかどうか、真剣さがないような気がして」
「合コンでは、まず気が合う相手を見つけて、付き合ってみて、それからゆっくり結婚を考えようとしている人が多いと思う」
「あなたはどうなのですか?」
「合コンも何回かは行きました。それで何人かとも付き合ってみましたが、この人という人が見つからなくて」
「それは相性のようなものですか?」
「良くわかりません。本能的に合うということかもしれませんが、そういう人と出会っていないということなのでしょう。何人かと付き合ってみると、それぞれ異なった長所と短所があって、分からなくなってしまうのです。迷ってしまうということかもしれません。それは運命の人に出会っていないということなのかもしれません」
「運命の人に出会うとピンとくるのでしょうか?」
「僕は出会っていないので分かりません。おそらく何か感じるものがあるのでしょう。結婚した人はそう言いますね」
「私はその人だと決心できるかどうかだと思っています」
取り留めのない話が続いたが、彼女の考え方と結婚観などが分かるような気がした。彼女はとても誠実な感じがして好感が持てた。それに見た目とは違って何でも気軽に話せそうだった。今まで合コンであった女子とは違っていた。
それからお互いの家族や趣味の話などをした。1時間ほど話していたと思う。彼女は田園都市線の藤が丘に住んでいる。帰る方向が違っていたので駅で別れた。
彼女は写真よりも初々しくて綺麗だった。少し話しただけだが、性格も悪くないと思った。特段に気になるところもない。断る理由がない。むしろ、お付き合いをお願いするべき相手だと思った。
折角の土曜日なので新宿の家電量販店を見て回った。今使っているパソコンの調子が今ひとつ良くないので、新しいパソコンを見て回った。回復を試みて難しいようなら買替えよう。
帰ると兄に電話を入れた。兄はもう自宅に戻っていた。彼女の印象を聞くと、僕と同じで印象は良かったようで、交際をしてみることを勧められた。
それから、すぐに部長に連絡を入れた。そして、お付き合いしてみたいからお願いしますと伝えた。部長の彼女に対する印象も良かったみたいで、それは良かったと言っていた。
2日後に部長の奥様から連絡があった。先方の飯塚奈緒さんも交際を希望しているとのことだった。奈緒さんの携帯の電話番号を教えてくれたので、僕の携帯の番号を知らせた。
その日の夜、帰宅してから教えてもらった奈緒さんの携帯へ電話を入れた。9時近かったが、番号が知らされていたようで、すぐに出てくれた。それで次に会う約束をした。彼女は自宅へ来て父親にも会ってほしいと言った。
そんな申し出をされるとは思ってもみなかったが、すぐに承諾した。彼女の家で二人にしてもらえれば周囲にかまわずに話せるし、自宅を見て置くことも、父親がどういう人物か知っておくことも交際が進めばいずれはしなくてはいけないことだ。確かにその方が手っ取り早い。
それで、土曜日の午後2時に訪ねることにした。自宅の住所は履歴書に書いてあった。駅から徒歩10分と聞いていた。事前に地図アプリとグーグルビューで見ておいた。お見合いのために部長のお宅を訪問した時とは違って随分気合が入っている。
◆ ◆ ◆
土曜日の午後1時30分には藤が丘駅に着いた。今回は乗り換えも容易で時間どおりに来ることができた。駅前のケーキ屋さんでケーキの詰め合わせを買って家へ向かう。
ここは郊外の住宅地で良いところだが、都心への通勤には大変そうだ。通勤電車が非常に混んでいると聞いている。
彼女の家はすぐに見つかった。まだ、2時まで時間があるので、そのあたりを散策した。すぐ近くに小さな公園があった。母親が子供を遊ばせている。丁度、奈緒さんくらいの年齢かもしれない。彼女も母親になっていても可笑しくない年齢だ。
丁度、2時に玄関チャイムを鳴らす。すぐに玄関ドアが開いて、母親と彼女が迎えに出てくれた。手土産を渡して玄関を入る。
他人の家を訪問するときにはその家の匂いが気になる。すぐにそのにおいには慣れるというか感じなくなるが、始めの印象はそのにおいだ。不快なにおいではなかった。
リビングへ通されると父親が立ち上がって僕に挨拶した。いやみのない柔和な印象だった。母親もあの仲人の土田さんのような出しゃばったところがない控え目な人だった。
「よくいらっしゃいました。父親の飯塚《いいづか》正人《まさと》です」
「初めまして、植田健二です」
勧められてソファーに座った。母親と彼女がコーヒーを入れてくれている。良い匂いだ。父親はなにも言わずに僕を見ている。コーヒーが僕の前に出された。僕から離れて隣に奈緒さんが座った。斜め前に父親が、正面に母親が座っている。面白い座り方になっている。
何から話したらいいのか分からないので、コーヒーを飲んだ。僕はコーヒーにはうるさいというか、好きだ。豆を買ってきていつもドリップで入れて飲んでいる。
「このコーヒーはとても美味しいですね。今まで飲んだ中で一番かもしれません。ブレンドはなんですか? ブルーマウンテンかな」
「ブルーマウンテンミックスです」
「当たっていた。僕はコーヒーが好きでいつも豆を挽いて飲んでいます」
「私もコーヒーが好きでいつも飲んでいます。これはこの近くにある焙煎している専門店で買ってきました」
「入れかたも上手だと思います」
「奈緒が入れたのですよ」
「コーヒーが好きだなんて、お見合いの時には一言も言わなかったですね」
「あなたも聞きませんでしたし、話しませんでした」
「まだまだお互いに知らないことばかりですね」
それからは話が弾んだ。父親は僕に会社の事業内容と行っている仕事、帰宅時間、休日と休暇などについて聞いていた。僕も父親の会社の話と役職を聞いた。通信機器の会社の人事部長をしていると言っていた。それでしっかり面接されたと思った。
奈緒さんが頃合いを見て、二人で話したいから部屋に来てほしいと言った。両親がかまわないからと言うので、彼女の部屋に行った。
その部屋は2階にあった。階段を上がったところにトイレと洗面所があった。2階のもう一部屋は弟さんが使っていると言っていた。今日は出かけているという。
引き戸を開けて部屋に入ると8畳の畳敷きの和室だった。部屋の端の方に座り机が置かれている。また、和室といっても床の間や掛け軸があるわけではない。押し入れもなくクローゼットになっていた。ただ、窓は障子になっていた。
部屋の真ん中に座卓があって座布団が2枚用意されていた。机の上にはお盆にポット、急須、お茶碗が載せてある。促されて座布団に座った。今度はお茶を入れてくれる。入れてくれたお茶もとても美味しい。
「和室なんだね。そういえば君のイメージに合っているかも知れない」
「そうですか? 弟が洋室を使っていますが、ベッドだと部屋が狭くなりますし、お掃除もしにくいので」
「お布団で寝ているの?」
「その方が落ち着いて眠れますので」
「家具も和風なんだ。その机とてもいいね、それにスタンドも」
「本が落ち着いて読めます」
「趣味は読書だったね。どんな本を読んでいるの?」
「いろいろです。推理小説から恋愛小説、エッセイなんでもです」
「音楽は聞かないの?」
「テンポの速い曲は苦手です。どちらかというとゆっくりしたテンポの曲を聞いています」
「クラシックとか?」
「聞きますが、人気のあるヒット曲も聞いています。ヒットしている曲はそれなりに理由があってやはり良い曲が多いと思います。スマホに入れて何も考えたくないときに聞いています」
「何も考えたくない時って?」
「仕事や人付き合いに行き詰ったときです」
「僕はそんなときには気の合った友人と飲んで愚痴を言い合ったりしているけど」
「男の人はそれができるからいいですね」
「女子も最近は女子会とかやっていると聞くけど」
「私の周りには愚痴を言い合えるような同じ年代の人が少ないので。それに会社の人には話し辛いことがありますから」
「ご両親には相談しないの?」
「あまり深刻な相談をすると心配をかけますからしないようにしています」
「お父さんとはあまり話をしない?」
「いえ、大切なことは相談しています」
「人事部長をしているとか聞いたけど、いろんな人を見ているから、頼りになると思う」
「結構、貴重なアドバイスをしてくれます」
「僕をどう見ておられたか、実は心配している」
「まだ聞いていませんが、悪い印象は持たなかったと思います」
「気に入れられたかな?」
「まあ、反対はしないと言うところでしょうか? 断る理由はないと思います」
「それはあなたの意見ですか?」
「同じだと思います」
「欠点がないという理解でいいのかな? じゃあ、良いところは?」
「それがよく分からないのです。どこが良いところなのか」
「分からない」
「あまり、男の人とお付き合いしたことがないので」
「会社では周りは年配の人ばかりと言っていましたが、彼らも男でしょう」
「そういう意味では、あなたの方がずっと良い人だと思います。結構、癖のあるおじさんが多いですから」
「お母さんは何と言っている?」
「母も悪い印象は持っていません。私が判断しなさいと言っています」
「君次第ということか?」
「実は父と母は見合い結婚なのです」
「それで君も見合い結婚する気になったのか?」
「それもあります。父と母は仲がよくて喧嘩しているのを小さい時から見たことがありません」
「それはお父さんが亭主関白で、お母さんがただ従っているだけではないの?」
「いえ、母も結構、父には言いたいことは言っています。父はそれをちゃんと聞いています」
「うまくいっているんだ。俗にいう仮面夫婦ではないんだ」
「そう信じています」
「お母さんは穏やかな人だね。君は母親に似ていると言われない?」
「そうかもしれません。私は母も好きです。でも大人になったので適当な距離を保つようにしています」
「どうして」
「あまり、甘えてはいけないと思って、いずれは家を出なければなりませんから、精神的に自立しないといけないと思っています」
「十分に自立していると思うけど」
「そうじゃないんです。このごろは落ち込むことも多いです」
「相談にのるよ」
「ありがとうございます。男性の方が考え方が論理的で多面的だと思いますから」
「いや、女性の方が考え方がシビヤーだと思っているけどね。男は相手の立場を思いやったりして情に流されるところがある」
次々と話が続いた。打ち解けて本音で話ができたと思う。彼女も本音を話してくれたと思っている。時計を見ると4時少し前になっているのでお暇することにした。
今日は彼女の家を訪ねて本当に良かった。街で会って数回デートするよりもお互いの理解が深まったと思った。
自宅に帰ってから7時過ぎに部長へ彼女の家を訪ねてご両親に会ってきたことを伝えておいた。あと1、2回会ったらどうするか決めようと思っていると伝えた。
次の週の火曜日、8時過ぎに小山部長の奥様から電話が入った。お見合い相手の飯塚奈緒さんから仲人の土田さんを通して破談の連絡があったと言う。
土曜日にそんなそぶりはご両親にも微塵もなかった。まして奈緒さんは交際の継続を望んでいるように見えた。
腑に落ちなかったが、ご縁がなかったと了解した。わざわざ先方の自宅まで訪ねて行ったのに、うまく進んでいたと思っていたので、全身から力が抜けた。
◆ ◆ ◆
次の週になって、また部長の奥様から連絡が入った。飯塚奈緒さんのお母様からなぜ僕が断りを入れて来たのか、腑に落ちないので理由だけでも教えてほしいと連絡があったと言う。奥様は土田さんから断りの連絡が入ったので、こちらからはお断りしていないと答えたそうだ。
それで奈緒さんのお母様がよろしければ僕に交際を続けてほしいとおっしゃっていると伝えられた。もちろん、奈緒さんも交際の継続を希望しているとのことで、僕にどうすると聞いてきたのだった。
僕はあれから気が滅入っていた。ご縁がないとあきらめていた。それにここで交際を再開すると言うことは、僕が彼女に決めたということと同じになり、今度はこちらから断りにくいと思った。
あのまま交際を続けていたら、もっと自由に判断できたのにと思わないではいられなかった。ご縁がないのかもしれない、一度こういうことがあるとまた面倒が起こるかもしれないとも思った。
それで、こんな行き違いが起こることになるのも、やっぱりご縁がなかったのだと、断りの意思を伝えてもらった。
奈緒とのお見合いから1か月ほどたった7月ごろに、また実家からお見合いの話があると言ってきた。
両親には6月に東京で上司の紹介で縁談があって、兄貴に同席してもらったが、うまくいかなかったことを伝えていた。
それで両親は僕が結婚をしたがっていると思ってか、母の知人に縁談をお願いしていたらしい。
このころの僕は縁談があった時には無下に断ったりしないで、自然体で会ってみようと言う気になっていた。相手のあることだし、こちらが気負っても二人の気持ちが通じ合わないとうまくいかないと思ったからでもある。
お見合の相手は上野瑞希といった。僕より年齢は5歳年下の26歳だった。地元の私立大学短期大学部を卒業して役所の臨時職員をしている。二人姉妹の妹だが、姉はすでに結婚しているという。本人は国立大学の受験に失敗してしかたなく短大に入ったと言っていた。彼女は親元に居たかったらしい。
僕は会ってすぐに気に入った。とても美人で僕の好みのタイプだった。僕は小さい時から面食いだった。すぐに可愛い子に目が行く。学校でもクラスの可愛い子をじっと眺めていることが多かった。それでも声をかけたりはできなかった。ただ遠く離れたところから憧れてみていたといったところだろう。
歳が離れて26歳と若かったこともあり、とても新鮮な感じがした。話していても受け答えに卒がない。頭も悪くないと思った。ただ、漠然と良い娘だと思った。断る理由が全くないから交際をお願いした。
彼女も僕のことが気に入ってくれて交際が始まった。僕は出来るだけ帰省した。毎週とはいかなかったが、月3回は帰省して彼女と会って話をした。それに毎日帰宅すると電話を入れた。
彼女は家にいて携帯で受けてくれた。電話したら僕の話をよく聞いてくれた。僕は好かれていると思っていたし、実際に好かれていた。
今考えると交際中に帰省した時はどうして過ごしていたか思い出せない。二人で遠出した記憶がない。街中で会って話をしていただけだったと思う。ただ、毎日電話していたことだけはよく覚えている。
それで9月はじめに婚約することになった。そこまでは順調だった。婚約してから初めて彼女との齟齬に気付き始めた。お互いに遠慮がなくなったからかもしれないが、僕は自分の不満が自覚できるようになった。
ずっと毎日電話していたが、彼女からかかってきたことは一度もなかった。僕の帰りが随分遅くなってかけられなかった時もかかってくることはなかった。
それに帰省するのはいつも僕だけで、彼女の方から東京に遊びに来てくれたことは一度もなかった。遊びに来ないかと誘っても仕事の都合がつかないからと言われた。
なんとか時間を作って遊びに来てくれても良いのではないか。こちらで無理に関係を迫ることなど考えてはいないが、それを心配したのかもしれない。
それにしても腑に落ちなかった。本当に僕が好きで結婚する気があるのかとも思った。まあ、彼女の都合もあるので、こちらへ来られないのは仕方がないとも思った。いずれ結婚すれば二人でずっと一緒にいることになるのだから強いる必要はないと思っていた。
婚約したので彼女の家で新婚旅行先について相談した。彼女は海外へ行きたいと言った。僕は国内旅行にしたかった。慣れない外国へ彼女とすぐに行くのは気が進まなかった。
僕は結婚してから夏休みに行けば良いと提案した。でも彼女は海外旅行にこだわった。それもカナダへ行きたいと言った。なぜカナダにこだわるのか聞いたら誰も行っていないからというのが答えだった。
確かに新婚旅行には誰も行ったことのないところへ行ったと友人に自慢したいのだろう。僕の気持ちを何も考えてくれていない。それで彼女の今までの行動が理解できた。
彼女は自分のことしか考えていない。僕のことなんか考えてくれていない。そう思うと、力が抜けてきた。今まで何をしていたのだろう。彼女のどこを見ていたのだろう。
これから一緒に暮らしていく自信がなくなってしまった。あのとき彼女の無理を聞いてカナダへ新婚旅行に出かけていたら、いわゆる成田離婚になっていたかもしれない。
僕は帰宅するとすぐに両親に今までの不満を話した。そして今日のいさかいから一緒に生活していく自信がなくなったから、婚約までしたけれど仲人さんに破談にしたいと伝えてほしいと言った。
両親は驚いていたが、結婚してから別れるよりはいいだろうと僕の急な我が儘を聞き入れてくれた。
僕は翌日の日曜日に東京へ戻った。夜になって実家から、先方が謝っているから破談の話はないことにしてほしいと言ってきているがどうすると、連絡が入った。
僕は一旦壊れたものはもう元には戻らない、今、元に戻してもお互いの不信感から、またきっと壊れるから断ってくれるようにお願いした。僕がかたくな過ぎたのかもしれない。
お見合いして初めて会ってから3か月余りで破談になった。今思うと彼女には申し訳ないことをしたと思っている。彼女への不満をため込まずにもっと始めから率直に話をすべきだったとも思っている。そうすれば避けられたかもしれないし、もっと早く判断できたかもしれない。
ただ、彼女には元々そういう我が儘なところがあったのかもしれない。それに可愛い娘だったので、いつも男子にちやほやされて、相手からしてくれることに慣れていたのかもしれないと思った。
だから彼女はただ無意識に自然にふるまっていただけだったのかもしれない。言ってみれば僕との相性が悪かっただけかもしれない。僕とはご縁がなかった、そう思うことにした。
さすがに今回は懲りた。間に入ってくれた仲人さんにも両親にも迷惑をかけた。まして彼女にも多大な迷惑をかけた。
しばらくは縁談もないだろうし、すぐにまたその次という気にも当然なれなかった。自分がいやになった。僕は9月で32歳になっていた。
その破談からしばらくは合コンに誘われることもあったが、とても行く気になれないので断っていた。
一人でいる寂しさはある。僕は手っ取り早い風俗に月1でまた通うようになっていた。これがとりあえず心と身体を満たしてくれている。
小山部長からももう縁談の話はない。部長もあの一件で懲りたみたいだ。まあ、その方が部下としては気が楽だ。
あの時はなぜか話がもつれた。僕はきちんと付き合っていた。歯車があっていなかったと言うか、ボタンの掛け違えと言ってもいいだろう。うまくいかないときはそういうものだと思っている。
飯塚奈緒はどうしているだろう? どういう訳か少し気になった。今思うと良い娘だった。僕の気持ちを理解しようとしてくれていた。
彼女のことを考えると、どうしても様子を聞いて見たくなった。未練がある? いや断ったはずだ。でもだめもとで電話してみる気になった。
昼休みに消さずに残っていた携帯の番号に電話を入れてみた。出た!
「植田健二です。その節は失礼しました」
「こちらこそ、ご縁がありませんでしたね。どうされました?」
「その後、どうしているかと思って、気になったから。突然で申し訳ないが、もし今、誰とも付き合っていないのだったら、僕ともう一度付き合ってみてくれませんか?」
成り行きというか、彼女の声を聞いたら、交際を申し込んでいた。僕らしくない。断った相手に未練がましいし、常識的に考えてもおかしい。
「君も一度断った。僕も一度断った。お相子でもう一度考えてみてくれませんか?」
「私自身はお断りしていませんでした。せっかくですが、今、交際している人がいますので、お受けできません」
「そうでしたか。申し訳なかった。突然電話してしかも不躾な申し出をして。忘れて下さい。じゃあ」
まずい。僕らしくない。何でそんなことを言ったのだろう。本当に未練がましくて恥ずかしい。また、気が滅入ってきた。でも逃がした魚はデカかった?
5月の連休に5年ごとに開かれている高校の同窓会に出席した。この前は27歳の時だったので、結婚している人は少なかった。今回は結婚している人の方が多くなっていた。
親友の小川紘一君が出席していた。彼とは高校時代からの親友で大学も同じだった。僕は東京の食品会社へ就職を決めたが、彼は地元志向で地方公務員の試験を受けていた。首尾よく合格して今は立派な地方公務員になっている。
「やあ、久ぶりだなあ、元気そうじゃないか。嫁さんはもらったのか?」
「いや、まだ一人だ。小川君はどうなんだ」
「婚約したよ。6月末に式を挙げることになっている」
「それはよかった。もうお互いにそんな歳だからな。お相手は?」
「今年の1月にお見合をしたんだ。それで気に入ったと言うか気が合って交際して、少し前に婚約した」
「それで、結婚式には招待するから出てくれないか? それと友人の挨拶を頼めないか?」
「ああ、いいとも、休日なら大丈夫だ。日にちを早めに知らせてくれれば予定に入れておくから」
「招待状を出すところだったから丁度良かった。植田君なら頼んで安心だから」
「式を挙げるのか? それと披露宴もするのか?」
「ああ、役所の関係もあるし、親のこともあるから、しない訳にはいかないだろう」
「そうか。それで、どんな人?」
「可愛くてすごい美人だ」
「それで」
「東京の大学を出て、東京で就職していたそうだが、歳も歳だから帰ってきて結婚する気になったとか」
「幾つなんだ?」
「29歳になったばかりだ」
「東京で遊び疲れて帰ってきたんじゃないのか?」
「僕も最初はそう思った。でも会ってみると初々しくてとてもそんな風には見えなかった」
「それで」
「交際して3か月で婚約した」
「それで、彼女とはうまくやっているのか? 僕と違って昔から女の子には手が早かったからな。結婚しても浮気はしないだろうな」
「内緒だけど実はもう彼女を抱いた」
「ええ、手が早いな」
「どこで」
「彼女の部屋で」
「まあ、婚約しているからいいだろうけど」
「彼女は経験がないみたいだった」
「へー、悪い奴だな」
「もう完全に僕のものだ」
「年下の初心な娘を手籠めにした」
「人聞きの悪いことをいうなよ」
「それで今日もニコニコしていたのか。彼女を大切にしないとね」
「ああ、僕にはもったいないくらいに可愛くて美人だ」
「うらやましいな、ところで名前は?」
「新野直美というんだ」
「ええー」
「知っているのか? まさかお前の東京の元カノとかじゃないよな」
「ああ、心配するな。僕のお見合いの相手だったけど、断られた」
「そういえば、僕が3人目とか言っていたな」
「おそらく僕が一人目だと思う」
「植田君の方がカッコいいのになあ、どうして断られたんだ」
「よく分からない。可愛くてすごい美人だったから、僕は交際を希望したけどね。ご縁がなかったんだ。それだけだと思う。でも逃した魚はデカいなあ。本当に」
「悪いな、結婚式に出てもらって、それに挨拶まで頼んで、いやならいいよ」
「いや、親友の結婚式には出させてもらう。彼女とはご縁がなかっただけだから。お前と彼女とはご縁があったのだろう。結婚ってそういうものだと思う。彼女は僕のことを覚えているだろうから、伝えておいてくれないか。僕の親友だから君を幸せにしてくれる。安心していて良いと。それから僕がおめでとうと言っていたことも。まあ、僕が挨拶をするときにも言うけどね」
「分かった。伝えておく」
小川君は機嫌がよかった。それで二人は離れた。振り向くと小川君は、もう次の友人と話している。小川君は真面目で良いやつだ。だから僕の親友だった。間違いなく彼女を幸せにしてくれるだろう。
奈菜は頭のいい女性だ。どういうふうに男の前では振舞ったら良いのかよく分かっている。彼女が今までの経験を生かして、この人だと思って全力で攻略したら相手は間違いなく落ちるだろう。
現に小川君は彼女にメロメロだった。もし、僕が小川君の立場だったら僕も間違いなく落ちていただろう。あのホクロに気が付くまではそうだったから。
女性は奥が深い。僕は選ばれなかったということだ。好きになるよりも好きになられることの方が難しいのかもしれない。
◆ ◆ ◆
6月末の休日に行われた結婚式と披露宴に僕は帰省して出席した。ウエディング姿の奈菜はとても清楚で綺麗だった。小川君がうらやましかった。
その恨みつらみを友人の挨拶で話した。僕は新婦にお見合いで断られたことも話した。小川君がうらやましいとも話した。それを奈菜は嬉しそうに聞いていてくれた。
本当に彼女には幸せになってほしい。さようなら。言いようもない空しさを胸にしまって、僕は帰りの新幹線に乗り込んだ。
9月に入って、社員食堂で遅い昼食をとっていると、小森君が隣に座った。小森君は僕の同期入社で事務系だった。研修期間に同室になって2か月過ごした。
彼は有名国立大学の出身でいかにも頭が良さそうだった。地方大学出身の僕は引け目を感じていたが、彼は僕を見下すようなこともなく同期として対等に接してくれた。
なぜか二人は馬が合った。研修中の休みの日には二人とも経験がないことが分かったので、相談して風俗にも行ってみた。また、よく飲みにも行った。
研修が終わってそれぞれ別の部門に配属されたが、仕事で困ったことや悩み事があったときにはお互いに相談し合っていた。僕は理系なので張り合うこともなかったのだと思う。彼は事務系の同期はお互いにライバル意識が強くて仲がよくないので頼りにならないとよく愚痴っていた。
今は企画部にいたはずだ。まあ、エリートコースを歩いていると言っても良いと思う。2か月前くらいに結婚したと聞いていた。結婚式は内輪だけで済ませたようで、式に招待されることもなかった。
このごろはこういう結婚が増えているようだ。式も挙げないで婚姻届けだけ出したという話をよく聞く。確かに招待されればご祝儀も必要なので余計な出費になる。独身の部下が多くいる上司は大変だろう。親しくない人の結婚式に義理で招待されるのは迷惑以外のなにものでもない。
「お久ぶり、忙しそうだね」
「ああ、いくつも案件を抱えていて、結構忙しい」
「結婚したと聞いたけど」
「2か月前に両家族だけ集まって内輪で結婚式を挙げた。それから籍を入れて、会社には事後報告にした」
「新婚旅行には行かなかったのか?」
「ああ、仕事が立て混んでいてね。夏休みに新婚旅行を兼ねて海外へ行こうと計画しているところだ」
「奥さんはそれで良いと言っているのか?」
「彼女の方からそうした方が良いと言ってくれた」
「良い奥さんだな」
「ああ、彼女はいろいろと苦労しているから、僕と結婚できたのでそれで十分と言っている」
「のろけるなよ。どこで知り合ったんだ?」
「今年になってすぐだった。関連会社の経営状況を1か月ほど調査に行った時に、そこの幹部が気をつかって彼女をアシスタントにつけてくれた」
「企画部だとやっぱり待遇が違うね。どうせ親会社風を吹かせて、彼女をいいようにしたんじゃないのか?」
「僕がそういうことをしないことは植田君が一番知っていると思うけど」
「ごめん、冗談だ。うらやましくてね。小森君が見初めたのだからいい娘なんだろう」
「ああ、地方の国立大学を出て情報関係の会社に就職していたのだそうだけど、セクハラで会社を辞めて、その関連会社に派遣社員として勤めていた。可愛いし気が利くし頭もいいので気に入って交際を申し込んだ。それで4か月ほどでプロポーズして2か月前に式を挙げて入籍した」
「それって、やっぱり交際を強いるセクハラじゃないのか?」
「そんなことは絶対にない。僕はその心配があったので、何度も仕事とは関係ないと念を押した」
「でもよく結婚を決心したね」
「この人以外にはいないと思った」
「そうか、やっぱりこの人しかいないと思うのか。僕はここのところお見合いを何度かしたけど、うまくいっていない。僕が優柔不断なのか、その決心ができていない」
「今週の土曜日に僕の家へ来ないか? 披露宴もしていないし、丁度、嫁の親友が遊びに来ることになっている。紹介してやるよ。彼女は嫁と同じ派遣社員として同じ会社で働いているそうだ。いろいろ悩みを打ち分け合って僕との交際についても相談していたと言うから。もちろん独身だ。歳も嫁と同じくらいと言っていたから」
「まあ、その人のことはともかく、小森君がどういう人を選んだか知りたいので、ご招待に預かるよ。何時に行けばいい?」
「4時ごろに来てくれればいい。3時にその友人が来て一緒に料理を作るそうだ」
「分かった。今の住所を教えてほしい」
小森君がどんな結婚相手を選んだのか楽しみだった。
土曜日の午後3時半過ぎに二子玉川に着いた。駅前でケーキと赤と白のワインを買った。教えられた住所のマンションへ行くとタワーマンションだった。
親が頭金を出してくれたと言っていた。小森君の親は裕福みたいだ。だから彼はどこかおっとりして性格も良いのかもしれない。
4時5分前にエントランスの玄関ボードから1720号室へ連絡を入れる。名前を告げると女性の声がしてエントランスのドア―のロックが外れた。エレベーターに乗って17階の部屋の前まで来た。廊下は内側にあるので外の景色は見えない。ドアのチャイムを押すとドアが開いて小森君が迎えてくれた。すぐに手土産を渡して招待のお礼を言った。
案内されてリビングへ向かう。2LDKの作りでオール電化だとか、二人で住むには十分過ぎる広さがある。こんな素敵なマンションで可愛いお嫁さんと新婚生活を送っている小森君がうらやましい。
リビングのキッチンから女性が出てきた。どこかで見た顔だった。すぐに思い出した。あの飯塚奈緒だった。彼女が小森君の奥さんだったのか? 小森君も僕の驚いている様子が分かったとみえる。
「植田君、紹介しよう。こちらが僕の奥さんの親友の飯塚奈緒さんだ」
「ああ、植田です。お久しぶりです」
「えっ、あなたがご主人の同期のお友達? 会社が同じなのは気が付いていましたが、まさかと驚きました」
「顔見知りなのか、二人は?」
「まあ、以前に会ったことがあります」
「こんなところでお会いするとは思いもしませんでした」
「じゃあ、改めて紹介する必要もないね」
「ああ」
「紹介する。こちらが妻の由美です」
「由美です。主人がいつもお世話になっております。今日はわざわざおいでくださってありがとうございます。ごゆっくりなさってください。お友達の飯塚さんとお知り合いと聞いて驚きました。世の中狭いですね」
「ええ、僕も本当に驚きました」
奈緒はキッチンへ入って由美さんの料理を手伝っている。僕と小森君はソファーに座ってその様子を眺めている。小森君は二人の関係を聞きたいようだったが、二人の間の不自然な空気を感じたようで、あえて聞いてこなかった。それが小森君の良いところだ。
小森君は間が持たないとみたのか、ベランダに誘ってくれて、そこから見える景色を案内してくれた。17階だと結構遠くまで見える。いい景色だ。
由美さんも大切にしてくれる夫と二人だけでここに住んでいたら新婚旅行にこだわる理由などないだろう。料理している表情は幸せにあふれていた。奈緒は何か考えているのか浮かない表情をしていた。
5時少し前には料理がテーブルに並んだ。持ってきた赤と白のワインも準備されていた。まず、白ワインをそれぞれのグラスに注いで乾杯した。
僕たち二人の気まずい空気を察して、由美さんが僕に話かけて来た。小森君が選んだだけあって、気配りのできる女性だ。夫のお客が気まずくならないように一生懸命に気を使ってくれている。
「奈緒さんと私は派遣先で知り合いました。お互いに派遣社員だったので気が合いました。性格が似ているのかもしれません。随分相談に乗ってもらいました。夫から交際を申し込まれた時も相談しました。夫のような親会社のエリートが私のような女を気に入ってくれるとは思えませんでしたので、遊びだと思ったからです」
「それで飯塚さんはなんと?」
「自分の気持ちに正直に従えばいいと言ってくれました。後悔しないようにと。私は自分に正直になれなくて、一歩が踏みだせなかったから、後悔していると。私は夫が好きでしたので、あとで後悔しないようにと、その助言に従いました」
「由美は前の会社で信頼している人に裏切られたり、セクハラに合ったりしていて、男性不信になっていた。だから僕が何度交際をお願いしても受け入れてもらえなかった。奈緒さんの助言がなければ今の僕たちはなかった」
「そんなことはありません。由美さんの意思が強かったからです。私はとてもおよびません」
「飯塚さんはどうして前の会社を辞められたのですか? 確か金融機関に勤められていましたね」
「実は結婚が決まったので先方の希望で退職しました」
「今は独身というと、離婚した?」
「いえ、婚約していたのですが、破談になりました」
「そうでしたか、ご縁がなかったのですね」
「そうかもしれません」
「それで、派遣社員になってまた働き始めたということですか?」
「そこで由美さんと知り合って親しくなりました。私も由美さんには随分励ましてもらいました」
奈緒のことが気になってならなかった。始めは小森君の奥さんかと思ったし、次は離婚したのかと思ったが、いずれもそうではなかった。内心ほっとしたのは、まだ奈緒に相当未練があるからだと思った。
料理は6品ほどあった。3品は由美さんが、3品は奈緒が作ったと聞いた。いずれの料理も味付けがよくて美味しかった。
4人ですべて食べ尽くした。僕が持って行ったワイン2本は空になっていた。奈緒も飲んでいた。あのころよりも柔らかくなったというか少し角がとれた印象だ。
8時前に僕と奈緒はお暇することにした。少しだけアルコールが回って気持ち良くなっている。部屋の前で挨拶をして二人は帰った。