バシャバシャと死にかけた魚のように泳いでるくせに、きれいに一列にならんで順番にお行儀よく泳いでいる光景は、とても不思議だ。
水面であんなに水しぶきをあげていたら、すぐにシャチとかサメが来て食べられちゃう。
見つけてくださいって、いってるみたいなもんだ。
あいつら容赦ないからな。
必死で逃げまわる切羽詰まった瀬戸際の魚みたいなのに、楽しそうにしているのは違和感しかない。
跳ね上がる水しぶきとキラキラ光る水面の合間に、奏を見つけた。
彼女は一生懸命に泳いでいた。
四角い小さな水たまりの長い方の距離を、壁に行き当たっては折り返し、また折り返しを何度も繰り返し、飽きることなく往復している。
筋トレもそうだけど、人間というのは、同じことをいくら繰り返しても飽きない性分らしい。
「あー。ダルいし気持ち悪いし退屈すぎ」
奏のことは見ていたいけど、とにかくここでは気分が悪くなる。
もう寝るしかない。
頭にタオルをかぶると、そこで目を閉じた。
「宮野。お前も来いよ」
しばらくそうやって道具の数を数えててばかりのいずみの横で休んでいたのに、プールから上がってびしょ濡れの岸田くんがやってくる。
仕方なくタオルをから顔をのぞかせているだけなのに、彼は全身から水をぽたぽた垂らしながら、僕のタオルを奪いとった。
「やだよ。水は臭いし水着は気持ち悪いし。みんな何してるの? いつもの筋トレはまだ?」
「あーもう。説明するのも面倒くせぇ!」
彼は突然、僕の腕を掴むと強く引き寄せた。
「うわっ! なにすんのさ」
ベンチに寝転がっていたのに、あっという間に水際まで連れて行かれる。
「え。なになに? ちょっと待って!」
「うるせー。これが水泳部ってヤツだよ!」
彼に背を押され、ドボンと水中に放り込まれる。
見た目よりずいぶん冷たい水に、体が沈んでゆく。
「ごたごた言ってねーで、お前も一回泳いでみろ!」
ここに入る気がしなかったのは、透明できれいすぎる水と、そこに混ぜられた変な薬のせいだ。
早く抜け出したい。
僕はすっぽりと全身を水中に沈めたまま、壁を蹴り反対側まで一気に泳ぎ抜けた。
じゃないとすぐに岸田くんに捕まっちゃう。
水深なんてあってないようなものだから、泳いでいた人間の真下や横をするするくぐり抜け、ぶつからないようにするのが精一杯だった。
鱗もないんだし。
固い底のコンクリートに体をすりつけでもしたら怪我しちゃう。
そして何よりも、このきれいすぎる水が気持ち悪い。
僕の出せる最速でプールの反対側にたどり着くと、すぐにこの薬液から抜け出した。
「ねぇ。シャワー浴びてきてもいい?」
本当は、この水道というところから出てくる水だって、あんまり好きじゃない。
だけど、このプールの水よりはずっとマシだ。
「あ……。あぁ。うん。いいよ」
岸田くんは、まるでそれ以外の言葉を忘れてしまったかのように、ぽかんと僕を見ている。
いずみまでもが、大きな口をぽっかりと開けたまま閉じるのを忘れていた。
「なに?」
みんなと違うことをすると、普段はすぐに岸田くんといずみは怒り出すのに、今は何も言わないまま2人はただ首を横に振る。
シャワーを浴びて戻って来た僕に、岸田くんは言った。
「なぁ、宮野。もう一回泳いでみて」
「やだよ」
「なんで」
「気分が悪いんだ」
「体調悪いのか」
「だから、それとはちょっと違うんだって」
この臭い水の中にもう一度入りたくないだけなんだけど、そんな本当のことを言ったらまた怒られそうだからやめておく。
奏はこの水の中でも、楽しそうに泳いでいたし。
再び階段ベンチの日陰に戻った僕に、岸田くんは何も言わなかった。
彼はプールに戻ると、また人間特有の泳ぎ方でバシャバシャ泳ぎ始める。
いずみがタオルを持ってきて、僕に渡してくれた。
「宮野くん。熱でもあるの? 今日は見学にしとく?」
「いや。体調はわるくないよ」
「だって気分悪いって」
「だから、それとはちょっと違うと思う」
「そうなの?」
「うん」
再びコンクリートの上に打ち付けられた、固いプラスチックの板に寝転がる。
この水着というものは、水に濡れると気にならない程度の履き心地になるらしい。
下半身の締め付けからは、ようやく解放された。
「宮野くん、すごいじゃない」
頭にタオルをかけたとたん、プールの臭いをさせた奏がやって来た。
もちろん僕は飛び起きる。
「すごい。お魚みたいだった。ねぇ、もう一回泳いで見せて。お願い」
「あ……、うん。それはいいけどさ。ちょっと休憩させて」
その言葉に、断られると思っていなかった彼女は、少し戸惑ったようだった。
奏の頼みなら、きいてあげられないわけではないけど、とにかく今はこの水のせいで気持ちが悪い。
「あぁ、うん。別に無理はしなくていいの。全然。私も宮野くんが泳いでいるところを、もう一回ちゃんと見たいなっていう、それだけだから」
「約束はちゃんと守るよ」
「じゃあ、また後でね」
奏との約束。久しぶりの約束だ。
奏の方から話しかけてきてくれたことが、何よりもうれしい。
彼女はまた水の中へ戻ってゆく。
その二本の足が、もし大きな人魚の尾びれだったなら、きっともっときれいだったろうなんて、今さらのように思う。
ここが僕たち以外他に誰もいない海の中で、彼女が人魚だったら、僕はきっともっと上手に接することが出来ただろう。
彼女ともすぐに、仲良くなれたに違いない。
寝ているふりして階段の上から彼女を眺めながら、ついそんなことを考えてしまう。
しばらくして、いずみの合図で泳いでいた全員が水から上がってきた。彼らも少し休憩するみたいだ。
再び奏がやって来る。
「ね、お願い。もう一回だけでいいから、50メートル泳いでみて」
「50メートル?」
「そう。このプールを、一回泳いで、折り返して戻ってきて」
奏との約束だから、今度は彼女に言われるがまま、僕は素直にプールの端に並んだ台の上に立った。
「あ。ねぇ、ゴーグルは?」
「いらない。ここからあの端っこまで行って、また戻ってくればいいの?」
彼女はうなずく。
いずみが合図を出してくれるらしい。
水泳部員たちは、プールサイドにびっしりと並んで、僕を見ることにしたようだ。
「用意、スタート!」
本当はこんな臭う水なんかで、泳ぎたくはないんだけど。
いずみの合図で、それでも僕は真っ直ぐ伸ばした腕から、水中へ飛び込んだ。
浅すぎて水底まで届く光に、視界は良好だけど、目がやたらヒリヒリする。
やっぱりこの水は、なんかヘンだ。
まばたきを一つする間に壁までたどり着くと、そのまま水中で方向転換して、もとの位置へ戻る。
そうだ。
僕はもう人魚ではないから、人間みたいに頻繁に呼吸をしなくちゃいけなかった。
息継ぎをしようかとも思ったけれども、ゴールも近いし面倒くさいからやめる。
そんなことより、早くこの水から上がりたい。
スタート地点の壁に手をついてから、水面に顔を出した。
特に息は苦しくならなかったけど、それでも潜っていられる時間は、以前よりだいぶ落ちているようだ。
水から上がった僕に、いずみはぼそりとつぶやいた。
「ねぇ、信じられない記録なんだけど」
見ていた岸田くんは、イラついたように舌を鳴らす。
「ふざけんな。あんなドルフィンキックだけのバサロでいくら泳いだって、ダメに決まってるだろ」
タオルで臭い水を拭いている僕に、岸田くんは詰めよった。
「お前、今まで本当に泳いだことなかったのかよ」
「え。ないよ」
「は? 喧嘩売ってんのか。マジで誰にもなんにも教わってないんだな」
僕にはどうして、岸田くんが怒っているのかが分からない。
だって、人間になってからの話しだよね。
人魚の時のことは関係ないよね?
大体僕は、あんな変な泳ぎ方なんて、したことない。
不安になって奏を振り返る。
「いいの! いいのよ、宮野くん。今はこれでも、これから覚えればいいんだから、それでいいじゃない」
むき出しの腕に、不意に奏の手が触れた。
僕はそれにびっくりして、触れられたその部分だけが、僕の肌ではなくなったみたいになる。
「ね。これから一緒に、泳ぎ方を覚えよう。私が教えてあげる」
「う、うん」
彼女にそんなことを言われて、逆らえるわけがない。
「本当に奏が教えてくれるの?」
「教える。教えてあげる!」
陸に上がってから初めて、奏が本当にうれしそうな顔を僕に見せてくれた。
「今からちゃんと、練習しよう!」
僕はその瞬間、この臭い水も熱いコンクリートも、ちゃんと我慢することに決めた。
そんなことがあってから、奏は急に僕に親しく接するようになってくれた。
学校に来ると一番に僕のところへやって来て、ペラペラの薄くて人間が泳いでいる写真ばかりの本を開き、何かを一生懸命しゃべっている。
僕には彼女が何を言っているのか、さっぱり分からなかったけど、嬉しそうに話す奏を間近で見ているだけで十分だった。
岸田くんもやってきて、奏と一緒になってずっとしゃべっている。
僕はそれに適当な相づちをうちながら、楽しそうに話す二人をみている。
「はい。この雑誌、宮野くんにあげる」
奏からの初めてのプレゼントだ。
「ちゃんと自分でも読んでおいてね」
「うん」
そのペラペラの本に映っている人間は、他のみんなと同じく盛大に水しぶきをあげて泳いでいて、正直こういう泳ぎ方はどうなのかとまだ思っているけど、これが人間流だというのならそれでもいい。
奏もそんな泳ぎ方するし。
陸の太陽は海よりも暑くて、空が悲鳴を上げているのかと思ったら、これはセミという虫の鳴き声なんだって。
陸には海にはない生き物がいっぱいいる。
「まずは飛び込みのルールから覚えないとね、姿勢良くきちんと飛び込まないと、突然『失格!』なんて言われることも少なくないから。飛び込み台に向かう時から、笛の合図まで一連の流れを覚えよう」
放課後になって、プールへ向かう道のりを、奏と二人並んで歩いている。
いつかこうなると思ってはいたけど、いざそうなるととても嬉しい。
楽しそうに話す彼女の隣で、僕は形のいい目元と頬骨付近ばかりを見ている。
あの変な臭いのするプールに毎日浸かっているのにもかかわらず、奏の髪からはとてもいい匂いがした。
「宮野くんは、何が得意? やっぱりバタフライかな。クロールとか平泳ぎは出来る? どんな泳ぎ方をしたって、うちのどの男子部員より、全部速そうだけど」
「泳ぎでは負けないって言ったよね」
「そうだったっけ。だけど、本当にこんなに凄いと思わなかったよ」
「見直した?」
「あはは。見直した見直した!」
奏さえ笑っていてくれるのなら、僕は何だっていいんだ。
彼女の微笑みに、僕は満足している。
「そういえば、岸田くんが困ってたよ。リレーのメンバーどうしようかって。宮野くんの出られそうな種目と距離も考えなくちゃって」
「そうなの? 奏は、岸田くんとお話出来たんだ」
「嬉しそうだったよ。すっごく。みんなもびっくりしてた」
僕の隣で笑うこの彼女のためなら、僕は何だって出来る。
「よかったね」
「岸田くんはずっとバタフライだったんだけど、宮野くんに譲るって言ってたよ。宮野くん体力ないから、長距離は岸田くんが出て、短距離を任そうかって」
「そうなの?」
「うん。まだどうなるのか、ちゃんと決まってないみたいだけどね。他の部員との調整もあるし」
彼女に寂しい思いはさせたくない。
僕は必ず君を笑顔にしてみせる。
もうすぐ部室に着くから、一旦はお別れするけど、またすぐ一緒になれるのはいい。
「ねぇ奏。今度から、僕から話しかけてもいい? 泳ぎ方とか、他にも色々聞きたいことがあるんだ」
「え? そんなこと、まだ気にしてたの?」
「奏との約束は、ちゃんと全部守るよ」
「あー……。うん。分かった。じゃあね、一回リセットしよう」
「リセット?」
「そう。私とした約束は、全部なし」
「どういうこと?」
「気にしなくていいよってこと!」
プール前の広場につくと、彼女は女子更衣室のドアに手をかけた。
僕はそこには入れない。
せっかく許可がもらえたのに、今日はこれでお終い?
「着替えたら、一緒に泳いでくれる? 平泳ぎってのが、よく分からないんだ」
「了解!」
彼女のその笑顔は、海より熱い真夏の太陽とジメジメする空気も吹き飛ばす。
いつも避けるように遠くからひっそりと僕を眺めていた奏の目が、とても柔らかく自然になった。
よかった。
これから少しずつ、少しずでもいいから、彼女はきっと僕のことを好きになる。
僕は彼女と恋をする。
そう思っていたのに、水着に着替えてプールサイドへ上がったら、待っていたのはガッツリ腕組みをして、異様に気合いの入った筋肉ムチムチの岸田くんだった。
「よし、宮野! 今日から特訓だ!」
「やだよ。僕は奏に教えてもらうって約束したんだ」
「なんで俺じゃダメなんだよ」
「そんなの、ダメに決まってるでしょ」
僕は足からドボンと水に飛び込む。
いずみが貸してくれたビート板というのが、最近のお気に入り。
このつるつるしたピンクの板につかまっていると、体がぷかぷか浮かぶのが凪いだ海の中にいるようで心地いい。
「まずは平泳ぎだ。見たことないって言ってただろ。とりあえす体の動きは覚えてきたか?」
「僕は奏の言うことしか聞かないよ。奏に教えてもらうって約束したんだもんね」
「うるせぇ。男子部員の面倒をみるのは俺だ!」
奏の姿を探しても、プールのどこにも見つからない。
まだ更衣室から出てきてないみたいだ。
本当に女の子というのは、色々と時間がかかるらしい。
それは人魚も人間も変わらないんだ。
岸田くんから泳ぎ方のアレコレを説明されても、何にも楽しくない。
そして奏がいないプールなんて、どうだっていい。
「だから潜ってばっかじゃダメだって、何度言ったら分かるんだ」
「でもその方が速いよ」
「それはみんな分かってるし知ってるけど、そういうルールなんだよ」
「じゃあなんでそうやって泳がないんだよ。意味分かんない」
人間の作ったルールというやつは、本当に分からない。
「こんな変な泳ぎ方して、何が楽しいの?」
「うるせー、お前に変とか言われても、全然何とも思わねぇし!」
「あ。奏が来た」
ようやく出てきた彼女に手を振る。
「かなで! 早く平泳ぎ教えて!」
「ちょっといずみとお話しがあるから、先に岸田くんに教えてもらってて」
なにそれ。
僕は奏がいなければ、こんなところにだって来てないし、ビート板と一緒に浮かんでなんていないのに。
「ほら。愛しのカナデチャンの仰せだぞ」
「あーもう飽きたぁ」
「まだなんもやってねぇよ!」
僕がプールの隅っこで、岸田くんからあれこれ怒られている間にも、他のみんなは両腕をぐるぐる回したり、左右に伸ばしたり引いたりしながら、バシャバシャ水しぶきを立て、ひたすら往復運動をくり返している。
岸田くんはずっと一人で一生懸命何かしゃべってるけど、僕は別に彼と話したいわけではないから、楽しくはない。
「なぁ、お前聞いてる?」
「あんまり」
「あぁ。もういいよ。俺もぶっちゃけ飽きてきたし」
文句を言うことに疲れたらしい彼は、ようやく僕のそばを離れた。
水に浮くレールをくぐり、その壁際で水面に頭を引っ込めると、ついと壁を蹴って泳ぎ出す。
僕の目は、自然と彼を追いかけていた。
岸田くんは、筋トレの時もそうだったけど、やっぱり他の人間とはちょっと違う。
人間特有の変な泳ぎ方には間違いないけど、動きがシャープでキレがある。
他の人間より、ずっと速い。
なるほど。
そんな彼の泳ぎを見ていれば、ここのルールでは岸田くんが一番になるはずだ。
彼の泳ぎ方を見ていると、人間の泳ぎ方というのも、見方によってはこれはこれでいいのかもしれないと、初めて思えた。
ビート板につかまったまま、そんなふうにぷかぷか浮いて他の人間が泳いでいるのをみていると、ふとそこに奏の姿を見つける。
全員が帽子をかぶりゴーグルもしているから、誰が誰だか分かりにくい。
「かなで!」
僕が手を振ると、ようやく彼女はこっちを見た。
その彼女に、岸田くんが何かを話しかける。
奏は岸田くんといくつかの言葉を交わしてから、こっちへやって来た。
「奏が平泳ぎ教えてくれるって言ったから、ずっと待ってたのに」
ビート板につかまり浮かんでいる僕を見て、彼女は笑った。
「岸田くんの方が色々上手だから、その方がよかったかもよ」
「僕は奏の方が好き。奏がいい」
「はは。じゃあ平泳ぎからね」
奏が僕に向かって話し始める。
僕は何も知らないフリをして、彼女に質問する。
教室でプールの雑誌は見せられてたし、さっきの岸田くんの話だって、全部じゃないけど少しは聞いてあげていたから、もう平泳ぎが全く分からないわけじゃない。
それでも僕は、できるだけたくさんの声を、奏の口から僕にだけ発せられる言葉を、もっと聞きたくてそうしている。
「ね、奏は平泳ぎ好き?」
「好きだよ」
「クロールは?」
「クロールも好き」
「僕はバタフライかな。平泳ぎはあんまり好きじゃない」
「あ。でもやっぱり、全部練習しないとダメだよ」
「なんで?」
「個人メドレーは?」
「なにそれ」
「あー。そっか……。本当に何にも分かんないんだね」
奏は困ったような顔をした。
僕はもっと分からないので、そのままぽちゃりと水に沈んでおく。
「これは大変だ。次の予選会の出場メンバー。男子は揉めそうだね」
それでも、奏といるのは楽しい。
毎日プールの水に漬かっているせいで、最近は全身にあの独特な臭いが染みついてしまったみたいだ。
こんな臭いをつけて海の仲間に会ったら、きっとめちゃくちゃ嫌がられるだろうな。
僕だって本当は嫌だけど、なんとなく慣れてはきた。
その奏が困っていた予選会が近いとかで、近頃は昼休みにも岸田くんの周りに同じ水泳部の男子が集まり、なにやら話し合いを続けている。
僕はつまらないから奏のところへ行ってたいけど、岸田くんが「お前もここにいろ」とか言って離してくれないから、動きたくても動けない。
せっかくの自由時間なのに、ようやく話してもよくなった奏に声をかけられず、遠くから見ているだけだなんて、本当に面白くない。
「よし、分かった!」
その男だらけの輪の中で、急に岸田くんは大きな声を出した。
「なに?」
「今日、練習終わりに選考会する」
「せんこうかい?」
「そうだ。予選会の」
何となく話しは聞いていたけど、そんなことを勝手に決められても困る。
「僕は大会には出ないよ」
「は? なんで?」
「だって。僕は別に泳ぎたくて泳いでるわけじゃな……」
その瞬間、岸田くんは僕の胸ぐらを掴むと強く引き寄せた。
いつも以上に真剣な岸田くんが真剣になりすぎている。
「それは、自分のフォームに自信がないからか、それとも他に理由があるのか言ってみろ」
「別に怒ることないじゃないか。出たい人が出ればいいんじゃないかって言ってるだけだし」
「お前は勝ちたくねぇの?」
「何に?」
ずっと岸田くんとしゃべっていた水泳部員の一人が立ち上がる。
「やっぱこんな奴、試合に出す価値ないだろ! なんでずっと頑張ってきた俺たちが試合に出れねぇんだよ!」
「だけどさ、絶対勝てるって分かってるのに、出さないのはアリなのか?」
岸田くんとみんながまた言い争いを始めている。
僕は空になった栄養ゼリーを口元にぶらぶらさせながら、早くここから抜け出したいと思っている。
不意に、岸田くんとケンカしていた男の子が、僕に向かって言った。
「宮野。お前リレーって分かるか」
「何それ」
「ふん。やっぱりな。こんな奴、全体からみたって迷惑でしかないだろ。チームワークがない。ルールも知らない。個人戦だけで十分だ。ファールとられて結局負けるだけだって」
「ファールって?」
「はは。ほらね。これで岸田も分かっただろ」
「あぁ、もういい。宮野、お前は黙ってろ」
岸田くんに突然追い払われる。
「絶対にお前も来い」って呼ばれて来たのに、この扱いは酷くない?
だけど、おかげで自由になれた。
自分の席に戻ろうと立ち上がると、奏と目が合う。
僕は引き寄せられるようにそのまま彼女に近寄り、目の前の席に座った。
「どうしたの? こっち見てたみたいだけど」
僕はうれしくてにこにこしながら彼女に話しかける。
「ううん。何でもない」
奏は自分で「なんでもない」ってそう言ったのに、何でもない様子で大きく息を吐き出し、ほおづえをつく。
「宮野くん。私たち三年生はね、この夏が最後の試合になるから、気合いが違うんだよ。学校対抗戦でも、勝ちたいと思ってるし」
「この夏が最後? じゃあ、もうみんなこれから泳がないってこと?」
「そうじゃないんだけどね」
「この夏が終わったら、もう絶対泳げないってわけじゃないんでしょう? だったら、別によくない? どうしてそんなに一生懸命なのかな」
「さぁね。なんでだろうね。このメンバーで泳げるのが、最後だからじゃない?」
「そんなの、また集まればいいじゃないか」
この夏が最後でこれでお終いなのは、彼らより僕の方だ。
なにやら言い争いを続けていた岸田くんが、急に僕たちのところへ割り込んできた。
「なぁ、奏からも言ってくれよ。お前の言うことなら、聞くだろコイツ」
「だから、それはそれでさぁ。なんか違うってこの間も……」
「頼むよ」
いつも岸田くんと話す時は楽しそうにしている奏が、すごく困っている。
困っている奏のことなら、僕は助ける。
「奏はどうしたいの? 岸田くんのお願いは、奏のお願い?」
「あぁ……。そうね。私も宮野くんに、そうして欲しいって気持ちはある」
「だったら、そうしてあげる」
それなのに彼女は、やっぱり困ったような顔をしたまま僕を見上げた。
それでも僕は、奏と一緒にいられるのなら、なんだっていい。
「じゃあさ、今日は本当に、最初から二人で練習しよう。プールで。ずっと」
「うん」
そう言った奏はあんまりうれしそうではなかったけど、困ったような顔をしていたけど、それでも一緒にいられるなら、どうだってよかった。
放課後になって、僕は本当に奏と二人だけでレーンの中にいた。
水の中で二人で並んで、しかも立ってるなんて、不思議な気分だ。
「宮野くんは、何が苦手なんだっけ。平泳ぎ? ルールブックは読んでくれてるんだよね」
「見たよ」
「私も大会に向けて練習したいから、手短に済ますけど、後でちゃんと自分で練習するんだよ」
今日の天気は薄曇りで、ちょっと肌寒いけど、水の中なら温かい。
奏はぽちゃりと肩までを水に沈めた。
「奏は本当は、自分の練習がしたいの?」
「そりゃそうだよ。学校のプールが使える時間は短いんだから。もったいない」
奏は自分の目にゴーグルをセットした。ポチャンと頭の先まで水に沈めると、すぐに顔を出す。
「僕はもう泳げるよ。ちゃんと。みんなの見てたから、分かる」
奏にやりたいことがあるなら、奏のやりたいことをやればいい。
「教えなくていいの?」
「何が見たい? なんでも、奏の見たいものを見せてあげる」
クロールも平泳ぎもバタフライだって、もうとっくに覚えている。
「じゃ、じゃあ。クロールがいい」
「分かった」
僕は壁際に移動すると、体を水中に沈めた。
そのまま壁を蹴って泳ぎ出す。
ルールだって覚えた。
潜って泳いでていいのは15メートル。
青い線とその次の赤い線まで。
そしたら浮き上がって、腕をぐるぐる足はバタバタ。
息継ぎはしてもしなくてもいい。
なんだかふざけて泳いでるみたいで、恥ずかしくなってくる。
反対側の壁についたら、方向転換。
そのやりかたは、単純に壁タッチじゃなくて、くるりと一回転。
まぁ、確かにこっちの方が早いよね。
壁を蹴ったら足で掻くのは一回。
ほらもう、奏のところに帰ってきた。
水面から、そっと顔を出す。
僕は他の人間みたいに、下品に水音なんて立てたりしないんだから。
「ね、ちゃんと出来てたでしょ」
「は、早すぎて、よく分かんなかったよ」
気がつけば、いつも賑やかなプールが静かになっていた。
バシャバシャ跳ねる水音は完全に消え、みんな立ち止まってこっちを見ている。
「す、凄いね。本当にこんなに泳げるとは思ってなかった」
「奏も、早く泳げるようになりたいんでしょ?」
「う、うん」
「奏はね、膝に力が入りすぎてるんだ。もう少し柔らかく、足を根元から動かす感じ」
「根元から?」
「そう。下半身が下がるのが、もう少し浮いてくると思う」
「あ、ありがとう」
「僕が見ててあげるよ。やってみる?」
「う、うん!」
奏が一生懸命に水を跳ね上げ泳ぐ姿なら、いくらでも見ていられる。
彼女のどんな質問にだって、何だって答えてあげる。
バシャバシャ飛び散る水しぶきだって、彼女のものなら可愛らしいと思える。
「すごい! 宮野くんの言う通りにしてみたら、ずいぶん体が軽くなった! 楽に前に進めてる!」
「よかった」
「うれしい! ありがとう」
奏が喜んでいる。
奏にそう言ってもらえるのなら、僕はこんな臭い水の中だって平気。
戻って来た彼女の手を取り、その指先にキスをする。
「大好きだよ奏。僕のことも、好きになってくれる?」
「あー。そのことなんだけど……」
彼女は僕に取られた手を、スッと引き抜いた。
「私、他に好きな人がいるから。ごめんなさい」
「それは岸田くん?」
「そ、そうだね」
「僕も岸田くん好きだよ。奏と一緒だね」
「はは。そうだよね。よかった」
奏は困ったように顔を背ける。
奏が岸田くんを好きでも、僕のことも好きになってほしいんだ。
ふと顔を上げると、その岸田くんと目があった。
僕は彼に大きく手を振る。
「おーい! あのね、僕と奏は、二人とも岸田くんのことが……」
「ちょーっと待って!」
急に彼女に腕を掴まれ、ビクリとなった。
「ねぇ、それを言う時は、私から直接岸田くんに言いたいの。だからそれまでは、岸田くんにも他の人にも、誰にも内緒にしておいてくれる?」
「奏が岸田くんを好きってこと?」
「そう!」
「分かった。いいよ。ちゃんと約束する」
僕の肌に触れたまま離れない彼女の、手の平からの熱をずっと感じている。
また一つ約束の増えたことがうれしい。
そうやって仲を深めていけばいい。
僕たちのところへ、岸田くんはぽちゃんと飛び込んできた。
「なぁ、宮野。俺にも泳ぎ方教えてくんない?」
「やだよ」
「なんで」
「奏だけ特別。もう今日はお終い」
「は? 何だソレ!」
彼は一人で勝手にぷりぷり怒っているけど、そんなことは知らない。
無視してぷかぷか浮いていたら、そのうちどこかへ行ってしまった。
他の部員たちのところへ行ってなんかしゃべってるけど、そんなこともどうだっていい。
僕はビート板に浮かんでにこにこしながら、奏の泳ぐ姿だけを見ている。
水泳部が楽しいと思えたのは、初めてだ。
立ち止まった彼女に手を振ったのに、見えなかったのか気づかなかったのか、反応はなかったけど、それでも僕の教えたことを一生懸命やろうとしてくれているから、僕を忘れているわけじゃない。
そうやって僕はぷかぷかしながら、ずっとのんびり奏を楽しんでいる。
その日の部活を終え更衣室を出たら、いつものようにすぐ前の広場に奏と岸田くんがいた。
まだ少し髪の濡れている奏は、明るい西日を受けながらなんだかもじもじしていて、そんな彼女に岸田くんは熱心に何かを話している。
「だからさ、奏からアイツに頼むよ。別にお前が損する話しでもないだろ」
「それは分かってるよ。宮野くんから私だけ教えてもらってるってのも、それはみんなのためにならないって思ってるし。みんなも直接教えてほしいよね。私だって水泳部全体のためになればって思う。だけど私は、宮野くんとは特別でもなんでもなくて……」
そう言って見上げた奏を、岸田くんはムッと見下ろした。
「だから、なんだよ」
そう言われて、奏はまた恥ずかしげにうつむく。
もしかして奏は、岸田くんに好きだって伝えたのかな。
「何の話してるの?」
近づいた僕に、岸田くんは顔を上げる。
彼が何かを話そうとした瞬間、奏はそれを止めた。
「わ、私ね、岸田くん。宮野くんに、岸田くんのことが好きって言っちゃった」
「は? 何それ」
「だから、その……。そういうことに、しておいてほしい……」
奏は顔を真っ赤にしてうつむく。
岸田くんは彼女からの告白を、戸惑う様子もなく静かに聞いていた。
そんなこと、まるでずっと前から知っていたみたいだ。
「今の話は、それとこれと関係ないだろ?」
奏は顔を真っ赤にしたまま、うつむいて動かなくなってしまった。
岸田くんはイライラと、その茶色いサラサラした髪をかきむしる。
「だけど奏、それは……。そんなふうに思う必要はないからって、ずっと……」
彼の言葉が終わるより先に、奏は僕を振り返った。
いつものよりにっこりと、彼女は丁寧に微笑む。
「ね。だから、宮野くんゴメンね」
「なにが? 僕も岸田くん好きだよ。奏が好きなものは、全部好き」
「そっか。ならいいんだ。だけど私は、そういうのじゃないから」
奏は今度はゆっくりと、だけど真っ直ぐに岸田くんを見上げた。
「海に溺れた私を助けてくれたこと、すごく感謝してる。だから好きになったってワケじゃなくて、前からもずっと、そう思ってたから」
そう言った奏は、じっと彼を見上げていた。
そんな彼女に、岸田くんはゆっくりと言葉を選ぶように話す。
「お前の気持ちは……。その、うれしいけど。俺だって、お前のことは嫌いじゃない。どっちかっていうと、俺だってその……。だから、なんていうか……」
岸田くんの目が、チラリと僕を気にして向けられた。
それからもう一度奏に向き合うと、意を決したようにすうっと息を整える。
「悪いけど、お前とは付き合えない。俺はいま、そういうことを考えてないから」
「大会が近いから?」
「それもある。だけど、それだけじゃない」
「私とは、付き合えないんだ」
「……。悪いな」
「そっか。ありがとう」
それを言い終わった瞬間、奏は走り出した。
短いスカートの裾が、パッとひるがえる。
僕にはそんな彼女が、いま泣きながら走っているような気がした。
放ってはおけない。
「待って!」
急いで追いかけようとした僕の腕を、同時に岸田くんが掴む。
「お前もちょっと待て!」
「何がだよ。放せ!」
「放さねぇよ。いいからちょっと聞け」
どれだけ振り払おうとしても、押しのけようとしても、力ではどうしたって彼には敵わない。
奏を追いかけていきたいのに、僕はここから動けない。
「放せ! 僕は奏を追いかけなくちゃいけないんだ!」
殴りたくはないけど、殴らずにはいられない。
彼女をそのままにしておくなんて、そんなことは出来ない。
思い切って振り上げた拳は、だけど簡単に押さえ込まれてしまった。
「なぁ宮野。お前、人魚だろ。俺は去年の冬、海岸で溺れた奏を浜に残して、脱げた靴を履かせてまた海に戻るのを見た」
体の中で、ボコリと血の泡立つ音が聞こえた。
僕の体に残る人魚としての血だ。
心臓が止まる。
あの時彼女の足からポロリと外れた小さな殻みたいなものが、スニーカーという靴であることを、僕はもう知っている。
「お前が助けた後で、奏を助けたのが俺だ。お前がうちの学校に転校してきた時は、死ぬほどびっくりした」
「見てたの?」
抵抗しようと腕を動かしても、がっちりと掴んだ岸田くんの手は僕を放してくれない。
「見てたよ。お前が凄い勢いで泳ぐから、水面がさーっと一直線に盛り上がって、それでなんだろって見てたら、勢いよく浜辺に飛び上がった。奏と一緒に」
振り上げた拳から、力が抜ける。
もう立っているだけの力も残っていない。
僕はその場にガクリと膝を落とした。
「お願い。そのことは誰にも言わないで。じゃないと僕は……」
「だから、奏にまとわりついてんだろ?」
「なんで知ってるの!」
「有名な話しだろ。人魚っていえばさ。たいがいはみんな知ってるよ」
どれだけ正体を隠しても、隠しきれるものじゃないって、海のみんなも言っていた。
本当のことって、嘘はつけないよって。
「他に、僕の正体を知ってる人は?」
「いずみが知ってる」
いずみ? いずみか。
そういえばここに来た最初の頃、他の人に比べても、ちょっと僕に意地悪なような気がしてたんだ。
そうか。そういうことだったんだ。
「バカだな僕は。そんなことも知らずにいたんだ」
岸田くんといずみが知ってるっていうのなら、僕にもう逃げ場はない。
「じゃあ、僕がどうしてここに来たかも知ってるの?」
「人間になりたいってやつ?」
「そう。そうだよ。じゃないと僕は、海の泡になって消えるんだ」
海の泡になるのは怖くない。
いつだって彼らは僕らのそばにあったし、いつかはみんなそうなる。
暗い海に現れては浮かぶ透明な泡は、優しかった長老の魂で、美しい女王の欠片だ。
だけど僕が何よりも恐ろしいと思うのは、このまま自分が何にもなれずに終わってしまうこと。
「僕は、奏と一緒に生きていかなくちゃいけないんだ。勝手にそう決めたのは、僕だけど」
「俺にはよく分かんねぇけど……。まぁ、お前がそう言うんなら、そうなんだろうな」
「頼みがある。このことを、彼女に知られたらいけないんだ。じゃないと僕は、もう絶対に人間にはなれない」
岸田くんを見上げる。
僕の運命は、もう僕一人の力でどうにかなるものではなくなってしまった。
「まぁ、邪魔をする気はないけどさ。協力は出来ないぞ」
「だから奏は、さっき泣いたの? 奏は僕より、岸田くんの方が好きってこと?」
「知らねぇって!」
もしかしたら彼は、そのために奏の『好き』を断ったんだろうか。
だとしたら、奏が泣いた原因は、僕にもある。
「分かったよ。もういい。黙っていてくれるだけで十分だ。ありがとう」
震える膝を押さえ、何とか立ち上がる。
自分の体が、もう自分のものではなくなってしまったみたいだ。
たった一つの望みを叶えることが、こんなにも難しい。
自分だけの意志では、自由に動けない。
「俺がお前に協力っていうか、それを黙っててやるのは、別に脅しでもなんでもなくて、俺といずみが、お前に感謝してるからだ。特にいずみは……。あのまま奏にもしものことがあったらって思うと、今でも怖くて仕方がないって言ってる。俺だってそうだ」
そんな僕に、岸田くんはとても優しい声で言った。
「なぁ、宮野。俺からも頼みがあるんだ」
彼の茶色の目は、意地悪でもなんでもなく、とても綺麗に澄んだ目をしていた。
「奏以外のやつらにも、泳ぎを教えてくれないか。学校全体で、この夏を勝ちたい。だからその、お願いっていうか、なんていうか……」
僕はすっかり日の落ちたプール前の広場で、背の高い彼を仰ぎ見る。
ここへ来たころにはよく見ていた外灯に、ようやく灯りがついた。
そんなこと、もう僕に選択肢は残されていないじゃないか。
「うん。いいよ。約束する。ちゃんとみんなに泳ぎ方を教えるよ」
「本当か! 助かるよ。ありがとう」
岸田くんはすごく喜んでくれて、僕はそれににこりと微笑む。
彼と別れた日の沈む陸の街を、僕は使い慣れない足で歩き始めた。
翌日、僕は岸田くんに呼ばれて、水泳部のみんなの前に立たされた。
「今日の練習から、宮野が全体のコーチをしてくれることになった」
僕の突然の気の変わりように、全体がざわざわしている。
喜んでいるのが半分。
驚いているのが半分って感じ。
「聞きたいことがあったら、なんでも宮野に聞いてくれ。ヒマそうにしてる時に声かければ、それでいいってことになってるから」
集まって聞いていた水泳部のみんなは、それにちょっと笑っていた。
その笑い方は、いつも教室で向けられる、僕への笑い方とは少し種類の違うような気がした。
僕はそれに嬉しいような悲しいような、少し複雑な気分になる。
ビート板に浮かんでいる時に色々話しかけられ、僕はそれに知っているような分かったような返事を返す。
「凄いじゃない。宮野くん、どうしたの?」
奏は僕を見上げ、うれしそうにそう言った。
「あんなに嫌がってたのに。それでもやっぱり、いつかはみんなのためにやってくれるだろうとは思ってたけどね。もしかして、岸田くんの説得に負けた?」
「奏は、僕がこうすることはうれしい?」
「もちろんだよ。ちょっと見直した」
ならよかった。
昨日あんなことがあって、奏はもう学校に来ないかもしれないし、岸田くんのことも嫌いになっちゃったのかもしれないと思っていたけど、奏も岸田くんも、いままでと変わらない感じで接している。
彼女のことが心配で、本当はずっとそばから離れたくないけど、もうそんなわけにはいかない。
岸田くんがやって来て、奏に言った。
「やっぱちゃんと話せば、分かってくれる奴なんだよ。な? コイツいい奴だよ。奏もそう思うだろ?」
「うん。私だってそう思ってたよ」
岸田くんはずっと奏の前で僕のことを褒めちぎってくれてるけど、なんだか寂しそうに微笑んだ奏は、ぽちゃりと水中に沈んだ。
プールに張られたレーンを移動すると、壁を蹴る。
キラキラとした水しぶきを上げ、彼女は泳ぎだした。
「よかったな。奏に褒めてもらえて」
「そうなのかな。なんだかそんな風でもなかった気がするけど……」
岸田くんは満足したように僕の肩をぽんと叩くと、自分も泳ぎ始めた。
奏が喜んでくれたのはもちろんうれしいけど、僕に残されたモヤモヤしたものが、自分でもなんだかよく分からない。
近づいてきたいずみは、黄色くて長い髪をサラリと耳にかけた。
「岸田くんから聞いたよ。なんで突然言うこと聞くようになったのか」
そうだ。いずみも僕のことを知っている一人だった。
「私は応援するよ。奏と宮野くんのこと。もっと本気で頑張ってほしいから」
「本当に?」
「約束する」
いずみとの約束。
僕はこれから先、どれくらいの人とどんな理由で、どんな約束を交わすのだろう。
「きっとみんなにも、奏にするみたいに優しくしてる方が、奏も宮野くんのこと、好きになってくれると思うよ」
「本当に?」
「本当。嘘は言わない」
いずみは「うん」と力強くうなずく。
そんなこと、考えもつかなかった。
「だから、ちゃんといい人アピールしておいで」
「いい人アピール?」
「みんなに泳ぎ方を教えるってこと!」
いずみに言われた通り、僕はみんなから聞かれたことに、色々ちゃんと真面目に答えることにした。
泳いで見せてって言われたら泳いだし、息継ぎのコツも体の使い方も教えた。
それだけじゃなくて、好きな教科とか苦手な先生、昨日食べたものとかにも、聞かれたことにはちゃんと返事をした。
イカとかワカメとか。
そうやってしていても、奏の方から僕に話しかけてくれることは少なかったけど、それでもふとした合間に彼女と目が合うと、今までにない穏やかな笑みを浮かべてくれるようになった。
いずみの言うことは、嘘じゃなかった。
時々岸田くんの方を、寂しそうに見る彼女の目は変わらなかったけど。
そんな日々が続き、雨が降ってプールに入れなかったある日、みんなを別の教室に集めた岸田くんが話し始めた。
「もうすぐ今年の予選会が始まります。それに向けてなんですが、今年は色々と変更を予定していて……」
僕は岸田くんのアドバイスを受け、バタフライに出場することになっている。
他の部員たちと、出場種目を調整してくれたんだって。
一人でどれもこれも全部泳ぐってのは、出来ないかららしい。
「記録会だからって、気を抜くことのないようお願いします。この成績で、うちの学校のランクが決まることになるんで」
このあたりの水泳部員がみんなで集まって、記録会というのをやるらしい。
公式の大会でちゃんと泳いだ記録を持っていないと、どれだけ速く泳いでも認められないんだって。
選手の登録は、期限ギリギリでいずみが済ませてくれていた。
「特に宮野!」
突然、岸田くんは僕を名指しする。
「すぐに途中でフォームがくずれ過ぎる。お前の泳ぎは確かに速いが、それでは世間に認められない!」
「あーもう。それ何回も聞いた」
両手で耳をふさぐ。
泳ぐスピードを競うのに、どうして自分の得意な、より速い泳ぎ方で泳いではいけないのか。
なんでそれを禁止されているのか理解できない。
水中で長く潜るのは禁止とか。
頻繁に息継ぎをしなければならないという、人間特有の泳ぎ方で競うから、仕方ないのかな。
みんな一緒にーみたいな?
僕の泳ぎ方だと、他の人間はとてもびっくりするらしい。
だから、知らない人には、あんまり見せられないんだって。
だから僕が出るのは、バタフライだけなんだって。
トビウオみたいにぴょんぴょん跳ねる泳ぎ方は、海にいた時も遊びでよくやってたし、慣れてるから別にいい。
他の泳ぎ方も出来ないわけじゃないけど、もっと早く泳げる方法があるのに、ワザとヘンな泳ぎ方で競争しなければならないのは、ちょっとしんどい。
僕にはどうしても、死にかけの魚みたいに感じる。
だけどここは人間の世界で、人間が人間同士で決めたことだから、そのルールに従わないといけないことは理解できる。
僕だってこれから、その人間になるワケだし。
「他のみんなも、それぞれの出場種目と、公式ルールの再確認をお願いします。あとはとにかく、練習だ!」
おー!! という歓声が上がって、その日は筋トレ。
雨の日はいつもそんな感じ。
晴れて気温の高い日は、毎日プールに飛び込む。
人間流を覚えなくちゃいけないって言われたけど、結局自分の泳ぎやすいようにぐるぐる腕を回していたら「完璧だよ、宮野くん! やっとコツをつかめるようになったんだね」なんて、奏にほめられたりしたから、きっとそういうものなんだろうと思う。
この世界に生まれ出た瞬間から泳いでいた僕にとって、こんな狭いプーを真っ直ぐ往復するだけってのは、楽しいを通り超して狂気じみている。
奏が好きじゃなかったら、きっと好きじゃなかった。
「やっとフォームが固まってきたね。もともとドルフィンキックは得意だし、あとは腕のタイミングだけだったもんね。バタフライって苦手な人も多いから、メドレーリレーに宮野くんが入ってくれれば、心強いかも」
いよいよ記録会とかいうものが近づいてきた日、真夏の太陽に照らされ、ギラギラ光る水面のプールで、奏は言った。