レイナのステージは夜7時からだ。
山はすっかり日が落ち、満天の星が広がっている。昼間は目がくらむような夏の日差しが降り注いでいた山間の高原も、ひんやりとした空気に包まれている。
それでもステージ周辺の温度は冷めることはない。観客の熱狂が夜空に向かって渦巻いている。
既に会場は超満員で、レイナの前の出番のロックバンドも盛り上がっていた。
レイナも楽屋でスピード感あふれるロックナンバーを聞きながら、アミとアンソニーと一緒にはしゃいでいる。
「よう、レイナ!」
スティーブとトムが楽屋に入って来る。
レイナは歓声を上げて、二人に抱き着く。
「久しぶり~! 元気だった?」
「ああ、こっちは元気さ。レイナはまた大きくなったかな?」
「ううん、背はそんなに伸びてないよ」
みんなで思い出話に花を咲かせていると、
「え? どういうこと?」
とディレクターが楽屋の前を通り過ぎていった。
「そんな話、聞いてないよっ。今更、何だよ! 勘弁してよ」
怒鳴ってから、どこかに走って行く。
大勢のスタッフが慌てた様子で走り回っているのを見て、裕は「何か起きたのかな」と心配そうな表情になった。
「大物が飛び入り参加するとか?」
アンソニーが言うと、
「スティーブはここに来てるけど、今日は出ないし」
と裕は首をかしげる。
ロックバンドの出番が終わり、楽屋にはけてくると、レイナは拍手をしながら、「すっごいカッコよかった! 私も一緒に踊ったよ!」と絶賛する。
「ありがと~」
「レイナちゃんも気張りや」
「気張りや?」
「あ、関西弁で、頑張れって意味。俺らもレイナちゃんの歌、めっちゃ好きやねん。楽しんできてね」
「うん! いっぱい楽しんでくる!」
入れ替わりでレイナのバックバンドがステージに上がり、音合わせを始める。
「それじゃ、オレらは客席で見てるから」
スティーブとトムがアミを連れて出て行った。
レイナたちは楽屋を出て、ステージの袖に向かう。
「うわあ、大勢いるねえ」
袖からこっそり見ると、ステージのすぐそばまで客は詰めかけていた。
「ああ、みんな、レイナの曲を聞きに来たんだよ」
バックバンドの準備が整った。
「レイナ、レイナ、レイナ」
客席で手拍子とともに、レイナを呼ぶ大合唱が起きる。
「さあ、出番だ」
裕がそっと背中を押す。レイナはいつものように、光り輝くステージに飛び出した。途端にわあっと、地面が揺れるほどの大歓声が起きる。
「こんばんはー! レイナです!」
ステージ中央で、レイナは客席に向かって手を振る。
「レイナ―!」
「待ってたよー!」
客の声援がやまない。泣きながらレイナの名前を絶叫しているファンもいる。
「私も、みんなと会えるのを待ってたよー!」
レイナの一言で、さらに拍手と歓声が起きる。
その興奮がおさまってきたところで、ドラマーがドラムスティックを「1、2、1、2、3、4」と打ち鳴らす。1曲目の前奏が始まる。
そのとき、ディレクターが急にステージに飛び出した。両手を振って演奏を止めさせる。
「すみ、すみせん、すみませんっ、やめて、やめっ」
全速力で駆けて来たのか汗びっしょりで、息切れして話せないようだ。バンドのメンバーはみな手を止め、怪訝な顔をしている。
「どうしたんですか?」
裕も不安な面持ちでステージに出て来る。
「すみ、すみません、えー、マイクは……」
ディレクターはレイナからマイクを受け取るが、レイナとは目を合わせようとしない。
「あのっ、すみません、本日のラストステージなんですが、たった今、大きな変更がありまして」
マイクを握る手が震えている。
「レイ、レイナさんのステージは……中止とさせていただきます」
客席がしんと静まり返った。
レイナも裕も、ポカンとした顔でディレクターを見る。
「ほんっとうに申し訳ないのですが、レイナさんのステージは中止とさせていただきますっ」
ディレクターは繰り返し言って、レイナと裕に頭を下げる。
「え、どういうことですか? 中止って」
裕が歩み出ても、「もも申し訳ありません、こちらの都合で、ほんっとうに申し訳ないっ」と何度も頭を下げるだけだ。
「音響の調子がおかしいんですか? ステージに不具合が起きたとか」
「いえ、そういうわけじゃ」
「私、演奏なしでも歌えるよ?」
レイナの言葉に、「いや、そういうことでもなくて」と困りきっている。
客席がざわつき始める。
「どういうことだよー」
「ちゃんと説明しろ!」
「レイナの歌を聞きに来たんだぞ?」
次々と怒声を浴びせかける。
「楽しみにしていたファンの皆さん、本当に、大変大変、申し訳ありませんっ」
ディレクターは客席にも頭を深々と下げる。
「こちらの、運営側の不手際で、こんなことになってしまって……。それで、急遽、本日のラストステージをほかのアーティストに務めていただくことになりました」
ステージにいるレイナたちだけではなく、客席もみなポカンとした表情になった。
「なになになに、どういうこと?」
「さっぱり分からない、何が起きたの?」
ステージの袖で笑里とアンソニーが固唾をのんで成り行きを見守っていると、「ジャマ」と笑里は突然押しのけられた。
「ちょっと……っ」
笑里とアンソニーは押しのけた人物を見て、「あっ」と同時に声を上げる。
「本日、メインステージのラストを飾るのは、陣内ヒカリさんです!」
ディレクターの声と同時に、シルバーのワンピースに身を包んだヒカリが満面の笑みで出て来た。客席に「どうも~!」と手を振る。
「……また君か」
裕は驚きを通り越して、呆れ果てた声を上げる。
「どういうこと?」
レイナの問いに、ディレクターは「詳しいことは楽屋でお話しします。とにかく、ラストステージはヒカリさんが務めることになりましたので、ここから降りていただけますか」と必死の形相で頼む。
「こんばんはー、みんな、陣内ヒカリでーす!」
ヒカリが挨拶すると、客席から一斉にブーイングが起きた。
ヒカリは意に介さず、話し続ける。
「今日は、皆さんにご報告したいことがあってきました。私、来年の東京オリンピックの開会式でライブをすることになったんです!」
ブーイングがいっそう激しくなる。
「だから何だよ!」
「んなこと聞きたかねえよ」
「いいから、レイナに歌わせて!」
「お前の歌なんか聞きたくないぞ」
「レイナー、歌ってー!!」
やがて、客席は「レイナ、レイナ」とレイナコールの大合唱になった。ヒカリの顔が引きつる。
ヒカリは立ち尽くしているレイナを睨んで、「あなたの出番はなくなったんだから、早く引っ込んでよ」と棘のある言葉を投げかける。ヒカリのバッグバンドもステージに出てきて、早く交代するように促す。
「いやいやいや、俺ら何も聞いてないから」
「何なんだよ、代わる気ないよ」
バックバンドのメンバーも抵抗する。
イベントのスタッフが次々とステージに出てきて、「すみません、状況が変わったんで」「ステージから降りてください」と説得する。
「とにかくとにかくとにかく、詳しいことは楽屋でお話しするので、今はステージから降りていただけますか?」
「いえ、こんなの納得できませんよ。訳が分からない。何か起きたなら、ファンの前で説明すべきでしょう」
ディレクターと裕が言い争っている。
レイナは客席を見る。ふと、最前列に、散策中に出会った少女達の姿を見つけた。何時間も前から来て場所を取っていたのだろう。二人とも泣きそうになっている。
「私、歌いたい」
レイナは強い声で言う。
「ここにいるみんなは、私の歌を聞きに来てくれたの。だから、私は歌いたい。ヒカリちゃんが終わってからでもいいから、歌いたい!」
ディレクターは、「いや、そういうわけには……」とうろたえている。
観客から「そうだー、レイナの歌を聞きに来たんだー」「ヒカリの歌じゃねえぞ」「早く引っ込め!」と、またもやヤジが飛ぶ。
「レイナもそう言ってることですし、2、3曲でもいいから歌わせてもらえませんか」
裕が頼むと、「いや、その」とディレクターは言葉に詰まる。そして、おもむろに土下座して、「すみませんっ、ステージから降りてください!」と懇願した。
レイナが茫然としていると、「レイナさん、こちらへ」と2人のスタッフに腕をつかまれた。
「おいっ、レイナに乱暴なことをするんじゃない!」
裕は声を荒げる。そのやりとりを見て、ヒカリは険しい表情になった。
「レイナ、行こう」
裕はスタッフを退けて、レイナの肩を抱く。
「どうして……? どうして歌っちゃいけないの?」
レイナは震えながら裕を見上げる。
「みんな、私の歌を聞きたいって言ってるよ?」
「僕にも分からない。とにかく、ここから降りよう」
笑里はたまらずにステージに走って出て来る。
「さあ、レイナちゃん、行きましょう」
レイナは歩くのもやっとという感じで、笑里に抱えられながら階段を下りる。ヒカリは憎悪のこもった目で、その後姿を見ていた。
「レイナ、行かないで~」
「行っちゃやだ~!」
「レイナ―、戻って来て!」
レイナを呼ぶ声が悲鳴のように聞こえる。泣き出すファンもいた。
ヒカリが「は~い、それでは、ここからは私のステージを始めまあす」と仕切りなおそうとする声も、かき消されてしまう。
客席で、誰かが足を踏み鳴らして抗議する。一気にそれが広まり、4万人の観客が足を踏み鳴らして一斉に抗議をする。その地響きはステージをも揺らした。
ヒカリは顔を真っ赤にして、歯ぎしりをする。
「申し訳ありませんっ」
ディレクターは楽屋で、また土下座をして謝った。レイナはすっかり放心状態で、椅子に座り込んでいた。
「そういうのはいいですよ」
裕はうんざりした表情で言う。
「それより、理由を説明してください」
「その、先ほど、レイナさんのライブを、ちゅ、中止してほしいという連絡がありまして」
「どこから?」
「その……かか官邸からです」
裕と笑里はハッと顔を見合わせる。
「どういうことですか?」
「ぼ、僕も詳しいことは分からないんだけど……うちの社長のところに官邸から電話がかかってきて、レイナのライブを直ちに中止しろって。中止しないと、明日以降のライブを開かせないぞって言われたらしくて」
「それ、官邸を名乗ったイタズラ電話じゃないの?」
アンソニーの言葉に、ディレクターは大きく頭を振る。
「うちの社長は総理の支援者で、元々官邸とは交流があって……」
裕は怒りを抑えるために目を閉じた。
「社長も、さすがにそれはムリだって突っぱねたらしいんです。そしたら、自治体のトップから、『明日以降のライブは認められない』って連絡が入って。ステージに穴をあけるわけにはいかないって言ったら、官邸が代わりのアーティストを派遣するって言いだしたらしくて」
「それでヒカリが来たってわけか」
ディレクターは「本当に……情けないし、悔しいし、僕も何もできなくて」と、涙を拭った。
「せめて、もっと早くに言ってくれればよかったのに」
笑里の言葉に、「いや、わざとだよ。わざとこのタイミングで中止させたんだ」と裕はつぶやくように言う。
「社長も謝罪をしに来るそうです」
「社長さんに謝罪をしてもらったところで、もうどうにもなりませんよ」
「ステージ料金はお支払いしますので、どうか、どうかっ」
ディレクターは頭を床に擦りつける。
「お金の問題じゃないですよ」
裕はため息をつく。
「社長は何か弱みでも握られてんの? 脱税とか?」
アンソニーの何気ない言葉に、ディレクターは固まる。
「マジなの? そんなことで、4万人ものファンの気持ちを踏みにじるわけ? あんたたち、来年からこのフェスを開けなくなるわよ」
「レイナ、一体何が起きたんだ!?」
客席にいたスティーブたちが楽屋に飛び込んできた。アンソニーの説明を聞くうちに、スティーブのこめかみはピクピクと動く。
「そんな失礼な話ってあるか? なんで君たちは権力者の言いなりになるんだ! そんな腰抜けなのにロックフェスティバルなんてよく開けるな? 君たちにはロックの魂がないのか! 恥を知れ!」
スティーブはすごい剣幕でディレクターとスタッフたちを責める。
「あの、英語、分からなくて」
ディレクターが戸惑っていると、「あんたたちみたいな腰抜け野郎にはロックフェスをやる資格はないって言ってんのよ」とアンソニーが要約する。
「レイナを出さないなら、オレも出ない。こんな腑抜けたフェスに出るなんて冗談じゃない! 今後、二度と出るつもりはないからな!」
「スティーブもライブをやらないって。もう二度とこのフェスには出ないって言ってるわよ」
「そそそんな、困りますっ。スティーブさんは大トリなんですから!」
ディレクターは慌てふためくが、スティーブは耳を貸さず、「レイナ、行こう。こんなところにいたら魂が汚れちまう」とレイナを促した。
「ちょっと待ってくださいよお」
ディレクターは悲痛な声を上げる。
「はーい、皆さん、落ち着いてぇ。今日は新曲を披露しまぁす。『あなたと永遠に』。えー、この曲は、私が初めて作詞にチャレンジして……」
観客の興奮は収まらない。ブーイングがまたひどくなり、ヒカリは話すのをあきらめて、バンドに演奏を始めるように促した。
前奏が始まると、「帰ろ、帰ろ」「ヒカリの唄を聞くなんて、時間のムダ」と観客が続々と背を向けて帰り始めた。
「日曜の午後、今もあなたの背中を探してる私~♪って、ちょっとちょっと! 歌ってるところなんだけど!」
ヒカリの呼びかけにも振り向かず、「あーあ、せっかくレイナを見に来たのに」「他のステージ、まだ見れるかな?」と観客はあっという間にいなくなった。
ガランとした芝生が広がるだけの空間になり、ヒカリは「もうっ!」とマイクを床に投げつけた。跳ね返ったマイクは芝生に落ちる。
レイナはステージ衣装を着替える気力もなく、とぼとぼと駐車場に向かっていた。その後を裕や笑里たちが、かける言葉もなくついていく。
「まったく、信じられない! こんなドタキャンを起こされたら、アメリカじゃ訴訟もんだぞ?」
スティーブが一人、怒りを抑えられない。
「レイナ、元気出せよお」
トムがレイナに腕を絡める。
「だい……じょぶ?」
アミも心配そうに手をつなぐ。
「あれっ、アミ、しゃべれるの?」
「学校で発声法を習って、簡単な言葉はしゃべれるようになったのよ」
笑里が教えると、「へ~、すげえ!」とトムは興奮する。
「レイナ、もうあきらめるの?」
ふいに、美晴の声が聞こえた気がした。
レイナが文字の読み書きや算数の計算で「分かんない」とギブアップすると、美晴はいつもそう言うのだった。
「そこであきらめちゃったら、一生できないまま終わるわよ」
「だって、レイナ、学校通ってないから分かんないんだもん」
そういうと、美晴は悲しそうな顔になる。
「そんなの関係ない。学校に通ってても、自分から学ぼうとしなかったら、何にもできないまま終わるの。レイナはずっとゴミ捨て場で暮らすつもり? 勉強したら、ここから抜け出せるのよ」
レイナには、勉強したらゴミ捨て場から抜け出せるという意味は、よく分からなかった。
でも、あきらめるのも悔しくて、またテキストを広げると、美晴は嬉しそうにしていた。
美晴は勉強でも何でも、レイナが分からなくても根気よく教えてくれた。だけど、レイナが投げ出そうとすると怒るのだ。
「まだあきらめないよ、ママ」
レイナはつぶやく。
「ねえ、私、歌いたい」
レイナは裕と笑里に向かい合った。
「私、ここに歌いに来たんだもん。みんなのために歌いたい」
「歌うって言っても、どうやって?」
「分かんない。どこか、歌える場所、ないかな?」
トムがレイナの言葉をスティーブに伝える。
「OH、レイナ、レイナ、レイナ。そうだよ。俺たちはどこでも、歌いたい場所で歌えばいいんだ。俺たちは自由なんだ!」
スティーブは顔を輝かせる。
「何かアイデアを考えよう」
メインステージの裏手に、野原を切り開いてつくった駐車場がある。
バックバンドの楽器を運んできたトラックの荷台部分は、側面が鳥の翼のように跳ね上がる仕様になっていた。そこを簡易ステージにして、レイナは駐車場で歌うことにした。
バックバンドは、あわただしく楽器を出して準備する。コーラスのメンバーも、一緒にステージに上がって歌ってくれることになった。
駐車場に戻って来ていたファンたちは、「何、何?」「え、まさか、レイナ、ここで歌うの?」とざわめいている。
準備が整った。
「さあ、行こう」
裕がレイナの背中を軽く押す。
レイナは荷台に上がると、「こんばんはー、レイナでーす!」とマイクで呼びかける。
「私は今日、ここに歌いに来ました。だから、今、ここで歌おうと思います!」
レイナの声が夜空に響き渡る。まわりにいたファンから大歓声が上がる。
「やった、やった!」
「ウソウソ、レイナ~」
「アツシたちを呼ばないと! 電話、電話!!」
みんな大興奮しながらスマホをレイナに向ける。
レイナは、さっき最前列にいた少女たちにも歌が届くようにと、バレッタを触って祈る。あのキラキラした瞳。
――みんなが元気になりますように。私は、みんなのために歌うんだ。
バックバンドが演奏を始める。
レイナは大きく息を吸った。
レイナの歌声は、他のステージに向かっていた観客にも届いた。
「えっ、この声、もしかして」
「レイナじゃね?」
「えっえっ、レイナ歌ってんの? どこで?」
「もしもし? えっ、駐車場? レイナ、駐車場で歌ってんの!?」
観客は次々と駐車場に向かって走りはじめた。
その少女二人は、泣きながら森を歩いていた。
「せっかく、レイナちゃんの歌を聞きに来たのに」
「ひどい……こんなの、ひどすぎるよお」
ふと、その耳に歌声が届く。それは、ずっと待ち望んでいた歌声だった。
「えっ、これって」
「レイナちゃん?」
二人は顔を見合わせる。その顔に、みるみる喜びの光が射していく。
それから、全速力で走る、走る、走る。
歌声が、二人を導いてくれる。まっすぐ、まっすぐに――。
そこには華やかなステージの照明は届かない。
裸電球の灯りがわずかに照らしているだけの駐車場。レイナを撮影しているファンのスマホの灯りが、まるでステージのライトのようにレイナを照らし出す。
駐車場はあっという間に大勢のファンで埋め尽くされていた。
一曲歌い終えると、大きな拍手と歓声が起きる。
「みんな、ありがと~、まだまだ行くよー!」
わあっと歓声がはじける。
「あっ」
あの二人組の少女が、森から出て来たのが見えた。
「ここだよー、ここ!」
レイナはジャンプしながら、大きく手を振る。二人の顔は涙でグシャグシャになっていた。
「よかった、あなたたちに会えて! あなたたちに歌を聞いてもらいたかったの!」
まわりの観客が、「ほら、前へ行って!」「あっちのほうが、よく見えるよ」と二人に場所を譲ってくれる。
笑里とアンソニーはその様子を見ながら、感極まって泣いている。
「あの子は本当に……っ」
アンソニーはしゃくりあげる。
「素敵な奇跡を起こすんだから」
「不思議だ」
裕はひとりつぶやく。
「パワフルで切ない声が持ち味だったけど……優しさが加わっている」
ヒカリは、ステージの上でディレクターを「どういうことよっ。とんだ恥さらしじゃないの!」と責めたてていた。
「いや、そう言われましても。こっちも急に指示されたわけだし……」
「それを何とかするのが、あんたたちの仕事でしょ? そろいもそろって、無能なわけ?」
そのとき、レイナの歌声が聞こえて来た。
「えっ」
ヒカリは固まる。
「あの子、どこで歌ってんの?」
ディレクターはしばらく呆然としていたが、インカムを投げ捨ててステージを飛び降りた。
「えっ、ちょっとちょっと、どこに行くの? 話はまだ終わってないでしょ!?」
ヒカリに呼び止められても気にしない。
「オレは、レイナの歌を聞きたかったんだよ!」
歌が聞こえてくる方向に向かって、全速力で走る、走る。
「もうっ、何なのよっ」
ヒカリは地団太を踏んで悔しがっていた。
駐車場のライブは最高潮に達していた。
トムも途中からトラックに上がって踊り、レイナの歌を盛り上げる。スティーブも飛び入り参加した。
「レイナ―!」
「最っ高―!」
「大好きー!」
みな喜びが爆発した顔で、熱狂している。
「それじゃあ、皆さんも一緒に歌ってください。『小さな勇気の唄』」
静かに前奏が始まり、みんなで声を合わせて歌う。
♪君に一つの花をあげよう
それは勇気という名の花で
君の胸の奥で
決して枯れることなく
咲き続けていくだろう♪
見上げると、満天の星空。ゴミ捨て場で見ていたのと同じ星空だ。
夜にゴミの山に登り、空に向かってよく歌っていた。その隣には、いつもタクマがいた。
――お兄ちゃんがいなくても、今はこんなに大勢の人が一緒に歌ってくれるよ。私は独りぼっちじゃないんだ。そうでしょ、お兄ちゃん。
空に、流れ星が一筋の尾を描いて消える。
まるで、レイナに「そうだよ」と答えるかのように。
「君の娘は、たいしたもんだ」
スマホで動画を見ながら、高齢の男性はつぶやいた。
「こんなにもファンから愛されてるんだな」
「ええ、レイナはみんなから愛される子です。そういう子なんです」
美晴は動画を見ながら涙を拭った。
「あの子と過ごした13年間は、本当に幸せだった……。あの子と一緒にいられたら、何もいらないって思ってました」
「いいのか? これを始めたら、君はあの子とは二度と会えなくなるかもしれないんだぞ?」
美晴は力強くうなずく。
「本当は、レイナとこのままゴミ捨て場で一生を終えてもいいって思っている自分がいました。あの子が幸せでいられるなら、それでもいいって。でも、私はまだ、完全には自由になってない。自由を手に入れるには戦わなきゃいけないって気づいたんです。自由を勝ち取らないと、ずっとあいつらは私を追ってくるし、レイナも狙われることになる。だから、レイナのために戦うんです。レイナがこの先、自由に生きられるために」
「そうか」
老爺は深く息を吐いた。
「パーティーが始まりましたよ」
背の高い男性が二人を呼びに来た。男性は二人とも、瞳が茶色だ。
「さあ、それじゃ、始めようか」
「ハイ」
美晴は老爺の車椅子を押して、ホールに向かった。
「全然効果がないじゃないかっ」
片田は苛立った声をぶつける。
「この間のユーチューバーもうまくいかなかったし、今回の野外ライブも、結局レイナに同情票が集まって評価が高まってるじゃないか」
「はあ……こちらとしても、こういう結果になるとは思ってなくて」
白石の答えに、片田はわざとらしく大きなため息をつく。
「君はもうちょっと役に立つかと思ってたんだけどね」
「すすすみません。でも、あのレイナって子も、周りの人も、レイナの親が誰かは分かってないんじゃ」
「だからだよ。知られる前に叩き潰しておかないと」
「はあ」
「これぐらいの問題も解決できないようなら、いつまで経っても大臣になるなんて夢のまた夢だね」
片田はソファから立ち上がった。
「え、え、でも、次の選挙では立候補させてくれるって話でしたよね」
「立候補はしてもいいですよ、いくらでも。でも、当選してすぐに大臣になれるわけないでしょ」
「いや、だって、そういう約束でしたよね。総理の手足となって働いたら、大臣にしてくれるって」
「今すぐにするとは一言も言ってないでしょ。君は政治家になったことがないんだから、私の元で秘書として下積みを積んでから立候補するのは筋が通ってると思うけどね。私が見てる限り、まだまだ君は勉強したほうがいいね。気に入らないなら、辞めてもらっても結構」
「いえ、そんな」
片田はそれ以上、何も言わず、白石を見ることもなく控室から出て行った。
白石は「クソっ」とソファを蹴とばした。
片田はホテルで資金集めパーティーを開いていた。
片田の講演は大盛況で、会場からは何度も笑い声や拍手が漏れ聞こえてくる。白石はイライラしながらロビーにいた。
――大臣にしてやるって言われたから、秘書になって支えてきたのに。これじゃ、汚れ仕事を引き受ける雑用係みたいなもんじゃないか。
ロビーではSPがあちこちで見張りに立ち、スタッフたちが忙しく走り回っている。
――これなら、怜人と一緒にいたほうがよかった。怜人は俺を軽んじたりしなかったし。いつも一緒に政策を考えて、戦略を練って。あのころは楽しかったなあ。
白石は大きなため息をつく。
――今更だけど。オレ、なんてことをしちまったんだろう。
「すみません」
白石は自分が声をかけられていることにしばらく気づかなかった。
「すみません」
強く言われて、振り返る。そこには車椅子に乗った高齢の男性がいた。
「車椅子用のトイレはどちらかな」
「ああ、トイレはあの奥です」
白石が指さすと、「申し訳ないが、トイレまで連れて行ってくれませんか。妻が今、駐車場に忘れ物を取りに行っていて」と男は頼んだ。
――はあ? なんで俺がそんなことをしなきゃいけないんだよ。
一瞬思ったが、片田の支援者なら仕方ない。親切にするしかないだろう。
「分かりました」
白石は車椅子を押してトイレに向かった。
「こちらでいいですか」
ドアの前で車椅子を止めると、「すみません、ボタンを押してもらえませんか」と頼まれる。
「開」と書いてあるボタンを押すと、ドアがゆっくりと右にスライドする。
「ついでに、中に入れてもらえませんか。重ね重ね、申し訳ない」
白石はイラっとしたが、他にすることもないので、車椅子を個室に入れる。
「この向きでいいですか」
話しかけながら顔を上げると、壁際に人が立っている。男性と女性の二人だ。
「え、あれ、すみません、使っていた……?」
トイレに二人も入っているのは不自然だ。
白石が戸惑っていると、女性はすばやく閉めるボタンを押した。男性はゆっくり閉まるドアの前に立ちはだかって白石の逃げ場をなくす。
「え、え、何……?」
ドアが閉まると、「久しぶりね、白石さん」と女性が声をかけた。
白石は女性を見る。どこかで見た覚えのある顔だ。
「あっ」
白石は絶句する。
「もももしかして、君、美晴……さん?」
美晴ちゃんではなく「さん」と呼んだのは、美晴が白髪交じりの中年になっているからだろう。
「思い出した? ゴミ捨て場にいる私を見つけて襲わせたのはあなたでしょ?」
「どどどどうして、ここに」
「あんたが孫を殺したのか」
車椅子に乗っている老爺が、白石を鋭い眼光でにらむ。
「え?」
「オレの孫の怜人を殺したのはあんたか」
「え? あっ」
白石は便器の横のスペースに後ずさりする。
「……怜人のおじいさん?」
「ああ、そうだ。本郷博人だ」
「オレのことを覚えてるか? 何回か会っただろ」
ドアの前に立っている男が口を開く。
白石は凝視した後、「が、岳人さん?」とつぶやく。
「アメリカにいたんじゃ」
「そうだよ。でも、怜人が殺されたって聞いたら、向こうでのうのうと暮らしてられるわけないだろ」
「いや、でも、自殺って報道されてたはず」
「そんなの信じるわけないだろ? 部屋から誰か分からない女性の遺体まで見つかってさ。怜人は直前に、『兄ちゃん、オレ、ひと暴れするわ。もしかしたらオレの政治家生命が絶たれるかもしれない』って連絡くれてたんだよ。美晴さんから話はすべて聞いてるよ。あんたが怜人をはめて、留置所で殺したってこと」
「ちち違う、オレは殺してない、ホント、オレじゃなくて、殺し屋がやったんだ」
「殺し屋? 誰が雇ったんだ」
「か、片田さんだっ。すべて、片田さんが考えた計画だったんだ。オレだって、あのときは殺さなくてもいいんじゃないかって言ったよ。そこまでしなくても、政治の世界から追放するだけでいいんじゃないかって言ったんだよ。でも、片田さんは怜人の一族に恨みがあるって言ってた。怜人の父親の秘書をやってたときに、別の秘書をかわいがっていて、片田さんは冷たくされたって……。その秘書はすぐに立候補して、本郷家がバックアップしたから当選できたって。でも、片田さんは支援してもらえなくて、自分の力でやるしかなかったって」
「当たり前だ。片田は他の秘書の足を引っ張って、自分の野心のために事務所をひっかきまわして大変だったんだぞ? だから親父も愛想をつかしたんだ」
岳人の言葉に、「あいつはな」と博人がしわがれ声を出す。
「あいつは政治家にしちゃいけない人間だと、息子は言ってた。だけど、あいつは、矢田部の父親と組んで、息子に罪を着せて、失脚させやがって」
博人は怒りで声が震えている。
「息子だけじゃなく、孫まで手にかけやがって」
「だから、オレは反対したし、オレはやってませんよ? 殺し屋を手引きしただけで」
「人殺しに加担したってことじゃないか」
岳人は鋭く言い放つ。
「まままあ、そうですけど。仕方なかったんですよ、オレも弱みを握られてて」
「その弱みと引き換えに怜人を売ったってことよね?」
「いや、だから」
三人から詰め寄られて、白石は勢いよく頭を下げる。
「申し訳ないっ。オレも、ホントはあんなことをしたくてしたんじゃないんだ! それだけは信じてほしい」
「じゃあ、うちらに協力してもらおうか」
「へ?」
顔を上げると、岳人が胸ポケットから小型カメラを取り出した。
「今の、全部録画してるから。片田が人殺しだって告白したことがバレたら、どうなるだろうな。これを全世界に向けて配信されたくなかったら、俺らに協力するしかない」
白石はようやく美晴たちが何のためにここに来たのかを悟った。
「協力って……何をすれば?」
「これを持ってろ」
岳人は白石にスマホを投げて渡す。
「使い捨てスマホだ。使ったら捨てろよ? こっちから連絡するから、それまで持ち歩いてろ」
白石は力なくうなずく。
岳人が開くボタンを押した。
3人が個室から出ようとしたとき、
「あなた、優梨愛さんと一緒になったのね」
と、ふいに美晴は白石に言った。
「優梨愛さんはこのこと知ってるの? あなたが怜人を殺すのに加担したこと」
「……いや、まさか」
「そう。彼女も被害者ね。気の毒に」
「言わないでくれ、優梨愛には。あいつは何も関係ない」
「ええ、関係ないわよね。優梨愛さんも、お子さんも、愛人のあの子もね」
白石はうめき声をあげて、顔を両手で覆う。
「でも、私の娘も何も関係ないのに、あなたたちはゴミ捨て場まで来た。今も、レイナにいろいろと嫌がらせをしてるでしょ? レイナを傷つける人は、誰であっても許さないから」
美晴の気迫に、白石は何も返せない。
美晴が去ろうとしたとき、「あのレイナって子は、その、君と怜人の……」と、白石はかすれた声をかける。
「ええ。そうよ」
美晴は振り返らずに答える。
3人が去っても、白石はしばらくその場で動けなかった。
「あのね、いいこと考えたの」
ある朝、レイナは朝食の席で、瞳を輝かせながら裕と笑里に言った。
「なあに、どんなこと?」
「ゴミ捨て場で歌えなくなったでしょ? 私がゴミ捨て場に行くから、みんなに迷惑がかかるんだって思うの。だからね、ゴミ捨て場に住んでる人たちに、ライブに来てもらえばいいんじゃないかなって。私の誕生日に、ゴミ捨て場の人たちに来てもらって、無料でライブを開くの。どうかな?」
裕と笑里は顔を見合わせる。
「そうだね、それはいい考えだね」
「素敵じゃない! 楽しそう」
二人はほぼ同時に声を上げる。
「そう? よかった!」
レイナは嬉しそうにしている。
裕と笑里はレイナが自分でしたいと言ったことは、基本的に止めることはない。
「レイナは今までさんざん、いろんなことをあきらめる環境で生きて来たんだ。だから、レイナがしたいことは、なるべく実現させてあげよう。月に行きたいって言われたって、やろうと思えばできなくもない。今は民間の宇宙旅行の会社もあるからね」
レイナと暮らし始めたころ、裕は笑里にそう話した。笑里ももちろん、即座に同意した。
「そうなると、ゴミ捨て場からバスで住民を送迎しなきゃいけなくなるな」
「今から抑えられるライブ会場はあるかしら」
二人はさっそく、ライブを現実にするための計画を練り始める。
「ト……ム?」
アミがトーストを食べながら聞く。
「そうだね、トムにも来てもらおう! トムもきっと、喜ぶよ」
四人がワイワイと話しているところに、芳野が「先生、さっきからスマホが何度も鳴っているみたいですよ。急ぎの用事かもしれません」と教えに来てくれた。
「ああ、ありがとう」
裕は仕事部屋に入った。
スマホを見ると、楠ミズキという歌手のマネジャーからだった。
「もしもし? 西園寺です。何度かお電話をいただいたようで」
裕が電話をかけると、「わざわざご連絡いただいて、すみません」と、マネジャーは恐縮する。
「早めにお伝えしたほうがいいかと思いまして」
「ハイ、なんでしょう」
「今回お願いしていたミズキの新曲の件でご相談なんですが……」
マネジャーは、そこで言葉を切った。
「何かありましたか?」
裕が問うと、「誠に申しづらいんですが……」と、また黙り込んでしまう。裕は相手の言葉を待つ。
「その、何というか……今回の話はなかったことにしていただきたいんです」
「えっ⁉ どういうことですか?」
「いや、その、上から今回の曲は、ミズキっぽくないと言われまして」
「ミズキっぽくないって……今回はバラードに挑戦したいということでしたよね? 大人びたバラードを歌ってみたいという話だったから、そのイメージで作った曲ですが」
「まあ、そうなんですが……」
「ミズキも気に入ってたんじゃないんですか?」
「そうなんですけど、上の人が」
「上の人って、誰ですか? 僕が直接話しましょうか」
「いや、そういうわけにはいかなくて……ちょ、ちょっと待ってください」
マネジャーは場所を移動したらしい。事務所で話をしていて、他の人に聞かれたくないということだろう。
「西園寺先生、何かしたんですか? 官邸がレコード会社のトップに、西園寺裕を使うなと言ってきたらしいんですよ」
「え?」
「今回の曲、僕もすっごくいい曲だと思ってますし、ミズキも喜んでたんですよ。でも、先生の曲はもう使わないってレコード会社に言われて……それどころか、今まで西園寺先生が作った曲はすべて配信停止にしろって官邸は言ってきたらしくて。カラオケの曲も削除しろって言ってるらしいんです。だから、今、うちは大騒ぎになってて。ミズキの曲だけじゃなく、他のアーティストの曲も先生には書いていただいているから」
「ミズキ以外の曲も全部ってことですか」
「そうです」
裕は大きなため息をついた。
「それは……もはや僕の力でどうこうできるって話じゃなさそうですね」
「官邸で何かあったんですか?」
裕は簡単にレイナが官邸でミニライブを開いたこと、ゴミ捨て場で歌うことを片田がよく思ってないことを説明した。
「とにかく、ご迷惑をおかけしてしまって、申し訳ない」
「いえ、迷惑をかけてるのはこっちの方です。こんな形で仕事を打ち切ることになってしまって……もちろん、今回の分の作曲料はお支払いいたします」
「そうですか」
「西園寺先生にはヒット曲をたくさん書いていただいたから、感謝しかないです。ホントは、先生には何も話すなって言われてたんですが、お世話になったので、せめてお伝えしておきたいと思って」
「それは心遣いに感謝します」
「たぶん、騒いでるのは今だけだと思います。落ち着いたら、また先生の曲を復活できるって僕は信じてます。そのときは、また曲をつくってください。僕、西園寺先生の曲が大好きなんで」
裕は何度もお礼を言い、電話を切った。
「ずいぶん露骨な嫌がらせをするもんだな」
曲を書いているアーティストは他にもいる。きっと、他のレコード会社も同じことを言ってくるだろう。
――レイナに何と言えばいいのか。しばらく黙っておくしかないな。せっかく誕生日のライブを思いついたばかりなのに、心配させたくない。
「何だったの?」
ダイニングに戻ると、裕の顔色を見て、笑里は何かあったことに気づいたようだ。
「いや、たいしたことじゃない。後で話すよ」
裕は芳野にコーヒーを頼む。
レイナはアミと、「トムが日本に戻って来たら、どこに行く?」とはしゃいでいる。
――今は、この笑顔を守りたい。たとえ、束の間であっても。
その日の午後。
裕がレイナの二枚目のアルバムの曲をつくっていると、車を車庫入れする音が聞こえて来た。笑里と森口が帰って来たようだ。
「裕さん、大変!」
笑里が部屋に飛び込んで来た。
「どうした?」
「大学でね、突然、講義を打ち切られたの! 教室に入れさせてもらえなくて、生徒にお別れもできなくて……。そんな話、寝耳に水だから、学長にどういうことかって聞いても、教えてくれないのよ。講義の刷新を図るとかなんとか言って。で、学長の秘書さんがこっそり、官邸から私を解雇するように要請があったって教えてくれて。これって、片田が私のクビを切るように仕向けたってことでしょ?」
「たぶんそうだろうね。僕も今朝、ミズキの契約を切られたよ」
「えっ、どういうこと?」
裕が今朝のやりとりを説明すると、「そんな……私たち、そろって総理大臣に目をつけられてるってこと?」と、笑里はソファに座り込んだ。
「そういうことになるね」
「何てこと」
笑里は両手で顔を覆った。
「あの……あんのクソオヤジ!」
笑里の一言に、裕は爆笑してしまった。
「動揺しているのかと思ったら、充分元気じゃないか」
「当たり前じゃない。こんな話聞いたら、腹が立って腹が立って。動揺してる場合じゃないわよ!」
「そうだな。まあ、二人とも仕事がなくなっても、今すぐに生活が苦しくなるわけじゃないし」
「レイナちゃんのレーベルはどうなのかしら。さすがに、官邸に出すなって言われても抵抗するとは思うけど。あれだけの稼ぎ頭だし」
「そうだな。それを祈るしかない」
「レイナちゃんには話したほうがいい?」
「しばらく様子を見よう。また状況が変わるかもしれないし」
そのとき、「ただいまあ!」とレイナが勢いよく玄関のドアを開ける音がした。
「お帰りぃ」
笑里が1階に降りていくと、「あれ、今日は早かったんだね」と目を丸くする。
「うん、今日は早めに講義が終わって」
笑里はあいまいな笑みを浮かべる。
「今ね、ジンおじさんに誕生日のライブのことを話したの。そしたら、バスを借りて来て、ゴミ捨て場から会場まで人を運んでくれるって」
「まあ、そうなの。ジンさん、優しいわね」
「ねっ。ジンさんの仲間にも声をかけてくれるって」
「そうしたら、どこのゴミ捨て場にするのか、考えないとね。全国のゴミ捨て場から連れて来るのはムリだし」
「そうかあ。どこがいいかな。人数が多いところがいいよね」
ウキウキしている様子のレイナの頭を、笑里は優しくなでる。
「ん? 何?」
「なんでもない。レイナちゃんはかわいいなあって」
「えー、何それえ」
まるで本当の親子のようにやりとりしている二人の様子を、裕は階段の上からじっと見守っていた。
裕が懸念していた通り、他のレコード会社との契約も次々と打ち切られてしまった。
高圧的に「契約を切ります」と言ってきた会社もあれば、ミズキのマネジャーのように平身低頭して謝った会社もある。
――どの会社と長くつきあえるのかを判断する、いいきっかけになったかもしれないな。
裕は前向きにとらえるようにした。
なかには、「ペンネームを使ったらどうか」と提案してくれる人もいた。
だが、そんな小手先の方法では官邸にすぐバレるだろう。印税の振込先をたどったら、すぐ裕にたどり着く。
レイナのレーベルだけ、まだ何の連絡もない。
二枚目のアルバムをつくるところだし、抵抗してくれているのだろうと、裕は楽観的に考えていた。
アルバムのレコーディングを始める日。
レイナと裕はレーベルが用意してくれたスタジオに向かった。
「バンドの人たちは、また同じなの?」
「うん。既に録音は済ませてるはずだよ」
「そっかあ。今日は会えないのかな。ドラムの龍さんと会うの、楽しみにしてたのに」
「龍さんにそう伝えとくよ。きっと喜ぶから」
車の中でワイワイと話しているうちに、スタジオに着いた。
車から降りると、レコード会社の社長とレイナ担当の男性がいた。二人とも、顔がこわばっている。
「あ、原さん、こんにちはー!」
レイナは無邪気に挨拶するが、瞬時に裕は何が起きたのか悟る。二人はレイナの顔を直視できない。
「ほんっとうに、申し訳ない!」
社長の嶋根は頭を下げ続ける。原はうっすらと涙を浮かべていた。
「もう他のレーベルの話も聞いています。うちも、西園寺先生の曲を配信停止するように言われまして。レイナちゃんだけは認めてほしいと、私も官邸に足を運んでお願いしたんです」
「そこまでしていただいたんですか」
「でも、総理の秘書から、例外は認められないって突っぱねられて。従わないと、うちの会社で出している曲、西園寺先生以外の曲もすべて配信停止にするぞって言われて」
「それは脅迫ですね」
「おっしゃる通りです。脅迫に屈するなんて、僕としても情けない限りで。でも、会社をつぶすわけにはいかないし……」
裕はため息をついて肩を落とす。
レイナは「どういうこと?」と二人の顔を交互に見比べる。
「すまない、レイナ。レコーディングはもうできないんだ。二枚目のアルバムは出せなくなった。それだけじゃない。一枚目も、もう売れなくなる。CDも出せないし、音楽配信サイトで出すこともできなくなったんだ」
「なんで? どういうこと?」
「それは、帰りの車でゆっくりと説明するから」
裕は不安がっているレイナに、優しく諭す。
「それより、バンドのメンバーは大丈夫ですか? もう録音は済んでたんですよね」
「彼らには、これから伝えます。報酬はちゃんと払うつもりです……先生にも、わずかですが。曲は10曲仕上げていただいているので、その分だけでも」
「何とかならないんですか? 海外で発売するとか」
それまで唇を噛んで黙っていた原が口を開く。
「海外で出すなら、官邸も手も口も出せないですよね」
「その場合は、うちの会社は一切関わらないことになる。海外の会社に著作権を譲ることになるかな。もちろん、それで曲が生き残るのなら、譲ってもいい。こんな名曲を埋もれさせるわけにはいかないし」
「スティーブさんに相談してみたらどうですか?」
二人が本気で曲の行く末を案じていることに、裕はわずかな救いを感じる。
「いろいろと考えていただいて、ありがとうございます」
二人に深々と頭を下げた。
その日もレイナは、日課であるベルの散歩に出かけた。
ゴミ捨て場の住人が近くに越してきてからは、団地に立ち寄ってクロやマサじいさんに挨拶するのも、朝の日課の一つになった。
最初は、ベルはクロを怖がって吠えまくっていたが、今では仲良しになり、一緒に庭を駆けまわっている。
「どうした? 元気ないじゃないか」
マサじいさんは相変わらず庭につくった畑仕事に精を出している。
犬が遊んでいるのを膝を抱えて見ているレイナの表情が暗いことに、すぐに気づく。
「うん……あのね、二枚目のアルバムが来年出ることになってたの」
「先生がいい曲をたくさんつくってくれたんだろう?」
「うん。それを出せなくなったの。一枚目のアルバムも、もうファンの人が買えなくなっちゃうんだって」
「そりゃ、なんでまた」
「私のことを邪魔する人がいるんだって。総理大臣が私のことをよく思ってないって言ってた」
マサじいさんは顔を上げた。
「片田か? ゴミ捨て場の住人を排除しようとして、この間もすったもんだあったばかりじゃないか」
「うん。なんかね、私がゴミ捨て場で歌ってるのが気に入らないみたい。私が総理の言うことを聞かないのも気に入らないんだって」
「そんなことぐらいで、レイナの歌を出せないようにしたのか? 心が狭いと言うか何と言うか、一国のリーダーがそんなちっぽけな人間なんてなあ」
マサじいさんはあきれ顔だ。
「何を恐れてるんだかなあ」
「恐れてる?」
「そりゃそうさ。そこまで圧力をかけてくるってことは、レイナの何かが怖いんだろう」
レイナは首をかしげる。
「まあ、すぐには意味が分からないだろうけど。でも、先生たちが何とかしてくれるんじゃないか?」
「うん。スティーブに相談して、海外で出せるようにしてみるって言ってた」
「そうか」
マサじいさんはレイナの肩をポンポンと叩く。
「まあ、なるようになるさ。人生、悪いことばかりじゃない」
団地を出て西園寺家に戻ろうと、レイナはベルの後をついて歩いていた。ベルはちょこまかとせわしなく走る。
――海外で出せるなら、日本のファンも買えるって言ってたから、何とかなるよね。裕先生も笑里さんも落ち込んでるみたいだから、私ばっか落ち込んでられない。
いつの間にか、レイナの背後に黒塗りの車が音もなく忍び寄っていた。軽くクラクションを鳴らされ、レイナは飛び上がる。
端に寄ってよけると、車はレイナを追い越すかと思いきや、ゆっくりと止まった。
ウィンドウが開き、「やあ、おはよう」と男が顔を出した――片田だった。レイナは目を見開く。
「朝早くから、犬の散歩ですか。偉いですね」
にこやかな笑顔を浮かべているが、目はまったく笑っていない。レイナは生まれて初めて、「恐怖で鳥肌が立つ」という経験をしていた。
「色々と大変みたいだね。アルバムを出せなくなったって、聞いたよ」
レイナはリードを握りしめた。ベルが心配そうな目でレイナを見上げる。
「あなたが……あなたがそうさせたって聞いた」
「おや、何のことだろう」
「官邸ってところが、レコード会社に私の曲を出すなって言ったって。官邸って、おじさんがいるところでしょ?」
片田はおじさんと呼ばれて苦笑する。
「人聞きが悪いなあ。私がそんなことをするひどい人間に見えますか?」
レイナは大きくうなずく。
「うん。見える。ママが言ってたの。言葉遣いは丁寧でも、目が笑ってない人には注意しろって」
片田の笑顔が凍りつく。
「なんで? なんでこんなことをするの?」
「私が指示を出しているわけではないですよ。勘違いしないでいただきたい」
片田は真顔になる。
「まあ、原因は君にあるんでしょ。君がいるだけで、君の大切な人たちが傷つくんだから」
「どういうこと?」
「おや、聞いてないのかな。君の大切な西園寺先生や笑里さんの仕事がなくなったってことを」
「え?」
「西園寺先生は、君の他にも、いろんな人に歌をつくってたでしょう。その歌は全部出せなくなったんですよ。笑里さんって人は、音大で教えてたでしょ、確か。その仕事も打ち切られたって聞いてます」
レイナは絶句した。
「ウソ、そんな……そんな話、先生たちしてないよ」
「君を傷つけたくなくて話してないんでしょう。美しい話だ」
片田は鼻でフンと笑う。
「だけどね、このままだと先生たちはずっと仕事がないままですよ。今の家にも住めなくなるだろうし、そんな犬を飼ってる余裕もなくなるんじゃないかな」
片田はベルを顎で指す。ベルは何かを感じたのか、低い唸り声をあげる。
「じゃあ、どうすればいいの?」
レイナはかすれた声を上げる。
「ゴミ捨て場では二度と歌わないこと。ゴミ捨て場の人たちと交流を持たないこと。それを守ってくれるなら、君はアルバムを出せるし、先生たちも仕事をまたできるでしょうね」
「……」
「まあ、考えときなさい。君が意地を張ってる限り、周りの人は不幸になるだけですよ」
スルスルと窓が閉まり、車は走り去った。
レイナは車が見えなくなっても、しばらく動けなかった。ベルが心配そうにレイナに向かって、「ワン」と吠える。