彼女のその笑顔は、海より熱い真夏の太陽とジメジメする空気も吹き飛ばす。
いつも避けるように遠くからひっそりと僕を眺めていた奏の目が、とても柔らかく自然になった。
よかった。
これから少しずつ、少しずでもいいから、彼女はきっと僕のことを好きになる。
僕は彼女と恋をする。

 そう思っていたのに、水着に着替えてプールサイドへ上がったら、待っていたのはガッツリ腕組みをして、異様に気合いの入った筋肉ムチムチの岸田くんだった。

「よし、宮野! 今日から特訓だ!」
「やだよ。僕は奏に教えてもらうって約束したんだ」
「なんで俺じゃダメなんだよ」
「そんなの、ダメに決まってるでしょ」

 僕は足からドボンと水に飛び込む。
いずみが貸してくれたビート板というのが、最近のお気に入り。
このつるつるしたピンクの板につかまっていると、体がぷかぷか浮かぶのが凪いだ海の中にいるようで心地いい。

「まずは平泳ぎだ。見たことないって言ってただろ。とりあえす体の動きは覚えてきたか?」
「僕は奏の言うことしか聞かないよ。奏に教えてもらうって約束したんだもんね」
「うるせぇ。男子部員の面倒をみるのは俺だ!」

 奏の姿を探しても、プールのどこにも見つからない。
まだ更衣室から出てきてないみたいだ。
本当に女の子というのは、色々と時間がかかるらしい。
それは人魚も人間も変わらないんだ。
岸田くんから泳ぎ方のアレコレを説明されても、何にも楽しくない。
そして奏がいないプールなんて、どうだっていい。

「だから潜ってばっかじゃダメだって、何度言ったら分かるんだ」
「でもその方が速いよ」
「それはみんな分かってるし知ってるけど、そういうルールなんだよ」
「じゃあなんでそうやって泳がないんだよ。意味分かんない」

 人間の作ったルールというやつは、本当に分からない。

「こんな変な泳ぎ方して、何が楽しいの?」
「うるせー、お前に変とか言われても、全然何とも思わねぇし!」
「あ。奏が来た」

 ようやく出てきた彼女に手を振る。

「かなで! 早く平泳ぎ教えて!」
「ちょっといずみとお話しがあるから、先に岸田くんに教えてもらってて」

 なにそれ。
僕は奏がいなければ、こんなところにだって来てないし、ビート板と一緒に浮かんでなんていないのに。

「ほら。愛しのカナデチャンの仰せだぞ」
「あーもう飽きたぁ」
「まだなんもやってねぇよ!」

 僕がプールの隅っこで、岸田くんからあれこれ怒られている間にも、他のみんなは両腕をぐるぐる回したり、左右に伸ばしたり引いたりしながら、バシャバシャ水しぶきを立て、ひたすら往復運動をくり返している。
岸田くんはずっと一人で一生懸命何かしゃべってるけど、僕は別に彼と話したいわけではないから、楽しくはない。

「なぁ、お前聞いてる?」
「あんまり」
「あぁ。もういいよ。俺もぶっちゃけ飽きてきたし」

 文句を言うことに疲れたらしい彼は、ようやく僕のそばを離れた。
水に浮くレールをくぐり、その壁際で水面に頭を引っ込めると、ついと壁を蹴って泳ぎ出す。
僕の目は、自然と彼を追いかけていた。

 岸田くんは、筋トレの時もそうだったけど、やっぱり他の人間とはちょっと違う。
人間特有の変な泳ぎ方には間違いないけど、動きがシャープでキレがある。
他の人間より、ずっと速い。
なるほど。
そんな彼の泳ぎを見ていれば、ここのルールでは岸田くんが一番になるはずだ。
彼の泳ぎ方を見ていると、人間の泳ぎ方というのも、見方によってはこれはこれでいいのかもしれないと、初めて思えた。

 ビート板につかまったまま、そんなふうにぷかぷか浮いて他の人間が泳いでいるのをみていると、ふとそこに奏の姿を見つける。
全員が帽子をかぶりゴーグルもしているから、誰が誰だか分かりにくい。

「かなで!」

 僕が手を振ると、ようやく彼女はこっちを見た。
その彼女に、岸田くんが何かを話しかける。
奏は岸田くんといくつかの言葉を交わしてから、こっちへやって来た。

「奏が平泳ぎ教えてくれるって言ったから、ずっと待ってたのに」

 ビート板につかまり浮かんでいる僕を見て、彼女は笑った。

「岸田くんの方が色々上手だから、その方がよかったかもよ」
「僕は奏の方が好き。奏がいい」
「はは。じゃあ平泳ぎからね」

 奏が僕に向かって話し始める。
僕は何も知らないフリをして、彼女に質問する。
教室でプールの雑誌は見せられてたし、さっきの岸田くんの話だって、全部じゃないけど少しは聞いてあげていたから、もう平泳ぎが全く分からないわけじゃない。
それでも僕は、できるだけたくさんの声を、奏の口から僕にだけ発せられる言葉を、もっと聞きたくてそうしている。

「ね、奏は平泳ぎ好き?」
「好きだよ」
「クロールは?」
「クロールも好き」
「僕はバタフライかな。平泳ぎはあんまり好きじゃない」
「あ。でもやっぱり、全部練習しないとダメだよ」
「なんで?」
「個人メドレーは?」
「なにそれ」
「あー。そっか……。本当に何にも分かんないんだね」

 奏は困ったような顔をした。
僕はもっと分からないので、そのままぽちゃりと水に沈んでおく。

「これは大変だ。次の予選会の出場メンバー。男子は揉めそうだね」

 それでも、奏といるのは楽しい。
毎日プールの水に漬かっているせいで、最近は全身にあの独特な臭いが染みついてしまったみたいだ。
こんな臭いをつけて海の仲間に会ったら、きっとめちゃくちゃ嫌がられるだろうな。
僕だって本当は嫌だけど、なんとなく慣れてはきた。

 その奏が困っていた予選会が近いとかで、近頃は昼休みにも岸田くんの周りに同じ水泳部の男子が集まり、なにやら話し合いを続けている。
僕はつまらないから奏のところへ行ってたいけど、岸田くんが「お前もここにいろ」とか言って離してくれないから、動きたくても動けない。
せっかくの自由時間なのに、ようやく話してもよくなった奏に声をかけられず、遠くから見ているだけだなんて、本当に面白くない。

「よし、分かった!」

 その男だらけの輪の中で、急に岸田くんは大きな声を出した。