その後のことは、よく覚えていない。
気がつくと、毛布にくるまれたタクマの遺体を、みんなで見下ろしていた。大人たちが、小屋まで遺体を運んだのだろう。あたりはすっかり暗くなっている。
マヤは、遺体の横でずっと泣き崩れている。
毛布から出ているタクマの顔は、頬がはれ上がり、口元には血がにじんでいる。
それでも、穏やかな死に顔だ。
「お兄ちゃん……?」
レイナはタクマの頬にそっと手を振れる。冷たい。
いつか、レイナの手がかじかんでいたときに、自分の両頬に手を当ててくれた。
「ホラ、温かいでしょ?」
優しく微笑むタクマ。
「起きてよ、お兄ちゃん」
軽く体を揺すって呼びかける。現実感がまったくないので、涙すら出ない。ミハルがレイナの肩を抱きしめてくれた。
「お前、よく来られたな」
ジンのドスの利いた声に、みんなはいっせいにそちらを向いた。ヤスおじさんが、木の影からオドオドした表情でこちらを見ている。
「お前、タクマとトムをほっぽって、逃げたんだろ? よくここに戻ってこられたな」
「すすすみません、オレだって、逃げたくなかったんだけど、多勢に無勢で」
「ヤスおじさんは、自分のお金は取られてないんだよ。『オレは持ってない、あの子が持ってるんだ』ってタクマを指差したから、タクマが狙われたんだ」
トムが泣きはらした目で批難する。
「それで、タクマが殴られてるのに、逃げたのか?」
ジンがゆっくりとヤスおじさんに近寄る。
「いや、だから、オレもまさか、こんなことになるなんて」
「今すぐ、ここを出てけ。そんで、二度とここには戻って来るな。でないと、お前の首をオレがへし折るぞ?」
ヤスおじさんは「ひいっ」と情けない声を上げると、慌てて逃げ出した。途中で木の根に足を取られて、盛大に転んだ。
「タクマを襲ったヤツは、救急車で運ばれたのに」
「ひどいな、あいつらは」
「オレらを人間扱いしてねえんだよ」
大人たちは、口々に怒りの声を漏らす。
灯油を調達したおじさんたちが戻って来た。
「食堂のおじさんとおばさんにもらって来たんだけど……号泣してたよ。あんなにいい子が、なんでって」
おじさんたちは涙を拭う。
ゴミ捨て場で死者が出ても、火葬場には運べない。ここで遺体を燃やすしかないのだ。
「やめて、タクマを燃やさないで!」
マヤはタクマに覆いかぶさる。
「遺体をそのままにしておくと、野良犬が嗅ぎつけて、やってくるから」
マサじいさんは声を絞り出す。
「うちらも、タクマを燃やしたくなんてないんだ……」
「一晩だけ、今晩だけ、一緒にいさせて」
マヤが泣きながら懇願すると、「じゃあ、明日の朝、荼毘にふそう」とマサじいさんはうなずいた。
タクマの傍らにしゃがみこんだままのレイナに、ミハルが優しく語りかける。
「二人だけにしてあげましょ。ね? 明日の朝、最後のお別れの挨拶をしましょ」
今にも目を開けそうなタクマの顔を、レイナは瞬きもせずに見つめていた。
翌朝、小屋の外が騒がしくてレイナは目を覚ました。
眠れなくてミハルがずっとそばについていてくれたのだが、夜明けごろにウトウトしていたらしい。
ミハルがドアを開けると、外はまだ暗く、空には星が光っていた。
「どうしたの?」
「マヤさんが大変なんだ」
その声に、ミハルとレイナは顔を見合わせた。小屋を飛び出すと、霜柱をザクザクと踏みながら走って向かった。
タクマの小屋のまわりに、みんなが集まっている。
中をのぞくと、タクマの遺体の横に、マヤが横たわっていた。
「たぶん、一酸化炭素中毒だろう。換気をしないでストーブを使ってたらしい」
マサじいさんが声を震わせる。
「余分に渡してたパッキンを、全部使ったらしい」
ジンが苦しそうに息を漏らす。
マヤは、タクマの遺体にしがみつくように息絶えていた。
「なんでよ……」
――なんで? なんで? なんで? なんで、こんな目に遭うの?
ミハルがレイナを無言で抱きしめる。
日が昇る前に、川辺に二人の遺体を運んだ。
ゴミ捨て場の住人がみんな集まって、二人の遺体を囲む。
マサじいさんがどこで覚えたのか、お経をあげる。みんなは合掌して聞いている。
あちこちですすり泣く声がした。ルミでさえ、涙を拭っている。
「レイナ、いつか、ここを抜け出そう」
あの夜、約束をしたタクマの声が蘇る。
――なんで? なんで? なんでよ。私たち、何かした? 何もしてないじゃない。なんで、こんな目に。なんで?
「お兄ちゃん」
レイナはしゃがんで、もう一度、タクマの頬に触れた。昨日以上に冷たく感じる。
レイナは頬をなでた。その髪には、タクマからもらったバレッタが輝いている。
「レイナ、もうお別れしよ」
ミハルが涙声でレイナの背中をさする。
レイナは首を横に振る。
――ウソだ。お兄ちゃんは、こんなことで死んだりしない。私を置いていったりしない。
レイナは頬をさすり続けた。そうしていれば、体温が伝わって、タクマは息を吹き返すかもしれない。
「レイナ」
「レイナ、もうやめてあげて」
あちこちから声がかかるが、レイナはやめない。
「レイナ。もうやめよう、ね?」
ミハルがレイナの腕をつかんだ。レイナはミハルの手を振り払う。
――まだだ。まだ足りない。もっと温めなきゃ、もっと、もっと。
ジンが強引にレイナを抱き上げ、タクマから離した。
「すまん、レイナ。もう、二人を逝かせてあげよう」
ジンが優しく言い聞かせる。
マサじいさんが、ポリタンクに入っている灯油を二人の遺体にかけた。その手は震え、目は真っ赤だ。
「やーーーーーー!」
レイナは絶叫する。
――焼かないで、燃やさないで。
「お兄ちゃん、お兄ちゃあん!」
ジンの腕の中で、レイナは激しく暴れる。
「レイナ、レイナ。落ち着け、落ち着け」
「レイナ」
ミハルがレイナの両腕をつかんで、優しく語りかける。
「タクマ君が天国に行くのを見送ろう。ね?」
レイナの目から、大粒の涙がこぼれ落ちる。
――お兄ちゃんが、天国に、行く。
ジンが下ろすと、レイナはへなへなと座り込んだ。声を上げて泣き出すと、ミハルはギュッと抱きしめた。
アミも泣きながらレイナに抱きつく。トムもジンの足にしがみついて大泣きしている。そんな子供たちの姿を見て、大人も涙を止められない。
「レイナ、歌って」
ミハルは涙に濡れた目で、レイナの瞳を見据えた。
「タクマ君に、歌を歌ってあげて。レイナの歌声を聞かせてあげて」
レイナの両頬を手で挟む。レイナは激しく嗚咽を漏らす。
「歌って、レイナ。タクマ君に届くように。タクマ君は、あなたのそばからいなくなるなんてことは、絶対にないから。絶対に、あなたのそばにいるから。これからもずっと見守ってくれているから。だから、歌って、レイナ。声を聞かせてあげて。ね?」
――レイナ、歌って。
ふいに、タクマの声が蘇った。
――もっと、大きな声で。
あの優しい瞳。あの手のぬくもり。あの囁くような声。手をつないで歩いたときに見た背中。振り返るときは、いつも笑顔だった。
もう、戻らない。もう、二度と、戻らない。
レイナはミハルの胸に顔を埋めた。苦しい。息がまともにできない。
「通報される前に、焼かないと」
誰かが言うと、ジンが革ジャンからライターを出し、静かに毛布に近づけた。
ライターをつけようとして、ジンはしばらくためらう。そして、毛布を引っ張り上げて二人の顔を覆った。
ライターをカチカチと鳴らすが、その手は震えて、なかなか火をつけられない。見ると、ジンの目からも、とめどなく涙があふれている。
ようやくライターに火がついて、毛布に近づけると、あっという間に炎は燃え広がった。タクマとマヤは炎に包まれた。
そのとき、背後から一筋の光が差した。
振り返ると、群青の空の端っこから太陽がのぼってきている。夜明けだ。
燃え上がる二体の遺体に、朝陽が降り注ぐ。まるで、天国に導く光のように。
「君に一つの花をあげよう……」
レイナは歌いだした。涙声で、まともに歌えない。
炎に包まれているタクマの姿を見ていられない。目をギュッと閉じると、タクマが笑顔で囁いた。
――歌って、レイナ。
レイナは深呼吸して、息を整えた。
タクマが弾いてくれたピアノのメロディーを思い出す。あの、繊細で優しいピアノの音。
――お兄ちゃん。私、歌うね。
君に一つの花をあげよう
それは勇気という名の花で
君の胸の奥で
決して枯れることなく
咲き続けていくだろう
君と一つの山を越えよう
高く険しく
果てしなく見える山だけど
君と一緒なら
乗り越えることができるんだ
君に一つの声を聞かせよう
たった今
僕の胸の中に生まれた声を
君に伝えるために
僕はここにいるのだと思うんだ
――歌おう。天国に行く、お兄ちゃんに届くように。
レイナは空に向かって、声を張り上げた。
――お兄ちゃん、私、お兄ちゃんと出会えて、一緒にいられて、幸せだったよ。この幸せが、ずっとずっと続くと思ったのに。ずっと、一緒にいられると思ったのに。
もう一度、歌を最初から繰り返す。何度も、何度も。
いつの間にか、すっかり陽はのぼり、河原はやわらかな日差しに包まれていた。
スズメの鳴き声が響き渡る。
まるで、二人が天国に迎えられるのを、祝福しているかのように。
電話の呼び出し音は、やがて留守電メッセージに変わった。
「ハイ、ヒカリです。今は電話に出られませーん。ご用がある方は、メッセージを」
明るい声でメッセージが流れる。西園寺裕は、最後まで聞かずに電話を切った。
「ったく、これで何回目だ?」
スマホをソファに放り出して天井を仰ぐ。
「ヒカリちゃん、また来ないの?」
妻の笑里が紅茶を入れて持って来てくれた。
「ああ。とうとう、来られないっていう連絡すらよこさなくなったよ」
裕は大げさに肩をすくめてみせた。笑里も隣に座って紅茶を飲む。
「ボイストレーニングしないと、声が出なくなるって言ってるのに」
「忙しいんじゃないの? 今は全国ツアーの真っ最中でしょ?」
「だからこそ、だよ。この間のライブを観に行ったら、最後の方は声が出なくなってたから、レッスンをしたほうがいいって言ったのに」
「まあねえ。そういうのは自分で危機感を抱かない限り、やろうって思わないからねえ。音大時代も、うまいのに練習で手を抜いてる人がいたし。天性の才能を持っている人って、できなくなったらどうしようって思わないんじゃないの?」
「もう既に声が出なくなってるから、充分危機感を持たなきゃいけない領域に来てるんだけどね」
「まわりがチヤホヤしちゃってるからねえ。それに、私のレッスンには不満みたいよ。ポップス専門のトレーナーがいいのにって、よく言ってるし」
「そのトレーナーたちと衝突して、さじを投げられたから、笑里に教えてもらおうってことになったのに。笑里だって、ポップスのボイトレを習得してるんだって何度も言ってるんだけどね」
裕はため息をつき、気を紛らわせるためにテレビをつけた。
大画面に、ワイドショーの男性アナウンサーの姿が映し出される。
「次は、今ネットで話題になっている動画です。一週間で再生回数が1億回を超え、世界中で絶賛の嵐が起きています」
画面が切り替わり、河原が映し出された。どうやら、橋の上から誰かがスマホで撮影した動画のようだ。
河原の一角に人だかりができ、その中央では何かを燃やしている。
――たき火をしているのか?
裕が思ったとき、声が聞こえた。
「君に一つの花をあげよう それは勇気という名の花で 君の胸の奥で 決して枯れることなく 咲き続けていくだろう」
少女の歌声だ。最初はやっと聞き取れるぐらいだったが、徐々に大きくなる。
「悲愴の第2楽章?」
笑里がつぶやく。
「いや、似てるけど、違うな。オリジナルのようだ」
撮影者は、途中でズームアップした。大人の姿に交じって、子供の姿も見える。
――顔を写せないってことは……橋からどれぐらい、離れたところで歌ってるんだ?
裕は、いつの間にか身を乗り出していた。
「君と一つの山を越えよう 高く険しく 果てしなく見える山だけど 君と一緒なら 乗り越えることができるんだ」
パワフルで、透明な声。しかも、無邪気な子供の声ではない。喜びも悲しみもすべて知り尽くしたような、深みのある声だ。
画面がスタジオに切り替わる。アナウンサーが「どうです、今の動画、何か分かります?」とコメンテーターたちに問いかけた。
「見ただけではわからないかもしれませんが、かなり離れたところから撮影してるんですね。最初は、投稿した人も、『河原でバーベキューでもしてるのかな』って見てたらしいんです。でも、夜明けにバーベキューをしてるわけないだろうと。で、撮影していると、少女の歌声が聞こえてきて、その声量に驚いた、ということなんです」
「どれぐらい離れてたんですか?」
「100メートルぐらいは離れてたんじゃないかということです」
「えー!? それはあり得ないでしょう。50メートルぐらいじゃないですか?」
「それでもすごいですよ。子供なんですから」
「そもそも、この人たち、何なんですか?」
「近くのゴミ捨て場の住人じゃないかってことです。服装がかなりボロボロだったらしいので」
スタジオでやりとりをしている最中に、画面はまた動画に切り替わる。歌声が流れたので、裕は全身で集中してその声を聴いた。
「この声の子、本当なら、すごいわね」
笑里も感嘆の息を漏らす。
笑里はプロのオペラ歌手だ。ソプラノ歌手で、今は音大で教える傍ら、自宅でボイストレーニングの教室を開いている。
「ああ――この声の子は」
裕は両手を強く握りしめた。
「生まれながらの歌姫かもしれない」
レイナはピアノの椅子に座っていた。
ピアノの持ち主はもうこの世にいない。どんなに待っても、あの音色は聞こえてこない。
つたないけれども、やわらかなピアノの音。あの音を聞いているだけで、どんなに幸せな気分になれたか――。
――一緒にここを出ようって約束したのに。タクマお兄ちゃん、一人でいなくなっちゃうなんて、ひどいよ。
タクマがこの世を去って二週間が経つ。
レイナは何をする気にもなれず、何を食べる気にもなれず、ミハルを随分心配させている。
――何の色も、何の音もない世界にいるみたい……。
レイナはピアノの蓋にうつぶせになった。
――神様、お願い。私、もう何も欲しがらないから。ゴミ捨て場から出られなくていいから。お願いだから、お兄ちゃんを返して。お兄ちゃんさえいれば、もう何もいらないから。
そんな祈りを、もう何回したか分からない。毎晩眠る前も、100回ぐらい祈っている。それなのに、目が覚めると何も変わらない日常があるだけだ。
そのとき、何やら騒がしいことに気づいた。
「ちょっとちょっと、中に入らないで下さいよ!」
「そっちに行ったら危ないから!」
「あの子はどこにいるんですか?」
「知りませんよ、そんなこと!」
大人たちの怒号が、トラックの音に混じって聞こえてくる。
レイナは顔を上げ、しばらく聞き耳を立てたが、すぐに蓋に突っ伏した。
もう、何が起きようと、自分には関係ない。
トムはいきなり何台ものテレビカメラを向けられて、目を白黒させた。
「な、なんだよ、あんたたち」
「僕たちはテレビ局の人間なんだ。テ・レ・ビ。分かるかな?」
「テレビぐらい、知ってるよ」
トムはムッとした。
「この動画の子、歌っている女の子、ここにいるのかな?」
マイクを持った人が、スマホで動画を見せた。スマホからレイナの歌声が聞こえてくる。
「なんだ、レイナのこと? レイナはここにいるよ」
トムが答えると、「どこ? どこにいるの?」「その子に会えるかな」「案内してくれる?」と口々に言われる。
その背後から、作業員たちが「早くどいてくださいよ。こんなところまで入って来たら、危ないじゃないですか」と文句を言っている。
テレビ局の人たちは意に介せず、トムが「こっちだよ」と手招きした方向にゾロゾロとついていく。
「ちょっとお!」と作業員が止めても、誰も振り返らない。
「レイナ!」
トムに声をかけられて、レイナはゆっくり顔を上げる。
「なんかね、テレビの人が、レイナに会いたいって」
「え?」
とたんに、テレビカメラを持った人たちがレイナのまわりを囲んだ。
「あなたがレイナちゃん?」
「この動画の声、あなた?」
スマホを目の前に差し出される。そこに映っているのは、タクマを火葬している光景だ。レイナは小さく叫び声をあげ、顔を覆った。
「レイナ? どうしたの?」
畑仕事をしていたミハルは、異変に気づいて飛んで来た。
テレビカメラがレイナを囲んでいるのを見て、ミハルは息を呑んだ。カメラが自分に向けられ、ミハルはとっさに顔を伏せて背を向けた。
「てめえら。何してんだよ!」
坊主頭で片肘を脱いだ格好の、目つきの鋭い男がミハルの横に立つ。
「その子に何をした?」
ジンは睨みつけながらゆっくりと近寄ってくる。その背中から腕にかけて見事な龍の刺青があるのを見て、みんなは顔を見合わせ、一目散に逃げ出した。
「えー? レイナに話したいことがあるんじゃないの?」
トムが声をかけても、誰も戻ってこなかった。
ミハルはようやく「大丈夫? レイナ」と駆け寄った。
「……お兄ちゃんの、お兄ちゃんのお葬式のときの動画だった」
レイナの言葉に、ジンはトムを睨んだ。
「おいっ、何てものを見せるんだよ!」
「ごめん、レイナに見せると思わなくて」
トムはうなだれた。
「とにかく、帰りましょ」
ミハルが腕をとると、レイナは力なく立ち上がった。
ミハルに支えられながら小屋に帰る姿を見て、「レイナ、どうやったら元気が出るのかな」とトムは言った。
「ムリだろ。大好きな人を失ったんだぞ? あいつがタクマの後を追ったりしないか、それだけが心配だよ」
ジンの言葉に、トムは「後を追うって?」と尋ねた。ジンは何も返さなかった。
その日も、レイナはピアノの前に座っていた。
蓋を開けて、鍵盤をいくつか弾いてみる。小さなくぐもった音がするだけで、タクマが弾いたような音は出ない。
――ピアノ、教わりたかったな。
そのとき、「それは、君のピアノ?」と背後から声がした。
振り返ると、銀髪で髪を一つに結んだ男性が穏やかな笑みを浮かべて立っている。タクマと同じ髪型なので、レイナは一瞬、ドキッとした。
黒いコートは、いかにも高そうな生地で、染み一つついていない。
ゴミ捨て場には、時折ボランティアの人たちが食料や洋服を持って来てくれるが、彼らとはまったく違う世界の住人であることは一目で分かった。
「ピアノ、弾けるのかな?」
男性の問いに、レイナは軽く頭を振った。
「そう。誰が弾いてるの?」
「……タクマお兄ちゃん」
「そう。今日はいないの?」
「お兄ちゃんはもうこの世にいないの。ずっといない」
「そうか……」
男性はゆっくりと近寄って来た。
「君の名前は、レイナって言うのかな? テレビで観たんだけど」
レイナは警戒して身を固くした。
「ごめん、知らないおじさんに突然話しかけられて、戸惑うよね。僕の名前は、西園寺裕。作曲家をやってるんだけど、こんな曲、知らないかな」
裕は低く渋い声で歌った。
レイナはハッと顔を上げた。ラジオでよく聴く曲だ。
「知ってる……」
「そう、よかった。この曲は僕がつくったんだ」
「ピアノで?」
「そうだね、曲をつくるときはいつもピアノを弾きながらつくってる」
「お兄ちゃんと同じだ……。お兄ちゃんもピアノを弾きながら曲をつくってた」
「そう。タクマ君、だっけ。曲をつくってたんだ。どんな曲?」
レイナは唇をキュッと結んだ。
――タクマお兄ちゃんのつくった大切な曲。知らない人になんか、教えられない。
裕はレイナの顔をしばらく見つめてから、
「もしかして、タクマ君が弾いていたのは、こんな曲じゃなかったかな?」
と、レイナの背後から手を伸ばして、右手だけでピアノを弾き出した。
それは、タクマがつくった「小さな勇気の唄」だった。タクマより、もっとなめらかで、美しい音。
レイナは裕の指の動きに見入った。指が長く、滑るように鍵盤の上を動く。
そのとき、「何してるのっ?」と、ミハルの声が響いた。見ると、鋤を持ったミハルが、裕を睨んでいる。
「うちの子に何する気? そこを離れてっ!」
ミハルは鋤を刀のように構えた。裕は慌ててピアノから離れる。
「レイナさんのお母様ですか? 僕は、作曲家の西園寺裕と言います」
ジリジリと近寄るミハルに気圧されながら、裕は自己紹介した。
「西園寺……?」
ミハルは裕の顔を凝視した。
「もしかして、昔、グラミー賞を受賞した……?」
「そうです、ご存知でしたか」
裕はホッとした表情になった。
「テレビでレイナさんの動画を観て、どうしてもご本人に会いたくて、ここまで来たんです」
「テレビで……」
ミハルはようやく鋤を下ろした。
「この三日間、毎日テレビ局の人がここに来るんです。勝手にあちこち撮影して回るから、ホント、迷惑で」
「そうだったんですか。そういう事情とは知らず、驚かせてしまって申し訳ない」
裕は頭を下げる。
レイナはミハルと裕の顔を交互に見比べているしかなかった。
「今日は、お願いがあって来たんです」
裕はミハルの顔をまっすぐに見た。
「レイナさんを一日、貸していただけませんか?」
「え?」
「レイナさんに、ライブにゲスト出演してほしいんです。陣内ヒカリという、今人気のあるアーティストのライブなんですが、そこで一曲だけ歌ってほしいんです」
ミハルとレイナは顔を見合わせた。
「ライブって、何?」
レイナの問いに、「大勢の人が集まる場所で、歌ったり演奏することよ」とミハルは教えた。
「そんな、いきなり大勢の人の前で歌えなんて言われても。この子を見世物にする気はありませんから」
ミハルは強い口調で突っぱねる。
「見世物にする気なんてありません。僕は、レイナさんの歌声を聞いて、どうしてもステージで歌ってもらいたくなったんです。あの声は、多くの人を魅了する声だと思うんです。きっと、世界中の人が感動します」
裕は慌てて弁明した。
「そんなこと、突然言われても」
「それなら、一度、うちに歌のレッスンをしに来ませんか? 私の家内はソプラノ歌手で、自宅で歌のレッスンもしてるんです。家内もレイナさんに会いたがっています。お母様も一緒に、一度うちまで来ていただけませんか?」
ミハルは首を傾げて考え込んだ。
レイナは裕の顔を黙って見つめていた。
――なんだろう。この人のことは、信じてもいい気がする。
「……分かりました。一度だけなら」
「そうですか? よかった」
裕は顔を輝かせた。
「それなら、明日はどうですか? 明日、僕が迎えに来ます」
「随分急ですね」
「他の日でも全然構わないんですが」
ミハルはレイナの顔を見てから、「分かりました。明日でいいです」と答えた。
裕が帰る間際、ミハルはそっと、「あの子は、大好きだった人を亡くしたばかりなんです。ここから離れたほうが、ちょっとは気がまぎれるかもしれません」と、裕に耳打ちした。
裕は黙ってうなずいた。
その日、レイナは生まれて初めて「車」という乗り物に乗った。
裕の車がゴミ捨て場の入り口に止められているのを見て、作業員たちは「あれってベンツじゃね?」「なんで、こんなところに」と口々に言っている。
知らせを受けて管理会社の幹部が飛んできた。
「ここに何か御用ですか? 間違って捨ててしまったものがあるんでしょうか?」
裕に尋ねると、「いえ、人を迎えに来たんです」と柔和な笑みで返した。
「人? 誰ですか?」
その問いに裕は答えなかった。
ゴミ捨て場から出てきたレイナが裕に挨拶したのを見て、作業員たちはポカンとした表情になった。
裕はドアを開けて、レイナに助手席に乗るよう促す。レイナはおっかなびっくり、車に乗り込んだ。
ミハルは「西園寺さんの言うことをちゃんと聞いてね」と窓越しに声をかける。トムとアミも一緒に見送ってくれた。
トムが「オレも街に行きたい」とごねるのを、ミハルは「また今度ね」となだめていた。アミは不安そうな表情で窓に貼りついている。
「大丈夫、夜には帰って来るから」と声をかけても、アミは涙を浮かべながら「あー、あー」とレイナに訴えかける。
レイナはミハルも一緒に行くものだと思っていたが、「私は行かないほうがいい」と裕に託したのだ。
レイナは心細くて行くのをやめようかと思ったが、ミハルは「レイナは街に行くべきだから」と強く勧めた。
レイナは不安そうに、窓越しにミハルの顔を見つめる。
「大丈夫よ、レイナなら一人でも大丈夫」とミハルは励ました。
「西園寺さん、レイナをよろしくお願いします」
ミハルの言葉に、裕は大きくうなずいた。
車が走りはじめると、レイナは遠ざかって行くミハルと仲間に手を振った。
裕が窓を開けてくれる。レイナが身を乗り出すと、トムが全速力で追いかけて来た。
「夜までには戻って来るからあ」と大声で呼びかけると、トムは足を止めて、大きく手を振った。
「あんまり身を乗り出すと、落ちるから」
裕がレイナの服を引っ張る。
「シートベルトを締めて」
「シート……?」
「ああ、そうか」
裕は車を止めて、レイナのシートベルトを締めてあげた。裕からは、今まで嗅いだことのないいい香りがする。
「きつくないかな?」
レイナはコックリとする。
「君は、みんなから愛されてるんだね」
裕はフワッと笑い、車を発進させた。
「――いいのか?」
クロをつれたジンが背後から声をかけた。ミハルは、いつまでもレイナが去ったほうを見て立ち尽くしていた。
「レイナはいつかここから出ていくべきだけど。一緒に行かないつもりなのか?」
ミハルは何も答えず、「さあ、お昼の用意をしよっか」とアミに話しかけた。
「レイナは、あんたまで失ったら、やっていけないぞ?」
ミハルはフッと寂しそうな笑みを浮かべた。
トムが「レイナ、本当に帰って来るんだよね?」と駆けて戻ってきたので、「心配しなくて大丈夫よ」とミハルは言い聞かせる。
トムとアミと手をつないで小屋に戻っていくミハルの後姿を、ジンは見守っていた。
「ここが、僕の家」
裕が車を止めても、レイナは窓から外を見るだけで動けなかった。
――家? 絵本で見た家とは全然違うけれど……。
レイナは、今までゴミ捨て場の小屋しか見たことがない。絵本で、普通の人が住む「家」というものは見ているが、本物を見るのは初めてだ。
ここに来るまでも、レイナにとっては見たことのないものばかりで、「あれは何?」「あれは?」と裕に何十回も尋ねた。
「あれは信号って言うんだ。青は進め、黄色は注意、赤は止まれっていう意味で、青になるまでここで待たないといけないんだ」
「あれはガードレール。車や人がはみださないようにしてるんだ」
裕は嫌がることなく教えてくれる。
街に入ると、行きかう人々がゴミ捨て場の住人とはまったく違う格好をしていることに気づいた。
とくに女の子たちは色とりどりの服に身を包み、髪をキレイに整え、メイクをして、キラキラと輝いて見える。
楽しそうにおしゃべりしながら歩いている女の子たちの姿を見ているうちに、レイナは急に自分の格好が恥ずかしくなった。
古びて黒ずんでいるセーターに、ジーパン。あちこちにつぎをあてている。ミハルが丁寧に繕ってくれて、今まで大事に着てきた服だ。
そんなつぎはぎだらけの服を着ている子は、一人もいない。レイナは、自分は来てはいけないところに来てしまったのではないかと、不安になった。
髪に手をやる。そこにはタクマからもらったバレッタをつけていた。ミハルが髪をとかして、綺麗に見える位置につけてくれたのだ。
――大丈夫。きっと、お兄ちゃんが見守っていてくれる。
裕が助手席のドアを開けて、シートベルトを外してくれた。
「さあ、どうぞ」
促されて外に出るが、レイナは家の大きさに圧倒されていた。
裕の家は、一目で付近の家よりも大きいことが分かる。庭も広々としていて、駆けまわって遊べそうだ。
――こんな大きな家の中に、何があるの?
レイナは怖くなって、踵を返そうとすると、玄関のドアが開いた。
「レイナちゃん? いらっしゃい」
小太りの女性が、笑顔で声をかける。茶色の髪はカールがかかり、街行く女性と同じようにメイクをしている。裕に促されて、レイナは恐る恐る玄関に入る。
「こんにちは」
蚊が鳴くような声で挨拶すると、
「こんにちは、私は裕の妻の笑里です。よろしくね」
と、朗らかな声で答えた。
その足元には、茶色くて毛がフサフサした生き物がレイナを見上げている。
「それは、にゃんこ? わんこ?」
「ああ、この子はね、わんこよ。トイプードルの女の子。ベルって言うの。オペラの神様のヴェルディから名前を取ったの」
「ベル……」
レイナはしゃがんで、ベルの目を見た。
「こんにちは、ベル」
手を差し出すと、ベルはぺろぺろと掌をなめた。
「くすぐった~い」
「あら、もうお友達になれたのね。長時間、車に乗ってたから、疲れたでしょ? まずはお茶でも飲みましょ」
笑里からもいい香りがする。レイナは汚い格好をした自分が家に入るわけにはいかないと、玄関でモジモジしていた。
「さあ、こっちへどうぞ」
笑里は手を差し伸べてくれた。促されるまま、レイナはスリッパを履く。
そのスリッパはフカフカの感触で、レイナはとっさに足を引っ込めた。
そんなスリッパを今まで履いたことがない。
ゴミ捨て場に捨てられているスリッパは、布地がペラペラになったものや、プラスチックでできているものばかりだ。
「それは君のスリッパだから、履いていいんだよ」
裕に言われて、恐る恐る足を入れた。温かい。レイナは2、3歩歩いてみる。
「うちはカーペットを敷いてないからね。スリッパを履いてないと、足が冷たいんだ」
裕は洗面所に案内して、手を洗うようにすすめた。裕が蛇口の下に手を差し出すと、水が自動で出たのでレイナは目を丸くした。
――お兄ちゃんが、魔法のような家があるって言ってたけど、これのこと?
レイナは何回か手を差し出して、引っ込めてみた。
そのつど、水が出たり止まったりするので、「すごい、すごーい!」とはしゃぐ。裕はその様子を苦笑しながら見つめていた。
リビングに足を踏み入れると、その広さに圧倒された。
「絵本で見たお城みたい」
レイナがつぶやくと、笑里はソプラノの声でコロコロと笑った。
「ありがとう。住んでいるのはお姫様と王子様には程遠いけどね」
笑里と裕はソファに座り、レイナにも座るように勧めた。
青い皮でできた、大きなソファー。レイナはためらった。
「どうしたの?」
「私が座ったら、汚しちゃうかもしれない」
「そんなこと、気にしなくていいの! このソファ、ベルがかじってあちこち穴が開いてるでしょ? 私も食べ物をこぼすことがあるから、そんなにキレイじゃないのよ」
レイナはおずおずと端っこに座った。
テーブルには紅茶のセットとクッキーが並べてある。
「紅茶を入れたんだけど……飲めるかしら?」
「砂糖とミルクを入れたほうがいいんじゃないかな」
笑里は紅茶に砂糖とミルクを入れて、レイナに差し出した。
「お昼はレッスンの後で食べましょうね。このクッキー、おいしいから食べてみて」
笑里にバスケットを差し出されて、レイナは1枚取って食べてみた。
「――おいしい!」
こんなにおいしいお菓子は初めて食べた。思わず2、3枚続けて食べると、「そうそう、好きなだけ食べてね」と笑里は微笑む。
ミルクティーも甘さが程よく、体にじんわりと染み渡る。
「こんなおいしいの、初めて」というと、お代わりを入れてくれる。
「このクッキー、ママにもあげたいな」
つぶやくと、「それなら、お土産に持って帰って。たくさんあるから、みんなにもあげてね」と笑里は言った。
ベルはおとなしく、笑里の足元で寝転んでいる。
「その髪留め、きれいね」
褒められて、レイナはバレッタに手をやる。
「お母さんに買ってもらったの?」
「ううん、タクマお兄ちゃんに誕生日にもらったの」
タクマという人物が亡くなっているということを、裕から聞いているのだろう。
笑里は「そう、きれいね。あなたの髪の色に似合ってる」と言い、それ以上詮索しなかった。
笑里は自分がオペラ歌手をしていること、海外に留学していたこと、音大で生徒に教えていることなどを話してくれた。
「オペラって聞いても、分からないわよね」
レイナがうなずくと、「そう思って、私が歌っている映像を用意しておいたの」と、笑里はテレビをつけた。
ローボードの上にあるテレビをつけたとき、レイナは驚いて目を見張った。
「あれ、何?」
「ああ、テレビを観るのは初めてかな」
「あれもテレビなの? ゴミ捨て場の食堂で見たことあるけど、こんなに大きくなかったよ」
「食堂?」
「働いてる人たちが食べる場所」
「ああ、なるほどね。食堂だったら、小さなテレビしかないだろうね」
自分の顔よりも大きい人が映っているので、レイナは釘付けになった。
画面が切り替わり、どこかのホールが映し出された。
ステージの真ん中で歌っているのは、笑里のようだ。髪をアップにし、真っ赤なドレスに身を包んで、ホール中に響き渡る声で歌っている。
「これは20年前の映像だから、若いんだけどね」
「今よりも痩せてるしな」
「そういうことは言わないように。お互い様でしょ、おじさん」
二人が軽口を叩いている横で、レイナは真剣に映像に見入っていた。
――すごい、こんなに声が出るんだ。
軽やかで透明感のある高音。同時に力強い声でもある。
歌詞の意味はまったく分からないが、胸に迫るものがあった。歌に導かれるように、オーケストラも熱演している。
「オペラは日本語じゃないから、意味が分からないかもしれないけど」
笑里は話しかけながら、レイナが熱心に見ている姿を見て、口をつぐんだ。裕もレイナの表情をじっと見つめる。
曲が終わり、観客が拍手を送ると、レイナも思わず拍手した。
「すごい、すごいっ、あんなに高くて、キレイな声を出せるなんて」
レイナが興奮していると、二人は嬉しそうに顔を見合わせた。
「もっと見てみる?」
笑里が問うと、レイナは大きくうなずいた。
それから30分ぐらい、レイナは笑里の動画を堪能した。
「あんな風に声を出せたら、気持ちいいだろうな」
レイナはうっとりした様子で、ため息を漏らした。
「あなただって、あんな風に歌えるようになるのよ。レッスンすればね」
「それじゃ、スタジオを案内するわね」
リビングを出て、笑里は地下の階段を降りて行った。レイナは後をついていく。
スタジオに入ると、そこには大きな木目調のピアノが置いてあった。
「これ、ピアノ?」
レイナが目を丸くすると、「そうよ。グランドピアノって言うの」と笑里は蓋を開け、椅子に座った。
それから、おもむろに曲を弾きはじめた。
ブラームスのワルツ第15番。2分ぐらいの短い曲だが、優雅なメロディを叙情豊かにピアノは奏でる。
いつの間にかレイナの目から涙がこぼれ落ちた。
笑里は曲を弾き終わり、顔を上げると、レイナがボロボロ涙をこぼしているのを見て驚いた。
「どうしたの? お腹でも痛くなった?」
「違うの」
レイナは大きくかぶりを振る。
「こんな、きれいな曲聴くの、初めてで」
しゃくりあげながら、レイナは袖口で涙をぬぐう。
「あらあ」
笑里は感激したように口に手を当てた。
「私よりも、裕のほうがよっぽど上手なのよ」とティッシュをくれる。
レイナが泣き止むのを待つと、「それじゃあ、レッスンを始めましょう」と明るい声を出す。
「まずは、ウォーミングアップから。私と同じように声を出してくれるかしら」
笑里に合わせて、「アアアアア」「マママママ」と発声練習をする。
1時間も練習すると、レイナはさすがにクタクタになった。
「どんな感じ?」
裕が顔をのぞかせた。
「そうね、喉を使わないで歌えてるから、ビックリした。どうやってできるようになったの?」
笑里に聞かれても、レイナは首を傾げるだけだ。
「自然と出来るようになったんなら、どうやってできたのかなんて、分からないだろうね」
「普段は、どれぐらい歌を歌ってるの?」
「毎日。洗濯してるときとか、料理を作ってるときとか。歌ってると、ゴミ捨て場じゃない別の場所に行ける気がするんだ。だから、トラックに負けないように歌うの」
レイナの言葉に、二人は「そう」としか答えられなかった。
レイナは、壁に飾ってある写真を見て、「これ、おじさんとおばさん?」と聞いた。
「そう。若いころの私達よ」
「ふうん」
裕と笑里の間には、2、3歳の女の子が立っている。裕と笑里は幸せそうに笑い、女の子は笑里の足にしがみついて、カメラのほうを見ている。
「この子は、おじさんとおばさんの子?」
裕は「そうだよ」とうなずいた。
「今はどこにいるの?」
「君の大事なタクマお兄さんと一緒のところかな」
レイナはハッとして裕の顔を見た。
「音楽の神様でも、病気の子供を救ってあげることはできなかったんだ。あのころは、毎日神様に祈ったのにね」
笑里を見ると、目のふちをそっと拭っている。
――こんなに大きな家に住んで、魔法のような暮らしを送っているのに、悲しいことからは逃げられないんだ。
レイナはバレッタをそっとなでた。
その日のレッスンの最後に、裕に「あの曲を歌ってくれないかな」とリクエストされた。
レイナはきょとんとする。
「ホラ、僕がゴミ捨て場に行ったときに、ピアノで弾いた――」
「ああ、『小さな勇気の歌』」
「小さな勇気の歌。素敵な名前をつけたのね」
レイナは一呼吸おいてから、歌いだした。
いつもよりも声が出やすい。気持ちいい。レイナはゴミ捨て場で歌っているときのような感覚で、体中から声を出した。
「――すごいな」
聞き終えた後、裕は感嘆の息を漏らした。
「ええ。プロのオペラ歌手でも、最初からここまでの声量はなかなか出せないわよ」
笑里も頬を紅潮させていた。
「ねえ、レイナちゃん。もっとレッスンを受けてみない? 毎日でもいいわよ。うちに通って来ない?」
笑里は興奮しているが、レイナはどう答えたらいいのか分からない。
「私は毎日でも歌いたいけど……ママに聞いてみないと」
「分かった。送って行ったときに、お母さんに相談してみよう」
裕は何かを決意したような表情で言った。
「レイナさんを、プロの歌手として育てさせてくれませんか」
裕の言葉に、ミハルは目を見開いた。
その日、レッスンを終えてレイナがゴミ捨て場に戻って来たのは夕方の6時を過ぎていた。辺りはすでに真っ暗になっている。
レッスンで疲れ果てたレイナは、車の中で眠りこけていた。
「今日一日レッスンをして、レイナさんの声の素晴らしさには、私も家内も圧倒されるばかりで……このまま埋もれさせておくのは、もったいない。レイナさんの声に、きっと世界中が感動すると思うんです。そういう力を、彼女の声は持っている。今まで何十人もの歌手と出会って来たけれど、こんなに心打たれたのは初めてなんです」
裕は興奮する思いを隠しきれないようで、大げさな身振りで熱弁をふるう。
一緒に迎えに来たアミは、心配そうにミハルを見上げる。
ミハルはすぐに覚悟を決めたようだ。
「分かりました。レイナがそれを望んでいるのなら、私は止める気はありません」と一言一言、自分に言い聞かせるように言った。
「あの子をよろしくお願いします」
ミハルが深々と頭を下げる。
裕は慌てて「頭を上げてください。お願いするのはこちらなんですから」と制した。
「あの子は、いつかここから出て行かなくてはならないんです。その手助けをしていただけるのなら、私は」
ミハルはそこで言葉を切った。その目にはうっすらと涙が浮かんでいる。
「ただいまあ。いっぱい眠っちゃったあ」
目覚めたレイナが、車から降りてきた。
「分かりました。私たちで必ず、レイナさんをプロに育ててみせます。私たちに任せていただけて、感謝します」
裕はミハルに丁寧に頭を下げた後、「それじゃあ、明日も同じ時間に迎えに来ます」と言った。
車が走り去っていくのを、三人はしばらく見送った。
「ねえ、本当にいいの? 毎日、歌のレッスンに行って」
レイナが聞くと、ミハルは大きくうなずいた。
「でも、洗濯とか、お料理とか、マサじいさんのお手伝いとか」
「それはみんなで手分けしてやるわよ。ねえ、アミ?」
アミに問いかけると、アミは悲しそうに「あー……」とレイナの手を握る。
「レイナと一緒にいられないのが寂しいんでしょうね」
「大丈夫だよ、毎日帰って来るんだから」
レイナは手を握り返した。