レイナはピアノの椅子に座っていた。
 ピアノの持ち主はもうこの世にいない。どんなに待っても、あの音色は聞こえてこない。
 つたないけれども、やわらかなピアノの音。あの音を聞いているだけで、どんなに幸せな気分になれたか――。

 ――一緒にここを出ようって約束したのに。タクマお兄ちゃん、一人でいなくなっちゃうなんて、ひどいよ。
 
 タクマがこの世を去って二週間が経つ。
 レイナは何をする気にもなれず、何を食べる気にもなれず、ミハルを随分心配させている。

 ――何の色も、何の音もない世界にいるみたい……。
 レイナはピアノの蓋にうつぶせになった。

 ――神様、お願い。私、もう何も欲しがらないから。ゴミ捨て場から出られなくていいから。お願いだから、お兄ちゃんを返して。お兄ちゃんさえいれば、もう何もいらないから。

 そんな祈りを、もう何回したか分からない。毎晩眠る前も、100回ぐらい祈っている。それなのに、目が覚めると何も変わらない日常があるだけだ。
 
 そのとき、何やら騒がしいことに気づいた。
「ちょっとちょっと、中に入らないで下さいよ!」
「そっちに行ったら危ないから!」
「あの子はどこにいるんですか?」
「知りませんよ、そんなこと!」
 大人たちの怒号が、トラックの音に混じって聞こえてくる。
 レイナは顔を上げ、しばらく聞き耳を立てたが、すぐに蓋に突っ伏した。
 もう、何が起きようと、自分には関係ない。


 トムはいきなり何台ものテレビカメラを向けられて、目を白黒させた。
「な、なんだよ、あんたたち」
「僕たちはテレビ局の人間なんだ。テ・レ・ビ。分かるかな?」
「テレビぐらい、知ってるよ」
 トムはムッとした。
「この動画の子、歌っている女の子、ここにいるのかな?」
 マイクを持った人が、スマホで動画を見せた。スマホからレイナの歌声が聞こえてくる。
「なんだ、レイナのこと? レイナはここにいるよ」
 トムが答えると、「どこ? どこにいるの?」「その子に会えるかな」「案内してくれる?」と口々に言われる。
 その背後から、作業員たちが「早くどいてくださいよ。こんなところまで入って来たら、危ないじゃないですか」と文句を言っている。
 テレビ局の人たちは意に介せず、トムが「こっちだよ」と手招きした方向にゾロゾロとついていく。
「ちょっとお!」と作業員が止めても、誰も振り返らない。

「レイナ!」
 トムに声をかけられて、レイナはゆっくり顔を上げる。
「なんかね、テレビの人が、レイナに会いたいって」
「え?」
 とたんに、テレビカメラを持った人たちがレイナのまわりを囲んだ。
「あなたがレイナちゃん?」
「この動画の声、あなた?」
 スマホを目の前に差し出される。そこに映っているのは、タクマを火葬している光景だ。レイナは小さく叫び声をあげ、顔を覆った。

「レイナ? どうしたの?」
 畑仕事をしていたミハルは、異変に気づいて飛んで来た。
 テレビカメラがレイナを囲んでいるのを見て、ミハルは息を呑んだ。カメラが自分に向けられ、ミハルはとっさに顔を伏せて背を向けた。

「てめえら。何してんだよ!」
 坊主頭で片肘を脱いだ格好の、目つきの鋭い男がミハルの横に立つ。
「その子に何をした?」
 ジンは睨みつけながらゆっくりと近寄ってくる。その背中から腕にかけて見事な龍の刺青があるのを見て、みんなは顔を見合わせ、一目散に逃げ出した。
「えー? レイナに話したいことがあるんじゃないの?」
 トムが声をかけても、誰も戻ってこなかった。

 ミハルはようやく「大丈夫? レイナ」と駆け寄った。
「……お兄ちゃんの、お兄ちゃんのお葬式のときの動画だった」
 レイナの言葉に、ジンはトムを睨んだ。
「おいっ、何てものを見せるんだよ!」
「ごめん、レイナに見せると思わなくて」
 トムはうなだれた。

「とにかく、帰りましょ」
 ミハルが腕をとると、レイナは力なく立ち上がった。
 ミハルに支えられながら小屋に帰る姿を見て、「レイナ、どうやったら元気が出るのかな」とトムは言った。
「ムリだろ。大好きな人を失ったんだぞ? あいつがタクマの後を追ったりしないか、それだけが心配だよ」
 ジンの言葉に、トムは「後を追うって?」と尋ねた。ジンは何も返さなかった。