どこからか、声が聞こえる。
『おはよー』
『今日のテスト絶対やばい』
『体育のマラソンやだな』
『昨日のテレビ見た?』
『今日の音楽ってさー』
学生たちの声が荒波となって一気に押し寄せたかと思えば、すーっと引いていく。
ほどなくして瞼の裏の光が落ち着くと、星羅はゆっくりと瞼を開けた。目の前は、また景色が変わっていた。
「ここ……」
星羅が立っているのは、セピア色をした教室の中。
深緑色の黒板。温かみのある木の机。グレーのロッカー。風がカーテンと踊る。
窓際一番後ろの席。そこに、一人の学生が座っている。
「えっ……先生?」
星羅が声を上げる。そこにいたのは、葵だった。葵は夕暮れの教室で一人、本を読んでいる。
教室の隅にいる葵はもちろん白衣なんて着ていないし、身体つきも華奢で表情もまだあどけない。今目の前にいる葵は、星羅が知る『葵先生』の姿ではない。学生服を着た青年だった。
星羅の声に、葵は反応しなかった。声が聞こえていないというより、存在自体に気付いていない様子だ。
「葵先生に私たちのことは見えてないみたいだね」と、千花が言う。
「千花さん、葵先生のこと知ってるの?」
星羅は振り向き、千花に訊ねた。
「うん。まあね」
千花は肩をすくめるようにして頷く。
「じゃあこれって、先生の学生時代ってこと?」
「そうみたい。つまりさっきの花は、葵先生の思い出の花だったってことだね」
葵の過去。星羅は、自分のではなく葵の思い出の花を摘んでしまったらしい。
ゆったりとした時間の中で本に視線を落とす葵を、星羅はじっと見つめた。
窓の外から、オレンジ色の太陽が生徒の居なくなった教室に射し込む。黄ばんだ薄いカーテンが風に靡き、その風が同時に葵の頬を撫でて通り過ぎていく。
しばらくすると、葵は読んでいた文庫を閉じ、顔を上げた。
窓の外から運動部の声が聞こえてくる。下校時刻をとうに過ぎ、閑散とした校舎。遠くから、かすかに階段を駆け上がる足音が耳に届いた。それは徐々に大きくなり、やがてひとつの影が教室に伸びる。
『葵お待たせ! 帰ろ』
汗ばんだ首元にショートの髪を張り付けて、慌ただしく教室に入ってきたのは、一人の少女。セーラー服の袖とスカートから伸びるほっそりとした手足は筋肉質で、まさに運動少女を絵に描いたような少女だった。
星羅は、少女の顔を見て言葉を失った。
「これって、千花さん?」
その少女は、星の旅人を名乗った千花に瓜二つだった。千花を見ると、彼女はからりと笑い、軽い調子で言った。
「バレたか。そ。葵先生って、実は私の幼馴染だったりして」
星羅は目の前の少女と、セーラー服の少女を交互に見る。
――千花さんは美月さんの親友じゃなくて、葵先生の幼馴染?
頭の中がこんがらがってきた。
「千花さんって、一体何者なの?」
「まあまあ。今は葵先生の思い出を見ようよ」
千花に肩を掴まれ、ぐるりと回転させられる。星羅は戸惑いながら、学生時代の葵たちに視線を戻した。
『千花、遅い。見回りの先生に何回も怒られたじゃん』
不機嫌そうな声で、葵が言う。
『ごめんって。これでも急いで着替えたんだよ』
悪びれる様子なく謝りながら、千花が駆け寄る。
『ようやく帰れるよ』と、葵が立ち上がる。
『おっと、本がハズレでご機嫌ななめですか? 葵くん』
『うるさい』
『ったく、分かりやすいなぁ、葵は』
スクールバッグを肩にかけ、二人は教室を出ていく。
『いやー暑い! もう夏の体育館はサウナだよー』
『下品。スカートめくるな』
色気もなくスカートをひらひらと手ではためかせながら、千花と葵は夕暮れの坂道を並んで歩く。
『誰も見てないって』
『もし間違って見たらどうするんだよ。見たくもないものを見せられた方の気持ちも考えろ』
『そっち!?』
千花が思い切り葵の尻を蹴る。
『いてっ!』
『少しは女扱いしろ!』
「うわぁ、懐かしいなぁ」
千花はくすぐったそうに頬をほんのりと染め、青春時代の自分たちを眺めている。
「すごく楽しそう」
星羅と千花は、少し離れて二人の後を追う。
少し先を歩く学生の集団が目に入る。
「あっ、みいちゃんだ!」
「みいちゃん?」
「バスケ部の仲間!」
「一緒に帰らないんですね?」
「葵と一緒に帰ってたからね」
千花はすっと目を細め、笑った。星羅は葵たちに視線を戻した。
集団は楽しそうに話しながら、ぞろぞろとファミレスへ入っていく。それに気付いた葵は立ち止まり、ちらりと千花を見た。
『行かなくていいの?』
千花はきょとんとした顔で、葵を見上げた。葵が集団を目で指すと、千花は遠くの彼女たちに視線を流して苦笑した。
『いいよ。私お金ないし、女同士だと噂話ばっかりだし。葵といた方が楽』
『楽って……お前』
葵が呆れたような顔をする。
星羅はその表情を新鮮な気持ちで見つめた。
「なんか、先生が先生じゃないみたい」
「はは。そりゃ、このとき葵は学生だし」
「そっか」
星羅がいくらわがままを言っても、葵がこんな表情を見せたことはない。いつも困ったように笑うだけだ。
初めて見る葵の表情に、星羅はなんとも言えない気分になった。二人はじゃれ合うように笑っている。
『絶対褒めてないよね、それ』
『褒めてるよ、褒めてる』
そう笑う千花の横顔は、少しだけ寂しそうに見えた。
『だって、私がいなかったら葵完全にひとりだよ? そんなの可哀想過ぎるでしょ』
『余計なお世話です。俺は好きでひとりでいるだけ』
『ま、安心しなさい。私だけはずっと一緒にいてあげるから!』
歯を見せてニカッと笑うその顔は、今も当時も変わらないらしい。葵は苦笑を漏らしながら頷いている。
見ていてほっこりする。
「……仲良かったんですね。先生と」
「うん。良かったよ、すごく」
星羅の言葉に、千花は嬉しそうに頷いた。
「でも、葵はどうだっただろう」
「え?」
千花を見ると、彼女は少しだけ寂しそうに葵を見つめていた。
『ここに美月もいればなぁ……』
歩きながら、ふと葵が呟いた。
その言葉に、星羅は「え」と声を漏らす。
「美月って」
――どくん、と心臓が鳴る。
「美月も私の幼馴染。美月ってね、美人で頭が良くて、おまけに優しくて楽器もできる。完璧な女の子なんだ」
星羅の脳裏に、つい先ほど病院で知り合った妊婦の優しい笑顔が浮かぶ。
「それでもって、美月は葵の初恋の女の子だったりして」
「えっ! 先生の!?」
星羅はよくよく美月を思い出す。たしかに、美月は美しかった。目がくりくりと大きくて、口元は上品な三日月形で、笑顔は花が咲いたようだった。
「でも、美月さん妊娠して……あ」
美月の苗字を思い出す。美月は自身を夏目と言っていた。
「美月さんと先生って、もしかして結婚してるの?」
「……そ。葵は無事初恋を実らせたってわけよ」
星羅は千花をちらりと見る。千花は、懐かしそうにかつての葵と自分を見ていた。
「幼馴染と親友との三角関係……」
「やだ。そんなどろどろした感じじゃないってば」
「そうなんですか?」
「だって、美月と葵よ? 全然、そんなふうにならなかったよ」
そう言う千花の睫毛は、かすかに震えていた。
『……美月はほら、人気者だから』
葵の言葉に、千花は少し低い声で返す。千花はそのまま俯き、黙り込んだ。
『そういえば美月、サッカー部の谷くんに告白されたんだって』
『……ファン』
葵はつまらなそうに言葉を返す。綺麗なようで、彼らの心の中はちっとも澄んではいなかった。
美月。千花。葵。
それはまるで、星と星を繋げてできる星座のように。
星羅の中で、すべてが繋がる。
『そんじゃ、またね』
家に着き、千花は手を振りながら葵の隣の家に入っていく。
『うん、また明日』
しかし、葵は玄関の扉に手をかけたままで、家の中に入ろうとしない。そのまま、くるりと振り返った。道路を挟んだ正面にあるのは、立派な白い家。
星羅が首を傾げると、千花がそっと言った。
「あそこはね、美月の家」
葵の視線は、まっすぐ二階の右側の窓に向かっている。美月の部屋だ。カーテンは開いたままで、窓際の机に向かう美月の綺麗な横顔が見えた。ふと、美月が顔を上げ、窓の外を見る。
ばちり、と音がした。二人の視線が絡み合う。
葵の視線に気が付いた美月は一瞬固まったものの、すぐに我に返りカーテンをサッと閉めてしまった。
あからさまな拒絶に、葵は悲しそうに俯き、しゅんとした様子で玄関をくぐった。
葵の表情に、千花は悲しげに目を伏せた。
そのときだった。星羅の手の中の花が瞬き始めた。
「えっ、なに?」
「竜巻だ! 星羅ちゃん!」
千花が星羅の手を掴む。次の瞬間、光の渦が二人を包んだ。
「わっ……!」
光は二人を飲み込み、空高くへ舞い上がる。
「なにこれ、どこ行くの?」
果てしない光の欠片に包まれて、星羅は不安になった。
「大丈夫。しっかり手を繋いでいて」
「うんっ……」
星羅は強く千花の手を握り、目を瞑った。
ほどなくして、竜巻はゆるやかに収まっていく。星羅たちは、ゆっくりと星の上に足を下ろした。
光が消え、ぱっと場面が変わった。
放課後の廊下を、美月が歩いている。吹奏楽部の部室へ向かっているようだった。階段を駆け上がり、美月は何気なく図書室と廊下を隔てるガラス窓に目を向けた。ガラスの向こうに人影が見える。
『あ』
葵だ。図書室のテーブルで、静かに本を読んでいる。
美月はその横顔に見惚れたように、立ち止まった。周囲を見るが、近くに千花はいない。
『千花を待ってるのかな』
星羅の脳内に、美月の心の声がじんと響く。
『ねぇ、葵。付き合ってるっていう噂は本当なの?』
美月の細く長い指先が、そっとガラス越しの葵に触れる。しかし、視線を本に落とした葵はそれに気付かない。美月の心の声は震えていた。
『私、本当は……本当はね』
美月の瞳は、まっすぐ葵に向いている。けれど、すぐに美月はぶんぶんと首を横に振った。まるで、葵への想いを振り切るかのように。美月は大きな瞳をそっと伏せた。
「美月さん……」
心がぎゅっと、絞られるように苦しくなった。
美月の心の中は、葵への秘密の想いと千花への友情でぐちゃぐちゃに絡まっていた。
星羅は、まだ恋を知らない。毎日生きることに必死で、そんな心の余裕はなかった。
好きか嫌いか。星羅にはまだ、それくらいしか分からない。でも、美月の心情はそんな簡単な言葉で片付けられるようなものではないような気がする。よく、分からないけれど。
「千花さんも、葵先生のこと好きだったの?」
星羅が訊ねると、千花はかすかに笑ってぽつりぽつりと話し出した。
「……私ね、ちょうどこの頃に病気が見つかったの。悪性脳腫瘍だった」
星羅はきゅっと口を閉ざす。ずうんと、心臓が鉛になったかのように重くなった。
悪性脳腫瘍。ななと同じ病気だ。
「葵はいつもとぼけた感じだけど、頭が良くて割と顔もいいからさ、意外と女子に人気あったの。美月は美人で人気者で、いつだって人に囲まれてて、おまけに葵にまで想われてて……。なんかさ……なんで私だけこんなになにもなくて、こんな思いばっかなんだろって」
星羅は目を伏せる。街の喧騒を耳にするたび、星羅もいつもそう思った。
――どうして私ばっかり、こんな思いを。
自分は、なにか悪いことをしたのだろうか。神様に嫌われるようなことをしてしまったのだろうか。だって、もしなにもしてないなら、それならどうして神様は自分を、こんな目に遭わせるのか。
白い箱の中で、星羅はいつもそう思っていた。そう思うたび、心が煤で真っ黒になっていくようだった。
「それで、言っちゃったの。美月に、葵を取らないでって。美月はこの先もずっと葵のそばにいられるけど、私は今だけなんだからって。ひどいでしょ。寿命なんてさ、実際分からないじゃん。いつ事故に遭うか分からないし、通り魔に襲われるかわからないのに。……でも当時の私にそんなことを考える余裕はなかった」
その気持ちは、星羅には痛いほどよく分かった。
――私は、あとどれくらい生きられるのだろう。あと何回朝日を浴びて、あと何回ご飯を食べられるのだろう。みんながしていることを、私はあとどれだけ……。
星羅はまだ恋をしたことがないけれど、もし好きな人がいたら、そしてもし、好きになった人が親友と同じ人だったとしたら、きっと千花と同じように思っただろう。
千花は悲しそうに睫毛を震わせた。
沈黙の中、ガラス窓がきゅっと小さく音を立てる。美月が指をガラス窓から離したのだ。そのまま、美月は図書室の葵に声をかけることなく、吹奏楽部の部室へ歩いていった。
星羅は美月の寂しげな背中を見送ると、葵がいる図書室に入った。
無音の世界で、ページを捲る音だけが耳に残る。背後から手元を覗いてみると、葵は星の写真集を眺めていた。下校時刻のチャイムが鳴る。葵は写真集を元の本棚へ戻すと、図書室を出ていった。
「美月さんは千花さんとの友情を優先して、葵先生を諦めようとしたんですね」
「うん。それから美月は、私たちと話さなくなった。美月は優しいから、私のわがままを聞いてくれたの。二年生になってからはクラスも別々になって、私たちが幼馴染だって知ってる子は、高校ではほとんどいなかったと思う」
星羅は葵が戻した星の写真集を手に取る。ぱらぱらと捲ると、紙の中には美しい銀河の川床が広がっている。
「美月はさ、あんなひどいことを言った私を責めることなく……応援するって言ってくれたの。その代わり、ちゃんと病気を治すんだよって。私、そのとき思ったんだ。美月には、どうやったって叶わない。こんな最低な人間だから、神様は私を見捨てたんだって」
恋をした経験のない星羅は、ドラマや映画の中でしかそれを知らない。三角関係なんて想像もつかない状況だった。
「でも、それくらい葵先生のこと好きだったんですよね」
「……好きだった。でも、二年生になってからはもう体調がよくなくてね。学校に行けなくなった」
千花は、過去を手繰るようにゆっくりとした口調で話した。
高校二年生になった三人は、ばらばらになってしまった。美月は生徒会で忙しくなり、千花は病気が進行し、とうとう学校に通うことができなくなったのだ。
葵は、一人になっても相変わらず読書三昧だった。
「葵先生には、病気のこと言ってたんですか?」
「……最初は言えなかったよ。だって、怖くて。髪だって抜けてたし、顔色も悪いし、肌も荒れてるし。こんな姿見せたくなかったからさ。でもさ、家は隣同士だし、長く休んでたらそりゃバレるよね。あっさり気付かれて、それからしばらくはお見舞いに来てくれた」
けれど、千花の病状はどんどん悪化していった。そして、ある日を境に葵はぱったりとお見舞いに来なくなった。
「きっと、ショックだったんだろうね。私、元気だけが取り柄だったからさ。あんな姿になるなんて思わないじゃん? 死に近づいていく私を見て、怖くなっちゃったんだと思う……」
再び竜巻が巻き起こった。花びらのような光の欠片が二人を包み込むと、それは今度は秋空の下へ二人を運んだ。
長い坂道を、葵が血相を変えて走っていた。葵の行く先には、病院がある。
『千花っ!』
葵が駆け付けた病室には、頭に白い包帯を巻いて笑う千花がいた。
『葵。来てくれたんだ』
葵は青白い顔をして、ベッドに横になった千花に駆け寄る。
『部活中に熱中症で倒れたって……保健室に行ったら救急車で運ばれたって聞いて……』
「……先生。すごい焦ってる」
白い部屋。ベッドの上に座り、砕けた笑みを浮かべる千花の顔色は、よくない。見守る星羅の心臓までひどく高鳴り出した。
葵はスツールに座り、息を吐いた。
『もう、大丈夫なの?』
『うん。私は全然! ただ打ちどころが悪かったみたいでさ。一応脳波とかの検査するんだって。せっかくの夏休みが台無しだよねぇ』
『なんだよもう。救急車なんて聞いたらびっくりするじゃん。驚かせるなよ』
『ごめんごめん。心配してくれたんだ?』
葵は少し照れた様子で、千花から視線を外した。その視線は、不意に千花の手首に向けられる。
『ねぇ、千花。少し痩せた?』
『そう?』
千花の顔に、翳が差す。
『やった。ダイエット成功だ』
取り繕うように笑う千花の首筋はほっそりとして、骨と皮が張り付いているだけのように見える。
『夏バテとか、らしくないよ』
『違うよ。ちゃんと食べてるし』
『……そっか』
困ったような葵の顔。
ふと思った。彼のこの表情は、星羅も何度も見たことがある。
「……そっか。先生って、私と千花さんを重ね合わせてたんだ」
――私が、千花さんに似ているから。
葵が最初から心配していたのは、千花だけだった。
「葵ってさ、嘘が下手なんだよね。すぐ顔に出ちゃうの。葵は初めて来た大学病院に戸惑っててさ……懐かしいなぁ。今じゃたくさんの子供たちを助ける小児外科医なのにね」
そう言って、千花はくすりと笑った。見ると、彼女は優しい顔で笑っていた。
「先生が助けたいのは、千花さんなんだ」
きっと、これからもずっとそう。彼の中にはまだ千花が生きている。心の中の千花を助けるために、星羅は利用されている。
「……私、なんで死ぬのが怖かったんだろ」
――どうせ生きてたって、私にはなにもないのに。
指先が冷たくなっていく。星羅の手の中の花がみるみる皺だらけになり、はらりと落ちた。
「星羅ちゃん」
千花が星羅をそっと抱き締めた。
「私が好きだった葵は、そういう人じゃないよ」
葵の努力を疑うわけじゃない。
「……もし、私が千花さんに似てなかったら、先生はここまでしたかな。ここまで必死になってくれたのかな」
「葵は本気で、星羅ちゃんを救いたいって思ってる。寝る間も惜しんで勉強して、手技の練習をして。怖いのは葵も同じ。あなたの命が自分の手に乗ってるんだから」
俯いた二人を、光の渦が包む。場面が変わる。
アラーム音と、運び込まれた患者の呻き声。白い部屋を染める赤い飛沫。薬液の匂い。
ストレッチャーが運び込まれるローラー音。
全身ぐっしょりと濡れ、青白い顔をした少女がストレッチャーに横たわっている。
『ユキ! ユキ……!』
しがみついていた母親が、必死に少女の名前を呼ぶ。何度も、何度も。
『お母さん、落ち着いてください』
『私が、私が目を離したから……お願い、あの子を助けて』
看護師は二人がかりで母親をストレッチャーから引き剥がし、落ち着かせる。
『十歳女の子、川で溺れ心停止。心臓が止まっていた時間は分かりません。溺れているところを見つけた父親も川に入り、共に流されました。父親はまだ見つかっていません』
救命センターは、まさに地獄絵図だった。
『除細動!』
葵はストレッチャーに駆け寄り、声を張り上げた。
『大丈夫、頑張れ……!』
葵は額に汗を滲ませながら、必死に少女に声をかけていた。その間も、患者はどんどん運び込まれてくる。
『先生、ななちゃんが……』
小児科の看護師が部屋に入ってきた。真っ青な顔をして、葵を見る。
『ななちゃんが、急変しました』
葵の顔が強ばる。
『なんで、今……!』
どきりとした。
――これは。
「もしかして、ななが死んじゃったときの?」
ななが死んだ日の、葵の記憶。
あの日、葵はスタットコールに対応し、救命センターにいた。だからななの処置に遅れたのだと思っていた。
星羅の中でなにかが壊れたあの日。あの日、葵は必死だった。星羅の瞳から、涙が落ちる。
『……先生』
看護師が悲しげに葵を呼ぶ。それでも、葵は少女の心臓マッサージを続けていた。
『すぐ行く。ユキちゃん頑張れ! 戻ってこい!』
目の前には、見たことのない葵がいる。汗を流して、歯を食いしばって、懸命に消えそうな命を掬いあげようとする葵がいる。緊迫した命の現場に、星羅は思わず手を握った。
『ダメです、戻りません……!』
看護師が嘆く。
『除細動、もう一回!』
『先生!』
『いいから! こっち、誰かアシスト!』
けれど懸命の処置も虚しく、アラーム音は無情に少女の死を知らせる。
『……葵先生、行って』
別の患者を診ていた先輩医師が、見かねて葵の手を掴む。
『でも……この子はまだ!』
『もう無理だ、この子は』
力なく首を振る先輩医師の手を、葵は振り切る。
『まだ分かりません!』
それでも必死に少女に手を伸ばす葵を、先輩医師が叱責する。
『しっかりしろ! ななちゃんが待ってるんだぞ!』
葵は涙を堪え、唇を噛み締めた。
『あとはいいから、早く行け』
葵が診た少女は、結局助からなかった。そして、その後ICUに向かったものの、ななも……。
亡くなった少女の母親が、葵に掴みかかる。
『どうして……』
『……力及ばず、申し訳ありません』
葵は深く頭を下げた。
『ユキ。ユキ……』
泣き崩れる母親を見下ろし、葵は肩を震わせる。
『……申し訳ありません』
いつも大きく見えていた葵の背中が、途端に小さく、か弱いものに思えた。
「先生……あんなに頑張ってたのに、どうして謝るの? あんなに頑張って助けようとしてたのに」
「……だって、医者は結果がすべてだから。お母さんは処置室の中を見ていないんだもん」
――そうだ。
星羅もそうだった。ただ冷たくなったななを前に葵はななを助けてくれなかったのだと、それだけを思った。
星羅の肩に、千花がそっと手を置いた。
「人が弱っていくところを見るのって、結構辛いんだよ。患者である私たちには、どうしたって分からないけど。でも、今は分かる。私はここで、いろんな人の思い出を見てきたから」と、千花は言う。
星羅は目を伏せた。そんなこと、これまで一度も考えたこともなかった。
星羅はこれまで、健康体の人たちと一線を引いていた。
自分とは違う。彼らは、自分のことなんてなにも分かりやしないんだと。けれど、それは星羅も同じだったのだ。星羅だって、残される側のことを考えたことがなかった。
ななが先に死んでしまって、初めて気がついた。彼女との思い出をすべて忘れてしまいたいと思うほど、苦しいことに。
葵はいつもその感覚を味わい、さらに遺族からの恨み言や罵倒を一身に受けていた。
「先生……」
星羅の瞳からは、とめどなく涙が溢れる。拭っても拭っても、涙は止まらない。
心が、からりと音を立てた。
「私、ななとの思い出、全部忘れようとしてた。だって、辛くて……思い出すと、涙が出てくるから」
「私が今ここにいられるのは、葵と美月が思い出を大切にしてくれているからなの」
「……そっか。だから私は、ななに会えないんだね。忘れようとしたから」
この花の海に、星羅の思い出の花はない。
これは罰。ななを忘れようとした罰なのかもしれない。
「気持ちは分かるけどね」
その後、光の花は二人に千花と葵と美月の三人の思い出を見せた。面会が難しくなった千花と、美月が写真交換を始めたこと。死ぬ間際、千花が美月に残したメッセージは、葵と幸せになって、私の分も生きてほしいという言葉だった。
悲しい音楽。菊と線香の匂い。千花の棺の前で泣き崩れる美月。呆然と立ち尽くす葵。卒業式の日、空いた一席。下を向いた葵を、美月がそっと抱き締める。美月に抱き締められ、葵はようやく涙を流す。一度溢れた涙は止まることなく、葵はいつまでもぼろぼろと泣き続けた。
千花の顔にすっと翳が差し、表情が見えなくなる。
「その花は思い出の花。死んだ人はね、思い出の中でしか生きられないの。星羅ちゃんは、死んだななちゃんを忘れようとした。だから、彼女はここにはいない。いくら探しても、思い出の花は見つからないよ」
くしゃっと潰してしまった便箋。星羅は、ななの想いを見ることもせずに、拒んでゴミ箱に捨ててしまった。紙を握り潰したあのときの感覚が、じわりと手のひらに蘇った。
「だって、嫌だった。手紙を見たら、おしまいだもん。なながもういないってこと、認めなくちゃいけなくなる……」
星羅は、顔をくしゃくしゃにして泣きながら言った。千花は、子供のように泣きじゃくる星羅をそっと抱き締め、あやすように言った。
「……ごめんね。置いていってごめん。泣かせてごめん。約束も、守れなくてごめんね」
千花の声が、優しく星羅の心に染み入っていく。千花の声は、星羅の中で次第にななの声と重なっていく。星羅は思わず千花に抱き着いた。ぎゅうっと、強く、その存在を確かめるように両腕に力を入れる。
「違うの……ななはなにも悪くないの。ごめんなさい。忘れようとしてごめんなさい。ななの手紙、ぐしゃぐしゃにしてごめんなさい……」
しゃくりあげながら謝る星羅の背中を、千花は優しく撫でてやる。
「寂しかったの。置いていかれちゃって……ひとりぼっちになっちゃって。私、なながいないとなにもできないから」
「うん」
「ななに会いたい」
「会えるよ。星羅が私のこと、思い出してくれれば、思い出の中でいつだって会える。だからお願い。私を、ずっと星羅の中で生かしてよ」
「なな……」
「もうここに来ちゃダメ。次ここに来るときは、もっとたくさんのことを経験して、人生に満足して、あー楽しかったって言ってから来るの。いい?」
星羅は千花のセーラー服を掴む手をぎゅっと握り込む。
「……戻ったら、ななはいないの?」
「私はいつでも星羅の心の中にいるよ。だから、泣かなくて大丈夫。星羅と私は、ずっと一緒に生きてくの。私を生かして、星羅」
星羅は千花からそっと離れると、涙を拭い、頷いた。
「……分かった」
「約束ね」
「……約束」
小指と小指をしっかりと絡ませ合う。ふと、顔を上げると、そこにななの姿はない。そこに佇んでいるのは、千花だった。
死は、悲しい。別れは、苦しい。どうしたって避けられないこの世の摂理だ。
けれど、星羅はまだ生きている。
「私、帰りたい。先生に会いたい……」
瞳に涙をいっぱい貯めて千花を見上げる星羅に、千花は優しく微笑んだ。
見ると、千花の姿は霞み始めていた。
「……千花さん。あの」
「葵のこと、よろしくね」
「うん」
千花は泣きそうな顔をして、くしゃっと笑った。
「……ありがとう」
千花は、星羅をまっすぐに見て言った。
「ひとつだけ、頼みがあるの」
「頼み?」
「美月に、元気な赤ちゃん産んでねって伝えてくれるかな」
「ちゃんと伝える」
「葵には……」
千花はつと黙り込んだ。
「葵先生には?」
星羅は、じっと千花の言葉を待つ。
「葵には、なんだろうな。今さら浮かばないなぁ……。ちゃんと食べてとか、ちゃんと寝ろとかだとありきたりだし……うーん。いいや。ないや」
「え、いいんですか? でも、せっかく……」
「……じゃあ、葵には上を向けって、言ってくれるかな」
「上を向け?」
「葵が下向いてたら、代わりに叱ってやって」
「……分かりました」
「じゃあ約束」
千花はくすくすと肩を揺らした。
「千花さん、ありがとう。私、頑張って生きる」
「うん。手術は怖い。術後もきっと辛いと思う。それでたとえ病気が治っても、退院したら社会に出るからね。勉強とか友達関係とか、進学とか就職とか、大変なこといっぱいあるけど、頑張れる?」
「頑張る。ななと千花さんと約束したから」
千花が笑う。
「偉い。ななちゃんの分も、一生懸命生きて」
「うん!」
星羅は千花と握手を交わし、力強く頷いた。
星羅はまどろみの中をたゆたっていた。木漏れ日に包まれたように全身が温かい。
遠くからかすかに聞こえてくるモニター音に、星羅はゆっくりと目を開いた。開いた瞼の隙間から差し込む光は強烈で、星羅は思わず目を細めた。
「星羅ちゃん……?」
すぐ耳元で、よく知る人物の声が聞こえる。星羅は辛うじて動く瞳を声の方へ向けた。視界の隅が、少し濁っていた。星羅はどうやら、酸素マスクを付けられているらしい。吐いた息が少し湿って肌につく。薬の匂いが肺を満たしていた。
「葵……先生」
星羅は、ベッドの上にいた。けれど、雰囲気がいつもと少し違う。いろんな機械音がする。
「ここ……」
星羅がいたのは、ICUだった。
葵は星羅と目が合うと、へなへなとスツールに座り込む。
「……私、なんで」
出した声は掠れている。
「……星羅ちゃん、屋上で倒れてたんだよ。一時は危ない状態だったんだから。覚えていない?」
「屋上……」
たしかに、エレベーターを上がった記憶はあるが。あのエレベーターは、屋上ではなく天空へ行ったはずなのに。
「千花さんは……?」
「千花?」
葵が眉を寄せる。
「……なにか、夢でも見たの?」
葵が優しく星羅に訊ねる。
そうか。あれはやはり、幻。星羅は死の淵で不思議な夢を見たのだ。
「……頭は痛くない? ドキドキしない? 呼吸も、どう?」
「……大丈夫」
「そっか。良かった」
葵は心底ほっとしたように目を伏せた。
「……先生、ごめんなさい。私、先生にひどいこと言った」
「うん?」
「先生、私ね、さっき夢を見たの。私にそっくりの女の子がね、星の川床を案内してくれたの」
「そっくりの……」
葵がハッとした顔をする。
「すごく綺麗なところだった。星が海みたいにたゆたってて、花が咲き乱れてて、暖かくて。雨にも濡れたの。初めてだった。すごく気持ちよかった」
「……そっか」
葵は星羅の夢の話を、優しい顔で聞いていた。
「それでね、先生に言伝預かったよ」
「言伝?」
「上を向けって、言ってた。先生すぐ下向くから」
「……ははっ。そっか」
葵は頷き、かすかに微笑んだ。
「元気そうだったよ、千花さん」
葵は驚いた顔をして、星羅を見る。
「私たちは、星の旅人。空の上には、いろんなものが混じり合っていて、果てがなかった」
「……そう」
「先生。私、手術受ける。頑張って中学卒業する」
葵がさらに驚いた顔をした。そして、眉を寄せたかと思うと、瞳が滲み出す。光に反射した葵の瞳は星のように綺麗で、星羅はじっとその目を見つめた。
「私、生きたい」
「……うん。生きよう、星羅ちゃん」
安堵したような感じではなく、心底嬉しそうな、少し子供っぽい表情で、葵が頷く。
「私は私の人生を生き抜いてから、ななに逢いに行く。それで、私が知ったことを全部話すの。星の川床を旅しながら」
「……素敵だね」
葵は星羅の手を取り、優しく握った。
「絶対、助ける」
星羅は重い頭をこっくりと動かし、微笑んだ。
ふと、葵の横に視線が行く。棚の上には、ななから生前に受け取った手紙があった。
「それ……」
葵に頼んで、捨てたはずだった。
「親友からの手紙を捨てるなんて、友達失格だと思うよ」
「ごめんなさい」
謝りながら、その下にあるもうひとつの便箋に気が付いた。澄んだ青色の綺麗な便箋だ。
「先生、そっちの手紙はなに?」
「あぁ……それ、星羅ちゃんを見つけたときに近くに落ちてたんだけど、星羅ちゃんのじゃなかった?」
葵はそれを手に取り、星羅に見せてくれる。宛名も送り主の名前もない。星羅は首を傾げた。
「……先生、開けて」
「うん」
葵が丁寧に封を切り、中身を取り出す。入っていたのは、一枚の写真だった。銀河鉄道の汽車で眠る星羅の写真だ。少し色褪せている。写真の中の星羅は、青いビロード調のシートにもたれ、車窓に頭を預けてうたた寝をしていた。
「あれ、これ……星羅ちゃんだね? どこで撮ったの?」
葵が写真を見て首を傾げる。
「……ねぇ、先生。私、チェキ持ってた?」
「チェキって、カメラ? いや、見つけたときはこの便箋以外にはなにもなかったと思うけど」
星羅は写真をじっと見つめた。
この手紙は多分、千花からのものだ。この写真はおそらく美月からもらったチェキで撮ってくれたものだろう。
写真をひっくり返した葵が、「あっ……」と声を上げる。後ろに一言、メッセージが添えられていた。
『懐かしかったから、チェキはもらっちゃった。代わりに切符を同封したから、それでチャラってことで。またね! ――千花』
便箋を逆さにすると、『星の川床→天浜病院ゆき』と印字された薄汚れた切符が一枚、葵の手のひらにふわりと落ちた。
四角い箱は、天へ向かう。辿り着いた先には、どこまでも見果てぬ宇宙。
そこに時間は流れていない。魂は消えない。
すべてのものは溶け合って、混ざり合って、星の川床をゆっくりと巡り、旅をする。あの子は今、ようやく旅を終え、地上にぽとりと落とされて産声を上げた。燦々と煌めく太陽の下、宇宙の片隅でほんのひととき、眩しい光を放って消える。
そしてまた、天に昇る。
――穏やかな波の中で生まれた私たちは、星の旅人。いつかまた、あなたに会えるその日まで。私は旅を続けるよ。