顔を上げて! 桜さん。


「わあ……、広い」

展望台の柵に手をかけ、桜さんがまぶしそうに目を細める。

前に広がるのは海。水平線まで続く太平洋の海がきらきらと日光を反射している。同じ海でも東京湾内に位置する葉空市の港とは趣がまったく違う。

八月最後の土曜日。桜さんと一緒に海を見に来た。誘ったとき、桜さんは「泳ぎませんよ」と眉間にしわを寄せ、俺が「一緒に出掛けるだけで楽しいからいいよ」と言うと、驚いたような困ったような、なんとも微妙な顔をした。あれはきっと照れ隠しだ。

「風……っ」

岩場を駆け上がってきた海風が桜さんの髪を吹き乱す。パタパタとはためくロングスカートを押さえた彼女が、「服選びを間違えました」と明るく笑う。

「でも、気持ちいいです!」

風の合間に海に向かって大きな声で宣言する彼女。のびのびとした笑顔は幸せそうで、こちらまで幸福な気持ちになる。

――こういう桜さんでいてほしい。

強く、強く思う。

もちろん、生きている限り常に幸せというわけにはいかないだろう。仕事をしていれば嫌なこともあるし、俺がどんなに彼女を大事に思っていても、意見が食い違うこともきっとある。だとしても、彼女の生き生きとした心や感情を――それが怒りや悲しみであっても――抑え込むようなことは絶対にしない。桜さんが自分を自由に外に出せるように心を砕いていくつもりだ。

「下に降りてみよう」

磯へと続く小道で自然と手をつないだ。

一瞬合った視線を彼女は素知らぬ顔で下へと向けた。足元を確かめているように振る舞う桜さんの恋人初心者ぶりが微笑ましい。

途中で「ひ~」という控えめな声が聞こえたと思ったら、桜さんが腕にしがみついてきた。つまずいたのかと彼女を見ると、横のゴロゴロした岩を凝視している。

「虫です、虫っ。何かの虫が大量に動いてます」

岩の間から忙し気に出入りしているそこそこ大きな虫の集団。フナムシ……だろうか、確かに気持ちが悪い。と、見ているうちに、何匹かが小道に出てきた。

「だめだめだめだめ」
「行こう」

後ずさりしかけた桜さんの手を笑いをこらえつつ引っ張る。

「あんなにぞろぞろいるなんて。一匹なら平気だけど」

足早に立ち去りながら桜さんがつぶやいた。

「一匹なら平気で、集団だと怖いんだ?」
「怖いって言うか、気持ち悪いです。集団だと襲ってくるかも知れないじゃないですか」
「なるほど。そういう蟻とかバッタとか、いるよね?」
「そうですよ。下手したら食べられちゃいますよ」

確かにさっきの虫に集団で襲い掛かられたら……痛そうだし、気持ち悪い!

それにしても。

「桜さんが怖がる姿って、初めて見たかも」
「ん? ……そうかも知れませんねぇ」

自分のことなのに不思議そうに首を傾げているのが可笑しい。

「桜さんが怖いもの、ほかにあるの?」

他人が怖いという彼女だけど、人に対してはそういう気持ちを礼儀正しさで覆い隠している。

「絶対だめなのは蝶と蛾です。あれは一匹でも無理です。視界に入った時点で立ち止まって、飛んで行く方向を見定めてから、近寄らないように移動します」

大真面目な顔で答えてくれた。それだけ本気で嫌いなのだろう。

「別に害はなさそうだけど」
「害はないですけど、単純に気持ち悪いです。ひらひらした動きとか、柔らかそうな体とか、羽の粉とか」
「けっこう詳しいね」

嫌いな割に。

「小学生の時に、友達が、捕まえた蝶を目の前に差し出したんです! 羽をつまんだ状態で『ほら』って。その子はただ捕まえたことを自慢したかっただけなんですけど、トラウマですよ!」

訴えるように説明する桜さんを気の毒だと思いつつ笑ってしまった。そして、いつか俺たちの子どもが昆虫を飼いたいと言ったら蝶以外にしようと、頭の片隅にメモした。

元気で表情豊かな桜さんを見ていたら、輝さんから聞いた話がよみがえってきた。お母さんへの反論も、泣くことも、禁じられていた、ということを。

学校や職場では、誰でもある程度は我慢している。家でも大人になるにしたがって、家族の前では自制する方向に向かう人が多くなるのかも知れない。けれど、禁じられるというのはそういうこととは違う。

禁止ということは、何がなんでもダメということだ。弱音を吐きたくても、自分の意見が正しいと信じる根拠があっても、慰めてほしくても、受け付けてもらえない。一切拒否……どころか、坂井家では怒らせてしまう引き金だった。

――そっちの方がトラウマになりそうだな……。

桜さんも、自分でその点には気付いているのかも知れない。聡明なひとだから。

自分の心も意見も表に出せない家庭なんて、どれほど息苦しかったことだろう。想像すると俺まで苦しくなる。そんな状態はもう終わったのだと分かっていても怒りが湧いてくる。

「今は潮が引いてる時間ってことなんですよね?」

桜さんが楽し気にこちらを見上げた。その微笑みがとてもとても愛しい。

磯では潮溜まりや岩の隙間を子どもたちが覗き込んでいる。何かを指差したり、カニを捕まえたり、元気な声が聞こえてくる。そして、彼らそれぞれのそばには見守る大人たち。

桜さんも俺から手を離し、いそいそと岩場を進んで行く。隙間を用心深く越え、でこぼこの岩を一歩ずつ確かめながら。振り返って俺に笑いかける様子は子どもみたい。やがてスカートをたくし込んでしゃがみ、足元をじいっと覗き込んだ。

「何かいる?」

俺の問いかけに顔を上げ、首を傾げる桜さん。

「フジツボ……?」

あまり心躍る生き物ではなさそうだ。

「さっき、向こうでイソギンチャクって言ってたけど」
「おお! いるなら見てみたいです。イソギンチャクって言うくらいだから、きっと磯にいるんですよね? 水がなくてもあの形なのでしょうか?」
「あの触手ひらひらは水がないと難しそうだよね」
「これ、イソギンチャク」
「!!」

よこからにゅっと出てきた小さいバケツ。青いプラスチックの底に黒っぽい丸いものがいくつか転がっている。

「え? これ?」

幼稚園児くらいの男の子が勢いよくうなずいた。日に焼けた顔がいかにも外遊びに慣れている感じだ。俺たちの会話が聞こえて、自分で採ったイソギンチャクを見せてくれたらしい。

「採れるんだ? なんかコロッとしてるんだね」

桜さんが感心した様子で言うと、男の子は「海の水入れると出てくる」と言った。どうやら水がないときには触手を引っ込めてしまうということのようだ。続けて「毒あるやつもいる」と説明され、桜さんが「え?! 大丈夫なの?!」と訊き返している。彼女のおおらかな反応は子どもと相性がいいようだ。

男の子が父親に呼ばれたのを機に、岩場の突端まで行ってみようと誘った。桜さんは瞳をきらめかせて頷き、立ち上がる。さして広くもないこの磯が、桜さんがいるだけで、まるで冒険の舞台のように感じられる。

「この辺が限界かな」
「海ですねえ……」

手をつないで広い海を前にしているうちに、無性に桜さんにキスしたくなってきた。けれど、すぐ後ろで家族連れが賑やかに遊んでいるこんな場所では俺には無理だ。仕方なく、つないだ手に力を込めた。

彼女がこちらを見上げた気配。そして。

「どこかに冒険に出ますか?」

見返すと、楽し気に俺の答えを待つ桜さん。冒険の舞台のようだと感じたのは彼女も同じだったらしい。

「そうだね」

視線を彼女から海へと戻す。

冒険。挑戦。桜さんとふたりで。

「結婚したいな」

自然に言葉が出てきた。

まるで当たり前のことのように口から零れ落ち、照れくささも何もない。同時に、桜さんに手を引っ込められないようにしっかりと掴んだ。

「結婚って冒険だと思わない? 不安もあるけど、わくわくする」

隣を見下ろすと、桜さんが俺の本気度を確かめるように目を見開いてこちらを見つめていた。

「一緒に冒険に出ようよ。今すぐじゃなくていいけど」

言いながら自分で笑ってしまう。

「なんか……未知のことに挑戦するって考えたら、結婚が出てきた。桜さんと一緒に挑戦するのはきっと楽しいに違いないよ」

桜さんは固まったまま。驚きが大きかったのか困っているのかは、表情からは読み取れない。

「ははっ、ごめんごめん、突然でびっくりしたよね。急に言っちゃって自分でも半分驚いているけど、ずっと思っていたことだから」
「あの……、ありがとうございます」

握っていた手を緩めると彼女の手がするりと――抜け切る前に俺の指先を握って止まった。まるで命綱にぎりぎりのところで掴まるみたいに。

「わたし……、風音さんとなら冒険に出てみたいです。でも……」

彼女の唇が次の言葉を言いかけて止まる。少しの間、訴えるように俺を見つめてから、諦めたように瞳を閉じてため息をついた。

「今は『はい』って言えない。考えないといけないことがあるんです」

項垂れる桜さん。悲しい思いをさせてしまったことが申し訳なくなる。お詫びの気持ちと愛情を込めて彼女の肩を抱き寄せ、ぽんぽんと叩く。

「いいんだ。急がなくていいからね。俺だって、今日、プロポーズするとは思ってなかったなかったんだから。自分でもびっくりしちゃったよ」

冗談めかして伝えると、彼女も微笑んでくれた。弱々しくだけれど。

「よし。じゃあ、今の話は置いといて、何か食べに行こう。歩いたからお腹すいたよ。水分補給もしないと」
「……はい」

戻る道でも手をつないだ。来る時と同じように話し、笑っているその裏で、お互い慎重に言葉を吟味しているのを感じる。

口に出してしまった言葉はもう元に戻せない。俺たちの関係に、俺が次の分岐点をはっきりと示してしまった。そこに向かって進むしかないことを。

ただ……。

――桜さんも、気持ちは俺と同じ。

それが分かってほっとしている。それを口に出してくれたことが。たとえ今は「はい」と言えないと言われても。

決断できない理由は心の深い部分に根差しているのだろう。それを押し退けて桜さんに決断をさせるくらいの何かを、俺が桜さんに提示できるかどうか。桜さんの決断はその点にかかっている。そのためには……。

俺の思いを根気良く伝えていくことしかないのかも知れない。





◇◇◇ 桜 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

――右足、鯉口を切って……抜刀。

夜のリビング。テーブルとソファーを端に寄せたとはいえ、思い切り動けるほどの広さはない。

――正眼の構え。

鏡の代わりは年末に買った大画面テレビ。つやのある黒い画面は、蛍光灯の下で十分にその役割を果たす。と言っても顔と足元は映らないけれど。

――血振り。納刀。

手元を見ない。視線は前。鞘引き……、帯がきつい。

右手を帯に移して後ろへ。つま先が上がらないように。頭が上下に揺れないように。そして終了……。

「んんんんん……、できない!」

ダメだ。特に納刀が。形の締めくくりであり、黒川流の特徴ともいえる、大事な平納刀。

もう四十分も同じことをやっているのに、どれだけやっても上手くいかない。来月には他人様に見せるのに……。

鞘の引き方。右手の位置。鯉口の向き。姿勢。握り方。

一回ごとに直すべきところを確認している。やっているうちに、教わった言葉も頭によみがえってきた。けれど、どうしても上手くできない。

「……一休みしようかな」

一旦、気持ちを切り替えた方がいいかも。刀を外して……。

「ふぅ」

ソファーに座ると力が抜けた。肩に力が入り過ぎていたのかも知れない。軽い疲れが心地良い。

深呼吸をすると、のびのびとした気分とともに湧いてくる幸福感。誰にも文句を言われず、監視されることもない我が家。ぼんやりできるこの時間。なんて幸せなんだろう!

――あ。

そう言えば、わたし、悩んでいたのだった。風音さんとのことで。

でも、今は気分がすっきりしている。何も片付いたわけじゃないのに。なんだかさっきまでの悩みが大したことではないような気がしている。

刀を持ったら刀のことに集中する。いつか風音さんが言っていた、そのとおりになったってこと?

そうかも知れない。わたしにもできるってことだ。

風音さん……。

結婚のことは急がなくていいって言ってくれた。お言葉に甘えて、言われたとおり、ゆっくり考えることにしよう。今は秋の演武に向けて頑張るだけ。都合の良いことに、鏡代わりのテレビもあるし。

――あのテレビ……。

テレビのことを考えると、どうしても気分が重くなる。向こうの戸を閉めっぱなしにしていることが気になるから。

この大きいテレビ。

これはお母さんの要望で、値段的にもスペース的にも少し無理をして買ったものだった。けれど、お母さんがこのテレビを見ることができたのはほんの二か月程度。前触れもなく、お母さんの人生は途切れてしまった。

「…………」

そっと和室の戸を窺う。閉まっているその向こうにあるのは……両親の仏壇。

お母さんが亡くなって半年が過ぎた。それだけ経ってもまだ葛藤が消えない。

こんなふうに寛いでいる時、不意に頭の中にお母さんの声が聞こえてくる。「閉めてあったらテレビが見えないじゃないの! 気が利かないんだから!」その他もろもろ、言われるであろう言葉が延々と。わたしは……とても意地の悪いことをしているのだ。

戸を開けさえすれば、こんな罪悪感に襲われずに済む。でも……、どうしても戸を開けっ放しにしておく気になれない。

ひと続きの空間の中にお母さんがいる――気配がある――ということに、もう耐えられない気がしている。わたしを自由にして! と、叫びたくなる。

自由。……自由。

今のわたしは自由なはずなのに。

お葬式の後しばらくは、何もしない時間を持つことに罪悪感があった。いつも自分がきちんと役目をこなしていることを示さないといけない気がしていて、家事や有意義なことを見付けて動き回っていた。お母さん関係の手続きや整理するものもあったし、誰かに咎められないように――母親がいなくなったからって羽を伸ばしている、などと思われたら嫌だと思って、一休みすることもためらわれた。

……というか、一休みという行為に馴染みがなかったというのが真実かも。お母さんはわたしが座っていると「怠けている」と文句を言うひとだったから。そもそもテレビもこのソファーもほぼお母さん専用で、わたしが座るのはダイニングの椅子だった。

でも、あれは……お葬式から二か月くらい経ったころ? 急に、手を抜くことを思い立った。

仕事が忙しい日がずっと続いていて、疲れ果てて帰る途中だった。それまで我が家ではあり得なかったことを、ふと、「やってもいいんだ!」と気付いた。それは ”夕飯にお弁当を買って帰る“ こと。以前はお惣菜を買って帰ることさえタブーで、一食分まるごと買うなど論外だったのだ。

けれどもう家にはわたしに嫌味を言う人はいない。無理に頑張る必要はない。わたしの好きなようにして良いのだ。そう気付いた時の解放感に驚いた。まるで、体にぐるぐる巻きになっていたロープが一気に解けたようだった。

それからは、やることを徹底的に減らした。掃除、洗濯、片付けものは心地良く暮らせる最低限のレベルに。料理だけは、自分で作る方が好みに合うことが分かったので、今でも基本的には作っている。

そして――テレビを見る時間が増えた。連続ドラマを見られることが嘘みたいで、新鮮な経験だった。ただ……。

テレビを見ていると、亡くなった家族の写真が飾ってある部屋が出てくることがある。そういう場面を見ると苦しくなる。写真を飾る気になれないわたしに、 ”心の冷たい娘“ という事実が突き付けられるから。

心が冷たい……。お母さんに何度も言われた言葉だ。

思いやりがない。気が利かない。自分のことしか考えない。……直そうと思ったのだけれど。

「自分よりも他人のことを優先に考えるのが、人として当然」

事あるごとに言われてきた。

その考え方にはわたしも異論はない。そうでありたいとも思う。だから自分のことは後回しにしてきたつもり。けれど、お母さんにはそうは見えなかった。

わたしのやることは全部お母さんの期待と違っていて……、何をやっても文句を言われた。たぶん、本当にわたしには他人の気持ちが分からないのだ。あるいは、わたしの思考が一般と違っているか。

そして今は、仏壇や遺影にまで意地の悪いことをしている。自分の気持ちを優先にしている。

つまり、わたしが自分勝手で心が冷たい娘だと証明されたということ。お母さんの言葉は真実だった。やっぱり親だから、娘のことを正しく判定できていたってことかな。

「ふふっ……」

もう……認めるしかないかな。ずっと抵抗してきたけれど。

要領が悪いとか、他人の気持ちを察することができないとか、ほかのことは事実だから仕方ない。だけど、心が冷たいということだけは認めたくなかった。そんな人間にはならないように、周囲に気を配ってきたつもりだ。

でも、仕方ない。確かにそうなのだから。そういう事実があるのだから。

わたしは冷酷な人間。意地の悪いことを平気でできる人間。自分のことしか考えない自分勝手な人間。そういうこと。

……心が冷たい、か。

そんなわたしが誰かと一緒に幸せになりたいなんて、思っちゃいけないね。自己中心的なふるまいで相手を不幸にしてしまう。

お母さんも言ってたよね、「お前が結婚なんてできるわけがない」って。誰にも好かれるはずがないって。その言葉どおり、今まで一人も希望者はいなかった。

なのに風音さんが突然現れた。輝は、お母さんという重石が無くなって、わたしが変わったからだと言ったけれど……。

でも、わたしの本質が簡単に変わるわけではないと思う。逆に、重石が無くなったことで今までよりもはっきりと表れるかも知れない。実際、戸を閉めっぱなしにしているし。

どうして風音さんは気付かないのかな、わたしが自己中心的な人間だって。わたしが隠していたから? ……そうだよね。隠してた。

だって、一目で憧れた相手だったんだもの。

知り合ってみたら親切で、真っ直ぐで、どんどん惹かれてしまった。そういう相手に、冷酷な人間だなんて思われたくないよ。

でも、もう駄目だ。

今まではわたし自身が否定してきたから、隠すことができた。けれど、それを認めた今は、黙っているわけにはいかない。結婚まで考えてくれているひとに知らんぷりしていることはできない。

話さなくちゃ。そのせいで関係が壊れてしまっても、それを受け入れる覚悟をして。

結局、わたしはひとりで生きて行くってこと。要するに、これまでと同じってことね。

でも……自由がある。以前はなかった自由が。

剣術も続ける。偶然始めた剣術で、なかなか上手にならないけれど、今ではわたしの一部のように感じている。

だから、心を強く持たなくちゃ。

わたしは大丈夫。今までだって、片思いはあったもの。恋が実らないからといって、人生が終わってしまうわけじゃないと分かっている。なにより今は自由があるのだし。

風音さんは何て言うかな。……いや、想像したってどうにもならない。希望は持たない。ただ覚悟だけ。

悲しい。考えると悲しくなる。けれど、どうしようもない。だから……今は練習しよう。刀を持つと、ほかのことは忘れられる。さあ、立って。刀を差して。

お母さんのテレビ。それが今は鏡代わりにわたしの役に立っているなんて、ちょっと皮肉な感じ。

――鏡、か……。

稽古のとき、風音さんはよくわたしと並んで鏡に向かってお手本を見せてくれる。

その姿がしっかりと記憶に焼き付いていて、動きをコピーしようと思いながら練習している。それに、わたしの動きをじっくりと見て、修正したり、できない理由を考えたりしてくれる。その時間が有り難くて楽しくて、とても……好きだ。

ダメだ。風音さんのことを思うと、楽しいことばかり思い出してしまう。そして、何もかも上手くいきそうな気がしてくる。

どうしてこんなに楽天的な気分になるのか。さっき感じた悲しさは嘘ではなかったのに。情緒不安定なのかしら?

――さあ、姿勢を正して。

風音さんに伝えなくちゃ。でも……このまま進みたい。

――呼吸を整えて。

黙っているのは卑怯だ。それはできない。そして話したら……。

ダメだ。ふたりで幸せになれる可能性を捨て去ることができない。一緒に笑顔で暮らしている場面が頭から消えない。これはわたしの願望が見せる夢? それこそ自分勝手の証拠だ。

風音さん……。

幸せになる方に賭けてもよいのだろうか。でも、賭けに負けて、風音さんが苦しむことになったら……。

ごめんなさい。決心がつかない。

もう少し保留にさせてください。わたしの覚悟ができるまで。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇




稽古での桜さんが変わった。

はっきりした変化ではないが、明らかに、何かが。

弱気な発言が減り、質問することが増えた。覚悟のようなものが芽生えたとでもいうのだろうか。真面目なのは以前からだけれど、そこに落ち着きが加わったようにも感じる。初めての演武に向けての変化かも知れないし、これまでの稽古を経て何かを見つけたのかも知れない。

きっかけは何であれ、前向きな変化は歓迎される。特に桜さんの場合はもともと控え目な性格だから、質問するにしても、誰かの邪魔をするほどになるわけもない。教える側としては、困っていることを申し出てもらった方が指導もしやすい。

祖父も、桜さんに教えるのが楽しそうだ。特別扱いしているという意味ではなく、自分の指導に対する桜さんの反応を楽しんでいるように感じる。

彼女は祖父の言葉を素直に聞き、きちんと礼を言う。少々厳しい言い方をされても落ち込まないし、「こうですか?」「こっちですか?」と何度でも繰り返して確認する。敬意を持って接しつつも、基本的に彼女は祖父に対して萎縮せず、教えを明るく素直に、そして柔らかく受け止める。こういった態度の根底には祖父に対する信頼が流れているように思う。

そんな桜さんを、祖父は孫のように感じているのではないかと思ったりする。思えば祖父は彼女が小学生のころから知っていたわけだし、もしかしたら義理の孫になる可能性もあるのだから。

でも……、実の孫である雪香にはときどき遠慮している気配があるから、孫扱いとは違うかな。祖父と桜さんに仲良くなって欲しいという俺の願望で、特別に見えるのかも知れない。

義理の孫……か。

海で思わず口にしてしまったプロポーズについては後悔していない。俺は形式ばったことは苦手だから、自然な形で伝えることができて良かったと思っている。もしも桜さんがロマンティックなプロポーズに憧れていたとしたら申し訳なかったけれど、たぶん彼女はそういうタイプではない。あの時、怒っても、失望してもいなかったし。

でも、オーケーしてくれたわけじゃない。考えないといけないことがあると言った。つまり、断られる可能性もあるということ。

なのに、俺の頭の中には桜さんとの楽しい生活が次々と浮かんできて、具体的に話を進めたい気持ちばかりが募る。それがエスカレートする度に、断られるシーンを強制的に想像してブレーキをかけている状態だ。とは言っても。

桜さんの気持ちは俺と同じなのだ! 間違いなく!

だからきっと、前向きな彼女は自分の迷いに決着を付けて、俺と一緒に進む決断をしてくれる。それまで何か月かかっても、俺は待つことができる。だって、稽古で会えるし、ふたりで出かけることも断られていない。

そもそも以前にも、一緒の将来を考えていると伝えてあり、今回も返事を迫ったわけではない。要するに、今までと状況はたいして変わってはいないのだ。

ただ、少し心配なのは、あの低い自己評価。彼女がひとりで考えると、あれに捕まってしまうのではないだろうか。そうなったら簡単には進めなくなる。それどころか、きっぱりと断られてしまう可能性だってある。

一度断る決心をしたら、頑固な彼女のことだから、考えを翻させることは困難を極めるだろう。

そうならないために、俺は桜さんと今までよりもたくさん会うつもりだ。だって、俺と一緒にいると何でも上手くいきそうに思えるというのだから。

本当は、常に俺と一緒にいればいいのだ。そうすれば彼女はいつも未来に希望を持って過ごすことができる。気楽すぎるかも知れないが、これが一番良い解決方法だと思う。



丹田(たんでん)がどうしても分からないんです。おへその下って言われたのですけど……」

ひとりで抜刀術を練習している桜さんの様子を見に行くと尋ねられた。

「うん。手の幅くらい下かな」

丹田は体の中心、あるいは重心などと言われ、場所は「へそ下三寸」と説明されたりする。丹田に力を入れることで姿勢を保ち、体と力を上手く使えるようになる。教わったのはたぶん、入門して間もなくのはずだ。

「腹筋とは違うんですよね?」

眉間にしわを寄せて自分のお腹に手を当てている。肩や腕と違って教えるときに触れない場所なので、確かに分かりにくいかも知れない。

もしかしたら、夏の間もずっと考えていたのだろうか。自分で考えるだけ考えて、ようやく尋ねてみたらしい。

斬ったときに前傾してしまうのは丹田が上手く使えていないのだろうとは思っていた。でも、そもそも場所が分からないということは考えから抜け落ちていた。

「ちょっと構えて、正面斬ってみてくれる?」

返事をした桜さんが刀を抜いて正眼に構える。上段に振りかぶり、一歩出ながら下段まで振り下ろすとひゅっと軽い音が出た。彼女の上達に思わず微笑む。そこでストップをかけ、前かがみになっている姿勢を直す。

「今、腰を正面に向けてるよね? その中心のあたりを意識してみて。で、そこに芯が入っているような気持ちで上体を支えるんだ」
「腰の中心のあたり……」

桜さんはつぶやきながら、下段のままバランスを探る。

「あれ? ……ということは? 骨盤の中……みたいな?」

確かめるように俺を見上げる。

「うん、そうそう、そのあたり」
「そこに芯が入っているように……」

大きく踏み出した足の上で上体がまっすぐに起き、腰が安定した。

「体が楽になった気がします」
「そうだよね。今度は正眼でやってごらん」

構えなおすと、今までよりも上半身の揺れが少ないのが分かる。

「ああ……そうなんですね! ずっと間違えていました」
「間違えて?」

「分からなかった」ではなく、「間違えて」?

「お腹の表面にあると思っていました。だからなんだか変だったんですね。ここなら力が入ります」

すっきりした表情で彼女が言い、踏み込んで正面を斬った。まだ揺れるけれど、さっきよりも上体が起きているということは、正しい方向に向かっているということだ。

「表面ではないねぇ。どうしてそんな勘違いを……」

体には厚みがあるのだから、重心は表面にはならないはずなのに。首をひねる俺に彼女は苦笑い。

「おへその下って言われたので……。ネットで検索したときも、正面からの人体図を見たから……。そのまま鵜呑みにしちゃったんですね」
「ああ……」

説明を聞くと納得できる部分もある。とは言え、これは桜さんの極端な素直さに起因する、彼女ならではの勘違いのような気がする。輝さんが、桜さんは簡単に物事を信じてしまうと言っていた、まさにその一例かも。

「間抜けですねぇ。恥ずかしいです。ちょっと考えれば分かるはずなのに」

まあ、この程度の勘違いはご愛敬というところだろう。それに、今はちゃんと分かったのだから、目出度し目出度しということで。

「じゃあ、丹田が分かったところで、一緒に抜刀術やってみようか」

俺の提案に桜さんはぱっと顔を輝かせた。

「ありがとうございます! 隣でやっていただくと、とても勉強になります」

俺たちの将来の話にも、こんなふうに笑顔できっぱりと同意してくれないかな。「いいですね! 結婚、しましょう!」なんて。

いそいそと隣に並ぶ桜さんを見ながら溢れてくる愛しさともどかしさを、そっと吐息で逃がす。

次に会えるのは週末だろうか。会えない日には電話をしよう。うちに遊びに来てもらうのもいいかも知れない。それともちょっと旅行に――。

「お願いします」
「では」

並んで鏡に向かって開始の姿勢を取ると、静かに雑念が消えていく……。




九月も後半に入った。

桜さんはまだ返事をくれない。まだ決心できないのだ。あるいは、演武のことでいっぱいいっぱいなのかも知れない。

不安が頭をよぎることもあるが、ふと、翡翠のことを思い出して覚悟が決まった。一柳さんは翡翠の返事を半年くらいも待ったのだ。翡翠を幸せにできるのは自分しかいないと信じていたから。

俺だって、桜さんは俺と一緒になれば絶対に幸せになれると確信している。それに、今のところ桜さんを俺と争う誰かはいない。……いや、どこかにいるとしても、桜さん本人が気付かない程度の存在感しかない。つまり、障害は桜さんの中にある葛藤だけ。

だから、ここは待つしかない。待ちつつ連絡とデートは絶やさない。桜さんの気持ちを繋ぎとめるためでもあるけれど、俺が彼女の明るい声や笑顔を求めているという方が理由としては大きくなっている。

桜さんは相変わらず控えめで、自分から連絡してくれることはない。けれど、電話したときの第一声や待ち合わせたときの笑顔には喜びがにじんでいて、その度に胸を締め付けられるような幸福感が湧き上がってくる。

ただ最近、その感覚には中毒性があるのではないかと危ぶんでいる。俺があまりにも桜さんを求めすぎて彼女の負担になってしまうような事態は本末転倒だ。だって、俺は彼女の自由を守りたいのだから。そう考えると……。

やっぱり一緒に暮らすのが一番の解決法のように思う。

でも、演武が終わるまでは、考えてもらうのも無理そうかな。



「やっぱり納刀は下手ですね……。それに、足がバタバタしている感じです」

日曜の稽古がひと段落すると、桜さんが肩を落とした。

「いくら人前でやると言っても、入門して半年で完璧に仕上げるのは無理だよ。ちゃんと努力して、ここまでできましたってことでいいんだ。それに、人によって得意不得意があるから。桜さんは立っているときの姿勢が綺麗なのがいいよ」
「それって……動いたら台無しってことですよね」

恨めし気な目が向けられる。

「あはは、台無しっていうほど酷くないよ。それに、演武では最初と最後が綺麗なのは大事なことなんだよ。せっかく上手に動けても、最後がだらしないと、全体の印象が悪くなるから」
「確かに宗家もよく仰いますね」
「そう。逆に、最後が綺麗だと上手くできたように見えたりする」
「なるほど……」

納得したようだ。自分にも自信を持てることがあると分かってくれただろうか。

「演武では何に一番気を付けたらよいのでしょう? 技術的なこととは別で」

こちらを見上げる真剣な眼差し。桜さんのこんな眼差しに出会うといつも、こちらの気持ちも引き締まる。そういう気分にさせてくれるところも彼女の素敵なところだ。

「そうだなあ……、慌てないことかな」
「慌てない? 技の流れが速くなり過ぎないってことですか?」
「いや、そうじゃなくて」

本番だと緊張のせいか、流れが速くなりがちなのは事実だ。けれど、複数で演武をするときには基準の一人が決まっているので、そこに合わせることでスピードを抑えることができる。その部分ではなくて。

「途中で失敗しても慌てないってこと。顔にも態度にも出さないで、当たり前のように続けるんだ」
「やり直しても……?」
「そう。やり直すとほかの人から遅れてしまうけど、その人が定位置に戻るまで周りが待ってくれるから、急ぐ必要はないんだ。俺も、納刀を三回もやり直したことがあるよ。去年は居合で袴の裾を踏んじゃったし」

桜さんが目を丸くする。部活や習い事の経験がない彼女には、普段はできていても本番で失敗することがあるなど思ってもみなかったのかも知れない。

「言われてみると、オリンピックの選手も本番で失敗することがありますね……」
「え? オリンピック?」

オリンピック選手は自分の可能性ぎりぎりのところで戦っているわけだから、比較の対象としてはあまりにもレベルが高過ぎて、一緒に語るのが申し訳ない。たくさん練習して本番に臨む、そして本番で最高のパフォーマンスを目指す、という点では確かに同じだけれど。桜さんにとっては、同じくらいの覚悟ということかも。

「ん……まあ、とにかく、失敗しても顔を上げて続けること。自信があるように見せることは、実際の戦いの中でも大事なんだよ。それだけで相手にプレッシャーを与えることができるから。戦略としてわざと弱く見せるのでなければね」
「弱く見えて本当に弱いと、目も当てられませんね……」
「うん。真っ先にやられてしまうね」

ゆっくり頷きながら「生き残るために……」とつぶやく桜さん。

大げさだと思うかも知れないが、剣術とはそもそも命のやり取りをする場面を想定しているのだ。例えば抜刀術は外での襲撃への対応、正座から始まる居合は室内で襲われた場合、小太刀を使う風返しは刀を失った不利な状況で戦うこと。つまり、(かた)というのはどんな状況でも勝てる=生き残る技術を身に付けるための、稽古用の課題のようなものなのだ。

ただ、今は刀で戦うことはないので、一般の人々は演武として目にする機会しかない。そして、上級者の技の美しさに感心する。

上級者の演武の美しさは結果として美しいということで、形が美しく作られているわけではない。その根本は正しい体の使い方と確かな技術、そして気迫だ。

斬り結び、狙いすまし、攻撃する。その視線と切先の先に敵がいる。気を抜けない命のやり取りを、見ている人たちに見せられるかどうか……。

と、言葉で説明できても、すべてを身に付けるのは簡単ではない。だから、まずは堂々とやりきることから。

「ほかに――技術的なところで大事なこと、わたしのレベルで目指すことって……、たくさんあるのは分かっているのですけど、その中で特に押さえておくべきことはどれでしょう?」
「そうだなあ……」

体の揺れについては、丹田が理解できてから少しずつ良くなってきている。だとすると? 細かいところは置いておくとして……。

刃筋(はすじ)と視線、かな」
「ああ……」

桜さんが深く頷いた。自分で分かっているのだ。

刀は振る向きと刃の傾きが合った状態で真っ直ぐに振りきらないと斬れない。ずれていると対象に当たってはじかれたり、刃が食い込んだ途中で動かなくなったりする。なので、この ”刃筋を通す“ ことが基本であり重要でもあるのだが、意外と難しい。桜さんは特に袈裟斬りで苦労している。

そして、視線。敵を見て、そちらに体の正面を向けるというのが基本だ。さらに、見たら視線を外さないこと。目標から目を離して攻撃することはあり得ないし、視線と一緒に体の軸が動くこともあるので刃筋がブレやすい。

けれど、桜さんは仮想の敵を思い浮かべるのが難しいと今も言っている。性格的にも、戦うことを想定するのは得意ではないだろう。一度前に立ってあげたときには少しつかめた様子だったけれど、今でも刀の動きを目で追っていることが目に付く。そして相変わらず、合間合間に下を向く癖がある。

「素振りだとだいぶ良くなっているんだけどね」
「動きながらだと難しいです、振り向いたときとか……。正しく振れているか不安なので確認したくなるし」

そう。抜刀術には前だけじゃなく、後ろや斜め前からの複数の敵を想定した形も含まれている。斬り方も、面、下段まで、水平まで……などという具合に混在している。

「視線というより、とにかく敵がいるはずの方向に顔と腰を向けるようにするといいよ。あとはそのまま視線を下げないこと。技のつなぎ目も、絶対に顔を上げていること」
「はい」

うなずいた彼女が右、左、右、と顔を向けてみる。その途中、正面に差し掛かったところで一旦視線が下がってしまっていることを伝えると、「うわ~、そうですか~」と悔しそうな顔をした。こういう生き生きした反応には思わず微笑んでしまう。

「あと一つだけ」

そう声を掛けると、彼女はたちまち姿勢を正し、真剣な表情でこちらを見上げた。

「これからは、斬ることを意識してみて」
「斬ること、ですか?」
「そう。刀を振る、というよりも、斬る。誰も見えなくてもいいから、顔を向けた場所をしっかりと斬ること。そのときはここ、切っ先(きっさき)から物打(ものうち)の部分を使うっていうことを忘れないで」
「……はい」

桜さんが心に刻むように深く頷いた。後半は常に言われることだから、彼女も分かっていることではあるけれど。

「やっぱりちゃんと見ることが大きな課題ですね。下を向かないで……」

桜さんが唇を噛む。おそらく刀の扱いよりも視線の課題の方が彼女にとっては大きな挑戦なのだ。

俺も、彼女が自分なりに努力をしているのは知っている。それでも直らないのは、下を向くことが彼女にとって単なる習慣ではないからなのかも知れないと、最近は思っている。

極端なほどに低い自己評価。

自分に自信が持てず、他人との対立を恐れる彼女が、自分の存在に気付かれないように世界の片隅で小さくなっている――というイメージが俺の中にはある。桜さんは視線を下げておくことによって世間の人々を自分の視界から消し、安心できる空間を創り出しているのではないだろうか。まるで周囲の雑音をノイズキャンセリングのヘッドホンで消すように。

だとすると、彼女にとって顔を上げ続けることは、他人への恐れを克服するという心理的な戦いになるはずだ。それでも――。

「頑張ります」

そう。桜さんは「できない」とは言わない。これが彼女の強さだ。

こういう桜さんを、俺は心から愛しく、そして誇らしく思う。でも……。

「できる範囲でいいからね。無理はしなくても」
「はい」

そして、本当に大変な時は俺を頼ってほしい。




◇◇◇ 桜 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


「それで? クロには何て言われてるの?」

テーブルの向こうから翡翠が軽く身を乗り出した。小さく揺れるピアスの飾りが翡翠の品のある雰囲気にとても似合っていて、見ているわたしが幸せな気分になる。

テーブルの上にはパスタと数種類のチーズが載った皿とシーザーサラダ、そしてワインのグラス。パスタはさっき店員さんが大きなチーズの塊の中で仕上げをしてくれたもの。今回、翡翠が選んでくれたのはチーズとワインが自慢のレストランだ。

「うん。振るんじゃなくて、斬るんだって」
「は?」

パスタを取り分ける手を止めて翡翠に目を向けると、眉間にしわが寄っている。なぜ?

「桜、誰かにしつこく言い寄られてるの?」
「……ん?」
「確かにそのとおりだよ。しつこい男はただ振るだけじゃなくて、徹底的に斬り捨てなくちゃダメ。甘い顔したら、いつまでもつきまとわれるからね」
「んんん……?」

話がずれているみたい。今まで演武に出ることを話していたはずなのに、いきなり「しつこい男」なんて、何を勘違いしているのだろう。

「しつこい人も気軽な人も、特に出てきてないけど。わたしに言い寄る人なんて、そうそういないよ」

風音さんが現れたことだって、未だに不思議なのに。

わたしの答えに翡翠は鼻息荒く腕を組み、椅子に体を預けた。

「それはそれで、あたしにも意見はあるけどね」

彼女はわたしを高く買ってくれているため、”実はモテる説” の支持者なのだ。でも、実績がゼロなのだから、翡翠の評価が世間とずれていると考える方が正しいだろう。そして風音さんは――蓼食う虫も好き好き、とか?

そんなことを考えながらパスタを取り分けていると、翡翠はあきらめた様子でため息をついた。

「あたしはね、剣術の話題になったから、続きの話として桜とクロの関係がどうなったか訊いたんだよ」
「あ、なるほど」

納得。翡翠にしてみれば、演武よりも恋愛問題の方に興味があるのは当然だ。風音さんとは長い付き合いの友達なのだし。

「まったく……、相変わらずのんきなんだから」
「あはは、ごめんごめん」
「で、どうなの?」

あらためて尋ねられ、どう話せばよいか頭の中を整理する。風音さんに早く話をしなければと思いつつ、演武を言い訳にして後回しにしていることが後ろめたい。

「一応、いつかは結婚したいって言われてる」

翡翠の表情が輝いたのを見て、急いでストップをかける。

「でもでも! 返事はまだいいって。ほら、さっきの演武のこともあるし……」
「そんなイベントは関係なくない? 返事をしたからといって、すぐに入籍するわけじゃないし」
「でも、小説とかにはたまにない? 体育祭が終わったら、とか、大きな仕事にひと段落着いたら、とか」

自分で言ったものの、わたしの場合は向き合うのを先延ばしにしているだけで、それで悩みが解決するわけではない。演武に願掛けしているわけでもない。翡翠が「そうねえ……」と首を傾げているのを見たら、どんどん無責任な気がしてきた。

「つまり、桜が決断できてないってことね?」
「まあ……、そうね」

返事をしていない理由は翡翠にも話しづらい。自分が冷酷で自己中心的な人間だなんて、友達にだって告白するのは辛い。翡翠に対する友情には打算も損得勘定もないということを疑われるかも知れないし。

もし話したとしても、聞いた相手としては否定するのが社交辞令の一つだろう。そんなふうに気を遣わせるのは申し訳ないし、慰めにもならない。

空しい気分でフォークにパスタを巻き付けていると、翡翠が「そうだ、今は食べよう!」と力強く頷いた。スマホを取り出し、「楽しい話をしないとね」と言いながら画面をタップする。

「結婚式の衣装を選びに行ったんだよ。それがさあ、ちょっと見てよ。イッチーが何を着ても七五三みたいで」

見せられた写真で思わずむせてしまった。

タキシード姿の一柳さんの数枚の写真。体格の良さと人のよさそうな顔が、良い家庭のお坊ちゃん風の雰囲気を醸し出している。

「ひ……翡翠は? 翡翠の方を見せてよ」

あんまり笑うと失礼なので――翡翠の夫になる人だもの――一柳さんの写真から視線を外した。でも、すでに記憶に焼き付いてしまっている。家に帰ったら思い出して笑ってしまうのは確実だ。

「あたし? 十着以上、着たんだよ! 五、六着のつもりで行ったんだけど、次々に出してくれてね」
「うわあ、きれい! いいね! いいね!」

簡単にとは言え、髪をアップにした翡翠は美しく、つやつやと輝く白いドレスを纏った姿は結婚式場のPRポスターかと思うほど完璧だ。

「翡翠の美しさには誰も敵わないね」
「ありがとう。イッチーは反応薄かったけどね。美的感覚がいまいちだから」
「そこも好きなんでしょ?」

わたしの指摘に翡翠は秘密めかした微笑みで応じた。

「ふふっ、『見た目に惚れたんじゃなくて、翡翠が翡翠だから惚れたんだよ』って」
「なんだか……感動するなあ」

一柳さんならきっと、照れも気取りもなく言ったに違いない。自分の気持ちを表現する当たり前の言葉として。ちょっぴり世間一般とは感覚がズレているけれど、誠実さは折り紙付きだ。

「……あたしね」

ワインが三杯目に入ったころ、翡翠がふと遠い目をした。

「プロポーズの返事をするまで何か月もかかったでしょう? その間に一番悩んだのは、自分のせいでイッチーが嫌な目にあったらどうしよう、不幸になったらどうしようってことだったの。自分の過去を打ち明けてふられることよりも、そっちの方が怖かった」
「翡翠……」

過去を打ち明けることよりも、大好きな人に、自分のせいで嫌な思いをさせることの方が辛い……。それって今のわたしと似ている気がする。

一番の願いは相手の幸せ。それは、どんな事情を抱えていても同じだ。

「翡翠は悪くないのにね……」
「うん。そうなんだよ」

翡翠が頷いた。その普通の――(りき)みも闘争心もない口調に、逆に胸を衝かれた。

「あたしは悪くないの。こういうふうに生まれたんだもの。……これってね、十代のころからずっと自分に言い聞かせてきたことなの。大学に女性の服で通うことを決めたときも、戸籍を変更するときも。普段、ちょっとしたことがあったときも」
「うん」

そうやって勇気を出して、自分の道を切り開いてきたんだね。その道には戦いも葛藤もあったはずなのに、ここにいる翡翠はこんなに穏やかだ。

「イッチーへの返事を悩んで悩んで悩みぬいていたときに、ある日突然、イッチーもきっとそう言ってくれるって気付いたの」
「……うん、そうだ。そのとおりだよ!」

一柳さんは物事のこまごました部分には頓着せず、核心をまっすぐに突く。重要なことを見極める目があるのだ。

翡翠がにっこりした。

「ってことは、あたしが悩んでいるのは、要するにイッチーが信じられないってことになるでしょう?」

悩んでいるのは相手を信じられないから……? 相手の愛情、いいえ、それだけじゃなく、本質を?

「つまり、あたしがイッチーを信じるか信じないか、その決断にかかってるってことだったわけ。で、信じるって決めた。イッチーはきっと、ずーっとあたしの味方でいてくれるって」
「うん、わたしもそう思う。一柳さん、翡翠のことを一生大事にすると思うよ。他人の意見で簡単に気持ちが変わったりするひとじゃないもん」
「そうなんだよね。まあ、融通が利かなくて困るときもあるんだけど」

くすっと笑って翡翠が続ける。

「それにね、あたしが悩んでるのは未来のことでしょう?」
「うん、そうだね」
「だったら、それが本当に起こるかどうか分からないじゃない」
「……ああ、そうだ。そのとおり」

確かにそうだ。わたしは風音さんを不幸にするかも知れない(・・・・・・)……。

「で、逆にプロポーズを断ったら、確実にイッチーは悲しむ。まあ、悲しまないとしても、落ち込む」

それはそうだろう。断られても何のダメージもないプロポーズなんて、あるわけない。

「しかも、断ったあたしも悲しいんだよ? だとしたら、未来に起こるかも知れない不幸と、目の前にある確実な不幸二人分、どっちを避ける? となったら、とりあえず確実な方を避けた方が良くない? だって、未来の不幸は起こらないかも知れないし、ふたりで努力して防げるかも知れないんだから」
「そうか……。そうだよね……」
「そしてさらに、だよ」

翡翠が身を乗り出す。

「結婚したら、あたしがイッチーを幸せにしてあげることが可能になる。ただ “不幸を避けられる” だけじゃなくて、あたしが幸せをあげられる。それって素晴らしいでしょう?」

結婚したら、自分が相手を幸せに……。

「もちろん、イッチーと一緒にいられたら、あたしも幸せだしね」

微笑む翡翠から光が放射されているように感じる。

「だからね、桜」

真っ直ぐ見つめて名前を呼ばれ、思わず背筋を伸ばした。

「未来の悪い可能性をいくら考えても、断る理由にはならないよ。問題はそこじゃなくて、相手を信頼して、一緒に幸せに向かって努力できるかどうか、ってことだと思う。ちょっと賭けみたいだよね」
「賭け、か……」

ふふっと笑う翡翠を見ながら思い出した。風音さんは、結婚は冒険みたいだと言っていた。あの日、「不安もあるけど、わくわくする」と。

そうだった。風音さんは結婚に良いことばかりを想定しているわけではない。悪いこともハプニングもきっとあるだろうと、だから「冒険」と言ったのだ。自分はそれに立ち向かう覚悟ができていると……。

「覚悟の問題なんだね……」

つぶやくと、翡翠が笑った。

「ま、あたしの場合、悩み過ぎてやけっぱちになった感じはあるけどね」

やけっぱちでもなんでも、翡翠は一生をかけた賭けに出た。一柳さんがずっと自分の味方でいてくれることに賭けたのだ。

わたしに必要なのは一緒に冒険に出る覚悟。風音さんが差し出してくれている手を取って、パートナーとなる勇気。

……そうだ。以前、風音さんは、わたしたちの関係は対等だと言ってくれた。どちらかが優位なわけではないと。今だって、わたしを急かさずに待ってくれているのは、わたしの気持ちを尊重してくれているからだ。

風音さんのことは信じている。やさしい人だということも分かっている。だからこそ……冷酷で自分勝手なわたしではダメなのだ。風音さんはきっとわたしを優先しようとするだろうから、風音さんがいつも我慢することになってしまう。

冷たい心――直らない、よね。お母さんへの気持ち、どうしても変えられない。

やっぱり、ちゃんと話すしかない。まずは話をするための勇気が必要だ。パートナーの件はその次のこと。

でも、どうすれば勇気がでるの……?


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇




演武が一週間後に迫った今日の稽古は、みんなどことなく落ち着かない。地元の小さなイベントとはいえ、人前で技を披露すると思うと、自分の欠点ばかりが気になってしまうから。

「少し気持ちを切り替えた方がいいかな」

風返しで俺が同じ失敗を続けたあと、哲ちゃんが周囲を見回しながら言った。確かに今日は、俺も含めて全体的に表情が硬い。

「気持ちに余裕がないと、動きが悪くなるからなあ」

黒川流ではのびのびとした動きが良いとされ、心も同様にのびのびとしているのが理想だ。

ここひと月、それぞれ自分の苦手な部分を直そうと取り組んできている。そろそろそこから離れて気持ちを切り替えるのは良いかも知れない。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                    

宗家と話した哲ちゃんが全員を集め、演武用の稽古は終了と伝えた。その瞬間、ほっとした表情を浮かべた門人たちの中、桜さんだけはショックを受けた顔をした。自分の抜刀術の完成度が低いと思い込んでいるからだ。

「残りの時間は新しいことを教えようと思う。祥子さんと雪香は風返し、莉眞さんと清都君は居合、桜さんは表木刀を」

哲ちゃんの言葉に桜さんは今度は目を見開いた。と思ったらすぐ、口元が微かに緩んだ。わくわくしている顔だ。太くて重い表木刀を振ることに、不安よりも興味の方が勝ったらしい。

教える相手を割り振る哲ちゃんに「風音は桜さん」と当然のように言われ、偶然か故意かという疑問が頭をよぎる。けれど、どちらであっても教えることに支障はない。桜さんも気にしないだろう。ただ――、俺が、家族の視線が気になるだけで。



「まず、持ち方だけど」

桜さんの隣に立ち、表木刀を正眼に構えてみせる。

「右手と左手を離して持つ。右手は柄と刃の境目くらい。左手は端。上から押さえるように持つ」
「右手は境目……」

よっこらしょ、という様子で表木刀を抱えた桜さんが右手の位置を探る。

表木刀には(つば)はない。全体的に楕円形で、刃にあたる部分の背――峰――が平らに削ってある。

「で、左手は端……」
「居合刀を握るのと同じように、上から」
「はい」

俺でも指が届かない太さの表木刀を小柄な人が持つのは最初は難しい。しっかり握れないし、刃の部分が長いので前方が重い。バランスをとるために足を踏ん張り体を反らせがちになるが、それでは上手く動けない。

「なんだか、持っているのがやっとなんですけど。……う、腕の力が足りないんでしょうか」
「力で持つんじゃないよ。てこの原理みたいな感じで、右手で支えて左手で上から押さえる。そうすると、こんなふうに切っ先が上がるから」

こちらの手元をじっと見たあと、小さく頷いて真似ようとする。

「重心は両足の間にね」
「はい」

少しずつ修正していき、ようやく正眼で姿勢が落ち着いた。満足気ににっこりする様子が相変わらず可愛らしい。

「じゃあ、相打ちをやってみよう」

間合いを取って桜さんと向かい合う。

表木刀の相打ちはお互いの面を狙って打ち、切り結ぶ。勝負がつかずに離れて再度間合いを取り、脇構えから踏み込んで相打ち……という流れを繰り返して練習する。

「踏み込みながらこちらの面を狙って、寸止めで」
「……はい」

神妙な顔で桜さんが頷く。ほかの人の稽古を見ているので、イメージはつかめているようだ。

向かい合って正眼。桜さんは足元が落ち着かず、切っ先がまだゆらゆらしている。視線も手元とこちらを行ったり来たりで定まらない。

「手元じゃなくて、相手を見て」
「はい」

木刀の重さのせいだけではなく、桜さんの場合は他人と向き合うことへの戸惑いがあるのだと思う。けれど、向かい合っておこなう技はこれからもある。桜さんが上手くなりたいと思うなら――。

そう。覚悟を決めて、戦う意志をもって相手と向き合わなくてはならない。

――よし。

頃合いを見てこちらが木刀を振り上げると、桜さんも覚束ないながら真似をする。そして踏み込んで、面。

コン。

お互いの木刀が当たって止まる。桜さんがほっとした様子で息を吐いた。

「肘を伸ばして」
「は、はい」

切り結んだ状態の桜さんの木刀がこちらに向かって少し伸びる。

「狙うのはここ、相手の面の位置」

自分の木刀を下ろし、桜さんの切っ先を持って、狙う場所へと誘導する。こちらの頭上、およそ五センチ。

「――はい」

桜さんの表情が不安に歪む。本当に当たったらどうしようと思っているのだろう。

「当たっても大丈夫。ちょっとコブができるくらいだから」

笑顔で言ったら、ますます不安な顔をされてしまった。これまでは見えない敵しか相手にしてこなかった桜さんには、相手が怪我をする可能性がある技が不安なのは当然だ。

「基本的にこっちの木刀と当たって止まるし、いざとなると、意外とみんな、寸止めできるんだよ。止まらなくても逸らすこともできるし。今まで、頭に当たったのは見たことがないよ」
「そ、そうなんですね……」

技の途中で小手や指に当たることはある。それでも痣ができる程度で済んでいる。おそらく相手がいることで緊張感が上手く働くのだろう。

桜さんは自分に何かを納得させるように頷くと、こちらを見上げた。

「わかりました。面を狙って、肘を伸ばす、ですね。やってみます」
「うん」

正眼で向き合うと、桜さんの表情がさっきよりも引き締まっているのが分かる。覚悟を決めたようだ。

――いざ。

振り上げて、面。

コツン、と木刀同士が当たった。

「こっちの木刀に当てようと思わないで、真っ直ぐ面を打って」
「はい」
「切り結んだあとに力を抜かないで、左手を効かせて。ここまできたら、右足から下がって脇構え」
「は、はい」

慌てた桜さんが摺り足を忘れてぴょこんと跳び下がる。そこは指摘せずに脇構えが整うのを待つ。

「体はなるべく正面に向けて。刃は下じゃなく前に向ける。左手は正眼のときと同じくらいの高さで」
「はい」
「そこから上段に上げて、右足から踏み込んで――面」

ゴツッ……と今度は少し重い音になった。

「まだ遠いな。もう一度。ちゃんと面を狙って」
「はい」
「打った時に左足を引き付けて」
「あ、はい」
「もう一回。下がって脇構え。そこから上げて……面」

何度か繰り返し、リズムがつかめてきたところでストップ。

「もっと力いっぱい打っていいよ」

表木刀はダイナミックさも見せどころだ。上手くなると、相打ちでカーンと澄んだ音がする。ついでに「やああああああっ、とおおおおおおおぅ!」という掛け声もあるが、今日の桜さんはまだそれどころではないだろう。

「大丈夫だよ。左手をしっかり効かせれば絶対に止まるから」
「……自分が信用できないんです」
「当たっても木刀だと斬れないから大丈夫」

そう言っても、何か言いたそうに俺の顔を見ている。……と思ったら数秒後、急に何かに気付いたようにパチパチっと瞬きをして背筋を伸ばすと、俺に向かって頷いた。

「分かりました。遠慮せずに行きます」
「よし。じゃあ、構えて」

憑き物が落ちたように、すっきりと凛々しい表情でこちらを見据える桜さん。何かを一つ乗り越えたようだ。こういう切り替えの早さ――というか、思い切りの良さというか――も彼女の強みだと思う。

いざ、呼吸を合わせて――面。

先ほどまでよりも少し勢いをつけた木刀に、ドン、と手ごたえを感じた。

「左は手首を入れて握って、打ち負けないように」
「はい」

一旦離れて脇構え。そして、面。

桜さんの振りにも勢いが出始めた。こちらの動きに合わせられているようだ。

「視線はこっちの木刀じゃなくて、狙う場所に」
「はい」

再び離れて脇構え。そこから――面。

カン、と澄んだ音がした。今の桜さんの振りは、大きくて思い切りが良かった。

「いいよ。あと少し踏み込んで」
「はい」
「下がる時も視線は相手に」
「はい」

一本打ち合うごとに、桜さんから硬さが取れてゆく。お互いの呼吸が合って、技が一つになってゆく。その心地良さ。そして、清々しさ!

すごく楽しい!

桜さんが遠慮を手放して、真剣に、そして対等に、俺と打ち合っている。これこそが、俺が桜さんとの間に望む関係だ。

そうなれる日も近いかも知れない。



「風音さん」

稽古終了後に桜さんがやってきた。真っ直ぐに見上げる表情はどこか堂々としている。相打ち稽古の効果だろうか。

「今週、ご飯食べに行きませんか? わたしがお店を探しますから」

思いがけない申し出に返事が遅れた。桜さんからの初めての誘いだ。

何か大きな決断をしたのだろうか。大きな決断――俺たちの未来に関わること。

「もちろん、いいよ。明日でも」

微かな不安はすぐに隅に押しやられてしまった。だって、俺たちはお互いに想い合っているのだ。一緒の時間が持てると思うと嬉しさの方が先に立つのは当然だ。

「明日……」

そんなにすぐにとは思っていなかったのか、桜さんは驚いたふうだったが、すぐに「分かりました」と頷いた。

「明日にしましょう。早い方がいいですもんね」

俺に話しかけつつも、自分に言い聞かせているように見える。それを見たら、少し期待がしぼんだ。やはり、彼女の中で何か変化があって、俺に伝えたいことがあるのだろう。

伝えたいこと……。

良い返事だといいのだけれど。




「筋肉痛です……」

待ち合わせ場所で俺の顔を見るなり、桜さんが悲痛な表情で訴えた。昨日の表木刀の稽古が原因だ。

「ごめんごめん。表木刀初めてなのに、結構長くやっちゃったから」
「いえいえ、楽しかったですし、覚悟はしていたからいいんです。ただ、思ったよりも広範囲に来て……」

桜さんが「こことかこことか」と、ジャケットの上から体や腕を叩いてみせる。

「そうだよね。俺だって間が空くと筋肉痛になるよ」
「風音さんでもですか? それならわたしがこうなるのは当然ですね」

小さくため息。けれど、こちらを見上げた瞳は決意で輝いていた。

「でも、上手になりたいです。あれをちゃんと振れるようになったら格好良いですから」
「格好良い?」

桜さんからそういう言葉を聞くとは思わなかった。

「はい。上手くできたら格好良いです。雪香さんとか水萌さんとか、憧れます」
「……そっか」

俺ではなく、ね。

「あ、今日のお店はあっちなんです。点心が中心のお店なんですけど、大丈夫ですか?」
「もちろん」

にっこりして彼女が歩き出す。振り返って「ネットでは落ち着いた雰囲気だって書いてありました」と続けるのを聞き、やっぱり真面目な話をするつもりなのかと気持ちを引き締める。と同時に桜さんの手を取った。何があっても俺の気持ちが変わらないと伝えるつもりで。



おそらく彼女は静かな店を想像していたのだろう。でも、ネットの情報で来店者まで予想するのは困難だ。

店についてみると、どのテーブルでも料理と酒を前に、お客が賑やかに笑っている。酔っぱらっているのか、話し声も大きめだ。

「お店の選択を間違えた気がします……」

料理の注文を済ませたところで桜さんが悔しそうにテーブルの上で拳を握った。俺は彼女が真剣にレストラン検索している姿を思い浮かべて気の毒に思いつつも、悔しがる様子が楽しくて、微笑むのを止められなかった。

「いいじゃん、美味しそうだし。お店も綺麗で気持ちがいいよ」
「そうなんですけど……」

言葉を切って、桜さんが店内を見回す。

桜さんが選んだ中華レストランは、モノトーンで統一された設えが洗練された雰囲気だ。黒い表紙のメニュー帳には小さなせいろに入った色とりどりの餃子やきれいに盛り付けられた小皿料理の写真が品良く並んでいた。

確かに店内は賑やかではあるけれど、テーブル同士が適度に離れているから、個人的な話ができないわけではない。みんな自分たちで楽しんでいることも、こちらの会話を他人に聞かれないという点で良い気もする。……と言っても、桜さんから話があるとは言われていない。俺の取り越し苦労かも知れない。

けれど、どうしても考えずにはいられない。これまで楽天的な気持ちが勝っていた俺でも、ここにきて断られる場面が繰り返し頭に浮かんでくる。ただ、店の活気が自分に有利に働くような気もしている。――やっぱり俺は楽天家かな。

「では、お疲れさま」

俺はビール、桜さんは紹興酒のカクテル。桜さんは料理同様、お酒もいろいろ試しているが、今のところは特にお気に入りの酒には出会っていないようだ。今も一口飲んで、ふむふむという顔をしている。そして。

「あのですね」

グラスを置いた桜さんが畏まった様子で切り出した。その様子が――。

「ぷふ、ふっくくくく……」

思わず笑ってしまった。桜さんが「な、なんですか?」と、うろたえる。

「いや、ちょっと思い出しちゃって」

この展開、記憶にある。あの日とおんなじだ。

翡翠の結婚を俺に報告する使命を帯びた桜さんは、今とまったく同じことをした。乾杯の一口目の直後、居ずまいを正して用件を切り出したのだ。

桜さんは大事なことを先に済ませないと落ち着けない性格らしい。これからもこういうことがあると覚悟しておかなくては。

「ごめんごめん。どうぞ話して」

促しても戸惑い顔の桜さんは迷っている。そこに一皿目の料理が届き、桜さんが目を輝かせた。大事な話があっても、食べ物に対する興味が隠せないところが微笑ましい。仕切り直しにもちょうど良いので「お腹空いたから食べようよ」と告げると、桜さんは照れくさそうに頷いた。

蒸し鶏や野菜を一通り味わい感想を述べると、彼女は今度は俺の様子を確かめてから箸を置いた。それから自分を励ますように一つ息を吐いた。

「風音さんにはいつも親切にしていただいて、とても感謝しています。ありがとうございます」

――とうとう来たか。

気持ちを引き締め、彼女にしっかりと注意を向ける。この出だしはどの方向に流れるのか判断できない。

「でもたぶん、風音さんはわたしのことをちゃんと分かっていないと思うんです。……と言うか、隠してたことがあって」

隠していたこと? お母さんとの関係のことだろうか。でもそれは。

「言いづらいことなら言わなくても構わないよ」

悲しいことを思い出して傷付いてほしくない。輝さんから聞いたと伝えた方がいいだろうか?

それに、俺だって桜さんに話していないことがある。学生時代の黒歴史とか。

「確かに話しづらいことですけど、これは言わなくちゃならないことなんです。風音さんにも関係することだから」
「……そう?」
「ずっと話す勇気が出なくて……。でも」

真っ直ぐに俺を見ている桜さん。

「きのう、表木刀をやっている間に気持ちが強くなったというか……」
「表木刀で?」
「はい。風音さんと相打ちができるようになって――もちろん、手加減していただいているのは分かっています。でも、本当ではないにしても、あれは戦いで」

そのとおり。形であっても戦う気持ちで向き合っている。

「打ち合っているうちに、自分の中にもちゃんと立ち向かえる気持ちがあるんだって気付いたんです。それで勇気が出て……、風音さんに話す決心がつきました」
「そう。分かった。聞くよ」

どんな話を聞くことになるのか気になるけれど、それよりも、稽古が彼女に前向きな変化をもたらしたことが嬉しい。それは彼女が真剣に剣術に取り組んでいるということだから。俺と同じ思いを分け合えるということだから。

「ありがとうございます」と軽く頭を下げてから桜さんが顔を上げた。その挑むような表情はきのうの表木刀の稽古と重なる。そして、あの日の輝さんとよく似ている。どんな内容であれ、彼女は今日のために大きな覚悟をしてきたに違いない。

「風音さんは……翡翠も、わたしをたくさん褒めてくださいます。でも、わたし、そんなに良い人間じゃないんです」

お母さんに関連する話じゃない? 良い人間じゃないって……?

犯罪がらみの言葉が頭の中を駆け抜ける。仕事で不正を働いた? プライベートで違法なことを? 桜さんが? いや、まさか! あり得ない!

「……それはどういうこと?」
「わたし……自分勝手で意地が悪いんです」

性格の話か!

そりゃそうだ。桜さんと犯罪なんて、どう考えても結びつかない。そして、性格の話なら確かに俺にも関係があると言える。

それにしても、よりによって自分勝手で意地が悪いとは! 遠慮の塊のような桜さんが!

でも、本人はそうだと深く思い込んでいるわけか……。

「お前は心の冷たい人間だって、母にもずっと言われていました。最近は自分でもそうだと分かるんです。もしも一緒に暮らしたら、きっと風音さんに嫌な思いをさせてしまいます」
「ええと、ちょっと待ってね」

頷いた桜さんがグラスを手にした。少し肩の力が抜けたようだ。今のが話の重要部分だったということか。

――ふむ。

俺もビールで喉を潤す。ちょうど春巻きが届いたので、桜さんに取り分けてあげながら、頭の中を整理する時間を稼いだ。

思い出してみると、彼女は初めから自分が振られることを想定していた。でもそうはならず、俺は彼女との結婚を望むに至った。

そしてあの日、桜さんは気持ちは同じだと言ってくれた。けれど、考えないといけないことがあるとも言った。それがこの話なのだろう。自己評価が低いことは分かっていたけれど、この感じだと評価が低いどころか自己否定と言った方が正しいような気がする。

「俺は今まで桜さんが自分勝手だとも意地が悪いとも思ったことなかったけどなあ」
「それは……他人の前では良い子でいますから」

少し不貞腐れたように視線を逸らす様子が子どもっぽくて新鮮だ。こんな時なのに、からかってみたくなってしまう。

「結婚したら、俺にも意地悪する?」
「そんな……! しませんよ! 絶対にしません!」
「だよね」

絶対にしないと言ったときの嫌悪の表情は本物だ。他人に意地悪などできるひとではないのだ。

「でも……、気付かずにするかも知れません」
「そう?」

何故、そう思い込んでいる?

きちんと話を聞いた方がいいかも知れない。辛いことを思い出させるとしても、彼女は覚悟して来たのだから。ここはたぶん大切なところだ。

「お母さんが……関係しているのかな? さっき、ちらっと聞こえたようだったけど」
「母が……」

言いかけて唇を噛んだ。やっぱり思い出すと辛いのだろうか。輝さんもこんなふうだった。

「……母のことを話すのは慣れていなくて。自分の醜いところを話すのも」

力なく息を吐く桜さん。俺にできるのは黙って耳を傾けることだけだ。そにしても「醜い」とはずいぶん強い言葉だ……。

「輝から母のことを聞いているんですよね?」
「ある程度は。かなり――感情的なお母さんだったらしいね」
「感情的。ええ、そのとおりです。ちょっとしたことで怒り出すので、わたしたち、母を怒らせないことばかり考えて暮らしていました。でも、それはいいんです。ときどき思い出して苦しいことはありますけど、もう終わったことですから」

淡々とした口調。過去の暮らしに対して、怒りも悲しみも悔しさも残っていないというのは本当のようだ。そんな感情を抱き続けても良いことなどないのだから、なくなってしまって良かった。けれど……?

「問題はわたしです。わたしの……、わたしの中にある残酷さ、というか」

残酷……。

さっきの「醜い」に続いてまたしても強い言葉だ。桜さんがそこまで自分を貶める何があるというのか。

「わたし……母のことを何とも思っていないんです」
「……え?」

お母さんの仕打ちを恨んでいない――という意味にしては表情が暗い。暗いどころではない。絶望とでも呼べそうな昏い瞳。

「母に対して愛情も、懐かしさも……何も感じないんです。亡くなったことを悲しいとも感じません。家族なのに。……自分を生んでくれた親なのに」

親なのに――。

そのひと言で、雷に打たれたように桜さんの苦悩を理解した。




桜さんの苦しみは自分に対する――失望。いや、その大きさを考えれば絶望と呼んでもいいのかも知れない。

人が当たり前に備えていると思われている、親への愛情がないこと。それ故に彼女は自分が人として失格だと断じたのだろう。

「母が救急車で運ばれたと連絡が来たとき……、頭に浮かんだのは、また仕事を休まなくちゃならないということでした」

静かに、けれどしっかりした口調で語る姿に覚悟を感じる。

「病院に向かう間も母の体の心配よりも、入院や介護が必要になったら仕事や生活がどうなるのか……とか、そんなことばかり考えていました。救急車で運ばれるなんて本当に緊急事態なのに……、どうしてお母さんは自分に迷惑ばかりかけるのだろうと思ってやりきれなくて、腹が立って。……ええ、母が生きていたころはずっと腹を立てていたんです。空しくなるので表には出さなかったけど」

腹を立てていた……。

それを責めるつもりはない。責めるどころかほっとした。そこに人間らしさを感じるから。

桜さんの人生をお母さんが搾取してきたことを思えば当然の感情だと思う。逆に、それを外に見せずに心に収めていたことを思うと……苦しくなる。

「病院に着いた時には母はもう亡くなっていて……」

うつろな瞳はその光景を今も見ているのだろうか。

「救急車を呼んでくれたのがパチンコ屋さんだったと聞いて、あとでご挨拶に行かなくちゃと思って……、行ってみたら、母がその店の常連だったと分かったんです。店内にいるときに倒れたそうで」

深いため息。そのことが大きなショックだったに違いない。パチンコ店通いは悪いことではないとはいえ。

「母はいつも体調不良を訴えていました。それは自分が家事をやらないための口実だと感じていましたが、まさかパチンコ屋さんに通っているなんて思ってもみなかったんです。昼間は気ままに過ごしているのだろうと思ってはいたものの、まさか外で遊んでいるとは……」

それはそうだろう。体調不良を口実に使うなら、せめてそれくらいは気を使ってほしい。

「こんなこと訊いたら失礼だけど、お金は? ただで遊べるわけじゃないよね?」
「母には必要なものに使う分として、毎月五万円渡していました。でも、そのほかに自分の通帳があったんです。荷物を整理していたら出てきて……」

つまり、桜さんが知らなかったお金か。

「父が亡くなる前から持っていた口座のようでした。わたしの通帳の残高よりもずっと多くて……。自分が働いていたころに貯めたお金なのかも知れません。だから自分で自由に使っていたのだと……」

それまで静かだった桜さんの表情が揺れた。悲しみ、そして……悔しさ、だろうか。

「中学に入ってすぐに家計費の通帳を渡されたんです。その範囲で責任を持ってやりくりするようにって。父の保険金と公的な支給金が振り込まれていて……、それを見ながらどれほど計算したことか。いつ足りなくなるかと気が気じゃなくて、いつも切り詰めることばかり考えていました」

それが中学から高校までずっと……。

大学進学をあきらめた気持ちが以前よりもよく分かる。桜さんは、就職すればお金の心配がいらなくなると考えたと言っていた。それはお母さんが桜さん一人に責任を負わせたことから始まっていたのだ。中学生だった彼女ひとりに。

「就職してからはそこまで切り詰める必要はなくなりましたが、蓄えが増えるほどではないし、自由に買い物できるわけでもなく……。母にとって自分は何だったのかという気持ちでいっぱいになって……、そんな通帳は見るのも嫌で、輝に相続で押しつけてしまいました」

そうか。輝さんが受け取ったのはそのお金だったのか。

「まあ、借金を作っていないだけ良かったと言えばそのとおりですけど」

苦々しく笑う彼女が痛ましい。

「でも、それももう済んだことです。問題はそこじゃなくて、わたしがそもそも母が亡くなったことが悲しくなかったことなんです。いいえ、悲しくなかった、では済みません。……ほっとしたんです」

桜さんの瞳に深い闇が戻ってきた。

「病院に着いて母が亡くなったと聞かされたとき、悲しみも喪失感も湧いてきませんでした。ただただ解放された、と……。突然訪れた開放。それに驚き、茫然としていたわたしを、周囲の人たちは親を失ったショックだと受け取ってくれたんです。当然ですよね? 親が亡くなったのですから」

周囲がそう受け取ったのは分かる。俺自身も、桜さんの態度を同じように解釈していたし。

「親が亡くなってほっとするなんてあり得ませんよね。でも……」

いつかうちの祖父や両親が亡くなったら俺は――? 亡くなる理由によるけれど、少なくとも淋しさは感じるに違いない。けれど、桜さんは……。

「葬儀のあとは、もうそれっきり母とは関わりたくなくて、仏壇の部屋も閉めっぱなしです。お水は毎日あげなおしているけれど、本当はそれすらも苦痛で。でも、父の分もあるし……。自分を生んで、父が亡くなってからは一人で育ててくれた母に感謝も愛情もないなんて……わたし、ひどい娘なんです」

確かに小さい娘二人と共に残されたお母さんは苦労したのかも知れない。けれど、俺はお母さんの行為が親として適切だったとはどうしても思えない……。

「小さい頃は楽しいことだってあったんです。父が亡くなったあともしばらくは……。なのに、そういう思い出よりも自分が苦しかった記憶の方が大きくて、苦しくて、母のことを考えたくない……」

そう告白しながら、彼女は、そういう自分に傷付いている――。

「わたし、愛情の薄い人間なのだと思います」

真剣な表情が俺を見つめる。

「そして自分のことばっかりしか考えられなくて……。だから、家族を持つべきではないように思うんです。家族に愛情が持てなくて、自分の都合ばかり押し付けて、不幸せな思いをさせるかも知れない。わたしは……誰かを不幸にするのは嫌なんです」
「……なるほどね」

桜さんは言いたいことをすべて言ったらしい。大きく息をついて背中を椅子の背に預けた。寂しげでうつろな表情のままで。

――なんて悲しい経験だろう。

桜さんがお母さんの死を解放だと感じたことは、俺にはまったく正当な感情だと思える。悲しみを感じなかったことだって。

けれど、血のつながりという事実が彼女を責めるのだ。俺がどう思うかよりも、何をしても揺るがない「親子」という事実が。その変えようのない事実を相手に、俺にできることは――。

「よし。じゃあ、食べながら、どうするか考えよう。冷めると硬くなるって言ってたよ」

面食らった様子でこちらを見返す桜さん。俺の口調の軽さにびっくりしたようだ。

「ほら、美味しそう」

さっき届いた二段重ねのせいろ。上段には緑と白の丸っこい餃子が行儀良く並んでいる。下段には焼売。「ね?」と笑いかけると戸惑いながら桜さんが頷く。

美味しい食べ物は気持ちを明るくすると、俺は思う。……いや、誰と食べるかも大事かな。桜さんにとってお母さんと二人だけの食事は苦行だったかも知れないから。でも俺となら。

「はい、お醤油。それからお酢」

桜さんは強い人だ。

その強さがあったからこそ、彼女の良い性質が守られてきた。けれど一方で、彼女が傷付いていることを他人の目から覆い隠し、誰も彼女を助けることができなかった。

でも今、彼女は自分の苦しみを話してくれた。俺に。だから……きっと助けられる。

「どっちを先に食べる? 白? 緑? 色がきれいだよね」

蒸し餃子はもちもちする皮の食感が楽しい。中の海老のしっかりした存在感に思わず笑顔になる。一口かじった桜さんは困った顔をした。重い話の直後に嬉しい顔はしづらいのだろう。「こういう餃子は家ではなかなか作れないよね」と俺が言うと、やっと小さく「はい」と声を出して答えてくれた。

そう。美味しい食べ物は悲しい心に効く。好きな相手と食べればなおさら。

「はい、新しい取り皿使って」

春巻きは冷めてもパリッとしているし、海老の炒め物は濃いめの味付けがお酒に合う。食べながら、俺はあれこれしゃべり続け、桜さんはそれにおずおずと微笑んだり頷いたり。反応が控えめなのは、さっきまでの彼女の告白と今の状況にギャップがあり過ぎて、どうしたらいいのか分からないせいだ。

「飲み物を追加しようよ。どれにする?」

困ったままの桜さんを促し、一緒にドリンクメニューをのぞき込む。続けて料理の追加を選ぶうちに、ようやく桜さんの硬さが消えてきた。

「風音さん、わたしに美味しいものを食べさせれば機嫌が良くなるって思ってます?」

注文が済んだところで彼女が言った。ちょっと拗ねたような表情に自分の勝利を確信する。

「ただ食べさせるんじゃなくて、一緒に食べるっていうのがポイントだね。俺は桜さんの癒し担当だから」
「……冷やし、中華?」
「いやいや、”冷やし“ じゃなくて ”癒し” だから。癒し担当。桜さんの冷やし中華ってなんだよ?」
「ああ……、癒しでしたか。すみません。意味がよく分からないなあって」

真面目に聞き間違えた? それともきまり悪さを隠すためにわざと間違えたのか。どちらにせよ、桜さんらしさが戻ってきた。

「風音さんの癒しは効果抜群ですね……」

抜群だと言いつつ、元どおり元気というわけではない。でも、肩の力が抜けている。

「せっかく桜さんが選んでくれたお店だし、美味しいものは楽しく食べないともったないよ」
「はい……。そうですね」

ようやく素直に頷いた桜さんに対して、胸の奥底から愛しさがこみ上げてきた。

お母さんに対する気持ちを俺に話す決心をするまで、彼女がどれほど悩んだのか。話さずに結婚することもできたのに、桜さんは自分が人として失格だと打ち明けるなどという、自分に不利な、そしてつらい道を選んだ。俺に考え直す機会を与えるために。それは彼女の正直で公正な性質の、そして愛情の証だ。愛情が薄いなんてとんでもない!

そういう桜さんを、俺は必ず、ずっと、大切にする。これからの長い年月、桜さんが落ち込んだ時にはいつでも桜さんを癒して、笑顔を取り戻す手伝いをする。

だから桜さん、心配しないで一緒に歩いて行こう。




「いいお店だったねぇ」
「はい。お腹いっぱいです」

初秋の夜の空気が頬に気持ち良い。

今日は少し酒量が多かったかも知れない。桜さんを元気にしようと勢いがついていたから。その甲斐あって、彼女もちゃんと笑顔を取り戻してくれた。

楽し気に群れ歩く人々や店の案内のお兄さんたちの中を駅に向かいながら、どうにも離れ難い気持ちがつのる。かと言って次の誘いを口に出してもよいものかどうか迷う。桜さんの気持ちは……。

「……何も言わないんですね」
「え?!」

桜さんのつぶやきが胸に刺さった。俯いて隣を歩く彼女の表情は見えない。

誘わない俺を暗に弱虫だと言っているのだろうか? 桜さんも離れ難いと思っている? 誘われたらOKするのに……って?

「え、ええと」

高まる期待と焦りで言葉選びに迷う。

「風音さんは考え直さないんですか?」
「ん、え? 考え直す……?」

立ち止まって尋ね返すと、真剣な表情が俺を見上げた。瞳に宿っているのは――情熱ではなく、覚悟か。桜さんはあまり酔っていないのかな……。

「わたしの話を聞いて、もうやめた方がいいかな、とか……思わないですか?」

なるほど。桜さんの中では今日の用件は終わっていなかったのだ。

考えてみたら、確かに俺はまだ自分の考えを伝えなていなかった。自分で勝手に伝えたような気分になっていただけだ。ちゃんと覚えていたとは、さすが桜さんだ。

いや、それは当然か。桜さんにとって大事な話だったのだから。俺も誠意を持って伝えなければ。

「やめるなんて、全然思わないな」

俺の答えに桜さんが目を瞠る。あんまり簡単に答え過ぎただろうか。けれど、俺の中では最初から答えは決まっていた。

「自己評価って当てにならないっていうか、気にしないって言うか……。特に桜さんは自分に厳しいからね。それよりも、俺が抱く印象とか、周りにどう思われているかの方が判断材料としては有効じゃないかな」

目を丸くしたまま桜さんは微動だにしない。軽いショック状態なのかも。まあ、相当の覚悟をしてあの話をしたのだろうから、それも仕方ないかも知れない。

「だってほら、自分で『仕事ができる』とか『モテる』って言っているヤツが実際に優秀だったり人気があったりするとは限らないし、逆に評判悪い場合だってあるから」
「それは、確かに……」
「だから桜さんの話を聞いて、俺の桜さんに対する評価が大きく変わるっていうのはないんだよ。俺は普段の桜さんを見て、自分で判断しているんだから。それよりも今日は、桜さんのつらかった気持ちとか悩みが分かって良かったと思ってる。これから一緒に暮らしていくために」

驚きの表情でしばらくじっと俺を見つめたあと、彼女は「変わらないんですか……?」とつぶやいた。

「そうだね。まあ、今日の話くらいでは変わらないなあ」
「愛情が薄くても?」
「お母さんに対してはそれも仕方ないと思うし、輝さんのことは大切にしてたよね? 愛情が薄いとは思っていないよ」
「自分勝手でも?」
「誰にでもやりたいこととやりたくないことはあるよ。それに本当に自分勝手なら、自分のせいで誰かが不幸になるなんて悩まないんじゃないかな」
「意地が悪くても?」

桜さんは少しばかり意地になっているようだ。頑固な桜さんらしい。

「もうこの世にいない相手に対してだろう? 俺は桜さんが意地が悪いところなんて見たことないし、たぶん、桜さんは実際には意地悪なんてできないと思うよ」

桜さんは途方に暮れた様子で「すごい信頼度……」とつぶやいた。確かに俺は桜さんの人柄を信頼している。それが揺らぐほどのこととなると相当大きなことじゃないと。

「断ってほしかった?」
「いえ、そういうわけでは……」

でも、もう少し悩んでほしかったのかな。

「うーん、例えば……」

桜さんへの評価を変えるくらいの事件といったら?

「そうだな、例えば桜さんに二股掛けられてたって分かったら考え直すかな」
「そ……、それはないですね」
「でなければ、実は俺のことが嫌いとか」
「そんな! 風音さんのことは大好きです」

俺の言葉を遮るように言って、はっと固まる。それからゆっくり口元を押さえ、静かに視線をそらす姿がどうにも愛しい。

「ありがとう」

彼女をそっと腕の中に包み込む。身を固くして何秒かじっとしていた桜さんだったけれど、通りすがりの酔っ払いの冷やかしに、もがいて体を離した。残念。

「もしも」

手が離れる前に繋ぎとめると、彼女は顔を上げた。

「もしも俺が桜さんを自分勝手だとか意地悪だとか感じたら、そう伝えるよ。そしたら軌道修正すればいいよ。桜さんも俺にそうして欲しいな」

静かな瞳が俺を見つめる。

「だって、自分ひとりで完璧を目指すのは難しいから。お互いの良いところや苦手なことを分かりあって、パートナーとして補い合っていけばいいんじゃないかな。一人だと凸凹でも、二人なら少し滑らかになりそうだよ」
「でも……、たぶん、わたしが風音さんのお役に立つ可能性はそんなに――」
「あるよ。必ずある。俺、桜さんが考えているほど良くできた人間じゃないよ」

そのまましばらく俺の顔を見ていた桜さんだったが、とうとう力を抜いて、ふふっと笑った。

「本当に何も変わらないんですねぇ……」
「うん。だって、変わる理由がないから」

彼女は俺の手から片手をそっと抜きながら、しみじみと「そうなんですね……」と頷き、微笑んだ。

「風音さん、意外と頑固ですね?」
「ああ、そうかも。桜さんとぶつかっちゃうこともあるかもね。そのときはちょうどいい着地点を探せばいいよ」
「……はい。そうしましょう。これからずっと」

そう言って見上げてくる微笑みはやさしく穏やか。とうとう俺の申し出を受け入れる決心をしてくれたのだ!

「やっぱり風音さんと話していると、何もかも上手くいきそうな気がしてきます。こうやって一生、風音さんに乗せられて、笑いながら生きていくんですね」

冗談めかした言葉は桜さんの照れ隠しだ。嬉しさがこみ上げてきて、なんだか落ち着かない。

「離れたくないなあ」

歩き出しながら手を強く握ると、彼女の表情が戸惑いに変わった。どうもこの点については俺と同じではないらしい。

「もう一軒、ですか? 少しだけなら……」

譲歩してくれた? でも、乗り気ではないのなら、無理には誘えない。せめてキスくらいはしたいのだけど。

「いや、まだ月曜日だし、やめておこう。それより、次はいつ会う?」

尋ねながら頭の中で仕事の予定をたどる。

一日も早く約束などしなくてよい状態になりたい。朝起きたら、そして仕事が終われば会えるという状態に。

改札口を抜けると別れの時間が近づくのを感じると同時に、食事中に聞いた桜さんの苦悩が頭によみがえった。あれを話す決断をした彼女の覚悟はどれほど大きかったことか。

だから今度は何か、彼女が喜ぶことをしてあげたい。単純に嬉しいことじゃなく、思い切り甘やかしてあげたい。今までたくさん苦労をしてきた桜さんに、彼女の想像を超えるくらいのご褒美をあげたい。

「ねえねえ、桜さん。何かわがまま言ってみて?」
「え? わがまま、ですか? 今?」
「そう。今。何でもいいから言ってみて」

手を引かれた桜さんは訳が分からない様子で首を傾げている。

いつも控えめな彼女からどんな要望が出てくるのか楽しみだ。高価な品物でもある程度なら買ってあげよう。……不動産はさすがに無理だけど。

出発待ちの電車はそこそこ混んでいる。お酒を飲んだ様子の乗客もいるものの、話し声は多くない。

並んで立つと肩が触れ、その僅かな接触から軽い酩酊状態に引き込まれる。離れたくない。でも……。

乗り込んでからも考えていた桜さんが、やがておずおずとこちらを見上げた。

「わがままを言えばいいんですね?」

たぶん、気まぐれのお遊びだと思っているのだろう。そのくらいでちょうどいい。そうじゃないと彼女は遠慮するだろうから。

「うん、そうだよ」
「それなら……、ええと」

周囲を気にするように彼女が身を寄せたので、少し屈む、と。

「家まで送ってほしいです」
「え?!」

それは!

「あ……、ごめんなさいごめんなさい! 嘘です。風音さんのお家、通り越しちゃいますもんね? ただ言ってみただけですから」

俺の反応に桜さんが慌てている。でも、たぶん彼女は勘違いをしている。俺は機嫌を損ねたわけではない。それどころか。

「何言ってるんだよ? いくらでも行くよ。行っていいなら毎日でも」

強烈な前向きの申し出に若干引いた桜さんが「いや、さすがに毎日では……」と言葉を濁した。

「分かりました。今のではわがまま度が足りないってことですね? もう一度考えます」

真剣な顔で再び黙り込む桜さん。それにはお構いなしに、俺の頭の中はフル回転。桜さんが送ってほしいと言った。それはつまり……。

つまり、桜さんも俺と同じ気持ちだということ。少しでも長く一緒にいたいということ!

間違いない。彼女も俺と一緒にいたいと思ってくれている。

もう……なんて可愛いんだろう! こんな遠回しの表現で!

「よし。送っていくよ。そして、もう一杯やろう」
「……え? それはもしかして、うちで……飲む?」

困惑顔の鼻の頭にキスしたい。

「うん。桜さんのところで家飲み」
「んん……、お酒はありませんけど……」

それは断っているつもり? そんな曖昧な断り方では引き下がるほどの理由にはならない。

「大丈夫。コンビニで買えばいいよ」
「そう……ですか? コンビニも駅前にしかないですし、お酒を売っているかどうかは……」
「なかったらなくてもいいよ。食後のコーヒーでも」
「ああ……、インスタントコーヒーならありますが……」

納得いかない顔で「わたしがわがままを言う企画だったのでは?」と訊き返されたのは聞こえないふりをする。言われてみると、確かにこれでは俺がわがままを通したみたいに見える。いや、”見える” ではなくて、それが事実か。

「しょうがない。桜さん、もう一つわがまま言っていいよ」
「え? 『もう一つ』って……。さっきのはわがままに認定されたんですか?」
「そうだよ? そのつもりで言ったんでしょ?」

無言で俺を見つめたあと、ため息とともに小さく「酔っ払ってるのか……」と聞こえた。そう思ってくれるのならそれでいい。たまにはそういうのもいいじゃないか。

「分かりました。我が家で宴会の続きです」

桜さんが頼もしく宣言した。

「うん。どうぞよろしく」

今日だけじゃなく、これからもずっと、だよ。