酒宴などにも使われるであろう大庁(ひろま)は、広く天井も高く、茜華(せんか)が飛んでも翼を痛める心配は無用だった。室内ゆえに明るさも限られるし、だいぶ窮屈なのだけど。緋桜(ひおう)は、それでも喜んでくれた。

「なんて美しいのでしょう! はばたく度に輝きが変わるのですね。夢のようです……」
「太陽の下だと、もっと眩しくて美しいですよ。──ここでは、禁じられているようですが」

 大庁から望む庭園も美しかったけれど、例によって金の柵越しにしか見ることができなかった。彩翼(さいよく)園は、どこまでも鳳凰のための豪奢な鳥籠なのだ。

夏霄(かしょう)の倣いは、窮屈で残酷ですね?)

 ひとしきり飛んでから椅子の背に止まった茜華は、皇帝・昇暉(しょうき)に向けて長い首を傾げた。言葉にせずとも、皮肉と非難の入り混じった感想は存分に伝わったらしい。彼は軽く眉を顰めると、それでも小さく頷いた。

「では、外に出て飛んで見せよ。緋桜も見たいのだろう」
「良いのですか、昇暉様!?」

 緋桜の歓声に、けれど咳払いが重なった。見れば、昇暉が伴っていた宦官が非難するように顔を顰めている。

「陛下。献上されたばかりの鳳凰でございます。逃げられては御名を汚すことになるかと」
「この者はただの鳥ではない、淳宇(じゅんう)。見れば分かるだろう。自分の立場は(わきま)えていよう」
「は──」

 緋桜に対するのとは打って変わって、君主としての威厳を帯びた声で応じる昇暉を、茜華は興味深く眺めた。進言した宦官は、後宮で多くすれ違った雑用の下働きではなく、高官さながらの煌びやかな衣装を纏っていた。

(宦官の中には、皇帝に信頼されて側近になる者もいるんだっけ……?)

 後宮という私的な空間で長く共に過ごすのだから、自然な流れなのだろう。皇帝の考えに口を挟むのはたぶん勇気が要ることで、それが許される辺り、淳宇というらしいこの宦官は、きっと昇暉に長く仕えているのだろうという気がした。

「鳳凰は龍を(たす)け、その翼は玉を示す、と──この者に会って試してみたくなった」
「鳳凰は伝説に謳われるような不可思議な力はございません。……陛下もそのように思し召しかと存じておりましたが」
「考えは変わっていない。興味本位だ。──開けてやれ」

 茜華にはよく分からないやり取りの後、昇暉は控えていた侍女に命じた。窓はちゃんと開く造りになっていたらしく、侍女の操作によって金の檻の一部が外されて、鳳凰が通り抜けられる隙間が確保される。

(空を飛べるなら、まあ良いか!)

 淳宇には歓迎されていない気配も感じたけれど、気にしないことにして。茜華は大きく翼を広げた。

「緋桜様。……と、陛下も。どうかご覧になってくださいますように」

 昇暉が何を考えているのか、まだよく分からない。だからあくまでも緋桜を喜ばせるために、を主な目的にして、茜華は飛び立った。

 籠に閉じ込められていたのはほんの一日かそこらのことだけど、翼に風を受けて飛ぶのは気持ちが良かった。眼下では、昇暉と緋桜も庭園に出てこちらを見上げている。手を振ってぴょんぴょん跳ねる緋桜は喜んでくれているようだし、昇暉もこちらを見上げているようだ。皇帝を見下ろす不敬を犯さぬよう、茜華は視線を皇宮全体へと向けた。

玉泉(ぎょくせん)の里とは違うけれど、ここも綺麗……上から見たほうが、私は好きかも……?)

 人の姿で見る皇宮は、贅を凝らしてはいても、豪奢な檻でしかない。息苦しくて、居心地が悪い。けれど上空から見ると、木々の緑や水の青の中に、色とりどりの殿舎の瑠璃瓦(るりがわら)が輝くのが美しかった。

(まるで、何かの絵を描いたみたい)

 緋桜と昇暉に、陽光の中で青空に映える翼を見せつけようと、茜華は弧を描き、時に宙返りも交えて飛ぶ。宙に極彩色の軌跡を残し、虹の輝きを撒くのが鳳凰の舞だ。
 くるくると回転する視界の中、皇宮の殿舎群は万華鏡のように溶け合って鮮やかな模様を描くようだった。その模様が、やがて意味を為すような気がして。茜華が目を凝らした時──下方から白い光の筋が、彼女を襲った。

「きゃ──」

 尾羽に感じた衝撃に、茜華は身体の均衡を崩す。さらに、白い光が立て続けに彼女の翼を掠めた。

(矢で射られた!? 後宮で、鳳凰が!?)

 玉泉の里ではもちろんのこと、都に向かう道中でも、皇帝への献上品たる鳳凰が矢で狙われることなんてなかった。その皇帝のお膝もとである後宮での凶行もまた、ありえないはずなのに。初めて感じる恐怖と痛みに、茜華は羽ばたくことを忘れてしまう。翼を上手く動かせなくて──落ちる。

(さい)|紅梧……!」

 昇暉の焦った声で、茜華はどうにか気を取り直した。強張った翼を懸命に動かし、昇暉の腕の中に墜落する。もと居た殿舎から離れていなくて、本当に良かった。でも、射られたことによる動揺は激しくて、しばらく動けそうにない。
 ぐったりと首をうなだれる茜華を抱えて、昇暉は声を荒げた。

「後宮で矢を放ったのは何者だ!? 決して逃さず捕らえよ!」
「ですが、陛下……! これは、御心を汲んでのことかもしれませぬ。怪しき存在をのさばらせてはならぬと、父君からの皇宮の倣いで──」
(ちん)が命じて飛ばせたのだぞ。軽々しく意を汲んだなどと口にするな!」

 淳宇はやはり鳳凰が嫌いなようだ。飛んだのが悪い、と言いたげな彼を、けれど昇暉は一喝した。茜華を案じてくれた──とは、限らないかもしれないけれど。

(献上品を壊されたら不快、でしょうね……?)

 それは、皇帝への反逆にも等しいのだろうから。だから特別に喜ぶようなことではない。というか、昇暉に庇われて茜華が喜ぶ理由もないはずだった。でも──

「彩紅梧よ。皇宮といえど鳥を診ることができる医師はいまい。人の姿に戻れ。──これなら、裸を晒すことにはならないな?」

 ばさ、という音がしたかと思うと、茜華の身体は温かいものに包まれた。玉で飾った帯が地に落ちる重い音に、昇暉が脱いだ(ほう)で彼女を包んでくれたのだ、と気付く。この温もりは、彼の体温だ。

「あ──」

 男でも裸体を人前に晒すのは耐えがたいだろう、と。当然の配慮ではあるだろう。でも、鳳凰に興味がないと言っていた昇暉が、こんな真摯な眼差しで見てくれるなんて。茜華の羽毛がぶわり、と膨らんだのは、不覚にもどきりとしてしまったからだ。飛ぶこともできない人の男に、ときめいてしまったから。

(でも、無理!)

 彼の厚意に感謝はしても、言われた通りにはできなかった。昇暉が袍一枚を被せて良しと考えたのは、あくまでも茜華を男だと信じているからだ。一方の彼女にしてみれば、女の身体を隠すには心もとない。しかも、今人の姿になれば、昇暉に抱えられることになってしまう!

「で、できれば部屋に戻ってからにしていただけると──」
「悠長な」

 せめて紗幕に覆われた寝台の中で、と訴えると、舌打ちで応じられた。男が何を恥ずかしがっている、と思われるのは非常にもっともだから、茜華は首を縮こまらせることしかできない。

「あの、飾り羽にかすっただけなので……大きな怪我はしていないと、思いますから!」
「……問答する時間が惜しい。このまま連れて行くぞ」

 ひどく疑わしげな目で茜華を睨んだ後、昇暉は大股に歩き出した。後に、侍女や緋桜の悲鳴や泣き声、慌ただしい足音と衣擦れの音が続くのが聞こえる。彼女たちもさぞ恐ろしく、心配しているだろうと思うと申し訳ない。でも、茜華の心を占めていたのはまた別の不安だった。

(羽衣……破れちゃった。どうしよう……!)

 怪我はないと言ったのは嘘ではない。幾度か身体をかすめた矢も、彼女の肉体を傷つけてはいないと思う。墜落したのは、驚きや動揺によってでしかなかった。でも──彼女の飾り羽とは、つまりは五彩羽衣(ごさいのはごろも)によって仮に纏ったもの。目立つ煌めきが囮になってくれたのは幸運だったかもしれないけれど。兄たちから羽根をもらうことが出来ない以上、もう使い物にならないかもしれない。茜華が雄の鳳凰と偽る手段が、失われてしまったのだ。