彼が我が家にやって来たのは、一月最後の日曜日だった。
呼び鈴が鳴り、テレビドアホンを見る。線の細いブレザー姿の男の子が映っていた。
「斎藤圭介と申します。美穂さんと同じ慶明学園高校の一年生です。お線香をあげさせて下さい」
遅すぎるという苛立ちと、来てくれたという喜びで、全身が粟立つ。
妹の美穂が私鉄のホームから転落したのはひと月前、去年のクリスマスイブのことだった。商社勤務で中央アジアに駐在している父と、去年の春から帯同している母の帰国を待ち、年の瀬に慌ただしく荼毘に付した。葬儀の後、日本に残ろうかとつぶやく母に「私は一人で大丈夫。お父さんを支えてあげて」と言い聞かせた。躊躇いつつ、母は中央アジアに戻っていった。
「とりあえず中に入って。そんな格好、近所に見られたらどう思われるかわからないでしょ」
圭介はそれでも同じ姿勢を崩さなかった。いいから早く、と手を引いて、ドアを閉める。よろけた彼が私に倒れ込みかけた。切れ長の目、整った鼻筋、薄い唇。近づいた顔を見て、美穂の美的センスは悪くないな、とまた思う。
「……美穂……さんのお姉さんですよね。ご両親は?」
「海外。このマンションで暮らしているのは私だけ」
「まずくありませんか? 僕、一応、男ですし……」
「亡くなった恋人に線香をあげにきて、その姉に欲情する変態と、妹が交際していたとは思いたくないな」
「そんな気は微塵もありません」
「当たり前でしょ。警察に捕まる前に、美穂に呪い殺される」
「……はい」
「お葬式にも来なかった恋人のことを、とっくに恨んでいるかもしれないしね」
「……本当に申し訳ありません」
「事情は後で聴くから、まずはお線香あげてやって」
まだ仏壇はない。遺影と遺骨は、白い布で覆われた机の上に置かれている。圭介は座布団に正座した。線香に火をつける彼に目をやり、美穂の遺影に視線を移す。抜けるような白い肌、まだ伸びる前の黒い髪。薄紅色の整った唇は、圭介に優しくふさいでもらえたのだろうか。
「コーヒー、紅茶? 緑茶もあるよ」
「いえ、おかまいなく」
圭介の声を聞き流し、キッチンで湯を沸かす。匙ですくってマグカップにコーヒーの粉を入れた。
「――で、どんな言い訳を聞かせてくれるの?」
向かいに座った啓介に、カップを差し出す。彼はしばらく黙っていた。
「……怖かったんです」
「何が?」
また圭介が黙り込む。線香の煙に仏花の匂いが溶け込んで、室内はむせるように甘い。たっぷり三分は待っただろう。彼は重い口を開いた。
「……美穂さんは、僕のせいで自殺したんじゃないかって」
あの日、私は隣町にある市営の屋内プールで泳いでいた。私学と違い、私の通う県立高には、屋外にしかプールがない。だからオフシーズンの水泳部は、筋トレが中心になる。
五歳からスイミングに通い、中学時代も水泳部に所属した。国体出場経験のある顧問から「筋トレでついた筋肉は柔軟性に欠ける。スイマーは泳ぎながら鍛えるのがベストなんだ」と教わった。
クリスマスイブといっても、恋人がいない私には、普段と変わらぬ土曜日だ。コンビニのバイトを六時半で終え、そのまま自転車でプールに向かった。
二時間で十キロ泳ぎ、パーカーに着替えたところでスマホの着信履歴に気がついた。末尾が「0110」の番号が八時過ぎから計四回。私に電話をかけてくる友だちは多くない。ましてや見知らぬ番号だ。短い髪を乾かしながら、無視しようと思った瞬間、胸騒ぎがした。
美穂のことだ。
理由なく、直感した。
「デートで帰りは遅くなる」
昼、そう言って家を出て行った。番号をタップする。何度か呼び出し音が続いた後、「はい、武蔵台警察署です」と乾いた声が耳に響いた。
自宅まで引き返し、自転車を置いて、最寄り駅から下りの私鉄に乗る。JRと交差する武蔵台駅までは十五分だ。底冷えのする夜だった。警察署にたどり着くと、すでに十時を回っていた。入口の警察官に生徒手帳を差し出し、「さっき電話した高見沢美穂の姉です」と名乗った。
受付前でしばらく待つ。制服姿の女性警察官が階段を下りてきた。恰幅が良く、年の頃は母と同じぐらいだろうか。
「生活安全課巡査部長の鈴原明子といいます」
そう名乗った警察官の後ろには、中年の男性と、若い女性が立っていた。女性は目を真っ赤に腫らしている。慶明学園の教頭と担任だった。
「ご両親は海外だと伺いました。緊急連絡先の携帯番号も、先生から。身近なご家族がお姉さんだけなので、心苦しいのだけれども、確認してほしいことがあり、夜遅くですがお呼びしました」
教師二人をその場に残し、鈴原さんに促され、地下一階の安置室に立ち入った。教室の半分ぐらいの空間に、ベッドが一つ置かれている。白いシーツが人の形に盛り上がっていた。まがまがしい。
「打ちどころは悪くありませんでした。お顔はほとんど無傷です」
鈴原さんが白い布の両端に手を掛ける。「いいですか?」
黙ってうなずく。ゆっくりと布が取り払われ、小さな顔が現れた。
――妹です。
そう答えたところで、緊張の糸がぷつんと切れた。倒れかけた私の体を、鈴原さんが支えてくれる。それからしばらくの記憶がない。
気がつくと、署内のソファに寝かされていた。時計の針は十二時近くをさしている。傍らに鈴原さんの困惑交じりの笑顔があった。毛布から半身を起こし、えずくように泣く私を、優しく抱き締め、背中をさすり続けてくれた。
「僕が警察署から解放されたのは、お姉さんが寝ていた頃だと思います」
圭介がポツリと言った。あの日、昼過ぎに美穂と落ちあい、武蔵台のシネコンで恋愛映画を観たという。
彼の自宅はJRの沿線だ。武蔵台にはよくデートで訪れたという。駅周辺にはタワーマンションや洒落たショッピングモールが立ち並んでいる。つきあって一年に満たない高校生のデート場所としては、手頃だったに違いない。
「美穂の様子はどうだった?」
「普段とまったく変わりませんでした」
圭介が端正な顔をゆがめる。
「シネコンを出て、モールを巡り、最上階のイタリアンでディナーをしました」
「随分大人なデートだね」
「初めてのイブでしたから……。それにイタリアンと言っても、一人三千円ぐらいです」
「高校生には十分贅沢だよ。それから?」
「レストランでプレゼントを交換し、夜景を見ながら武蔵台駅に続くペデストリアンデッキを歩きました。それで美穂……さんと」
「いいよ、呼び捨てで」
「……わかりました。美穂と思い出話をしました。中学は別々ですから、僕らが知り合ったのは慶明学園に受かった去年の春です。僕の一目ぼれでした。クラスだけでなく、部活も同じ文芸部。一緒にいればいるほど、美穂に惹かれていきました。告白したのは五月の連休後です」
「まだそんなに時間も経っていないのに、思い切ったね」
彼はそこで言い淀む。私は黙って言葉を待った。
「……ウェブ小説って、知っていますか?」
「ウェブ小説?」
「はい。ネット上に、小説を投稿できるサイトがあるんです」
確か二年ほど前のことだ。夕食時、美穂がそんな話をしていた覚えがある。あなたも投稿しているの、と母が訊くと、はにかんで首を振った。
「私にそんな文才はないよ。たまに読むだけ。でもね、ペンネームだからはっきりとはわからないけど、同世代らしき作者の中にも、すごい小説を書く人がいるんだ」
母はふうん、と相槌を打ち、私は聞き流した。それ以上、その話題は深まらなかった。
美穂は本の虫だった。最初は寝物語に母に聴かされた絵本や童話。小学校に上がると、図書室で小説を借りてきた。書店にも足しげく通っていた。
読書の影響もあるのだろう。美穂は勉強がよくできた。私は何かと比較され、肩身の狭い思いをしてきた。進学校の慶明に行きたいと言い出したのは、美穂自身だ。
「あなたも目指す?」
中学三年生の秋、母に訊かれた。その夏、県大会に進んだ私は、百メートル平泳ぎで大会新を出し、部活を引退していた。まだ日焼けが残る両腕を、母に差し出し、「今から慶明に受かるわけないでしょ」と笑ってみせた。
そもそも学力不足だけれど、それとは別に、美穂とは違う高校に進みたいと思っていた。私たちは決して不仲に見えなかっただろう。ただ内心、家でも学校でも、妹と比べられることにうんざりしていた。
「スポーツ少女の姉」と「優等生の妹」。
そんなふうにワンセットで語られるのが苦痛だった。
親や先生、友だちに悪気がないのは分かっている。でも美穂は美穂。私は私だ。姉妹だけれども、決してひとくくりの存在ではない。
思春期に差し掛かり、自分が「女」であると意識し始めた頃、その苛立ちに切り立つような断面が加わった。小学校高学年から中学校にかけて、美穂は異性にひどくモテた。後天的な能力ではなく、生まれながらに備えられた女性性。そんな生得的な部分まで、美穂と比べられるのは耐えられない。
「去年の五月、あるウェブ小説のコンテストで入賞したんです」
圭介が語り続ける。彼もまた、本が好きで、中学生の頃から作品を投稿していたそうだ。美穂が口にしていた「同世代ですごい小説を書く人」。それが圭介を指していたのか、もっと抽象的なニュアンスだったのか、今となっては確かめようがない。
ペンネームで投稿していた圭介は、入賞があまりに嬉しく、美穂にだけ、その事実を伝えたそうだ。「好きだ」という言葉を添えて。
中学時代の美穂を気に入っていた男の子たちは、私が知る範囲でも両手に余る。全員が運動部に籍を置くスポーツ少年だった。美穂の趣味は小説だ。結局、誰ともつきあわず、中学校を卒業し、慶明に進学した。
そこでタイプの異なる圭介と出会う。ほぼ同じタイミングで、彼はコンテストに入賞し、想いを告げた。二人が交際したのは、ある種の運命だったのだ。
恋を覚えた妹は、私がよく知る美穂とは別人のようだった。二人で撮った写真を見せ、「圭介っていうんだ。すごいんだよ。もういくつも自分で小説書いていて、将来は作家になりたいんだって」とはしゃいでいた。
良かったね、と笑顔を作り、私は内心、邪悪な思いを抱いていた。
壊れればいい。
捨てられて、涙が枯れ果てるまで、泣けばいい。
美穂、あなたはそんなに姉を否定したいんだ。あなたのように、私は可愛い衣服をまとえない。上手に異性にはにかむことも不可能だ。思春期を迎え、あなたは見た目も心も急速に「女」になっていく。か弱いあなたを支え続けた私のことを、置き去りにして。
休みの日にもコンビニでレジを打ち、勉強は不得意で、想ってくれる相手もいない。ただ他人より、少し速く泳げるだけの、女子高生。
私は今、女として、あなたの遥か下にいる。にもかかわらず、まだ姉として上にいるような振る舞いをやめられない。
きっと、とっくに見透かされている。見透かしたうえで、あなたは変わらず私を慕うふりをしている。
死にたいほどの屈辱だ。妹に情けをかけられる。あからさまに蔑まれるより、それは遥かに痛みを与えるものだ。
「……七時過ぎだったと思います。別れがたくて、僕と美穂は武蔵台駅の改札前で、手をつなぎながら思い出話を続けていました」
圭介は、うつろな視線をマグカップに向けている。
「その時も、美穂に変わったところはありませんでした。恥ずかしいですが、自分が好かれていることを、彼女の言葉の端々から感じていたほどです。ところがいきなり、美穂は僕の手を振り払い、『圭介とはもう別れる!』と言い出しました。改札口に向かって駆け出す美穂を追いかけ、何でだよ、と声を掛けました。でも取りつく島もありません。背後から右手で肩をつかむと、一瞬、彼女が振り向いたんです。声を失いました。美穂は目を真っ赤に腫らし、唇を白くなるほど噛みしめながら、泣いていたんです……」
立ちすくむ彼を残し、美穂は二度と振り返らず、改札の向こう側へと消えていった。
葬儀翌日、十二月三十日の夜、両親と武蔵台警察署に足を運んだ。捜査はその日までに打ち切られていた。
鈴原巡査部長と、生活安全課の係長という男性警察官が、結果のあらましを教えてくれた。
「ホームのカメラには、黄色い線の上をよろよろと歩く美穂さんが映っていました。躓いたようにも、自分から身を投げたようにも見える。映像だけでは、事故か自殺か、微妙なところです。ただ、遺書は見つかりませんでした。直前まで一緒にいた恋人からも話を聞いています。『泣いていた』と証言しました。でも、喧嘩したわけではないとも言う。彼が突き落としたのではないことは、改札口付近を捉えた別の映像からも間違いありません」
慶明学園の教職員や友人にも近況を尋ねたそうだ。いじめも視野に、慎重に調べを進めたらしい。係長から引き取って、鈴原さんが口を開く。
「優等生で、可愛くて、誰にでも優しい。私は長く少年事件を担当していますが、これほど悪評を聴かないケースは珍しいです。美穂さんは、みんなに愛される存在でした」
自殺だとすると動機がない。事件性もない。曖昧なところを残しつつ、警察は事故として処理する判断をしたという。
父と母は、涙ぐみつつ安堵の表情も浮かべていた。愛する娘は誰かに恨まれ、殺されたのではない。自ら命を絶ったわけでもない。そう確認できたことで、少し心が軽くなったのだろう。年ごろの娘を残し、海外に赴任していた後ろめたさもあったに違いない。
鈴原さんと係長に礼を言い、私たちは警察署をあとにした。
「事故だったと、僕も電話で聞かされました。大晦日でしたから、よく覚えています。でも、それはあくまで警察の判断です。やっぱり僕には、自分が美穂を殺してしまったように感じられてなりません……」
圭介が泣いている。溢れた涙が、床に小さな水たまりをつくり、少しずつ面積を広げていった。
「……初めてできた彼女でした」
嗚咽しながら、圭介が言葉を絞り出す。
「一目見た瞬間に、この子を好きだと感じました。笑われそうですが、正直に言います。美穂は、僕が賞をもらった小説のヒロインのイメージそのままなんです。小説なんて、ほとんど妄想です。願望の投影です。絶対に存在しないと分かっていながら書きました。でもそのヒロインとそっくりな女の子が、目の前にいたんです」
そこでようやく、ハンカチで目元をぬぐった。
「……きっかけは、確かに見た目でした。だけど同じクラスになり、部活でも一緒に過ごすうち、さらに美穂に惹かれていきました。運動が苦手で、思ったことをなかなか口にできないところも共通でした。コンプレックスというか、人としての弱点みたいなものまで似ている。こんなに分かりあえる誰かがいるんだと、震えるような思いでした」
美穂は圭介に愛されていた。高校で彼と出会い、つきあえたのは、彼女の短い人生の宝物だったに違いない。
「お姉ちゃん、怖いから一緒にきて」
去年三月。慶明学園の合格発表日の朝、美穂にせがまれた。ネットでも見られるんだから、それでいいじゃん、と私は答える。
「ううん、直接この目で確かめたいし、お姉ちゃんにも見てもらいたい」
美穂はかたくなだった。
月末に控えた渡航の準備で忙しく、母はその日、体調を崩していた。
「美穂に付き添ってあげて」
母からも駄目を押され、私はようやく腰を上げた。
同じ制服に着替えながら、美穂を疎ましいと感じていた。何でこんなことぐらい、自分一人でできないのだろう。
母も母だ。美穂のわがままを許容する。これだから、この子はいつまでたっても自分の足で歩けない。
慶明学園までは、電車を乗り継ぎ、小一時間ほどの道のりだった。地下鉄の車窓には、いかにも不機嫌そうな私と、不安げな美穂の姿が映っていた。
その時、前を向いたまま、唐突に美穂が言った。
「お姉ちゃん、私、合格していたら、髪を伸ばすよ」
それはかすむほどの小さな声で、私は聞こえないふりをした。
好きにすればいい。
あなたはあなた、私は私。頼むから、これ以上、苛立たせないでくれないかな。
「ここから先は一人で行って」
慶明の校門で、私は言った。
「どうして? 掲示板まで一緒に来てよ」
「私はここで待っている。合否を確認したら、戻ってきて。一緒に帰ってあげるから」
何度か押し問答を繰り返し、やがて美穂は諦めた。
「……わかった。一人で見てくるから、絶対に待っててね」
小さな背中が人込みに消えていく。
ため息をつき、校門にもたれた。吐き出す息が、白い霧になり、初春の冷えた空気に溶けていく。
寒い。
怒りを含んだそんな言葉が口からこぼれ、何人かの受験生や保護者たちに一瞥された。
十五分ほど待っただろうか。受験票を握り締め、涙ぐんだ美穂が私のもとに駆けてきた。
「受かってた。嬉しい……」
「良かったね」
「高校からは、お姉ちゃんと別々だ」
「まあ、いいんじゃないの?」
「……そうだね。私もそんな気がしている」
帰り道、マクドナルドでささやかな祝杯をあげた。ハンバーガーとポテト、シェイクのセットを二人分。お金は私が支払った。
「お姉ちゃん、今日は本当にありがとう。私、一人じゃ怖くて来られなかったよ」
「もう高校生になるんだから、何でも自分でできるようになるんだよ」
ポテトをつまんで私は諭した。
「わかった。頑張る」
薄く微笑み、美穂は自分のシェイクを差し出した。
「飲まないの? シェイク、好きだったじゃない」
「うん。でもダイエットしようと思ってて」
その時の自分の感情を、今でも鮮明に覚えている。
あれは、私が初めて他人に抱いた「殺意」だった。
「ああ、もうこんな時間ですね。すいません、そろそろおいとまします」
制服のズボンにハンカチを押し込んで、もう一度遺影に目をやり、圭介が立ち上がる。三和土で靴を履きながら、躊躇いがちにつぶやいた。
「……また来てもいいですか?」
「いつでもどうぞ。ただ必ず家にいるとは限らないから、事前に連絡して」
パーカーのポケットからスマホを取り出し、LINEのアプリを立ち上げた。QRコードを表示させ、彼に向ける。圭介が、それを自分のスマホで読み取った。
つながった――声に出さずにそう思う。
「……早いですよね。一月もそろそろ終わり。あと一か月ちょっとで、美穂と出会って一年になります」
圭介が遠い目をしてつぶやいた。
「クリスマスイブの夜、改札前で美穂と最後に話したのも、そんなことでした。三月になれば、あの日から丸一年だね、と」
ああ、そうか。
私には、やっと謎が解けたよ。
美穂が「別れる」と言った理由、そして、死の真相の――。
私の思いは確かに美穂に届いていた。美穂も私に似たような感情を抱いていた。だからこそ、圭介の一言は死に値するほどの恥辱だったのだ。
「LINE、ありがとうございました。真穂さん、でいいんですよね?」
うん。――次からは、もう呼び捨てで構わないから。
「真穂さんとは、何だか初対面だと思えません」
そうだろうね。
「好きになった瞬間の、美穂とそっくりだからなんでしょうね」
私たちは、心まで通じ合う、一卵性双生児なんだ。
「校門で、小さく『寒い』とつぶやいたあの日の美穂は、この世のものとは思えないほど、綺麗でした」
(了)
呼び鈴が鳴り、テレビドアホンを見る。線の細いブレザー姿の男の子が映っていた。
「斎藤圭介と申します。美穂さんと同じ慶明学園高校の一年生です。お線香をあげさせて下さい」
遅すぎるという苛立ちと、来てくれたという喜びで、全身が粟立つ。
妹の美穂が私鉄のホームから転落したのはひと月前、去年のクリスマスイブのことだった。商社勤務で中央アジアに駐在している父と、去年の春から帯同している母の帰国を待ち、年の瀬に慌ただしく荼毘に付した。葬儀の後、日本に残ろうかとつぶやく母に「私は一人で大丈夫。お父さんを支えてあげて」と言い聞かせた。躊躇いつつ、母は中央アジアに戻っていった。
「とりあえず中に入って。そんな格好、近所に見られたらどう思われるかわからないでしょ」
圭介はそれでも同じ姿勢を崩さなかった。いいから早く、と手を引いて、ドアを閉める。よろけた彼が私に倒れ込みかけた。切れ長の目、整った鼻筋、薄い唇。近づいた顔を見て、美穂の美的センスは悪くないな、とまた思う。
「……美穂……さんのお姉さんですよね。ご両親は?」
「海外。このマンションで暮らしているのは私だけ」
「まずくありませんか? 僕、一応、男ですし……」
「亡くなった恋人に線香をあげにきて、その姉に欲情する変態と、妹が交際していたとは思いたくないな」
「そんな気は微塵もありません」
「当たり前でしょ。警察に捕まる前に、美穂に呪い殺される」
「……はい」
「お葬式にも来なかった恋人のことを、とっくに恨んでいるかもしれないしね」
「……本当に申し訳ありません」
「事情は後で聴くから、まずはお線香あげてやって」
まだ仏壇はない。遺影と遺骨は、白い布で覆われた机の上に置かれている。圭介は座布団に正座した。線香に火をつける彼に目をやり、美穂の遺影に視線を移す。抜けるような白い肌、まだ伸びる前の黒い髪。薄紅色の整った唇は、圭介に優しくふさいでもらえたのだろうか。
「コーヒー、紅茶? 緑茶もあるよ」
「いえ、おかまいなく」
圭介の声を聞き流し、キッチンで湯を沸かす。匙ですくってマグカップにコーヒーの粉を入れた。
「――で、どんな言い訳を聞かせてくれるの?」
向かいに座った啓介に、カップを差し出す。彼はしばらく黙っていた。
「……怖かったんです」
「何が?」
また圭介が黙り込む。線香の煙に仏花の匂いが溶け込んで、室内はむせるように甘い。たっぷり三分は待っただろう。彼は重い口を開いた。
「……美穂さんは、僕のせいで自殺したんじゃないかって」
あの日、私は隣町にある市営の屋内プールで泳いでいた。私学と違い、私の通う県立高には、屋外にしかプールがない。だからオフシーズンの水泳部は、筋トレが中心になる。
五歳からスイミングに通い、中学時代も水泳部に所属した。国体出場経験のある顧問から「筋トレでついた筋肉は柔軟性に欠ける。スイマーは泳ぎながら鍛えるのがベストなんだ」と教わった。
クリスマスイブといっても、恋人がいない私には、普段と変わらぬ土曜日だ。コンビニのバイトを六時半で終え、そのまま自転車でプールに向かった。
二時間で十キロ泳ぎ、パーカーに着替えたところでスマホの着信履歴に気がついた。末尾が「0110」の番号が八時過ぎから計四回。私に電話をかけてくる友だちは多くない。ましてや見知らぬ番号だ。短い髪を乾かしながら、無視しようと思った瞬間、胸騒ぎがした。
美穂のことだ。
理由なく、直感した。
「デートで帰りは遅くなる」
昼、そう言って家を出て行った。番号をタップする。何度か呼び出し音が続いた後、「はい、武蔵台警察署です」と乾いた声が耳に響いた。
自宅まで引き返し、自転車を置いて、最寄り駅から下りの私鉄に乗る。JRと交差する武蔵台駅までは十五分だ。底冷えのする夜だった。警察署にたどり着くと、すでに十時を回っていた。入口の警察官に生徒手帳を差し出し、「さっき電話した高見沢美穂の姉です」と名乗った。
受付前でしばらく待つ。制服姿の女性警察官が階段を下りてきた。恰幅が良く、年の頃は母と同じぐらいだろうか。
「生活安全課巡査部長の鈴原明子といいます」
そう名乗った警察官の後ろには、中年の男性と、若い女性が立っていた。女性は目を真っ赤に腫らしている。慶明学園の教頭と担任だった。
「ご両親は海外だと伺いました。緊急連絡先の携帯番号も、先生から。身近なご家族がお姉さんだけなので、心苦しいのだけれども、確認してほしいことがあり、夜遅くですがお呼びしました」
教師二人をその場に残し、鈴原さんに促され、地下一階の安置室に立ち入った。教室の半分ぐらいの空間に、ベッドが一つ置かれている。白いシーツが人の形に盛り上がっていた。まがまがしい。
「打ちどころは悪くありませんでした。お顔はほとんど無傷です」
鈴原さんが白い布の両端に手を掛ける。「いいですか?」
黙ってうなずく。ゆっくりと布が取り払われ、小さな顔が現れた。
――妹です。
そう答えたところで、緊張の糸がぷつんと切れた。倒れかけた私の体を、鈴原さんが支えてくれる。それからしばらくの記憶がない。
気がつくと、署内のソファに寝かされていた。時計の針は十二時近くをさしている。傍らに鈴原さんの困惑交じりの笑顔があった。毛布から半身を起こし、えずくように泣く私を、優しく抱き締め、背中をさすり続けてくれた。
「僕が警察署から解放されたのは、お姉さんが寝ていた頃だと思います」
圭介がポツリと言った。あの日、昼過ぎに美穂と落ちあい、武蔵台のシネコンで恋愛映画を観たという。
彼の自宅はJRの沿線だ。武蔵台にはよくデートで訪れたという。駅周辺にはタワーマンションや洒落たショッピングモールが立ち並んでいる。つきあって一年に満たない高校生のデート場所としては、手頃だったに違いない。
「美穂の様子はどうだった?」
「普段とまったく変わりませんでした」
圭介が端正な顔をゆがめる。
「シネコンを出て、モールを巡り、最上階のイタリアンでディナーをしました」
「随分大人なデートだね」
「初めてのイブでしたから……。それにイタリアンと言っても、一人三千円ぐらいです」
「高校生には十分贅沢だよ。それから?」
「レストランでプレゼントを交換し、夜景を見ながら武蔵台駅に続くペデストリアンデッキを歩きました。それで美穂……さんと」
「いいよ、呼び捨てで」
「……わかりました。美穂と思い出話をしました。中学は別々ですから、僕らが知り合ったのは慶明学園に受かった去年の春です。僕の一目ぼれでした。クラスだけでなく、部活も同じ文芸部。一緒にいればいるほど、美穂に惹かれていきました。告白したのは五月の連休後です」
「まだそんなに時間も経っていないのに、思い切ったね」
彼はそこで言い淀む。私は黙って言葉を待った。
「……ウェブ小説って、知っていますか?」
「ウェブ小説?」
「はい。ネット上に、小説を投稿できるサイトがあるんです」
確か二年ほど前のことだ。夕食時、美穂がそんな話をしていた覚えがある。あなたも投稿しているの、と母が訊くと、はにかんで首を振った。
「私にそんな文才はないよ。たまに読むだけ。でもね、ペンネームだからはっきりとはわからないけど、同世代らしき作者の中にも、すごい小説を書く人がいるんだ」
母はふうん、と相槌を打ち、私は聞き流した。それ以上、その話題は深まらなかった。
美穂は本の虫だった。最初は寝物語に母に聴かされた絵本や童話。小学校に上がると、図書室で小説を借りてきた。書店にも足しげく通っていた。
読書の影響もあるのだろう。美穂は勉強がよくできた。私は何かと比較され、肩身の狭い思いをしてきた。進学校の慶明に行きたいと言い出したのは、美穂自身だ。
「あなたも目指す?」
中学三年生の秋、母に訊かれた。その夏、県大会に進んだ私は、百メートル平泳ぎで大会新を出し、部活を引退していた。まだ日焼けが残る両腕を、母に差し出し、「今から慶明に受かるわけないでしょ」と笑ってみせた。
そもそも学力不足だけれど、それとは別に、美穂とは違う高校に進みたいと思っていた。私たちは決して不仲に見えなかっただろう。ただ内心、家でも学校でも、妹と比べられることにうんざりしていた。
「スポーツ少女の姉」と「優等生の妹」。
そんなふうにワンセットで語られるのが苦痛だった。
親や先生、友だちに悪気がないのは分かっている。でも美穂は美穂。私は私だ。姉妹だけれども、決してひとくくりの存在ではない。
思春期に差し掛かり、自分が「女」であると意識し始めた頃、その苛立ちに切り立つような断面が加わった。小学校高学年から中学校にかけて、美穂は異性にひどくモテた。後天的な能力ではなく、生まれながらに備えられた女性性。そんな生得的な部分まで、美穂と比べられるのは耐えられない。
「去年の五月、あるウェブ小説のコンテストで入賞したんです」
圭介が語り続ける。彼もまた、本が好きで、中学生の頃から作品を投稿していたそうだ。美穂が口にしていた「同世代ですごい小説を書く人」。それが圭介を指していたのか、もっと抽象的なニュアンスだったのか、今となっては確かめようがない。
ペンネームで投稿していた圭介は、入賞があまりに嬉しく、美穂にだけ、その事実を伝えたそうだ。「好きだ」という言葉を添えて。
中学時代の美穂を気に入っていた男の子たちは、私が知る範囲でも両手に余る。全員が運動部に籍を置くスポーツ少年だった。美穂の趣味は小説だ。結局、誰ともつきあわず、中学校を卒業し、慶明に進学した。
そこでタイプの異なる圭介と出会う。ほぼ同じタイミングで、彼はコンテストに入賞し、想いを告げた。二人が交際したのは、ある種の運命だったのだ。
恋を覚えた妹は、私がよく知る美穂とは別人のようだった。二人で撮った写真を見せ、「圭介っていうんだ。すごいんだよ。もういくつも自分で小説書いていて、将来は作家になりたいんだって」とはしゃいでいた。
良かったね、と笑顔を作り、私は内心、邪悪な思いを抱いていた。
壊れればいい。
捨てられて、涙が枯れ果てるまで、泣けばいい。
美穂、あなたはそんなに姉を否定したいんだ。あなたのように、私は可愛い衣服をまとえない。上手に異性にはにかむことも不可能だ。思春期を迎え、あなたは見た目も心も急速に「女」になっていく。か弱いあなたを支え続けた私のことを、置き去りにして。
休みの日にもコンビニでレジを打ち、勉強は不得意で、想ってくれる相手もいない。ただ他人より、少し速く泳げるだけの、女子高生。
私は今、女として、あなたの遥か下にいる。にもかかわらず、まだ姉として上にいるような振る舞いをやめられない。
きっと、とっくに見透かされている。見透かしたうえで、あなたは変わらず私を慕うふりをしている。
死にたいほどの屈辱だ。妹に情けをかけられる。あからさまに蔑まれるより、それは遥かに痛みを与えるものだ。
「……七時過ぎだったと思います。別れがたくて、僕と美穂は武蔵台駅の改札前で、手をつなぎながら思い出話を続けていました」
圭介は、うつろな視線をマグカップに向けている。
「その時も、美穂に変わったところはありませんでした。恥ずかしいですが、自分が好かれていることを、彼女の言葉の端々から感じていたほどです。ところがいきなり、美穂は僕の手を振り払い、『圭介とはもう別れる!』と言い出しました。改札口に向かって駆け出す美穂を追いかけ、何でだよ、と声を掛けました。でも取りつく島もありません。背後から右手で肩をつかむと、一瞬、彼女が振り向いたんです。声を失いました。美穂は目を真っ赤に腫らし、唇を白くなるほど噛みしめながら、泣いていたんです……」
立ちすくむ彼を残し、美穂は二度と振り返らず、改札の向こう側へと消えていった。
葬儀翌日、十二月三十日の夜、両親と武蔵台警察署に足を運んだ。捜査はその日までに打ち切られていた。
鈴原巡査部長と、生活安全課の係長という男性警察官が、結果のあらましを教えてくれた。
「ホームのカメラには、黄色い線の上をよろよろと歩く美穂さんが映っていました。躓いたようにも、自分から身を投げたようにも見える。映像だけでは、事故か自殺か、微妙なところです。ただ、遺書は見つかりませんでした。直前まで一緒にいた恋人からも話を聞いています。『泣いていた』と証言しました。でも、喧嘩したわけではないとも言う。彼が突き落としたのではないことは、改札口付近を捉えた別の映像からも間違いありません」
慶明学園の教職員や友人にも近況を尋ねたそうだ。いじめも視野に、慎重に調べを進めたらしい。係長から引き取って、鈴原さんが口を開く。
「優等生で、可愛くて、誰にでも優しい。私は長く少年事件を担当していますが、これほど悪評を聴かないケースは珍しいです。美穂さんは、みんなに愛される存在でした」
自殺だとすると動機がない。事件性もない。曖昧なところを残しつつ、警察は事故として処理する判断をしたという。
父と母は、涙ぐみつつ安堵の表情も浮かべていた。愛する娘は誰かに恨まれ、殺されたのではない。自ら命を絶ったわけでもない。そう確認できたことで、少し心が軽くなったのだろう。年ごろの娘を残し、海外に赴任していた後ろめたさもあったに違いない。
鈴原さんと係長に礼を言い、私たちは警察署をあとにした。
「事故だったと、僕も電話で聞かされました。大晦日でしたから、よく覚えています。でも、それはあくまで警察の判断です。やっぱり僕には、自分が美穂を殺してしまったように感じられてなりません……」
圭介が泣いている。溢れた涙が、床に小さな水たまりをつくり、少しずつ面積を広げていった。
「……初めてできた彼女でした」
嗚咽しながら、圭介が言葉を絞り出す。
「一目見た瞬間に、この子を好きだと感じました。笑われそうですが、正直に言います。美穂は、僕が賞をもらった小説のヒロインのイメージそのままなんです。小説なんて、ほとんど妄想です。願望の投影です。絶対に存在しないと分かっていながら書きました。でもそのヒロインとそっくりな女の子が、目の前にいたんです」
そこでようやく、ハンカチで目元をぬぐった。
「……きっかけは、確かに見た目でした。だけど同じクラスになり、部活でも一緒に過ごすうち、さらに美穂に惹かれていきました。運動が苦手で、思ったことをなかなか口にできないところも共通でした。コンプレックスというか、人としての弱点みたいなものまで似ている。こんなに分かりあえる誰かがいるんだと、震えるような思いでした」
美穂は圭介に愛されていた。高校で彼と出会い、つきあえたのは、彼女の短い人生の宝物だったに違いない。
「お姉ちゃん、怖いから一緒にきて」
去年三月。慶明学園の合格発表日の朝、美穂にせがまれた。ネットでも見られるんだから、それでいいじゃん、と私は答える。
「ううん、直接この目で確かめたいし、お姉ちゃんにも見てもらいたい」
美穂はかたくなだった。
月末に控えた渡航の準備で忙しく、母はその日、体調を崩していた。
「美穂に付き添ってあげて」
母からも駄目を押され、私はようやく腰を上げた。
同じ制服に着替えながら、美穂を疎ましいと感じていた。何でこんなことぐらい、自分一人でできないのだろう。
母も母だ。美穂のわがままを許容する。これだから、この子はいつまでたっても自分の足で歩けない。
慶明学園までは、電車を乗り継ぎ、小一時間ほどの道のりだった。地下鉄の車窓には、いかにも不機嫌そうな私と、不安げな美穂の姿が映っていた。
その時、前を向いたまま、唐突に美穂が言った。
「お姉ちゃん、私、合格していたら、髪を伸ばすよ」
それはかすむほどの小さな声で、私は聞こえないふりをした。
好きにすればいい。
あなたはあなた、私は私。頼むから、これ以上、苛立たせないでくれないかな。
「ここから先は一人で行って」
慶明の校門で、私は言った。
「どうして? 掲示板まで一緒に来てよ」
「私はここで待っている。合否を確認したら、戻ってきて。一緒に帰ってあげるから」
何度か押し問答を繰り返し、やがて美穂は諦めた。
「……わかった。一人で見てくるから、絶対に待っててね」
小さな背中が人込みに消えていく。
ため息をつき、校門にもたれた。吐き出す息が、白い霧になり、初春の冷えた空気に溶けていく。
寒い。
怒りを含んだそんな言葉が口からこぼれ、何人かの受験生や保護者たちに一瞥された。
十五分ほど待っただろうか。受験票を握り締め、涙ぐんだ美穂が私のもとに駆けてきた。
「受かってた。嬉しい……」
「良かったね」
「高校からは、お姉ちゃんと別々だ」
「まあ、いいんじゃないの?」
「……そうだね。私もそんな気がしている」
帰り道、マクドナルドでささやかな祝杯をあげた。ハンバーガーとポテト、シェイクのセットを二人分。お金は私が支払った。
「お姉ちゃん、今日は本当にありがとう。私、一人じゃ怖くて来られなかったよ」
「もう高校生になるんだから、何でも自分でできるようになるんだよ」
ポテトをつまんで私は諭した。
「わかった。頑張る」
薄く微笑み、美穂は自分のシェイクを差し出した。
「飲まないの? シェイク、好きだったじゃない」
「うん。でもダイエットしようと思ってて」
その時の自分の感情を、今でも鮮明に覚えている。
あれは、私が初めて他人に抱いた「殺意」だった。
「ああ、もうこんな時間ですね。すいません、そろそろおいとまします」
制服のズボンにハンカチを押し込んで、もう一度遺影に目をやり、圭介が立ち上がる。三和土で靴を履きながら、躊躇いがちにつぶやいた。
「……また来てもいいですか?」
「いつでもどうぞ。ただ必ず家にいるとは限らないから、事前に連絡して」
パーカーのポケットからスマホを取り出し、LINEのアプリを立ち上げた。QRコードを表示させ、彼に向ける。圭介が、それを自分のスマホで読み取った。
つながった――声に出さずにそう思う。
「……早いですよね。一月もそろそろ終わり。あと一か月ちょっとで、美穂と出会って一年になります」
圭介が遠い目をしてつぶやいた。
「クリスマスイブの夜、改札前で美穂と最後に話したのも、そんなことでした。三月になれば、あの日から丸一年だね、と」
ああ、そうか。
私には、やっと謎が解けたよ。
美穂が「別れる」と言った理由、そして、死の真相の――。
私の思いは確かに美穂に届いていた。美穂も私に似たような感情を抱いていた。だからこそ、圭介の一言は死に値するほどの恥辱だったのだ。
「LINE、ありがとうございました。真穂さん、でいいんですよね?」
うん。――次からは、もう呼び捨てで構わないから。
「真穂さんとは、何だか初対面だと思えません」
そうだろうね。
「好きになった瞬間の、美穂とそっくりだからなんでしょうね」
私たちは、心まで通じ合う、一卵性双生児なんだ。
「校門で、小さく『寒い』とつぶやいたあの日の美穂は、この世のものとは思えないほど、綺麗でした」
(了)


