夏霄の後宮において、鳳凰族が住まわせられる一角を彩翼園と呼ぶらしい。五色の翼の鳳凰の住まいに相応しい美しい庭園に、美しい建物が並んでいる。茜華が案内されたのも、小ぢんまりとしていながらも瀟洒な殿舎だった。窓も扉も、ことごとく金の柵で囲われ鍵で封じられ、花咲く庭に出ることも、鳥になって池に映る自分の姿を見降ろして楽しむこともできなかったけれど。金の籠に入れられるのは最初だけのことでなく、これからの生活のすべてが「そう」なるらしい。
「紅梧様がこのような扱いを受けるとは、思ってもいませんでしたわ……!」
仲良く籠の鳥に収まった侍女は、それでも人の耳を憚って茜華を兄の名で呼んだ。それに倣って男の言葉遣いで応じながら、茜華は肩を竦める。
「まあ、当然の用心だろう。鳳凰と人と、種族は違っても子は生せるのだから」
鳳──雄の鳳凰が彩翼園にいたこともあるのだろうから、後宮の妃嬪との間に不義が起きないように、ということなのだろう。
(でも、一緒に飛べない相手を好きになるなんて、あり得ないんじゃない?)
鳳凰にとって、好きな相手の羽根の色は、ほかの者とは違って特別に美しく見えるもの。翼を並べて空を舞うのは、男女を問わず憧れるもの。人としての姿がどれほど整っていても、煌びやかに着飾っていても、飛べないというだけで大幅な減点になる。
もちろん、種族を越えて愛し合った者たちの物語は、いくつも伝わってはいるのだけれど。金の籠に閉じ込められて、珍しい鳥として愛玩されて。かつてここで暮らした鳳凰たちが、そのように扱ってくる者たちに心を寄せたことなんてあったのだろうか。そんな皮肉な感慨はさておき──
「同じ種族でも、子が生せないこともあるかと存じますが……」
侍女は、今宵のことが気になってしかたないらしい。だって、茜華は女。この殿舎のもとの住人である緋桜姫という方も、女。凰──雌の鳳凰が二羽そろったところで、卵が孵るはずもない。夏霄の宮廷が望むように、鳳凰の雛の誕生という慶事は決して起きないのだ。
(何が望みか、最初から言えば良かったのに! ううん、兄様じゃなくて良かったかもしれないけど!)
知らない女性と子を生すよう強いられるなんて。家畜のように、同じ籠に閉じ込められるなんて。ただでさえ病弱な兄、本物の紅梧にそんな心労をかける訳にはいかなかった。無理なものは無理と、分かり切っている茜華のほうがまだ気が楽、かもしれない。
「話して、分かってもらうしかないだろうね。そのつもりではあっただろう? 同族なんだから、助け合えるさ」
「……そのように、願います」
沈痛な面持ちの侍女を安心させようと、茜華はわざとらしいほど明るく笑った。緊張に強張った声では、演技だと分かってしまったかもしれないけれど。半ば以上は自分に言い聞かせるためにも、楽観的になるのは必要なことだった。
「皇帝陛下も、雛には興味はないって仰せだったし? まずはお近づきに、なれたら良いね」
あの皇帝の考えなんて分からないけれど。君主の言葉というのは尊重されるはずだ。兄代わりに、という御言葉を盾にさせてもらえば、すぐに番にならなくても責められる筋合いはないだろう。
* * *
窓も扉も封じられた豪奢な殿舎──大きな金の鳥籠に閉じ込められているのは、茜華や玉泉の里からついてきた侍女たちだけではない。ここには元々の住人──幼い鳳凰の姫、緋桜もいる。顔合わせの席が設けられるのかと思いきや、そんなことはないまま夜を迎えてしまったのは、それが行われるのは閨の中だから、ということらしかった。
(私が女だから良かったようなものの……!)
彼女に与えられた寝室も寝台もやたらと大きいのは、つまりはふたり分を想定されているからなのだ。赤を基調とした調度は、鳳凰の翼を模してのことか、それとも婚礼、というか初夜の床を意識しているのだろうか。後者だとしたら、夏霄の宮廷の趣味はやっぱりおかしい。
(本当に、家畜扱いじゃない!)
会ったばかりで、もう閨を共にさせようだなんて。侍女に見せた笑顔はどこへやら、茜華の頬は憤りによって引き攣った。でも──
「あの……紅梧、様……?」
「はい。玉泉の里から参りました。彩紅梧と申します。貴女は──緋桜姫でいらっしゃいますね?」
おずおずと、高く細い声に呼びかけられて、慌てて微笑を纏い直す。緋桜姫も、番の名だけは教えられているらしい。それに、この震える声の調子からして、同じ寝室に押し込められた理由も、だろう。
「え、ええ……。あの、私──」
鳳凰は、一応は貴重な献上品として扱われているのは間違いないらしい。褥は見た目にもひんやりとした極上の絹、寝台は精緻な細工で彩られ、敷物も足を乗せるのが怖いくらいに煌びやかな金糸銀糸が使われている。ほかにも、釉薬が艶めく磁器の壺に、椅子や卓は黒檀に美麗な象嵌が施されて──そんな調度の数々をほんのりと照らすのもまた、豪奢極まりない白玉の燈火台だった。透けるほどに薄く削られ、花蝶の彫刻を施された玉は、内に抱えた蠟燭の灯りをほど良く透かす。その柔らかく仄かな灯りが照らし出すのは、まだ十二とかそこらの年ごろに見える華奢な少女だった。彼女こそが、茜華──が、名を借りた兄、紅梧と番わせられようとしていた緋桜姫に違いない。
(こんな子を、男と同じ閨に押し込んだなんて……!)
この殿舎にも元から侍女なりがいるのだろうけれど、幼い主を不憫に思う者はいなかったのか。頼りない夜着に細い身体を包み、愛らしい頬を強張らせ肩を縮こまらせる緋桜を目の当たりにすると、茜華の腹は怒りにふつふつと煮え滾る。でも──そんな感情を、怯える少女に見せる訳にはいかなかった。
だから、笑顔が引き攣ってしまう前に、茜華は初めて会う同族にそっと手を差し伸べた。
「どうか怖がらないで。お友達になりたいだけなのです。──ほら、姫と同じ羽根でしょう?」
人の姿から鳳凰の姿に転じるには、心の中でそう念じるだけで済む。茜華が言い切る前に、室内には翼がはばたく音が響き、燃えるような絢爛な色彩を帯びた赤が、真昼の太陽のように薄闇を払う。着ていた衣服が床に落ちた時には、茜華は五色《ごしき》の翼を部屋いっぱいに広げていた。
「わ、綺麗……!」
緋桜姫の声が明るくなったのは、喜ぶべきことだった。ぱたぱたと軽い足音がして、とりあえず卓の上に着地した茜華を、小柄な少女が覗き込む。きらきらと光る目に宿る憧れや讃嘆の眼差しも、嬉しい──のだけれど。
(あれ……?)
何かがおかしい、と思った。
「鳳というのは、こんなに綺麗な羽根をしているのですね……?」
だって、緋桜姫は、鳳凰の羽根を初めて見るかのような口振りだったから。鳳と凰──雌雄の羽根の豪華さは、まるで違うものなのに。ひと目見れば、茜華が実は女だと、分かってくれると思ったのに。
「いえ……あの、緋桜姫と同じだと、思うのですが……?」
予想が外れた動揺に、茜華は落ち着かず羽根をばさばさと動かした。雌雄の羽根の違いは、雛のころから現れるもの。鳳凰族なら間違ることはないと思うのだけど。でも──愛らしい少女は、不思議そうに首を傾げるだけだった。
「え……?」
「その……私は、凰──女、なので」
少し迷ってから、茜華は床に落ちた衣装を嘴で咥え、宙に放り投げた。同時に、胸に念じる。先ほどとは逆に、翼を腕に、鳥から人へ、と。
一瞬の後に、茜華は娘の姿に戻っていた。素肌に、内衣を羽織っただけの格好で。胸の膨らみや腰のくびれも、すべて晒して。
「同じ」の意味をやっと分かってくれたのか、緋桜姫は目をまん丸くして口を手で覆っていた。
夜着を纏い直した茜華は、緋桜姫と向かい合って卓に着いていた。姫の白く細い指が包む青磁の椀には、花梨を漬けた蜜を湯で溶いた甘い飲み物が入っている。……幼い彼女に酒を出さない常識はあるのに、初対面の男──と思われている茜華のことだ──とふたりきりで閨に押し込むのは躊躇わないあたり、夏霄の宮廷の感性はやはりよく分からない。
それは、ともかく──
「紅梧様は、本当は茜華様と仰る、姫君なのですね……」
女の肉体という動かぬ証拠を前に、緋桜は納得してくれたようだった。茜華が期待したように、同性の同族ということで気を許してくれたようでもある。
「はい。……人間には内緒にしておかなければならないのですけど」
「分かりました。人前では呼び間違えないようにします。あの……紅梧お兄様とお呼びしてもよろしいでしょうか」
「もちろん。本当は兄の名だから不思議な感じですが、どうぞよろしくお願いします、緋桜姫」
「はい……!」
白玉越しの柔らかな灯りが、緋桜姫の笑みをいっそう愛らしく輝かせた。
(後宮でたった一羽の鳳凰、って……寂しい思いをされていたんじゃ……?)
少なくとも、緋桜姫の両親もまた、後宮で飼われていた鳳凰だったはず。長い歴史の間に、玉泉の里から献上された者の子孫は、もっと多いかと思っていたのに。
「私、鳳と凰の羽根が違うのも存じませんでした。お姉──お兄様の翼もとても綺麗でしたのに。鳳はもっと煌びやか、なのですね……?」
「ええ、その通りです。兄たちからもらった羽衣で、鳳に変装することもできますから、明日にでも見せて差し上げますね」
「本当ですか!?」
「もちろんです」
憧れの眼差しで見てくれる緋桜に笑顔で答えつつ、茜華の胸は不穏に騒いでいる。鳳凰の雌雄での羽根の違いも知らないこの少女は、いったいいつから独りぼっちなのだろう。両親と早くに死別したなら可哀想だし、自らの種族について何も教えられていないなら、夏霄の者たちはいったい何をしているのだろう。
(私が、教えてあげないと……!)
妹ができた気分で、茜華は密かに決意した。鳳凰族の美しさと誇りを、幼い同族にしっかりと知ってもらわなくては。
「鳳凰の翼は、太陽の光を浴びた時が一番美しいですから。窓を開けて、空を飛ばせてもらえるとなお良いですね。赤い羽根が、青空や白い雲に映えて──」
「あ──それはお許しが出ないかもしれません」
勢い込んで、言葉を限りに語ろうとした茜華を、けれど緋桜はおずおずと遮った。いったいなぜ、と。彼女の目に浮かんだ疑問を読み取ったのだろう、幼い鳳凰はぎゅっと眉を寄せて、考えを纏めるような表情を見せた。
「ええと……先代の皇帝陛下は、不思議なものごとがお嫌いだったそうです。幽鬼とか、怪力乱神とか──人と鳥の姿を行き来する鳳凰族も、その類だと仰って」
「……怪しげなものが皇宮を飛んではならない、と? 今上の陛下もそのように思し召しなのですね?」
濁された言葉をずばりと言うと、緋桜はこくりと小さく頷いた。
「だから私も、鳥の姿になったことがないのですわ……」
「陛下が鳳凰の雛に興味はないと仰ったのもそういうことなのですね。……それなら、緋桜様を玉泉の里に返してくだされば良かったのに!」
恥じ入るように、悲しむように俯いた少女を、慰めなければいけないのだろうけれど──茜華の声は、憤りに尖ってしまう。鳳凰を飛ばせず、翼を愛でず、化物のように扱っていると聞いて、どうして怒らずにいられるだろう。でも──
「昇暉様──あ、皇帝陛下は良い方なんです」
緋桜はきっと顔を上げて、思いのほかに強い口調で訴えた。茜華にしてみれば、皇帝の第一印象は最悪だったから、つい、疑わしげに首を傾げてしまうのだけれど。
「あの御方が? 興味のない鳳凰をわざわざ召し出して、番わせようとしたのに?」
「それは、臣下の方々に言われてしかたなく、なんです! 夏霄の国は、今は雨に恵まれていないそうで──神鳥を蔑ろにした報いではと、言う方も多いのだそうです。そういう方々は、新しい鳳凰の雛が生まれれば縁起が良いと、思われているようで──」
緋桜が懸命に訴えるのを、茜華はなるべく心を平らかにして聞こうと努めた。幼い同族の言うことを、無碍にはしたくなかったから。
(私を──というか、兄様を召し出したのは皇帝というより臣下の願い、なのね……?)
玉泉の里は常に水が豊かだけれど、世間では旱魃に悩む地域が多いのは聞こえてきている。鳳凰は、翼が美しいだけで雲や雨を呼ぶ力はないのだけれど。美しいものに希望を見出す人の想いは、まあ、分からなくもないかもしれない。問題は、あの皇帝本人はそんな情緒とは無縁に見えたということだけれど。
「……つまりは、皇帝陛下のご威光が足りないということなのですね……?」
玉座の間での冷淡な物言いは、臣下の要請に屈して怪しげな人鳥を後宮に招き入れることになったから、らしい。腑に落ちた一方で、歓迎もされていないのに呼ばれた側としては理不尽極まりないと思う。
「あの……はい。そうかも、しれません。だから私、昇暉様の御力になれれば良いと思って……! でも……茜華様とお会いできて嬉しいのですが、どう、しましょう……」
身もふたもない茜華の総括に、緋桜は愛らしい面を曇らせた。でも、皇帝への弁護を辞めないあたり、慕っているのは本当らしい。知らない男と番わせられても、健気に耐えようと思うくらいに。茜華が女だと知って、安堵と同時に不安を覚えてしまうくらいに。
(小さな子に優しいなら──ううん、それって普通のこと、だけど)
緋桜を可愛がる皇帝、という図を思い浮かべようとして、できなくて。それでも茜華は、幼い同族の言葉を信じることに決めた。というよりも、これ以上緋桜に悲しい顔をさせたくない。
茜華はそっと身を乗り出すと、できるだけ優しく微笑んだ。
「皇帝陛下も、私を緋桜様の兄代わりに、と仰っていました。本当に良い方なのだとしたら──緋桜様がご自身を犠牲にすることは望まれないでしょう。だから、気になさる必要はありません」
口に出して言ってみると、真実のような気もしてきたから不思議なものだ。なるほど、鳳凰の雛を望まないということは、緋桜を知らない男と番わせないということだ。細身の茜華を見て、もしかしたらあの皇帝は安堵していたのかもしれない。
「茜華様……そうでしたら、嬉しいのですが……」
緋桜を安心させるため、そして、自分に言い聞かせるために。茜華は大きく頷いてみせた。
「私は──翼や舞の美しさでお仕えしようと思ってこの後宮に上がったんです。怪しいだなんて思わないで、見ていただけたら良い……かもしれませんね……?」
緋桜の話が本当なら、皇帝だって鳳凰が飛ぶのを見たことがないのだろう。慰めるというよりは、認めさせるために。渾身の舞を見せてやろう。勝手な言い分の臣下たちにも、だ。新しい雛が産まれなくても、鳳凰の煌めく翼だけでも十分に慶事を予感させるはずだから。
そうと決めると、茜華の胸は少し軽く、明るくなった気がした。
翌日──茜華は約束通り、五彩羽衣を纏った鳳凰の姿を緋桜に披露した。明るい昼の光のもと、雌の凰とは比べものにならない絢爛な飾り羽に、少女の目と口は大きく開き、可愛らしい唇からは讃嘆の声が漏れる。
「──とても綺麗です、せん──紅梧兄様! とても、きらきらとして眩しくて、色鮮やかで……!」
「お気に召していただいたようで嬉しいです、緋桜姫」
鳳凰の鳥籠でありながら、彩翼園にはなんと止まり木がないのだという。玉泉の里なら、屋内にも手ごろな枝や棒があちこちに設えられているというのに。なのでしかたなく椅子の背を爪で掴んで、それでも茜華は得意だった。軽く翼を羽ばたかせれば、目が眩むような煌めきが室内に満ちる。赤い翼を彩る、鮮やかな青や白や金や銀。人の姿で絹の衣装や宝石を纏うよりもよほど、鳳の羽根で着飾るのは気分が良い。
「大庁に行ってみましょうか。翼を広げて飛ぶとなお美しいのですよ」
「はい、ぜひ!」
歓声を上げた緋桜が広げた腕の中に、茜華はそっと収まった。彩翼園の殿舎は十分に広いけれど、さすがに廊下で翼を広げて飛べるほどではない。羽根を痛めないためには、大庁までは抱っこで運んでもらわないといけない。
「まあ、可愛らしい姫君ですこと」
「紅梧様と仲良くなられて、安心いたしました」
緋桜のはしゃぎようは、新旧の侍女たちも微笑ましく見守っているようだ。宝物のように茜華を抱えた少女が小走りするのを、侍女たちの談笑する声と衣擦れが追う。女だけの穏やかながら華やいだ空気は、けれど、突如響いた低い声によって凍りついた。
「……彩紅梧、なのか……?」
後宮において、男は──雄の鳳ということになっている茜華を除けば──本来ただひとりだけ。緋桜たちの道を塞ぐように佇む長身の影は、間違いようもなく夏霄の皇帝、昇暉その人だった。今日は礼服ではなく動きやすい袍を纏い、冠も簡易なものだから、若々しく凛々しい顔がはっきりと見えた。あいにく、茜華がときめくなんてことはまったくなかったけれど。
(来るなら来るって、言ってくれれば良かったのに!)
羽衣を纏っていて、本当に良かった。もしも凰の比較的地味な羽根を見られていたらと思うと、冷や汗が出る。心の中で悪態を吐きながら、侍女たちが慌てて平伏する気配を感じながら、茜華は緋桜の腕から逃れて床に翼を広げ、長い首を垂らした。鳳凰の姿で精いっぱい跪こうとすると、こんな格好をするしかない、と思う。
「はい。この姿ではお初にお目にかかります。鳳凰の羽根を、どうぞご堪能あれ」
「言葉も喋るのか。どこからどうやって声を出している?」
床にひれ伏す茜華に低い声が近づき、視界の端に絢爛な龍の刺繍の生地が入る。昇暉が床に膝をついて、しげしげと茜華の羽根を眺めているらしい。人の目に、羽衣と本物の区別がつくことはないだろうけれど──落ち着かなさに、茜華は翼をばたつかせた。
「……考えたこともございません。我らは鳥の姿でも言葉を操ることができるのです」
「不思議な生態だな」
「そうでしょうか?」
この男は、やはり鳳凰を化物の類だと思っているのだろうか。茜華の声に険が宿ったのに気付いたのかどうか、緋桜の細腕が慌てたように彼女を抱き上げた。皇帝の視線から隠しつつ、茜華を宥めるかのように。
「昇暉様。突然いらっしゃるなんて驚きましたわ。何の準備もしていませんのに」
「鳳凰の雄と閨を共にしたと聞いて心配になったのだ。だが──仲良くなったようだな?」
「兄様と呼ばせていただくことにしました。紅梧兄様は、鳳凰について色々と教えてくださいますの」
緋桜を見下ろす昇暉の眼差しは、それこそ妹を見る兄のようだった。幼い凰を番わせるのは本意ではないというのは真実らしいと、茜華もようやく腑に落ちる。でも、その心配こそ彼女にとっては不本意なものだ。
「幼い姫君に無体を働くはずがございません。話し相手になれとの仰せに従っておりました」
「そうか……」
首を伸ばして、羽根を逆立てて抗議すると、昇暉は少しだけ表情を翳らせた。驚いたことに、皇帝たる人が反省したらしい。
(悪い人じゃないの? 本当に?)
疑り深く、今は黒曜石を嵌めたようにつぶらな瞳を瞬かせていると──昇暉は、腕をぐいと茜華の目の前に突き出してきた。
「その羽根、もっと近くで見たい。ここに来い」
「え──」
皇帝の腕に止まれ、との命令らしい。畏れ多いし、金糸の刺繍を爪で引っかけてしまいそうだし、何より間近に見られるのは嫌だった。けれど断ることもできないから、茜華は渋々ながら緋桜の腕から飛び立った。足で掴んだ昇暉の腕は意外と逞しく、武術も嗜んでいるのかもしれない、と思う。それと──彼女の羽根をしげしげと眺める皇帝の容貌は、やはり整っている。
「軽いな」
「それは、空を飛ぶのですから……」
「人の姿の時も軽そうだったが、なお軽いのではないか?」
人の姿と鳥の姿では、確かに明らかに身体の重さが変わる。それもまた不可思議なモノ扱いになるのかと、茜華が警戒していると──昇暉は不意に、彼女の翼を広げさせた。
「翼は、意外と大きいな」
「きゃ!?」
羽根の内側の、柔らかなところに触れられて、思わず高い声が出てしまう。男としての演技を忘れてしまった失態に、心臓がどきどきと高鳴るけれど──昇暉は何も気付かぬ風に笑っていた。
「女のような声を上げる」
「いきなり触るからです! 鳥の姿とてくすぐったいとは感じます!」
疑っているのではなく、単に面白がっているのだと気付いて、茜華はどうにか恥ずかしがりながら怒る演技ができた、はずだった。足を踏ん張って、翼を広げての抗議に、昇暉は機嫌を良くしたようだった。子供っぽいとでも思われたかもしれない。
「この大きさの生きた鳥を触る機会など滅多にないからな。大人しくしていろ。乱暴にはしない」
「……御意」
昇暉の手が、茜華の翼を広げさせて隅々までなぞっていく。翼の先の風切り羽根に、淡い色をした内側のところ。五色が彩る胸の辺り。
(こ、これは恥ずかしいかも……!)
昇暉は珍しい鳥を触っているつもりなだけだ、と思い込もうとしても、茜華の心は年ごろの娘である。宣言通りに優しく丁寧な手つきだけど──だからこそますますくすぐったいし、落ち着かない。
と、茜華を奪われた形の緋桜が羨ましそうに声を上げた。
「紅梧兄様。私も触ってよろしいですか? その、ふわふわとしたお腹のところ……!」
「鳥の姿でも男だろう、これは。はしたないことを望むものではない。先ほど抱えていたのも関心しなかった」
緋桜は純粋に、羽根に触りたかっただけかもしれない。でも、茜華にとっては天からの助けだった。昇暉が手を止めたのを幸いに、その腕から飛び立って、中空で羽ばたきながら訴える。
「御言葉ですが! たとえ同性でも裸を撫でまわすのはいかがなものかと! 私は今、服を着ていないのですよ!?」
「む……」
飛ぶには狭い廊下で、壁を飾る見事な絵画に何度かぶつかってから、茜華はどうにか手近な燈火台に止まった。緋桜の腕に戻りたかったけれど、男だの裸だの言った後ではできそうにない。
茜華は足場の悪い場所で翼をばたつかせ、昇暉は痛いところを突かれたように顔を顰める。気まずい一幕を救ったのは、緋桜の軽やかな笑い声だった。
「そうだ、兄様には飛ぶところを見せていただこうと思っていましたの。昇暉様もご一緒に、大庁に参りませんか?」
酒宴などにも使われるであろう大庁は、広く天井も高く、茜華が飛んでも翼を痛める心配は無用だった。室内ゆえに明るさも限られるし、だいぶ窮屈なのだけど。緋桜は、それでも喜んでくれた。
「なんて美しいのでしょう! はばたく度に輝きが変わるのですね。夢のようです……」
「太陽の下だと、もっと眩しくて美しいですよ。──ここでは、禁じられているようですが」
大庁から望む庭園も美しかったけれど、例によって金の柵越しにしか見ることができなかった。彩翼園は、どこまでも鳳凰のための豪奢な鳥籠なのだ。
(夏霄の倣いは、窮屈で残酷ですね?)
ひとしきり飛んでから椅子の背に止まった茜華は、皇帝・昇暉に向けて長い首を傾げた。言葉にせずとも、皮肉と非難の入り混じった感想は存分に伝わったらしい。彼は軽く眉を顰めると、それでも小さく頷いた。
「では、外に出て飛んで見せよ。緋桜も見たいのだろう」
「良いのですか、昇暉様!?」
緋桜の歓声に、けれど咳払いが重なった。見れば、昇暉が伴っていた宦官が非難するように顔を顰めている。
「陛下。献上されたばかりの鳳凰でございます。逃げられては御名を汚すことになるかと」
「この者はただの鳥ではない、淳宇。見れば分かるだろう。自分の立場は弁えていよう」
「は──」
緋桜に対するのとは打って変わって、君主としての威厳を帯びた声で応じる昇暉を、茜華は興味深く眺めた。進言した宦官は、後宮で多くすれ違った雑用の下働きではなく、高官さながらの煌びやかな衣装を纏っていた。
(宦官の中には、皇帝に信頼されて側近になる者もいるんだっけ……?)
後宮という私的な空間で長く共に過ごすのだから、自然な流れなのだろう。皇帝の考えに口を挟むのはたぶん勇気が要ることで、それが許される辺り、淳宇というらしいこの宦官は、きっと昇暉に長く仕えているのだろうという気がした。
「鳳凰は龍を援け、その翼は玉を示す、と──この者に会って試してみたくなった」
「鳳凰は伝説に謳われるような不可思議な力はございません。……陛下もそのように思し召しかと存じておりましたが」
「考えは変わっていない。興味本位だ。──開けてやれ」
茜華にはよく分からないやり取りの後、昇暉は控えていた侍女に命じた。窓はちゃんと開く造りになっていたらしく、侍女の操作によって金の檻の一部が外されて、鳳凰が通り抜けられる隙間が確保される。
(空を飛べるなら、まあ良いか!)
淳宇には歓迎されていない気配も感じたけれど、気にしないことにして。茜華は大きく翼を広げた。
「緋桜様。……と、陛下も。どうかご覧になってくださいますように」
昇暉が何を考えているのか、まだよく分からない。だからあくまでも緋桜を喜ばせるために、を主な目的にして、茜華は飛び立った。
籠に閉じ込められていたのはほんの一日かそこらのことだけど、翼に風を受けて飛ぶのは気持ちが良かった。眼下では、昇暉と緋桜も庭園に出てこちらを見上げている。手を振ってぴょんぴょん跳ねる緋桜は喜んでくれているようだし、昇暉もこちらを見上げているようだ。皇帝を見下ろす不敬を犯さぬよう、茜華は視線を皇宮全体へと向けた。
(玉泉の里とは違うけれど、ここも綺麗……上から見たほうが、私は好きかも……?)
人の姿で見る皇宮は、贅を凝らしてはいても、豪奢な檻でしかない。息苦しくて、居心地が悪い。けれど上空から見ると、木々の緑や水の青の中に、色とりどりの殿舎の瑠璃瓦が輝くのが美しかった。
(まるで、何かの絵を描いたみたい)
緋桜と昇暉に、陽光の中で青空に映える翼を見せつけようと、茜華は弧を描き、時に宙返りも交えて飛ぶ。宙に極彩色の軌跡を残し、虹の輝きを撒くのが鳳凰の舞だ。
くるくると回転する視界の中、皇宮の殿舎群は万華鏡のように溶け合って鮮やかな模様を描くようだった。その模様が、やがて意味を為すような気がして。茜華が目を凝らした時──下方から白い光の筋が、彼女を襲った。
「きゃ──」
尾羽に感じた衝撃に、茜華は身体の均衡を崩す。さらに、白い光が立て続けに彼女の翼を掠めた。
(矢で射られた!? 後宮で、鳳凰が!?)
玉泉の里ではもちろんのこと、都に向かう道中でも、皇帝への献上品たる鳳凰が矢で狙われることなんてなかった。その皇帝のお膝もとである後宮での凶行もまた、ありえないはずなのに。初めて感じる恐怖と痛みに、茜華は羽ばたくことを忘れてしまう。翼を上手く動かせなくて──落ちる。
「彩|紅梧……!」
昇暉の焦った声で、茜華はどうにか気を取り直した。強張った翼を懸命に動かし、昇暉の腕の中に墜落する。もと居た殿舎から離れていなくて、本当に良かった。でも、射られたことによる動揺は激しくて、しばらく動けそうにない。
ぐったりと首をうなだれる茜華を抱えて、昇暉は声を荒げた。
「後宮で矢を放ったのは何者だ!? 決して逃さず捕らえよ!」
「ですが、陛下……! これは、御心を汲んでのことかもしれませぬ。怪しき存在をのさばらせてはならぬと、父君からの皇宮の倣いで──」
「朕が命じて飛ばせたのだぞ。軽々しく意を汲んだなどと口にするな!」
淳宇はやはり鳳凰が嫌いなようだ。飛んだのが悪い、と言いたげな彼を、けれど昇暉は一喝した。茜華を案じてくれた──とは、限らないかもしれないけれど。
(献上品を壊されたら不快、でしょうね……?)
それは、皇帝への反逆にも等しいのだろうから。だから特別に喜ぶようなことではない。というか、昇暉に庇われて茜華が喜ぶ理由もないはずだった。でも──
「彩紅梧よ。皇宮といえど鳥を診ることができる医師はいまい。人の姿に戻れ。──これなら、裸を晒すことにはならないな?」
ばさ、という音がしたかと思うと、茜華の身体は温かいものに包まれた。玉で飾った帯が地に落ちる重い音に、昇暉が脱いだ袍で彼女を包んでくれたのだ、と気付く。この温もりは、彼の体温だ。
「あ──」
男でも裸体を人前に晒すのは耐えがたいだろう、と。当然の配慮ではあるだろう。でも、鳳凰に興味がないと言っていた昇暉が、こんな真摯な眼差しで見てくれるなんて。茜華の羽毛がぶわり、と膨らんだのは、不覚にもどきりとしてしまったからだ。飛ぶこともできない人の男に、ときめいてしまったから。
(でも、無理!)
彼の厚意に感謝はしても、言われた通りにはできなかった。昇暉が袍一枚を被せて良しと考えたのは、あくまでも茜華を男だと信じているからだ。一方の彼女にしてみれば、女の身体を隠すには心もとない。しかも、今人の姿になれば、昇暉に抱えられることになってしまう!
「で、できれば部屋に戻ってからにしていただけると──」
「悠長な」
せめて紗幕に覆われた寝台の中で、と訴えると、舌打ちで応じられた。男が何を恥ずかしがっている、と思われるのは非常にもっともだから、茜華は首を縮こまらせることしかできない。
「あの、飾り羽にかすっただけなので……大きな怪我はしていないと、思いますから!」
「……問答する時間が惜しい。このまま連れて行くぞ」
ひどく疑わしげな目で茜華を睨んだ後、昇暉は大股に歩き出した。後に、侍女や緋桜の悲鳴や泣き声、慌ただしい足音と衣擦れの音が続くのが聞こえる。彼女たちもさぞ恐ろしく、心配しているだろうと思うと申し訳ない。でも、茜華の心を占めていたのはまた別の不安だった。
(羽衣……破れちゃった。どうしよう……!)
怪我はないと言ったのは嘘ではない。幾度か身体をかすめた矢も、彼女の肉体を傷つけてはいないと思う。墜落したのは、驚きや動揺によってでしかなかった。でも──彼女の飾り羽とは、つまりは五彩羽衣によって仮に纏ったもの。目立つ煌めきが囮になってくれたのは幸運だったかもしれないけれど。兄たちから羽根をもらうことが出来ない以上、もう使い物にならないかもしれない。茜華が雄の鳳凰と偽る手段が、失われてしまったのだ。
寝室に辿り着くころには侍女たちも気を取り直していたようで、素早く内衣を広げて待ち構えていてくれた。お陰で、茜華は肌を晒さずに人の姿に戻ることができた。昇暉には、男の癖に侍女に世話を焼かれる軟弱者と思われただろうけれど、それはもうしかたない。
破れた五彩羽衣も医師に見咎められる前に回収できたし、脈と顔色を診せるだけで、怪我はないと信じてもらうこともできた。それでも動揺と衝撃による発熱を鎮めるために薬を出された、翌日──茜華は、横になったままで昇暉を迎えた。
(身に余る光栄なのかも、しれないけど……!)
籠の鳥に過ぎない身を、皇帝直々に見舞ってくれるなんて。怪我人だからと、平伏しなくても許されるなんて。でも、茜華としては薄い夜着で男と対峙しなければいけないのが居たたまれない。彼女の細い首や肩に目を止めた昇暉が、軽く目を瞠っているからなおのこと。
「鳳凰族というのは、男もかように細身なのか」
「ええ……まあ、おおむね……」
ゆったりとした袍なら、もっと身体の線を隠すこともできたのに。この格好では、女と露見しないためにはいつも以上に声や言葉遣いに注意しなければならない。
「不躾に触れたのは非礼であったな。……もうしない」
「恐れ入ります」
たぶん、男なら女のように扱うな、と憤るべき場面なのだろう。でも、茜華にそんな勇気はなかったから従順に目を伏せるだけだ。願わくば、まだ調子が悪いと思って早く帰ってくれれば良い。でも、茜華の枕元に腰を据えた昇暉は、立ち上がる気配を見せなかった・
「……鳳凰は龍を援け、その翼は玉を示す」
「昨日仰っていましたね」
あまつさえ独り言のように呟くから、反応に困る。しかたなく相槌を打つと、昇暉は頷いた。
「夏霄の祖は龍だったという。歴代の皇帝にも龍と化して雨を呼んだ者もいたし、玉璽は龍の頚の珠から造り出したのだとか。……お伽話だろうが」
「はあ……」
鳳凰族を前にして、よくもお伽話だなんて言えると思う。とはいえ、ただ美しくてそれを飛べるだけの鳳凰と比べれば、確かに天候を操る龍は神の域に近いのかもしれないけれど。
話が見えなくて、指先で褥を弄う茜華の耳に、昇暉の淡々とした声が降り続ける。低く、堂々としたはずの──でも、どこかしら、何かに耐えるような気配もあるかもしれない。
「祖父までの皇帝は伝承と祖を重んじたが、父はそれらを迷信と断じた。祖父と父の間ではだいぶ揉めたらしく、祖父は崩御する前に玉璽を隠した。父がどれだけ探しても見つからず、今は新しく造ったもので代用している。……そのような有り様だから国が乱れるのだと言う者も、いる」
「だから私が呼ばれた、のでしょうか」
「そうだ。それに、祖父の遺言だ。鳳凰は龍を、と──だから、鳳凰が殖えれば失われた玉璽がどこかから現れるやも、などと考えるのだろう」
緋桜の話だと、皇帝と異なる考えの臣下も多いようだ。その実際のところを聞いて、茜華は言葉が出ない。彼女が召された理由は、思いのほかに根深いところにあったらしい。
(玉璽の行方が鳳凰に懸かっていると思われていたなら、緋桜様も気に病む、か……)
茜華は、皇帝の権威が足りないがために翻弄されたと思って憤った。けれど、これでは昇暉というより祖父君と父君の責が大きい気がする。
(そう思うと気の毒、かも……?)
空から見下ろした昇暉は、掌に乗るほどに小さく見えた。限りなく強い権を持つはずの皇帝も、地に縛られているという点ではただの人だ。自らの意志によらず、重荷を背負わされているのだと思うと手を差し伸べたくなる、けれど──
「……そなたはそんなことに巻き込まれたのだ。心を踏み躙り、あまつさえ矢で射られるとは。すべて俺の不徳の致すところ、許せとはとうてい言えないが──」
「皇帝陛下のなさることではありません。お止めください!」
昇暉が頭を下げようとするのを見て、茜華は狼狽えた。襟元が乱れる心配さえしなくて良かったら、玉体に触れる非礼を犯していたかもしれない。でも、秘密を抱えた茜華は寝台の上で縮こまることしかできない。辛そうな顔の昇暉を慰めることは、できないのだ。
「傷が癒えたら玉泉に戻れ。緋桜が望むなら一緒に行かせる。鳳凰族は変わらず庇護しよう。ほかに、望みはあるか」
「……いいえ」
願ってもない申し出なのに、まったく嬉しくないのはどうしてだろう。自分の気持ちが分からないまま、茜華は昇暉が立ち去るのを見送ることしかできなかった。
* * *
金の檻がいかに豪奢でも、その隙間から見る空は狭く、くすんで見えた。それでも窓辺を離れない茜華に、緋桜が心配そうに寄って来る。
「姉様、また空を飛びたいのですか? でも、あの──」
彼女が射られた時のことを思い出したのか、声を震わせる少女の頭を、茜華はそっと撫でた。
「そうじゃないんです。上空から見た皇宮を思い出していて──やけに整っていたな、と思って」
「それは、皇宮ですもの……?」
建物が美しいのも庭園に手がかかっているのも当然のこと、と。首を傾げる緋桜に、茜華は苦笑した。
「何というか……絵のようだ、と思って。もっとしっかり見ておけば、ちゃんと模様になっていそうだったんですよね。鳳凰くらいしか見ることができないのに不思議ではありませんか?」
「それは……かつて後宮にいた鳳凰のために、なのでしょうか?」
緋桜の推理は、茜華も既に考え、そして却下したものだった。
(献上品に過ぎない鳳凰に、そこまで気を遣うはずがない。じゃあ……?)
皇宮が誰のものかと問えば、言うまでもなく皇帝のため、だ。空から見てさえも美しく作り上げたのは、建造された当時の皇帝を楽しませるものではなかったのだろうか。
(夏霄の皇帝は龍の末裔……!)
考えは、ほぼ纏まっている。あとは茜華に勇気があるかどうかだけ。一歩を踏み出すため、背中を押してもらうため、茜華は幼い同族の力を借りたかった。推理を打ち明けて、賛同してもらえるかどうか確かめたかった。
「鳳凰は龍を援け、その翼は玉を示す──先々帝が遺したという言葉の意味を、考えているんです。玉璽をどこに隠したのか、どうして見つからないのか」
「……はい。このままでは昇暉様がお気の毒で」
茜華に弓を向けた犯人も、まだ見つかっていないのだという。皇帝の意を押し切って茜華を──鳳凰を迎えさせた者たちがいるのと動揺に、皇帝の意に反しても先帝の志を堅持する者たちもいるらしい。そして、彼ら(?)を匿う者たちも。
(苦労、してるんだろうなあ)
胸に走った痛みを深呼吸で宥めてから、茜華は緋桜を覗き込んだ。
「お辛いことを聞いてしまうかもしれませんが。緋桜様のご両親も、鳥の姿になったことがないのでは? 一方で、先々帝の御代では鳳凰は自由に皇宮の空を舞っていたのではないですか?」
「ええ……そのように、聞いていますけれど。──姉様」
言葉を紡ぐうちに目を見開いた緋桜は、賢い子だ。推測が突飛なものではなさそうだと知って、茜華は勢い込んで続ける。
「鳳凰が空から見れば、玉璽の隠し場所が分かるのかもしれません。先々帝は、先帝が御心を変えることを期待して、そのように企まれたのかも」
かつて後宮にいた鳳凰たちは、先々帝に空からの眺めを伝えただろう。飛ぶ力を持つ者だけに許された美景は、夏霄の皇帝たちが伝説通りに龍に変じたことの証拠。──先帝は、鳳凰の翼を禁じることで、その証拠を握りつぶそうとしたのだろう。
「姉様、では……! ……でも、あの」
顔を輝かせた後で、緋桜は愛らしい顔を曇らせた。また飛んで探してみれば良い、とは気軽に言えないことに気付いたのだろう。
鳳凰の姿を現わせば、また弓で狙われるかもしれない。それ以前に、五彩羽衣は破れてもう使えない。茜華が飛べば、昨日とは姿が違うのは一目瞭然で──性別を偽っていたことも、露見してしまうだろう。でも、それでも──
「もう一度、空から見てみようと思います。陛下にも、意図を説明して──見事、玉璽を見つけたら、許してもらえると良いですね」
緊張に引き攣っていたかもしれないけれど、茜華は精いっぱい笑おうとした。
翼を持たない人間に対して、不思議な感情ではあるのだけれど。昇暉のためにできることをしたかった。傲慢なようで意外と律儀で真面目で、苦境にありながら黙然とそれを背負う──皇帝が龍だというなら、援けることこそ鳳凰の役目なのかもしれない。
鳳凰は龍を援け、その翼は玉を示す──例の言葉の意味が分かったかもしれない、と。茜華の上奏に対する反応は早かった。とはいえ、皇帝である昇暉自身が動いてくれた訳ではない。風雅かつ長閑な彩翼園に現れたのは、あの淳宇とかいう宦官だった。
「陛下への奏上は真か。でたらめをお聞かせする訳にはいかぬゆえ、まずは糺しに参った。いったい何を根拠に述べたのだ」
「それは──」
皇帝の歓心を買いたいがための虚言ではないか、と決めつけるような物言いに、茜華は思わず眉を寄せた。淳宇の声は宦官ならではの甲高さで頭に刺さる。尖った槍で突かれてような気分にも、なる。
(この人は、鳳凰のことが嫌いなんだろうし……)
怪しい存在が怪しいことを言い出せば、声も目つきもきつくはなる、のだろうか。でも、それもきっと皇帝を案じるがゆえんのはずだ。人と鳥の姿を行き来するような怪力乱神の類を嫌うのは、先帝の御代からの倣いだというから。こういう考え方であること自体は、夏霄の宮廷では普通のことなのだろう。
「……先日、私が空を飛びましたでしょう。その時に、気付いたのですが──」
そして、こういう人だからこそ、茜華の推理を歓迎するだろう。龍の玉璽が見つかれば、皇帝の権威が回復されるのだから。そうして、いつか昇暉が名実ともに輝かしい皇帝として君臨できるなら、良い。
(鳳凰が召し出されることもなくなれば……それだって、良いことのはず)
茜華自身は性別を偽った咎を受けることになるかもしれないけれど。彼女の行動は、一族のためにもなるだろう。なのにどうして、胸が痛むのか──分からないまま、茜華は低く造った声で、男の言葉遣いで説明を始めた。
「なるほど──」
聞き終えた淳宇は、髭のない顎をさすりながら唸った。鳳凰嫌いの宦官に対しても説得力がある推理だったようだと確かめられて、茜華の胸は弾み、そして同時に締め付けられる。上奏がもっともと認められれば、昇暉はまた飛べと命じるだろう。茜華の欺瞞が露見する時が、刻一刻と近づいている。
(でも、仕方ない……!)
自分でもなぜだか分からないけれど、昇暉のためなら良いと、決めたのだ。茜華は毅然と胸を張って、それでは陛下に、とかそんな言葉に頷こうとしたのだけれど──
「よく気付いたものだ。だが、陛下のお耳に入ることはないだろう」
淳宇の妙に平坦な声と表情に、目を瞠る。一瞬だけ絶句した後、茜華は眉を寄せて相手を問い詰めていた。
「なぜですか? 鳳凰の力を借りるのが問題なら、嫌なら、屋根に人を登らせても良いでしょうに」
茜華は別に手柄が欲しい訳ではない。時間と手間はかかっても、人の力だって皇宮の鳥観図を描くことはできるはずだ。
「玉璽の発見は、陛下にとっては急務では──」
「だからこそ、だ。今さら皇帝が力を得ては困るのだ。ようやく我らを頼ってくださるようになったというのに」
「え……?」
思わぬ言葉に、間の抜けた声を漏らした瞬間。茜華の腹に重い衝撃が刺さった。さりげなく歩を踏み出した淳宇に殴られたのだ、と気付いた時には、彼女の身体は傾ぎ、頭上からは宦官の高い笑い声が浴びせられる。文官のような姿の癖に──あるいは、皇帝の護衛を務めることもあるのだろうか、淳宇の身のこなしは素早く隙がなく、そして拳は容赦なく鋭かった。
「仮にも男だろうに軟弱な。羽根を見せびらかすしか能がない鳥が本性なだけのことはある」
男を昏倒させる気で女を殴れば、それは身動き取れなくもなるだろう。決して、鳳凰がひ弱だということではなくて──でも、そんな抗議を口にすることもできず、茜華はただ床に倒れ伏して呻いた。
「な、ぜ──」
皇帝の側近だと思っていた宦官を見上げると、目線を上げるのさえ気に食わないと言いたげに蹴りで報いられた。淳宇の声も、悪意と嘲りを露にして茜華を打つ。
「先々帝がわざわざ遺した言葉だ。戯言であれば良いが、鳳凰に何らかの力があっては拙い。だから少しずつ数を減らしてきたというに。新参の鳳凰が、余計なことに気付きおって!」
痛みを堪えて丸まった茜華の身体に、人の足音が幾つも伝わってくる。侍女たちの軽いそれではなく、もっと重い──宦官たちだろうか。次いで、今度こそ女の、高い悲鳴が聞こえて茜華は息を呑んだ。緋桜や侍女たちが襲われているのだ。でも、なぜ。何のために? ……答えは、本性を現した淳宇が教えてくれる。
「陛下には、鳳凰どもが謀反を企んだとお伝えしよう。不敬にも高みから皇宮を覗いて、他国に情報を売り渡そうとしていたのだと。証拠も、そのように揃えてある」
緋桜の両親をはじめ、後宮にいた鳳凰たちは殺されていた。淳宇の言葉が本当なら、玉泉の里にも累が及ぶだろう。でも、それよりも何よりも──
「……させない」
昇暉の傍に、忠臣面した悪人い続けるのが耐えられなかった。そんなことは嫌、の一念を支えにして、茜華は強く念じる。翼を求め、空へ翔けようと。
「悪あがきを……!」
淳宇の舌打ちを置き去りにして、茜華は羽ばたいた。しなる翼の先で、宦官の顔を打ってやると、怯む気配がする。殿舎を閉ざす金の檻は──宦官たちの出入りのために、今は、開いているだろう。
「射落とせ! 弓を、早く……!」
淳宇の怒声を後ろに、壁に何度もぶつかりながら、淳宇が引き連れた兵たちを羽根で突き飛ばしながら。茜華は必死に飛んだ。鳳凰の姿に慣れていないのは彼らも同じだ。きっと、先日の矢も彼の手の者が放ったのだろうけど──人の姿をした者を捕らえるのに、弓矢は携帯していないと思いたかった。
「助けを呼んでくるから! 待っていて!」
緋桜たちに希望を与えるため、そして、淳宇たちの注意を惹き付けるため。茜華は声高く叫ぶと、殿舎から飛び出した。そして、空高く舞い上がる。
助けと言っても、どこに行けば信頼できる相手がいるのかは分からない。だから、思い切り目立ってやるつもりだった。鳳凰が勝手に飛んでいると、昇暉のもとに報告が行くように。そうすれば、彼はきっとここに来てくれるだろう。
(私が射落とされれば、なおさら放っておけないはず……!)
彩翼園の上空を旋回して、皇宮を見下ろす。矢の届く範囲は知らないけれど、囮を務めるつもりなら高く飛び過ぎても良くないだろう。紅の羽根の輝きを見せつけるように、敵への挑発も兼ねて飛びながら、茜華は殿舎の並びに目を凝らした。この際、先々帝が遺した言葉を読み解く手がかりを見つけておきたかったのだ。
(本当に、綺麗……)
淳宇がこちらを指さし、弓を構えた者も姿を見せ始めているけれど。眼下に広がる皇宮の眺めは、ひたすら美しかった。飛ぶことに集中していた先日とは違って、意識してじっくりと見れば、釉薬に輝く瑠璃瓦が一幅の絵画を表しているのは明らかだった。雲や花に神獣や神鳥。殿舎の形や庭園の地形も利用して、遠近感まで演出されている。……その中に、紅い翼の鳳凰も描かれているのが、茜華の目についた。
(鳳凰の翼が、玉璽の在り処を示すなら……!?)
巨大な鳳凰の絵が誇らかに翼を掲げる先に目を向ければ──四方を高い壁に囲まれた、祠があった。壁のどこにも扉は見えず、つまりは空からでなければ行けない場所。先々帝の御代では、まだ皇宮の空を鳳凰が飛びかっていたはずで。それなら、彼らに玉璽を託して隠させることもできたはず。
祠のほうへ方向を変えた──目的をもって飛び始めた茜華の動きは、地上からも見て取れたのだろう。淳宇の焦った声が届いた。
「何をしている! これ以上飛ばせるな……!」
目の端をかすめた鏃の鋭い輝きに、茜華は首を竦めて翼に力を込めた。外れた矢は皇宮の建物を傷つけるかもしれないのに、お構いなしだった。彼女の軌道を読んでか、矢が風を切る剣呑な音が執拗に追いかけてくる。でも、聞こえる音はそれだけではない。
「これは何ごとだ!? 後宮で矢を放つとはいったいいかなる了見だ!?」
「陛下──これは、あの鳳凰めが逃げようとしたためで……」
昇暉がかけつけてくれたのを察して、茜華は微笑んだ。鳥の嘴では笑えないから、心の中で、だけど。彼はきっと、淳宇の主張を鵜呑みにはしない。茜華が祠に降り立てば、調べようとしてくれるはず。
「あれが、彩紅梧なのか? 姿が違うようだが……」
「悪巧みの証拠もございます! 仔細は、後で必ずご説明しますゆえ、まずは仕留めませんと……!」
羽衣を失った、雌の地味な羽根に気付かれて。動揺した茜華の翼に鋭い痛みが走った。矢にあたってしまった。
(でも、大丈夫……!)
祠はもう目の前だ。着地できずとも、堕ちるのでも良い。たとえ罪人でも、死体は回収しなければならないだろうから。
祠の場所を示すべく、翼を大きく羽ばたかせて。羽根よりなお赤い血を飛沫かせて。茜華は、出口のない壁に囲まれた一角に墜落した。
射抜かれた翼は力を失い、風を捕らえることもできなかった。鳳凰としてはあるまじきことに、茜華は地面に激突して何度か跳ねた。全身を襲う痛みを堪えて、長い首をもたげて辺りを窺う。上空から見下ろして初めて分かる、高い壁に囲まれた祠──夏霄の玉璽を密かに安置するにはうってつけの場所に思えた。
いったい何年──何十年の間顧みられていなかったのだろう。祠の屋根も柱も土埃や苔に覆われてくすんでいる。祭壇からも、供物や灯が絶えて久しいのだろう。ただ、どこからか現れる淡い光が、痛みに霞む茜華の目に優しくにじむ。
「これ、は……」
翼で地面を掻くようにして、祭壇のほうへよろめくと、光の源は朽ちかけた緞子の小さな包みだった。人の両掌に収まるくらいの大きさの、何か四角いものを包んだ──まさか、こんなあからさまに。
震える嘴をそっと伸ばして、脆くなった緞子の生地を取り去ると、果たして自ら光を放つ玉の塊が現れた。四角い台に、持ち手に龍の彫刻を施した。印影を見るまでもない、これこそが皇帝の権威を象徴する玉璽に違いないだろう。
(あった……!)
喜びに血潮が湧いたのも、けれど一瞬のことだった。茜華の胸に、すぐに不安が忍び寄る。淳宇の手の者がここに来たら、玉璽はまた隠されてしまう。今度こそ二度と見つからぬよう、壊されてさえしまうかも。茜華もきっと殺される。そうなれば、昇暉が彼女の考えを知る機会もなくなってしまう。
(これは、皇帝に返すべきものなのに)
玉璽を隠そうにも、傷ついた身体は上手く動いてくれなかった。だからせめて、茜華は玉璽に覆いかぶさった。卵を抱くような格好で。……鳳凰だとて、子を育むやり方は人と同じなのだけれど。鋭い爪を持たない身では、さほどの意味もないけれど。それでも念じずにはいられなかった。
(早く見つけて。ここへ来て。貴方自身で……!)
彼女自身のため、鳳凰族のため、夏霄の未来のために。
壁の向こうからは、慌ただしい気配が伝わってくるような。彩翼園からはだいぶ離れたはずだけど、突然現れた鳳凰とそれを狙う矢と、陰謀を訴える淳宇たちと。真偽を見極めるのに紛糾しているのだろうか。こうなると、昇暉に女だと打ち明けることができなかったのが悔やまれる。性別を偽っていたと知られれば、鳳凰族には叛意ありとの証拠のひとつに数えられてしまいかねない。
(直接、話しておけば良かった)
たとえ叱責されても、面と向かって、自分の言葉で。けれど彼女の翼はもう動かず、全身を打撲だか骨折だかの痛みが苛んでいる。淳宇の手の者に鶏のように絞められるまでもなく、力尽きてしまうかもしれない、とさえ思いかける。けれど──
(温かい……?)
腹のほうからじんわりとした熱が伝わってくる。そして、その熱が痛みを和らげてくれるような。熱の源は、玉璽……だろうか。龍の頚の珠から造ったというだけに、不思議な力が宿っているのか。しかも、不思議なことはそれだけでは終わらなかった。
そこにいるのか、と。聞こえた。
思い浮かべていた人──昇暉の、声で。いないはずの人の声が聞こえるほどに弱っているのかと、茜華は首をもたげて空を見上げた。高い壁に区切られた空は狭く、見えるのは空と雲ばかりのはず、だった。
でも、真昼の明るさが不意に翳る。雲が現れた訳ではない。鳥ていどの大きさでは、太陽を隠せるはずがない。井戸の底から覗くような狭い空いっぱいに、青銀の鱗を眩く輝かせているのは──
「え──」
巨大な龍、だった。鳳凰よりもなお神々しく力強い、神話の生きもの。長大な体躯で中空に揺蕩い、鬣からは稲妻めいた形状の角が聳えている。鋭く巨大な鉤爪で祠を囲む壁を掴み、爛々と、金を溶かしこんだような目でこちらを覗き込んでいる。恐ろしいというよりは荘厳な姿。それに、何より──金の目には明らかに理性が宿り、優しく、気遣う気配さえ窺えた。
「彩紅梧。生きているか……?」
「は、はい。あの……陛下……? これは、どういう……?」
龍が昇暉の声で語るのを聞いて、茜華は痛みも後ろめたさも忘れて問いかけていた。まったく訳が分からない。しかも、問われた龍のほうも、不思議そうに首を傾げような仕草を見せた。
「……どういうことだろうな? そなたを助けねば、と思ったのだ。だが、翼がなくては行けぬ場所だと報告されて──鳳凰族の侍女に頼むのも、なぜか承服できなかった」
茜華の侍女たちを信じてくれたという点も驚きだった。嫌疑ある一味として監視下に置いてもおかしくないところだろうに。しかも、龍は昇暉の声で、ますます驚くことを伝えてくる。
「俺自身の手で、助けたかった。そなたを地上から見上げたことを思い出すと、悔しかった。どうしてこの身に翼がないのかと。……そうしたら、そなたの声がした。俺を呼んだだろう。この場に飛びたいと思って──そして気付けば、この姿だった」
「そう、でしたか……」
ほかに何と言えるだろう。呆然と呟くと、茜華は玉璽の上から身体をのけた。玉璽の形状は伝えられていたのだろうか、龍の金色の目が、満月のように大きく見開かれた。
「鳳凰は龍を援ける──あの言葉の真意が『これ』です。空を飛ぶものでなければ見つけられない──皇帝が鳳凰を、人ならぬものを認めなければ、ということだったのでしょう。私がこれに触れて願ったから……あるいは陛下の想いに、夏霄の祖霊が、応えてくれたのかも……?」
「……なるほど。龍や鳳凰を迷信と断じた、父は間違っていたのだな……」
父帝の過ちは、彼自身のそれでもある。認めるには、葛藤もあっただろうに。昇暉は重々しく呟いた。そして、首をぐいと伸ばすと、煌めく鱗に覆われた頭部を、そっと茜華の傍らに下げる。
「人の姿になってもらえるか。この爪や牙で、そなたを潰さずに運べるか自信がない。そなたの手で捕まってもらったほうが安全だと思うのだが」
「えっ、と、それは──いたしかねます」
玉璽を運ぶのにも、そのほうが良いのだろう。分かった上で、けれど茜華は言葉に詰まった。そもそも紅い羽根に覆われた鳳凰の姿では、恥じらっているなんて分からなかっただろうけれど。
「なぜだ」
苛立ちに微かに揺れる声は、先日も聞き覚えがあった。あの時は、理由を言うことはできなかったけれど──今は、違う。長くしなやかな首をうなだれて、茜華はようやく薄情した。
「私は……女なので。服も着ていない姿は……憚りが、色々と」
この期に及んでまだ分からなかったのか、とも思うけれど。思えば、緋桜だって鳳凰の雌雄での羽根の違いを知らなかったのだ。今の茜華は地に堕ちて羽根を萎れさせていることだろうし、非常の時だし。それどころではなかったのかもしれない。
だから──なのかどうか。気高く美しく強大な龍は、その威容に似つかわしくない、ぽかんとした表情を見せた。完全に虚を突かれた顔だと、なぜか分かってしまうのだ。その不釣り合いさに、茜華は思わず声を立てて笑っていた。
* * *
皇宮の空に現れた巨大な龍の姿は、玉璽の発見と相まって皇帝の権威を一瞬にして復活させた。人と龍の姿を行き来する術をすぐに身につけた昇暉は、各地を回って龍の姿を見せつけ、かつ雨を呼んだ。夏霄の国を統べるのは龍の力を受け継いだ皇帝であると、民の誰もがその目で知ったことだろう。不思議の力を信じなかった者たちも考えを変えたし、皇帝の力不足につけ込んで私欲を貪っていた者たちは廃された。
茜華は、昇暉の青銀の鱗の煌めきを追うように飛んでいた。人の姿の時でも見上げるほどの背丈の違いがあるけれど、龍と鳳凰に転じると、身体の大きさの違いは何十倍にもなってしまうのが未だに腑に落ちない。並んで飛ぶことができているのは、ひとえに彼が速さを加減してくれるからだった。ただ、それでもふたりは飛び過ぎている。昇暉の顔の傍で羽ばたきながら、茜華は金色の目に呼び掛けた。
「昇暉様! そろそろ降りましょう? 供の者たちが遅れております」
地上を馬や車で行く者たちの土埃は、遥か後方だった。遮るもののない空を飛ぶ茜華たちの速さとは比べるべくもない。彼我の距離にやっと気付いてか、昇暉は中空でとぐろを巻くように休息の体勢を取った。
「ふむ、気が急いたようだな。早く玉泉の里に辿り着かねば、と」
昇暉は、茜華の里帰りに付き合ってくれているのだ。というか、より正確に言えば婚約の挨拶に、ということになる。
淳宇の企みが暴かれ裁かれたのは言うまでもなく、性別を偽った罪は玉璽を見出した功績で帳消しにされた。さらには──茜華は知らなかったけれど、龍を皇帝に喩えるのに対して、鳳凰は皇后の象徴なのだとか。龍の化身である昇暉の傍らに、鳳凰の姫たる茜華がいるのは非常にめでたく体裁が良い、らしい。
(私で良いの? 本当に?)
玉泉の里にはほかにも若い娘はいるし、緋桜だって愛らしい。何も茜華でなくとも、と何度も言った。でも、その度に昇暉は笑って首を振った。彼女が女で良かった。皇帝にも物怖じせず抗議し、矢を掻い潜っても飛ぶ勇気を持つ者を伴侶にしたい、と言って。
「空の散歩なら、いつでもお供いたします。焦らずともよろしいかと」
「焦っているつもりはないが、楽しいからな。……鳳凰を長く閉じ込めていたのは不憫なことであったな」
龍が申し訳なさげに髭を揺らすのを、茜華は微笑ましく眺めた。
「緋桜様にも飛び方を教えて差し上げましょう。きっとお気に召すでしょうから」
「そうだな。いずれ産まれる我らの子にも」
気の早い言葉は、人の姿で聞かされていたら赤面ものだった。嘴で、龍の鱗を軽く突いて抗議しながら、それでも茜華の胸は喜びに満たされる。共に空を翔けられる伴侶は、彼女だって夢見ていたのだ。
鳳凰は龍を援ける──ふたりが共にある限り、その言葉は真実になり、夏霄の国は平らかに繁栄を続けるだろう。泰平の中、彼女たちは幸せに暮らせるはずだ。