夏霄の都まで飛んで旅した茜華は、皇宮に入る前に金の籠に入れられた。皇帝をはじめとした夏霄の貴顕に挨拶をしなければならないから、人の姿になった上でのことだ。
(趣味が良いとは、言えないけれど……)
怒りや不満をあらわにすることで、鳳凰族に叛意あり、などと思われては困る。茜華はにっこりと微笑んで表情を強張らせる侍女たちを宥めた。
今の彼女が纏うのは、男性の礼装。ゆったりとした大袖の衫に、裾を引きずる裙は、いずれも鳳凰の羽根を思わせる赤い絹で仕立てられ、さらに金銀の細やかな刺繍が施されている。艶やかな黒髪は一部だけを結い上げて冠を戴き、後は背に緩く波打たせて──人の姿のままでも霊鳥の神々しさを演出すべく、華やかに美しく装っている。金の籠に似合いの献上品に、ちゃんとなれているだろう。もちろん、線の細い貴公子に見えるように化粧は薄く、眉をやや濃く描いている。
貴人の轎子のように宦官に担がれて、茜華の入った金の籠は皇宮の中をしずしずと進む。顔を伏せて進む侍女たちと違って茜華の目線は高く、皇宮の調度を見渡すことさえ許されていた。たぶん、人間ではなく珍しい鳥として扱われているのだろう。そうでなければ、そもそも男──というか雄が後宮に迎え入れられるはずもない。
(何も見れないんじゃつまらなかったもの。珍獣扱いで良かったかも?)
籠の中には椅子まで設えられていた。止まり木としては使いづらいから、夏霄の後宮では鳳凰は人の姿で過ごすことが多いのだろうか。鳳凰を召し出しておいて飛ばせない──絢爛な羽根の色を楽しまないなんてもったいない。だから、これは皇帝との謁見のための特例なのかもしれない。
(五彩羽衣があるから、舞えと言われても大丈夫。本物の、兄様たちの羽根なんだから……!)
太陽を浴びて輝く瑠璃瓦、朱塗りの柱や、繊細な模様を描く格子細工。通り過ぎる者を睨むような、龍や獅子の彫刻たち。夏霄の皇宮の威容を眺めるうちに忍び寄る不安を、茜華は必死に追い払おうと努めた。滝の音さえ聞こえる庭園に、玉泉の里が丸ごと収まってしまいそうだとか、そんなことは考えてはいけない。いくら皇宮が広大で煌びやかでも──ううん、だからこそ。鳳凰の羽根はここに相応しい宝物として望まれているはずなのだから。
だから──ついに玉座の間に辿り着いて、居並ぶ官吏や大臣の列の前に金の籠が据えられた時も、茜華は懸命に胸を張って顔を上げ、鳳凰の誇りを見せようとしていた。
「玉泉の里長が長子、彩紅梧。陛下にお仕えすべく参上しております」
偽って知らせていた兄の名が厳かに告げられるのを、茜華は口元を皮肉っぽく笑ませて聞いた。命令しておいて、自分から望んで仕えに来たように言うのは白々しい。たぶん、夏霄の国の力、皇帝の権威を誇るための修辞なのだろうけれど。
(夏霄の皇帝──どんな人なんだろう?)
籠の鳥扱いを幸いに、茜華は堂々と玉座に座る男の姿を窺った。といっても、冕冠から下がる旒に隠れて、皇帝の容姿はよく見えない。ただ、茜華と幾つも変わらない青年だろうということは分かる。事実、整った唇が紡いだ低い声も、若々しく張りのあるものだった。
「思ったよりも若い──というか子供のようだな」
ぽつりと零れた呟きに、疑問や非難の色は聞こえなかった。単純に、兄の名と年を借りたにしては幼く見える茜華を訝っただけのよう。でも、それでも彼女の心臓がどきりと跳ねるのに十分だった。しかも、居並ぶ官たちは、皇帝の言葉に大きく頷いて口々に声を上げる。
「まことに。それに細くてひ弱そうで」
「これで種の役に立ちますかどうか」
茜華の心臓が、またも大きく跳ねた。でも、今度は正体が露見することへの不安のためではない。官たちが何を言っているかはよく分からなかったけれど、侮蔑と──あと何か、おぞましいことを仄めかしているような気がしてならなかった。
(種って──まさか)
嫌な予感に、茜華は思わず口を開いていた。声を繕う余裕はなかったけれど、怒りと不信によって、娘らしくない低い声になっていたはずだ。
「……どういうことでしょうか。私は、何のために参上させられたのでしょうか」
「せん──紅梧様!」
平伏した侍女が狼狽えた声を上げるけれど、構わない。
(鳳を望んだのは、美しい羽根のためではなかったの……!?)
鳳は雄、凰は雌の鳳凰を指す。鳳凰とは、本来は番を意味する言葉。茜華たちは、それだけ伴侶に対する情が深いのだ。だから、今、思い浮かんでしまった可能性は頭に過ぎったこともなかった。鳳凰は美しくて煌びやかで神々しくて──それだけで価値があるのだと、信じて疑ってこなかった、のだけれど。
「夏霄の後宮には、今は雌の鳳凰が一羽しかおらぬ」
「瑞鳥が殖えれば民の心も晴れよう」
にやにやと嫌らしい笑みを浮かべた官たちの下世話な言葉をこれ以上聞いてしまう前に、茜華は声を張り上げた。
「あまりに心無いことです! これが、栄えある夏霄の皇帝のなさりようですか!?」
金の柵を両手で揺さぶり、籠を揺らして、玉座にいる男を睨みつけ、怒鳴りつける。小さいとはいえひとつの里の長の一族に対して、この扱いは許せない。大人しく籠に入れられたのは、一応は珍しい献上品として尊重されるからだと思っていたのに。こんなことを諾々と受け入れては、鳳凰族の矜持に悖る。
「私は、鳳凰の舞を献上するつもりで参りましたのに。吉兆だの瑞鳥だのと言いながら、家畜のように──いえ、私のことより後宮にいる凰のことです! 顔も名前も知らない相手と突然番えだなんて。人の心を何だと思っていらっしゃいますか!?」
茜華が女だから、なおのこと怒りが激しいのだろう。彼女自身や玉泉の里への侮りと同じくらいに、勝手に番を宛がわれた女性のことが案じられてならなかった。その人は、ちゃんとこのことを教えられているのだろうか。教えられていたとして、了承するはずもないだろうに。自分が、彼女の不安と恐怖の原因にさせられていたのだと思うと居たたまれない。
茜華の剣幕に、玉座の間にしん、と沈黙がおりた。けれどそれも一瞬のこと、官たちはすぐに眉を逆立て、顔を紅潮させて口を開いた。
「小僧めが、無礼な……!」
「鳥が人の心を語るとは──」
しまった、と思って茜華は慌てて籠の中で跪いた。献上品の分際で、皇帝を糾弾するなんて。きっと大罪に当たるのだろう。
(首を刎ねられる? 羽根を毟られる?)
彼女自身のことはともかく、玉泉の里に累が及ばないように懇願しなくては。夏霄の宮廷のやり口への怒りはまったく収まっていないけれど、表面上だけでも、従順さを見せて許しを乞うべき、だろうか。金の籠は、床さえも細やかな細工が施されていたことにやっと気付いて、それもまた腹立たしくて。それでも茜華は反省の弁を述べようとした。でも──
「……少年のようだから緋桜も怯えずに済むか、と思った。そなたを侮ったつもりはない。むしろ安心したと言いたかった」
皇帝の声が彼女を遮るほうが早かった。決して荒げた訳でもない静かな声。なのに、凛として玉座の間によく響く。茜華を罵ろうとしていた官たちも、口を噤んだようだった。そして、再び沈黙が降りて──罰を言い渡される気配がないから、仕方なく、茜華のほうから尋ねてみる。
「……緋桜?」
「鳳凰の姫の名だ。これで少なくとも名は知ったな」
そこまで言うと、皇帝は滑らかに玉座から立ち上がった。いまだ跪いた格好の茜華は、下から彼の顔を窺うことになる。二十歳前後の、怜悧な印象の、整った──けれど同時に、どこか冷たい印象の。
「まだ幼い娘だから、兄代わりにでもなってやれば良い。……朕は、鳳凰の雛になど興味はなかった」
独り言のように言い捨てるなり、皇帝は茜華に背を向けた。居並ぶ臣下も置いて、退出する彼の背は広く、身長にも恵まれているのだな、と分かる。とはいえそれも頭の片隅だけで思ったこと、茜華の胸には激しい怒りが再燃していた。鳳凰のはばたく翼さながらに、真っ赤な激情が燃え上がる。
(何なの……!?)
長の一族を差し出させておいて──茜華を召し出しておいて、興味がないだなんて。臣下の無礼な発言を咎めず、謝罪もないだなんて。たった一羽の鳳凰の、名前も幼さも知っていながら、無理に番を宛がおうだなんて。
どこを取っても気に入らない。許せない。茜華は、仕えることになった皇帝を、嫌いになることに決めた。
(趣味が良いとは、言えないけれど……)
怒りや不満をあらわにすることで、鳳凰族に叛意あり、などと思われては困る。茜華はにっこりと微笑んで表情を強張らせる侍女たちを宥めた。
今の彼女が纏うのは、男性の礼装。ゆったりとした大袖の衫に、裾を引きずる裙は、いずれも鳳凰の羽根を思わせる赤い絹で仕立てられ、さらに金銀の細やかな刺繍が施されている。艶やかな黒髪は一部だけを結い上げて冠を戴き、後は背に緩く波打たせて──人の姿のままでも霊鳥の神々しさを演出すべく、華やかに美しく装っている。金の籠に似合いの献上品に、ちゃんとなれているだろう。もちろん、線の細い貴公子に見えるように化粧は薄く、眉をやや濃く描いている。
貴人の轎子のように宦官に担がれて、茜華の入った金の籠は皇宮の中をしずしずと進む。顔を伏せて進む侍女たちと違って茜華の目線は高く、皇宮の調度を見渡すことさえ許されていた。たぶん、人間ではなく珍しい鳥として扱われているのだろう。そうでなければ、そもそも男──というか雄が後宮に迎え入れられるはずもない。
(何も見れないんじゃつまらなかったもの。珍獣扱いで良かったかも?)
籠の中には椅子まで設えられていた。止まり木としては使いづらいから、夏霄の後宮では鳳凰は人の姿で過ごすことが多いのだろうか。鳳凰を召し出しておいて飛ばせない──絢爛な羽根の色を楽しまないなんてもったいない。だから、これは皇帝との謁見のための特例なのかもしれない。
(五彩羽衣があるから、舞えと言われても大丈夫。本物の、兄様たちの羽根なんだから……!)
太陽を浴びて輝く瑠璃瓦、朱塗りの柱や、繊細な模様を描く格子細工。通り過ぎる者を睨むような、龍や獅子の彫刻たち。夏霄の皇宮の威容を眺めるうちに忍び寄る不安を、茜華は必死に追い払おうと努めた。滝の音さえ聞こえる庭園に、玉泉の里が丸ごと収まってしまいそうだとか、そんなことは考えてはいけない。いくら皇宮が広大で煌びやかでも──ううん、だからこそ。鳳凰の羽根はここに相応しい宝物として望まれているはずなのだから。
だから──ついに玉座の間に辿り着いて、居並ぶ官吏や大臣の列の前に金の籠が据えられた時も、茜華は懸命に胸を張って顔を上げ、鳳凰の誇りを見せようとしていた。
「玉泉の里長が長子、彩紅梧。陛下にお仕えすべく参上しております」
偽って知らせていた兄の名が厳かに告げられるのを、茜華は口元を皮肉っぽく笑ませて聞いた。命令しておいて、自分から望んで仕えに来たように言うのは白々しい。たぶん、夏霄の国の力、皇帝の権威を誇るための修辞なのだろうけれど。
(夏霄の皇帝──どんな人なんだろう?)
籠の鳥扱いを幸いに、茜華は堂々と玉座に座る男の姿を窺った。といっても、冕冠から下がる旒に隠れて、皇帝の容姿はよく見えない。ただ、茜華と幾つも変わらない青年だろうということは分かる。事実、整った唇が紡いだ低い声も、若々しく張りのあるものだった。
「思ったよりも若い──というか子供のようだな」
ぽつりと零れた呟きに、疑問や非難の色は聞こえなかった。単純に、兄の名と年を借りたにしては幼く見える茜華を訝っただけのよう。でも、それでも彼女の心臓がどきりと跳ねるのに十分だった。しかも、居並ぶ官たちは、皇帝の言葉に大きく頷いて口々に声を上げる。
「まことに。それに細くてひ弱そうで」
「これで種の役に立ちますかどうか」
茜華の心臓が、またも大きく跳ねた。でも、今度は正体が露見することへの不安のためではない。官たちが何を言っているかはよく分からなかったけれど、侮蔑と──あと何か、おぞましいことを仄めかしているような気がしてならなかった。
(種って──まさか)
嫌な予感に、茜華は思わず口を開いていた。声を繕う余裕はなかったけれど、怒りと不信によって、娘らしくない低い声になっていたはずだ。
「……どういうことでしょうか。私は、何のために参上させられたのでしょうか」
「せん──紅梧様!」
平伏した侍女が狼狽えた声を上げるけれど、構わない。
(鳳を望んだのは、美しい羽根のためではなかったの……!?)
鳳は雄、凰は雌の鳳凰を指す。鳳凰とは、本来は番を意味する言葉。茜華たちは、それだけ伴侶に対する情が深いのだ。だから、今、思い浮かんでしまった可能性は頭に過ぎったこともなかった。鳳凰は美しくて煌びやかで神々しくて──それだけで価値があるのだと、信じて疑ってこなかった、のだけれど。
「夏霄の後宮には、今は雌の鳳凰が一羽しかおらぬ」
「瑞鳥が殖えれば民の心も晴れよう」
にやにやと嫌らしい笑みを浮かべた官たちの下世話な言葉をこれ以上聞いてしまう前に、茜華は声を張り上げた。
「あまりに心無いことです! これが、栄えある夏霄の皇帝のなさりようですか!?」
金の柵を両手で揺さぶり、籠を揺らして、玉座にいる男を睨みつけ、怒鳴りつける。小さいとはいえひとつの里の長の一族に対して、この扱いは許せない。大人しく籠に入れられたのは、一応は珍しい献上品として尊重されるからだと思っていたのに。こんなことを諾々と受け入れては、鳳凰族の矜持に悖る。
「私は、鳳凰の舞を献上するつもりで参りましたのに。吉兆だの瑞鳥だのと言いながら、家畜のように──いえ、私のことより後宮にいる凰のことです! 顔も名前も知らない相手と突然番えだなんて。人の心を何だと思っていらっしゃいますか!?」
茜華が女だから、なおのこと怒りが激しいのだろう。彼女自身や玉泉の里への侮りと同じくらいに、勝手に番を宛がわれた女性のことが案じられてならなかった。その人は、ちゃんとこのことを教えられているのだろうか。教えられていたとして、了承するはずもないだろうに。自分が、彼女の不安と恐怖の原因にさせられていたのだと思うと居たたまれない。
茜華の剣幕に、玉座の間にしん、と沈黙がおりた。けれどそれも一瞬のこと、官たちはすぐに眉を逆立て、顔を紅潮させて口を開いた。
「小僧めが、無礼な……!」
「鳥が人の心を語るとは──」
しまった、と思って茜華は慌てて籠の中で跪いた。献上品の分際で、皇帝を糾弾するなんて。きっと大罪に当たるのだろう。
(首を刎ねられる? 羽根を毟られる?)
彼女自身のことはともかく、玉泉の里に累が及ばないように懇願しなくては。夏霄の宮廷のやり口への怒りはまったく収まっていないけれど、表面上だけでも、従順さを見せて許しを乞うべき、だろうか。金の籠は、床さえも細やかな細工が施されていたことにやっと気付いて、それもまた腹立たしくて。それでも茜華は反省の弁を述べようとした。でも──
「……少年のようだから緋桜も怯えずに済むか、と思った。そなたを侮ったつもりはない。むしろ安心したと言いたかった」
皇帝の声が彼女を遮るほうが早かった。決して荒げた訳でもない静かな声。なのに、凛として玉座の間によく響く。茜華を罵ろうとしていた官たちも、口を噤んだようだった。そして、再び沈黙が降りて──罰を言い渡される気配がないから、仕方なく、茜華のほうから尋ねてみる。
「……緋桜?」
「鳳凰の姫の名だ。これで少なくとも名は知ったな」
そこまで言うと、皇帝は滑らかに玉座から立ち上がった。いまだ跪いた格好の茜華は、下から彼の顔を窺うことになる。二十歳前後の、怜悧な印象の、整った──けれど同時に、どこか冷たい印象の。
「まだ幼い娘だから、兄代わりにでもなってやれば良い。……朕は、鳳凰の雛になど興味はなかった」
独り言のように言い捨てるなり、皇帝は茜華に背を向けた。居並ぶ臣下も置いて、退出する彼の背は広く、身長にも恵まれているのだな、と分かる。とはいえそれも頭の片隅だけで思ったこと、茜華の胸には激しい怒りが再燃していた。鳳凰のはばたく翼さながらに、真っ赤な激情が燃え上がる。
(何なの……!?)
長の一族を差し出させておいて──茜華を召し出しておいて、興味がないだなんて。臣下の無礼な発言を咎めず、謝罪もないだなんて。たった一羽の鳳凰の、名前も幼さも知っていながら、無理に番を宛がおうだなんて。
どこを取っても気に入らない。許せない。茜華は、仕えることになった皇帝を、嫌いになることに決めた。