トラックの地響きとエンジンの音で、レイナは目を覚ました。
いつも目を開けると、真っ先に視界に入るのは赤く錆びたトタン屋根。屋根にはいくつも穴が開いていて、雨漏りするので板でふさいである。
息を吐くと、たちまち白い蒸気になる。今日も朝から寒い。
レイナは寝袋に布団と毛布をかけて眠っていた。
そこから出たくないとしばらくまどろんでいたが、隣で寝ているはずの母のミハルの姿が見えないことに気付き、飛び起きた。
「ママ、先に行っちゃったんだ……」
ベニヤの壁にかけてあるセーターとダウンジャケットを羽織り、小さな壁掛け鏡をのぞき込む。
白く透き通った肌に、大きな茶色い瞳。肩につく長さの艶やかな黒髪は、あちこち寝癖で跳ねている。
ブラシでとかしても寝癖はとれないので、隠すために青い毛糸の帽子をかぶり、小屋の外に出た。
途端に、冷たい風が頬を刺す。レイナは身をすくめた。
目の前に広がるのは、いつもと変わらないゴミの山。身長157センチのレイナの3倍はある高さの山だ。
色とりどりの空き缶や空き瓶、ペットボトルや鉄くず、ゴミ袋に入ったままのゴミが積み重なっている。今は冬だからニオイがキツくないのが、せめてもの救いだ。
レイナはゴミの山の麓を早足で歩き、ゴミ捨て場の片隅にあるバラック小屋に向かった。
トラックの轟音は途切れることなく続いている。バラック小屋の外にある水飲み場には、既に他の住人が集まっていた。
「レイナー、おはよう!」
ゴミの斜面に登っていたトムがレイナに気付き、大きく手を振る。トムは日本人とガーナ人との間に生まれた子供で、肌は褐色だ。
「おっはよー」
レイナも手を振って返す。
ちょうどミハルがバケツに水を汲んでいるところだった。
ミハルは顔を上げて、「レイナ、顔を洗いなさい」と手招きしてくれる。
レイナは並んでいる人たちに挨拶をしてから、蛇口に両手を揃えて出して、顔を洗う。
「ひゃ~、冷たっ」
「目が覚めるでしょ?」
ミハルは首に巻いていたタオルをレイナに渡す。
タオルで顔を拭きながら、「起こしてくれればよかったのに」と言うと、ミハルは「昨日は農作業を一生懸命やってたから、疲れてるだろうなって思って」とバケツを2つ持ち上げた。
「じゃ、私、マサじいさんのところに持って行くね」
レイナも既に水が入っているバケツを2つ持ち上げた。
「いつもは一番乗りなのに、今日は珍しいじゃないか」
列の中からレイナに声をかけたのは、みんなからジンと呼ばれている男性だ。
寒くてもずっとヘアスタイルは丸刈りで、手拭いを頭に巻いている。腕組みをしている両手の甲には刺青が目立つ。
「うん、ちょっと寝坊した」
「まあ、今日は特別な日だしな」
「特別な日?」
レイナが首を傾げると、ミハルが慌てて、「ホラ、早くマサさんにお水を持って行ってあげないと」と促した。ミハルが軽くにらむと、ジンは気まずそうに横を向いた。
「ねえねえ、レイナ、今日は家具のトラックが来てるよ!」
トムが興奮しながらレイナに駆け寄ってきた。
「へえ、そうなんだ。どの辺に来てるの?」
「南口のほう」
「じゃあ、ご飯食べたら一緒に行こ」
「オーケー!」
トムは親指をグッと立ててから、走り出した。
「おーい、お湯を沸かしておいてくれ……って聞いてないか」
ジンが諦めた口調で言うと、「たぶん、タクマお兄ちゃんに伝えに行ったんだと思う」とレイナは答えた。
途中でミハルと別れて、レイナはマサじいさんが住んでいる小屋に向かった。
ここに20年以上住んでいるマサじいさんの住処は、大きな木の下にある小ぶりの小屋だ。青いビニールシートで雨除けをして、ベニヤで壁と床をつくり、トタン屋根を渡してある。
「マサじいさん、おはよー」
ドアの外で声をかけると、中から咳こむ音が聞こえてきた。
ちなみに、ドアはゴミ捨て場に捨てられていたのを拾って使っているので、ドアだけやけに立派だ。
レイナはドアを開けて、「風邪の具合はどう?」とのぞき込む。
「ああ、どうも咳が止まらなくてね」
マサじいさんは、苦しそうにベッドから起き上がる。そのベッドも拾ったものだ。あちこちから調達した布団を、何枚も重ねている。
布団の上に出ているのは右手だけ。マサじいさんは左手が肘のところから、ない。工場で働いているときに、機械に挟まれて手をなくしたのだ。
「風邪をうつすわけにはいかないから、こっちには入って来んように」
つらそうに咳をしながら言う。
「わかった。じゃ、外で雑炊を作るね」
マサじいさんは、ドアのすぐ横の棚に食器や調理器具をそろえて置いている。
レイナは小屋の外にカセットコンロや片手鍋を持ち出す。
バケツから鍋に水を入れて火をつけると、ダウンジャケットのポケットから小さなタッパーを取り出した。昨夜のうちに、雑炊用の冷ご飯を詰めておいたのだ。
お湯が沸いてから、マサじいさんがストックしている粉末の鶏がらスープを入れ、冷ご飯を投入した。
それから小屋の裏にある鶏小屋をのぞきに行くと、二羽の鶏は眠っていた。
敷き藁の上に卵が2つあるのを見つけて、レイナはエサをやるための小窓からそっと手を入れて、卵を取り出す。
卵の1つは小窓の脇にある受け皿に置いた。そこに置いておけば、卵を食べたい誰かが持っていく。
ここでは、自分が食べきれる量だけを取るのが鉄則だ。
エサと水を補充してから、鶏小屋の後ろにある畑に入る。
ダウンジャケットのポケットからハサミを出して、ネギを一本切り、小松菜を一株抜いた。この畑はマサじいさんが管理している、ささやかな野菜畑だ。
小屋に戻り、ボールに入れた水で野菜を丁寧に洗うと、ネギを細かく刻んで片手鍋に入れた。小松菜は大雑把に切る。
野菜がやわらかくなるまで煮て、最後に卵を溶いて流し込む。塩コショウをして味を見ると、なかなか良い出来だ。
あちこちが欠けているご飯茶碗によそっていると、「オレがマサじいさんに持ってくよ」と水汲みから戻ってきたジンが受け取った。
ジンも雑炊を一口食べてみて、「うん、うまい。レイナはホントに料理が上手だな」とレイナの頭をなでた。
「じいさん、具合はどうだ?」
小屋の中からジンが話しかけている声が聞こえる。レイナはやかんでお湯を沸かし、緑茶を入れて、それもジンに託した。
「熱は下がったみたいだな。咳が出るようになったから、もうすぐ治るだろ」
ジンは後片付けはしておくから、家に戻るようにレイナに言った。レイナはお礼を言うと、ミハルが待つ小屋に駆け戻った。
林に点在している小屋では、住人が洗濯物を干したり、煮炊きをしている。
レイナは「おはようございます」とみんなに声をかけていく。みんなも、「おはよう」「今日も寒いね」と声をかけてくれる。
ゴミ捨て場の麓に住んでいるのは、ざっと30人だ。
年齢も国籍もさまざまで、10代で一人暮らしをしている人もいれば、マサじいさんのように70代の老人もいる。事故で片足をなくしたり、知的障害を抱えている人もいる。
ここでは、みんなで支え合いながら暮らしているのだ。
小屋のドアを開けると、いい香りがたちまち鼻を刺激した。
布団は隅に片づけられ、部屋の中央にはちゃぶ台が置いてある。その上には、野菜を小さく刻んで煮込んだスープが湯気を立てていた。そして、目玉焼きが一つ。
「お帰り」
「あー、お腹すいた!」
ミハルは食パンを、さっとカセットコンロであぶってくれた。
「いただきまーす」
レイナはスープを二口、三口飲む。冷え切った体に、じんわりと温かいスープが染みわたっていった。
「マサさんはどうだった?」
「熱は下がったみたい。でも咳が苦しそうだった。雑炊を作って来たんだけど、食欲はあるみたい」
「そう。今回の風邪は長びいてるわねえ」
ミハルは目玉焼きを半分に切り、レイナに差し出す。いつも、レイナのほうが大きめだ。
レイナは目玉焼きを食パンに乗せて頬張った。
「ん~、おいしっ」
満足そうな表情のレイナを見て、ミハルはフフッと笑う。
「ちょっと冷めちゃったわね」
「ううん、大丈夫!」
その時、ドアを軽く叩く音がした。
ドアがそっと開き、一人の少女が、おずおずと顔を見せる。
おかっぱ頭に、丸い瞳。頬は寒さで真っ赤になっている。その手には、いつもお供をしているペンギンのぬいぐるみ。
「アミ、おはよっ」
レイナが手招きすると、アミは顔を輝かせて小屋に入る。
「朝ご飯は、食べた?」
ミハルが尋ねると、アミは首を横に振る。
「じゃあ、スープを食べなさい。パンもあるわよ」
ミハルはアミの分のスープと食パンを用意した。
「目玉焼き、食べる?」
レイナが半分ほど食べたトーストを差し出すと、アミはちょっと首を傾げた。
「いいよ、食べても。私はそっちのトーストを半分もらうから」
そういうと、アミは「ありがとう」と口を動かして、目玉焼きをのせたトーストを嬉しそうに頬張った。
「お父さんは、昨夜帰って来なかったの?」
ミハルが聞くと、アミは小さくうなずく。
「困ったわねえ。またどこかでギャンブルやって、お金をすっちゃったんでしょうね」
ミハルはため息をつく。
「マサじいさんやジンさんが何度注意しても、ダメみたい」
「そうみたいね。アミちゃん、前にも言ったけど、ヒロさんが夜に帰って来なかったら、うちに来てもいいのよ。一人で眠るのは寂しいでしょ?」
アミは困ったように首を傾げる。
「お父さんが夜中に帰って来たときにいなかったら、心配するかもしれないってアミは思ってるみたいよ」
レイナが代弁すると、ミハルは「そう。お父さん想いね」とアミの頭を優しくなでた。アミは、はにかんでうつむく。
食事を終えてから、レイナはアミの髪をブラシでとかしてあげた。
アミは8歳だが、3、4歳にしか見えないほど、やせ細っていて、背も低い。2年前に父親のヒロと共にゴミ捨て場に来たときは、まともに歩けないぐらいに小さかった。
まわりの大人たちが一生懸命、栄養のあるものを食べさせて、ようやく走り回れるぐらいの体型になったのだ。
「トムと家具を見に行くんだけど、行く?」
尋ねると、アミは元気よくうなずいた。食器を洗うのをミハルに任せて、小屋の外に出る。
アミが駆けて行こうとするのをレイナはあわてて腕をつかんで、「そっちはトラックがいっぱいいるからダメ」と諭した。
ミハルから、トラックやショベルカーが行き来している時間帯は、絶対に近づいてはダメだと、今まで何十回も言い聞かされてきた。過去に、トラックやショベルカーに轢かれて大けがをしたり、亡くなった住人が何人もいるのだ。
「それでも、あいつらは何もしないのよ。見て見ぬふりをするだけ。血だらけになった遺体が放置されてたこともあるんだから」
ミハルは何度もそう言った。
あいつらとは、トラックやショベルカーを運転している作業員だ。制服を着た作業員たちは、夕方、作業を終えると街に戻って行く。
レイナは、街がどんなところなのか知らない。
ただ、ここよりももっといい暮らしをできるところであるのだけは分かる。そして、街で暮らす人達から、ゴミ捨て場の住人は見下されていることも。
アミと手をつないで南口に向かった。アミに「今日は何があるかなあ」と話しかけても、トラックの轟音で聞こえないらしい。
レイナは大きく息を吸いこみ、歌いだした。
さあ、立ち上がろう
暗闇でいつまでも膝を抱えていないで
さあ、歩き出そう
真実の光があなたの足元を照らすから
さあ、深呼吸をして
世界は喜びに包まれているから
さあ、手を伸ばして
いつかあなたの夢に手が届くから
さあ、愛し合おう
あなたを愛してくれる人が、きっとそばにいる
きっと、ずっと、あなたを強く抱きしめてくれるから
ラジオでよく流れているアップテンポの曲だ。レイナのお気に入りで、毎日のように歌っている。
レイナが歌うと、アミは顔を輝かせて、一緒に歌おうと口を開ける。
その口から洩れてくるのは声にならない音ばかりだが、嬉しそうにアミは首を左右に振っている。
レイナはトラックやショベルカーの騒音に負けないように声を張り上げる。歌っている間だけ、自分がゴミ捨て場にいることを忘れられるのだ。
南口に着くと、ゴミの山に登っているトムが、「ここまで歌が聞こえて来たよー」と手を振った。その横にはタクマがいる。
「おはよう、レイナ」
タクマはやわらかな微笑みを向ける。
毛糸の耳当てをして、革ジャンを着ている。髪を後ろで1つに結んでいるのが、タクマのいつものスタイルだ。
「おはよっ、タクマ兄ちゃん」
レイナとアミは、ゴミの山を駆け上った。
「風邪はもういいの?」
「うん。今は母さんが寝込んでる。僕がうつしちゃったんだけど」
タクマは青白い顔を少し曇らせた。切れ長の目は、いつもかすかな愁いを帯びている。
「レイナ、あれ見て。あのソファー、オレがもらうんだっ」
トムは興奮して、ワインカラーのベルベットでできた長ソファを指差す。
「えー、あんな大きいの、小屋に入るの?」
「入らなかったら、外に置くもん。あのソファをベッドにするんだ」
トムは駆けて行って、ソファの上に寝転んだ。
「確かに、トムが寝るのにはピッタリのサイズだよね。後で、おじさんたちに運んでもらおう」
タクマはようやく聞き取れるようなか細い声で言う。
既に、付近ではゴミ捨て場の住人がめぼしいゴミを物色していた。
ここの住人たちの経歴はさまざまだ。元経営者もいれば、元スポーツ選手や元トラック運転手、元トレーダーも元料理人もいる。
相手の過去を根掘り葉掘り聞くのは、ここではタブーだ。
自分が話そうという気になるまで待つようにと、マサじいさんはいつも子供達に言い聞かせている。
「今日は高そうな家具ばっかだね」
「うん。おじさん達は、売れば結構なお金になるって、喜んでるよ」
レイナは食器棚やタンスを見ながら、「まだキレイなのに、なんで捨てちゃうんだろ」とアミに話しかける。アミはタンスや食器棚の引き出しを開けて、中に何か入っていないか確認している。
「あっ、フォークやスプーンが入ったままだ。これは持って行って、みんなに配ろうよ」
レイナはダウンジャケットのポケットに、フォークやスプーンを詰めた。アミもダッフルコートのポケットに小さなスプーンやフォークを詰める。
下の棚を開けると、本が入っている。
「なんだろ」
レイナは取り出して、「えーと、アメリカ……? これは『ん』だったかな……アメリカン。クッキ……ングかな」とカバーに書いてある文字を読み上げた。
レイナは学校に通ったことはないが、読み書きはミハルが教えてくれたので、ある程度は読める。
パラパラとめくると、おいしそうな料理の写真がたくさん載っている。
「これ、ママにあげよ。ママが喜びそう」
そのとき、「レイナ、あれ見て!」とタクマに呼ばれた。
「あれ、ピアノだ!」
タクマが指差した先には、黒いアップライトピアノが横たわっていた。
「ピアノ?」
「そういう名前の楽器のこと。僕、幼稚園のころに習ってたんだ」
タクマはレイナの手を取って、ピアノの脇に連れて行った。しゃがんでピアノのフタを開ける。
「これが鍵盤」
タクマが鍵盤を押すと、ポーンと音が鳴り響いた。
「ちゃんと音が鳴る、これ」
タクマは珍しく興奮した様子で、両手で短い曲を弾いた。
「すごい、お兄ちゃん。何て歌?」
「猫ふんじゃった」
「猫ふんじゃった? かわいい曲」
タクマは嬉しそうに鍵盤を一つ一つ鳴らしていく。
「ちょっと音が悪いのもあるけど、これなら使えるな」
「おー、ピアノかあ。タクマ、ピアノ弾けるんだな」
いつの間にかジンが来て、二人の背後からのぞき込んだ。
ジンの飼い犬のクロも一緒だ。クロはドーベルマンで、子犬のときにゴミ捨て場に捨てられていたのをジンが世話してから、なつくようになったのだ。
「これ、下に運ぶか?」
「えっ、いいの? いいの? 重いよ、これ」
「いいよ、いいよ。タクマはいつも、いいゴミを見つけてくれるんだから。みんなで運ぶよ」
「ありがとう」
タクマが喜びで顔を紅潮させたとき、「嫌だ、これはオレのだ!」とトムの怒鳴り声が聞こえた。
ソファのところに戻ると、トムがソファにしがみついている。
その脇で、一人の女性が腕を組んでトムを見下ろしている。クロは、なぜかソファのまわりをグルグル回りながら吠えだした。
「どうする? ルミさん。トムが先に取っていたみたいだけど」
ソファを運ぼうとしていた男二人が、困ったようにルミと呼ばれた女性を見る。
ルミは長い髪をカールし、毛皮のコートを着て、こんな場所でもハイヒールを履いている。
ゴミ捨て場の住人だとはとても思えない風貌だが、ここに住んでもう10年になる。
元々ナンバー1ホステスだったらしく、いかにいい思いをしてきたのかを、しょっちゅうレイナたちに話して聞かせていた。散財癖があり、借金を返せなくなって夜逃げしたらしい。
「トムぅ。あんたには、このソファは贅沢すぎるわよお」
ルミはトムの顔をのぞき込む。
「んなの関係ねえだろ? トムが先に見つけて取ってたんだから、それはトムのものだろ」
ジンが言うと、ルミはムッとした表情になる。
「トムがこんな贅沢なものを使っても、すぐに汚しちゃうじゃない。これは上等なベルベットなんだから。手入れの仕方を知っている私が持つべきなの」
「こんな場所で上等とか手入れとか、アホか。どんな気取ったこと言ってても、人のものを横取りするような人間は上等じゃねえよ」
ジンの言葉に、ルミはみるみる顔を赤らめていく。
眉を吊り上げたままコートのポケットからボロボロのシャネルの財布を出すと、「じゃあ、これで売って」とお札を1枚トムに差し出した。
「えー、それっぽっち?」
トムがごねると、ルミは渋々もう2枚追加した。
「しょうがないなあ。譲ってあげるよ」
トムは大げさにため息をつき、お札を受け取ると、すぐにポケットにしまう。ルミは男たちにソファを運ばせて、自分は転びそうになりながら山を下りて行った。
「いいのか?」
ジンが聞くと、「うん。あのソファ、猫のおしっこ臭かった。だから捨てたんだと思う」とトムはあっけらかんと答えた。ジンは豪快に笑った。
「それでクロが吠えたわけか。そりゃ、後であのおばはん、怒りまくるかもしれないな」
「このお金でさ、ご馳走を買おうよ。だって、今日はさ」
「トム、しーっ」
タクマが慌てて唇に指を立てる。
「えっ、何? 今日、何かあったっけ?」
レイナが聞くと、「あ、えーと、マサじいさんに栄養のあるものを食べさせてあげようって、みんなで言ってて」と、タクマはうろたえながら答える。
「そうなの? 何作る?」
「レイナは昨日も今朝も作ったんでしょ? 僕らで作るから、いいよ」
タクマの言葉に、「ふうん?」とレイナは首を傾げた。
「あのおばはん、鏡台も持っていくのか。あんな大きな鏡台、どこに置くつもりなんだか」
ジンが呆れたように言う。見ると、ルミはオフホワイトのドレッサーも男たちに運ばせていた。
「運ぶのはピアノだけでいいか? レイナとアミは、欲しいものはないのか?」
ジンに聞かれて、レイナとアミは再びゴミを見て回ることにした。
クロもその後を、あちこちの臭いを嗅ぎながらついてくる。
「今晩は曇りかな」
タクマが空を見ながら、ポツリと言う。レイナも空を見上げる。鈍い灰色の空が広がっている。
「雪でも降ればいいのに」
レイナもつぶやいた。
その日の夕方、レイナはマサじいさんの様子を見るために再び小屋を訪れた。
「レイナの雑炊を食べて眠ってたら、だいぶよくなったよ」
マサじいさんはベッドの上に起き上がっていた。咳はたまに出るぐらいになったようだ。
「着替えは? パジャマを換えたほうがよくない?」
「ありがとう。パジャマはトムが洗ってくれたから、大丈夫だよ。ここの子供たちは、みんなよく気が利くいい子だ」
夕飯は隣の小屋の住人が持って来てくれるらしい。レイナはお茶を入れてあげた。
「ああ、ありがとう。今夜は曇りだから、残念だねえ」と言った。
タクマも同じようなことを言っていたな、とレイナは首を傾げた。
――なんで、今日はみんな、そんなことを言うんだろう?
冬は暗くなるのが早い。ゴミ捨て場には街灯がないので、真っ暗になる前に帰ろうと、レイナは小屋に急いだ。
「ただいまあ」
小屋の扉を開けると、「お誕生日おめでとう、レイナ!」と、声が響き渡った。見ると、ミハルとタクマ、アミにトム、ジンがちゃぶ台を囲んで座っていた。
「えっ、今日って……」
レイナはすぐには事態が呑み込めず、何度もまばたきした。
「私の誕生日だっけ」
「そうよ。忘れてたみたいだけど」
ミハルはフフッと笑った。
「えー、そうかあ。どうして忘れてたんだろ」
「ラジオが壊れてるからじゃない。今日が何月何日か、ラジオを聞かないと分からないもんね」
「そっか」
レイナは手招きされて、みんなの輪に加わる。
「さあ、ご馳走を食べましょ。トムが食堂で食材を調達してきてくれたの」
食卓には鶏のから揚げとポテトサラダ、オムライスとオレンジジュースが乗っている。レイナは歓声を上げた。
「これ、これ、私がいない間に作ってくれたの?」
「そうよ。見つからないように作るの、大変だったんだから」
ミハルは茶目っ気たっぷりの表情で言う。
「デザートにはロールケーキもあるんだよ。食堂のおばさんに、レイナの誕生日だって言ったら、タダでくれたんだ」
トムは誇らしげに言う。
食堂とは、ゴミ捨て場の作業員たちが休憩するプレハブにある食堂のことだ。
そこで料理を作っているおばさんとおじさんの夫婦は、レイナたちに対して優しい。余った料理や食材を、よく分けてくれるし、古着をどこかで調達してきてくれることもある。
二人には子供がいないので、レイナたちを自分の子供のように思ってくれてるんじゃないかと、マサじいさんは話していた。
「いっただきまーす」
レイナはから揚げにかぶりつく。たちまち、ジューシーな肉汁が口中に広がった。
「ん~、おいしいっ。ママのから揚げ、最高!」
「ミハルさんが揚げたてを食べてもらわなきゃって言うから、オレがレイナのことを見張ってたんだよ」
トムもから揚げを頬張りながら言う。
「見張ってた?」
「レイナが後片付けをしてたときに、もうすぐ帰って来るよってここに言いに来たんだ」
「えー、近くにいたなんて、全然気づかなかったよ」
「こいつ、すっかりスパイになりきって、ターゲットはお茶を入れているところ、食器を洗ってるところって、何度も報告しに来るんだよ。うっとおしかったぞ?」
ジンが呆れたように言う。レイナはその様子を想像して、笑い声をあげた。
ふと、「そっか、今夜は曇り空って言ってたのは」とつぶやいた。
「そう。今晩は流れ星が見えないねってこと」
タクマがポテトサラダを食べながら言う。
アミがレイナの腕を引っ張り、天井を指差す。見上げると、ブリキでつくった星がいくつも貼りつけてあった。
「流れ星が見えなくても、いつでも星があるよって、アミは言いたいのよね」
ミハルが言うと、アミは嬉しそうに何度もうなずく。
「すごーい、これ、作ってくれたの?」
「ジンおじさんに教わりながら、トムとアミとで作ってくれたんだって」
「ブリキをハサミで切るのは、大変だったけどな」
「ホラ、あれがオレがつくった星だよ」
「これ、蓄光塗料が塗ってあるのよ。暗くなったら光るんだって」
「えー、すごい、すごい!」
「オレはプレゼントってほどじゃないけど……ラジオを直した」
ジンは頭をかいた。
「女の子には、何をプレゼントしたらいいのか、さっぱり分からん」
「ラジオを直してくれただけで嬉しいよお」
「ジン、オレの自転車も直してくれていいよ」
「なんでお前は上から目線なんだよ」
ジンはトムの頭を小突いた。
みんなで天井を見上げながら、にぎやかに語り合う。
――ああ、幸せだ。みんな、大好き。
レイナの心は満たされていた。
ささやかな誕生日パーティーを終えてから、ジンとトムは連れだって帰って行った。
レイナとタクマはアミを小屋まで送る。今日はヒロが戻ってきているようで、小屋には明かりがついていた。
アミは顔を輝かせて、レイナの手を振りほどいて小屋に駆け込んだ。
「あんなお父さんでも、一緒にいたいものなのかな」
レイナが言うと、「アミには他に頼れる大人がいないからね。あんなお父さんでもすがりたいんだよ」と、タクマは大人びた発言をする。
タクマは、「山のてっぺんに行こう」とレイナを誘った。
二人とも足元を懐中電灯で照らしながら、転ばないようにゴミの山を登る。
「うちのママだって、マサじいさんだって、アミと一緒に暮らしてもいいって言ってるのに」
「でも、どんなに優しくしてくれても、他人は他人だから。甘えられないし、気を遣うもんだよ」
「だって、いつも一緒にいるのに」
「そうだけどね。何て言うか、それだけじゃないんだよね、家族って言うのは。レイナは、ミハルさんがずっと、一緒だから、その辺が、分からない、かも」
「ふうん。難しくって、よく分かんない」
「難しい、よ、ね」
タクマの息が切れている。レイナはそれ以上会話するのをやめた。
ゴミの山のてっぺんに着く。
タクマはゼイゼイと荒い息をしながら座り込んだ。身体が弱いうえに病み上がりなので、一気に登ったのはかなりキツかったようだ。
レイナは背中をさすろうとしてやめた。タクマは自分がいたわられるのを嫌がる。
夜空を見上げる。空の色は鈍く、星一つ見えない。
「去年は、流れ星がたくさん見えたのにね」
白い息はたちまち暗闇に溶けていく。
夜にここに登ると、街の光がよく見える。街は色とりどりの光に包まれている。高層ビルやマンションから漏れる灯り、ネオンサインのどぎつい灯り、道を行きかう車のヘッドライト。
「僕、今、お金を貯めてるんだ」
タクマがポツリと言う。
「ちょっとずつだけど。いつか、ここから出て行くために」
「出て行くって……街に行くの?」
「うん。街に帰るの」
「そっか……」
タクマは5歳まで街で暮らしていた。父親が亡くなり、家賃を払えなくなって追い出されてから、母親とゴミ捨て場に移り住んだのだ。
タクマが、いつかここからいなくなる。レイナは今まで想像だにしていなかったので、とっさにどう返したらいいのか分からなかった。
「レイナも一緒に行こうよ」
タクマはゆっくりと立ち上がった。
「レイナが15歳になったら、一緒に街に行こう」
「えっ、私も!?」
「うん。レイナだって、ずっとここで暮らすつもりはないでしょ? 街に行きたいでしょ?」
「それはそうだけど……」
「二人で街で暮らせるように、お金を貯めてるんだ。だから、一緒に暮らそうよ。後二年あれば、かなり貯まると思う」
「でも、でも」
レイナはうろたえた。
タクマとここを抜け出して、街で暮らす。それは夢みたいな話で、どう受け止めればいいのか分からない。タクマが真剣にそんなことを考えていることに驚き、嬉しくもあった。
「でも、ママはどうするの? マヤさんだって」
「母さんには、いつか街に戻りなさいって、いつも言われてるんだ。母さんのことは気にするなって。街でお金を稼いでから、連れ戻しに来てくれればいいって」
タクマは目を伏せた。
「母さんは体が弱いから、一人にするのは心配だけど。でも、街で僕が一生懸命働いたら、すぐに連れ戻せるかもしれないし」
「そっか……」
レイナは手袋をしていても指先が冷たくなっていくので、両手に温かい息を吹きかけた。
――うちのママはどう思うんだろう。
「ミハルさんには、いつか、僕から言うよ。だから、一緒に行こう」
タクマはまっすぐレイナを見つめる。
――キレイな目。
レイナは一瞬見とれた。
「僕、初めてレイナに会った日のこと、覚えてるよ。僕とママがここに来たとき、僕は『こんなところ嫌だ、家に帰りたい』って泣いてたんだ。そしたら、レイナがバナナをくれた。『あげる』って」
「そうだっけ? 覚えてないなあ」
「レイナは3歳だったからね。あのバナナで、元気が出たんだ。あのときから、僕は……」
タクマは恥ずかしそうに俯いた。
「ずっと、一緒にいたいって、思ったんだ」
レイナはいろんな想いがいっぺんに込みあげてきて、どうしたらいいのか分からなかった。顔が熱くなる。
ようやく、「私も、お兄ちゃんと一緒に、街に行きたい」とかすれた声で言った。
「ホントに!? よかったあ」
タクマは顔をほころばせた。レイナはタクマを正視できずに、足元に目を落とす。
「これ、誕生日プレゼント」
タクマは革ジャンのポケットから小さな紙袋を取り出した。紙袋を開けると、今まで見たことのないものが出てきた。
「これ、何?」
「バレッタって言って、髪を留めるものなんだ」
「バレッタ?」
レイナは懐中電灯の明かりで照らした。真ん中にはビーズでつくった赤い花があしらってあり、その両サイドはパール系のビーズやカラフルなビーズが敷きつめられている。
「キレイ……」
レイナはうっとりとバレッタに見入った。
「使い方は、ミハルさんが知ってると思う」
タクマは照れくさそうに言った。
「今はこんなものしかプレゼントできないんだけど……食堂のおばさんに頼んで、買って来てもらったんだ」
「すごいっ、こんなキレイなの、初めて見た!」
レイナは興奮して何度も「ありがとう」とお礼を言う。
「よかった、喜んでもらえて。レイナにはきっと似合うよ」
タクマはやわからな笑みを向けた。
「そろそろ帰ろうか」
タクマは手を差し出す。レイナは迷わずにその手を握り返した。
二人は手をつないで山を下りた。離れないように、しっかりと互いの手を握りしめながら。
レイナは小屋に戻ってから、ミハルにバレッタを見せた。
「あら、素敵なプレゼントをもらったのね」
ミハルはレイナの髪をとかし、後頭部の髪をまとめてバレッタをつけてあげた。
「どう? こんな感じで使うの」
合わせ鏡で、レイナに見せてあげる。
「やっぱ、キレイ」
「そうね。タクマ君、いいセンスしてる」
レイナは自分がちょっと大人になったように感じた。
その日の夜は、枕元にバレッタとミハルがプレゼントしてくれた本を置いた。ミヒャエル・エンデの『モモ』という本だ。明日から、ちょっとずつ読もうとレイナは本の表紙を大事そうになでる。
明かりを消すと、いつもは真っ暗闇になるのに、アミとトムが作ってくれた黄色い星がぼんやりと浮かび上がる。レイナは歓声を上げた。
「キレイねえ」
「これって、ずっと光るのかな」
「そうじゃない? これから毎晩、星を見ながら眠れるのね」
――明日は、バレッタをつけてお兄ちゃんに会いに行こう。
レイナは星の数を数えているうちに、すとんと眠りに落ちた。
その日、レイナはジンとトム、アミと一緒に、農作業にいそしんでいた。
コンポストを使って落ち葉と生ごみで作ったたい肥を土にすきこみ、鍬で耕す。
去年まではマサじいさんに教わりながら作業していた。
ところが、マサじいさんは3日前に掃除の最中に片手で重い荷物を持ち上げようとしてぎっくり腰になってしまい、寝込んでいる。
「病み上がりなのに、無理をするからだ」と、ジンは呆れていた。
ゴミ捨て場の住人は、それぞれが小さな菜園を作ったりして自活している。
ここでのルールは、他の人が作った農作物は、絶対に取らないこと。新しい住人が来ると、いつも畑の野菜を勝手に取ってしまうので、争いが起きる。
マサじいさんは、新しい住人にここでのいくつかのルールを教えるのだが、たいていの人は守らずに、住人たちにボコボコにされてから従うようになるのだ。先月も、一人の新しい住人が野菜を盗んで大ゲンカになり、姿を消してしまった。
明後日には一年が終わる。
上着を脱いでいても、農作業をしていると暑くなる。レイナは首に巻いたタオルで顔を拭った。
「こんなもんでいいだろ」
ジンが畦をつくり終えて、額の汗を手拭いで拭った。
「終わった~」
トムが鍬を放り出して座り込む。
「これで、来年もおいしい野菜を食べられるね」
レイナはアミに話しかけると、アミは嬉しそうにうなずいた。
アミの細い腕の内側には、青アザがいくつかついている。酔ったヒロに暴力を振るわれているのだ。ジンが何度もヒロを殴り飛ばしても、たいして効果はない。より見えづらいところを攻撃するだけだ。
アミはレイナの視線に気づいて、慌てて袖を下ろした。
――なんでなんだろ。あんな父親、離れて暮らすほうがいいのに。
そのとき、ミハルが「ご苦労様。お風呂を沸かしておいたわよ」と様子を見に来た。
「お昼は温かいスープね。先にお風呂に入ってきたら?」
「ハーイ」
駆けだそうとしたトムの襟首を、ジンがつかむ。
「レディファーストだろ」
「そっか、分かった」
レイナとアミは、林の奥の一角につくってある風呂場に向かった。
風呂と言っても、ドラム缶にすのこを沈めて入る、ドラム缶風呂だ。ブロックで風呂の足をつくってあり、その間に薪をくべて火を起こすつくりになっている。
女性陣が入るときは、辺りにシーツを張り巡らせて入るようにしている。
レイナはアミの洋服を脱がせるのを手伝ってあげた。
背中にもいくつかアザや切り傷があり、レイナは思わず「この傷、痛くないの?」と聞いた。アミは力なく頭を横に振る。
――痛いなんて絶対に言わないんだろうな。
レイナは後で薬を塗ってあげようと思った。
アミの背の高さに合わせて、湯船に風呂用のプラスチックの椅子を沈めてあげる。
アミは梯子を上り、ゆっくりと湯船に入る。
「熱い?」
レイナが聞くと、アミは「だいじょうぶ」という口の動きをした。
レイナはそばに置いてある木桶で頭からお湯をかけてあげた。アミは気持ちよさそうに顔を洗う。
アミが上がってから、体を拭き、着替えを手伝ってあげる。
「髪が濡れたままだと風邪ひくから、先にママのところに行ってていいよ」
レイナが言うと、アミは髪から雫を散らしながら駆けて行った。
レイナも服を脱ぎ、畳んでカゴに入れてから湯船につかる。
「はあ~、気持ちいい」
見上げると、相変わらず鈍い色の空が広がっている。今年は、雪はまだ降っていないが、晴れの日が少ないので例年より寒さが厳しい。
――もう今年も終わりなんだ。来年は、何をしようかな。お兄ちゃんがピアノを教えてくれるって言ってるけど。あんな難しそうなこと、私にできるのかな。
そのとき、砂利を踏むような音がした。レイナはハッとして、辺りを見回す。
――シーツの後ろに、誰かいる。
そう思ったとき、クロが吠えながらその影に飛びかかった。
「うわあ、やめてくれえ」
男の悲鳴が響き渡る。
「お前、この間ものぞいてたろ? 今度やったらタダで済まないって言ったよな?」
クロを追いかけてきたジンが、その人物に怒鳴りつけている。
「すすすみません、もうしません。絶対にしないから、この犬、放してくれえ」
悲痛な声が上がる。
「どうする、クロ?」
男は何度も「すみません」「もうしません」「勘弁してください」と懇願したので、ジンはようやく、「よし」とクロに声をかけた。バタバタと走り去る足音。
「誰もいないときに風呂に入るなって、言ったろ?」
ジンがシーツの向こうから声をかける。
「ごめん。アミを先に帰しちゃった」
「しょうがないな、ったく」
風呂を出て体にタオルを巻きつけてシーツの外を見ると、ジンとクロが仲良く並んで見張ってくれていた。
「ごめんね、ありがとう」
「いいけどよ。ゴミ捨て場の作業員の中には、女の子を狙ってるヤツが結構いるんだから。何かされたら困るから、絶対に一人でお風呂に入るなよ」
「うん、分かった」
レイナがまだ小さかったころに、レイナより2つ上の女の子が遺体で見つかったことがある。一人でバラック小屋の付近で遊んでいたら、襲われたらしい。
ゴミ捨て場の大人たちは作業員の詰所に怒鳴り込んだ。しかし、「野良犬に襲われたんじゃないの?」と、所長は聞き流した。
ジンたちが執念で犯人を探し出し、半殺しにしてから、直接襲ってくることはなくなった。それでも、盗み見や盗撮は絶えないのだ。
レイナはジンとクロに付き添われて小屋に戻った。
クロはよくしつけられていて、ゴミ捨て場の住人に危害を加えることはない。
しかし、住人が危害を加えられそうになると駆けつけて追い払ってくれるのだ。
「お帰り」
ミハルはアミの髪を乾かしながら、顔を上げた。
トムは先にお昼を食べている。
「お前、お風呂に入るのを待ちきれなかったのか」
ジンが呆れた口調で言う。
「農作業はお腹がすくからね」
ミハルは丁寧に髪を乾かしてから、「ハイ、これでいいわよ」とアミに微笑みかける。ジンは、その様子をじっと見守っている。
ミハルが「ジンさんも食べてくでしょ?」と話しかけると、「あ、ああ、余ってるのなら」とハッとした様子で答える。
「大丈夫、たくさん作ったから。スープ皿をマリさんに貸してるから、取って来るわね」
ミハルの後姿をジンは目で追っている。
レイナはジンを見上げて「ねえ、ママに好きって言わないの?」と尋ねた。
「はっ!? 何、なな何を言ってんの、お前」
ジンの顔はみるみる赤くなる。焦ったあまり、クロのしっぽを踏んづけてしまい、クロは悲鳴を上げて飛び上がった。
「すまん、すまん、クロ」
ジンは慌ててクロの背中をなでる。クロは恨めしそうな顔でジンを見上げた。
「ママのこと、好きなんでしょ? バレバレだよ」
アミも「ばえばえ」と笑う。
「いやっ、別に、そういうわけじゃ。女性としてというか、一人の人間として尊敬しているというかだな」
「何言ってるの? 意味分かんない」
レイナの言葉に、ジンは決まりが悪そうな表情になった。
「ママも、ジンおじさんのこと、好きだと思うんだけど」
「いや、それはないだろ。オレ、カッコいいわけじゃないし」
「それはそうだけど」
「そこであっさり認めるなよっ」
ジンはため息をついて、うずくまった。
「……そっか、バレバレか」
「うん。ママ以外はみんな気づいてると思う」
「マジかよ」
ジンは頭を抱える。
「私、ジンおじさんなら、パパになってもいいって思ってるよ」
レイナが顔をのぞき込むと、「そんなこと、簡単に言うなよ」とジンは軽くレイナを睨んだ。
「オレはダメなんだよ。ミハルさんにはふさわしくないんだ」
「そんなことないよ。見方によっては、おじさんもカッコいいよ」
「見方って……いや、見た目の話じゃなくてな」
ジンは頭をボリボリと掻いた。
「レイナのお父さんは、どんな人だったんだ?」
「私が生まれる前に死んじゃったから、私は知らないんだ。ママから、正義のために戦って死んだんだって聞いてるけど」
「正義のため、か……」
ジンはため息をつくと、ゆっくりと立ち上がった。いつもの鋭い瞳に戻っている。
「オレには正義はないな。オレは人を傷つけた人間だから、あの人にはふさわしくない」
自分に言い聞かせるように、低い声で言う。
「それなら、その人に謝って許してもらえば?」
レイナの言葉に、「そいつはもう、いねえから」とジンは遠い眼で言った。
ジンはあきらかに「それ以上は何も聞くな」オーラを出しているので、レイナは口を閉じた。
――マサじいさんは、ジンおじさんがみんなに優しいのは、罪滅ぼしだろうって言ってたけど。何の罪なんだろう。
「それより、早く髪を乾かさないと、風邪ひくだろ?」
ジンの声音は優しいトーンに戻っていた。
その日、レイナは鼻歌を歌いながら、タクマのところに向かっていた。
タクマは、午前中は住人のおじさんたちと鉄くずを売りに行っていたはずだ。そろそろ戻って来ているだろう。
その髪には、タクマからもらった赤いバレッタをつけていた。
「あら、素敵な髪飾りじゃない」
ルミの小屋の前を通りかかったとき、洗濯物を干していたルミが話しかけてきた。
小屋と木の間に張り渡したロープには、下着が干してある。
マサじいさんもジンも、何度も「外に下着を干すな」と言っているにもかかわらず、ルミはやめようとしない。
そのうえ、男の住人が下着を見ていると、「何ジロジロ見てるのよ!」と怒るので、下着を干している間は誰も近寄ろうとしなくなった。
「あいつは何をしたいんだか」と、ジンも呆れている。
ルミはどこで調達したのか、タバコを吸っている。寒いのにナイトガウンしか着ていないので、レイナは「風邪ひかないのかな」と思った。
「髪、ボサボサじゃない。とかしてあげる」
ルミは小屋の外に置いてあるドレッサーに座るよう、レイナを促した。あのときトムから買い取ったソファは結局使い物にならず、山に戻したらしい。
レイナはためらった。
ミハルはルミのことを嫌っていて、「あの人には近寄らないほうがいい」と、何度も言い聞かされていた。
レイナは「いいです」と立ち去ろうとしたが、「そんなんでタクマに会うつもり?」と言われて、迷いが出た。
「ホラ、すぐに済むから」と促され、気が進まないまま、丸い椅子に座る。
ドレッサーの鏡はキレイに磨かれ、ブラシやメイクグッズがきちんと整理されて置かれていた。意外にもルミは几帳面らしい。
ルミはバレッタを外し、ブラシでレイナの髪をとかし始めた。小さな鏡を見ながら自分でバレッタをつけたので、確かにうまくまとまっていなかった。
「キレイな髪ね。黒くて、艶やかな髪」
ルミは煙草をくわえながら髪をとかしているので、灰が降りかからないか、レイナは気が気じゃなかった。
「それに、色も白いし、肌もキレイだし。スタイルはそうね、もうちょっと胸があるといいんだけど。でも、それはいいものを食べればもっと肉が体につくしね。レイナは美人だから、ここにいるのはもったいないわよ」
ルミは鏡の中のレイナの目を見る。
「ねえ、ここを出たいって思わないの?」
レイナは迷った。そんな深刻な話をするほど、ルミと親しくはない。レイナは何も答えないことにした。
「ずっとここで暮らすつもりはないんでしょ? こんなにキレイなんだから、レイナはどこでも通用するわよ」
ルミはレイナの頬に触れた。その手は冷たく、レイナは思わず身をすくめた。
「ねえ、私がいいところを紹介してあげようか?」
ルミが顔を近づける。
「いいところ?」
「街にある、キレイなお店のこと。そこに行ったら、キレイなドレスを着れるのよ。髪も美しくアップして、高い宝石もいっぱいつけて、まるでお姫様のようになるの。それだけで、お金をたくさんもらえるんだから。レイナなら、たくさん稼いでお金持ちになれる、絶対に。そういうの、興味ない?」
レイナは唇をキュッと結んだ。
――ママが気をつけろって言ってるのは、こういうことなんだ。
「私は、そういうの、興味ない」
「えー、そうなの? それはそのお店を見たことがないからでしょ。今度、一緒に行ってみない? お店を見たら、きっと考えが変わるわよ」
「変な勧誘すんなよ、ババア」
背後から低い声がした。みると、ジンがクロと一緒に立ち、ルミを睨みつけている。
「お前、レイナに何する気だ? 水商売の店に売り飛ばす気かよ。ふざけんな。レイナに指一本触れるんじゃねえ」
その剣幕に、ルミは思わずタバコを落とした。
「そ、そんなこと、するわけないじゃない。ただ、ここを出ていい暮らしをしたいんなら、お店を紹介してあげてもいいわよって言ってるだけで」
「お前、3年前にサラを言いくるめて、キャバクラに売ったよな? サラはその後、どうなったんだ? お前はそのお金で豪遊して、あっという間にお金を使いきってここに戻って来たけどさ。サラはヤクザの愛人にされたんだろ?」
「愛人でもいいじゃない。ここよりはいい暮らしをできるんだから」
「薬漬けにされたのに、いい暮らしかよ? ふざけんな」
ジンに一喝され、ルミは黙り込んだ。
「レイナ、行くぞ」
ジンに促され、レイナは「髪をとかしてくれてありがとう」とルミにお礼を言った。
バレッタを返してもらおうと手を出すと、ルミは「この髪飾り、私の方が似合わない?」と自分の髪につけようとした。
「ちょっ、それ、私の!」
「おい、何してんだよ」
「冗談よ、冗談。そんなに真剣にならないでよ」
ルミはレイナの髪をすくうと、バレッタを留めた。
「ハイ。この方がキレイでしょ?」
レイナはそれ以上何も言う気になれず、ジンと一緒に小屋を後にした。
「でも、あんただって、レイナがこのままここにいたらもったいないのは、分かってるんでしょお?」
ルミはジンの背中に投げかけたが、ジンはまったく反応しなかった。
ジンとルミの会話の内容は、ほとんどレイナには理解できない。
だが、3年前に突然いなくなったサラの失踪に、ルミが関与していることは何となく分かった。サラの母親も、サラがいなくなってから、いつの間にかゴミ捨て場からいなくなっていた。
レイナは、今は詳しい事情を聞いても大人たちが教えてくれないだろうと思った。それでも、どうしても1つだけ、聞きたいことがある。
「ジンおじさん。私がここにいたらもったいないって、どういうこと?」
ジンは一瞬困ったような表情になった。
「レイナに限らず、子供たちはみんな、ここで一生を過ごすことになるのはもったいないんだよ。未来はいくらでも開けてるんだからさ。街に行こうと思ったら行けるし、何にでもなりたいものになれる。それを諦めるなってこと」
「ふうん」
「それより、あのババアにはもう近づくなよ。何言われても無視するんだぞ?」
念押しして、ジンはクロと一緒にゴミの山を登って行った。たまにゴミの山から出火していることもあるので、住人で順番に見回りしているのだ。
タクマの小屋に向かうと、ピアノの音が聞こえてきた。
ピアノを手に入れてから、タクマは毎日、暇さえあればピアノを弾いている。元トレーダーの住人に頼んで、タブレットでピアノの弾き方の動画を見せてもらっているらしい。
レイナが今まで聞いたこともないような曲を、タクマは次々と演奏している。
「小さいころに習った、バイエルの曲なんだ」「これはブルグミュラー」と言われても、レイナにはチンプンカンプンだ。
ただ、世の中には美しい曲がたくさんあるのだけは分かる。そして、そんな曲を聴いている間は、レイナにとっても至福のひとときなのだ。
「お兄ちゃーん!」
ピアノは小屋には入らないので、外に置いてある。ピアノに雨がかからないよう、ジンが簡単な雨除けをつくってくれた。
タクマはレイナに気づくと、演奏を止めた。
「今日は、鉄くず、売れた?」
「うん。廃品回収のおじさんが年末だからってちょっと奮発してくれた。それでお正月にはお雑煮を食べようって母さんと話してたんだ」
「お雑煮?」
レイナは首を傾げる。
「レイナの分も作るから、お正月においでよ」
「うん、分かった」
レイナはタクマの横に腰かけた。ピアノの長椅子も一緒に捨てられていて、ゴミの山から持って来たのだ。
「今日は何の曲弾いてるの?」
「エーデルワイスって曲」
タクマはつたないながらも、エーデルワイスを両手で弾いた。
両手で別々のメロディーを奏でられるのが不思議で、レイナは魔法を見ているように、いつもタクマの指使いに見入るのだ。
「エーデルワイスっていう花があるんだって。白い花だって歌にあるんだよ」
「ふうん、かわいい曲だね」
レイナは鼻歌で、今聞いた曲を歌った。タクマは目を丸くする。
「レイナ、一回しか聞いてないのに、もう覚えたの? 耳がいいんだね」
「たぶん、覚えやすい曲なんだと思う」
「それでも、普通は一回では覚えられないよ」
タクマは、ピアノを弾きながらエーデルワイスを歌った。か細い声で、途中で何度も指が止まる。それでもレイナはじっと耳を傾けた。
何回か聴いているうちに、レイナはすっかり歌詞を覚えて、ピアノに合わせて歌った。
二人だけの、小さな小さなコンサート。タクマは嬉しそうに「もう一回歌って、レイナ!」とリクエストする。
ひとしきり歌った後、喉が渇いたので、お茶を入れて二人で飲んだ。すっかり体は温まっていて、むしろ冷気が心地よい。
ふいに、「僕、歌を作ったんだ」とタクマは言った。
「えっ、お兄ちゃん、歌を作れるの?」
「簡単な歌ならね。昔、ピアノのレッスンで曲の作り方を習ったんだ」
「へえ、どんなの、どんなの?」
タクマは簡単な前奏を弾き、大きく息を吸いこんで、ピアノを弾きながら歌いだした。
♪ 君に一つの花をあげよう
それは勇気という名の花で
君の胸の奥で
決して枯れることなく
咲き続けていくだろう
君と一つの山を越えよう
高く険しく
果てしなく見える山だけど
君と一緒なら
乗り越えることができるんだ
君に一つの声を聞かせよう
たった今
僕の胸の中に生まれた声を
君に伝えるために
僕はここにいるのだと思うんだ ♪
か細い声で、しっかりと音程をとらえて歌う。ミディアムテンポのバラードだ。
レイナはすっかりタクマの姿に見入っていた。
タクマは顔を真っ赤にして、懸命に歌い続ける。ピアノが最後の音を奏でた後、しばらく静寂が漂う。
「すごい、お兄ちゃん……」
レイナは夢から醒めたような表情になった。
「すごい、すごいよ、こんな歌を作れるなんて!」
タクマに大きな拍手を送る。
「単純なメロディを組み合わせただけだから」
タクマは照れくさそうに頭をかく。
「これ、何て曲?」
「うーんとね、『小さな勇気の唄』って名前をつけた」
「小さな、勇気の唄……」
レイナはタクマの腕をつかんだ。
「お兄ちゃん、もう一回歌って。もう一回!」
タクマは顔をほころばせた。
レイナのリクエストを受けて、もう一度ピアノを弾きながら歌う。
「もう一回!」
もう一度ピアノを弾きはじめると、レイナも一緒に「君に一つの花をあげよう」と歌いだした。タクマは目を見張る。
最初は軽く合わせて歌っていたが、途中で椅子から降りて、全身を使って声を出した。タクマのピアノの演奏も大きくなる。
「そうだレイナ、もっと大きな声で!」
タクマの一声に、さらに声を張り上げる。
「ダンプカーの音に負けないように!」
空に向かって、身体の底から声を出す。
歌い終わったとき、拍手が鳴り響いた。タクマの母親のマヤが、いつの間にか小屋の窓から顔をのぞかせていた。
「ごめん、おばさん、起こしちゃった?」
マヤは病弱で、しょっちゅう寝込んでいる。今も風邪が長引いていて、外には出られない状態だという。
マヤは青白い顔をしながら、弱々しい微笑みを浮かべた。
「レイナちゃんの歌声を聞いてると、何か元気が出てくるの。ホント、いい声」
「ありがとう。この歌、お兄ちゃんが作ったんだよ」
「そう。いい歌ね。心に染みる歌」
それからマヤは、「いつか二人で、世界中を回れるといいわね。タクマがピアノを弾いて、レイナちゃんが歌って」と言い、咳をしながら窓を閉めた。
――二人で、世界を回る。
レイナとタクマは顔を見合わせた。
「行こうよ、レイナ。二人で、世界中を旅しよう」
タクマは強い光を帯びた目でレイナを見つめる。レイナはコクリとした。