夜着を纏い直した茜華(せんか)は、緋桜(ひおう)姫と向かい合って卓に着いていた。姫の白く細い指が包む青磁の椀には、花梨(カリン)を漬けた蜜を湯で溶いた甘い飲み物が入っている。……幼い彼女に酒を出さない常識はあるのに、初対面の男──と思われている茜華のことだ──とふたりきりで閨に押し込むのは躊躇わないあたり、夏霄(かしょう)の宮廷の感性はやはりよく分からない。

 それは、ともかく──

紅梧(こうご)様は、本当は茜華様と仰る、姫君なのですね……」

 女の肉体という動かぬ証拠を前に、緋桜は納得してくれたようだった。茜華が期待したように、同性の同族ということで気を許してくれたようでもある。

「はい。……人間には内緒にしておかなければならないのですけど」
「分かりました。人前では呼び間違えないようにします。あの……紅梧お兄様とお呼びしてもよろしいでしょうか」
「もちろん。本当は兄の名だから不思議な感じですが、どうぞよろしくお願いします、緋桜姫」
「はい……!」

 白玉(はくぎょく)越しの柔らかな灯りが、緋桜姫の笑みをいっそう愛らしく輝かせた。

(後宮でたった一羽の鳳凰、って……寂しい思いをされていたんじゃ……?)

 少なくとも、緋桜姫の両親もまた、後宮で飼われていた鳳凰だったはず。長い歴史の間に、玉泉(ぎょくせん)の里から献上された者の子孫は、もっと多いかと思っていたのに。

「私、(ほう)(おう)の羽根が違うのも存じませんでした。お姉──お兄様の翼もとても綺麗でしたのに。(ほう)はもっと煌びやか、なのですね……?」
「ええ、その通りです。兄たちからもらった羽衣(はごろも)で、(ほう)に変装することもできますから、明日にでも見せて差し上げますね」
「本当ですか!?」
「もちろんです」

 憧れの眼差しで見てくれる緋桜に笑顔で答えつつ、茜華の胸は不穏に騒いでいる。鳳凰の雌雄での羽根の違いも知らないこの少女は、いったいいつから独りぼっちなのだろう。両親と早くに死別したなら可哀想だし、自らの種族について何も教えられていないなら、夏霄の者たちはいったい何をしているのだろう。

(私が、教えてあげないと……!)

 妹ができた気分で、茜華は密かに決意した。鳳凰族の美しさと誇りを、幼い同族にしっかりと知ってもらわなくては。

「鳳凰の翼は、太陽の光を浴びた時が一番美しいですから。窓を開けて、空を飛ばせてもらえるとなお良いですね。赤い羽根が、青空や白い雲に映えて──」
「あ──それはお許しが出ないかもしれません」

 勢い込んで、言葉を限りに語ろうとした茜華を、けれど緋桜はおずおずと遮った。いったいなぜ、と。彼女の目に浮かんだ疑問を読み取ったのだろう、幼い鳳凰はぎゅっと眉を寄せて、考えを纏めるような表情を見せた。

「ええと……先代の皇帝陛下は、不思議なものごとがお嫌いだったそうです。幽鬼(ゆうれい)とか、怪力乱神(かいりきらんしん)とか──人と鳥の姿を行き来する鳳凰族も、その類だと仰って」
「……怪しげなものが皇宮を飛んではならない、と? 今上の陛下もそのように思し召しなのですね?」

 濁された言葉をずばりと言うと、緋桜はこくりと小さく頷いた。

「だから私も、鳥の姿になったことがないのですわ……」
「陛下が鳳凰の雛に興味はないと仰ったのもそういうことなのですね。……それなら、緋桜様を玉泉の里に返してくだされば良かったのに!」

 恥じ入るように、悲しむように俯いた少女を、慰めなければいけないのだろうけれど──茜華の声は、憤りに尖ってしまう。鳳凰を飛ばせず、翼を愛でず、化物のように扱っていると聞いて、どうして怒らずにいられるだろう。でも──

昇暉(しょうき)様──あ、皇帝陛下は良い方なんです」

 緋桜はきっと顔を上げて、思いのほかに強い口調で訴えた。茜華にしてみれば、皇帝の第一印象は最悪だったから、つい、疑わしげに首を傾げてしまうのだけれど。

「あの御方が? 興味のない鳳凰をわざわざ召し出して、番わせようとしたのに?」
「それは、臣下の方々に言われてしかたなく、なんです! 夏霄の国は、今は雨に恵まれていないそうで──神鳥を(ないがし)ろにした報いではと、言う方も多いのだそうです。そういう方々は、新しい鳳凰の雛が生まれれば縁起が良いと、思われているようで──」

 緋桜が懸命に訴えるのを、茜華はなるべく心を平らかにして聞こうと努めた。幼い同族の言うことを、無碍にはしたくなかったから。

(私を──というか、兄様を召し出したのは皇帝というより臣下の願い、なのね……?)

 玉泉の里は常に水が豊かだけれど、世間では旱魃(ひでり)に悩む地域が多いのは聞こえてきている。鳳凰は、翼が美しいだけで雲や雨を呼ぶ力はないのだけれど。美しいものに希望を見出す人の想いは、まあ、分からなくもないかもしれない。問題は、あの皇帝本人はそんな情緒とは無縁に見えたということだけれど。

「……つまりは、皇帝陛下のご威光が足りないということなのですね……?」

 玉座の間での冷淡な物言いは、臣下の要請に屈して怪しげな人鳥を後宮に招き入れることになったから、らしい。腑に落ちた一方で、歓迎もされていないのに呼ばれた側としては理不尽極まりないと思う。

「あの……はい。そうかも、しれません。だから私、昇暉様の御力になれれば良いと思って……! でも……茜華様とお会いできて嬉しいのですが、どう、しましょう……」

 身もふたもない茜華の総括に、緋桜は愛らしい面を曇らせた。でも、皇帝への弁護を辞めないあたり、慕っているのは本当らしい。知らない男と番わせられても、健気に耐えようと思うくらいに。茜華が女だと知って、安堵と同時に不安を覚えてしまうくらいに。

(小さな子に優しいなら──ううん、それって普通のこと、だけど)

 緋桜を可愛がる皇帝、という図を思い浮かべようとして、できなくて。それでも茜華は、幼い同族の言葉を信じることに決めた。というよりも、これ以上緋桜に悲しい顔をさせたくない。

 茜華はそっと身を乗り出すと、できるだけ優しく微笑んだ。

「皇帝陛下も、私を緋桜様の兄代わりに、と仰っていました。本当に良い方なのだとしたら──緋桜様がご自身を犠牲にすることは望まれないでしょう。だから、気になさる必要はありません」

 口に出して言ってみると、真実のような気もしてきたから不思議なものだ。なるほど、鳳凰の雛を望まないということは、緋桜を知らない男と番わせないということだ。細身の茜華を見て、もしかしたらあの皇帝は安堵していたのかもしれない。

「茜華様……そうでしたら、嬉しいのですが……」

 緋桜を安心させるため、そして、自分に言い聞かせるために。茜華は大きく頷いてみせた。

「私は──翼や舞の美しさでお仕えしようと思ってこの後宮に上がったんです。怪しいだなんて思わないで、見ていただけたら良い……かもしれませんね……?」

 緋桜の話が本当なら、皇帝だって鳳凰が飛ぶのを見たことがないのだろう。慰めるというよりは、認めさせるために。渾身の舞を見せてやろう。勝手な言い分の臣下たちにも、だ。新しい雛が産まれなくても、鳳凰の煌めく翼だけでも十分に慶事を予感させるはずだから。

 そうと決めると、茜華の胸は少し軽く、明るくなった気がした。