九月も後半に入った。
桜さんはまだ返事をくれない。まだ決心できないのだ。あるいは、演武のことでいっぱいいっぱいなのかも知れない。
不安が頭をよぎることもあるが、ふと、翡翠のことを思い出して覚悟が決まった。一柳さんは翡翠の返事を半年くらいも待ったのだ。翡翠を幸せにできるのは自分しかいないと信じていたから。
俺だって、桜さんは俺と一緒になれば絶対に幸せになれると確信している。それに、今のところ桜さんを俺と争う誰かはいない。……いや、どこかにいるとしても、桜さん本人が気付かない程度の存在感しかない。つまり、障害は桜さんの中にある葛藤だけ。
だから、ここは待つしかない。待ちつつ連絡とデートは絶やさない。桜さんの気持ちを繋ぎとめるためでもあるけれど、俺が彼女の明るい声や笑顔を求めているという方が理由としては大きくなっている。
桜さんは相変わらず控えめで、自分から連絡してくれることはない。けれど、電話したときの第一声や待ち合わせたときの笑顔には喜びがにじんでいて、その度に胸を締め付けられるような幸福感が湧き上がってくる。
ただ最近、その感覚には中毒性があるのではないかと危ぶんでいる。俺があまりにも桜さんを求めすぎて彼女の負担になってしまうような事態は本末転倒だ。だって、俺は彼女の自由を守りたいのだから。そう考えると……。
やっぱり一緒に暮らすのが一番の解決法のように思う。
でも、演武が終わるまでは、考えてもらうのも無理そうかな。
「やっぱり納刀は下手ですね……。それに、足がバタバタしている感じです」
日曜の稽古がひと段落すると、桜さんが肩を落とした。
「いくら人前でやると言っても、入門して半年で完璧に仕上げるのは無理だよ。ちゃんと努力して、ここまでできましたってことでいいんだ。それに、人によって得意不得意があるから。桜さんは立っているときの姿勢が綺麗なのがいいよ」
「それって……動いたら台無しってことですよね」
恨めし気な目が向けられる。
「あはは、台無しっていうほど酷くないよ。それに、演武では最初と最後が綺麗なのは大事なことなんだよ。せっかく上手に動けても、最後がだらしないと、全体の印象が悪くなるから」
「確かに宗家もよく仰いますね」
「そう。逆に、最後が綺麗だと上手くできたように見えたりする」
「なるほど……」
納得したようだ。自分にも自信を持てることがあると分かってくれただろうか。
「演武では何に一番気を付けたらよいのでしょう? 技術的なこととは別で」
こちらを見上げる真剣な眼差し。桜さんのこんな眼差しに出会うといつも、こちらの気持ちも引き締まる。そういう気分にさせてくれるところも彼女の素敵なところだ。
「そうだなあ……、慌てないことかな」
「慌てない? 技の流れが速くなり過ぎないってことですか?」
「いや、そうじゃなくて」
本番だと緊張のせいか、流れが速くなりがちなのは事実だ。けれど、複数で演武をするときには基準の一人が決まっているので、そこに合わせることでスピードを抑えることができる。その部分ではなくて。
「途中で失敗しても慌てないってこと。顔にも態度にも出さないで、当たり前のように続けるんだ」
「やり直しても……?」
「そう。やり直すとほかの人から遅れてしまうけど、その人が定位置に戻るまで周りが待ってくれるから、急ぐ必要はないんだ。俺も、納刀を三回もやり直したことがあるよ。去年は居合で袴の裾を踏んじゃったし」
桜さんが目を丸くする。部活や習い事の経験がない彼女には、普段はできていても本番で失敗することがあるなど思ってもみなかったのかも知れない。
「言われてみると、オリンピックの選手も本番で失敗することがありますね……」
「え? オリンピック?」
オリンピック選手は自分の可能性ぎりぎりのところで戦っているわけだから、比較の対象としてはあまりにもレベルが高過ぎて、一緒に語るのが申し訳ない。たくさん練習して本番に臨む、そして本番で最高のパフォーマンスを目指す、という点では確かに同じだけれど。桜さんにとっては、同じくらいの覚悟ということかも。
「ん……まあ、とにかく、失敗しても顔を上げて続けること。自信があるように見せることは、実際の戦いの中でも大事なんだよ。それだけで相手にプレッシャーを与えることができるから。戦略としてわざと弱く見せるのでなければね」
「弱く見えて本当に弱いと、目も当てられませんね……」
「うん。真っ先にやられてしまうね」
ゆっくり頷きながら「生き残るために……」とつぶやく桜さん。
大げさだと思うかも知れないが、剣術とはそもそも命のやり取りをする場面を想定しているのだ。例えば抜刀術は外での襲撃への対応、正座から始まる居合は室内で襲われた場合、小太刀を使う風返しは刀を失った不利な状況で戦うこと。つまり、形というのはどんな状況でも勝てる=生き残る技術を身に付けるための、稽古用の課題のようなものなのだ。
ただ、今は刀で戦うことはないので、一般の人々は演武として目にする機会しかない。そして、上級者の技の美しさに感心する。
上級者の演武の美しさは結果として美しいということで、形が美しく作られているわけではない。その根本は正しい体の使い方と確かな技術、そして気迫だ。
斬り結び、狙いすまし、攻撃する。その視線と切先の先に敵がいる。気を抜けない命のやり取りを、見ている人たちに見せられるかどうか……。
と、言葉で説明できても、すべてを身に付けるのは簡単ではない。だから、まずは堂々とやりきることから。
「ほかに――技術的なところで大事なこと、わたしのレベルで目指すことって……、たくさんあるのは分かっているのですけど、その中で特に押さえておくべきことはどれでしょう?」
「そうだなあ……」
体の揺れについては、丹田が理解できてから少しずつ良くなってきている。だとすると? 細かいところは置いておくとして……。
「刃筋と視線、かな」
「ああ……」
桜さんが深く頷いた。自分で分かっているのだ。
刀は振る向きと刃の傾きが合った状態で真っ直ぐに振りきらないと斬れない。ずれていると対象に当たってはじかれたり、刃が食い込んだ途中で動かなくなったりする。なので、この ”刃筋を通す“ ことが基本であり重要でもあるのだが、意外と難しい。桜さんは特に袈裟斬りで苦労している。
そして、視線。敵を見て、そちらに体の正面を向けるというのが基本だ。さらに、見たら視線を外さないこと。目標から目を離して攻撃することはあり得ないし、視線と一緒に体の軸が動くこともあるので刃筋がブレやすい。
けれど、桜さんは仮想の敵を思い浮かべるのが難しいと今も言っている。性格的にも、戦うことを想定するのは得意ではないだろう。一度前に立ってあげたときには少しつかめた様子だったけれど、今でも刀の動きを目で追っていることが目に付く。そして相変わらず、合間合間に下を向く癖がある。
「素振りだとだいぶ良くなっているんだけどね」
「動きながらだと難しいです、振り向いたときとか……。正しく振れているか不安なので確認したくなるし」
そう。抜刀術には前だけじゃなく、後ろや斜め前からの複数の敵を想定した形も含まれている。斬り方も、面、下段まで、水平まで……などという具合に混在している。
「視線というより、とにかく敵がいるはずの方向に顔と腰を向けるようにするといいよ。あとはそのまま視線を下げないこと。技のつなぎ目も、絶対に顔を上げていること」
「はい」
うなずいた彼女が右、左、右、と顔を向けてみる。その途中、正面に差し掛かったところで一旦視線が下がってしまっていることを伝えると、「うわ~、そうですか~」と悔しそうな顔をした。こういう生き生きした反応には思わず微笑んでしまう。
「あと一つだけ」
そう声を掛けると、彼女はたちまち姿勢を正し、真剣な表情でこちらを見上げた。
「これからは、斬ることを意識してみて」
「斬ること、ですか?」
「そう。刀を振る、というよりも、斬る。誰も見えなくてもいいから、顔を向けた場所をしっかりと斬ること。そのときはここ、切っ先から物打の部分を使うっていうことを忘れないで」
「……はい」
桜さんが心に刻むように深く頷いた。後半は常に言われることだから、彼女も分かっていることではあるけれど。
「やっぱりちゃんと見ることが大きな課題ですね。下を向かないで……」
桜さんが唇を噛む。おそらく刀の扱いよりも視線の課題の方が彼女にとっては大きな挑戦なのだ。
俺も、彼女が自分なりに努力をしているのは知っている。それでも直らないのは、下を向くことが彼女にとって単なる習慣ではないからなのかも知れないと、最近は思っている。
極端なほどに低い自己評価。
自分に自信が持てず、他人との対立を恐れる彼女が、自分の存在に気付かれないように世界の片隅で小さくなっている――というイメージが俺の中にはある。桜さんは視線を下げておくことによって世間の人々を自分の視界から消し、安心できる空間を創り出しているのではないだろうか。まるで周囲の雑音をノイズキャンセリングのヘッドホンで消すように。
だとすると、彼女にとって顔を上げ続けることは、他人への恐れを克服するという心理的な戦いになるはずだ。それでも――。
「頑張ります」
そう。桜さんは「できない」とは言わない。これが彼女の強さだ。
こういう桜さんを、俺は心から愛しく、そして誇らしく思う。でも……。
「できる範囲でいいからね。無理はしなくても」
「はい」
そして、本当に大変な時は俺を頼ってほしい。