「それじゃ、スタジオを案内するわね」
 リビングを出て、笑里は地下の階段を降りて行った。レイナは後をついていく。
 スタジオに入ると、そこには大きな木目調のピアノが置いてあった。
「これ、ピアノ?」
 レイナが目を丸くすると、「そうよ。グランドピアノって言うの」と笑里は蓋を開け、椅子に座った。
 それから、おもむろに曲を弾きはじめた。
 ブラームスのワルツ第15番。2分ぐらいの短い曲だが、優雅なメロディを叙情豊かにピアノは奏でる。
 いつの間にかレイナの目から涙がこぼれ落ちた。
 笑里は曲を弾き終わり、顔を上げると、レイナがボロボロ涙をこぼしているのを見て驚いた。

「どうしたの? お腹でも痛くなった?」
「違うの」
 レイナは大きくかぶりを振る。
「こんな、きれいな曲聴くの、初めてで」
 しゃくりあげながら、レイナは袖口で涙をぬぐう。
「あらあ」
 笑里は感激したように口に手を当てた。
「私よりも、裕のほうがよっぽど上手なのよ」とティッシュをくれる。

 レイナが泣き止むのを待つと、「それじゃあ、レッスンを始めましょう」と明るい声を出す。
「まずは、ウォーミングアップから。私と同じように声を出してくれるかしら」
 笑里に合わせて、「アアアアア」「マママママ」と発声練習をする。
 1時間も練習すると、レイナはさすがにクタクタになった。 

「どんな感じ?」
 裕が顔をのぞかせた。
「そうね、喉を使わないで歌えてるから、ビックリした。どうやってできるようになったの?」
 笑里に聞かれても、レイナは首を傾げるだけだ。
「自然と出来るようになったんなら、どうやってできたのかなんて、分からないだろうね」
「普段は、どれぐらい歌を歌ってるの?」
「毎日。洗濯してるときとか、料理を作ってるときとか。歌ってると、ゴミ捨て場じゃない別の場所に行ける気がするんだ。だから、トラックに負けないように歌うの」
 レイナの言葉に、二人は「そう」としか答えられなかった。

 レイナは、壁に飾ってある写真を見て、「これ、おじさんとおばさん?」と聞いた。
「そう。若いころの私達よ」
「ふうん」
 裕と笑里の間には、2、3歳の女の子が立っている。裕と笑里は幸せそうに笑い、女の子は笑里の足にしがみついて、カメラのほうを見ている。
「この子は、おじさんとおばさんの子?」
 裕は「そうだよ」とうなずいた。
「今はどこにいるの?」
「君の大事なタクマお兄さんと一緒のところかな」
 レイナはハッとして裕の顔を見た。
「音楽の神様でも、病気の子供を救ってあげることはできなかったんだ。あのころは、毎日神様に祈ったのにね」
 笑里を見ると、目のふちをそっと拭っている。

 ――こんなに大きな家に住んで、魔法のような暮らしを送っているのに、悲しいことからは逃げられないんだ。

 レイナはバレッタをそっとなでた。

 その日のレッスンの最後に、裕に「あの曲を歌ってくれないかな」とリクエストされた。
 レイナはきょとんとする。
「ホラ、僕がゴミ捨て場に行ったときに、ピアノで弾いた――」
「ああ、『小さな勇気の歌』」
「小さな勇気の歌。素敵な名前をつけたのね」
 レイナは一呼吸おいてから、歌いだした。
 いつもよりも声が出やすい。気持ちいい。レイナはゴミ捨て場で歌っているときのような感覚で、体中から声を出した。
「――すごいな」
 聞き終えた後、裕は感嘆の息を漏らした。
「ええ。プロのオペラ歌手でも、最初からここまでの声量はなかなか出せないわよ」
 笑里も頬を紅潮させていた。

「ねえ、レイナちゃん。もっとレッスンを受けてみない? 毎日でもいいわよ。うちに通って来ない?」
 笑里は興奮しているが、レイナはどう答えたらいいのか分からない。
「私は毎日でも歌いたいけど……ママに聞いてみないと」
「分かった。送って行ったときに、お母さんに相談してみよう」
 裕は何かを決意したような表情で言った。