レイナには官邸前の騒動は伝わっていなかった。
レイナは、ようやく日本に戻ってファンの前で歌える喜びで満ち溢れていた。
一曲目から全身全霊で歌い、中盤になってもそのパワーは一向に衰えない。ダンサーやバックコーラスとの息もピッタリだ。トムもステージを跳ねまわってダンスで華を添える。
「一か月前には、声が出なかったのに。前よりパワフルになった感じ」
笑里は驚きを隠せない。
「ああ。何か解き放たれた感じだな」
裕も嬉しそうにうなずく。
会場にはマサじいさんや、レイナと一緒にゴミ捨て場に住んでいた住人の姿がチラホラと見える。
マサじいさんは、泣きっぱなしだ。
「レイナ、立派だ。こんなに立派になって」
何度もつぶやきながら、噛みしめている。
その隣で、茜が「レイナちゃん、最高ー!」と汗だくになって叫んでいた。
途中で、アリソンも何とか会場にたどり着いて、スティーブと合流する。
「So great!」
アリソンは会場の熱気とレイナのパフォーマンスに感嘆する。
「そうさ。レイナのライブはとびきり最高なんだ」
「あんな小さな女の子なのに……」
アップテンポの曲ではみんなが踊りまくり、バラードではハンカチやタオルを握りしめて聞きほれる。会場の外でも、その一体感は生まれていた。
今、みんなの心は一つになっていた。
「えー、あっという間にラストの曲になってしまいました」
レイナが息ぎれしながら語りはじめると、会場中から「えー!」「ウソ~!」「終わりなんてイヤ~!」と声が上がる。
「ありがとう。でも、ホントはラストじゃなくて、アンコールがあるからね」
レイナが正直に話すと、観客はドッと沸く。
そこに、笑里とアンソニーが袖からケーキを運んで来た。淡いピンク色のホールケーキには、15本のろうそくが立っている。
「わあ、おいしそう!」
レイナは手を叩いて喜ぶ。
「さ、みんな、歌って、歌って!」
アンソニーが促すと、観客は手拍子をしながらハッピーバースデイの曲を歌う。
「♪ハッピーバースデイ、ディア、レイナ。ハッピーバースデイ、トゥーユー♪」
レイナは一気にろうそくを吹き消す。観客はわあっと盛り上がる。
「ケーキは後でね。ちゃんとレイナの分も取っとくから」
アンソニーが軽くウィンクをして、ケーキを下げた。
「みんな、ありがとう! 今日は、私にとって特別なライブです。誕生日だってことだけじゃなくて、今、ママが闘ってるから。官邸ってところで、ママたちは今、一生懸命、声を上げて、この国を変えようとしてます。
私には難しいことは分からないけど、私のようにゴミ捨て場で生まれて育った人や、路上で暮らす人をなくすために、闘ってるんだって聞きました。私もそんな世の中になってほしい。みんなが街で暮らせるようになってほしい。
そのためには、おとなしく待っていたらダメで、誰かが国の偉い人と闘わなきゃいけないんだって。だから、今日のライブは、ママと、ママと一緒に闘っている人たちに聞いてもらいたかったの」
大きな拍手が起きた。
「オレも闘ってるよー!」
「私もー!」
あちこちで声が上がる。
「うん、そうだね。私をここに入れるために、みんな闘ってくれた。そういう、嫌なことをされても負けない姿を見せるのが大事なんだって、スティーブは話してました」
話しているレイナの背後に、ピアノが運び込まれた――タクマのピアノだ。
「最後に歌うのは、闘っている人たちに捧げたい曲です。みんなもきっと、毎日闘ってる。そうでしょ? 会社とか学校で、嫌なことがいっぱいあって、泣いちゃうこともたくさんあって。それでも、毎日、朝になったらベッドから起きる。それだけでも、すごいことだって思うんだ。
でも、どうしようもなく苦しかったり、くじけそうになることもあるでしょ? そんなときに、私はみんなの味方だって思い出してほしいの。世界中が敵に回っても、私はみんなの味方でいるよ。
この曲を思い出したら、この曲を歌ったら、きっと、勇気が出るんじゃないかなって思うの。私も、この曲から勇気をもらったから」
レイナはピアノの前に座り、ゆっくりと蓋を開けた。ポロンポロンと音を確かめる。
見上げると、一筋のスポットライトがレイナを包んでいる。
レイナは、『小さな勇気の唄』の前奏を弾きはじめる。弾きながら、語りはじめた。
「私が生まれた15年前の夜、その日は流れ星が降り注いだって聞きました。その話を繰り返し私にしてくれたのは、マサじいさん。その夜はふたご座流星群がピークだったみたいで、ゴミ捨て場のみんなで、『この赤ちゃんが幸せになりますように』って、何度も流れ星に願ったんだって言ってました。だから、私は強運なんだって。歌姫になるために生まれてきたんだって、マサじいさんはいつも言ってくれました」
そこで言葉を切ると、歓声と拍手が起きる。
マサじいさんは感激でむせび泣き、ゴミ捨て場の住人からなぐさめられている。
「ありがとう。こんなに大きな舞台で、こんなに大勢のみんなから声援を送ってもらえるなんて、本当に夢みたいです。今も、毎日想ってるの。朝目覚めたら、ゴミ捨て場の家に戻ってるんじゃないかって……これは夢なんじゃないかって。
だけどね、ゴミ捨て場の世界が最悪だったってわけじゃないの。仲間がたくさんいて、みんな優しくて、ママもいつも一緒で……大切な日々だった、本当に。あの頃に戻れたらって、たまに思うこともあるぐらい、大切な場所だったの。みんなにも、そういう場所、あるでしょ?」
レイナの脳裏にタクマの笑顔が蘇る。
タクマと一緒に駆けまわった、あの春、あの夏、あの秋、あの冬。いつも、手が届く距離にいてくれて。二人でたくさん、夢を語り合った。
「ごめんなさい、思い出したら、涙が出てきちゃった」
手を止めて、涙を手の甲で拭う。
「だって、ほんの2年前まで、私はあそこにいたの。ゴミ捨て場が、私の生きる場所だったの。ずっと、ずっと。私がゴミ捨て場にいたことは、今まで何度もインタビューで話してきたし、みんなも知ってると思う。でも、最後の歌に入る前に、その話をしてもいいですか? 今日は話したい気分なの」
静かな拍手が起きた。客席は、すぐにシンと静まる。レイナの言葉を、一言も聞き漏らすまいとみんなが耳をそばだてている。
「ありがとう。それじゃあ、話します。何から話そうかな……。とりとめのない話になっちゃったら、ごめんなさい。 私は、ゴミ捨て場で生まれて、ゴミ捨て場で生きてきました」
野々村はこめかみに流れ落ちる汗をぬぐった。
真冬だと言うのに、体中が熱い。それなのに、歯はガチガチと鳴り、指は震える。荒い息を鎮めようとしても、ますます息苦しくなるだけだ。
野々村と片田は屋上に出ていた。野々村はMP5というライフルの照準器を覗いている。照準器の向こうに、美晴がチラチラと見えた。
機動隊の攻撃から逃げていた人たちが、徐々に戻ってきつつある。再び、美晴を中心に声を上げはじめていた。
機動隊も数で圧倒されているので、これ以上どうやって防げばいいのか、困惑しているようだ。門の内側まで下がってしまった。
「もう8時は過ぎてんのに。ムダだよ、ムダ」
片田は抑揚のない声でつぶやく。
「わめいてばっかの、うるさい虫けらどもめ」
美晴は傘をさして動き回っているので、なかなか狙いを定められない。
「何やってんだ! 早く撃ちなさいよ!」
片田が背後で苛立った声を上げる。
「傘ごと撃てばいいじゃないか!」
「うるさい、静かにしろっ!」
野々村は思わず、片田を怒鳴りつける。その勢いに気圧されて、片田は黙る。
「集中できないので、静かにしてもらえませんか」
言い直した野々村の声は震えていた。
シュプレヒコールに混じって、歌声が聞こえてくる。
野々村は照準器から目を離さずに、その歌に耳を傾けた。
――レイナの歌か。うちの綾乃が好きな歌手だな。家でよく歌ってる。
デモ隊の熱気は、屋上のここまで伝わって来る。機動隊に攻撃されて、さぞ怖い思いをしているだろう。それでも、みな必死の形相で、世の中を変えたくて訴えかけている。
――闘うって言うのは、ああいうことなんだ。
そう思ったとたん、野々村は全身が震えはじめた。
――オレ、何してんだ、こんなところで。あの人たちを撃つ気なんて、ホントはないのに。早く家に帰りたい……家に帰って、翔の顔を見たい……。あいつ、昨日は夜泣きが激しくて、綾乃も全然寝てなかったよな。今日はオレが、寝かしてやらなきゃ。綾乃を休ませないと。
なぜか涙が一筋流れる。
美晴がこちらを向いた。人に押されて、傘を落としてしまう。
野々村には、すべてがスローモーションで見えた。
引き金にかけていた指を、一気に引く。
一発の銃声が夜空に響いた。
美晴は衝撃を受けて横に倒れた。
――何? 催涙弾が当たった?
うっすらと目を開けると、誰かが自分に覆いかぶさっている。
その顔を見て、美晴は驚きの声を上げた。
「ジンさん?」
「……やあ、久しぶり」
ジンは荒い息をしながら、ニヤリと笑う。
「来るのが遅くなっちゃって、すまんな。もっと早くに来たかったんだけど」
そこまで言うと、ジンはうめき声をあげた。
「ジンさん? どうしたの? どこか痛いの?」
美晴は混乱して寝転がったまま、ジンを見上げる。
「いや、大丈夫だ。それより、すげえな。こんなド派手なことをするなんて」
ジンはハハハッと笑い声を上げる。
「カッコいいよ、美晴さん」
千鶴がジンの背中を見て悲鳴を上げた。
「血、血が出てる!」
陸も目を見開いている。
「撃たれてる……!」
「えっ?」
美晴が驚いて起き上がろうとするのを、ジンは押しとどめた。
「起き上がらないほうがいい。やつらに狙われるから」
ジンの袖口から血が流れ出て、道路にみるみる血の海が広がっていく。
「……っ! ジンさん、ジンさん、血がっ」
「大丈夫だ、かすり傷だ」
ジンはニイッと笑顔を見せる。
「レイナも、日本に戻って来たぞ。あいつは、美晴さんがいない間も、必死で闘ってたんだ。ずっと、ずっと。どんなに、ひどいことをされても、あきらめなかった。偉いよ。さすが、美晴さんの、子、だな」
「き、救急車、救急車!」
「血を止めなきゃ、誰か!」
撃たれたジンの姿を見て、全速力で逃げていく者もいれば、硬直して動けない者もいる。
ジンはやがて、美晴の横に崩れ落ちた。
「ジンさん!」
千鶴が「血を止めなきゃ!」と首に巻いていたマフラーを背中の傷口に押し当てる。
「ジンさん、しっかりして! ジンさん!」
ジンはギュッと目をつぶり、苦しそうに息をしている。美晴の頬に涙が伝った。
「うおおーーー!」
そのとき、陸が雄たけびを上げて、門の前に立ちふさがっている機動隊に突進した。
たちまち機動隊につかまえられて地面に組み伏せられる。だが、陸に続いて、次々とデモ隊が突進した。機動隊も防ぎきれない。
とうとう機動隊の壁は崩壊し、官邸に人がなだれ込む。
陸をつかまえていた機動隊は何人もの仲間から傘や棒で殴られ、たまらずに陸を離す。陸は体を起こすと、「ちっくしょー!」と叫びながら門に駆け込んだ。
美晴がジンの手を握ると、急速に冷たくなっていく。まるで、あのときの怜人のように。
その時、どこかから曲が聞こえて来た。
――この曲は、レイナの……。
「レイナ、歌って」
美晴は震えながら、つぶやく。
「お願い、レイナ、あの歌を歌って」
「――タクマお兄ちゃんと、一緒にゴミ捨て場を抜け出そうって約束しました。それが、2年前の誕生日。私が15歳になったら、街に行こうって。それまでにお金を貯めるって。そんな話をしてすぐに、タクマお兄ちゃんはいなくなってしまいました。私の目の前で、トラックに轢かれて。私は今日、あのときのタクマお兄ちゃんと同じ歳になりました」
ピアノを弾きながら、レイナは語り続けていた。
会場のあちこちから、すすり泣く声が聞こえてくる。
「私はその後、裕先生と笑里さんと出会って、ヒカリさんのライブに出て。それからはあっという間に歌手になりました。歌手になって、世界中を旅して、みんなとこうやって、ライブで会えるようになって」
「レイナ―!」
「私はここにいるよー!」
観客が声をかける。あの二人組の女の子も、号泣しながら「レイナあ」と一生懸命手を振っている。
「私ね、幸せだって思う。いつも、まわりには大勢の人がいてくれて。こんなにキレイなカッコをして、おいしいものもたくさん食べられるし、ふかふかのベッドで眠れるし。でも、寂しい。お兄ちゃんに会えないのが、いつも寂しい……」
レイナはそこでフウと息を吐き、天井を見上げる。
スポットライトの光。それはまるで、タクマを送り出す日に見た、一筋の朝陽のようだった。
「いつも思うの。お兄ちゃんと一緒に街に出てたら、どうなってたのかなって。きっと、貧しい生活だったけど、二人でいられたら幸せだったって思う。だけど、お兄ちゃんにはもう会えない。どんなに祈っても、願っても、お兄ちゃんは生き返らない。だから、私は歌うの。お兄ちゃんが作ってくれた歌を。そのときだけ、お兄ちゃんとつながれる気がするから」
そこで手を止めた。
「世界中の人がみんな、幸せになれますように。大切な人と一緒にいられたら、それだけで幸せだってこと、奇跡なんだってこと、みんなにも思い出してほしいの。寂しい人も、独りぼっちの人も、きっと、ずっとそばにいてくれる人が、いつか見つかる。ずっと一緒にいてくれる人が……。
これは、私の大好きだった人が、私のために作ってくれた歌です」
レイナは前奏を弾きはじめる。
つたない指使いだが、リズムは大きく乱れない。
すう、と大きく息を吸ってから、歌いはじめる。『小さな勇気の唄』を――。
♪君に一つの花をあげよう
それは勇気という名の花で
君の胸の奥で
決して枯れることなく
咲き続けていくだろう
「レイナ」
レイナの横には、今、タクマが座っていた。
「歌って、レイナ。トラックに負けないように」
優しい、なつかしい笑顔をレイナに向ける。
『小さな勇気の唄』を弾きながら、歌ってくれる。
――そうだね、お兄ちゃん。あの幸せな時間は、いつも、ここにある。消えることなんかない。そうでしょ?
裕はステージの袖で涙を止められなくなっていた。
「裕さん?」
笑里が心配そうに顔を覗き込む。
「私は、今までずっと、レイナを守りたいって思ってきたんだ。あの悲惨な生活から助け出してあげたいって。だけど、助けられてたのは……」
口元を覆った手の隙間から、嗚咽が漏れる。
「私のほうだ……レイナの存在に、どれだけ勇気づけられてきたか」
笑里はうんうんと、何度もうなずく。その瞳からも、大粒の涙が零れ落ちる。
二人はピッタリと体を寄せ合って、レイナの姿をまっすぐ見つめた。
会場にいた少女二人は、ギュッと手を握り合い、目を閉じて歌に聞き入っていた。
「ねえ、目を閉じると、星が降って来るよ」
そっと囁く。
「そうだね、たくさんの星が降って来る……」
「あら?」
茜は目をパチパチとする。
「今、星が流れていったような……?」
目にゴミが入ったのかと思ったが、まわりの観客も、同じように目をパチパチさせたり、こすったりしている。
「ステージの演出……?」
「あっ」
会場の外でスクリーンを見ていた観客の一人が、空を指さす。
「流れ星!」
「えっ!?」
みんな、驚いて空を見上げる。
夜空には、東京では珍しいぐらいの数の星が瞬いていた。そこに、一つの星が輝きを放ちながら、尾を引いて流れ、消えていく。ややあって、また一つ。もう一つ。
今、流星群が夜空を染めていた。
「東京で流れ星が見えるなんて」
みな、呆然と、次々と流れては消えていく星を見つめていた。
レイナの歌声は、夜空に吸い込まれていく。
♪君と一つの山を越えよう
高く険しく
果てしなく見える山だけど
君と一緒なら
乗り越えることができるんだ
救急車が止まり、救急隊員がタンカを持って、ジンに駆け寄った。
「ジンさん、しっかり!」
タンカの上でぐったりと横たわるジンの手を握って、美晴は必死に呼びかける。自分の手も服も血だらけだ。
「ほ……し」
ジンは目を開けて、かすかにつぶやく。
「え?」
ジンは震える手で、空を指した。
美晴が見上げると、流れ星がすうっと流れた。
レイナの歌声があちこちから聞こえてくる。それに呼応するように、次々と流れていく星。
レイナが産まれた夜も、こんな夜だった。美晴は思い出す。
「レイナ……!」
美晴の涙が、ジンの手に零れ落ちる。
青年はふと、顔を上げた。
その日も青年はセンター街でチラシを配っていた。かじかんだ手に、何度も息を吹きかけながら。
「ハンバーガーはいかがですか? こちら、500円割引のクーポンです」
チラシを差し出しても、ほとんどの人はチラリとも見ない。
青年は空しくなり、思わずにじんだ悔し涙を拭う。
――いつまで、こんな生活を送らなくちゃいけないんだろ。
時折、何もかも投げ出したくなるのだ。自分の命さえも。
そのとき、歌が聞こえて来た。
気づくと、あちこちで若者がスマホを見ている。そのスマホから曲が流れてくるのだ。
「レイナの歌、いいよね」
「ああ」
みんな、レイナの歌に惹きこまれていた。
青年は耳をすませた。
それは、すべてを包み込むような慈愛に満ちた歌声で。
自分の背中を押してくれるような、力強い歌声で。
見上げると、空は晴れ渡っていて、今まで見たことがないぐらいの星が瞬いている。
そこに弧を描いて消えていく、流れ星。それが、自分の行き先を導いてくれるようで――。
青年はいつしかチラシを捨て、歩き出していた。
通りで寒さに凍えながら掃き掃除をしていた少女は、ホウキを置く。
道端に座り込み、お酒で寒さを紛らわせていた中年男性も、立ち上がる。
スマホを見ていたカップルは、腕を組んで。
飲み会帰りに騒いでいたビジネスマンも、酔いから醒めたように。
レイナの歌に導かれるように、みなある場所を目指して歩き出した。
美晴たちが闘っている、官邸に向かって。
「おいっ、やつらが門から入って来たぞ! あいつらも撃て! 撃て!」
片田は青筋を立てて、喚き散らす。
「ムリです、もう、撃てません」
野々村はゆっくりと立ち上がる。
「早く撃てってば! やつらがここに来るじゃないか!」
「撃てません」
「はあ? 何を寝ぼけたことを」
「じゃあ、ご自分で撃てばいいじゃないですか」
野々村はライフルを片田に渡す。
「オレにはもう無理です。これ以上、国民を撃てません」
「ちょ、待てって」
野々村は一礼すると、屋上から姿を消した。
片田はこわごわ照準器を覗いて見る。大勢が機動隊を振り切って、官邸に走り込んでくる。だが、とても引き金を引く気にはなれない。
「くそっ」
ライフルを置くと、階下に駆け降りた。
「おいっ、あいつらを中に入れないようにしろ!」
大声で指示を出しても、どこにも人の姿は見当たらない。警備員の姿も、部下の姿も。
「おい、三橋、どこに行った?」
執務室のドアは開け放たれていて、中を覗いても誰もいなかった。
そのとき、片田はようやく気付いた。
みんな自分を見捨てて逃げたのだと。
誰もいない館内に、自分の荒い息だけが響き渡る。
――まずい。オレも逃げないと。
そう思ったとたん、膝が震えだす。
――いや、まだだ。まだまだ。オレは、こんなことで、終わらんぞ。
そこに、どこかから歌声が聞こえて来た。
――この声は……。
足がもつれて転びそうになりながらも、導かれるように執務室に入る。
それは、デスクの上のパソコンから流れて来ていた。ライブ会場の動向を確認するために、パソコンでずっと動画を見ていたのだ。
ライブ会場の外のスクリーンに、レイナの歌う姿が映し出されている。つたないピアノを弾きながら、『小さな勇気の唄』を歌っているレイナ。
♪君に一つの声を聞かせよう
たった今
僕の胸の中に生まれた声を
君に伝えるために
僕はここにいるのだと思うんだ
その声が胸を激しく揺さぶる。
すべてを赦しなさい、と。
自分の過ちから目をそむけるな、と。
そう語りかけているかのようで――。
片田はいつしかパソコンの前に座り、その歌声に耳を傾けていた。
焦りも怯えも怒りもすうっと消し飛んで、今、心の底から穏やかな気分になっていた。
片田は思い出していた。政治家を目指していた、若いころの自分を。
「今の政治じゃダメだ。自分が世の中を変えてやる」
「世の中をよくするには政治家になるしかないんだ」
周囲に熱く語っていた日もあった。鼻で笑われても、自分なら国を正しく変えられると信じていたのだ。
そんな正義感は、いつの間に、どこに消え去ってしまったのか。
もうずいぶん前から気づいていたのだ。鏡に映る自分の目が、果てしなくよどんでいることに。
――自分はどこで間違ってしまったのか……。
片田は唇を噛む。
――もう一度、やり直せるんだろうか。こんな自分でも。
一番が繰り返される。
♪君に一つの花をあげよう
それは勇気という名の花で
君の胸の奥で
決して枯れることなく
咲き続けていくだろう
決して枯れることなく
咲き続けていくだろう
「おいっ、あそこの部屋のドアが開いてる!」
「こっちだ、こっち!」
にわかに廊下が騒がしくなった。バタバタと大勢の足音がして、「あっ、いた!」と執務室の前で足を止める。
陸たちデモ隊が、息を切らして立っている。みんな機動隊にもみくちゃにされて、傷だらけだ。
「片田っ!」
陸が一歩足を踏み入れると、とたんに「静かになさい!」と片田は一喝する。陸はビクッと足を止める。
「この歌が終わるまで、待ってなさい!」
その迫力に、陸たちは動けなかった。
レイナの声は、そこにいる人たちを包み込む。
もう争いはやめましょう。
もう、憎みあうのは終わりにしましょう。
そう語りかけているかのように。
やがて、『小さな勇気の唄』が終わると、片田はゆっくりと立ち上がった。
「私は内閣総理大臣だ」
陸たちはわずかに後ずさる。
「総理大臣として、最後の命令を出す――投票所を開ける。投票日は明日に振り替える」
アンコールを求める手拍子は鳴りやまない。
3度目のカーテンコールで、レイナはバンドやバックコーラスのメンバーと一緒にステージに立ち、みんなで手をつないでお辞儀をした。割れんばかりの拍手に包まれる。
「またね~!」
ファンに大きく手を振りながら袖に引っ込む。
「レイナぁ」
いつものように笑里とアンソニーが涙で顔をくしゃくしゃにして、レイナに抱きつく。
いつもと違うのは、裕も泣いているのを隠そうとせず、レイナに手を差し伸べたことだ。
レイナも手を差し伸べると、裕の大きくて温かな手が包み込む。
「ありがとう、レイナ。改めて思ったよ。君に出会えて、よかったって」
「私も、ありがとう。裕先生、笑里さん、大好き!」
レイナはふわりと裕に抱きついた。
「あら、私のことは?」
「アンソニーも!」
「オレは?」
トムがレイナの肘をつかむ。
「もちろん、トムも!」
「あんたもちゃっかり混じるのね」
アンソニーはトムの髪をクシャクシャとかき混ぜる。
「だって、みんな楽しそうなんだもん」
泣き濡れた顔で、みんなはアハハと笑う。
スティーブとアリソンも袖に顔を出し、拍手をして讃えてくれた。
「レイナ、素晴らしかった! 私のライブにゲストで出てくれる日が、今から待ちきれないわ」
アリソンはレイナをハグする。
スティーブも、「困難にもめげずに乗り越えて、これだけのパフォーマンスをして、これだけのファンの心を揺さぶったんだ。君はもう、一流ミュージシャンだよ」と絶賛した。
レイナはバンドとコーラスのメンバーとも握手をしながら健闘をたたえあった。
みんなが達成感と充実感に酔いしれていた。
ふいに、「今日は裕の家に泊まっていい? アミに会いたいし」とトムが無邪気に言う。
その言葉に、裕と笑里はとたんに顔を曇らせた。
「ああ、そうだね。アミもきっと、待ってるよ」
「アミ、ライブを見に来られないぐらい、具合が悪いの?」
「心配しないで。ここは人が多いから、家で休んでいたほうがいいって、私が言ったの。きっと、家で寂しがってるわね」
裕と笑里はぎこちない笑みを浮かべながら、トムを安心させた。
「私、ママのところに行かなきゃ」
レイナは決意に満ちた表情で言う。
「ママと一緒に、闘う。私もカンテイってところで、片田のおじさんに呼びかける」
「ああ、そうだね」
裕は深くうなずく。
「僕らも一緒に行くよ」
「ママたちはどうなったの?」
「そういえば、どうなったんだろうね」
みんなで楽屋に行こうとしたとき、「レイナ!」と鋭く呼ばれた。
振り返ると、ステージに男が立っている。
レイナは、すぐに官邸で会った白石だと気づいた。白石の目は血走っている。
白石はアミを連れていた。
「ホラ、行けよ」と、アミの背中を押す。
アミは「レイ……ナあ」と2、3歩歩いた。
「アミ! よかった。具合が悪くて、今日はお留守番だって聞いてたの」
レイナが駆け寄ろうとすると、「ダメー!」とアミは叫ぶ。
「来あ、ダメ、ダメ」
必死に手を振って、レイナを止める。
「アミ?」
「アミちゃん、無事だったの?」
笑里も駆け寄ろうとするが、裕が腕をつかんで止めた。
「待て。何か、おかしい」
「え?」
「おいっ、アミに何をしたんだ?」
裕はアミに近寄ろうとして、足を止める。アミの体に、何かが巻き付けられていることに気づいたのだ。
「爆弾、か……?」
笑里は悲鳴を上げる。
「警察なんて呼ぶなよ。そんなことしたら、すぐにこのガキを吹き飛ばしてやるからな」
白石の左手には爆破スイッチが握られている。
笑里は「アミちゃん……!」とヘナヘナと崩れ落ちた。
「なんで……?」
レイナはアミから目をそらさない。アミは震えながら涙を流している。
「なんでアミにこんなことするの? アミは何も関係ないじゃない」
「うるさい、うるさい、うるさいっ、お前の母親が悪いんだ!」
「なんで? ママは何も悪いことなんてしてないよ? 悪いのは片田のおじさんでしょ?」
「うっせえな!」
白石は苛立ち、アミを「早く行けよ」と軽く蹴とばした。アミはへたりこんで、ワアンと泣き出す。
「アミ!」
たまらず、レイナはアミに駆け寄った。
「レイナ!」
裕たちは動けない。
「レ……ナ。レ、ナ」
アミは泣きじゃくる。
「ごめんね、アミ。怖い思いをさせちゃって、ごめん。ごめんね」
レイナはアミを強く抱きしめる。
「もう大丈夫。私が一緒にいるからね。絶対に、離れないから」
白石はスイッチを押そうとする。
「やめろー‼」
裕は絶叫した。
「その子たちを殺すなー!」
「レイナ、やめて、やめて!」
裕とアンソニーが同時に叫ぶ。
「絶対に離れない!」
レイナの瞳から零れ落ちた涙が、床を濡らす。
「今度は、絶対に、絶対に、助けるんだからー‼」
脳裏によぎるのは、あの日のタクマの姿。
あのとき、もっと早く走っていれば。
タクマに駆け寄って、止めていれば。
ずっと一緒にいられたのに――。
――お金なんていらなかったの、お兄ちゃん。街に出られなくても、ずっとゴミ捨て場で暮らすことになっても、お兄ちゃんと一緒にいられれば、私は、それでよかったの。お兄ちゃん。ずっとずっと、そばにいてほしかったの……!
「大事な人を、もう、なくしたくないっ……」
レイナの魂の叫びに、その場は水を打ったようになる。
そのとき、レイナのバレッタが一瞬キラリと光ったように、裕には見えた。ステージに置いてあるタクマのピアノが、ポーンと一音だけ、鳴る。
「えっ、何、何⁉」
アンソニーが驚きの声を上げる。
白石もビクッと反応してピアノを見るが、そこには誰もいない。
その音でスイッチが入ったように、へたりこんで震えていた笑里は、よろめきながら立ち上がった。
「レイナちゃん……」
フラフラと、レイナとアミに向かって歩き出す。
「おいっ」
裕は止めようとしたが、足が動かない。
笑里は二人のところに辿り着くと、崩れるように二人を抱きかかえる。
「レイナちゃん、アミちゃん、私も一緒よ」
三人で固く抱き合う。
その三人の姿を見て、裕も引き寄せられるように一歩踏み出した。震える足で、一歩一歩、レイナたちのところに向かう。
その後を、アンソニーが続く。
アンソニーの後を、スティーブが。その後を、バンドとコーラスのメンバーが。みんながレイナとアミを囲んだ。
「みんな、一緒だ」
裕は静かに三人を包み込む。
「何があっても、ずっと一緒だよ」
「……っ!」
白石はスイッチを押そうと手を振り上げるが――押せない。
「なんっ、なんだよっ。みんな一緒に吹っ飛ぶぞ⁉ 何やってんだよ、あんた達! みんな死ぬんだぞ⁉」
どんなに叫んでも、誰もレイナとアミのまわりから動かない。
トムは背後からこっそりと白石に忍び寄っていた。その手には、ゴミ捨て場を去るときにジンからもらった、サバイバルナイフが握られている。
「いいか。これで人を傷つけたりすんなよ、絶対に。でも、自分が大切な人を守るときには使ってもいい。そのときだけ、人に向けてもいい。分かったな?」
あのとき、ジンはそう言った。
トムは大きく息を吸い、サバイバルナイフを思いっきり白石の太ももに突き立てた。
白石は絶叫する。その手からスイッチが転がり落ちた。トムはそのスイッチを拾い上げて、走って逃げる。
支配人やアリソンのSPが白石に飛びかかった。
「くそっ、くそっ」
白石は床に組み敷かれながら、悔しがる。
「――レイナ、アミ、もう大丈夫だ」
裕が優しく声をかけた。
「もう終わったよ。終わったんだ」
レイナは顔を上げる。その瞳には強い光が宿ったままだ。
レイナとアミは顔を見合わせて、もう一度抱きあう。
「レイ、ナ……!」
「アミ!」
もう二度と離れないようにと、二人は強く、固く、抱きしめあう。
官邸に向かう人の流れは途切れない。
ライブ会場を出た観客たちは、その足で、官邸を目指した。
ライブの余韻が体に残っている観客たちは、「来てよかった」「レイナ、すごかったね」「オレ、なんか、生きててよかった」と興奮が冷めない。その顔は、希望と喜びに満ち溢れていた。
マサじいさんは、ゴミ捨て場の住人と「さあ、次は美晴さんの援護だ」と、意気揚々と向かう。
「オレらも、まだまだ、負けてられんな」
あの二人組の少女も、「レイナちゃん、カッコよかったね」「勇気をもらったね」とはしゃぎながら、腕を組んで歩いていた。
幸せな夜。頬を刺す夜風も心地よい。
やがて、誰ともなく「小さな勇気の唄」を口ずさむ。
いつしか、その歌声は一つになって、満天の星空に響き渡った。
飛行場を降りたつ者も、電車で向かう者も、歩いて目指す者も。
官邸に向かって、人々は歩く、歩く、歩く。
まっすぐ前を向いて、軽やかな足取りで。
頭上にはヘリコプターが飛び、アナウンサーが夜空から実況中継していた。
「今、大勢の人が官邸に向かっています。スマホの無数の光に道路が彩られて、まるで光の洪水のようになっています! 官邸には、既に30万を超える人が集まっているという情報もあります。官邸は、開け放たれたという情報も入っています。今夜、今夜、日本は大きく変わろうとしています。国民の力で勝ち取ったのです。真の自由と、未来を――!」
アナウンサーはそこで言葉を切り、肩を震わして泣きだした。
明けない夜はない。
その夜が暗く、深く、長ければ長いほど、朝の光はまばゆく、暖かく、希望に満ちているだろう。
やがて祝福の光が消し去るのだ。
絶望に彩られた、今日までの日を。
「私、片田義則は、本日をもって内閣総理大臣を辞任いたします。15年間、総理大臣の任に当たってきましたが、今回の投票中止に伴って内閣が機能不全となってしまい、責任を取って辞任することにいたしました。なお、期日前投票も十分にできなかったという意見もあり、投票は本日から3日間にわたって行うことにいたしました」
記者会見で、片田の顔は無数のフラッシュに照らし出されていた。
寝不足と心労で目は真っ赤に充血し、髪は乱れて、目の下にはクマがくっきりと出ている。
だが、その表情はどこか穏やかでもあった。ようやくすべてのことから解放され、肩の荷が下りたかのように。
副総理大臣にすべての業務を引き継ぐことを説明すると、頭を下げて、その場を立ち去ろうとした。
そのとき、どおっと官邸が揺れた。
外にいる国民が大歓声を上げたのだ。
片田は一瞬顔を上げたが、唇を噛みしめると、俯いて会見室を出て行った。
「待ってください、総理! 本郷怜人議員の殺人について、関与されていたんですか?」
「臓器移植の件についての説明は?」
「昨日はデモ隊への発砲がありましたよね。あれは総理の命令だと聞いてますが。真実の党の影山美晴さんを狙ったんですか?」
記者が一斉に質問しても足を止めないので、記者たちは「待ってください!」と追いかけた。
もう守ってくれるSPもいない。すぐに記者たちにもみくちゃにされるだろう。
「片田は、政治亡命を求めてるらしいよ」
病院のロビーでテレビを観ている美晴に、岳人が教えた。
「そうなの? もしかして、陸君たちが官邸に入ってから今まで、ずっとそれを画策してたとか? 陸君から連絡が来たのは、日付が変わる前だったでしょ?」
「まず自分の身の安全を確保しようって動くのは、あいつなら当然だろうね」
「呆れた。どこに逃げる気かしら」
「さあ、アメリカかヨーロッパか」
「受け入れてもらえるの?」
「難しいだろうね。ロシアか中国辺りなら、受け入れてもらえるかもしれないけど。でも、その前に検察が逮捕して国外に出さないんじゃないか? 警察は美晴さんを銃撃するのに手を貸しちゃったから、逮捕しないかもしれないけどね」
「意外と、検察も国外に逃亡してくれたほうが、面倒がなくなっていいと思ってたりして」
「それはあり得るね。これだけの罪を裁くのは膨大な時間も労力もかかるだろうし」
テレビの画面は、ヘリコプターに乗って上空から中継するアナウンサーの映像に変わった。
官邸には、一晩で100万人を超す国民が集まった。官邸を取り囲んでいる人波は、国会議事堂や議員会館までも包み込んでいる。投票の再開と、片田の退陣を求めるシュプレヒコールは、片田が辞任を表明するまで続いていたのだ。
その熱気が画面越しに伝わって来るようだ。アナウンサーも興奮しながら中継している。
官邸前の映像に切り替わると、一人の男性がメディアに囲まれていた。
陸は高揚した面持ちで、数十本のマイクに向かって熱弁を振るっている。
「僕らが総理大臣を動かしたんじゃありません。皆さん一人一人が立ち上がって、声を上げたから、高い高い鉄壁を壊すことができたんです」
陸は感極まって、言葉を詰まらせる。頭には包帯を巻き、顔のあちこちにバンソウコウを貼っている姿から、夕べの激闘が伺われる。
「ぼくっ……僕を動かしたのは、国民の皆さんです。この選挙期間中、僕はずっとずっと、皆さんの声に励まされてきました。僕一人じゃ何もできなかった。これは、皆さんが勝ち取った勝利なんです!」
陸のまわりで、わあっと歓声が上がる。
「新しいヒーローの誕生だな」
岳人は感慨深げにつぶやく。
今、歓喜に満ちた人々は、勝利に酔いしれている。抱き合って泣いたり、肩を組んで「小さな勇気の唄」を歌う人々の姿が映し出された。
朝陽に照らされて、みなまばゆいばかりに輝いている。
――今、そこにいる一人一人が主人公なんだ。
美晴は思わず涙ぐむ。
――怜人、見てる? あなたが見たかった世界が、ようやく、ようやく、実現したの。ホントは、あなたと一緒に、この光景を見たかった。
美晴は窓の外を見る。
新しい門出の朝にふさわしく、雲一つない青空が広がっている。
各地の投票所は、開場時間のずいぶん前から行列ができていた。
「片田、とうとう辞めるってな」
「あれだけ悪いことをしたんだから、当然だよ」
「昨日の官邸前のデモ、感動した!」
「オレもホントは行きたかったんだけど、仕事があって」
みな、興奮がおさまらない。その顔は、昨日までとは見違えるように、明るく生気に満ちている。
「あれ、もしかして、あなたたち、40歳未満ですか?」
列を整理していた会場のスタッフが、若者が混ざっていることに気づいた。大勢の若者が、紙を握りしめて並んでいる。
「ハイ」
「投票できるのは40歳以上ですよ。投票したい気持ちは分かるけれど、今回はまだ法律が」
「無効になってもいいんです!」
若者の一人が、必死な顔で懇願する。
「無効票になってもいいから、僕たち、投票したいんです」
「そう言われても……投票用紙には限りがあるので」
「だから、僕たち、自分で投票用紙を作ってきました!」
若者は、手に持っていた紙を見せる。
「はあ。自作の投票用紙ですか……」
「今、ネットで、投票に行こうって若者が盛り上がってるんですよ。自分たちの意思を示すために、投票用紙を作って持って行こうって」
近くにいた中年男性が教えてくれる。
「開票作業は大変になるかもしれないけど、僕としても、ぜひ投票させてあげてほしい。これが国民みんなの気持ちなんだって、国に知ってもらうために」
「うーん、そう言われても……」
「お願いします。もう黙って見てるだけなんて、嫌なんです。僕たちの声を国に届けたいんです!」
若者も、中高年も、お年寄りも。みんなが、みんなで投票することを望んでいた。
その熱意に押されて、スタッフは何も言えなくなる。
「……投票箱を増やさないと」
そう言いながら、立ち去った。その目には、涙が光っていた。
「ママ―!」
自動ドアが開き、ロビーに美晴の姿が見えると、レイナはまっしぐらに駆け寄った。つんのめりそうになりながらも、走る、走る、走る。
「レイナ!」
美晴も駆け寄ろうとするが、走れない。ジンと一緒に倒れ込んだとき、足首をひねってしまったのだ。レイナに向かって、大きく腕を広げる。
「レイナ!」
「ママ!」
レイナは美晴の胸に飛び込む。
「ママ、ママあ。会い、会いたかっ……」
人目をはばからず、ワンワンと泣き出す。
「ごめんね、ごめんね。急にいなくなってごめんね。そばにいてあげられなくて、ごめんなさい」
美晴も抱きしめながら、涙で震える。
「大きくなったわね、レイナ。大きくなって、歌もずっとうまくなった。レイナの歌、ずっと聞いてたの。私もずっとずっと、会いたかった……」
レイナは涙に濡れた瞳で見上げる。
「これからは、ずっと、ずっと、一緒でしょ?」
「もちろんよ。もう絶対、絶対、離れたりしないから」
美晴は再び、レイナをギュッと抱きしめる。
美晴は、裕と笑里が、アミとトムをつれて立っているのに気づいた。笑里もクシャクシャの泣き顔になっている。
「この2年間、レイナを守ってくださって、ありがとうございます。アミも引き取ってくださったって聞きました」
美晴は二人に深々と頭を下げた。トムとアミは、「美晴さん、お帰り~!」「みある!」と美晴に抱きつく。
「いえ、僕らがレイナを守ったんじゃなく、レイナが僕らを守ってくれたんですよ」
「え? 私、先生たちを守ってなんかないよ? 力ないし、片田のおじさんから、嫌なこといっぱいされちゃったし」
レイナは袖口で涙を拭きながら、不思議そうな顔をする。
「君は、僕らの大切にしてるものを守ってくれたんだ。信念とか、勇気とかね。これだけ大変だった時期に僕らが自分を見失わないでいられたのは、君がいてくれたからなんだよ、レイナ」
裕は愛おしいものを見るまなざしで、微笑みかける。
「僕らにレイナを任せてくださって、ありがとうございます」
「レイナちゃん、ありがとう」
笑里はレイナを抱き寄せる。
「あなたと一緒にいられて、どれだけ幸せな時間を過ごせたか……」
レイナは「先生と笑里さんとは、これからも一緒にお仕事するでしょ?」と戸惑う。
「もちろん! これからも、仕事のパートナーとして、ずっと一緒よ」
「そうだよね!」
レイナは安心して笑里の背中に腕を回す。
ひとしきり、感謝の言葉をお互いに述べて、美晴はレイナの手を取った。
「ジンさんに会うでしょ?」
「会う、会う!」
美晴は「それでは、また、改めて」と裕と笑里に頭を下げて、子供たちをつれて病室に向かった。
「いつか、この日が来ることは分かっていたけど……」
「ああ」
裕と笑里は身体を寄せ合って、寂しそうに見送っていた。
ジンはたくさんの管につながれてベッドに横たわっていた。人工呼吸器からは、絶え間なくシュコーシュコーという音がしている。
「ジーン!」
トムはベッドに身を乗り出して、顔を覗き込んだ。ジンはうっすらと目を開ける。
「ジンおじさん、大丈夫なの?」
「ええ。急所は外れてたから、何とかね。手術に5時間もかかったのよ」
「そうなんだ……」
ジンは苦しそうに目を閉じる。寝間着の胸元からは、白い包帯がのぞいている。
「ジン、オレ、アミとレイナを守ったんだよ! ジンのくれたナイフで。ジン、大切な人を守るときは使っていいって言ったでしょ? だから、犯人の足を思いっきり刺してやった! アミとレイナが爆弾で吹き飛ばされるのを、防いだんだよ」
トムは誇らしげに言う。
ジンはトムのほうに、かすかに顔を向ける。右手をゆっくりと動かし、親指を立てた。その目は笑っていた。
「ねえ、ママは総理大臣になるの?」
ロビーに出ると、トムは「喉乾いたー」と自動販売機に走って行った。アミも後を追う。
そうやって子供たちが走り回る姿を見ていると、ゴミ捨て場を思い出す。
あの、つらくても、愛おしい日々を――。
美晴はレイナの手をしっかりと握る。
「それはまだ、どうなるか分からない」
「森口さんが言ってたの。選挙で真実の党が勝ったら、ママが総理大臣になるって」
「さあ、どうかしらね。たとえ、何になるんだとしても、私は変わらない。レイナとずっと一緒ってこともね」
「アミはどうなるの?」
「そうね。私たちと一緒に住んでもいいし、今まで通り、西園寺先生のところで暮らしてもいいし。それはアミが決めればいいと思う」
「そっか」
美晴は、「そうだ。大切なことを忘れてた!」と立ち止まった。
「お誕生日おめでとう、レイナ。あなたに、素敵な誕生日プレゼントをあげる」
「え? 何、何?」
スマホを取り出すと、美晴はある動画をレイナに見せた。
一人の男性が、緊張した面持ちでカメラに向かって座っている。
「えー、はじめまして、こんにちは。僕の名前は、本郷怜人と言います。僕は、政治家で、真実の党っていう政党をつくって、党首をやってます」
そこまで言うと、美晴の笑い声と、「街頭演説みたいになってるよ」と茶化す声が入る。
「うーん、何を話せばいいんだろ。政治について語るのは得意なんだけど」
そこに映っていたのは怜人だ。35歳の怜人はTシャツ姿で、袖から出ている腕はたくましい。
あの日。国会議事堂を占拠する前日の夜。
美晴と怜人は、どんな世の中にしたいのか、未来の自分たちはどんな人生を送っていたいのか、夜更けまで語り合った。
「ねえ、何かメッセージを残しとく?」
美晴はふと、思いついた。
「メッセージ?」
「突撃する前の夜に、決意を語った動画を残しておくってこと」
「それって、四十七士が討ち入り前に遺書を残したようなもの?」
「そんな言い方すると、縁起でもないけど……」
怜人はしばらく思案して、「でも、100パー成功するわけじゃないしな。一生、塀の外に出て来られない可能性もなくはないし」とつぶやく。
「そんなこと言わないで」
「いや、それも考えとかないと。そうだな。悲壮な感じじゃなくて、明るいメッセージがいいな」
「それなら、未来の、私たちの子供にメッセージを残しとくってのは、どう?」
「いいね、それ!」
怜人は勢いよく起き上がった。
画面の中の怜人は照れながら頭をかく。
「いざやってみると、何を話せばいいか分からないもんだなあ」
「難しく考えずに、思ってることを、そのまま伝えればいいんじゃない?」
30歳の美晴が、画面に顔を出す。
「こんにちはー、私たちのかわいいベイビー! 見てるぅ?」
画面に向かってウィンクして、指で画面を「バキュン」と撃ち抜く仕草をする。
「こんな感じで」
「いやいや、ベイビーとかバキュンとか、そんなこっぱずかしいこと、言えないから!」
怜人は楽しそうに笑う。その瞳。美晴を心から愛していることが一目で分かる。
しばらく考えてから、真顔になってカメラを向く。
「僕は、まだ君に会ってません。だから、君が女の子なのか、男の子なのか、分からない。けど、きっと、女の子だったら美晴に似て美人で、男の子だったら、僕に似ていい男なんだと思います。それ、大事」
美晴は爆笑する。
「そう、その調子!」
美晴は画面から消えた。
「僕は、明日、大切な闘いをします。それは君が大人になったときに、この国で幸せに暮らせるようになるための闘いです。僕と美晴、つまり君のパパとママがすることを、笑う人もいるでしょう。非難する人も、きっと大勢いる。でも、僕はこの道を選んだことを後悔してません。
この国をよくしたくて、全力で最後まで闘ったことを、僕は自分でも誇りに思うし、君にも誇りに思ってほしい。本郷怜人と影山美晴の子供だって胸を張って生きてほしい。
僕は、明日の闘いで命を落とすかもしれない。だけど、生き抜いて、君に会えるだろうって信じてます。もし、もしも、君に生きて会えなかったときのために、このメッセージを送ります。
僕はこの世にいなくても、君をずっと見守ってます。君のママのことも。君には生き抜いてほしい。たとえ、どんなにつらいことがあっても」
怜人はそこで言葉を切ると、うつむいた。
「ダメだ、なんか、泣けて来た。止めて、止めて」
泣き笑いの顔になり、スマホに手を伸ばしたところで、映像は終わった。
「これって……」
レイナの声は震える。
「パパ?」
「そう。あなたのパパ。亡くなる前の日に、二人で撮ったの。いつか自分たちの子供が生まれたときのために、メッセージを残しておこうって思って」
「初めて見た、パパの顔」
「そうね。カッコいいでしょ?」
レイナは涙を流しながら、何度もコクコクする。美晴はレイナの額に頬を寄せた。
「やあ、その子か」
背後から声がして、振り向くと、車椅子に乗った老爺と、車椅子を押す50代ぐらいの男性がいた。
「レイナ、怜人の……パパのおじいさんと、お兄さんよ」
美晴が紹介すると、レイナは目を丸くした。
「君の昨日の歌は最高だったよ。官邸前のデモ隊は、『小さな勇気の唄』を繰り返し聞いて、みんなで歌ってたんだ。君の歌が、みんなを励ましたんだよ」
岳人がレイナに笑いかける。怜人と同じ、茶色の瞳。
「君が、怜人の忘れ形見か……」
博人が車椅子から身を乗り出して、レイナをじっと見る。その瞳も、レイナと怜人と同じ、茶色の瞳だ。
「これからよろしく、怜奈」
博人が手を差し出す。怜奈はそっとその手を握り返した。
ロビーにはトムとアミの笑い声が響いている。
ゴミ捨て場で暮らしていたとき、いつもみんなで走り回っていた。今は、そこにタクマの姿はない。
けれども、目を閉じると、タクマの息吹を近くに感じる。
――あのゴミ捨て場には、たぶんもう、戻らない。だけど、お兄ちゃん、私は歌うよ、これからもずっと。見ててね、タクマお兄ちゃん。ずっと、ずっと、そばにいてね。
美晴がふわりと背後からレイナを包んだ。
「笑って、玲奈」
今、世界は、やわらかな光に包まれていた。
喜びと、希望と、愛に満ちた光で――。
【完】