ゴミ捨て場のレイナ

 レイナは袖でスティーブの歌声を聞いていた。太くて伸びやかな声が、会場中に響き渡る。
 観客は熱狂に包まれて、歌に合わせてこぶしを振り上げている。このグルーブ感。
 レイナは目を閉じて、会場全体の空気を全身で感じていた。
「君も、いつかは、あそこに立つんだ」
 裕がレイナの耳元でささやいた。
「あのセンターで、君も歌うんだ」

 曲が終わり、スティーブは客席に手を振りながら袖に入って来た。
「やあ、待っていたよ」
 スティーブはレイナを見ると、ホッとした表情になった。
 それから、「君は強い子だ、レイナ」とレイナを抱きしめる。

「その髪留めを、ちょっと貸してくれないか?」
 スティーブはレイナが両手で握りしめているバレッタを指した。
「ステージでなくしたら困るから。代わりに、君にはこれをあげよう」
 スティーブは胸ポケットに刺していた真っ赤なガーベラを、レイナに渡した。
 アンソニーが、レイナの髪に刺してあげる。
「この花の花言葉は、愛なんだ。君はいつもタクマの愛に包まれている。永遠に消えない愛にね」
 裕が訳してくれる。
 レイナは泣くのを堪えながら、バレッタをスティーブに渡した。

「それから、予定変更だ。君がこれから歌うのは、オレの歌じゃない。タクマが君に作ってくれた歌だ」
 レイナは「え? どういうこと?」と裕の顔を見る。
「ステージに出たら、分かるよ」と裕は柔らかく微笑む。
「それじゃ、オレが呼んだら、出て来てくれ」
 スティーブはレイナの肩をポンと叩き、再びライトの洪水の中に戻って行った。

 スティーブが客席に向かって話しかけている。会場からどっと笑い声が起きた。
 笑里がそっとレイナの手を握った。
「私たちはずっと、ここで観てるからね」
 トムはレイナに親指を立てて、「頑張って」と小声で言った。
 アミは「うーうー」とレイナに握りこぶしをつくってみせる。励ましてくれているのだろう。
「ありがと」
 小さくお礼を言う。

「それじゃ、ここで、オレが日本で一番会いたかった人をみんなにも紹介するよ。みんなも知ってるんじゃないかな?」
 スティーブの言葉に、客席のあちこちから「ヒカリー」と声が上がる。
 スティーブはちょっと困った顔になった。
「イヤ、ヒカリじゃない。彼女には帰ってもらったんだ。彼女は、オレの大切な友達にしてはいけないことをしたからね」
 客席がざわつく。
 裕が背後からレイナの両肩に手を置く。
「気にするな。君は、君の歌を歌えばいい」
 レイナは目を閉じて深呼吸した。

「オレがこれから紹介するのは――レイナだ。ゴミ捨て場に住んでいた少女、レイナ」
 スティーブがこちらを向き、手招きした。
「さあ、出番だ」
 裕は軽くレイナを押し出す。レイナは一歩踏み出した。
 袖からステージに出ると、とたんに客席から嵐のような拍手が起きる。
「ウソっ、レイナって、あのときの?」
「えー、会えると思ってなかった!」
 客の声が途切れ途切れに聞こえる。
 スティーブが手を広げて迎えているところまで、レイナは一歩一歩、向かって行った。

「みんなも知ってるみたいだね。そうだ。マイクが切れても、武道館に響き渡る声で歌った、レイナだ」
 レイナは客席に向かって深々とお辞儀をした。さらに拍手が大きくなる。
「オレもあのときの歌を聞いて、しびれたんだ。あんなに美しくて、パワフルな歌声を聞いたことがない。どうしても一緒に歌いたくなって、今日は来てもらったんだ」
 野外なので、客席の様子が見える。みんな、レイナに釘付けになっている。
 時々、「レイナ―」「かわいーい」という声が飛ぶ。

「今日は、レイナに一曲歌ってもらうんだ。ホントは、オレの歌を一緒に歌う予定だったんだけれど、予定変更」
 スティーブはレイナの肩をつつき、後ろを見るように促した。
 振り向くと、いつの間にか背後にはピアノが一台、置いてある。
 そのピアノは――。
 レイナは小さな声を上げた。

 ――お兄ちゃん!

 ピアノの前には裕が座って、レイナを見て微笑んでいる。
「そう、君の大切な人のピアノだ。分かるね?」
 レイナは何度もうなずく。涙があふれてきた。
「レイナ。歌うんだ、あの曲を。タクマ君が、君に教えてくれた曲を」
 裕はレイナの目を見つめながら、一言一言、言い聞かせた。
 レイナが落ち着くのを待ち、裕はピアノを弾きはじめた。
 タクマがつくった、『小さな勇気の唄』。
 レイナは正面を向いた。

 ――歌って、レイナ。タクマ君に届くように。
 
 ミハルの声が蘇る。
 レイナは大きく息を吸い込み、歌いだす。

♪君に一つの花をあげよう
それは勇気という名の花で
君の胸の奥で
決して枯れることなく
咲き続けていくだろう♪

 ふいに、レイナの目の前に花びらが舞い降りたような気がした。
 桜の花びら。
 春に、河原に咲いている桜の木の下で、タクマと二人でよくお花見をした。
 風に舞い散る花びらをつかまえようとしたり、水面に流れていく花びらを、飽きもしないでずっと眺めていた。
 二人でいるだけで、心が満たされた、あの日々。
 レイナの髪や服に花びらが降りかかり、タクマは照れくさそうに言った。
「レイナ、桜の妖精みたいだね」

 ――ああ、そうだ。お兄ちゃんはずっと、そばにいる。私のそばにいてくれる。歌っていると、感じる。お兄ちゃんの気配を。

 レイナは空を見上げる。
 空の端では燃えるような夕焼けが広がり、青空は群青色に染まりかけている。星も瞬きはじめた。
 こんな空の色を、二人で数えきれないぐらいに見た。

 ――消えない。お兄ちゃんとの思い出は、絶対に消えない。私の心の中に、お兄ちゃんはずっといてくれる。永遠にいてくれる。

 裕がピアノを静かに弾き終わり、会場は一瞬、静寂に包まれる。
 それから、地面が揺れるぐらいの大歓声が起きる。拍手と、「レイナ―」「最高―!」と褒め称える声。
 スティーブは震える声で、「レイナ、君は、なんて素晴らしいんだ!」と胸に手を当てた。
「こんなに胸を打つ歌を、初めて聞いたよ」
 裕もレイナに拍手を送っている。

 ――そうだ。ステージで歌えば、いつでもお兄ちゃんに歌が届く。
  レイナはスティーブと握手を交わした。
 ――私は、一人じゃない。

 袖に入ると、涙で顔がグチャグチャになっている笑里とトムとアミがレイナに次々と抱きついた。
 アンソニーも泣きながら、みんなの背後から抱きつく。
「すごい人気だな」
 そういう裕の目にも涙が光っている。
「もう、あなたって子は、なんて子なのっ」
 アンソニーがレイナの顔を両手で挟む。
「あなたは、タクマ君から大事な花をもらったのね。ずっとずっと、咲き続ける花を」
 興奮が冷めやらぬなか、レイナは楽屋に戻って着替えていた。みんなは楽屋の外で待っている。
 ふいに、誰かがノックをした。
「はーい」
 答えると、ドアが小さく開いた。
「レイナさんに電話がかかって来てます。そこの電話に出てもらえますか?」
 スタッフが鏡の前にある電話を指した。
「え? 私に?」
 ドアはすぐに閉まる。レイナは戸惑いながら、白い電話の受話器を取り、耳にあてた。
「もしもし?」
 ややあって、「……レイナ?」と聞き慣れた声がした。
 一日たりとも、忘れたことのない声。そして、ずっと聞きたいと思っていた声。

「ママ!?」
「レイナ、コンサートをテレビで観てたの。よかった。すっごくよかった。ママ、あなたの声を聞いて……」
 ミハルは涙声になって、声を詰まらせた。

「ママ、今、どこにいるの? どこ!?」
「ごめんね、それは言えないの」
「それじゃ、いつ帰って来てくれるの?」
「ごめんね、すぐには帰れなさそう」
「そんな、そんな」

 レイナも涙声になる。
「ママ、帰って来て、すぐに」
「ごめん、ごめんね。いきなりいなくなって。私もレイナに会いたいの。今すぐにでも会いたい。でも、やらなきゃいけないことがあるの。それが終わるまで、帰れないの」
「そんな。ママ、嫌だよ、そんなの」
「分かってる。私だって、レイナのことを毎日想ってる。毎日声を聴きたいし、一緒に眠りたい。抱きしめたい……! でも、今は、帰れないの」
「ママぁ」

 レイナはそれ以上何も言えず、受話器に向かって泣きじゃくるだけだ。
「忘れないで。ママは、いつでもどこでも、あなたのことを想ってる。あなたの歌を、どこかで必ず聞いてる。だから、歌って、レイナ。ママのために歌って」
「ママ、ママ」
「ごめんね、もう切らなきゃ」
「やだ、ちょっと待って、ママ!」
「西園寺先生と笑里さんによろしく伝えて。レイナ、愛してる。愛してる、レイナ」
「ママ、ママ、待って、待って!」

 レイナは受話器に向かって叫んだが、無情にも電話は切れた。
 発信音がツーツーと鳴る。
 裕が異変に気づいて楽屋に入ったとき、レイナは受話器を握りしめたまましゃがみこみ、泣き伏していた。
 レイナがようやく落ち着いたころ、ライブは終わった。
 レイナは裕とトムと一緒に、挨拶をしにスティーブの楽屋に行った。

「レイナ! 今日はとっても素晴らしかった!」
 スティーブはレイナを抱きしめた。
「今日はオレの歌を一緒に歌えなかったのが残念だったけど、君の歌は最高だったよ。まだ、感動で震えているぐらいだ。またオレのステージに出てくれるかい? このワールドツアーは、まだ続くんだ。できれば、他の国のステージにも出てほしい。もちろん、裕たちも一緒に来てくれ。みんなを招待するよ」
 裕はスティーブの言葉を訳してレイナに伝えた。
 レイナは、わずかに顔を輝かせた。
「ホントに? 私もまたスティーブと一緒に歌いたい」
「そうだね。レイナの歌を世界中の人に聞いてもらえる、いい機会だと思う」
 裕も同意した。

 裕が「ぜひステージに出させてほしい」と言うと、スティーブは大喜びして、レイナと裕と握手をした。
「それから、君に1つ提案があるんだ」
 スティーブはトムの前にしゃがみこんだ。
「トム、一緒にニューヨークに来ないか? ダンスを本格的に習ってみる気はないか?」
 トムはポカンとした顔で聞いている。
 裕が訳すと、トムは目玉が飛び出そうになるぐらいに目を見開いた。
「ホントに? ホントに!? ダンスをできるの?」
「ああ。オレのファミリーにならないか?」

「僕の家族にならないかって」
 裕の言葉に、トムは戸惑う。
「家族って……どういうこと?」
 裕はスティーブに言葉の意味を問う。
「スティーブは養子にならないかって言ってるんだ。早い話が、スティーブの息子になるってことだ」
「えっ、えっ、オレが? オレが、スティーブの子に?」

「どういうこと?」
 レイナは裕に聞く。
「昔から、欧米では歌手や俳優が養子を迎えるのは、よくある話なんだ。スティーブのところには、既に養子が二人いる」
 それをレイナはトムに分かるように話した。
 トムは興奮のあまり、息が荒くなっている。
「ニューヨークがどこにあるのか分からないけど、オレ、ゴミ捨て場から出たい。ゴミ捨て場から出られるなら、なんでもする!」
「……そうか」

 裕がその言葉を伝えると、スティーブは満面の笑みを浮かべた。
「嬉しいよ、トム。今日から、君はオレの息子だ」
「あ、でも、マサじいさんやジンにいなくなるってことを伝えないと」
「OK。日本を出発するのは明後日だ。そのときに空港に来てくれ」
 スティーブはトムを優しくハグした。

「でも、そうしたら、アミがゴミ捨て場で一人ぼっちになっちゃう」
 レイナはつぶやいた。
「そうだね。それもどうすればいいか、考えよう」
 裕はうなずいた。

「君に大切なものを返すよ」
 楽屋を出ようとしたとき、スティーブはレイナにハンカチに包んだものを差し出した。
 開けると、バレッタだった。
 無残に壊れていたはずのバレッタが修復されていた。
「うちの舞台のスタッフに、手先が器用な子が何人かいてね。彼らに頼んで、本番中に直してもらったんだ。完全に元通りにはならなかったけれど、少しは見られるようになったんじゃないかな」
 確かに、パーツが足りなくて地金が見えている部分もある。それでも、懸命に直してくれた気持ちだけでレイナには十分だった。

「ありがとう。ホントにありがとう」
 バレッタを包み込むように、そっと抱きしめる。
「どうして、この子には、こんなにツラいことばかり起きるのかしら」
 笑里は後部座席で眠りこけているレイナを見ながら、つぶやいた。
 レイナにもたれかかって、トムとアミも眠っている。
 トムとアミも家に泊めることになり、森口は急遽ワゴンカーを手配してくれたのだ。

「でも、この子は困難に立ち向かうたびに、美しい歌声になっていく。奇跡だよ」
 裕はひとり言のように言った。
「今日のレイナちゃんの歌声を聞いていたら、私、涙が止まらなくなっちゃって……切ないというか。何なんでしょうね、あの美しい声は。テレビの司会者も泣いていましたよ」
 森口が運転しながら話しかける。
「そういう運命なのね、きっと。ツラいことを乗り越えるたびに、歌声が磨かれていく。音楽の神様からそういう試練を与えられてるんだわ」
 笑里はハンカチで涙を拭いた。
「それでも、もうこれ以上、この子にはツラい思いはしてほしくない。もう十分だもの」
     

 翌朝、レイナはベッドの上で目を覚ました。
 起き上がると、隣にはアミとトムが寝ている。
 寝起きの頭で何があったのかを思い出すまで、しばらく時間がかかった。

 ――ああ、そっか。昨日、ライブに出たんだっけ。久しぶりに二人に会って、それで、ママから電話がかかって来たんだ。

 二人を起こさないようにベッドを抜け出し、カーテンを少しだけ開ける。
 今日もまぶしいぐらいにいい天気だ。

 ――ママも、この空をどこかで見てる。きっと、いつか迎えに来てくれる。

 机の上には、小さなガラスの箱に入ったバレッタ。
 昨夜、笑里がバレッタを入れるのにちょうどいい箱を探してくれたのだ。
 レイナは着替えて部屋を出ると、リビングに寄らずにそのまま地下のレッスン室に降りた。

 レッスン室の隅には、タクマのピアノ。
 昨日、笑里がゴミ捨て場にトムとアミを迎えに行くときに、業者も連れて行ってトラックで運んで来たのだ。
 コンサートが終わったら、サプライズでレイナにプレゼントするつもりだったらしい。

「おはよ、お兄ちゃん」
 レイナは椅子に座り、蓋に頭をのせた。
「これから、ずっと一緒だよ」

       
 朝食の後、トムとアミをゴミ捨て場に送って行くことになった。
「あのね、みんなに話があるの」
 笑里が三人に向かって言った。
「アミちゃんも、一緒にここで暮らさない?」
 レイナとアミは顔を見合わせた。
「ゴミ捨て場で、子供はアミちゃん一人だけになっちゃうんでしょ? それだと寂しいと思うのね。だから、レイナと一緒に、ここで暮らしたほうがいいんじゃないかなって」
「いいの? ホントにいいの?」
 レイナは笑里と裕の顔を何度も見る。
「ああ。二人で話し合って決めたんだ」
 裕はゆったりと微笑む。
「うちにはまだ部屋が余ってるからね。芳野さんも森口さんも、アミちゃんのことは大歓迎だって」

「アミ、一緒に住めるよっ。一緒にいられるよ!」
 レイナが叫ぶように言うと、アミも「あー!」と顔を紅潮させた。
 二人で抱き合う。
「それじゃ、オレが心配することは何もないってことだな。これで、安心してニューヨークに行けるよ」
 トムは大人びた口調で言う。
「ああ。後は、私たちに任せてくれ」
 裕はトムの頭をなでた。
 トムがアメリカに出発する日。
 空港に見送りに来たのはレイナたちだけで、ゴミ捨て場の住人は来なかった。

 朝、裕とレイナがトムを迎えに行ったとき、マサじいさんはあきらかに落胆していたが、「向こうで頑張って来い」と何度もトムに言った。
「うん。日本に帰って来るまで、マサじいさんも元気でね。すぐに戻って来るからさ」
 トムが無邪気に言うと、マサじいさんは首を大きく振り、「いや、ここにはもう戻って来ないほうがいい。いや、戻って来てはいけないんだ」と言い聞かせた。
「なんで?」
「なんででも。ここから出た人間は、ここに戻って来てはいけないんだ。もう住む世界が違うから」
「えー、だって、オレたちは家族じゃないか」
「そうだ、家族だ。家族だから言うんだ。もう、ここには絶対、戻って来るな」

「なんだよお。ジン、マサじいさんがひどいこと言うよ?」
 ジンは何も答えなかった。無造作に、「ホラ、これ、持ってけ」とトムに荷物を渡す。
「なんだよお。二人とも、オレがいなくなっても平気なのか?」
 トムが泣きそうな顔になる。
「違う、そうじゃないよ。二人とも、トムには幸せになってもらいたいんだよ」
 レイナがあわててフォローする。
「だって、帰って来るなって……」
「外の世界で暮らしたら、ここには戻って来ないほうがいいってことが、分かるさ」
 マサじいさんはポツリと言う。トムは解せない顔をしている。

 ふいに、ジンが「これ、持ってけ」といつも使っているサバイバルナイフを渡した。
「えっ、いいの!?」
「ああ、いつも使いたがってろ? これぐらいしか、あげられるものがないからな」
 ジンはしゃがみこんで、トムの目を見つめた。
「いいか。これで人を傷つけたりすんなよ、絶対に。でも、自分が大切な人を守るときには使ってもいい。そのときだけ、人に向けてもいい。分かったな?」
 トムは分かったような分からないような顔をしていたが、うなずいた。

 レイナはアミを迎えに、小屋に向かった。
 昨日ゴミ捨て場にアミを連れ帰り、アミを引き取って育てたいと、裕がヒロに申し出た。
 ヒロはあきらかにホッとした表情をした。
 相変わらず酒臭い息で、小屋の中をのぞくとルミが布団に横たわっていたので、レイナはアミには見せないようにした。

 ――あんなひどいお父さんでも、さすがに最後の日は二人で過ごしたんだろうな。

 ドアをノックする。だが、ドアが開く気配はない。
 再度、強く叩くと、ややあってゆっくりドアが開いた。シュミーズ姿のルミが目をこすりながら「あら、早いわね」と顔を出す。
 レイナは絶句した。
「――アミは?」
「ああ、アミは、私の小屋にいるわよ」
「えっ……どういうこと? アミは、今日、街に行くんだよ?」
「さあね、知らない。私は呼ばれたから来ただけ」
 ルミは大きくアクビをする。

「ヒロさんは?」
「んー、まだ眠ってるわよ。昨夜、かなり頑張ったからねえ」
 ルミは意味深な笑みを浮かべる。
「ヒロさんを起こしてよっ」
 強く言うと、ルミは面倒くさそうにヒロを揺り起した。

「ヒロさん、アミ、これから街に行くんだよ? しばらく帰って来ないのに、一緒にいなくていいの?」
 レイナが批難すると、ヒロは布団から出ずにトロンとした目で、「まあ、あの子を、よろしく頼む」と言った。
 レイナは怒りが爆発しそうになるのを、何とか堪えた。
「いいよ、もう。アミは私が守るから。ヒロさんのところには、二度と連れてこないからっ」

 それだけ言って踵を返すと、「へえ、偉そうなこと言うじゃない。ゴミ捨て場から抜け出して、いい暮らしして、ずいぶんいい気になってるじゃない?」と、ルミが煙草を吸いながら言った。
「いい気になんて、なってないよ」
「そう?」
 ルミは鼻でフンと笑った。
「どうせ、うちらのことを見下してるんでしょ? 底辺にいる人間だって。二度と這い上がれないだろうって、バカにしてるんでしょ?」
「そんなこと、思ってないよっ」
「どうだか」

 ヒロはレイナと目を合わせようとしない。
「オレだって、あの子を育てたいって思ってるよ。でも、カネがないからしょーがないんだよ。どんなに働いても、手元に残らないんだからさ、しょうがないんだよ」
 ボソボソと言う。
「お酒を買わなきゃいいだけじゃない。アミはヒロさんと一緒に暮らしたいのに」
 ヒロはシュンとなる。
「ちょっと」
 ルミがレイナの前に立ちはだかった。
「正論を言えばいいってもんじゃないよ。何も分かってない小娘のくせに、人の心をえぐるんじゃないよ」
 ルミが低い声で言い放つ。その異様な雰囲気に、レイナは気圧された。

「おい、どうした」
 レイナが戻って来ないので、ジンが心配して様子を見に来た。
 ルミとヒロの姿を見ると、「こいつらには関わりあいにならんほうがいいぞ」とレイナを諭す。
「ああら、ここにもレイナを守ってくれる王子様がいた。いいわねえ、あんたは、いろーんな人に守ってもらえて。でも、そんなの、あんたが若いうちだけだよ。そのうち、みんな、あんたから離れていくから。誰も見向きもしなくなるから」

「うぜえな、お前が誰にも構ってもらえなくなったのは、お前が性悪だからだろ? ここでもみんなに相手にしてもらえないから、お金で人を釣るしかないくせに。この親父とも、カネをくれるからヤってるだけだろ? カネでしか人とつながれないからって、レイナに嫉妬すんじゃねえよ」
 ルミの顔はみるみる赤くなり、そばに転がっていた酒瓶をジンに投げつける。ジンはひょいと交わすと、レイナに「行くぞ。ここは空気が悪すぎる」と促した。

 小屋を出ると、アミが走って来た。最後に、ヒロに会いに来たのだろう。
 ヒロはドアを閉めるために戸口のところにいたが、アミの姿を見て、顔をゆがめた。
「おー、おー!」
 アミが駆け寄ろうとしたが、ヒロは黙ってドアを閉めた。
「あー?」
 アミは驚いて足を止める。

「ヒロさん、今日は具合が悪いみたい。また別の日に来よ」
 レイナがフォローすると、アミは「あー、あー」とドアを指差す。
「大丈夫、いつでも会いに来られるから」
「そろそろ行かねえと。トムの出発の時間があるんだろ?」
「そうだね。これから、トムを一緒に見送りに行かなくちゃ。ね?」
「あー……」
 アミは目にいっぱいの涙を浮かべている。
 レイナはアミの手を握り、小屋を後にした。
 気のせいか、背後から男性の泣き声が聞こえたような気がした。

     
 マサじいさんとジンと数人の住人が、搬入口のところまで見送りに来てくれた。
 マサじいさんは、レイナにも「もうここには来るんじゃないよ」と言い聞かせたが、「ううん、また来ると思う」とカラッと答えた。
 トムは車の窓から身を乗り出して、「まったねー、元気でねえ!」と何度も叫ぶ。
「あの子たちは、分かってないな」
 マサじいさんは呆れたようにつぶやく。
「今はね。でも、きっと、分かる日が来る」
 ジンは寂しそうに手を振った。
      

「待ってたよ、オレの息子」 
 スティーブはトムを大げさにハグした。
 空港の建物のガラス越しに、スティーブが乗って来たプライベートジェットの機体が見える。
「必ず、大切に育てるから。ダンスを教えるだけじゃない。学校にも通わせる」
 スティーブの言葉に、「よろしくお願いします」と裕は笑里と共に頭を下げた。

「トム、元気でね」
 レイナとトムとアミは、三人で抱き合った。
「また会えるよね、レイナ」
「もちろん。いつでも会えるよ」
「あー」

「ホント言うとね、あの三人を離すのは、残酷なように感じるの」
 笑里は裕に小声で言った。
「ああ。でも、離れていても絆はしっかり結ばれてるんじゃないかな。ずっと一緒に暮らして来たんだ、あの場所で」

 トムは手を振りながら、搭乗口に消えていった。
 レイナとアミも、姿が見えなくなるまで大きく手を振り続けた。 
 涙はない。
 きっと、また会えると信じているから。
「ねえ、この曲、何て言うの?」
 レイナはこっそりと裕に聞いた。
「『トゥーランドット』っていうオペラの、『誰も寝てはならぬ』っていう曲だよ」
 裕も小声で答える。
「ふうん。変わった名前の曲」
 レイナはつぶやくように言う。
「でも、すごいいい曲」

 目の前で、笑里がバイオリンに合わせて高らかにアリアを歌いあげている。その迫力に、ゴミ捨て場の住人は瞬きをするのも忘れて見入っている。
 笑里の提案で、月に一回、ゴミ捨て場でコンサートを行うことになった。今日はその第一回目だ。
 笑里の提案に賛同した音楽家仲間が、毎回協力してくれることになったらしい。
 今日、演奏してくれるバイオリニストは白髪が混じった、大ベテランという風情の男性だ。
 メロディアスな音を奏でるバイオリンの音に合わせて、笑里は情感豊かに歌う。まるで、ここが大きなコンサートホールであるかのように。

 歌い終わると、みんな惜しみなく拍手を送った。レイナもアミと一緒に手が痛くなるぐらい、大きな拍手をした。
 マサじいさんは「生きているうちに、またこんな音楽を聞けるなんて」と、声を震わせている。ジンも紅潮した顔で拍手をし、その足元ではクロが嬉しそうに尻尾を振っている。
 笑里は嬉しそうに挨拶をして、歌の解説を始めた。

「笑里さんが歌うの、初めて聞いた。いつも、発声練習ぐらいしか聞いたことないから」
「ああ。この間ここに来たとき、僕も久しぶりに聞いた。7年ぶりぐらいかな」
 裕の言葉にレイナが目を丸くすると、「花音が亡くなってから、笑里は人前で歌えなくなったんだ」と話してくれた。

「花音は重い病気に……白血病という病気にかかってね。何度も入院していたんだ。笑里が海外で舞台に出演することになって、笑里は花音のために行くのをやめようとしたんだ。それを、僕が、行くように勧めた。海外の有名なオーケストラとの共演で、笑里にとってチャンスだったからね。そのときは花音も元気だったから、一週間ぐらいいなくても大丈夫だと思ったんだ。でも、急変した。笑里が舞台に出ていた夜に。どうしようもなかった」

 レイナは裕の横顔を黙って見つめていた。花音が亡くなったときの話を聞くのは、これが初めてだった。
「笑里は飛んで帰って来たけど、間に合わなくて……花音の遺体にしがみついて、何時間も泣き続けていたんだ。その後、笑里は舞台には出なくなった。僕のせいだ。あのとき、舞台に出るのを勧めなかったら」
 裕はそこで言葉を切った。瞳には涙が浮かんでいる。

「ねえ、花音ちゃんって、何歳で亡くなったの?」
 レイナはそっと尋ねる。
「6歳だ」
 裕は目の縁の涙を、指で拭った。
「生きていたら、君と同じ年齢だ。レイナ」
 レイナは何も言えなくなった。

 次の曲が始まった。次は『フィガロの結婚』の『恋とはどんなものかしら』だ。二人はうっとりと笑里の声に聞き入る。
 曲が終わると、ふいに「ねえ、私、このまま先生たちと一緒にいていいの?」とレイナは尋ねた。
「どういうこと?」
「だって、私がいると、いっぱい迷惑かけてるから。ヒカリさんのことだって……」
「ああ、いいんだ、あれは。遅かれ早かれ、ヒカリとは決別してただろう」

 裕はレイナの目をまっすぐ見た。
「迷惑なんてとんでもない。君は、私たちにいろんなものを与えてくれた。君が考えているより、ずっとね」
 レイナは唇をキュッと結ぶと、「ねえ、私、決めた」と切り出した。

「スティーブのライブでお金をたくさんもらえるって言ってたでしょ? そのお金を貯めて、ここのみんなのための家を建てるの」
「そうか。それはいいね」
「ね。そうしたら、みんな安全に暮らせるし。それに、みんなでずっと一緒に暮らせるし」
「そうだね」
 裕は寂しそうな表情になった。

「うちのそばに、そんな家を建てられないかなあ。そしたら、私もうちから毎日通えるもん」
 裕は驚いたような顔でレイナを見た。それから顔を紅潮させて、「ああ。そうだね。うちのそばで、家を建てられそうな場所を探してみよう」と興奮した口調で言う。
「うん。お願いね」
 レイナは裕の肩に頭をもたせかけた。
 レイナは、しばらくためらっていたが、大きく深呼吸してから小屋のドアを開けた。
 目の前には、懐かしい光景が広がる。
 テーブルの上には、タクマのノート。
 今までは手に取れなかったが、開いてみると、手書きの五線譜に音符が書いてあったり、歌詞が書いてある。タクマは、このノートで作詞や作曲をしていたのだろう。

『小さな勇気の唄』も楽譜が書いてあった。
 タイトルの横に、「~レイナにささぐ~」と書いてあるのを見て、レイナはしばらく息を止めた。

 ――私のためにつくってくれた曲だったんだ。

 レイナはそのノートを抱きしめる。
「必要なものは、持って帰りなよ」
 振り向くと、ジンが立っている。

「トムにはタクマの服をあげたよ。あいつは大切にしてくれると思う。ここにあるタクマのものは、レイナのものだ。オレらも気をつけて監視してるんだけど、誰かが持って行ってるんだよ、ここのものを。だから、必要なものは早く持って帰ったほうがいい」
 レイナはしばらく考え込んでいた。
「マサじいさんは、すべてを持っていけないって、人が抱えられる荷物には限界があるって言ってた」
「また、分かったような、分からんようなことを」
「でも、何となく分かる気がする。私はもうアルバムとピアノをもらったし、このノートと、お兄ちゃんが読んでた本をもらえればいいかも」
「そうか」

 ジンはレイナの目をじっと見つめる。
「じゃあ、ここに誰かが住むかもしれないけど、それでいいんだな?」
「うん」
 レイナは大きくうなずく。
「お兄ちゃんは、いつも私のそばにいてくれるもん」
「そうだな」
 ジンはつぶやいた。
「あいつがレイナのそばを離れるわけないからな」

 小屋の外に出ると、笑里と裕がアミの手を引きながら歩いている。
「ねえ、マサさんが、とっておきの紅茶を入れてくれるんですって。飲みに行きましょ」
「うん!」
 レイナはノートと本を抱えて、三人に向かって駆け出した。

 空はどこまでも晴れ渡り、夏のまぶしい光が建ち並ぶ小屋に降り注ぐ。
 街に建っている家々よりもずっとキレイだと、レイナは思った。

 ――いつか、きっと、何もかもうまくいきますように。みんなが幸せになれますように。

 レイナは、何度も何度も心の中で祈った。

             《第一部 完》