その日も、レイナはピアノの前に座っていた。
蓋を開けて、鍵盤をいくつか弾いてみる。小さなくぐもった音がするだけで、タクマが弾いたような音は出ない。
――ピアノ、教わりたかったな。
そのとき、「それは、君のピアノ?」と背後から声がした。
振り返ると、銀髪で髪を一つに結んだ男性が穏やかな笑みを浮かべて立っている。タクマと同じ髪型なので、レイナは一瞬、ドキッとした。
黒いコートは、いかにも高そうな生地で、染み一つついていない。
ゴミ捨て場には、時折ボランティアの人たちが食料や洋服を持って来てくれるが、彼らとはまったく違う世界の住人であることは一目で分かった。
「ピアノ、弾けるのかな?」
男性の問いに、レイナは軽く頭を振った。
「そう。誰が弾いてるの?」
「……タクマお兄ちゃん」
「そう。今日はいないの?」
「お兄ちゃんはもうこの世にいないの。ずっといない」
「そうか……」
男性はゆっくりと近寄って来た。
「君の名前は、レイナって言うのかな? テレビで観たんだけど」
レイナは警戒して身を固くした。
「ごめん、知らないおじさんに突然話しかけられて、戸惑うよね。僕の名前は、西園寺裕。作曲家をやってるんだけど、こんな曲、知らないかな」
裕は低く渋い声で歌った。
レイナはハッと顔を上げた。ラジオでよく聴く曲だ。
「知ってる……」
「そう、よかった。この曲は僕がつくったんだ」
「ピアノで?」
「そうだね、曲をつくるときはいつもピアノを弾きながらつくってる」
「お兄ちゃんと同じだ……。お兄ちゃんもピアノを弾きながら曲をつくってた」
「そう。タクマ君、だっけ。曲をつくってたんだ。どんな曲?」
レイナは唇をキュッと結んだ。
――タクマお兄ちゃんのつくった大切な曲。知らない人になんか、教えられない。
裕はレイナの顔をしばらく見つめてから、
「もしかして、タクマ君が弾いていたのは、こんな曲じゃなかったかな?」
と、レイナの背後から手を伸ばして、右手だけでピアノを弾き出した。
それは、タクマがつくった「小さな勇気の唄」だった。タクマより、もっとなめらかで、美しい音。
レイナは裕の指の動きに見入った。指が長く、滑るように鍵盤の上を動く。
そのとき、「何してるのっ?」と、ミハルの声が響いた。見ると、鋤を持ったミハルが、裕を睨んでいる。
「うちの子に何する気? そこを離れてっ!」
ミハルは鋤を刀のように構えた。裕は慌ててピアノから離れる。
「レイナさんのお母様ですか? 僕は、作曲家の西園寺裕と言います」
ジリジリと近寄るミハルに気圧されながら、裕は自己紹介した。
「西園寺……?」
ミハルは裕の顔を凝視した。
「もしかして、昔、グラミー賞を受賞した……?」
「そうです、ご存知でしたか」
裕はホッとした表情になった。
「テレビでレイナさんの動画を観て、どうしてもご本人に会いたくて、ここまで来たんです」
「テレビで……」
ミハルはようやく鋤を下ろした。
「この三日間、毎日テレビ局の人がここに来るんです。勝手にあちこち撮影して回るから、ホント、迷惑で」
「そうだったんですか。そういう事情とは知らず、驚かせてしまって申し訳ない」
裕は頭を下げる。
レイナはミハルと裕の顔を交互に見比べているしかなかった。
「今日は、お願いがあって来たんです」
裕はミハルの顔をまっすぐに見た。
「レイナさんを一日、貸していただけませんか?」
「え?」
「レイナさんに、ライブにゲスト出演してほしいんです。陣内ヒカリという、今人気のあるアーティストのライブなんですが、そこで一曲だけ歌ってほしいんです」
ミハルとレイナは顔を見合わせた。
「ライブって、何?」
レイナの問いに、「大勢の人が集まる場所で、歌ったり演奏することよ」とミハルは教えた。
「そんな、いきなり大勢の人の前で歌えなんて言われても。この子を見世物にする気はありませんから」
ミハルは強い口調で突っぱねる。
「見世物にする気なんてありません。僕は、レイナさんの歌声を聞いて、どうしてもステージで歌ってもらいたくなったんです。あの声は、多くの人を魅了する声だと思うんです。きっと、世界中の人が感動します」
裕は慌てて弁明した。
「そんなこと、突然言われても」
「それなら、一度、うちに歌のレッスンをしに来ませんか? 私の家内はソプラノ歌手で、自宅で歌のレッスンもしてるんです。家内もレイナさんに会いたがっています。お母様も一緒に、一度うちまで来ていただけませんか?」
ミハルは首を傾げて考え込んだ。
レイナは裕の顔を黙って見つめていた。
――なんだろう。この人のことは、信じてもいい気がする。
「……分かりました。一度だけなら」
「そうですか? よかった」
裕は顔を輝かせた。
「それなら、明日はどうですか? 明日、僕が迎えに来ます」
「随分急ですね」
「他の日でも全然構わないんですが」
ミハルはレイナの顔を見てから、「分かりました。明日でいいです」と答えた。
裕が帰る間際、ミハルはそっと、「あの子は、大好きだった人を亡くしたばかりなんです。ここから離れたほうが、ちょっとは気がまぎれるかもしれません」と、裕に耳打ちした。
裕は黙ってうなずいた。
その日、レイナは生まれて初めて「車」という乗り物に乗った。
裕の車がゴミ捨て場の入り口に止められているのを見て、作業員たちは「あれってベンツじゃね?」「なんで、こんなところに」と口々に言っている。
知らせを受けて管理会社の幹部が飛んできた。
「ここに何か御用ですか? 間違って捨ててしまったものがあるんでしょうか?」
裕に尋ねると、「いえ、人を迎えに来たんです」と柔和な笑みで返した。
「人? 誰ですか?」
その問いに裕は答えなかった。
ゴミ捨て場から出てきたレイナが裕に挨拶したのを見て、作業員たちはポカンとした表情になった。
裕はドアを開けて、レイナに助手席に乗るよう促す。レイナはおっかなびっくり、車に乗り込んだ。
ミハルは「西園寺さんの言うことをちゃんと聞いてね」と窓越しに声をかける。トムとアミも一緒に見送ってくれた。
トムが「オレも街に行きたい」とごねるのを、ミハルは「また今度ね」となだめていた。アミは不安そうな表情で窓に貼りついている。
「大丈夫、夜には帰って来るから」と声をかけても、アミは涙を浮かべながら「あー、あー」とレイナに訴えかける。
レイナはミハルも一緒に行くものだと思っていたが、「私は行かないほうがいい」と裕に託したのだ。
レイナは心細くて行くのをやめようかと思ったが、ミハルは「レイナは街に行くべきだから」と強く勧めた。
レイナは不安そうに、窓越しにミハルの顔を見つめる。
「大丈夫よ、レイナなら一人でも大丈夫」とミハルは励ました。
「西園寺さん、レイナをよろしくお願いします」
ミハルの言葉に、裕は大きくうなずいた。
車が走りはじめると、レイナは遠ざかって行くミハルと仲間に手を振った。
裕が窓を開けてくれる。レイナが身を乗り出すと、トムが全速力で追いかけて来た。
「夜までには戻って来るからあ」と大声で呼びかけると、トムは足を止めて、大きく手を振った。
「あんまり身を乗り出すと、落ちるから」
裕がレイナの服を引っ張る。
「シートベルトを締めて」
「シート……?」
「ああ、そうか」
裕は車を止めて、レイナのシートベルトを締めてあげた。裕からは、今まで嗅いだことのないいい香りがする。
「きつくないかな?」
レイナはコックリとする。
「君は、みんなから愛されてるんだね」
裕はフワッと笑い、車を発進させた。
「――いいのか?」
クロをつれたジンが背後から声をかけた。ミハルは、いつまでもレイナが去ったほうを見て立ち尽くしていた。
「レイナはいつかここから出ていくべきだけど。一緒に行かないつもりなのか?」
ミハルは何も答えず、「さあ、お昼の用意をしよっか」とアミに話しかけた。
「レイナは、あんたまで失ったら、やっていけないぞ?」
ミハルはフッと寂しそうな笑みを浮かべた。
トムが「レイナ、本当に帰って来るんだよね?」と駆けて戻ってきたので、「心配しなくて大丈夫よ」とミハルは言い聞かせる。
トムとアミと手をつないで小屋に戻っていくミハルの後姿を、ジンは見守っていた。
「ここが、僕の家」
裕が車を止めても、レイナは窓から外を見るだけで動けなかった。
――家? 絵本で見た家とは全然違うけれど……。
レイナは、今までゴミ捨て場の小屋しか見たことがない。絵本で、普通の人が住む「家」というものは見ているが、本物を見るのは初めてだ。
ここに来るまでも、レイナにとっては見たことのないものばかりで、「あれは何?」「あれは?」と裕に何十回も尋ねた。
「あれは信号って言うんだ。青は進め、黄色は注意、赤は止まれっていう意味で、青になるまでここで待たないといけないんだ」
「あれはガードレール。車や人がはみださないようにしてるんだ」
裕は嫌がることなく教えてくれる。
街に入ると、行きかう人々がゴミ捨て場の住人とはまったく違う格好をしていることに気づいた。
とくに女の子たちは色とりどりの服に身を包み、髪をキレイに整え、メイクをして、キラキラと輝いて見える。
楽しそうにおしゃべりしながら歩いている女の子たちの姿を見ているうちに、レイナは急に自分の格好が恥ずかしくなった。
古びて黒ずんでいるセーターに、ジーパン。あちこちにつぎをあてている。ミハルが丁寧に繕ってくれて、今まで大事に着てきた服だ。
そんなつぎはぎだらけの服を着ている子は、一人もいない。レイナは、自分は来てはいけないところに来てしまったのではないかと、不安になった。
髪に手をやる。そこにはタクマからもらったバレッタをつけていた。ミハルが髪をとかして、綺麗に見える位置につけてくれたのだ。
――大丈夫。きっと、お兄ちゃんが見守っていてくれる。
裕が助手席のドアを開けて、シートベルトを外してくれた。
「さあ、どうぞ」
促されて外に出るが、レイナは家の大きさに圧倒されていた。
裕の家は、一目で付近の家よりも大きいことが分かる。庭も広々としていて、駆けまわって遊べそうだ。
――こんな大きな家の中に、何があるの?
レイナは怖くなって、踵を返そうとすると、玄関のドアが開いた。
「レイナちゃん? いらっしゃい」
小太りの女性が、笑顔で声をかける。茶色の髪はカールがかかり、街行く女性と同じようにメイクをしている。裕に促されて、レイナは恐る恐る玄関に入る。
「こんにちは」
蚊が鳴くような声で挨拶すると、
「こんにちは、私は裕の妻の笑里です。よろしくね」
と、朗らかな声で答えた。
その足元には、茶色くて毛がフサフサした生き物がレイナを見上げている。
「それは、にゃんこ? わんこ?」
「ああ、この子はね、わんこよ。トイプードルの女の子。ベルって言うの。オペラの神様のヴェルディから名前を取ったの」
「ベル……」
レイナはしゃがんで、ベルの目を見た。
「こんにちは、ベル」
手を差し出すと、ベルはぺろぺろと掌をなめた。
「くすぐった~い」
「あら、もうお友達になれたのね。長時間、車に乗ってたから、疲れたでしょ? まずはお茶でも飲みましょ」
笑里からもいい香りがする。レイナは汚い格好をした自分が家に入るわけにはいかないと、玄関でモジモジしていた。
「さあ、こっちへどうぞ」
笑里は手を差し伸べてくれた。促されるまま、レイナはスリッパを履く。
そのスリッパはフカフカの感触で、レイナはとっさに足を引っ込めた。
そんなスリッパを今まで履いたことがない。
ゴミ捨て場に捨てられているスリッパは、布地がペラペラになったものや、プラスチックでできているものばかりだ。
「それは君のスリッパだから、履いていいんだよ」
裕に言われて、恐る恐る足を入れた。温かい。レイナは2、3歩歩いてみる。
「うちはカーペットを敷いてないからね。スリッパを履いてないと、足が冷たいんだ」
裕は洗面所に案内して、手を洗うようにすすめた。裕が蛇口の下に手を差し出すと、水が自動で出たのでレイナは目を丸くした。
――お兄ちゃんが、魔法のような家があるって言ってたけど、これのこと?
レイナは何回か手を差し出して、引っ込めてみた。
そのつど、水が出たり止まったりするので、「すごい、すごーい!」とはしゃぐ。裕はその様子を苦笑しながら見つめていた。
リビングに足を踏み入れると、その広さに圧倒された。
「絵本で見たお城みたい」
レイナがつぶやくと、笑里はソプラノの声でコロコロと笑った。
「ありがとう。住んでいるのはお姫様と王子様には程遠いけどね」
笑里と裕はソファに座り、レイナにも座るように勧めた。
青い皮でできた、大きなソファー。レイナはためらった。
「どうしたの?」
「私が座ったら、汚しちゃうかもしれない」
「そんなこと、気にしなくていいの! このソファ、ベルがかじってあちこち穴が開いてるでしょ? 私も食べ物をこぼすことがあるから、そんなにキレイじゃないのよ」
レイナはおずおずと端っこに座った。
テーブルには紅茶のセットとクッキーが並べてある。
「紅茶を入れたんだけど……飲めるかしら?」
「砂糖とミルクを入れたほうがいいんじゃないかな」
笑里は紅茶に砂糖とミルクを入れて、レイナに差し出した。
「お昼はレッスンの後で食べましょうね。このクッキー、おいしいから食べてみて」
笑里にバスケットを差し出されて、レイナは1枚取って食べてみた。
「――おいしい!」
こんなにおいしいお菓子は初めて食べた。思わず2、3枚続けて食べると、「そうそう、好きなだけ食べてね」と笑里は微笑む。
ミルクティーも甘さが程よく、体にじんわりと染み渡る。
「こんなおいしいの、初めて」というと、お代わりを入れてくれる。
「このクッキー、ママにもあげたいな」
つぶやくと、「それなら、お土産に持って帰って。たくさんあるから、みんなにもあげてね」と笑里は言った。
ベルはおとなしく、笑里の足元で寝転んでいる。
「その髪留め、きれいね」
褒められて、レイナはバレッタに手をやる。
「お母さんに買ってもらったの?」
「ううん、タクマお兄ちゃんに誕生日にもらったの」
タクマという人物が亡くなっているということを、裕から聞いているのだろう。
笑里は「そう、きれいね。あなたの髪の色に似合ってる」と言い、それ以上詮索しなかった。
笑里は自分がオペラ歌手をしていること、海外に留学していたこと、音大で生徒に教えていることなどを話してくれた。
「オペラって聞いても、分からないわよね」
レイナがうなずくと、「そう思って、私が歌っている映像を用意しておいたの」と、笑里はテレビをつけた。
ローボードの上にあるテレビをつけたとき、レイナは驚いて目を見張った。
「あれ、何?」
「ああ、テレビを観るのは初めてかな」
「あれもテレビなの? ゴミ捨て場の食堂で見たことあるけど、こんなに大きくなかったよ」
「食堂?」
「働いてる人たちが食べる場所」
「ああ、なるほどね。食堂だったら、小さなテレビしかないだろうね」
自分の顔よりも大きい人が映っているので、レイナは釘付けになった。
画面が切り替わり、どこかのホールが映し出された。
ステージの真ん中で歌っているのは、笑里のようだ。髪をアップにし、真っ赤なドレスに身を包んで、ホール中に響き渡る声で歌っている。
「これは20年前の映像だから、若いんだけどね」
「今よりも痩せてるしな」
「そういうことは言わないように。お互い様でしょ、おじさん」
二人が軽口を叩いている横で、レイナは真剣に映像に見入っていた。
――すごい、こんなに声が出るんだ。
軽やかで透明感のある高音。同時に力強い声でもある。
歌詞の意味はまったく分からないが、胸に迫るものがあった。歌に導かれるように、オーケストラも熱演している。
「オペラは日本語じゃないから、意味が分からないかもしれないけど」
笑里は話しかけながら、レイナが熱心に見ている姿を見て、口をつぐんだ。裕もレイナの表情をじっと見つめる。
曲が終わり、観客が拍手を送ると、レイナも思わず拍手した。
「すごい、すごいっ、あんなに高くて、キレイな声を出せるなんて」
レイナが興奮していると、二人は嬉しそうに顔を見合わせた。
「もっと見てみる?」
笑里が問うと、レイナは大きくうなずいた。
それから30分ぐらい、レイナは笑里の動画を堪能した。
「あんな風に声を出せたら、気持ちいいだろうな」
レイナはうっとりした様子で、ため息を漏らした。
「あなただって、あんな風に歌えるようになるのよ。レッスンすればね」
「それじゃ、スタジオを案内するわね」
リビングを出て、笑里は地下の階段を降りて行った。レイナは後をついていく。
スタジオに入ると、そこには大きな木目調のピアノが置いてあった。
「これ、ピアノ?」
レイナが目を丸くすると、「そうよ。グランドピアノって言うの」と笑里は蓋を開け、椅子に座った。
それから、おもむろに曲を弾きはじめた。
ブラームスのワルツ第15番。2分ぐらいの短い曲だが、優雅なメロディを叙情豊かにピアノは奏でる。
いつの間にかレイナの目から涙がこぼれ落ちた。
笑里は曲を弾き終わり、顔を上げると、レイナがボロボロ涙をこぼしているのを見て驚いた。
「どうしたの? お腹でも痛くなった?」
「違うの」
レイナは大きくかぶりを振る。
「こんな、きれいな曲聴くの、初めてで」
しゃくりあげながら、レイナは袖口で涙をぬぐう。
「あらあ」
笑里は感激したように口に手を当てた。
「私よりも、裕のほうがよっぽど上手なのよ」とティッシュをくれる。
レイナが泣き止むのを待つと、「それじゃあ、レッスンを始めましょう」と明るい声を出す。
「まずは、ウォーミングアップから。私と同じように声を出してくれるかしら」
笑里に合わせて、「アアアアア」「マママママ」と発声練習をする。
1時間も練習すると、レイナはさすがにクタクタになった。
「どんな感じ?」
裕が顔をのぞかせた。
「そうね、喉を使わないで歌えてるから、ビックリした。どうやってできるようになったの?」
笑里に聞かれても、レイナは首を傾げるだけだ。
「自然と出来るようになったんなら、どうやってできたのかなんて、分からないだろうね」
「普段は、どれぐらい歌を歌ってるの?」
「毎日。洗濯してるときとか、料理を作ってるときとか。歌ってると、ゴミ捨て場じゃない別の場所に行ける気がするんだ。だから、トラックに負けないように歌うの」
レイナの言葉に、二人は「そう」としか答えられなかった。
レイナは、壁に飾ってある写真を見て、「これ、おじさんとおばさん?」と聞いた。
「そう。若いころの私達よ」
「ふうん」
裕と笑里の間には、2、3歳の女の子が立っている。裕と笑里は幸せそうに笑い、女の子は笑里の足にしがみついて、カメラのほうを見ている。
「この子は、おじさんとおばさんの子?」
裕は「そうだよ」とうなずいた。
「今はどこにいるの?」
「君の大事なタクマお兄さんと一緒のところかな」
レイナはハッとして裕の顔を見た。
「音楽の神様でも、病気の子供を救ってあげることはできなかったんだ。あのころは、毎日神様に祈ったのにね」
笑里を見ると、目のふちをそっと拭っている。
――こんなに大きな家に住んで、魔法のような暮らしを送っているのに、悲しいことからは逃げられないんだ。
レイナはバレッタをそっとなでた。
その日のレッスンの最後に、裕に「あの曲を歌ってくれないかな」とリクエストされた。
レイナはきょとんとする。
「ホラ、僕がゴミ捨て場に行ったときに、ピアノで弾いた――」
「ああ、『小さな勇気の歌』」
「小さな勇気の歌。素敵な名前をつけたのね」
レイナは一呼吸おいてから、歌いだした。
いつもよりも声が出やすい。気持ちいい。レイナはゴミ捨て場で歌っているときのような感覚で、体中から声を出した。
「――すごいな」
聞き終えた後、裕は感嘆の息を漏らした。
「ええ。プロのオペラ歌手でも、最初からここまでの声量はなかなか出せないわよ」
笑里も頬を紅潮させていた。
「ねえ、レイナちゃん。もっとレッスンを受けてみない? 毎日でもいいわよ。うちに通って来ない?」
笑里は興奮しているが、レイナはどう答えたらいいのか分からない。
「私は毎日でも歌いたいけど……ママに聞いてみないと」
「分かった。送って行ったときに、お母さんに相談してみよう」
裕は何かを決意したような表情で言った。
「レイナさんを、プロの歌手として育てさせてくれませんか」
裕の言葉に、ミハルは目を見開いた。
その日、レッスンを終えてレイナがゴミ捨て場に戻って来たのは夕方の6時を過ぎていた。辺りはすでに真っ暗になっている。
レッスンで疲れ果てたレイナは、車の中で眠りこけていた。
「今日一日レッスンをして、レイナさんの声の素晴らしさには、私も家内も圧倒されるばかりで……このまま埋もれさせておくのは、もったいない。レイナさんの声に、きっと世界中が感動すると思うんです。そういう力を、彼女の声は持っている。今まで何十人もの歌手と出会って来たけれど、こんなに心打たれたのは初めてなんです」
裕は興奮する思いを隠しきれないようで、大げさな身振りで熱弁をふるう。
一緒に迎えに来たアミは、心配そうにミハルを見上げる。
ミハルはすぐに覚悟を決めたようだ。
「分かりました。レイナがそれを望んでいるのなら、私は止める気はありません」と一言一言、自分に言い聞かせるように言った。
「あの子をよろしくお願いします」
ミハルが深々と頭を下げる。
裕は慌てて「頭を上げてください。お願いするのはこちらなんですから」と制した。
「あの子は、いつかここから出て行かなくてはならないんです。その手助けをしていただけるのなら、私は」
ミハルはそこで言葉を切った。その目にはうっすらと涙が浮かんでいる。
「ただいまあ。いっぱい眠っちゃったあ」
目覚めたレイナが、車から降りてきた。
「分かりました。私たちで必ず、レイナさんをプロに育ててみせます。私たちに任せていただけて、感謝します」
裕はミハルに丁寧に頭を下げた後、「それじゃあ、明日も同じ時間に迎えに来ます」と言った。
車が走り去っていくのを、三人はしばらく見送った。
「ねえ、本当にいいの? 毎日、歌のレッスンに行って」
レイナが聞くと、ミハルは大きくうなずいた。
「でも、洗濯とか、お料理とか、マサじいさんのお手伝いとか」
「それはみんなで手分けしてやるわよ。ねえ、アミ?」
アミに問いかけると、アミは悲しそうに「あー……」とレイナの手を握る。
「レイナと一緒にいられないのが寂しいんでしょうね」
「大丈夫だよ、毎日帰って来るんだから」
レイナは手を握り返した。
レイナが裕の家に通うようになって2週間が過ぎたころ、ゴミ捨て場に新しい住人がやって来た。
その男は「自分のことは山田と呼んでほしい」と言った。
髪とヒゲは無造作に伸び、ヨレヨレになった作業服を着ている。もう何週間もお風呂に入っていないのだとぼやいている。
荷物は古びたキャリーケース一つだけ。マサじいさんの小屋に招かれ、饒舌に今までの生活を語った。
「ずっと工事現場で働いてきたんだけど、腰を痛めちゃって。そしたら、あっという間にお払い箱。治るまで待ってくれる温情なんてひとかけらも持ち合わせてないんだから、あいつらは。30年も勤めていたのに、切るときはバッサリ。それで、何もかも嫌になっちゃって、あちこちを転々としてたってわけ」
レイナがお茶を入れてあげると、山田はレイナのつま先から頭のてっぺんまでジロジロ見た。
「へえ、こんなところに、こんな子が住んでるなんてねえ」
その目つきがやけに鋭くて、レイナは思わず後ずさった。
ジンが、「てめえ、レイナを変な目でジロジロ見んじゃねえよ」と低い声で言うと、山田は「フン」と鼻で笑いながら目をそらした。
小屋を建てるまでの間、山田は自分で持ち歩いているテントで暮らすことになった。
「片隅に住まわせてもらうだけで、ありがたいですよ。ここの人たちはいい人だ、本当に。受け入れてくれるだけで、本当にありがたい」
何度もお礼を言って、山田はテントを張る場所を確保しに行った。
「あいつ、何か怪しいな」
ジンがつぶやく。
「工事現場で働いてたって割には、手がきれいだし」
「ああ。あいつからは、堕ちきったニオイがしない」
マサじいさんも言った。
「堕ちきったニオイ?」
レイナは首を傾げた。
「ここにたどり着く人はみんな、それまであれこれやってもうまくいかなくて、人生に絶望しきってるものなんだ。そういうヤツからは、独特な、堕ちきったニオイってもんがする。直接嗅げるニオイじゃないんだけど、なんかこう、そういう雰囲気って言うか。それがないんだよ。それに、自分の身の上を最初からペラペラ話すヤツなんていない。何の目的か知らんが、気をつけたほうがよさそうだな」
マサじいさんは言う。
「フウン」
ゴミ捨て場には、年に2、3人新しい住人がやって来る。
しかし、住人から盗むのが目的だったり、住人にクスリを売ろうとする輩もいて、安心できない。マサじいさんとジンは新しい住人が来ると常に目を光らせている。
「タクマの家に住まわせたらいいんじゃないの? あそこ、あいてるんでしょ」
一緒にお茶を飲んでいた住人の一人が言うと、レイナはきゅっと体を固くした。
「おいっ、めったなことを言うなっ」
ジンが睨みつける。
「あそこには、まだタクマとマヤさんのものが、そのままにしてあるんだから」
「だけど、いつまでもあのままにしておくわけにはいかないのは、確かではあるんだけどなあ」
マサじいさんはお茶をすすりながら言う。
「それじゃ、あの小屋のものを捨てちゃうの? タクマお兄ちゃんのものも?」
マサじいさんはレイナの目をじっと見つめた。
「捨てるんじゃなくて、次の住人に使ってもらえばいい。タクマのもので、どうしてもレイナが欲しいものだけ、レイナが取っておけばいい。だけどな、全部は取っておけないんだよ。人一人が持てる荷物なんて、ほんのわずかなんだから」
たまにマサじいさんは哲学的なことを言う。
レイナは分かったような分からないような気持ちになった。
レイナは時折、タクマたちが住んでいた小屋をのぞいてみる。
小屋に足を踏み入れることはできない。入り口から、タクマがいた空間を眺めているだけだ。
小屋の壁には、タクマが着ていた洋服がかかったままになっている。タクマのベッドも、ベッド脇の本棚も、折り畳み式のテーブルもそのままだ。
ただ、いないのはタクマだけ。その事実を改めて突きつけられて、レイナは胸が苦しくなる。
もう、戻ってこない、大切な人。
「お兄ちゃん、私、歌のレッスンをしてるんだよ」
ポツリとつぶやくと、涙がとめどなくあふれてくる。
――本当は、お兄ちゃんと一緒に歌を歌いたかったのに。ずっとずっと、お兄ちゃんのピアノで歌を歌いたかったのに。時間が解決してくれるって大人たちは言うけど、お兄ちゃんを忘れちゃうのなら、解決なんてしてくれなくていい。私は絶対に、お兄ちゃんのことは忘れない。忘れたくなんかない。一日だって、忘れないからね。
「ねえ、昨日、こんな服を買っちゃったんだけど……レイナちゃんにピッタリかなって思って」
笑里はセーターとスカート、コートを紙袋から出して、いそいそとソファに並べた。
「レイナちゃん、いつもボロボロの服を着てるでしょ? スカートも履いたことがないみたいだし。もったいないって思うのよね。あんなにキレイなのに。こういう服を着たら、その辺を歩いてる子より、ずっとキレイになると思うの」
裕は複雑そうな表情で、腕を組んだ。
「後、髪ももっとちゃんと整えて、こういうアクセをつければ」
他にも買ってきたものを拡げている笑里を見て、裕はため息をついた。
「笑里、気持ちは分かるけど。あの子が住んでいるのはゴミ捨て場なんだ。ゴミ捨て場でこんなキレイなカッコをしてたら、変に目立ってしまう。レイナにあげるわけにはいかないよ」
「だって、あの子はもっとまともなカッコをするべきだって思わない? あんなに才能があって、あんなにいい子なのに」
「分かるよ。あの子はいつかゴミ捨て場から羽ばたくときがくる。でも、それは今すぐじゃない。あの子がゴミ捨て場から離れたときに、こういうものをプレゼントするべきなんだ。それまでは待とう」
裕が冷静に言い聞かせると、笑里はソファに座り込んだ。
「でも、レイナちゃんが、あまりにも不憫で」
涙ぐんでいる。
裕は隣に腰を下ろし、笑里の肩を抱いた。
「花音が生きてたら、あの子と同じぐらいの年なのに……」
笑里は肩を震わせて泣き出した。
「分かる、分かるよ。僕も何度もそう思っているから。だから、レイナが幸せになれるように、全力で力を貸そう。いつだって、レイナの味方でいてあげよう。それが今の僕らにできることじゃないかな?」
裕は優しくなだめる。
足元ではベルが心配そうに二人を見上げている。
裕の家にレッスンに通うようになり、一カ月が過ぎたころ。
「ヒカリのライブに出てみないか?」と裕に言われた。
最初は「おじさん、おばさん」と二人を呼んでいたが、今は「裕先生、笑里さん」と名前で呼ぶようになった。
三人でパスタを食べながらヒカリのライブの映像を観ていると、裕は話を切り出したのだ。
「この舞台に立って、ヒカリと一緒に歌ってみないか?」
レイナは「私が、ここに出るの?」と目を丸くした。
「ああ、一曲だけでいい。レイナもヒカリの曲が好きだろう? よく歌ってるし。ヒカリもレイナが歌っている映像を観て、一緒に歌いたいって言ってるんだ」
笑里は怪訝な表情で裕を見ている。
「ヒカリが本当にそんなことを言ってるの?」とでも言いたげだ。
「本当に? ヒカリちゃんに会えるの?」
レイナは声を弾ませる。
ヒカリの曲はラジオでもしょっちゅう流れるので、人気があるのはレイナも分かっている。
ポニーテールに結んだ長く艶やかな髪をなびかせながら、ステージを駆け回っている映像を観て、「カッコいいな」とレイナは見とれてしまう。
「ああ。会えるよ。一緒にヒカリの曲を歌えるし」
「それなら、出る!」
レイナの表情はパッと輝いた。
食事が終わり、レイナがキッチンにお皿を運んでいるとき、笑里は声を潜めて聞いた。
「ねえ、大丈夫なの? ヒカリがレイナちゃんを受け入れるとは思えないんだけど」
「まあ、その辺は何とか言い聞かせるよ。今度の新曲もつくってあげたんだし、文句は言えないと思う」
その日、アミは大事そうにレンゲの花を活けたコップを持って、レイナの小屋に向かった。河原にレンゲが咲き誇っているのを見て、摘んできたのだ。
レンゲは、レイナが好きな花だ。毎年、河原でみんなでレンゲを摘み、レイナはアミに髪飾りをつくってくれる。
アミはペンギンのぬいぐるみを脇に挟んで、水をこぼさないように慎重に歩く。
歌のレッスンは、土日は休みだ。今度の土曜日に河原に行こうと伝えたくて、アミはレンゲをプレゼントすることにしたのだ。
アミはレイナの小屋のドアを開けた。
すると、そこにミハルの姿はなく、山田がいた。
山田はミハルのキャリーバッグを開けて中を物色していた。山田と目が合い、アミはその場に凍りつく。
「おや、お嬢ちゃん。何か用かな?」
山田は不気味な笑みを浮かべながら、立ち上がる。
アミが逃げ出そうとすると、山田はすばやく「おっと」とその腕を強くつかんだ。アミは声にならない声を上げる。
「ああ、しゃべれないガキか」
山田はアミの顔をのぞき込んだ。どんよりと曇った瞳が、異様な輝きを放つ。
「勘違いしないでほしいな。おじさんは、おばさんに頼まれて探し物をしてただけだよ」
「んーんー」
アミは激しく頭を振る。
「ん? 違うだろって?」
山田はフッと笑ってからアミの首に右手をかけ、力を込めた。アミの手からコップが滑り落ちる。
アミは苦しくなり、必死で手を外そうとするが、ますます力が加わる。息ができない。顔が真っ赤になり、意識が遠のく。
「ここで見たこと、誰にも言うんじゃねえぞ? な? でないと、もっと苦しい思いをすることになるぞ?」
山田は囁くように言うと、手を緩めた。アミは崩れ落ち、激しく咳き込む。
「ま、言おうにも言えないだろうけどよ」
キャリーバッグを元に戻すと、山田はアミに目もくれず、レンゲを踏みつけて小屋を出て行った。
アミは床にへたり込んで震えていた。
無残に踏みにじられたレンゲを手に取り、「うー……」と嗚咽を漏らす。