ある日、地球に幾らかの小隕石が降り注いで、幾つかの国が消失した。
 何年もの間隕石の雨は止まなくて、家も森も山も人も燃えていった。
 引力がどうとか、当時幼かった僕には難しくて良く分からなかったけれど、地球が色んな隕石を吸い寄せる磁石みたいになってしまったのだと、科学者だった母、星野夢は言っていた。

 本来小さな隕石は大気圏内に入るだけで燃え尽きるけれど、燃え切らずに地球に飛び込んで来たものだから、小隕石と言っても規模が違う。それが当たり前のように地球全体に降り注ぎ、あらゆるものを一瞬で潰して、砕いて、燃やして、壊した。
 地球外生命体にダーツの的にでもされてるんじゃないかと思うくらいの、まさに地獄の日々だった。

 それからしばらくして、それまでと比べ物にならない程の大きな隕石の衝突が一ヶ月後にあることを、僕達人類は知った。
 最新のテクノロジーや偉い学者さんの計算によって明らかになった、その避けようもない地球最大の危機。
 しかし件の巨大隕石に備えようにも、いつ来るとも知れない軌道の読みにくい小隕石が止むことはなくて。日々この星の命は失われていった。
 地球滅亡予想まで残り三日となった日に、生き残った僅かな人類は、せめて穏やかに眠ることを選んだ。

 そして永遠の寝床には、AIの導き出した計算によって、一番隕石の衝撃が少ないであろう海の底を選んだ。
 それが、通称『ゆりかご計画』。
 すべての命は海で生まれたと聞く。ゆりかごに揺られながら眠り、海に還るのもまた道理だ。
 生き残った人類は、持てる科学の叡知を総動員し、海の底の水圧にも耐えられるゆりかごという名の棺を作った。

 ゆりかごなんて赤ん坊をイメージさせる名称なのに、所謂コールドスリープだとか、もしも地球が奇跡的に無事だった場合の未来に希望を託すような、そんなポジティブな物じゃない。何せ冷凍し続ける為のエネルギーすら、いつまで賄えるかわからないのだ。

 何年も降り頻る隕石の雨でぼろぼろの日々を送ってきた人類に、希望なんてものは既になかった。
 求めていたのは、もう隕石に怯えなくて済む、穏やかで静かな終わり。

 そうして僕達はあの日、母の作った安らかな永遠の眠りを叶えてくれる薬を使って、棺に身を沈めた。あとは残された機械が、棺を海の底に沈めてくれると聞いていたのに。

「どうして、僕だけ目が覚めたんだろう……」

 一人呟いたところで、当然返事は無かった。最初に目が覚めたのが、もうどれくらい前なのかも正確にはわからない。日記を書き始めたのは、しばらく経ってからの気紛れだった。あの日も確か、幼き日に見た映像を夢に見て、それに影響されてだった。

 何日、何ヵ月、何年ゆりかごで眠っていたのかも不明だ。ただ唯一、記憶よりも大きくなった掌と、きつくなった洋服だけが時の経過を実感させた。

 そしてこの白く四角い部屋が、海の底にあるのか地上にあるのかすらわからなかった。壁一面が白いこの建物に窓はなく、外の情報が何も得られないのだ。

 あるのはいつ誰が用意したのかわからない、味気のない最低限の食糧と水、何処から取り入れているのかもわからない酸素。手の届かない高い天井の、いつまでも切れない丸い電気。
 それから、肌身離さず持ち歩いていたスマートフォン。
 当然コンセントもなければ電波もなさそうで、日付はとっくにエラー表記。充電も残り僅かで、使い途は無いけれど。

 それでも、内蔵された時計は生きていたお陰で大体の時間のリズムは作れたし、幼い頃に母から貰ったくまの形のストラップを見ては、心が和んだ。
 思春期に男がこんなデザインの物を持ち歩くなんて何となく恥ずかしかったけれど、僕がスマートフォンを手にした中学生の頃には、既に破壊し尽くされた世界でストラップなんていう生活に必要のない品はほとんど売ってなかったし、今こうしてこの何もない空間で狂わずにいられるのは、間違いなくこいつのお陰だ。

 くまのストラップは小さなマスコットで、手触りがいい。柔らかな綿入りだったのに、触り過ぎて潰れてきてしまったのが悔やまれる。今やもう可愛らしかった丸いフォルムは見る影もなく、言うなれば平べったい煎餅布団だ。

『これが、人類が永遠の眠りに至るまでの過程である』


 くまを指先で撫でるように弄りながら、幼い頃に見たゆりかご計画の説明映像を思い返し、ぼんやりと思考する。

 娯楽も刺激も何もない真っ白な部屋では、眠ることと食べること、そして考えることだけが、僕に出来る唯一のことだった。
 僕にはゆりかごに入った日の、十五歳までの知識しかなかったけれど、何もない空間で思考を繰り返す内に、幼い頃の記憶も少しずつ思い出せるようになっていた。

 科学者だった母が、パソコンと睨めっこしながら作っていた薬品関係の資料、片親だったから特別に託児所代わりに良く連れて行ってくれた研究施設。
 そして、ゆりかごプロジェクトの責任者だった、母の最期の大仕事。
 もしかすると、あれは疲れきった僕達を安心させて眠らせるために作った、偽物の計画だったのではないか。

 もしかすると、僕以外にもこうして何処かの部屋に、生き残った人類が居るのではないか。
 もしかすると、母は僕を生かすために、この部屋に入れたのではないか。それなら食糧や水にも説明がつく。

 そんな『もしも』が脳内を駆け巡り、とっくに捨てたはずの希望を生んだ。
 その日は仄かな希望を胸に、考え疲れて眠ってしまった。久しぶりに、心穏やかに眠れた気がする。


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 ゆっくりと眠って目が覚めると、いつもより辺りが薄暗かった。
 こんなことは初めてだ。僕は慌てて飛び起きて、唯一の光源たる丸い光を確認しようと天井を見上げる。
 光は、いつもと変わらずそこにある。けれどどうにも、端から少しずつ欠けていくのだ。その様子を呆然と眺めながら、唐突に理解した。

 光がゆっくりと端から遮られ、消えていく光景。あれは、幼い頃一度だけ見た日蝕に似ている。
 ずっと消えない謎の明かりだと思っていた丸い光は、太陽だったのか。

 記憶よりも遥かに遠くて、直視しても眩しくない小さな弱々しい光。しかしあれが太陽だとするのなら、電気もなさそうなこの空間で輝き続けているのにも説明がついた。
 改めて、太陽だと認識して手を伸ばすと、ほんの少しだけ、その光は温かい気がした。
 そして気が付いてしまった。風もない、虫すらいない、宇宙のように何の物音もしない空間。それはこの四方を囲われた部屋の中だからだと思っていた。

 外に出れられれば、その先に何かを見付けられるかもしれないと。……けれど、違った。此処は白い壁に囲まれて、ただそれだけなのだ。漠然と箱のようなイメージをしていたけれど、本当は蓋のない壁だった。
 通りで酸素は運動しても減らないし、天井は幾らジャンプしても手で触れられない。初めから完璧な囲いなど存在しなかったのである。

 そう、初めから、外は見えていた。壁と同じ真っ白な空。寸分たりとも動かない太陽に照らされ続けていた。
 海の底でも宇宙の果てでもない、けれどその世界はもう、僕の知る地球の姿ではなかった。

 やがて小さな太陽が完全に覆われて、暗くなった辺りと同化するように、芽生えたての仄かな希望が潰える。
 だって他に同じ部屋があるなら、存在しない天井部分から、物音や声の一つでも聞こえるはずだろう。他に生き物が居てくれるなら、その気配を感じないはずがない。

 僕は唯一残された、食べることも眠ることも考えることも、放棄した。僕以外のすべてが滅んだというのなら、此処で生きている意味なんて幾ら考えてもあるはずがない。
 ずっと何もなければ、それはそれで良かったのかもしれない。けれど一度希望を抱いてしまえば、それを失うことに耐えられなかった。

 隕石の衝突により地球の場所がずれたのか、自転やら公転やらのシステムが狂ったのか、はたまた太陽の方が遠くに行ってしまったのか。今まで照らされていたのが寧ろ異常なのかもしれない。真っ暗な世界に取り残されて、いつまた光が差すのかもわからない。僕の知る日蝕だとして、色々と狂ったこの環境で再び太陽が見られるようになる確証はない。

 思考を諦めようとするのに、世界を覆う完全な暗闇に、たまらなく恐怖を抱いた。皆が眠った海の底も、こんな暗さなのだろうか。仄かな光だったとしても、それが遮られ、一気に気温も下がったようだ。これまで感じなかった肌寒さを覚える。

 このまま凍死するのなら、それで良い。けれど最期にせめて孤独を和らげたくなって、手探りでスマートフォンを探す。自分の手すら見えないような暗闇でも、直ぐにそれは見付かった。柔らかなくまのマスコットを掴み、手繰り寄せる。

 温存していた電池残量を気にせず、最期は残された写真でも見ながら眠りに就こう。そう考えながら手探りで触れていると、不意に違和感を覚えた。

 この煎餅布団のように潰れたくまの、真ん中にある固さは何だ。
 今まで表面の柔らかさを慈しむばかりで、中心部のほんの僅かな固い異物感に気が付かなかった。
 僕はスマートフォンの電源を入れて、その明かりを頼りにくまの中身を確かめる。
 大切な心の拠り所を自らの手で壊すことに躊躇いがない訳ではないが、今はもう、何にも構っている余裕はなかった。

 くまの首と胴体を引き千切り、中から出て来たのは米粒より一回り大きい程度の、床に落としでもしたらごみに紛れてしまいそうな薄紅色の粒。しかしそれは、見覚えのある錠剤だった。

「これは……母さんの作った薬……?」

 あの日、ゆりかご計画始動時に配られた、安らかに永遠の眠りに就ける希望の薬だった。
 何故、これがこんな所に。
 ずきんと急に痛む頭を抱えながら、待ち受け画面に設定された母と僕が最期に撮った写真が視界に映る。
 紙の上に溢した水が染み渡るように、記憶の奥に仕舞い込んだ、あの日のことを思い出した。



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