仲良くなれた――と思ったのに。

どうも予想と違う。

さっき稽古にやって来た桜さん。俺の顔を見るとにっこりして頭を下げた。「きのうはありがとうございました」と。それはおかしくはないけれど……。

さっさと更衣室に消えていく後ろ姿を見ながら、力が抜けるほどがっかりしている。だって……もう少し何かあってもよくないか? ひと言とか、目配せとか……、逆に恥ずかしげな遠慮とか。

何もなかった。前と同じ。

きのうはとても楽しかったのに……。

エジプト展でも、渋谷散歩でも、焼き鳥屋でも、帰り道でも、大きな瞳をぱっちり開けて、面白いものや不思議なものを見つけては俺に話しかけた。「風音さん、風音さん」と。まるで世界に俺しかいないみたいに……って、一緒にいたのは俺だけなんだから当然か。

でも……あの笑顔。いたずらっ子のような。気の置けない仲間に向けるような。

そう思ったのは俺だけ? 桜さんの礼儀正しさと気遣いを、自分が受け入れられたのだと勘違いしただけか?

たしかに、じっくり思い出してみると、彼女独特の礼儀正しさは消えなかった。お酒が入っても。一柳さんと話していた彼女は違っていた。笑い方も態度ももっと元気で遠慮がなくて。

やっぱり勘違い? いや、でも。

さっきの様子では嫌な感じではなかった。嫌われているとか、避けられているわけではなさそうだ。ということは、つまり。

時間が足りない、というだけ?

彼女は控えめで人見知りだ。それを乗り越えて一柳さんと同じくらいの仲になるにはどれくらい時間を費やせばいいんだ? さらにそれ以上なら……?

――いや、ちょっと待て。

時間を気にするのはやめた方がいいな。考えても意味が無い。

桜さんはおとなしいけれど、芯のしっかりしたひとだ。人見知りで他人への警戒心も強い。そして、長い間、家庭の苦労をひとりで背負ってきた経験で、他人を当てにしない生き方も身に付いているだろう。そんな彼女に対して圧力をかけるような接し方は、たぶん逆効果だ。

俺は、彼女が心を許せる相手になりたい。信頼してそばにいられる相手に。

だったら、時間がかかっても伝えるしかない。大丈夫だよ、と。幸いライバルはいなさそうだし――あれ?

ほんとうにライバルはいないのか?

今のところ、プライベートで会っている相手はいない様子だけれど、狙ってるヤツはどこかにいるかも?



最初にがっかりはしたものの、稽古が始まってみると、いつもと変わらない桜さんの態度は気が楽だった。桜さんも俺も、この時間は上達することの方が優先だから。

彼女は宗家や哲ちゃんに対するのと同じように俺の指摘を真剣に聞き、丁寧な言葉で質問し、終わると「ありがとうございます」と頭を下げる。無駄口を叩かず、地道に真面目に取り組んで、個人的な親しさをまったく感じない。

それが俺のことを何とも思っていないからなのか、公私の区別をつけているからなのかは分からない。そこはときどきふと気になるけれど、稽古中の彼女の真面目さ、礼儀正しさは彼女の美点の一つ。好感度は上昇するのみ。

その分、休憩時間は桜さんとの時間を積み重ねるために使いたい。

「どうですか、二週間ぶりの稽古は?」
「あ、風音さん」

水筒を手に座っていた桜さんが俺を見上げてにっこりした。何かを思い出してくすくす笑い出した彼女の隣に腰を下ろしても特に気にならない様子。滑り出しは良い感触。

「最初の礼のお作法を忘れていて、あたふたしてしまいました」
「ああ、あれ」

宗家への礼から着座して刀礼まで。初心者は刀の持ち方や置き方で戸惑うことがよくある。

「わたし、来られなかった間、家で素振りはやっていたんです」

彼女が微笑んで続ける。

「振ったときにビュッて音が鳴るようになって、『できるようになった!』って思っていたんです。ところが手首の使い方が間違っているって水萌さんに指摘されて」
「そうでしたか」

そう言えば何か直されていたっけ。

「自分で呆れてしまいました。わたしなんかがそんなに簡単にできるわけないのに。間違っているのにすっかりできるつもりになっていたなんて、もう笑うしかないですよね」
「いいんですよ、それで」

俺の言葉に桜さんがきょとんとした顔をする。

「家で練習した成果をここで見てもらって、違っていたら修正するという流れは正しいんです。自分で試して、これならって思ったんですよね? それが間違っていたって分かったら、二度と同じ間違いはしないと思います。それで一歩前進です」

桜さんは感心したように俺を見たまま「なるほど……」とつぶやいた。それから胸に手を当てて。

「でも、謙虚さは忘れないようにします。それは学びました」

控えめな桜さんが謙虚さを忘れるなんて――ちょっと面白い。

「抜刀術もだいぶ慣れてきましたね。ほかの人とタイミングが合ってきていましたよ」
「あ、そうですか? 良かった!」

喜んだすぐ後に、彼女の表情が曇った。

「でも、まだ体が前に傾くのが直りきらなくて」
「ああ、正面を斬ったときですね?」
「そうです。今日は袈裟斬りでも言われました。視線が下を向いているからだって」
「やっぱりそこですね」

以前に比べると姿勢はかなり安定してきているようだったけれど。

「桜さんは納刀と後ろに下がるときにも視線が下がりやすいですね」
「あ、そうなんです」

桜さんが肩を落としてため息をついた。

「うつむきがちな人生だったもので、つい……」
「え? ……くふっ」

本心かも知れない。本心かも知れないけれど、この流れで言われると可笑しい!

「いや、ええと……、ふ」

笑いをこらえる俺を見て、桜さんもくすっと笑ったのでほっとした。

おそらくこれは彼女独特のユーモアだ。辛かった記憶を軽く、冗談にくるんでぽいっと放り投げるみたいな。だから、ここは慰める場面じゃない。笑って正解。そして稽古。

「ここでははったりでもいいので前を向いてください。それだけで周りに与える影響が違いますから」
「分かりました。ただ……、敵を想像するっていうことも難しくて」
「ああ。最初はそうですよね」

俺は入門前に剣道をやっていたので、向き合って打ち合った経験があった。けれど、桜さんは自分に攻撃を仕掛けてくる相手なんかに出会ったことがないだろう。

「じゃあ、俺が前に立ちますから、それでやってみますか?」
「え? 前って。危ないですよ」
「大丈夫ですよ、刀が届かない間合いに立ちますから。遠慮しないでいつもどおりやってください」

桜さんが黙ってこちらを見る。その顔は――。

「疑ってますね?」
「疑っているというより……」

迷いながら彼女が続ける。

「自分が信用できないんです。手が滑って刀が飛んで行っちゃうかも」
「それはたぶん、ないと思います。それに、飛んできても当たるだけですから」

桜さんが軽く首を傾げて考えた。それから納得した様子でうなずき、「風音さんなら、わたしのへろへろの振りなんか簡単に避けられますね」と笑って立ち上がった。

「では、お願いします」

彼女が表情を改める。

「はい」

開始位置を決めた桜さんから間合いを取って立つ。

抜刀術の一本目は三歩目で相手の水月に向けて抜き付け、さらに踏み込んで正面斬り。俺は彼女の正面にいて、進んでくる攻撃を避けるように後ろに下がる。刀は抜かずに下がるだけだ。

桜さんがすっと姿勢を正した。一瞬、迷うように眉をひそめたが、覚悟を決めた様子でこちらを見た。

彼女の動きに合わせるため、気持ちを集中させる。すると桜さんがはっとした様子で瞬きをした。それから一つ息をつき、再び顔を上げた。

――いい表情だ。

静かな佇まいの中に軽い緊張。まっすぐな視線が俺に狙いを定めて。……と、彼女が動いた。

前進。三歩目で抜き付け。さらに踏み込んで正面斬り。桜さんの刀が、後ろに下がる俺を追う。俺から目をそらさずに。

そのまま正眼の構え、血振り、納刀。納刀の途中で一度視線が彷徨ったのは自信がないせいだろう。けれど、下を向くのは堪えた。

鍔に手を掛けたまま七歩下がって元の位置へ。その間も視線は外さない。両手をゆっくり下ろして終了。

「できましたね」

近付きながら声をかけると、彼女は礼をしていた顔を上げてにっこりした。

「目に見えると全然違います! よく分かりました。自分の命を守るために攻撃するんですね。だから目を離しちゃいけないと」
「え、ええ、そうですね」

そのとおりなのだけど、微妙に違うところに感心されているような。

「桜さん、桜さん。ねえ、ホントだったでしょ?」

話しかけたのは莉眞さんだ。なんだか楽しそうに。

「え? ……うん、そうね」

答えながら俺をちらりと見た。気を遣っているのだろうけれど、逆に気になる。

「何ですか?」

ふたりは視線を交わし、莉眞さんはニヤリと、桜さんは機嫌を取るように微笑んだ。

「風音さんが本気で相手をしてくださるから有り難いなあ、と」
「ああ……、俺の顔が怖いって聞いていたんですね?」

さっきの違和感の原因はそれか。

莉眞さんがきゃははは、と笑って桜さんの方を向いた。

「表木刀のときなんかマジで怖いですよ、木刀振り上げてあの顔ですから。…あ! 待って雪香さん! あたしもやります!」

言いたいことだけ言って、莉眞さんは行ってしまった。

「……怖かったですか?」
「んー、そうですねぇ……」

時間を稼いでいる? でも、すぐににっこりした。

「初心者のわたしにも本気で向き合っていただけるんだってびっくりしました。でも、それでわたしも本気で行こうって覚悟ができましたので」
「なるほど。どうりでいい表情してると思いましたよ」
「あ、そうですか? 風音さんなら絶対にわたしが失敗しても避けられるって信じられたから」

自分の失敗が前提なのはいかにも桜さんらしい。でも、嬉しそうな笑顔は頼もしく見える。

「表木刀を習うのが楽しみになってきました。そのときはよろしくお願いします」
「こちらこそ」

今日、桜さんの正面に立ってみて分かった。いつも控えめな彼女だけれど、覚悟が決まれば思い切って動く。その表情は思いのほか凛々しく厳しくて、隠されていた本物の彼女と対面したように感じた。

これからもあんなふうに向き合いたい。本気で。

今まで、穏やかで友だち思いの桜さんを好ましく思っていた。でも、もっと自由な本来の彼女を、たぶん俺はもっと好きになる。

今、そんな確信がある。