射抜かれた翼は力を失い、風を捕らえることもできなかった。鳳凰としてはあるまじきことに、茜華(せんか)は地面に激突して何度か跳ねた。全身を襲う痛みを堪えて、長い首をもたげて辺りを窺う。上空から見下ろして初めて分かる、高い壁に囲まれた(ほこら)──夏霄(かしょう)玉璽(ぎょくじ)を密かに安置するにはうってつけの場所に思えた。
 いったい何年──何十年の間顧みられていなかったのだろう。祠の屋根も柱も土埃や苔に覆われてくすんでいる。祭壇からも、供物や灯が絶えて久しいのだろう。ただ、どこからか現れる淡い光が、痛みに霞む茜華の目に優しくにじむ。

「これ、は……」

 翼で地面を掻くようにして、祭壇のほうへよろめくと、光の源は朽ちかけた緞子(どんす)の小さな包みだった。人の両掌に収まるくらいの大きさの、何か四角いものを包んだ──まさか、こんなあからさまに。

 震える嘴をそっと伸ばして、脆くなった緞子の生地を取り去ると、果たして自ら光を放つ玉の塊が現れた。四角い台に、持ち手に龍の彫刻を施した。印影を見るまでもない、これこそが皇帝の権威を象徴する玉璽に違いないだろう。

(あった……!)

 喜びに血潮が湧いたのも、けれど一瞬のことだった。茜華の胸に、すぐに不安が忍び寄る。淳宇(じゅんう)の手の者がここに来たら、玉璽はまた隠されてしまう。今度こそ二度と見つからぬよう、壊されてさえしまうかも。茜華もきっと殺される。そうなれば、昇暉(しょうき)が彼女の考えを知る機会もなくなってしまう。

(これは、皇帝に返すべきものなのに)

 玉璽を隠そうにも、傷ついた身体は上手く動いてくれなかった。だからせめて、茜華は玉璽に覆いかぶさった。卵を抱くような格好で。……鳳凰だとて、子を育むやり方は人と同じなのだけれど。鋭い爪を持たない身では、さほどの意味もないけれど。それでも念じずにはいられなかった。

(早く見つけて。ここへ来て。貴方自身で……!)

 彼女自身のため、鳳凰族のため、夏霄の未来のために。
 壁の向こうからは、慌ただしい気配が伝わってくるような。彩翼(さいよく)園からはだいぶ離れたはずだけど、突然現れた鳳凰とそれを狙う矢と、陰謀を訴える淳宇たちと。真偽を見極めるのに紛糾しているのだろうか。こうなると、昇暉に女だと打ち明けることができなかったのが悔やまれる。性別を偽っていたと知られれば、鳳凰族には叛意ありとの証拠のひとつに数えられてしまいかねない。

(直接、話しておけば良かった)

 たとえ叱責されても、面と向かって、自分の言葉で。けれど彼女の翼はもう動かず、全身を打撲だか骨折だかの痛みが苛んでいる。淳宇の手の者に鶏のように絞められるまでもなく、力尽きてしまうかもしれない、とさえ思いかける。けれど──

(温かい……?)

 腹のほうからじんわりとした熱が伝わってくる。そして、その熱が痛みを和らげてくれるような。熱の源は、玉璽……だろうか。龍の(くび)の珠から造ったというだけに、不思議な力が宿っているのか。しかも、不思議なことはそれだけでは終わらなかった。

 そこにいるのか、と。聞こえた。

 思い浮かべていた人──昇暉の、声で。いないはずの人の声が聞こえるほどに弱っているのかと、茜華は首をもたげて空を見上げた。高い壁に区切られた空は狭く、見えるのは空と雲ばかりのはず、だった。
 でも、真昼の明るさが不意に(かげ)る。雲が現れた訳ではない。鳥ていどの大きさでは、太陽を隠せるはずがない。井戸の底から覗くような狭い空いっぱいに、()()()()を眩く輝かせているのは──

「え──」

 巨大な龍、だった。鳳凰よりもなお神々しく力強い、神話の生きもの。長大な体躯で中空に揺蕩い、(たてがみ)からは稲妻めいた形状の角が(そび)えている。鋭く巨大な鉤爪で祠を囲む壁を掴み、爛々と、金を溶かしこんだような目でこちらを覗き込んでいる。恐ろしいというよりは荘厳な姿。それに、何より──金の目には明らかに理性が宿り、優しく、気遣う気配さえ窺えた。

「彩紅梧。生きているか……?」
「は、はい。あの……陛下……? これは、どういう……?」

 龍が昇暉の声で語るのを聞いて、茜華は痛みも後ろめたさも忘れて問いかけていた。まったく訳が分からない。しかも、問われた龍のほうも、不思議そうに首を傾げような仕草を見せた。

「……どういうことだろうな? そなたを助けねば、と思ったのだ。だが、翼がなくては行けぬ場所だと報告されて──鳳凰族の侍女に頼むのも、なぜか承服できなかった」

 茜華の侍女たちを信じてくれたという点も驚きだった。嫌疑ある一味として監視下に置いてもおかしくないところだろうに。しかも、龍は昇暉の声で、ますます驚くことを伝えてくる。

「俺自身の手で、助けたかった。そなたを地上から見上げたことを思い出すと、悔しかった。どうしてこの身に翼がないのかと。……そうしたら、そなたの声がした。俺を呼んだだろう。この場に飛びたいと思って──そして気付けば、この姿だった」
「そう、でしたか……」

 ほかに何と言えるだろう。呆然と呟くと、茜華は玉璽の上から身体をのけた。玉璽の形状は伝えられていたのだろうか、龍の金色の目が、満月のように大きく見開かれた。

「鳳凰は龍を(たす)ける──あの言葉の真意が『これ』です。空を飛ぶものでなければ見つけられない──皇帝が鳳凰を、人ならぬものを認めなければ、ということだったのでしょう。私がこれに触れて願ったから……あるいは陛下の想いに、夏霄の祖霊が、応えてくれたのかも……?」
「……なるほど。龍や鳳凰を迷信と断じた、父は間違っていたのだな……」

 父帝の過ちは、彼自身のそれでもある。認めるには、葛藤もあっただろうに。昇暉は重々しく呟いた。そして、首をぐいと伸ばすと、煌めく鱗に覆われた頭部を、そっと茜華の傍らに下げる。

「人の姿になってもらえるか。この爪や牙で、そなたを潰さずに運べるか自信がない。そなたの手で捕まってもらったほうが安全だと思うのだが」
「えっ、と、それは──いたしかねます」

 玉璽を運ぶのにも、そのほうが良いのだろう。分かった上で、けれど茜華は言葉に詰まった。そもそも紅い羽根に覆われた鳳凰の姿では、恥じらっているなんて分からなかっただろうけれど。

「なぜだ」

 苛立ちに微かに揺れる声は、先日も聞き覚えがあった。あの時は、理由を言うことはできなかったけれど──今は、違う。長くしなやかな首をうなだれて、茜華はようやく薄情した。

「私は……女なので。服も着ていない姿は……憚りが、色々と」

 この期に及んでまだ分からなかったのか、とも思うけれど。思えば、緋桜(ひおう)だって鳳凰の雌雄での羽根の違いを知らなかったのだ。今の茜華は地に堕ちて羽根を萎れさせていることだろうし、非常の時だし。それどころではなかったのかもしれない。

 だから──なのかどうか。気高く美しく強大な龍は、その威容に似つかわしくない、ぽかんとした表情を見せた。完全に虚を突かれた顔だと、なぜか分かってしまうのだ。その不釣り合いさに、茜華は思わず声を立てて笑っていた。

      * * *

 皇宮の空に現れた巨大な龍の姿は、玉璽の発見と相まって皇帝の権威を一瞬にして復活させた。人と龍の姿を行き来する術をすぐに身につけた昇暉は、各地を回って龍の姿を見せつけ、かつ雨を呼んだ。夏霄の国を統べるのは龍の力を受け継いだ皇帝であると、民の誰もがその目で知ったことだろう。不思議の力を信じなかった者たちも考えを変えたし、皇帝の力不足につけ込んで私欲を貪っていた者たちは廃された。

 茜華は、昇暉の青銀の鱗の煌めきを追うように飛んでいた。人の姿の時でも見上げるほどの背丈の違いがあるけれど、龍と鳳凰に転じると、身体の大きさの違いは何十倍にもなってしまうのが未だに腑に落ちない。並んで飛ぶことができているのは、ひとえに彼が速さを加減してくれるからだった。ただ、それでもふたりは飛び過ぎている。昇暉の顔の傍で羽ばたきながら、茜華は金色の目に呼び掛けた。

「昇暉様! そろそろ降りましょう? 供の者たちが遅れております」

 地上を馬や車で行く者たちの土埃は、遥か後方だった。遮るもののない空を飛ぶ茜華たちの速さとは比べるべくもない。彼我の距離にやっと気付いてか、昇暉は中空でとぐろを巻くように休息の体勢を取った。

「ふむ、気が急いたようだな。早く玉泉(ぎょくせん)の里に辿り着かねば、と」

 昇暉は、茜華の里帰りに付き合ってくれているのだ。というか、より正確に言えば婚約の挨拶に、ということになる。
 淳宇(じゅんう)の企みが暴かれ裁かれたのは言うまでもなく、性別を偽った罪は玉璽を見出した功績で帳消しにされた。さらには──茜華は知らなかったけれど、龍を皇帝に喩えるのに対して、鳳凰は皇后の象徴なのだとか。龍の化身である昇暉の傍らに、鳳凰の姫たる茜華がいるのは非常にめでたく体裁が良い、らしい。

(私で良いの? 本当に?)

 玉泉の里にはほかにも若い娘はいるし、緋桜(ひおう)だって愛らしい。何も茜華でなくとも、と何度も言った。でも、その度に昇暉は笑って首を振った。彼女が女で良かった。皇帝にも物怖じせず抗議し、矢を掻い潜っても飛ぶ勇気を持つ者を伴侶にしたい、と言って。

「空の散歩なら、いつでもお供いたします。焦らずともよろしいかと」
「焦っているつもりはないが、楽しいからな。……鳳凰を長く閉じ込めていたのは不憫なことであったな」

 龍が申し訳なさげに髭を揺らすのを、茜華は微笑ましく眺めた。

「緋桜様にも飛び方を教えて差し上げましょう。きっとお気に召すでしょうから」
「そうだな。いずれ産まれる我らの子にも」

 気の早い言葉は、人の姿で聞かされていたら赤面ものだった。嘴で、龍の鱗を軽く突いて抗議しながら、それでも茜華の胸は喜びに満たされる。共に空を翔けられる伴侶は、彼女だって夢見ていたのだ。

 鳳凰は龍を(たす)ける──ふたりが共にある限り、その言葉は真実になり、夏霄の国は平らかに繁栄を続けるだろう。泰平の中、彼女たちは幸せに暮らせるはずだ。