お母さんの背中は、わたしの特等席だ。
すごくすごく大きくて、すごくすごく温かい。ついつい居眠りしたくなる優しい背中。
わたしは買い物の途中に、一緒に出かけた登山の途中に、近所の土手を歩いている途中に、いつもちょっとだけ嘘をつく。「ねぇ、お母さん。疲れたから、おんぶして」って。ほんとはちっとも疲れてないのに、そんなふうに嘘をつくんだ。
お母さんは嫌な顔ひとつしないで「いいよ」と笑ってしゃがんでくれる。だからわたしは飛びつくように、わたしの特等席にしがみつくんだ。
でも、お母さんは言った。
「いつか大きくなったそのときは、おんぶは卒業しなきゃいけないよ」って。
そんなふうに言われることが悲しかった。
あと何年、何ヶ月、何日、ここにいられるのかな。
そんなことを思いながら、わたしはお母さんの背中で目を閉じた。
ずっとずっと、ここにいたいなって願いながら。
いつまでもいつまでも、ここがわたしの居場所でありますようにって願いながら。
だけど、あっという間に卒業することになっちゃったね。
わたしはすぐに失った。
あの大きくて温かい、世界で一番の、わたしだけの特等席を……。
✿
鎌倉の春の朝は七色の輝きに満ち溢れている。海辺をゆく江ノ電の車窓の向こうに広がる太平洋は、新鮮な太陽の光を浴びて、万華鏡のように一瞬一瞬にその色を変化させている。幾千、幾万、幾億の光が乱反射して、上空に浮かぶ雲の縁を柔らかなレモンイエローに染め上げると、その甘やかな色を目指すように海鳥たちが風に乗って空高くまで舞い上がってゆくのが見えた。
毎朝この景色を眺めることが、新木真歩にとって至福の時間のひとつだった。
ドアの脇に立ち、窓ガラスに朽葉色のブレザーの肩を預け、ぼーっとのんびり海を眺める。春の日差しが今日はやけに温かかった。つい一時間ほど前まで、ビルが偉そうに聳える大都会・東京にいたとは思えないほど豊かで長閑な風景だ。
同じ車両には、彼女が通う聖廉学園中等部の生徒たちが大勢いる。九人掛けのロングシートでは、ひとつ年下の二年生の女子たちが推しのアイドルの話で盛り上がっている。車両の後方では制服をだらしなく着たバレー部の男子たちがじゃれ合いながら笑っている。今日は朝練がないようだ。ああ、そうか。明後日は卒業式だ。体育館は式の準備で占拠されているんだった。真歩は心の中でポンと手を叩いた。
クリーム色と深緑色のレトロな車両が海辺のホームにゆっくり停車すると、生徒たちがぞろぞろと降りていった。真歩もそのあとに続いた。
バスケットボール漫画の聖地と言われる踏切を背に山の方へと歩いていると、「新木、おはよう!」と肩をポンと叩かれた。中学三年生にしては少し大人びた顔をした同級生の志田純也だ。かつてはソフトテニス部で副部長をしていたが、早々に引退して今は髪がかなり長い。わたしとしては短髪のときの方が、まぁまぁ、なかなか、結構、タイプだったんだけどな……と、真歩は彼に隠れてこっそり思った。
「いよいよ明後日だな、卒業式。ドキドキしてきた?」
「ドキドキ? どうして?」
「挨拶だよ、挨拶。卒業生代表の」
「ううん、まだ全然」
「へぇ、随分と余裕だな」
「余裕なんてないよ。実感が湧かないだけ。本当にわたしでよかったのかなぁ」
「当たり前だろ。なんせ新木は神奈川ビブリオバトルで準優勝してるんだから」
「あれはたまたま。ほら、わたしって通学時間が長いでしょ? 一時間半もあるから、たくさん本を読めただけだよ」
「遜謙すんなって。それだけじゃ準優勝はできないよ。代表に選ばれたのだって、人前で物怖じせずに堂々と話せるところを評価されたんだ。挨拶、期待してるよ」
「それプレッシャー」
「悪い悪い。原稿は? もうできたの?」
「うん。昨日ようやく先生にオッケーもらえた」
「どんな内容?」
「それは内緒。当日までのお楽しみ。なんてね、当たり障りない内容だよ。『晴れ渡るこの素晴らしい日に、わたしたちは卒業をすることができます』みたいな」
「雨だったらどうするの?」
「縁起でもないこと言わないで」
「だな」と彼は片目を閉じて顔の前で軽く手を合わせた。
「でも、マジで誇らしいよ。同じクラスの学級委員の相方が代表で挨拶するだなんて。明後日は俺の方が緊張しそうだなぁ」
相方か……。その言葉がじんわり胸に広がった。坂を上る足も心なしか軽やかだ。
真歩たちが通う中学校は、駅から続く急峻な坂道を上ったその先にある。息を切らしてやっとの思いで坂を上ると、そこからさらに百段の石段が続く。上り切って、ようやく校舎に辿り着けるのだ。教職員たちは少し離れた裏手の坂道を車で上ることができるが、生徒たちは雨の日も、風の日も、嵐の日も、この階段を自らの足で上らなければならない。それが学校のしきたりだ。
幼い頃の母との登山経験によって足腰には多少の自信があった真歩だったが、三年前の入学試験の際には、この階段を前にして思わず踵を返しそうになった。しかし帰るわけにはいかない。どうしても合格したい。
生徒の自主性を重んじる校風に心惹かれたこともあるが、彼女は〝とある理由〞でこの学校を志望していた。
それは、家から遠く離れていたからだ。
「あ〜疲れた! マジで辛い!」
弱音を吐きながら、ひいひい言いながら、よろめきながら階段を上る純也。一方、後ろに続く真歩は余裕だ。少し汗ばむ程度で息もほとんど上がっていない。
「部活引退してから全然運動してないんでしょ」とからかうと、彼は「バレたか。最近ゲームばっかりだ」と苦笑いしていた。そんなささやかなやりとりが今日も楽しい。
駅から学校までの十五分間は、誰にも邪魔されたくない至福の時間のもうひとつだ。
「ほらほら志田君、頑張って。この階段も明後日でおしまいだよ」
高等部の校舎は隣町にある。いよいよ平地に移動できる。
石段の脇にはソメイヨシノが段に沿うようにして植わっており、枝では眠そうな花たちが目を擦っている。
まだ七分咲きといったところだろうか。例年よりも気温が低いせいで、花はいつまでも蕾という名の布団の中に閉じこもっているみたいだった。
「だけど、親御さんも誇らしいよな」
前をゆく純也が荒い呼気に声を交じらせながら言った。真歩は足を止めそうになった。「どうして?」と訊ねると、彼は首だけで振り返って、
「だって娘が卒業生代表だもん。そりゃあ誇らしいだろ。当日は来るんだろ? 新木のお母さん」
「どうかな……。仕事、忙しいみたいだから」
「子供の卒業式だぜ? 普通は来るだろ。てか、来てほしい」
「来てほしい? どうして?」
「だって俺、新木のお母さんに会ってみたいし」
「なんで会ってみたいのよ」
「だってほら、まだ一回も学校に来たことないだろ?俺ら三年間一緒のクラスだけど、授業参観は毎年忙しくて来られなかったじゃん。だからなんか興味あってさ」
「そんなこと言ったら、志田君のお母さんだって。わたしは一度も見たことないよ?」
「うちの母さんはどこにでもいる普通の人だよ。見たって面白くないさ。でも新木のお母さんは違う気がするな。きっとスゲー綺麗だろうし」
本当だったら嬉しい言葉なのだろう。暗に真歩のことを綺麗だと褒めているのだから。しかし彼女の心には届いていない。動揺で胸がざわめいていた。
「うちだってそうだよ」
真歩はやっとの思いで言葉を紡いだ。
「うちのお母さんも、どこにでもいる普通のお母さんだよ……」
そう言って曖昧に笑うと、彼を追い越して階段を上った。そして一番上で踵を返す。高台に位置するこの場所からは朝日に染まる湘南の海と街がよく見える。うんと綺麗な風景だ。しかし今日は美しいとは思えなかった。真歩の心のざわめきが、この世界の色を鈍色に変えてしまっていた。
すごくすごく大きくて、すごくすごく温かい。ついつい居眠りしたくなる優しい背中。
わたしは買い物の途中に、一緒に出かけた登山の途中に、近所の土手を歩いている途中に、いつもちょっとだけ嘘をつく。「ねぇ、お母さん。疲れたから、おんぶして」って。ほんとはちっとも疲れてないのに、そんなふうに嘘をつくんだ。
お母さんは嫌な顔ひとつしないで「いいよ」と笑ってしゃがんでくれる。だからわたしは飛びつくように、わたしの特等席にしがみつくんだ。
でも、お母さんは言った。
「いつか大きくなったそのときは、おんぶは卒業しなきゃいけないよ」って。
そんなふうに言われることが悲しかった。
あと何年、何ヶ月、何日、ここにいられるのかな。
そんなことを思いながら、わたしはお母さんの背中で目を閉じた。
ずっとずっと、ここにいたいなって願いながら。
いつまでもいつまでも、ここがわたしの居場所でありますようにって願いながら。
だけど、あっという間に卒業することになっちゃったね。
わたしはすぐに失った。
あの大きくて温かい、世界で一番の、わたしだけの特等席を……。
✿
鎌倉の春の朝は七色の輝きに満ち溢れている。海辺をゆく江ノ電の車窓の向こうに広がる太平洋は、新鮮な太陽の光を浴びて、万華鏡のように一瞬一瞬にその色を変化させている。幾千、幾万、幾億の光が乱反射して、上空に浮かぶ雲の縁を柔らかなレモンイエローに染め上げると、その甘やかな色を目指すように海鳥たちが風に乗って空高くまで舞い上がってゆくのが見えた。
毎朝この景色を眺めることが、新木真歩にとって至福の時間のひとつだった。
ドアの脇に立ち、窓ガラスに朽葉色のブレザーの肩を預け、ぼーっとのんびり海を眺める。春の日差しが今日はやけに温かかった。つい一時間ほど前まで、ビルが偉そうに聳える大都会・東京にいたとは思えないほど豊かで長閑な風景だ。
同じ車両には、彼女が通う聖廉学園中等部の生徒たちが大勢いる。九人掛けのロングシートでは、ひとつ年下の二年生の女子たちが推しのアイドルの話で盛り上がっている。車両の後方では制服をだらしなく着たバレー部の男子たちがじゃれ合いながら笑っている。今日は朝練がないようだ。ああ、そうか。明後日は卒業式だ。体育館は式の準備で占拠されているんだった。真歩は心の中でポンと手を叩いた。
クリーム色と深緑色のレトロな車両が海辺のホームにゆっくり停車すると、生徒たちがぞろぞろと降りていった。真歩もそのあとに続いた。
バスケットボール漫画の聖地と言われる踏切を背に山の方へと歩いていると、「新木、おはよう!」と肩をポンと叩かれた。中学三年生にしては少し大人びた顔をした同級生の志田純也だ。かつてはソフトテニス部で副部長をしていたが、早々に引退して今は髪がかなり長い。わたしとしては短髪のときの方が、まぁまぁ、なかなか、結構、タイプだったんだけどな……と、真歩は彼に隠れてこっそり思った。
「いよいよ明後日だな、卒業式。ドキドキしてきた?」
「ドキドキ? どうして?」
「挨拶だよ、挨拶。卒業生代表の」
「ううん、まだ全然」
「へぇ、随分と余裕だな」
「余裕なんてないよ。実感が湧かないだけ。本当にわたしでよかったのかなぁ」
「当たり前だろ。なんせ新木は神奈川ビブリオバトルで準優勝してるんだから」
「あれはたまたま。ほら、わたしって通学時間が長いでしょ? 一時間半もあるから、たくさん本を読めただけだよ」
「遜謙すんなって。それだけじゃ準優勝はできないよ。代表に選ばれたのだって、人前で物怖じせずに堂々と話せるところを評価されたんだ。挨拶、期待してるよ」
「それプレッシャー」
「悪い悪い。原稿は? もうできたの?」
「うん。昨日ようやく先生にオッケーもらえた」
「どんな内容?」
「それは内緒。当日までのお楽しみ。なんてね、当たり障りない内容だよ。『晴れ渡るこの素晴らしい日に、わたしたちは卒業をすることができます』みたいな」
「雨だったらどうするの?」
「縁起でもないこと言わないで」
「だな」と彼は片目を閉じて顔の前で軽く手を合わせた。
「でも、マジで誇らしいよ。同じクラスの学級委員の相方が代表で挨拶するだなんて。明後日は俺の方が緊張しそうだなぁ」
相方か……。その言葉がじんわり胸に広がった。坂を上る足も心なしか軽やかだ。
真歩たちが通う中学校は、駅から続く急峻な坂道を上ったその先にある。息を切らしてやっとの思いで坂を上ると、そこからさらに百段の石段が続く。上り切って、ようやく校舎に辿り着けるのだ。教職員たちは少し離れた裏手の坂道を車で上ることができるが、生徒たちは雨の日も、風の日も、嵐の日も、この階段を自らの足で上らなければならない。それが学校のしきたりだ。
幼い頃の母との登山経験によって足腰には多少の自信があった真歩だったが、三年前の入学試験の際には、この階段を前にして思わず踵を返しそうになった。しかし帰るわけにはいかない。どうしても合格したい。
生徒の自主性を重んじる校風に心惹かれたこともあるが、彼女は〝とある理由〞でこの学校を志望していた。
それは、家から遠く離れていたからだ。
「あ〜疲れた! マジで辛い!」
弱音を吐きながら、ひいひい言いながら、よろめきながら階段を上る純也。一方、後ろに続く真歩は余裕だ。少し汗ばむ程度で息もほとんど上がっていない。
「部活引退してから全然運動してないんでしょ」とからかうと、彼は「バレたか。最近ゲームばっかりだ」と苦笑いしていた。そんなささやかなやりとりが今日も楽しい。
駅から学校までの十五分間は、誰にも邪魔されたくない至福の時間のもうひとつだ。
「ほらほら志田君、頑張って。この階段も明後日でおしまいだよ」
高等部の校舎は隣町にある。いよいよ平地に移動できる。
石段の脇にはソメイヨシノが段に沿うようにして植わっており、枝では眠そうな花たちが目を擦っている。
まだ七分咲きといったところだろうか。例年よりも気温が低いせいで、花はいつまでも蕾という名の布団の中に閉じこもっているみたいだった。
「だけど、親御さんも誇らしいよな」
前をゆく純也が荒い呼気に声を交じらせながら言った。真歩は足を止めそうになった。「どうして?」と訊ねると、彼は首だけで振り返って、
「だって娘が卒業生代表だもん。そりゃあ誇らしいだろ。当日は来るんだろ? 新木のお母さん」
「どうかな……。仕事、忙しいみたいだから」
「子供の卒業式だぜ? 普通は来るだろ。てか、来てほしい」
「来てほしい? どうして?」
「だって俺、新木のお母さんに会ってみたいし」
「なんで会ってみたいのよ」
「だってほら、まだ一回も学校に来たことないだろ?俺ら三年間一緒のクラスだけど、授業参観は毎年忙しくて来られなかったじゃん。だからなんか興味あってさ」
「そんなこと言ったら、志田君のお母さんだって。わたしは一度も見たことないよ?」
「うちの母さんはどこにでもいる普通の人だよ。見たって面白くないさ。でも新木のお母さんは違う気がするな。きっとスゲー綺麗だろうし」
本当だったら嬉しい言葉なのだろう。暗に真歩のことを綺麗だと褒めているのだから。しかし彼女の心には届いていない。動揺で胸がざわめいていた。
「うちだってそうだよ」
真歩はやっとの思いで言葉を紡いだ。
「うちのお母さんも、どこにでもいる普通のお母さんだよ……」
そう言って曖昧に笑うと、彼を追い越して階段を上った。そして一番上で踵を返す。高台に位置するこの場所からは朝日に染まる湘南の海と街がよく見える。うんと綺麗な風景だ。しかし今日は美しいとは思えなかった。真歩の心のざわめきが、この世界の色を鈍色に変えてしまっていた。