春先のまだ冷たい風に、ざわりと木立が揺れる。
ここにいる人間たちの視線の全てが、たった1人の僕に集まっている。
それでも僕は、ここから動かない。ふいに奏が動いた。
「岸田くんのその言い方は、ちょっとよくないと思う。たとえ宮野くんの態度が悪かったとしても、初心者だって歓迎されるべきよ。現に、高校になってから水泳部に入ったメンバーだっているじゃない。それでも泳ぐのが好きだっていうなら、私は歓迎する」
張り詰めた空気の中、奏の手が僕の背に触れた。
彼女の目が、僕の視線と重なる。
「ね、私の話を聞いてくれる? 宮野くんにはね、筋トレが必要だと思う。いまの宮野くんにとって、一番大切で、必要なもの。それは自分で自分の体をみていて、よく分かってるでしょう?」
彼女のおだやかな微笑みに、僕はうなずく。
彼女の言うことなら、なんだって聞く。
「それは私にとっても、ここにいる皆にとっても、同じくらい大事なものなの」
「同じくらい大事って?」
「ここにいたいと思う理由」
「奏は、本当にそう思ってるの? 僕がここにいることと、同じくらいに?」
「そう。だからやってる」
それでもし、僕も彼女と同じ気持ちになれるというのなら、僕はその言葉に従おう。
「奏は好き? 水泳部と筋トレが」
「うん。好き。大好き」
「そっか。じゃあ僕も好きになる」
「よかった」
奏が好きなら、僕も好きにならなくちゃいけないから。
「だから岸田くんもみんなも、ちゃんと仲良くして」
振り返った彼女を、岸田くんは忌々しげに見下ろす。
「くだらねぇ。だったらコイツの面倒はお前がみろ!」
「男子部員をまとめるのは、岸田くんの役目でしょ。ねぇ、いずみも!」
奏の声に、黄色い長い髪の女の子はビクリと肩を揺らす。
「男女のマネージャーを兼任してるんだから、ちゃんと彼のこともケアしてあげて」
奏は改めて、そこに集まっている人間たちをゆっくりと見渡した。
「泳ぎたいって言ってる仲間を、ちゃんと受け入れることも必要だし、それも私たちの役目だと思う。同じことを、宮野くんにも言えるけどね。本当に水泳部に入るつもりなら、他のメンバーとも仲良くすること!」
奏が僕をかばってくれている。
彼女は許してくれたんだろうか。
君を泣かせてしまった僕のことを。
君が本当に僕のことを思ってくれる日がくるのだとしたら、僕がここに残る意味も出来る。
「分かった。そうする」
「ちゃんとみんなと仲良く出来る?」
「出来る」
「岸田くんの言うこと、素直に聞ける?」
「これからは、ちゃんと聞く」
「同じ水泳部のみんなとも、仲良くする?」
「する」
「そう。よかった。じゃあ私は信じるよ。だって私との約束も、ちゃんと守ってくれてるもの」
「そんなの、当然じゃないか」
じっと彼女を見つめたら、その顔はちょっと赤くなった。
「じゃあいいよ。筋トレ再開ね」
奏の顔は見る間にどんどん真っ赤になって、さっきまで一緒に体操していた女の子のところへ逃げるように行ってしまった。
「奏? ねぇ、奏は照れてるの?」
近寄ろうとした僕を、制止するように彼女は片手をあげた。
その仕草に、僕はピタリと動きを止める。
「筋トレ再開ね!」
奏が僕に話しかけてくれている。僕の方を見て、僕に声をかけてくれるから、僕はうれしくなってつい笑ってしまう。
「うん。分かった。奏がそう言うなら、いつだって僕はそうするから」
そんな奏を見ながら、僕はまだにこにこしてしまっている。
岸田くんは「はぁ~」とため息をついた。
「何なの? お前」
彼は僕に呆れてはいるけど、もう怒ってはいないようだった。
「もう俺には無理。つーか、お前とやってたら俺の練習にならないから、ペア交代な。入部、するんだろ?」
「もちろん」
「あー。だったらもういいよ。ただし、さっきの約束はちゃんと守れよ」
練習は再開された。
冬の終わりの湿っぽい広場で、いつもの風景に戻ったのはいいけれど、やっぱりプールの水は緑のまま汚くて、彼らはそこで泳ごうとする気配もない。
もしかして、僕の「泳ぐ」っていう意味と、人間の「泳ぐ」っていうのは、少し意味が違うのかなーなんて、そんなことを思い始めていた。
学校には僕は相変わらず一番に登校して、自分の席に座っている。
他にすることもないし、奏の姿を少しでも長く見ていたいから。
それなのになぜかお昼休みには、岸田くんのつくる教室での群れの仲間に入れられてしまった。
「だから宮野はさぁ、なんで飯くわねぇの?」
だけどここは水泳部ではないから、岸田くんは比較的大人しくしている。
人間というのは、時間と場所によって群れるメンバーが異なり、その中での役割も変わるのだと知った。
「どれもマズい。口に合わない」
「お前、今までどういう暮らししてきたんだよ」
「どうって……」
そんなことを聞かれても、話せることは少ないし、話す気もない。
陸で手に入る魚はどれも生臭いし、変な切られ方をしている。
そもそも死んだ魚を並べられても、食べようという気にならない。
くらげも細切れだし、口に入れていいと思えるのは海藻とアサリくらいだ。
「肉食え、肉!」
「肉ねぇ……」
結局、以前岸田くんにもらったゼリーが、のどごしがよくて味にクセもなく、そればかりを腹に入れている。
他のモノにはチャレンジする勇気もなければ、興味も引かれない。
「そんなんじゃあ、丈夫な体になれねぇぞ」
バシンと背中を叩かれる。
口にくわえていたゼリーのパックを、落としそうになった。
なんだかすっかり口に馴染んでしまって離せなくなったそれを、口元でゆらゆらさせながら、教室の向こうにいる奏を見ている。
岸田くんは、そんな僕を見ながら言った。
「今日の部活も筋トレだからな。黙ってちゃんとやれよ」
真冬の雲はゆっくりと灰色の空を流れてゆき、日差しに温かさの気配が宿り始めていた。
プール周りに植えられた背の低い木にも、活動の兆しを感じる。
岸田くんの宣言通り、プールの更衣室から出てきた僕に、奏と黄色い長い髪の女の子が近づいてきた。
「ね。宮野くん。いずみが宮野くんのための筋トレメニューを考えてきてくれたよ」
「いずみって?」
「うちのマネージャーよ。いい加減、他のメンバーの名前も覚えてくんない?」
午後の薄曇りの中で、一瞬さした光りが奏と黄色い長い髪の女の子を照らす。
彼女の名前は「いずみ」。覚えた。
「宮野くんは柔軟は問題ないけど、体力ないから。ほら、これがそのメニュー表とチェックリスト。スマホで動画見られるでしょ?」
奏はいずみに僕と話すよう促しているみたいだけど、そのいずみの方はあまり乗り気ではないみたいだ。
ムスッとしたまま、こっちを見ようともしない。
僕は気にせず奏に答える。
「スマホって?」
「鞄は?」
「置いて来た。教室」
「あぁ。分かった。もういいよ。あとはいずみから聞いて。ちゃんといずみの言うこと聞くんだよ」
せっかく奏の方から声をかけてきてくれたのに、もう行ってしまう。
本当は追いかけて行きたいけど、僕は奏との約束をちゃんと守ると決めているので、そうはしない。
少し離れたところにたたずむ、黄色い長い髪の女の子を振り返る。
奏に仲良くしろって言われたから、そうするだけ。
彼女はうつむいたまま、怯えたようにちらちらと僕を見ていた。
「いずみっていうの?」
彼女はビクリと体を震わせてから、ゆっくりとうなずく。
「よろしくね」
そう言うと、彼女はギュッと固く口を結んだまま、視線を左右に泳がせた。
彼女が何かしゃべるのを待っていたけど、何にもしゃべりたくないらしい。
「ねぇ。それを見せてくれるんじゃないの?」
彼女の抱える小さな板には、奏の説明していた紙がある。
僕はそれを見せてもらおうと、彼女に近寄った。
「いやっ!」
ドンっと押しのけられ、地面に尻もちをつく。
痛い。
だからさ、僕のお尻は出来たてほやほやなんだから、もう少し大切に扱ってほしいんだけど。
「宮野! いずみに何をした!」
彼女の叫び声を聞いた岸田くんが飛んでくる。
彼女は彼の背にパッと隠れた。
「何にもしてないよ! てゆーか、僕が突き飛ばされたんだけど」
「ご、ごめん……」
黄色い長い髪のいずみは、岸田くんの後ろでこそっとつぶやく。
「ちょ、ちょっと、あのヒトが怖かっただけだから……」
「いずみ。お前、こっち来い」
岸田くんに連れられ、彼女は学校の縁に沿って植えられている木の方へ行ってしまった。
僕は痛むお尻をさすりながら立ち上がる。
奏がやって来て、僕を見上げた。
「私、ちゃんと見てたよ。宮野くん、何もしてなかった。いずみが急に突き飛ばしただけだよね」
「奏が分かってくれてるんだったら、それでいい」
そう。奏以外のことなんて、どうだっていい。
他のことは全て、なんだっていい。
その髪に触れたい。手を握りたい。
だけど彼女は、今は真剣な目で僕を見上げているから、その黒い目をじっと見つめ返す。
「大丈夫だよ。私が後で……。ちゃんとあの二人に言っておくから」
静かに微笑んで、彼女はうつむく。
その視線はなんだか寂しそうに、ゆっくりとこちらに背を向けている二人に向かう。
岸田くんはいずみの肩に腕を回し、親しげに額を寄せ合い、黄色い長い髪の女の子と何かを相談してるみたいだ。
「いいな。いずみがうらやましい」
まだ肌寒い曇り空が、そのまま奏を取り込んでしまったみたいだ。
彼女のそんな顔を、初めてみた。
「私なのかなーって思ってた時期もあったけど、そうじゃなかったみたい」
「あの二人は、仲良しなんだね」
「そうかな。そうでもないと思うけど」
奏の目は、じっと二人の背中を追っている。
いずみが岸田くんになにかを言って、彼の手が彼女の頭をくしゃりと撫でた。
「別に。岸田くんは……。普通にああいうことが、誰にでも出来ちゃう人だから」
「奏は、あれがしてほしいの? 岸田くんが、いずみにしたみたいに」
奏が寂しそうにそう言うから、僕がやってあげる。
僕は岸田くんのマネをして彼女の肩に腕を回し、額を寄せその短いクセのある髪に指を絡める。
「こんな感じ?」
「だからさぁ! それがやりすぎだって言ってんの!」
パシリと手を払われる。
突然の奏の大声に、岸田くんといずみが振り返った。
「ねぇ、ちょっと聞いて!」
彼女はすぐさま岸田くんに駆け寄る。
いずみの肩に回っていた彼の手が解かれ、その腕はだらりと垂れ下がった。
奏はその彼の腕に触れる。
ここからは少し遠くて、奏が岸田くんに何を言っているのかまでは聞こえない。
だけど、彼に一生懸命何かを訴える彼女の目には、岸田くん以外見えていないようだ。
岸田くんは彼がさっきまでいずみにやっていたのと同じように、そしてそれはさっき僕がやったのとも同じように、彼女の頭を撫でた。
それを奏は、今度は嫌がりもせず、されるがままに許している。
僕の中で、何か知らないものがドロリと動いた。
息が苦しい。
体の内側から黒くドロリとしたモノが湧き上がる。
こんな体の重みを、海にいた時には一度だって感じたことはなかった。
吐き気がする。
気持ち悪い。
岸田くんは、さっきまでいずみにしていたのと同じように、奏の肩に腕を回す。
奏に何かをささやくと、今度はすぐにそれを外した。
僕の中で、その何かが怒りとしてはっきりと自覚される。
僕はいま、腹を立てているんだ。
何に対して?
奏に対して?
「かなでー! こっち戻って来てー! 早くー」
三人の視線が、僕に集まった。
みんな何事かって顔してる。
「かなでー! すぐ来てー!」
奏だけを呼んだつもりだったのに、岸田くんといずみもついてきた。
「なに? どうしたの?」
奏は一番に僕に声をかけてくれる。
僕は奏を、誰にもとられたくない。
「奏が僕から離れたから」
「別に、ずっと離れてるけど」
「離れないで。そばにいて」
彼女の頬が赤くなる。
それは僕を意識してるってこと?
触れようと伸ばした手は、やっぱり払われた。
「触ったら、もう口利かないって言ったよね」
「はい。ごめんなさい。もうしません」
「そうだ。いずみのことも触らないで。約束。絶対触らない」
「さっきのは、僕から触ってない」
「そうだけど、そうじゃなくて。これから触らないっていう、約束」
「約束する」
そう言って彼女は、岸田くんといずみの見ている前で、また小指を差し出すから、それに触るのはいいみたいだ。
僕は奏のマネをして同じように小指を差し出すと、彼女はそこに自分の指を絡める。
「ね、ちゃんと約束したところ、岸田くんといずみも見てるからね」
「うん。奏との約束は、絶対守るよ」
僕は隣で聞いている、びくびくしているいずみに向かい合う。
「僕からは、絶対触らない」
いずみはそれでも困ったようにモジモジしていたけど、岸田くんにコツリと肘でつつかれ、ようやくうなずいた。
「わ、分かった。ちゃんとするから。私も」
「うん」
きっと人間は、誰かとお友達になるときには、こういうお約束が一つ一つ必要なのかもしれない。
僕とみんなの前で約束したいずみは、大きく息を一つ吐き出したあとで、ようやく肩の力を抜いた。
覚悟を決めたように僕を見上げる。
「はい。これが筋トレメニュー」
人の体のを動かす向きと、その回数を説明した紙を渡される。
僕だけ他のみんなとは違うメニューを、いずみが見ている前でやれということみたいだった。
「いたずらするなよ」っていう言葉を残して、岸田くんと奏は行ってしまう。
「人間って、これをやらないと泳げるようにならないってこと?」
水泳部のみんなは、ずっと筋トレをやっている。
だからきっと、泳ぎたいと思う人間が泳げるようになるには、こういう準備が必要なんだ。
「……。まぁ、そういうことかな」
「いずみはやらないんだ」
「私はマネージャーだから」
彼女はまだ肌寒い曇り空の下で、もじもじと黄色い長い髪をかきあげた。
「いずみは、泳げるようにはなりたくないってこと?」
「そういうことじゃない」
「元々泳げないとか」
「そういうことでもない」
「じゃあなんで、いずみはみんなと一緒に……」
「もう! そういうことはどうでもいいから!」
彼女は唐突に怒り始めた。
「さっさと始めなさいよ!」
いずみのことは、よく分からないけど、僕は奏と約束したから、約束した通りに彼女の言うことを聞いて、他の人とは違うことを始める。
僕のために用意したというだけあって、今までのよりかはずっと楽にやれるようになった。
ちゃんと奏や岸田くんのことを、信じてよかった。
なんだ。
やっぱり人間も、約束は守ってくれるんだ。
海の仲間は人間なんて信じるなってずっと言ってたけど、そうじゃなかったよ。
いずみは僕が一人で筋トレをやってる横で、ぼんやりと他のみんなの様子を見ている。
彼女の視線は、どうやらずっとサラサラした茶色い髪の、背の高い岸田くんに注がれているみたいだった。
「岸田くんのことが気になるの?」
いずみも、岸田くんのことが好きなんだ。
「別に。あんたには関係ないし」
「まぁ、そうだけどさ」
その彼女の視界にはいつも岸田くんがいて、そして奏もいる。
「奏のことも好きなんだ」
いずみはまた突然キッとなって、僕を振り返った。
「あんたと一緒にしないでくれる?」
「一緒じゃないよ。僕といずみは違うもの。ずっと奏を見てるから、奏のことが好きなのかなーって」
「あぁ、もう! あんたとは話しが通じない!」
僕だって、別に奏に言われなかったら、仲良くするつもりなんてなかったし……。
「見張ってろって岸田くんに言われたから、あんたを見てるだけなんだけど。さっさとその紙の一番からやって」
彼女に言われて、渡された紙に視線を戻す。
さっきまでやってたんだけど。
うん。
まぁそれはもう一回くらいやるけどさ。
僕が紙の指示に従って、また同じように体を動かしている間、やっぱりいずみは僕の方なんて見ていなかった。
彼女の視線の先にあるのは岸田くんだ。
僕はその隣にいる奏を見ている。
そういう意味では、いずみと僕は似ているのかもしれない。
奏と岸田くんは、同じ部活の部長でリーダーだから、いつもだいたい一緒にいて、二人で色んなことを相談して決めている。
奏が彼を見つめる目は、とてもキラキラして輝いていて、それはそれは楽しくて仕方がないみたいだ。
「ふふ。奏は本当に、水泳部が好きなんだね」
「あんたは奏が好きなんでしょう」
「うん。そうだよ」
冬の夕暮れは驚くほど早くて、辺りはもう簡単に暗くなり始めている。
「奏はあんたのこと、何とも思ってないよ。奏が好きなのは、岸田くんだし」
そんなことを言ういずみの横顔を見ながら、そういえばこの子は、あの時奏と一緒にいて、海に落ちてきた子だなーとか、思い出したりなんかしている。
「知ってるよ。僕も岸田くん好きだし」
「あんたって、やっぱりバカだよね」
「そんなことを言う、いずみのことも好きだよ。だって奏と約束したから」
「うざ」
校庭にぽつりと立つ外灯に灯りがついて、その灯りの下で並んで縁石に腰掛けていたいずみは、自分の膝を抱え丸くなった。
彼女はぼそりとつぶやく。
「奏と友達でいいんだ。奏と本当に、友達やれんの?」
「やれるよ。ちゃんと約束守っていれば、お友達でいてくれるって」
「へー。お友達なんだ。よかったね。奏とお友達でいいんだ」
「……。奏が、いずみとも友達になれって」
「あー。もういいよ。私がバカだった。そういうのいらないから、黙ってさっさと筋トレやって」
僕は奏に言われた通り、紙に書いてある通りのことをやる。
正直つまらないし、面白くもない。
奏はどうして、こんなことが楽しいんだろう。
だけど奏が好きなんだったら、僕もこれを好きにならなくちゃ。
ちゃんと奏と、同じようにやれるようにならないと。
そんな僕に、いずみはボソリとつぶやく。
「奏はさ、岸田くんのこと、好きだよ」
「知ってるって言った。だから僕も好き」
だから奏は、僕にも岸田くんと仲良くするように言ったんだ。
いつも奏から岸田くんに話しかけるのは、そういうことだから。
「正気?」
「しょうきって?」
「あー。そうか。分かった。あんたの『好き』って、そういう『好き』なんだ」
彼女は呆れたように頭をボリボリ掻いた。
「くだらない。ま、好きにすれば? 私には関係ないし」
もちろんいずみには、一切関係のない話しだ。
だから彼女には何を言われても、どう思われても平気だし。
そんなことより、奏の好きなものがまた一つ知れてよかった。
「岸田くん、本当にかっこいいよね」
「……。そうだね」
外灯の灯りの下で、膝を抱えたいずみの頬が、わずかに赤らむ。
それはまるで、奏がそうなった時と同じだ。
「いずみも、岸田くんが好きなの?」
「うん」
「そっか。じゃあみんな一緒だね」
「そうだね」
それから僕といずみは、真面目に筋トレを始めた。
いずみがあれこれ言ってくれるアドバイスはとても的確で、なるほど海から地上に上がってきたばかりの僕には、これは本当に必要なことだったとちゃんと思えた。
いずみはきっと、陸で暮らすためではなく、泳ぐためのアドバイスとして言ってるんだろうけど。
春休みという授業がない季節がやって来て、僕はそれでも水泳部のために毎日学校へ行った。
いつもの場所の決まった日の決まった時間に、ちゃんと奏たちは来ていて、時計というものは実に便利なものだと知った。
それでも毎日のように、相変わらず走ったり体を曲げたりばっかりだったけど……。
ある春休みの日には雨が降っていて、それでも部活はあるっていうから、僕はいつものようにプール前の広場でみんなが来るのを待っていた。
そこそこに強い雨が、白いシャツに通して肌まで染みこんでくる。
まだまだ春先というよりも、冬の終わりと言った方が正しい冷たい空の雨だ。
陸に上がってからは、常に皮膚が乾いていることには慣れたけど、やっぱり濡れている方が気持ちいいし落ち着く。
薄曇り空から降りしきる霧のような雨を見上げ、こういう日は一人岩礁の上に座り、ただ雨に打たれていたことを思い出す。
波を打つ雨の音だけが、僕の友達だった。
今はそこに人の住む音が混じる。
ふと聞いたことのあるような声がして、閉じていた目を開いた。
雨の向こうで、見たことのある顔の奴らが、嫌な笑い方をしながら近づいてくる。
「宮野? お前なにやってんの」
時間が来てるはずなのに誰も来ないと思ったら、今日の練習場所はここじゃないんだって。
「お前、本当に頭悪いよな。大丈夫かよ」
傘とかいう雨具を持った、たぶん同じ水泳部の男らが言った。
「うん。平気。今日の練習は別の場所だったってこと?」
「お前はぁ~。だからさ、スマホ持ってんだろ? 今日は視聴覚室でやるって、連絡入っただろ」
「それはあるけど、必要ないから見てない」
「あはは。やっぱバカだろ」
「だよなぁ!」
少なくとも僕は、自分が海の長老さまや海底に住む魔法使いたちよりも賢くないことを知っているから、それは本当のことなので大丈夫。
雨の滴が前髪を伝って頬に流れるのも、体がわずかに冷えているのも懐かしい。
「つーか、なんでうちの学校来た? 入る学校間違えてない? ほら、特殊とか支援なんとかって名前がつくようなさ」
「お前、かなりキモいぞ。分かってる? 顔だけで生きていくなら、水泳部やめてそっち行けよ。いやむしろさっさと行ってくれ」
もしかしたら、彼らと何か話しや挨拶くらいはしたことあるかもしれないけど、残念ながら僕は、この2人の顔を何となくくらいしか覚えていない。
きっとここにいて僕に話しかけてきてるから、同じ水泳部員なんだろう。
「それは無理だ。だって奏がいるもん」
「は? 迷惑なんだよ。邪魔だって言ってんの分かんない? あーバカだから分かんないのか。じゃあ俺たちがここで教えてやるよ」
男の子の一人が、握りこぶしを振り上げる。
僕は冷たい雨に打たれながら、じっと彼らを見ていた。
パシャリと水の跳ねる音が聞こえる。
「何やってんだ!」
岸田くんだ。
彼は駆け寄ってくると、持っていた傘を僕にかざす。
「お前、なんでそんなずぶ濡れなんだよ! 傘は?」
「持ってない」
その言葉に舌打ちすると、彼はそこにいた男の子たちを振り返った。
「俺は宮野を探してこいとは言ったけど、シメてこいとは言ってねぇぞ!」
「だけどさぁ! 正直コイツおかしいでしょ。気味が悪いっていうか、なんか変だし」
「岸田だって、最初は嫌がってたし」
「不気味でしょ。なに言ってんのか、話しも通じねぇし。単純に見ててムカつく」
傘というものの下に入ると、雨音の弾ける音が聞こえる。
これはこれで悪くない。
「……。それでも、水泳部に入ったんだから、もう仲間だろ」
「だいたい、奏の後を追っかけ回してんのが、もうなんかさぁ!」
「そもそも、絶対追い出すとか言ってたの、お前だし」
僕は傘を持つ岸田くんの横顔を見上げる。
「そうだったの?」
彼は僕の問いには答えず、その子たちに向かって続けた。
「気が変わったんだよ。今後コイツに手ぇ出したら、俺が許さねぇからな」
「岸田は、そいつが変だと思わないのかよ」
「変だとか何とか、誰基準だよ。何基準で言ってんの? そんなの……。帰国子女とかだと、分かんないだろ」
「いや、そんなレベルじゃないって! お前だって分かってんだろ」
岸田くんの横顔は、引いては押し寄せる荒海のように揺れている。
黙り込んだまま動けなくなった彼の向こうに、赤い傘が見えた。
いずみだ。
「宮野くん」
彼女はその傘をやっぱり僕にかざすと、僕の頭にタオルを乗せる。
「頭拭いて。風邪ひくよ」
少し背伸びをしたいずみは、タオル越しに僕の頭をぐしゃぐしゃとかき混ぜた。
「長山くんと松下くんも、早く教室戻って。みんなで動画みてフォームの確認してるから」
「俺らはまだ、認めてねぇからな」
2人は行ってしまった。
いずみと交代で、岸田くんの傘が僕の上に重なる。
「あいつらのことは気にすんな。濡れるから、こっち来いよ」
岸田くんに連れられ、校舎に入った。
薄暗い冷たい春休みの学校の廊下には、今は僕たちしかいない。
入り口のところで、二人は傘を畳んでいる。
今なら。
ちょっとだけなら。
この二人にだったら。
聞きたいことが聞けるのかもしれない。
本当は僕にだって、あの2人の言い分は理解出来る。
それはずっと、僕自身につきまとっているものだから。
「ねぇ。やっぱり、僕はヘンかな。みんなと違って、どっかおかしなところがあるかな」
その言葉に、二人が振り返る。
いずみは意を決したように言葉を切った。
「宮野くん。宮野くんはさ、かな……」
「ヘンじゃねぇよ!」
彼女の言葉を遮り、岸田くんは言った。
「誰にだって、他のみんなと同じところもあれば、変わったところくらいあるだろ。気にすんな」
岸田くんは持っていた傘を、投げるようにして傘立てに戻した。
僕は自分の手を広げ、じっとそれを見る。
少し前まで、この手の指の間には膜が張り、伸びた爪と固い鱗に覆われていた。
「僕は……。みんなと同じようになれるかな」
「さぁな。知らねぇよ」
岸田くんは、じっと力のこもった目で僕を見下ろす。
「だけどさ、少なくとも俺といずみは……。お前に味方するよ。多分だけど。そう決めたから」
黄色い長い髪のいずみも、雨の降る冷たい玄関でコクリとうなずいた。
どうしてこの二人は、僕に優しくしてくれるんだろう。
なんだかそのことに、彼らを騙しているようで胸が苦しくなる。
「ねぇ、僕ってへん? みんなと本当に違わない?」
僕にとってそれは、一番の不安。最大の秘密。
僕が人魚で、人間になるためにここに来たってことを誰かに知られてしまったら、僕はもう人にはなれない。
岸田くんはゆっくりと目を閉じてから、それを閉じたのと同じ速度で開いた。
「誰とも違わない奴なんていねぇよ。みんなどこかは同じように見えて、それでもどこかは絶対に違ってる」
だけど僕は、本当にみんなとは違うから……。
その証拠に、傘だって持っていない。
明日になったら、一番に傘を買いに行こう。
人は、雨が降る日には、傘をさすものだと知ったから。
いずみは動かなくなってしまった僕に、首を少し傾けて言った。
「シャツ。濡れてるけど、大丈夫?」
「うん。濡れてるのは平気だから」
僕が濡れていることなんかより、いずみはもっと大切なことを言った。
「……。奏が待ってる。行こう」
彼女の言葉に促され、静まりかえった廊下を歩き出す。
雨は季節の変わり目を知らせる春の雨で、きっとこれからは今よりもずっと温かくなる。
僕のこと、いずみと岸田くんは、きっと嫌いじゃないよね。
探しにきてくれたんだもの。
そんなことを聞いたって、彼らはちゃんと答えてはくれないだろうけど、きっとそうなんだろうってことくらいは、僕にだって分かった。
他に誰もいない廊下で、歩きながらベタつくシャツを脱いだら、いずみに驚かれる。
「ちょ、いきなり脱がないでくれる!」
「え、でも……」
そんな僕を、岸田くんは笑った。
「はは。絞って干しときゃ、乾くだろ」
なんだか岸田くんがそうやって笑ってくれると、僕も安心する。まだここに居ていいんだって思える。
その場でジャーっと絞ったら、またいずみに叱られた。
「ちょ、ちょっと待って! 宮野くん。廊下で絞らないで、流しでやってくれる?」
「え? そうなの? ここでやっちゃダメなの?」
「ダメ!」
「ははは」
人間ってのは、色々と決まりがあるから面倒くさい。
だけどそれが分からないから、『ヘン』って言われるのかな。
岸田くんは笑っていて、いずみは怒っている。
その違いがよく分からない。
僕はこれから、色んなことを一つ一つ知っていかなくちゃいけない。
そしたらきっと、本当の人間に近づける。
岸田くんといずみに連れてこられたのは、来たことのない知らない部屋だった。
階段状の床に長い机が並び、黒板の代わりに大きなスクリーンがある。
「お前、なんだよその格好」
いつものメンバーがそこに揃っていて、上半身裸の僕を見て笑った。
「宮野くん!」
奏だ。 奏がいる。
彼女は僕に駆け寄ってくると、僕を見上げた。
「どうしたの!」
「どうもしないよ。よかった。やっと奏と会えた」
僕は彼女と出会うために、ここに来たんだ。
彼女が僕を一生懸命に見上げてくれるから、もう他のことなんて全てがどうでもいい。
「心配してくれた?」
「し、心配はしてたけど……」
短くて黒い僕と同じようにくるくるした髪に、そっと触れる。
彼女はその僕の手を掴んだ。
「なんで裸? 風邪ひくって! ほら、手だって冷たいし、体だって……」
奏は自分の手を僕の胸に重ねる。
うれしくて、つい腕を伸ばし抱き寄せてしまいそうになったところで、彼女はすぐ一歩後ろに下がった。
「だから、これ以上は禁止」
「奏に会いたくて、ここに来たんだ」
「だからそれが分からないって言ってんの!」
「じゃあ分かってもらえるようにする」
もう一度彼女の髪に手を伸ばそうとしたら、後ろから岸田くんの大きなため息が聞こえてきた。
「お前ら、いちゃつくなら終わってからにしてくれ」
せっかく奏の方から近寄ってきてくれたのに、彼女は僕から離れてゆく。
その顔はムッとして、暗く沈んでいた。
奏は岸田くんのことが好きって言ってたけど、本当は嫌いなのかな。
だけどそんなことは聞けないから、僕は天井からぶら下がる大きな画面を見上げる。
「なに? これ」
「去年の競技会の動画。お前も出るつもりなら、ちゃんと見とけ」
ようやく全員が揃って、みんなでその映像を見る。
学校にある汚い水の塊とは全然違う、青い四角い水の中で、たくさんの人間が泳いでいた。
4月になった。
咲き始めたと思った桜は、あっという間に満開になって、せわしなく散っていく。
花が咲くのも一瞬で、その時には葉もつけずに花しか咲かせない木なんて、初めて見た。
この一瞬の美しさのために、他を捨て全力を注いで生きるなんて、きっとそんな生き方には無理がある。
僕には出来ない。
散ってゆく花吹雪を見上げながら、そんなことを思った。
クラス替えというのがあったけど、また奏と岸田くんと一緒になれた。
いずみとは今回も別のクラスだ。
教室が二階から一階に変わって、先生はそのまま。
同じ教室に入っていた他の人間のいくつかは変わったけど、別にどうってことはない。
奏と一緒だから大丈夫。
新入生歓迎会というのがあって、奏に言われて大勢の人間の前に立たされた。
体育館のステージ上に、他にも水泳部の人が何人かいたからよかったけど、同じ年に生まれた人間の、これだけの数を一カ所集めるなんて、凄い。
世界中の人魚を集めたって、決して敵わないだろう。
そんな人間の力に改めて驚く。
だけどそれはそれでなんだかずっとざわざわしていて、みんなから見られているようで、居心地はよくない。
岸田くんも奏もやたら張り切っていたけど、僕はステージの上に立ってずっと困っているだけだった。
それからしばらくして、新しく入部してきたとかいう一年生たちと一緒になって、僕はやっぱりプール前で筋トレをしている。
変わったことと言えば、草木が生えてきたことと、吹く風が生ぬるくなったことくらいだ。
新しく高校に入ってきたという彼らは、筋トレも初めてなのかと思っていたのに、僕よりもずっと上手にちゃんと出来ていた。
僕がここへ来たばかりの頃と同じように、彼らも僕を不思議がる。
「宮野先輩、こんなんで大丈夫なんですか? なんか、プールで泳いだことないって」
「うん。だけど、これでも大分上手になったんだよ」
「そうなんですか? でも宮野先輩がいてくれるから、初心者でも安心して入部出来ました!」
なんだかよく分からないけど、この一年生たちというのは、僕にも遠慮なく話しかけてきてくれるのが、ちょっと嬉しい。
「宮野先輩、めちゃくちゃカッコいいですよね。髪と目は黒いけど、髪の毛めっちゃくせっ毛だし」
「そうかな。普通だと思うけど……」
「アラブの大富豪の息子っていう噂は、本当ですか?」
「えーあーうん。ゴメン。よく分かんないや」
じめじめしたプール前の空き地は、それほど広いわけじゃない。
その狭いところで何人かに詰め寄られて、僕にはどう答えていいのかが分からない。
奏に仲良くしろって、優しくしろって言われてるから、そうしてるけど、本当はかなり困っている。
その困っているところに、奏が来た。
「ほら。遊んでないでちゃんと指導してあげて」
「そんなの無理だよ。奏が一緒にいてくれるなら、頑張る」
「別に私がいなくったって、平気でしょ?」
「いやだ。僕は奏がいないと何もしたくないしやりたくない」
それを聞いていた一年生たちは、目をまん丸くした。
「え! お二人は付き合ってるんですか?」
季節はすっかり春になっていて、ぽかぽか陽気に照らされたこの場所も、そこそこ居心地は悪くない。
「違うから!」
奏はすぐにそんなことを言って、怒っているけど、最近は普通に話してくれるようになった。
照れてしまうのは、僕を気にしているからだというのも、なんとなく分かる。
紅藻色のジャージの裾をひるがえし、去ってゆく彼女の後ろを追いかける。
「ねぇ待って。奏。僕は……」
「調子乗らないで。これ以上近づくのは禁止」
そんなことを言われても、僕はちょっとうれしくなってしまっているから、止められない。
「無理だよ奏。奏と一緒じゃなきゃ、僕はなんにもしたくないんだから」
「これからいずみが説明するから、一緒に聞いてて。じゃあね」
彼女のいう通り、プール前の広場にすぐにいずみがやって来た。
だけどその隣には岸田くんもいて、結局岸田くんが全部しゃべってる。
相変わらず筋トレばかりの日々だ。
こんなので新しく入って来た一年生とかいう人たちは、つまらないってすぐに辞めちゃうんじゃないかと思ったけど、そうでもないみたい。
他の運動部はいろんなことしてるのに、そこだけは本当に不思議だ。
そんな日々が続いている。
筋トレが終わって部活が解散になると、僕はいつも広場のベンチで奏を待つ。
一日のうちで彼女と一緒にいられる最後の時間だ。
僕の方から奏に話しかけてはいけないという約束はまだ続いていて、更衣室から出てきた彼女の方から、声をかけてくれることはない。
それでも少しでも奏の側にいたくて、僕はここで彼女を待つ。
奏はいつも最後に出てきて、いずみと一緒に鍵をかけた。
彼女はいつもベンチに座っている僕をチラリと見てから、そのまま他の人間たちのところへ行ってしまう。
そこには岸田くんといずみもいて、しばらくおしゃべりは続く。
すっかり日の落ちた真っ暗な学校の片隅で、僕は彼女の横顔をじっと見ている。
この時間だけは誰にも、奏にも邪魔をされない唯一の時間だ。
僕は奏に気づかれないよう、暗闇に浮かぶ彼女の横顔を見ている。
最近は一年生たちがやってきて、色々話していくこともあるけど、数回で飽きたのか、今ではほとんど来なくなった。
いつの間にか春も過ぎ去り、夏の気配が漂う夕暮れ。
部員たちのそれぞれのおしゃべりが終わると、順番に人は散っていく。
校門へだらだら向かう集団に紛れ、奏が歩き出すのを待って、僕はちゃんと距離を置いてついてゆく。
こっちから近寄るのもダメっていう約束だから、それもちゃんと守ってる。
だからきっと、もう奏は僕に怒らなくなったんだと思う。
僕の歩く少し前を、いつも岸田くんを真ん中にして、右にいずみ、左に奏が並ぶ。
たまに違う子も混ざったりするけど、結局はそうなる。
僕には奏たちのしてる話がほとんど分からないけど、彼女の楽しそうな笑顔を見ているだけでいいんだ。
学校の先生の話とか授業の話なら何となく分かるようになったけど、学校以外の話は、何一つ理解出来ない。
岸田くんの言ったことに、奏が反論し、それを肘打ちで返した岸田くんに対して、彼女は彼のシャツを引っ張る。
それを振り払おうとする岸田くんに、奏は笑いながらまた何かを言い返している。
奏は今日は、いつも以上にとても楽しそうだった。
そんな様子をぼんやり見ながら歩いていた僕を、岸田くんの隣を歩いていたいずみが不意に振り返った。
「……。ねぇ、いつも後ろからついてくるだけで、なにしてるの?」
今日は奏と岸田くんがずっと話しているから、弾かれてしまったいずみが、珍しく僕の隣に並ぶ。
「奏を見てる」
「うん。知ってる」
いずみはなんだか、少しムッとした顔でうつむいていた。
「いつもさ、そうやって遠くから見てるだけでいいんだ」
「だって、奏がそうしろって」
「奏のこと、好きなんじゃないの? 好きだからわざわざここまで来たんでしょ」
「そうだよ」
「もっと積極的にいかなくていいの?」
「積極的って?」
いずみはパッと顔を上げると、細い眉をキッとつり上げ僕を見上げた。
「ねぇ、もっと奏と話したくない? 仲良くなりたいでしょ?」
「それはもちろん」
「だったら行こうよ」
彼女は僕の袖を掴むと、それをグイと引っ張った。
どんどん奏に近づいていく。
「ちょ、待って。これ以上近寄ったら怒られるから、それはやめて!」
「別に怒ったりなんかしないよ。奏としゃべりたくないの?」
「奏に嫌われるようなことはしない」
「私に無理矢理連れてこられてんだから、平気よ」
抵抗しようとしても、僕の力ではいずみに敵わない。
ずるずると引きずられるようにして、僕は初めてこの三人が帰る輪の中に入った。
「宮野くんも一緒にお話ししたいって!」
「ちょ、いずみ。僕はそんなことは言ってないから! ごめん奏、だから僕は、本当に邪魔するつもりはなかったのに、いずみが僕を……」
奏に嫌われたら、僕はもう生きてはいられない。
ビクビクしている僕を、奏が見上げた。
怒られる!
緊張に身を固めた瞬間、岸田くんの大きな腕が、ガシリと僕の肩に乗った。
「おー! 宮野か。お前も思ったより奥手だよな。愛しのカナデチャンなのに」
「な、やめてよ! 奏に嫌われる前に放して!」
「あはは。奏も、もうそんなに怒ってないってよ。ほら、たまにはちゃんと相手してやったら?」
岸田くんにドンと突き飛ばされ、奏と肩がぶつかる。
彼女の顔はムッと歪んだ。
「ご、ごめんなさい!」
彼女は自分の肩の、僕の触れた部分をおさえた。
「痛い」
「ごめん。ごめんね! もう行くから。じゃあね!」
ここから早く逃げなきゃ。奏に嫌われちゃう。
じゃないと彼女との約束が……。
「もういいよ。大丈夫。嫌ったりしないから」
岸田くんといずみは先に行ってしまっていて、僕と奏が取り残された感じになった。
「一緒に帰ってくれるの?」
「どうせすぐそこまででしょ。今日は一緒に帰ろ」
奏が隣にいることを許してくれた。
そのことがうれしくて、また僕はドキドキしている。
緊張でそうでなくても動かしにくい体を、ゆっくりと歩く彼女の歩調に合わせてガタガタ歩く。
夕暮れの初夏の校内は、いつもより暑かった。
ずっとこうなりたいと思っていたはずなのに、僕は怖くて彼女の顔が見られない。
岸田くんの大きな背中と白いシャツは、奏と交代したいずみと二つ並んで、のんびり歩いている。
奏の口から大きなため息が漏れた。
「奏は、岸田くんのことが好きなの?」
「……。そんなことないよ」
そうは言っても、奏が岸田くんのことを好きなのは、何となく分かる。
「そっか。僕も好きだよ。もちろん奏のことも好きだけど」
「そうね。岸田くん、いい人だもんね」
僕たちはいま並んで歩いている。
奏とお話しが出来るなんて久しぶりだ。
「筋トレさ。だいぶ回数こなせるようになったよ」
「うん。知ってるよ。岸田くんといずみも褒めてた」
「ホント?」
「私はさ、宮野くんが水泳部に入ってくれて、うれしいと思ってるよ。それは本当だから」
「うん。ありがとう。奏にそう言ってもらえると、僕もうれしい」
「最近は、いずみも岸田くんも、宮野くんのことばっかり話題にしてるし」
「え? どんな話ししてるの?」
思わず彼女を振り返る。
それは、奏も僕の話をしてるってこと?
「ないしょ! でもいいの。もうすぐそんなこと、言ってる場合じゃなくなるんだから」
真っ暗になった校内の、外灯の下で彼女はにこりと微笑んだ。
「来週にはプール掃除があるんだから。いよいよだね。ようやく泳げるようになるよ!」
「あのプールで?」
僕の知ってるプールは、まだ汚い緑色のままなのに。
「奏は、泳げるようになったらうれしい?」
「もちろんよ。凄くうれしい」
「そっか。じゃあ僕も楽しみにしてる」
くるくる巻いた黒い短い髪の下で彼女の目が笑って、僕はそんな顔を見られるのなら、もう他のことなんて全部、なんだっていいような気がした。
そのプール掃除の日は、いつになくじっとりと蒸し暑い日になった。
長い雨の季節が終わって、よく晴れた日をわざわざ選んでるんだから、余計にタチが悪い。
「ねぇ、暑すぎない? なんでこんな日にやるの?」
ずっと閉じられていたフェンスの鍵が開けられ、初めて入ったプールサイドは、ずっと留まっていた水が臭くて仕方がない。
人間はよほど、この臭いというものに鈍感なんだろう。
僕はそれにどうにも耐えられなくて、頭からタオルをすっぽり覆って鼻を押さえている。
日光を遮るようなものがないのも最悪だ。
「うるせーぞ、宮野。こっからが本番だからな!」
水抜きの儀式とかワケの分からないことを言って、みんなで整列してパンパン手を叩いたりして、岸田くんも奏も夢中になってなんかしてるけど、暑いし臭いし最悪でしかない。
僕はプール脇にあるコンクリートの階段状ベンチのてっぺんに、わずかに付けられた小さな庇を見つけて、その日陰に避難している。
いつもみんなとは違うことばかりしているいずみがやってきて、寝転がっていた僕の隣に座った。
「宮野くんも行ってきなよ。みんなでやらないと終わらないよ」
そういういずみは荷物に囲まれて、ちゃんとこの日陰にいるじゃないか。
「僕はいずみの手伝いをする」
「はは。こういう時だけだよね。宮野くんが他の人に近寄ってくるの。私は別にいいけど、奏はきっとめっちゃ張り切ってるよ」
汚いプールの水位が徐々に下がってきた。
奏たちはバケツやブラシを持ち出して、いくつかある水道の蛇口にホースを繋いでいる。
みんなウキウキしていた。
いずみは色んなものの数を数えたり並べ直したりしてたけど、それが一区切りついたのか立ち上がる。
「さ。宮野くんも行くよ」
「え。ヤダよ」
そう答えたとたん、いずみは大声で叫んだ。
「かなでー! 宮野くんがプール掃除したくないって!」
「一緒にやるよー! こっちおいでー」
にっこにこの笑顔で、ジャージの裾を膝上まで巻き上げた奏が、ブラシを片手にブンブン手を振っている。
「だって。呼んでるよ」
「……。行ってきます」
そんなにうきうきで誘われたら、行かないわけにはいかないじゃないか。
いずみにけしかけられ、奏の隣に並んだら、うれしそうに持っていたブラシを渡された。
そんなふうににこにこされたら、受け取るしかないじゃないか。
「奏は何するの?」
彼女は僕に渡したブラシの代わりに、先端に小さな網のついた棒を持ち出していた。
「私は水面のゴミ集め」
「じゃあ僕もそっちがいい」
そう言ったのに、岸田くんにがっちり肩を組まれる。
「お前は俺とブラシで頑張るんだよ! 一緒に一番乗りするか?」
「は? どこに?」
「プールの中」
「ヤダ! そんなのしないよ、するわけない。気持ち悪い」
「じゃ、私が行く」
奏はドロドロの水面に沈む梯子に手をかけた。
「ダメだよ奏! そんなところに入ったら、死んじゃうよ!」
「はは。何それ。死にはしないって」
柔らかいつるつるした彼女の素足が、プールの半分にまで減った水に浸けられた。
緑色の腐った水は、変わらず強い異臭を放っている。
僕は頭からタオルをかぶり、臭いから逃れるため口元を覆ったまま叫ぶ。
「奏! 早く戻ってきて! ダメだよ、かなで!」
「だから宮野。お前も来いって」
奏や岸田くんだけじゃない。
水泳部のみんなが、その汚い水の中に入っていく。
僕はもう気が気で仕方がない。こんな水の中で生きていられる生物なんていない。
それなのに、奏は水面に浮く無数の木の葉を網ですくい始めた。
「何やってんの! そんなことしてる間に、奏が死んじゃう!」
必死で訴え続ける僕に、岸田くんが「こういう時、王子さまは助けに来てくれるんじゃねぇの?」なんて言うから、みんなは笑った。
奏はプールへ降りられない僕に向かって、「別にやりたくないならいいけど。じゃあ上でいずみのお手伝いしてて」なんてことを言う。
照りつける太陽に、むせかえるような臭いが足元から漂う。
タオルがあっても息苦しい。
僕にとっては地獄のような光景なのに、人間は平気のようだ。
膝までだからいいのか?
他の人間たちも次々中に入ると、ぬるぬるとした壁に水をかけ、それをブラシでこすり始めた。
いずみとか他のメンバーは、網ですくい上げられたゴミを集め、ザルに入れそれを干している。
「ねぇ! 大変だよ! こんなことをしてたら、みんな死んじゃうよ! 息が苦しくなって、動けなくなる。早く上がってきて!」
作業をしていたいずみは、ついにイラッとしたらしい。
「あー、もう。宮野くんのそういうの、もういいから。だからみんなから『王子』って呼ばれてんの、知らないの?」
必死の訴えにも、誰も耳を貸さない。
僕はこんな水の中には入れないけど、奏にもしものことがあったら、もちろん迷いなく飛び込むつもりだ。
タオルの端を握りしめる。
だけどどうせ助けるなら、プールサイドから近い方がいい。
「奏! できるだけこっちにいて」
だったら何とか助けられると思う。
そう思って手招きしているのに、彼女は知らんぷりだ。
心配している間にも、水はどんどん引いていき、汚いプールの底が顕わになってゆく。
「ほら。宮野くんも見てないで、洗剤入れるの手伝って」
プールに入っていない部員たちは、大きなボトルに入った液体を、バケツに移し替えている。
そこに水を入れ薄めたものを、いくつも用意していた。
「僕は奏から目が離せないからだめ」
プールの底でゴミを集める岸田くんに向かって、僕はしっかりと宣告しておく。
「もし奏になにかあったら、絶対に許さないからな!」
「おーい。かなでー。あいつ何とかしろー」
いつの間にか網からブラシに持ち替えた奏は、プールの壁面を元気にこすり始めていた。
それでも僕は、彼女が心配で心配で仕方がない。
ずっとプールサイドから彼女に寄り添う僕に向かって、やっと奏が口を開いた。
「ねぇさぁ。私は死なないから、みんなの手伝いして」
「絶対? 絶対に約束する?」
「約束する」
「本当だね」
「本当だから! ちゃんとみんなの手伝いして」
くそっ。
だけど奏がそうやって約束してくれるのなら、従うしかない。
僕はタオルを頭に巻いたまま、渋々プールの上から洗剤の入ったバケツを彼女に渡した。
「ちょっとでも気分が悪くなったら、すぐ僕に知らせて」
「……。いや、中に入ってもない人にそんなこと言われても……」
時折奏をチェックしながら、仕方なく掃除を手伝う。
初夏の照りつける太陽は午後になっても衰えなくて、額の汗はそのままタオルに吸われていった。
奏たちは渡したバケツに入っている液体にブラシの先を漬けると、茶色くなった床をこする。
水道に繋いだホースを持った人間が、壁面に残る汚水を流した。
水泳部員総出でそんなことを続けるうち、汚かったプールが徐々に綺麗になってくる。
その光景に、僕は頭に巻いたタオルを外した。
あれだけ汚かったプールの、真っ白な本来の姿が見え始めている。
ホースの水が宙を舞い、キラキラと輝くそれは、中に入っていた部員たちの頭上に降りかかる。
掃除の終わりが見え始めた頃には、みんなすっかり遊び始めていた。
ブラシを剣のように振り回してるのもいれば、一列に並んで一斉に走り出し、スピードを競っているのもいる。
歓喜の悲鳴が上がり、奏は岸田くんたちと一緒になって、なにやら陣取りゲームのようなことをしていた。
肩と肩をぶつけ合い、お互いの陣地とした床をこすり合う。
飛び散った水は奏の頬を濡らし、それをかけてきた岸田くんに彼女は同じようにやり返す。
「……。奏、楽しそうだね」
「宮野くんも混ざってくれば?」
僕はもうすっかりすることがなくなってしまったので、プールサイドにしゃがんで眼下に広がる奏たちの様子を見ている。
同じように退屈したらしいいずみが隣に並んだ。奏も岸田くんも、すっかりびしょ濡れだ。
「いずみはどうして行かなかったの?」
「……。私は、あそこに入ってもすることないから」
いずみの視線は、僕と同じように奏と岸田くんを見ていた。
「なんで? 一緒に掃除すればよかったのに。することは沢山あったよ」
「自分だってそうでしょ。さっさと行けば、この仲間に入れてもらえたかもしれないのに」
沢山の人間が、狭いところに詰まってふざけ合っている。
中にいるのと外から見ているのとでは、見える景色が違うんだ。
「あんな汚いところに入るなんて、気が知れない」
「あぁ。あんたにとってはそうだったね!」
いずみは突き放したようにそう言うと、折りたたんだ膝を抱え込み、びしょ濡れのままふざける奏をじっと見ていた。
「そんなの、行ったって、自分が空しくなるだけよ」
「……。そうなの?」
岸田くんが笑うと、奏も笑う。
奏の手が彼の腕に触れ、岸田くんは彼女を腕につかまらせたまま、また笑った。
奏はまた別の男の子を追いかけて、走り回っている。
「……。そっか! 筋トレを続けていれば、これが出来るようになるんだ!」
「もういい。あんたとはしゃべらない」
いずみが行ってしまった後には、一本のブラシが残されていた。
いずみは、本当は中に入りたかったのかな。
初夏の夕陽が沈みかけている。
綺麗になったプールの壁や床をもう一度水で流し、あふれた水を排水溝へ集め流し込む作業に移っていた。
これくらい綺麗になったプールの底になら、入れそうな気がする。
勇気を出して、ちょっと入ってみようか思ったのに、奏が出てきちゃったから、もう本当にお終い。
「ほら。片付け手伝って」
「じゃあ、今度は奏と一緒にやる」
「いいよ。一緒にやろ」
使い終わったブラシをまた水で流して、壁に立てかけた。
このまま明日まで干しておくんだって。
僕と奏はみんなと一緒に、乾いたゴミをビニール袋に詰めて捨てに行く。
奏はもうさっきまでの、岸田くんと一緒の時みたいに笑わない。
それがなぜだかこんなに近くにいるのに、彼女を遠く感じさせる。
帰り支度を済ませ、更衣室から出た広場でいつものミーティングが終わると、解散となった。
歩き出した岸田くんに、今日は誰よりも早く、一番にいずみが駆け寄った。
彼に声をかけ、親しげに身を寄せる。
岸田くんといずみは、歩きながらじっと何かを話し合っているみたいだった。
それに気づいた奏が、僕にそっとつぶやく。
「ね。宮野くん。一緒に帰ろ」
奏からの誘いを、僕が断るわけがない。
僕と奏は、岸田くんといずみが歩く後ろ姿を眺めながら、西日の差す校門まで歩く。
何を話そう。どんな話しをしよう。
奏としゃべる機会が出来たら、あれを話そうこれを話そうと色々考えていたのに、そうなったとたん何一つ思い出せない。
「奏は、岸田くんと仲良しだね」
ふと思いつき、さっきまで目にしていた光景を、口に出してみる。
さっきまでの奏は楽しそうにしていたのだから、今つまらなさそうな顔をしている彼女も、きっと喜ぶに違いない。
「そうかな。そんな言うほど、仲良くはないよ。同じ水泳部員ってだけで」
僕の予想に反し、彼女の表情はますます沈んでゆく。
「なんで? さっきまであんなに楽しそうにしてたのに」
「そうだけど。それとこれとは、また話が違うじゃない」
プール掃除に疲れた体で、顔を上げた彼女の視線の先には、岸田くんといずみがいる。
今日の二人は、いつも以上に大切な秘密を分かち合いながら歩いているようだ。
「何だか、よく分かんなくなってきちゃった」
「なにが?」
「岸田くんが、なに考えてるのか」
「え? 奏のこと好きだと思うよ」
「前はもっと、違う話も色々してたのに最近は全然。部活のことばっかりで、『今日なに食べたー』とか、『なにしてんの』とか、そういうのはなくなっちゃった」
「奏は、今日なに食べたの?」
僕の大切な彼女が落ち込んでいる。
オレンジ色の光が、彼女の横顔を柔らかに包み込む。
奏が聞いて欲しいのなら、僕はなんだって聞いてあげる。
「別に、そういう話しが本当にしたいんじゃなくて、同じ時間を共有したいってゆうか、興味もたれてないんだなーって思うのが、ちょっとアレだよね」
「アレって?」
「はは。なんだろ。寂しい? とかなのかな」
「奏は寂しいの?」
「ううん。寂しくはないよ。ちょっと残念」
「ざんねん?」
「ごめん。難しかったね。もう忘れて。じゃあ、また明日」
奏は学校の門をくぐると、すぐに駆け出して行ってしまった。
まだ空に残っていた夕陽だけが彼女を追いかける。
僕には人間のことはまだよく分からなくて、奏と岸田くんとの間になにがあるのかなんてことは、もっと分からなくて、だけど奏が悲しんでいるのなら、それは何とかしてあげたいと思う。
ゆっくりと色をなくしてゆく景色の中を、彼女は岸田くんといずみに追いついた。
彼の肩にポンと触れ、笑顔で見上げる。
その姿は僕にはとても寂しそうには見えなかったけど、奏自身がそう言っているのだから、彼女は今も寂しいと思っているんだ。
そんな彼女に僕は、自分の出来ることなら何でもしてあげたいと思った。