「抜刀のときなんですけど」
話しかけると、「はい」と小柄な彼女がこちらを見上げた。束ねた長い髪が背中を撫で、真剣な表情が俺の言葉を待ち受ける。ふっくらした頬に大きな目、小さめの口は綺麗系というよりも童顔……いや、親しみ深いつくりだ。……などと判定しているときじゃない。
「刀を“抜こう”と思うと右手と一緒に体が前に出てしまいます。そうじゃなくて左手でしっかり鞘を引きながら、胸を開くように……こうです」
俺の動きを見てうなずき、「鞘を引いて、胸を開く」と言葉で確認しながら彼女が刀を……引っかけながらどうにか抜いた。
「もう一息ですね。左肘をこう、後ろに下げるように」
「はい。もう一度、ええと……」
抜刀のためには抜いた刀を一旦鞘に納めなくてはならない。でも、彼女はまだそれも上手くない。刀を持った右手を伸ばしても、刀身の長さがあるので切っ先が鯉口に入らないのだ。
「納刀も同じです」
声をかけると彼女が手を止めてこちらを見た。
「右手だけで入れようとしないで、同時に左手で鞘を引きます。そうすることで距離が稼げて、切っ先が鯉口に届きます」
黒川流の納刀は平納刀。刀を平らに寝かせて鯉口に合わせ、右手を横から前方に動かす。納刀が終わるまで刀の水平を保つのが理想だ。
ゆっくりとやってみせる俺の手元を彼女の真剣なまなざしがチェックする。
「鞘を引いて、胸を開く感じですね?」
「そうです」
桜さんが小声で「胸を開く」と唱えてやってみるが、あと一息で届かない。
「鞘引きをもうちょっとがんばって。肘で後ろの人を攻撃するみたいに」
「はい。う……」
「胸を張って」
「はい。お?」
切っ先が鯉口に届いたようだ。右手が斜めに上がっていて平納刀にはまだ程遠いけれど、刀はするりと鞘に納まった。
「入りました」
ほっとした様子で、でもちょっと得意気にも見える表情に、思わず俺も表情が緩む。
「入りましたね」
「はい。ありがとうございます――あ」
お辞儀で刀が滑り出てきた。
「あ、刃を掴んじゃダメです!」
「あ」
「あぁ……、やっちゃいましたね……」
始めたばかりのときはよくあることだ。
使い込んだ刀の鞘は鯉口が緩くなっている。鍔を押さえずにお辞儀をしたり屈んだりすると、刀身が鞘からずるりと出てきてしまうのだ。
居合刀は刃を研いでいないので切れないけれど、扱いは真剣と同じで、刀身を掴むことは絶対にしない。真剣と同じ扱いを身に付けないと、ゆくゆく真剣を使ったときに怪我をするから。
「すみません。前回も言われました……」
「最初はやっちゃうんですよね。でも危ないので、動くときには必ず鍔を押さえる癖をつけてください。そうすれば滑り出てきませんから」
「はい。分かりました」
ものすごく教えやすい。
去年の入門希望者には「分かってるけどできないんですっ!」とキレられてしまった。べつにできないことを非難したり、嫌味な言い方をしたつもりはなかったのだけど。
――あの後、しばらく落ち込んだよな……。
本人も気まずくなったのか、直されるのが嫌だったのか、ひと月で退会してしまった。原因は別のことかも知れないけれど、後味の悪い出来事だった。
でも、桜さんは全然違う。感動するほどに。
「その居合刀、二尺三寸ですか?」
刀の扱いの話になったついでに訊いてみる。
二尺三寸というのは刀身の長さのこと。鍔元から切っ先まで七十センチと少しある。ほかに二尺二寸五分や二尺三寸五分など、短め、長めの居合刀もあり、重さもさまざま。身長や性別で決めている流派もあるようだけれど、うちでは好みで選んで構わない。入門者にはうちの古い居合刀を貸し出している。
「ええと、……そうです」
かすかに身を縮めるように答える桜さん。警戒されてしまっただろうか。苛立っていると思われた? 誤解されるのは嬉しくない。ここはソフトに伝えなければ。
「少し短めもありますよ? 桜さんは小柄ですし、初めは短い方でも――」
「いえ、これがいいです」
俺の言葉を遮るように首を横に振った。まるで守るように両手で柄を握って。
「練習すればできるようになるって水萌さんに言われました。だから頑張りたいです」
――……へえ。
こういうところもあるんだ。決意に満ちた表情で。
「そういうの、いいですね。大歓迎です」
思わず笑顔になった俺を桜さんが大きな目で見返した。こんなに簡単にOKされると思っていなかったのかも。でも、べつに御愛想を言っているわけじゃない。
「練習すればちゃんとできるようになります。それは間違いありません。じゃあ、一緒に頑張りましょう」
「はい。ありがとうございます」
今度は頭を下げる前に鍔を押さえている。ちゃんと進歩している。
「それではもう一度、抜刀からやってみましょう」
桜さんが力強く「はい」とうなずいた。先ほどよりも瞳に力があるように感じる。
並んで鏡に向かい。
「姿勢を正して、呼吸を整えて。――抜刀」
桜さんは真面目でどんどん吸収しようとする。その姿が清々しい。
こういう人となら、いくらでも一緒に稽古したい。
――ほんとうに真面目なひとだったなあ。
実家で庭に面した廊下に座り、ぼんやり夜空を見上げる。
大都市の一つである葉空市だけど、我が家のあたりは農地が多く、かなり静かだ。街灯も少なめなので、星がよく見える。ここで夜空を見上げていると、降ってくる星の光が俺の中も外も清めてくれるような気がする。
今、頭に浮かぶのは今日の稽古の桜さんだ。
三時間の稽古の間、桜さんは常に真面目で礼儀正しかった。俺が離れている時間も黙々と抜刀や摺り足の練習をし、誰かに教えられるとうなずきながら真剣に聞いていた。
そもそも口数は多くないのかも知れない。けれど決して愛想が悪いわけではなく、休憩時間にはうちの母や他の門人たちと一緒ににこにこしていた。
でも。
何というか……見えない壁があるような気がする。
例えて言えば、そう、銀行の窓口のひとみたい。
礼儀正しく真摯な態度で接してくれる。けれど、用件以上に立ち入ることができない。そんな感じだ。
まあ、上達したいという思いさえあれば、べつに仲良くなる必要はない。とは言え、あまり遠慮していては上達の妨げになる。うちのように少人数の団体ではなおさら。
――なにしろ全部で八人だもんな……。
いや、桜さんが入ったから九人か。ただし、そのうち五人は身内だ。
黒川流剣術は天然理心流の流れを汲む古武道の流派の一つ。創始者は黒川東玄。現在の宗家は第九代で黒川峯之、俺の祖父だ。稽古の場では「宗家」と呼ばれる。
下級武士だったご先祖様はもとは天然理心流の門人で、新選組局長となった近藤勇の先代・周助と共に学んだという。役目で江戸を離れてからも独自の研究を重ね、天然理心流をベースとした黒川流剣術を完成させた。東玄が書き残した文書が今も祖父の手元にある。
新選組の活躍と共に世に広く知られるようになった天然理心流とは違い、黒川流は細々と黒川家に受け継がれてきた。べつに門外不出というわけではなく、単に道場を開いていなかったので身内にしか伝わらなかったという次第。
明治維新で武士の身分が無くなったとき、黒川家が選んだ職業は植木屋だった。東京から少し離れた、当時はまだ鄙びたこの地に土地を買い求め、植木の販売と手入れの仕事を始めた。どうやら半分は趣味だったらしい。でも、そこから代々、うちは植木屋だ。
祖父も植木職人として生計を立ててきた。俺の父親は教師になったが、叔父の哲ちゃんが祖父の跡取りとして植木職人になっている。俺は大学で設計と造園を学び、現在は建築関係の企業に勤めるという形でつながりのある仕事をしている。
――そう言えば。
祖父のお得意様の一軒が桜さんの隣の家だと言っていたっけ。
かれこれ三十年の付き合いのあるお宅で、隣に桜さん一家の家が建ったときのことも祖父は記憶にあるという。植木の剪定は隣家に掃除に入ることもあり、桜さんとも何度か言葉を交わしたこともあったそうだ。
でも、彼女の入門のきっかけは祖父ではない。うちの母と妹だ。宗家が植木屋のおじさんだと知ったのは初回の稽古の時で、たいそう驚いていた。
――驚いたと言えば。
母さんの勢いには驚いただろうな。おとなしそうな桜さんのことだから。
三週間前の日曜日、稽古を終えてスポーツセンターを出た母と妹は、夜の闇の中で自分たちを見つめている桜さんに気付いた。そそっかしい母は彼女をその日の体験予定をすっぽかした女性が謝りに来たのだと思い込み、近付いて話しかけた。誤解はすぐに解け、そのとき、桜さんが母たちが何を持っているのか――刀用の黒いバッグのことだった――尋ねたそうだ。そこで母が勧誘し、翌週の体験へ、そして入門へとつながった。
わざわざ申し込んでおきながら連絡なく来ないひとがいるかと思えば、桜さんのように偶然の出会いで始めるひともいる。世の中って実にいろいろだ。
でも……。
桜さんは“当たり”な気がする。長い付き合いになりそうな。
彼女はあまり積極的なタイプではない。素直だけれど、教えられることを受け入れているだけ。受け身の態度だ。けれど、観察することや注意深さは優れている。並んで鏡に向かっていたときによく分かった。
古武道は、まずは真似ることから始まる。真似るためには見ること、そして自分との違いに気付くことが必要だ。桜さんにはそういう目がある。
そして何より真面目だ。三時間の稽古中、まったく気持ちをそらさなかった。
あれなら必ず上達する。
「風音、そろそろ送ってくからそこの雨戸閉めて」
「ん、わかった」
俺は通勤しやすい場所に部屋を借りている。日曜の稽古のあとは、何もなければ実家で夕食をとって、車で二十分ほどの自宅まで送ってもらっている。
「あ、お兄ちゃん、今日はあたしが軽トラで送るから」
妹の雪香が車のキーを振ってみせた。大学就職後に一旦は銀行に就職した彼女だが、どうしても植木職人になりたくて退職し、今は祖父の造園会社――一応、会社形態になっている――で修行中。
「安全運転でよろしく」
「最近はもう全然平気だよ」
外に出て振り向くと、庭続きで奥にある祖父の家は静かだ。そこには祖父と哲ちゃんが住んでいる。ご近所からは、別棟に住んでいる我が家は「分家」と呼ばれているが、俺の中では祖父も哲ちゃんも生まれたときから一緒にいる家族であることに変わりない。
「今日、桜さんに付いてたでしょ? いい感じのひとだよね?」
車を出しながら雪香が言った。
「ああ。真面目で素直だからきっと上手くなるよ」
俺たちが桜さんをファーストネームで呼ぶのには二つの理由がある。彼女の苗字が母の旧姓と同じであるため母が呼びにくいと言ったこと、そしてもう一つは黒川流が家族中心の団体であるということだ。
身内の五人――母の水萌、妹の雪香、叔父の哲也、俺は風音、そして祖父――はすべて黒川姓。家族以外の門人からは、宗家である祖父以外はファーストネームに「さん」付けで呼ばれている。うちでは宗家以外は先生と呼ばない習いだ。門人はすべて共に修行に励む同志という意味で。
桜さん以外の三人も、高校生の双子、清都くんと莉眞さん、母と同年代の女性は入門時には息子さんと一緒だったので翔子さん。こうなるともう、ファーストネームで呼ぶのがデフォルトのようになる。
俺としては年が近い女性をファーストネームで呼ぶことに多少の迷いも感じたが、母たちが呼んでいるのを聞いているうちにどうでもよくなった。すでに桜さんの苗字を忘れそうだ。
「何かお話しした?」
「話? いや、特には」
「そっか。桜さんておとなしいもんね」
「そうだな」
正直なところ、俺はそういう方が気が楽だ。テンションの高い相手に合わせることはできるけれど、とても疲れる。
「そういうおとなしい人を誘った母さん、すごいな」
早とちりの母がかなりの勢いで話しかけたことは雪香から聞いた。まるで突進するようだったという。桜さんは相当びっくりしただろう。半分怯えたような顔が簡単に目に浮かぶ。
「そうだね……」
赤信号で止まりながら、雪香がゆっくりと言う。
「あのとき、桜さんが刀ケースのことを訊いて……、その訊き方がね、なんて言うか、ものすごく思い切った感じだったの。人生の一大事みたいな。お母さんの勘違いを一緒に笑ったあとだったから、気楽に質問してもおかしくなかったのに」
「ふうん」
俺も何度か訊かれたことがある。刀用のバッグは横に取っ手やストラップがついている細長い三角形のような独特の形状なのだ。駅や信号待ちで近くに居た人が結構気軽に尋ねてきたりするのだが、桜さんは違ったのか……。
――そうだ、今日も。
短い居合刀を使ったらどうかと俺が言いかけたとき。彼女は柄をしっかり握って「頑張りたいです」と言った。訴えるような瞳で。とても大切なことみたいに……。
「だからお母さん、誘ったんだと思う、桜さんのこと。あたしは逆に、こんなに人見知りっぽいひとを誘ったら悪いよって思ったんだけど」
「母さん、そそっかしいけど敏感なところあるからなあ」
俺も、口に出したことの裏を言い当てられて驚いたことが何度もある。
母は桜さんの願いとためらいを感じたのかも知れない。そしておとなしい桜さんにとっては、前のめりの性格の母との出会いはちょうど良かった……と思いたい。
「新しく入ったひとが上達するのを見るのは楽しみだな」
「そうだね。教えるときに自分の見直しにもなるしね」
「うん」
同年代の仲間ができたのも嬉しい。部活の後輩ができたみたいな、ちょっと懐かしい気分でもある。
また来週の稽古が楽しみだ。
「構え」
凛と響く掛け声に、並んだ門人たちが抜刀して正眼に構えた。今日の進行役は哲ちゃんだ。
壁の鏡に向かって前列に五人、後ろに三人。初心者だからと遠慮して後ろに並ぼうとした桜さんは、できないからこそ目立つ場所にと言われて前列の一番右、宗家が座る目の前にいる。後列にいる俺の視界の端で、正しい構えを模索する気配。
――頑張れ。
最初の抜刀納刀で宗家から桜さんへの指導がちょこちょこと入り、その度に中断する流れに桜さんは恐縮していた。
けれど、それらの指導は、実は全員に対しておこなわれているものだ。年数が長くても、上手くできていなかったり忘れていたり、勘違いしていたりすることがあるから、誰かが言われているのを聞きながら、それぞれに自分で確認している。だから、桜さんは自分のせいで稽古が中断したなんて気にする必要はない。
「前進面二十本。始め!」
「一、二」
上段から面を狙っての素振り。打ちながら一歩出て、正眼に戻しながら一歩下がる。
数える声が一番大きいのは高校生の清都くんだ。そこに低く力強い哲ちゃんの声、女声ながら腹に響く雪香の声がみんなを引っ張る。
「五、六」
視界の隅に不安定な動き。桜さんだ。なんとなくバタバタ、ふらふらしている。足運びがまだ上手くないからだ。前進と後退を周囲に合わせるのがやっとで、姿勢や構えに気を配る余裕はなさそう。
宗家が桜さんに声をかけた。上段の位置を直し、踏み込みと振りのタイミングを教えているようだ。俺たちの二十本が終わると同時に桜さんが「ありがとうございます」と、宗家に頭を下げた。
インターバルで動きを確認する桜さん。素振りが終わったら、今日は誰が彼女に付くのだろう?
「構え」
哲ちゃんの声に体が反応する。足元、姿勢、握り、視線。
「左右の袈裟斬り二十本。始め」
上段に振りかぶり、右足で踏み込みながら右上から左下へ袈裟に斬る。
「一」
刀身がびゅっとうなる。
その刀を振りかぶりながら後ろ足を前足に揃え、今度は右足を後ろに引きながら左上から右下へ斬る。
「二」
再びのびゅっという音が俺の中の余計なものを消し去ってゆく。
――ん?
「……三」
今度はいい音がしなかった。気が散って刃筋が揺らいだからだ。
――あれじゃあ、足を斬っちゃうな。
居合刀だからもちろん斬れないけれど。引く足と斬る方向が逆だ。
「四」
宗家は莉眞さんを直している。母さんは清都くんを見ている。桜さんの隣の翔子さんは、まだ教えるほど自信がないようだった。
――となると、俺かな。
桜さんは自分が違っていることに気付いたらしい。動きを止めて、隣の翔子さんを見た。そこで近付く俺に気付いて、バツの悪そうな顔で頭を下げる。
「すみません」
「いいえ。これ、最初は混乱しやすいんですよ」
言いながら空いている隣に並ぶ。
「振り下ろす方の足を引くんです。ゆっくりやるので、鏡を見て一緒に」
「はい」
すぐに表情を引き締め、鏡に向かって姿勢を正す桜さん。
「一本目は前に出ます。正眼から上段。刀を右に傾けて、右足を出しながら左に向かって振り下ろす」
桜さんが俺の動きに合わせ、「右足」とつぶやきながら刀をゆっくり下ろす。
「そうです。刀を振り下ろした側の足が後ろにある状態、これが袈裟斬りの基本になります」
「はい」
まあ、指摘すべき点はほかにたくさんあるけれど、今は動きだけ。
「二本目は逆の足です。まずは下がっている左足を右足のところまで引き寄せながら上段」
「左足……」
「次は刀を左に傾けて、右足を下げながら右下に向かって斬る」
「右足を下げながら……こう」
「そうです」
ここまではできた。
「今度はさっきの逆です。後ろにある右足を左足に揃えながら上段。左足を引きながら左下へ斬る」
「こう」
「そうです」
よしよし。動きが少しスムーズになった。
「それを繰り返します。こう」
普段よりゆっくり続けてみせる。向こう側では二十本が終わってインターバルに入っている。
桜さんの視線が鏡と俺の足、手元、刀、と行き来する。と、一つうなずいて構え、鏡に向かってタイミングを合わせて振り始めた。
右、左、右、左。
リズムが良くなってきたところで、ふと眉を寄せた彼女が姿勢をまっすぐに直した。自分が前屈みになっていることに気付いて修正したのだ。
嬉しくなるのはこういうところだ。
素振りを止めてうなずくと、刀を下ろした彼女が満足気ににっこりした。
「ありがとうございます」
できるようになって嬉しい、と、表情が伝えてくる。言葉には出さないけれど、彼女の中に沸き立つ喜びが――。
「構え」
哲ちゃんの声。桜さんが表情を引き締め、鏡に向き直る。俺も列に戻らないと。
あとで運足も見てあげよう。上段も、素振りも。少しずつでもできるようになると誰でも嬉しいし、さらなるやる気にもつながる。あんなふうに笑うなら……。
――いや、笑顔は関係ないよな。
とは言え、人見知りらしい桜さんも、少しは俺に慣れてきたのかも知れない。
……と思ったけれど、今日は桜さんに付くのは哲ちゃんのようだ。宗家の次に門人歴の長い哲ちゃんが教えるなら、俺の出る幕はない。
休憩時間にも、なんとなく声をかけそびれている。話そうと思うと逆に話題が浮かばず、清都くんと刀の話で時間を潰したりして。
「風音。心成堂の最寄り駅ってどこだっけ?」
ふいに声を掛けてきたのは母だ。
「心成堂? 竹見台だけど……、行くならついでに俺も――」
「あ、違う違う、あたしじゃなくて、桜さんがね」
話しながらどんどん歩いて行ってしまう。相変わらずせっかちだ。話が中途半端な気がして後を追った俺に「あんた、買うものあるの?」と質問が来た。「下緒が切れそうで」と答えたけれど、聞いているのかいないのか、振り向きもしない。
近付く俺たちに気付いて、ペットボトルを手にしていた桜さんが居住まいを正した。母が「武道具屋さんの場所なんだけど」と間髪入れず声をかけると、桜さんは肩の力を抜いて「はい」と微笑んだ。
「竹見台の駅からすぐなんだけど、あの辺ごちゃごちゃしててちょっと分かりにくいのよ。風音が行く予定があるそうだから、都合が合うなら連れてってもらうといいかも」
「え」
「あ……」
七、八歩の移動中に、母の頭の中でそのような計画が出来上がったらしい。
俺に向けられた桜さんの顔には軽い驚きと困惑。見返す俺もたぶん同じ表情を見せてしまったかも知れない。けれど。
「じゃあ、来週の日曜はどうですか? 稽古の前に」
人見知りらしい桜さんにはこちらが迷う様子を見せない方がいい、と、咄嗟に思った。当たり前のように振る舞わないと、理由をつけて遠慮されてしまう。俺に慣れてもらう機会を逃したくない。
「桜さんは何を買うんですか?」
「え、と……、道着、です」
覚束なげに答えた桜さんの横から母が「刀はまだいいわ」と付け足す。なるほど。
「上衣と袴、それから帯、必要なら足袋と膝当て、という感じですね」
俺の言葉を聞いて、桜さんは遠慮がちに俺を見上げた。
「お忙しければ、地図で検索しながらどうにかして行きますから」
やっぱり。
「ああ、大丈夫です。僕も買うものがあるので」
ここまで言って、ようやく桜さんも心を決めてくれたらしい。一つ息をついて微笑んだ。
「ありがとうございます。一緒に行って教えていただけると助かります」
「じゃあ、連絡先を交換しておきましょう」
次の日曜日。桜さんは俺を気に入ってくれるだろうか? ……もちろんそれは、同門の仲間として、という意味だ。