翠蘭の出身は、朱華国の端に存在する山の奥に住む一族だ。昔はそこそこの人数がいたが、一人、また一人と若者がその地を離れ、今では極端にその数を減らしている。
その一族の長、楊家の長女――それが翠蘭であった。
楊家には、代々人を癒やす異能を持つ子どもが産まれ、その子どもが一族の長の地位を引き継ぐ。翠蘭には双子の弟がおり、彼は幼いうちからその異能を顕現させていた。
当然、次の長は彼のもの。周囲はそう見ていたし、当人たちもそのつもりで生活していたのだが――。
それは突然の出来事だった。
ある日、見知らぬ男が集落へとやってきた。彼は道に迷ったのだと言い、怪我をして動けないので助けて欲しいと頼んできた。
異能を使って癒やすことはできなくはない。だが、癒やしの力にも制限があり、自分の身に移すことでしかその力をふるえない。
「傷が癒えるまで、我が家に滞在なさるとよろしかろう」
父はそう言って、その男を家へと招いた。
――その日の晩。みなが寝静まった頃のことだ。
翠蘭は激しい物音で目を覚ました。あちこちで怒鳴り声が上がり、火の手が上がっているのか、何かの燃える焦げ臭い匂いがする。
「とうさま……かあさま……皓宇……!」
翠蘭は、震えながら家族の名を呼び、彼らを探してふらふらと部屋からさまよい出た。しかし、そこで見たのは、悪鬼さながらの恐ろしい形相で皓宇を連れ去ろうとする兵士の姿だ。
そしてそれに追いすがろうとする、父親の姿。
「待ってくれ……どうして、どうして……!」
「皇帝陛下の御ため、悪く思ってくれるな」
どん、と足で蹴りつけられ、父が地面に転がる。よく見ればあちこちから血を流していて、あれでは立っているのもやっとだろう。
だというのに、父は懸命に手を伸ばし、皓宇の名を呼んでいる。
翠蘭は恐ろしさに震え、その場から動くこともできずその様子をただ見守っていた。
そんな翠蘭に気付いたのか、皓宇がこちらに視線を投げかける。
目が合ったその時――翠蘭は激しい頭の痛みに襲われた。
(頼むよ、翠蘭……!)
そう告げる皓宇の声が、聞こえた気がするが――それは本当だったのかどうか、それすらわからない。
気付いたときには、半分燃え落ちた邸と、大怪我をした父――そして、既に亡骸となっていた母が残されていた。
翠蘭は必死に父の看病をした。その中で気付いたことだが、どうやら翠蘭は皓宇が攫われ母を亡くしたショックが引き金となったのか癒やしの力が芽生えていた。
少しずつ、父の怪我をうつしとり、けんめいに看病する翠蘭。だがしかし、現実は残酷だった。
怪我は癒えたものの、生きていく気力は戻ることなく――父もまた、その一年後、帰らぬ人となってしまったのである。
(どうして、どうして陛下はこんなむごいことを……!)
その頃、ようやく知ったことだが――当時の皇帝、美雨は病を得ており、明日をも知れぬ病状だという。
話を聞いた翠蘭は、そういうことかと奥歯を噛んだ。
(自分の命を永らえるために……皓宇を連れて行ったのか……!)
それならば、誠心誠意頼めばいいものを。どうしてあれほどまでに残虐な方法で連れ去ったのか。
哀しみと、怒りと――何もできなかった不甲斐ない自分を責める気持ち。それが、恨みになって。
(必ず、仇をとるから……!)
父も母も、そして皓宇も。翠蘭の大切な家族を奪った皇帝に、必ず復讐する。
しかし、その機会を得られぬまま――皇帝美雨は死去。怒りの矛先は、その後を継いで帝位に就いた美帆に向けられることとなる。
(直接関わっていなくても――あの女の娘というだけで理由になる……)
暗い気持ちを抱いたまま、翠蘭は皓宇の名を借りて新皇帝のための男後宮、宮官募集へと参加し、見事その一員となることに成功したのである。
後宮では、役職は内官と宮官、そして内侍省に分けられる。内官とは主に婿のことで、四夫君や九婿など、位の高い夫たちだ。それより下の位の夫たちは宮官と言い、後宮内の実際を切り盛りする役目に就く。一応その中にも序列があり、翠蘭の除された宝林はまぁ中くらい、といったところだろう。
これだけ男がいても、女は一人、皇帝のみ。たいていの場合、閨に侍ることを許されるのは四夫君がいいところだという。けれど過去には、翠蘭の除された正六品やそれ以下の夫が寵を受けた試しもある。
(万が一、その機会があれば……とはおもっているのだけれど……)
後宮を開いて三ヶ月、その間女帝の閨に呼ばれた男は皆無。そればかりか、皇帝は後宮内に姿を見せることすらない。
「おまえは可愛い顔をしているし、物珍しさに陛下も目をお留めになるかもしれんな」
「そんなことあるものか……可愛いなどと言われて喜ぶ男はいない!」
いつものようにそう揶揄われ、翠蘭は渋面を作る。だが内心では「そうだったら楽なのに……」と思っていた。
その一族の長、楊家の長女――それが翠蘭であった。
楊家には、代々人を癒やす異能を持つ子どもが産まれ、その子どもが一族の長の地位を引き継ぐ。翠蘭には双子の弟がおり、彼は幼いうちからその異能を顕現させていた。
当然、次の長は彼のもの。周囲はそう見ていたし、当人たちもそのつもりで生活していたのだが――。
それは突然の出来事だった。
ある日、見知らぬ男が集落へとやってきた。彼は道に迷ったのだと言い、怪我をして動けないので助けて欲しいと頼んできた。
異能を使って癒やすことはできなくはない。だが、癒やしの力にも制限があり、自分の身に移すことでしかその力をふるえない。
「傷が癒えるまで、我が家に滞在なさるとよろしかろう」
父はそう言って、その男を家へと招いた。
――その日の晩。みなが寝静まった頃のことだ。
翠蘭は激しい物音で目を覚ました。あちこちで怒鳴り声が上がり、火の手が上がっているのか、何かの燃える焦げ臭い匂いがする。
「とうさま……かあさま……皓宇……!」
翠蘭は、震えながら家族の名を呼び、彼らを探してふらふらと部屋からさまよい出た。しかし、そこで見たのは、悪鬼さながらの恐ろしい形相で皓宇を連れ去ろうとする兵士の姿だ。
そしてそれに追いすがろうとする、父親の姿。
「待ってくれ……どうして、どうして……!」
「皇帝陛下の御ため、悪く思ってくれるな」
どん、と足で蹴りつけられ、父が地面に転がる。よく見ればあちこちから血を流していて、あれでは立っているのもやっとだろう。
だというのに、父は懸命に手を伸ばし、皓宇の名を呼んでいる。
翠蘭は恐ろしさに震え、その場から動くこともできずその様子をただ見守っていた。
そんな翠蘭に気付いたのか、皓宇がこちらに視線を投げかける。
目が合ったその時――翠蘭は激しい頭の痛みに襲われた。
(頼むよ、翠蘭……!)
そう告げる皓宇の声が、聞こえた気がするが――それは本当だったのかどうか、それすらわからない。
気付いたときには、半分燃え落ちた邸と、大怪我をした父――そして、既に亡骸となっていた母が残されていた。
翠蘭は必死に父の看病をした。その中で気付いたことだが、どうやら翠蘭は皓宇が攫われ母を亡くしたショックが引き金となったのか癒やしの力が芽生えていた。
少しずつ、父の怪我をうつしとり、けんめいに看病する翠蘭。だがしかし、現実は残酷だった。
怪我は癒えたものの、生きていく気力は戻ることなく――父もまた、その一年後、帰らぬ人となってしまったのである。
(どうして、どうして陛下はこんなむごいことを……!)
その頃、ようやく知ったことだが――当時の皇帝、美雨は病を得ており、明日をも知れぬ病状だという。
話を聞いた翠蘭は、そういうことかと奥歯を噛んだ。
(自分の命を永らえるために……皓宇を連れて行ったのか……!)
それならば、誠心誠意頼めばいいものを。どうしてあれほどまでに残虐な方法で連れ去ったのか。
哀しみと、怒りと――何もできなかった不甲斐ない自分を責める気持ち。それが、恨みになって。
(必ず、仇をとるから……!)
父も母も、そして皓宇も。翠蘭の大切な家族を奪った皇帝に、必ず復讐する。
しかし、その機会を得られぬまま――皇帝美雨は死去。怒りの矛先は、その後を継いで帝位に就いた美帆に向けられることとなる。
(直接関わっていなくても――あの女の娘というだけで理由になる……)
暗い気持ちを抱いたまま、翠蘭は皓宇の名を借りて新皇帝のための男後宮、宮官募集へと参加し、見事その一員となることに成功したのである。
後宮では、役職は内官と宮官、そして内侍省に分けられる。内官とは主に婿のことで、四夫君や九婿など、位の高い夫たちだ。それより下の位の夫たちは宮官と言い、後宮内の実際を切り盛りする役目に就く。一応その中にも序列があり、翠蘭の除された宝林はまぁ中くらい、といったところだろう。
これだけ男がいても、女は一人、皇帝のみ。たいていの場合、閨に侍ることを許されるのは四夫君がいいところだという。けれど過去には、翠蘭の除された正六品やそれ以下の夫が寵を受けた試しもある。
(万が一、その機会があれば……とはおもっているのだけれど……)
後宮を開いて三ヶ月、その間女帝の閨に呼ばれた男は皆無。そればかりか、皇帝は後宮内に姿を見せることすらない。
「おまえは可愛い顔をしているし、物珍しさに陛下も目をお留めになるかもしれんな」
「そんなことあるものか……可愛いなどと言われて喜ぶ男はいない!」
いつものようにそう揶揄われ、翠蘭は渋面を作る。だが内心では「そうだったら楽なのに……」と思っていた。