「ただいまあ」
レイナがお土産をどっさり持って戻ってきた姿を見て、トムとアミは喜んで駆け寄った。
ジンは驚いたような表情で、「一人で戻って来たのか?」と聞いた。
「うん。先生たちは寝てたから、森口さんに送ってもらったの」
「じゃあ、何も聞いてないのか?」
「何もって?」
きょとんとすると、ジンは「まいったな、こりゃ」とつぶやいた。
トムとアミにお土産を渡してから、レイナはミハルが待っているはずの小屋に走った。
「ママあ、ただいま!」
ドアを開けると、ミハルの姿はない。
「あれ?」
布団はいつも通り隅にきちんと畳んで置かれて、部屋の真ん中には折り畳み式のテーブルが置いてある。いつも通りの光景だ。
でも、何かが足りない。
レイナは違和感を抱いて、部屋をぐるりと見渡す。
「レイナ、どうしたの?」
トムとアミが息を切らせてレイナに追いついた。
「うーん、ママは水汲み場かな」
「えっ、どういうこと?」
「どういうことって?」
「ミハルさんと一緒にいたんでしょ?」
「ん? ママと一緒にいたって、どういうこと?」
「だって、レイナの後に、ミハルさんもディズニーランドに行ったんでしょ? レイナとディズニーランドで合流したんでしょ?」
「ええ? 何、それ。意味が分からないんだけど」
「レイナ、お帰り」
振り向くと、マサじいさんが立っている。
「あ、ただいま」
「ねえ、レイナがヘンなこと言ってるんだけど」
「ヘンなこと言ってるのは、トムのほうだよ」
マサじいさんは二人のやりとりを聞いて、深いため息をついた。
「レイナと二人きりで話をしたいから、自分の小屋に行ってなさい」
諭すと、トムとアミは顔を見合わせて、駆けて行った。
「まあ、座りなさい」
マサじいさんに勧められて、レイナはお土産を置いて、床に腰を下ろす。
「今から話すことを、落ち着いて聞いてほしい……といっても、落ち着いて聞くなんて、ムリだろうがね」
マサじいさんは、どう話せばいいのか迷っているようだった。
やがて、「ミハルさんは、いなくなった」とポツリと言った。
「え?」
「ミハルさんはな、ここを出て行ったんだ」
「どういうこと?」
「これ以上、ここにはいられないって。自分がレイナと一緒にいたら、レイナに危険が及ぶんだって」
「え? 何? 何?」
「西園寺さんというのかな、その夫婦にレイナのことを託したって。レイナは、これからは、その二人と一緒に街に住むんだって、ミハルさんは話していた」
レイナは頭が真っ白になっていた。
――え? ママがいない? 私を置いて、出て行っちゃったって、どういうこと?
改めて部屋を見回す。そのとき、ようやくミハルのキャリーケースや服がないことに気づいた。
「どこに行ったの? ママは」
「それは分からない。誰も知らないんだ」
「ウソ。そんなことないでしょ? ママが私を置いていくなんて、あり得ないもん」
「そうだ。あり得ない。ミハルさんが、レイナを見捨てるわけがない。だから、安全になったら必ず迎えに来るって言ってたよ。それを信じて、待つしかない」
「何それ。意味分かんないよ」
「そうだろうね。でも、ミハルさんは、もうここにはいないんだ。待っていても、帰って来ない」
「ウソ、ママがそんなことするわけないじゃない!」
レイナは、出発する日のミハルの様子を思い出した。
涙を浮かべながら、レイナの手を握っていたミハル。
あのとき様子がおかしかったのは、ゴミ捨て場を出て行くつもりだったからなのか。
レイナはフラリと立ち上がった。
「レイナ、どこに行く?」
マサじいさんの制止を振りきって、レイナは駆け出した。
――ウソ、ウソ、ウソ。ママがいなくなるなんて、私を置いていくなんて、ウソ、ウソ。
ジンが、トムとアミに何かを話している姿が見えた。
「ジンおじさんっ」
レイナは駆け寄って、ジンの腕をつかんだ。
「ママがいなくなったって、ホント? どこに行ったの?」
ジンは「それは……」と苦しそうに言った。
「え? ミハルさんがいなくなったって、どういうこと? ディズニーランドで、はぐれたの?」
トムも驚いている。アミは目を丸くした。
「オレも分からないんだ。ごめん」
「ウソ。ジンおじさんなら知ってるでしょ?」
「だから、ホントにオレは何も知らないんだ。ミハルさんは、何も話してくれなかったんだ。ただ、レイナが来たら」
「私が来たら、何?」
「――街に戻るように伝えてって」
レイナは体中の血がざあっと音を立てたように感じた。
――ママがいない。ママがいなくなった!?
「レイナ。きっと、ミハルさんはすぐに戻って来るよ。何かあったんだよ」
トムが心配して顔を覗き込むと、レイナは再び駆け出した。
「レイナ? レイナ、どこに行くの?
――ウソだよ、ママがいなくなるなんて。きっと、どこかにいる。どこかに隠れてて、私を驚かせようとしてるんでしょ?
レイナはみんなの小屋を一軒ずつ見て回った。
まだ寝ていたルミの小屋のドアを勢いよく開けて怒鳴られ、他の住民は驚いて「おや、お帰り」「どうしたの?」と声をかけてくれる。「ママは?」と聞いても、みんな首を振るだけだ。タクマの小屋も見てみたが、やはり誰もいない。
「ママ―、どこにいるの?」
レイナは大声で呼びかけながら走る。
そのままゴミの山をぐるっと一周した。水汲み場や小屋も見てみたが、誰もいない。食堂にいるのかと思ったが、そちらのエリアのドアは鍵がかかっていた。ゴミの山の上に登って、「ママ―‼」と叫び、目を凝らしてみても、ミハルの姿はない。
河原にも行ってみたが、釣り人の姿しか見えなかった。
レイナは汗びっしょりになり、フラフラになりながら、小屋に戻って来た。
ジンとマサじいさんたちが、心配そうに出迎えてくれる。
「レイナ、つらいのは分かるけど、どんなに探しても、ミハルさんはいないんだよ」
マサじいさんが優しく言い聞かせると、レイナはその場にへたりこんだ。
「……ママッ……!」
やがて、大声を上げて泣き出した。
その泣き声が、林中に響き渡る。アミもつられて泣きだす。トムは、「レイナあ、そんなに泣くなよお」と困惑している。
小屋の中から住人が続々と出てきて、レイナたちを遠巻きに見ていた。
裕と笑里がゴミ捨て場に駆けつけたのは、それから1時間ほど経ってからだ。
笑里はすっぴんで、髪にも寝癖がついたままだ。とるものもとりあえず迎えに来たのだろう。
「待ってましたよ」
マサじいさんは二人の姿を見ると、「こちらへ」とレイナの小屋に案内した。
「聞いてるかもしれませんが、あの子は、最近タクマという大切な人を亡くしたばかりなんです。たぶん、二人は将来一緒になっていたでしょう。それぐらい、お互いを大切にしてた。それなのに、母親まで黙っていなくなって、あの子が立ち直れるのか、私には分からんのです」
マサじいさんは大きなため息をつく。
「あの子の母親のミハルさんは、大きなお腹を抱えてここに来ました。こんな場所で出産するのはムリだって言っても、『私はどこにも行けない。ここで産んで、育てさせてほしい』って言い張って。彼女の過去に何があったのかは、分かりません。でも、ミハルさんがいつも全力でレイナを守ってきたのは、ここにいる誰もが分かってる。そんなミハルさんがレイナを置いていくんだから、よほどのことがあったんでしょうな」
「私もミハルさんに詳しく聞いたわけじゃないんですが、なぜ急にここから去ろうとしたんでしょうか。ここは危険だからと言っていましたが、詳しい理由を教えてくれなくて……」
裕はマサじいさんの歩く速度に合わせる。笑里は黙ってついてきた。
「ライブの日に、小屋ん中を探し回っている男がいたんです」
「小屋の中を」
「レイナに心配かけたくないから、言わないでほしいって言われてたんですが。まあ、あれが引き金になったのは確かでしょうな。私もその男に腹を刺されました」
「えっ、刺された?」
「いやいや、かすり傷なんですが。そういう危険なヤツだったんで、レイナを守るために自分も身を隠すことにしたんでしょう。レイナをあなたたちに託して」
マサじいさんは小屋のドアを開けた。レイナは部屋の隅で、膝を抱えてうずくまっている。
「やあ、レイナ」
裕が声をかけると、レイナは泣き濡れた瞳を向けた。
「ママがいなくなっちゃったの」
「ああ」
「ディズニーランドに行ってる間に、ママがいなくなっちゃったの。ディズニーランドになんて、行かなきゃよかった」
レイナは膝に顔を埋める。
「私たちが頼まれたんだ。レイナをしばらくどこかに連れて行ってほしいって。その間に、身を隠すからって。本当は、ディズニーランドから戻って来たら話すつもりだったんだけど、まだ話してなくて申し訳ない」
裕は穏やかな声音で、諭すように語りかける。
「ここにいると、君も危険な目に遭うんだって言っていた。だから、しばらく私たちが君を預かることにしたんだ」
「しばらくって、いつまで?」
「それは分からない。だけど、ミハルさんは、君を捨てるようなことはない。それはレイナ自身がよく分かっているだろう?」
レイナは肩を震わせて泣きじゃくるばかりだ。
裕はジャケットのポケットから、封筒を取り出した。
「これ、ミハルさんから預かってる」
レイナは顔を上げた。
「君に渡してくれって頼まれたんだ」
レイナは震える手で封筒を受け取る。封を切ろうとしても、うまくいかない。
代わりに裕が封筒の端っこを切って、便箋を出してくれた。
見慣れたミハルの美しい文字。
『レイナへ
だまっていなくなってしまって、ごめんなさい。
ママにはやらなければいけないことがあります。
それがおわったら、かならずむかえに来るから。
それまでは西園寺せんせいたちといっしょにくらして、歌のレッスンをうけてください。
ママはレイナの歌声を、かならずどこかできいています。
だから、ママのために歌ってね。天国にいるタクマくんのためにも。
レイナ、私のたいせつなむすめ。
あなたのほんとうのなまえは「怜奈(れいな)」です。
あなたのお父さんから、一字とってつけました。
怜奈、ママはせかいいち、あなたをあいしています。
だから、しんじてまっていてほしい。
またいつかいっしょにくらせる日が、ぜったいに来るからね。
ママはどこにいても、ずっとずっと、あなたの幸せだけをねがっています。
美晴(ミハル)』
レイナは読み終えると、床に突っ伏して泣いた。ただひたすら泣いた。
笑里は、その背中を優しくさすった。裕もそばで見守ってくれる。
やがて、涙が枯れて放心状態になったレイナは、裕と笑里に連れられて小屋を出た。待っていたジンがレイナに小包を渡した。
「これ、ミハルさんから預かってる。レイナが街に行って一週間したら、レイナに送ってほしいって言われてたんだ」
「ママから……?」
レイナは憔悴しきっていたので、笑里が受け取った。
「レイナ、行っちゃうの?」
トムとアミがレイナに抱きついた。
「行っちゃやだよお。タクマもいなくなって、レイナまでいなくなるのは、嫌だよお」
トムは涙声で訴えかける。アミも「やー」と泣きながらレイナの腰にしがみつく。
「たまに、レイナを連れてここに戻って来るから。君たちも、街に来ればいい」
裕が言い聞かせると、「そんなのウソだ。絶対に戻って来ない」とトムは睨みつける。
「トム、アミ。行かせてやれ」
ジンとマサじいさんが二人を引き離す。
「それがミハルさんの望みなんだ」
「レイナあ」
「あー、あー」
レイナはみんなにお別れを言う気力もなく、裕と笑里に抱えられるようにゴミ捨て場を後にした。
「本当にすみません。事情が分からないのに、ここまで連れてきてしまって」
森口が裕に詫びている。
「いや、いいんだ。レイナを思ってのことなんだから。早めに伝えなかった私達が悪かったんだ」
裕は森口を責めることなく、いつものように穏やかな口調で言う。
笑里は、「これ、開けてみる?」と小包を指した。
レイナは窓の外をぼんやり見ていて、無反応だ。その手には、ミハルからの手紙と、ミハルに渡すつもりだったお土産が握りしめられている。ミハルに似合うだろうと思って買ったイヤリングだ。
笑里は包みを丁寧に開ける。なかから、絵本と童話が数冊、アルバムが出てきた。
「これ、何の本だか分かる?」
笑里が見せると、レイナはハッとした。
「これ、ママが」
――小さいころ、ずっと読んで聞かせてくれた本だ。文字もこの本から覚えたんだっけ。
「ママが読んでいた本」
「そう。宝物ね。だから持たせてくれたのね。大事にしないと」
青い表紙のアルバムだけ、見覚えがない。
笑里から受け取って開いてみると、幼いころのタクマと若いマヤの写真がいっぱい貼ってあった。ゴミ捨て場に来る前に、家族で撮った写真なのだろう。タクマの父親らしき人も映っている。
ミハルが、タクマの小屋から持ち出したらしい。
――お兄ちゃん。ママ。
レイナの頬に、再び涙が伝う。
――どうして、いなくなっちゃったの。私、一人ぼっちになっちゃったよ。
笑里がそっと抱きしめてくれる。
「いいのよ、好きなだけ泣いて。いいの、いいの」
レイナは再び声を出して泣き出した。
裕はバックミラー越しにレイナの様子を見守っている。
車は街に向かって、緩やかにスピードを上げた。
どこかでベルが鳴っている。
トラックがゴミ捨て場に搬入するベルか、火災報知器か……。
それが目覚まし時計のベルだと気づいて、レイナは目を開けた。目に飛び込んでくるのは、錆びついたトタン屋根ではなく、白い天井だ。
レイナは手を伸ばして、サイドテーブルに置いてある目覚まし時計を止めた。
やわらかい布団に、着心地のいい木綿のパジャマ。
いつも、目が覚めてからしばらくは自分がどこにいるのか分からずに、戸惑ってしまう。
――ああ、ゴミ捨て場じゃないんだっけ。
ゴミ捨て場に住んでいたころはトラックの騒音で起こされていたが、今は静かなので目覚まし時計をかけないと寝過ごしてしまうのだ。
ベッドから降りて、窓のカーテンを開ける。とたんに、初夏のまばゆい光に包まれる。
レイナはしばらく、窓の外に広がる西園寺家の緑豊かな庭や、朝から車の手入れに余念がない森口の姿を見ていた。
西園寺家に住むようになってから、一カ月が経つ。
キレイな服を着て、毎日のようにご馳走を食べ、毎日お風呂に入れるし、フカフカの布団で眠れる。洗濯は洗濯機がしてくれるし、食器も食洗機が洗ってくれる。
そのうえ、西園寺家には平日は毎日家政婦さんが来て料理や掃除をするので、レイナのやることがない。夢のような生活のはずだった。
タクマと一緒に、いつか街に住みたいと語り合った生活を手に入れた。それにもかかわらず、重たい気分がずっと続いているのだ。
住みはじめたころ、レイナが今までのように家事をしようとすると、笑里から「そんなこと、しなくていいのよ」と何度も止められた。
それでも何かしないと気が済まないので、せめて笑里のレッスンを受けに来た人のお茶を入れたり、ベルの散歩をすることにした。
着替えて顔を洗い、リビングに降りていくと、「おはよう。毎朝、早いわね」と家政婦の芳野が微笑んだ。ベルが足元にまとわりついてくる。
芳野は50代の女性で、三人の子供がいるという。レイナがゴミ捨て場に住んでいたことを知っても何も態度を変えないので、レイナは芳野をすぐに好きになった。
「今日は、目玉焼きを作ってもいい?」
「いいわよ。私が作るよりも、レイナちゃんが作るほうが、上手だからね」
「笑里さんは、あんまり私に料理してもらいたくないみたいだけど」
「ケガをしたらどうしようって心配なんでしょう。でも、レイナちゃんは器用だから大丈夫だって、そのうち分かるわよ」
「それならいいけど」
裕と笑里が起きてくるまで、まだ時間がある。
レイナはベルに、「お散歩に行く?」と声をかけると、嬉しそうに「ワン!」と答えた。
ベルをリードにつないで外に出ると、森口は庭の草むしりをしている。
「おはよう、森口さん」
「おはよう。今日も早いね」
「帰って来たら、草むしりを手伝うね」
「ありがとう。車に気をつけて」
ベルの散歩コースは決まっている。公園に向かう途中で、小学校に向かう小学生の列と一緒になった。
「ベルちゃんだ!」
「おはよう、ベルちゃん」
ベルは子供たちにも人気者で、いつも頭をなでてもらっている。
「行ってらっしゃーい」
ランドセルを背に駆けて行く子供たちに向かって、レイナは手を振った。
レイナは学校に通ったことがないので、ランドセル姿の子供を見ると羨ましくなる。
レイナは今、家庭教師に勉強を教えてもらっている。小学校に通う年齢ではないし、中学校の授業にはついていけないので、家庭教師に見てもらうのがいいと裕が判断したのだ。
ミハルに教わって最低限の読み書きや計算はできていたので、何とか勉強にはついていけている。
――ホントは、アミとトムと一緒に勉強したいんだけどな。
そう思っても、さすがにそれをお願いするのは甘えすぎだろうと、レイナは言えないでいる。
ゴミ捨て場の住人のことを、一日たりとも忘れたことなどない。
今すぐにでもアミとトムに会いに行きたい。ジンやマサじいさんにも会いたい。
でも、ミハルがいなくなったという現実を突きつけられるだけなので、ゴミ捨て場に行くのが怖いのだ。
――きっと、二人は私がいなくなって寂しい思いをしてる。私に捨てられたって思ってるかもしれないから、会いに行かなきゃ。気持ちが元気になったら、必ず会いに行くからね。
レイナは公園の端にある小さな鳥居をくぐって、小さな祭殿の鈴を鳴らし、手を合わせた。
ここでゴミ捨て場の住人の無事を祈るのが、最近の日課だ。さらに、ミハルが早く戻って来るように、ミハルが元気でいるようにと、時間をかけて何度も祈る。
ベルは、その間おとなしくレイナを待っていてくれる。
「さ、行こっか。ベルもお腹すいたでしょ?」
ベルは嬉しそうにシッポを振った。
「スティーブって、あのスティーブ・ムーア? 『Brilliant summer』の」
「ああ、そのスティーブだ」
裕の答えに、笑里は目を輝かせた。
「すごいじゃない! 世界的なアーティストが、レイナの歌を聞いていたなんて」
「ああ。あのときのラジオ中継の音源が、ネットで拡散されているらしい。スティーブのチームのスタッフがたまたま聞いて、スティーブに聞かせたらしいんだ。それで、『この子と歌いたい』っていう話になって、方々に連絡を取って、僕にたどり着いたと」
裕はソファに身を沈めた。
「でも、今のあの子に、ステージに立つことができるのかどうか……ミハルさんがいなくなったショックをまだ引きずってるからね」
「母親が急に消えちゃったんだもの、平気なわけないわよね。私たちだって、花音が亡くなったときに立ち直るまで数年かかったんだもの」
笑里は目を潤ませる。
「あの子をどう励ましたらいいのか、正直分からなくて……。レイナも、表面的には何でもないようにふるまってレッスンしてるけど」
「あきらかに元気ないからな」
「そうなのよね」
笑里は深いため息をつく。
「結局、見守ってあげるしかできなくて、歯がゆいのよね」
「今の僕たちにできるのは、そばにいてあげることだけだろうね。スティーブの話は、レイナが乗り気になったら進めることにしよう。無理強いはしたくない」
「スティーブ・ムーア?」
レイナはきょとんとした。
「そう。世界中で人気がある歌手なんだ。その人が、レイナに自分のステージで一緒に歌ってほしいとお願いしてきたんだ」
「ふうん? どんな曲を歌う人なの?」
裕はスティーブが歌っている動画を探して、見せてあげた。
スティーブは黒人で、体格のいいロック歌手だ。
高い音も楽々出すパワフルな歌声に、レイナは一瞬で惹きつけられた。一転して、バラードでは優しく切なく歌い上げる。
いくつかの動画を観た後で、レイナは「すごい……」と感嘆の息を漏らした。
「こんなにいろんな声が出るなんて。すごすぎる」
「そうだね。スティーブは元々声の質がいいんだと思う。でも、レイナもレッスンを続けたら、いろんな声で歌えるようになるよ」
「そうなのかなあ」
レイナは裕の顔を見た。
「そのステージって、ラジオで中継されるの?」
「ラジオで中継されるかどうかは分からないけど……スポンサーにテレビ局も入ってるから、テレビでは放送されるんじゃないかな」
「そっか。それなら、ママに見てもらえるかな」
裕はハッとした。
「ママはいつもレイナのことを見守ってるからって手紙に書いてあったでしょ? テレビでやるのなら、見てもらえるんじゃないかなって思って」
「――そうだね。きっとミハルさんもどこかで見てくれるんじゃないかな」
「それなら、私、歌いたい。スティーブさんと一緒に歌ってみたい」
「じゃあ、スティーブにそう伝えるよ。スティーブも大喜びすると思う」
レイナはコックリとうなずいた。
「それと、そのステージは大切な人たちに見に来てもらおう」
「大切な人たちって?」
「アミちゃんとかトム君とか。マサじいさんやジンおじさんだっけ? レイナがいつも話しているゴミ捨て場の人たちに来てもらおう。全員に来てもらってもいいと思う」
レイナの顔がパッと輝いた。
「ホントに!? ホントにいいの?」
「ああ。みんなに来てもらおう。レイナもみんなに会いたいだろ?」
「やったー!」
レイナは飛び跳ねて喜んだ。
レイナがここに住むようになって、初めて見る心からの笑顔だ。裕の顔に、寂しそうな色が浮かんだ。
その日から、一カ月後のステージに向けての特訓がはじまった。
スティーブの曲を一緒に歌うので、英語の歌詞を覚えないといけない。笑里に教えてもらいながら、何とか歌えるようになった。
ある日、レイナが家庭教師に見てもらっている間に、裕と笑里はゴミ捨て場に向かった。
搬入口の近くに車を止め、車から出ると、強烈なニオイがする。
前来たときはまだ肌寒かったので、ゴミのニオイがそれほどしなかったのだ。
笑里はたまらず、ハンカチで鼻と口を覆った。裕も、「これはすごいな」と顔をしかめる。
作業員が、裕と笑里の姿を見て、飛んで来る。
「ちょっと、こんなところに入って来られちゃ困りますよ。探し物ですか?」
「いや、ゴミ捨て場の人たちに会いに来たんです」
「はあ?」
「あっちから入りますから」
「ちょっと、ちょっと!」
作業員が制しても意に介さず、裕はさっさと歩きだした。笑里はあわてて後を追う。
搬入口から一歩中に入り、笑里は軽く悲鳴を上げた。
辺りにはハエが飛び回っていて、足元には嫌なニオイがする水があちこちに流れ出している。
「こんなところで、レイナちゃんは……」
笑里は絶句して立ち尽くしていた。裕が肩を叩く。
「気分が悪いなら、車に戻ったほうがいい」
笑里の耳元で、大きな声で伝える。
笑里は頭を振った。
「私も行く。だって、あの子はここにずっと住んでいたんだもの」
笑里の目に宿った強い光を見て、裕はふっと微笑んだ。
笑里は転ばないように、ゴミや水を踏まないように、慎重に歩む。
「念のためにと思って、ヒールの低い靴を履いてきてよかった」
「確かに。ここで転んだら悲惨なことになるな。今度は、もっとラフな格好で来よう」
「あーれー、先生だっ」
小屋があるエリアに向かっていると、山の上から声がした。みると、トムが手を振っている。
トムは慣れた様子で駆け下りてきた。
リュックを背負い、そのなかには缶や鉄くずが入っている。鉄くず屋に売るためのゴミを拾い集めているのだろう。
「こんにちは」
裕はやわらかな笑みを向けた。
「レイナは? レイナは?」
トムは目をキラキラさせて尋ねる。
裕は表情を曇らせた。
「レイナは、今日は来られないんだ。ごめん」
その言葉に、みるみるうちにトムの元気は萎んでいく。
「でも、レイナから手紙を預かって来たよ。アミちゃんにもね」
裕の言葉に気を取り直したのか、「じゃ、こっち来て!」と二人を誘導した。
「先生の奥さん、キレイな人だね」
「そうだね」
「気分悪いの? 大丈夫?」
心配そうに見上げられて、「大丈夫よ、何でもない」と笑里はハンカチをしまった。
それから、「ねえ、あなたのお母さんはどこ?」とトムに聞く。
「オレの母ちゃんはいないよ。3歳の時にオレをゴミ捨て場に捨てて、どこかに行っちゃったんだ」
トムはカラッと答える。
「そうなの……じゃあ、お父さんは」
「父ちゃんは知らない。生まれたときには父ちゃんはいなかったみたいだよ」
「そう……」
笑里はそれ以上、何も聞けなかった。
そのとき、アミが走り寄って来た。裕の袖をつかんで、「あー、あー」と言う。
「アミ、レイナは今日は来ないんだってさ」
トムが伝えると、アミは驚いたような顔になった。
「あー?」
「歌のレッスンで忙しいんだろ? きっと」
裕は「そうなんだ」とうなずいた。アミの目に、みるみる涙が貯まっていく。
「泣くなよお。レイナは俺たちのことを忘れたわけじゃないんだからさ。今日は来られなかっただけだよ」
トムがアミの頭を優しくなでる。
「ねえ、この子、もしかして」
笑里はそっと裕に尋ねる。
「ああ。話せないらしい。小さいころに大病を患って声が出なくなったって、レイナが話してた」
「そうなの……」
「あの子も、母親はいないらしい。働きすぎて亡くなったって、言ってた。ここには父親と住んでるらしいんだけど、その父親は飲んだくれで、時々暴力をふるうらしい」
「まあ、なんてこと」
笑里の声が震えた。
「おい」
低い声が背後から聞こえた。
「ああ、ジンさん、クロ。こんにちは」
「なんでここに来たんだよ。レイナに何かあったのか?」
「いや、そういうわけじゃなくて」
裕は三人にレイナがライブにゲストとして出ること、そこにゴミ捨て場のみんなを招待したいことを伝えた。
「えっ、マジで!? ライブに行けるの? すげえぞ、アミ!」
トムは興奮して、きょとんとしているアミに「ライブって、すっげえ大きな建物でやるんだぞ。そこで、レイナは大勢の人に向かって歌うんだってさ。それを観に行っていいって」と説明した。
アミはレイナに会えるのだと分かり、パッと笑顔になった。
「そりゃ、マサじいさんにも話さないとな」
ジンにつれられてマサじいさんの小屋に行くと、マサじいさんは畑仕事に精を出していた。
裕が頭を下げると、マサじいさんは汗を拭きながら柵の外に出てきた。
「ちょうどよかった。レイナにニンジンを持って行ってくれんか」
「ニンジンですか?」
「レイナが畑を耕して、種をまいてくれたニンジンがよく育ってな。レイナにも食べさせたいんだ」
マサじいさんは小屋の横に積んであったニンジンを10本ほど裕に渡そうとした。
「さすがに、こんなには……うちは3人しかいませんし」
「ニンジンは日持ちするから大丈夫だ」
マサじいさんは、そんなことも知らんのか、という目で裕を見た。
「でも、これは皆さんで食べたほうが」
「レイナは、うちの畑で採れるニンジンが好きなんだ。ここのが一番おいしいって、いつもおいしそうに食べてたんだ」
「……そうですか」
「マサじいさん、袋かなんかないの? 先生の手が泥だらけになるよ」
トムの言葉に、「おお、そうだな」と小屋の中から新聞紙を持って来た。トムがニンジンを包んで裕に渡した。
裕は、「レイナもきっと喜びます」と頭を下げた。
裕がライブのことを話すと、「それは、子供たちだけで行ったほうがよさそうだなあ」とマサじいさんは言った。
「汚いカッコをした大人が行くような場所じゃないし」
「そんな、大丈夫ですよ。皆さんでいらしてください」
笑里が言うと、マサじいさんは笑里の目をじっと見つめた。
「お嬢さん。我々にこれ以上、みじめな思いをさせないでくれ。我々は、街でやっていけなくなったから、ここに流れて来たんだ。今さら街に戻って、自分たちが負け犬だったと思い出したくなんかないんだよ」
「そんな……」
笑里はそれ以上、何も言えなかった。
「子供たちは行かせることにしよう。街を知るいい機会だからね」
マサじいさんは裕と笑里にコーヒーを入れてくれた。
裕は「いただきます」と普通に飲んだが、笑里はカップを受け取っても飲もうとしなかった。マサじいさんはじっと笑里を見つめる。
笑里はあわてて、「ごめんなさい、私、オペラ歌手なので、コーヒーは飲まないようにしてるんです」と釈明した。
「オペラって何?」
トムが無邪気に尋ねる。
「大きな会場で、歌いながら劇をするの」
「へえー」
トムの目は好奇心で輝いた。
「どんな歌なの? 歌ってみて」
「え? ここで?」
笑里は戸惑う。
「でも、伴奏がないし」と逃げようとすると、「ピアノならあるよ。タクマが弾いてたピアノ」とトムは駆け出した。
「こっち、こっち!」
トムに手招きされて、笑里と裕は顔を見合わせた。
「私、こんなところで歌うなんて……」
「まあ、いいじゃないか。簡単な曲でも歌ってみたらいいんじゃないかな」
「そんなことを言われても」
笑里は、腕をつかまれて振り返った。
見ると、アミが「あー」とニコニコ笑っている。
「ピアノのところに行こうって言ってるんじゃないかな」
笑里は観念して、アミに引っ張られるようにピアノの置いてある場所に向かった。
ピアノには青いビニールシートがかぶせてある。
「タクマがいなくなってから、誰も弾かなくなったからさ、シートをかぶせといたんだ」
トムがシートをとるのをジンが手伝う。
「タクマってもしかして」
笑里がつぶやくと、「ああ。レイナの大切な人だ」とジンが言う。
「二人は、よくこのピアノを弾きながら歌ってたんだ」
「タクマは死んじゃったんだ。トラックに轢かれて」
トムが指差した。
「あっちのほうで。レイナも見てたんだよ。レイナの目の前で轢かれたんだ」
笑里は息を呑む。
「トム、それ以上、余計なことを言うな!」
ジンが制する。
「だって、知らないのかなって思って」
「レイナから聞いてたけど……目の前で亡くなったという話は、初耳で」
笑里は動揺したように口を手で覆った。
「そう……あの子はそんな辛い目に」
裕はピアノの蓋を開けた。
「レイナと初めて会ったのも、このピアノの前だったな」
鍵盤の上の赤いフェルトのカバーをとると、椅子に座った。簡単に鍵盤を端から端まで弾いてみる。
「出ない音もあるけれど、意外に悪くない音だな」
「へ~、先生、ピアノ弾けるんだ」
「一応、作曲家だからね」
「すげえ。先生って、やっぱすげえなあ」
トムは感嘆する。
「笑里、発声練習をするか?」
裕に声をかけられ、笑里は我に返った。
「そ・そうね。お願い」
裕がドミソミドを弾くと、笑里はそれに合わせて歌いはじめた。
アミとトムは嬉しそうに笑里が歌う様子を見ている。
ただ発声練習をしているだけなのに、終わると二人は拍手をしてくれた。笑里は照れくさくなった。
喉が温まると、裕は「何を歌う?」と聞いた。
「そうね」
笑里は考え込んだ。
「……椿姫で」
笑里の言葉に、裕は目を見開いた。
「いいのかい?」
「ええ。歌ってみる」
「そうか。分かった」
裕は一呼吸を置いて、軽やかに椿姫の『乾杯の歌』の前奏を弾き出した。
笑里は大きく深呼吸をしてから、歌い出す。
アミとトムは笑里の高い声に目を丸くする。
時々、調子が外れるピアノ。笑里は、最初は抑え気味に歌っていたが、二人が食い入るように笑里を見ているので、段々声量を上げていった。
アミとトムは楽しそうに曲に合わせて体を揺すっている。その姿を見たとたん、笑里は涙がこみあげてきて歌えなくなってしまった。
裕が驚いて笑里の顔を見る。
「どうしたの?」
トムが心配そうに尋ねる。
「ううん、なんでもない」
笑里は急いで涙を拭き、裕に伴奏を促して再び歌いはじめた。
歌い終えると、トムとアミは一生懸命、大きな拍手を送ってくれる。
背後からも拍手が聞こえてきた。
振り返ると、いつの間にか住人が集まって来て、笑里の声に聞き入っていたのだ。
拍手を送りながら、「ブラボー!」と叫ぶ住人もいる。
「こんな曲聴くの、何十年ぶりだろう」と涙を拭く住人もいた。ルミですら、木の陰で鼻を赤くしている。
笑里は涙をこらえながら、カーテンコールのように深々とお辞儀をした。
「おばさん、歌うまいね。レイナと同じぐらい、うまいよ」
トムが興奮して笑里の足に飛びついた。
「ありがとう」
「でも、何て言ってるのか、分かんなかった」
「イタリア語だからね」
「へえ~、そんな難しい言葉、話せるんだ」
アミも嬉しそうに「あー、あー」と腕にしがみつく。
「すっかり子供たちに気に入られたみたいだねえ」
マサじいさんは言った。
「こんなにすぐに子供たちに受け入れられる大人は珍しいよ。あんたたちになら、この二人を任せても大丈夫そうだ」
笑里は「ありがとうございます」と目の縁を拭った。
「そうだ、レイナからメッセージを預かって来たんでしょ?」
「そうよ。読みましょうか?」
「読んで、読んで!」
トムとアミに手を引かれて、笑里はマサじいさんの小屋に戻った。
裕はピアノにフェルトをかけ、蓋を閉めた。
「レイナは元気か?」
振り向くと、ジンが木にもたれながら裕を鋭い目で見ている。
「ええ。レイナは、あなたのこともよく話してますよ」
「オレのことはいいよ、別に。突然ミハルさんがいなくなったからさ」
「ああ……確かに、ミハルさんがいなくなったショックからは完全に立ち直れてません」
「そうだろうな。ミハルさんから連絡は」
「何も。私たちも、ずっと待ってるんですが」
「そうか」
ジンは大きなため息をついた。
「いきなり、いなくなっちゃったんだもんな。何かあったのなら、言ってくれればよかったのに」
裕はピアノをやさしくなでた。
「このピアノ、レイナにとっても大切なピアノなんですよね」
「ああ。だから、いつかレイナに持って行ってくれないか? ここに置いといても、朽ち果てていくだけだからさ」
「そうですね」
裕がブルーシートをかぶせていると、ジンも手伝った。
「ミハルさんはあんたを信頼してレイナを託したんだ。だから、レイナを傷つけるようなことは絶対にするなよ?」
裕は「もちろんです。誰かがレイナを傷つけるようなことがあったら、私も絶対に許さない」と強い口調で返した。
ジンは裕の目をジッと見てから、「そうか。よろしく頼む」とクロと一緒に去って行った。
裕はその後ろ姿を見つめていた。
帰りの車の中で、笑里はずっと泣きっぱなしだった。
「そんなに怖いところだったんですか?」
森口が心配して尋ねる。
「違うの。違うのよ。純粋な人ばかりで……私、歌を歌う楽しみを、久しぶりに思い出したの」
笑里は泣き声で言った。
「いつも、高いチケットを買って来てくれるお金持ちの前で歌ってたけど……あの人たちが、本当にオペラのよさが分かってるかどうか、怪しいし。目の前で眠ってる人もいるし。でも、今日の人たちはみんな、目を輝かせながら聞いてくれてた。泣いている人もいて……」
そこまで語ると、その光景を再び思い出して、笑里は声を詰まらせた。
「ああ、音楽は国境を超えるって聞いたことがありますけど、いい音楽は老若男女も貧富も人種も関係なく、すべての壁を超えるんでしょうね」
森口の言葉に、「その通りだ。さすが、森口さんはいいことを言う」と裕は同意した。森口は、「それほどでも」と照れた。
「あの子は、みんなから愛されていたのね」
笑里は鼻をかんでから言った。
「ああ。あそこの人たちは、レイナを大切に育ててくれたんだ」
「レイナが子守歌を歌ってくれたって、トム君とアミちゃんが話してた。みんなが家族みたいなものなのね、きっと」
「ああ」
「私、ゴミ捨て場なんて場所からレイナが抜け出すのは当然だって思ってたけど……あの人たちと離れて暮らすのは、レイナにとって本当にいいことなのかしら」
裕はそれには何も答えられなかった。
「家に帰るまでに泣き止まないと。レイナが心配するぞ?」
「そうね」
笑里は「森口さん、何か明るくなる曲をかけてくれない?」とリクエストした。
帰ってからレイナにニンジンを渡すと、「マサじいさんのニンジン!? やったー!」と大喜びした。
「まああ、こんなにたくさんのニンジン。ポタージュでも作りましょうか?」
芳野が言うと、「ポタージュ?」とレイナは首を傾げた。
「軟らかく煮たニンジンに牛乳を入れたスープのことね。おいしいわよ。作っているところ、見てみる?」
「うん、見たい、見たい!」
レイナは芳野と一緒にキッチンに行った。
「ねえ、私、ゴミ捨て場の人のために、何かしてあげたい」
笑里が言うと、「ああ。私もずっとそれを考えていたところなんだ」と裕は答えた。
本番当日。
スティーブとリハーサルをするために、レイナは裕と共に日産スタジアムに向かった。
レイナの髪には、タクマからもらったバレッタ。
笑里にバレッタをつけてもらうときに、「お兄ちゃん、今日も見守っていてね」と心の中で祈った。
客席に出てみて、その広さに圧倒された。
武道館より遥かに規模が大きく、メインステージのほかにサイドステージが2つ設置してある。
3つのステージを移動しながら歌うのだと裕は説明してくれた。
「スタンドだけじゃなくて、ステージのまわりにも観客がいるんだよ。あそこをアリーナって言うんだ」
「へええ。あんなところにもお客さんが入るんだあ」
リハーサルが始まると、スタッフが呼びに来た。
「衣装合わせは後にして、先に歌を合わせたいってスティーブが言ってます」
「わかりました」
二人でメインステージに向かうと、そこにはヒカリがいた。
レイナと裕は驚いて顔を見合わせた。
ヒカリは二人を一瞥すると、すぐに顔をそらせる。
通訳らしき男性が、スティーブのスタッフに何か頼んでいるようだ。スタッフは怒ったような顔で、通訳の男性に何やら言っている。
「先に歌うのはレイナさんで、ヒカリさんは後だってスティーブは言っているそうです。その順番を変えるつもりはないって。リハーサルもその順番でやるって言っています」
通訳の男性が困り果てた様子で、ヒカリとマネージャーに説明した。
「待ち時間が長すぎますよ。せめてリハだけ先にしてもらえないかって頼んでみてください」
「だから、さっきから何度もそう頼んでるんですよ。でも、予定を変えるつもりはないって、スティーブは言っているそうです」
ヒカリは苛立ちを隠さないまま、腕組みをしてそのやりとりを聞いている。
「だったら、リハに出なくていいんじゃない? ぶっつけ本番でもいいでしょ」
「そういうわけにはいかないでしょ。こっちが頼み込んで、今日のステージに出させてもらうんだから」
「私は出たいなんて言ってないし」
「そんなこと言ってる場合じゃないでしょ」
ヒカリとマネージャーが言い争っていると、急に袖が騒がしくなった。
スティーブが現れ、ステージは静まり返った。
実物は動画で見る以上に巨体なので、立っているだけで存在感がある。
黒いサングラス越しにヒカリたちを睨むと、ヒカリは顔をこわばらせた。
スティーブはヒカリの前を素通りし、レイナに「ハイ、レイナ!」と笑顔で歩み寄った。
手を差し出されて、レイナも右手を出すと、大きな温かい手で包み込んで握手した。
何か言われたが聞き取れないでいると、「レイナに会えてよかったって。会うのを楽しみにしてたんだって言ってるよ」と裕が通訳してくれた。
レイナは「私も!」と笑顔で返した。
スティーブは裕とも握手を交わした。
「おっきい人だね。ビックリした!」
裕はレイナの言葉を訳して伝えた。
スティーブは朗らかに笑った。
「子供のころからビッグボーイって呼ばれてたんだって。日本は建物も乗り物も小さいから、頭をぶつけてばかりだって言ってるよ」
スティーブが頭を痛そうにさすっているので、レイナは笑い声をあげた。
そのとき、「レイナ!」と聞き慣れた声がした。見ると、トムとアミがステージの下に立っている。
レイナは歓声を上げた。笑里が二人を連れてきたのだ。
トムはまわりのスタッフが止める間もなく、ひらりとステージに飛び乗った。
「トム!」
レイナが駆け寄って、二人は抱き合った。
アミはステージに登ろうとしても登れず、笑里が抱え上げる。アミは既に泣き顔だ。
「アミぃ」
レイナはアミを抱きしめた。
二人とも、笑里が用意した服を着て、とてもゴミ捨て場の住人には見えない。家に連れて行って、お風呂にも入れたのだろう。
「二人とも、元気だった?」
「なんで帰って来てくれないんだよお。オレとアミは、ずっと待ってたんだよ?」
トムも涙を浮かべている。
「ごめん。ごめんね」
「オレたち、レイナに捨てられたんじゃないかって」
「そんなことない。そんなことないよ。不安にさせて、ごめんね」
レイナは二人をさらに強く抱きしめた。
不思議そうにしているスティーブに向かって、裕は事情を説明した。
スティーブは大きく何度もうなずくと、「それなら、最前列で見ればいい。二人の席を用意するよ」と言ってくれた。
二人に話したいことは山ほどあるが、リハーサルをしなければならない。
笑里が「こっちに来て。積もる話は後でね」と二人を引き受けた。
「さあ、リハーサルを始めよう。曲は分かるね?」
レイナは大きくうなずいた。
そのとき、ヒカリの通訳がスティーブに何か話しかけた。スティーブは途中で話を遮り、一喝する。
「あの、嫌なら帰ってくれって言われたんですけど」
通訳が恐る恐るヒカリに伝えると、ヒカリは眉を吊り上げ、踵を返した。
マネージャーがあわてて後を追う。
「テレビ的にはヒカリさんが出ると視聴率を稼げるんじゃないかって、局側が強引にゲストってことにしたらしいんですけど、スティーブは相当嫌がってるらしいんですよ。ヒカリさんの事務所がかなりお金を払ったって話、聞いてます」
袖にいたスタッフが、裕にこっそり教えてくれた。
スティーブとレイナの息はピッタリと合った。
スティーブはレイナに「もっと、もっと」とゼスチャーで促したので、レイナはゴミ捨て場で歌っていたときのように全身で歌った。
スティーブは一瞬驚いた表情をしてから、すぐに自分も声を張り上げる。
気がつくと、トムがステージの端でダンスを踊っている。自己流のデタラメなダンスだ。
近くにいたスタッフが止めようとすると、スティーブは手で制した。
歌い終わると、スティーブはレイナに拍手を送った。
「素晴らしい歌声だ。やっぱり、君にオファーしてよかった。こんなに美しくて、パワフルな歌声は、初めてだ」
スティーブは興奮した様子で話している。裕が通訳してくれた。
「それと、そこの少年。君のダンスもいいね。レイナが歌っているときに、一緒に踊ってみないか?」
スティーブに英語で話しかけられて、トムはきょとんとしている。
トムは、見かけは黒人だが、ずっとゴミ捨て場で育ったので英語を話せない。
裕が通訳すると、「えっ、ホントに? 踊っていいの? やったあ」と飛び跳ねた。
リハーサルが終わってみんなで楽屋に行くと、「お久しぶりぃ」とアンソニーが待っていた。
レイナは歓声を上げて、アンソニーに抱きついた。
「あらあら、こんなに歓迎してもらえるなんて思わなかったわ」
アンソニーは嬉しそうにレイナを抱きしめる。
「西園寺先生に呼ばれて来たのよ」
それから裕を見て、「私も今日来て、初めて知ったんだけど……ヒカリが来てるのね」と言った。
「私は、あのライブの日以来、ヒカリには干されちゃって。レイナちゃんに肩入れしたのが気に喰わなかったみたいね」
アンソニーは肩をすくめてみせる。
「そうなのか。それは大変だったね」
「まあ、他に仕事はいくらでもあるし。レイナちゃんがデビューしたら、専属でやらせてもらえるかもしれないし。なあんてね」
「もちろん、そのときはよろしく頼むよ」
レイナはトムとアミと一緒にお菓子を食べながら、既に話し込んでいる。
「他のみんなは? マサじいさんとジンさんは? 今日は来なかったの?」
「うん。レイナに会いたがってたけど、大人がボロボロのカッコをして行ったら、レイナに迷惑がかかるだろうって。子供だけで行けって言われた」
トムがクッキーを頬張りながら言う。
「そんなこと、気にしないのに」
「レイナが気にしなくても、評判ってものがあるんだってさ。オレもよく分かんないんだけど」
アミはレイナにべったりと身を寄せ、「あーあー」と言う。
「アミは、レイナがいなくなってから、毎日泣いてるんだよ。レイナの小屋に行って寝てることもあるし」
レイナはアミを抱き寄せた。
「寂しい思いをさせて、ホントごめんね」
「ホントだよ。レイナは、オレらを嫌いになったのかと思った」
「そんなわけないでしょ!」
「そういえば、レイナ、すっげえ家に住んでるんだな。先生の家に行って、お風呂に入れてもらったんだよ」
「あー」
「うん、二人ともキレイになって、別人みたい」
3人がわきあいあいと話している姿を見て、笑里と裕は顔を見合わせた。
「でもさ、レイナ、変わったよね。キレイになったって言うか」
「何言ってんの」
レイナはトムの頭を小突いた。
「ホントだよ。たぶん、毎日お風呂に入って、いい服着てるからだろうけど。なんかさ、別の世界の人になっちゃったって言うか」
「そう? 何も変わらないけど」
レイナは二人にオレンジジュースを注いであげた。