生暖かい風のそよぐ夕暮れ。金色の光が雲の隙間から四方八方に広がっていて、見上げると空は茜色に染まっていた。鳥居は輝く夕日を反射し、古いながらも輝いて見えた。小さな山の上にぽつんと佇む神社は、今日も静かに、にぎやかな町を見下ろしていた。
いつからだろうか。
鳥居の上に腰掛け、夕焼けに照らされた町を眺めているのは。なんだか長い夢を見ていたような、いや、今も、見ているのかもしれない。ずっとこうしていたようで、今さっきからのような気もする。
どっちだっていい。どうだっていい。ずっとこうしていたい。何かに包まれているみたいで、心地いい。
下の方で、がやがやと人が行き交っている。夕暮れ時は商店街がにぎやか。様々な人が夕飯の食材を買いに来たり、学校帰りの地元の学生が買い食いをしたり、老人たちが立ち話をしたり。山の上の神社から全体を見回しても田舎の町だけれど、生き生きとしている。
ぼんやり眺めていた時だった。にぎやかな町の声に混じって、男の子の声がした。ちょっとかすれた、綺麗な声。
「ごめんごめん、遅くなって」
その時、かあんと頭を殴られた。この声を、私は知っている。自分に向けられた言葉ではない。ないけれど、殴られたように、動けなくなった。脳内で何かが叫んだ。
気づけば頬が濡れていた。
分からない。
なんで?なんで?なんで?なんでこんなに寂しいの?なんで目の前がぼやけるの?
なんでこんなに、懐かしいの?
……あったかい。
<><><>
「なぁ知ってる?あのうわさ」
「あれだろ、幽霊のやつ」
「やっぱ有名だよな。やばくね?大人もうわさしてんの。本当だったら面白いよな」
「え、何の話?」
「ほら、最近よく聞くだろ、誇神山の上の神社の話。あそこ、幽霊が出るらしいぜ?」
「コガミザン?」
「町の真ん中にある、山なんだけど……」
「えー怖いー。あ、幽霊と言えば、この前観たホラー映画も良かったけど、昨日テレビでやってた映画観た?」
「あー、まじ泣けた。」
「続編っていつ公開されるんだっけ?」
キーンコーンカーンコーン……カーンコーンキーンコーン……
「席に着け―」
花堺町は、多くの町民が集まる古くからの商店街を中心に、田んぼや畑、それから、町を囲むように立つ山と、町の真ん中に立つ山からなる。凪朝は、机に頬杖をつき、静かに大きく佇む入道雲を窓から見上げた。町はかなり大きいのに、コンビニは、一軒だけ。田舎中の、田舎。ミーンミンミンミーン、ミーンミンミンミーン、と繰り返す蝉の声が、今年も響いていた。遠くからは、波打ち際に叩かれる海の音と、その上空を飛び回るカモメらしき鳴き声が聞こえた。
これは、そんな自然豊かな町に暮らす中学生たちの、一瞬であり、長い夏の、物語だ。
花境中の一限の国語の授業は、照りつける太陽の下で、終わる気配のない持久走をしているかのようだった。五十分が永遠に感じられる。教師の声は子守唄と化し、こくんこくんと頭を落とすものが数名でてくる。鳴き始めた蝉の声を聞きながら、後ろの席からそれを見ていると、こちらまで眠くなってきた。
あくびをしかけたその時、不意に、目の前を白い物体がかすめた。
ひゅん、ぱさ。
それはそのまま僕の机に落ちてきた。どうやら国語の授業に飽きた人からの白い紙飛行機が降り立ったらしい。教師の目を盗んでの、尊敬したくなるほど大胆な行動だ。紙飛行機の羽には『なぎさへ』と書いてあるから予定通りの着陸なのだろうけど、それにしても字が汚い。絶対、宙からではないだろう。
小学校からの仲である宙は、長い前髪に黒縁眼鏡という外見通り、引きこもりのゲーム魔だ。かろうじて学校には来ている。不愛想だけれど、人のことをよく考えていて、凪朝とは気が合った。
しかし宙は字が綺麗だし、第一授業中に紙飛行機を飛ばすなどというバレたら面倒くさそうな行為は断じてしないはずだ。この字はマサだろうか。
顔を上げると、斜め前のマサと、その少し前の夏呼が、悪戯を企む子供みたいな顔をして、早く開けろとジェスチャーをしてきた。
マサこと正人は僕の昔からの友達で、よく一緒に遊ぶ。冗談を言い合う仲だけれど一番信頼できるのがコイツだ。
夏呼は、中学で出会った友達で、女子とも男子とも分け隔てなく喋り、皆からの信頼が厚い。それはいいのだが、彼女は時々突飛な言動をすることが、玉に傷なのだ。中学に入学し、夏呼が初めて凪朝にかけた言葉は、「私、ウーパールーパーを飼ってるんだ!」だった。挨拶もなしに言うので、凪朝はそっか、というほかなかった。
変な説明はこのくらいにして、とりあえず二人からの手紙を受取ろう。
恐る恐る、目の前にある紙飛行機を開く。ノートを破ったらしいそれは、放射線状に折り目がついていた。そしてその字は、羽に書いてあったのとは違い、綺麗な字だった。夏呼だろう。『こがみ山に出るっていうゆうれい、私と、正人と、そらと、なぎさで、登って確かめる。そのための作戦会議を昼休みにひらく。屋上手前の階段に来てね。』その後に、文字通りミミズののたうち回ったような字で、余計な一言が記されていた。『P.Sこの前勝手に使われた自転車、覚えてるよな?』
まじか。なんということだ。ガキくさい探検ごっこになぜか勝手に参加させられている。脅し付きで。
……そういえば、二か月くらい前に、友達の忘れ物を急いで届けるために使った気がする。マサのスマホにメッセ―ジを入れてはいたのだけれど、了承を得ずに使ったことを言っているのだ。まあ、僕が悪いのだけれど。
だから、この余計な追伸のせいで、凪朝は屋上手前の階段へ赴く羽目になった。
一か月ほど前から、ここ花堺町では、幽霊が出るとの噂が出回っている。町の真ん中あたりに位置する誇神山に、着物姿の女の幽霊が、出没するらしい。
尤も、僕はそんな嘘くさいことに興味は無く、それほど詳しくない。情報に疎いわけじゃない。興味がないだけだ。
まあ、僕はそれほど人の話とかに首を突っ込むタイプじゃなくて、幽霊の噂をなぜか知っているのは、種を明かすと、僕には情報通の友達、マサがいるからである。
小学生の頃から親しい仲である彼は、ホラーとか、ミステリーだとかに目がない。それだけに、今回の町に出回っている幽霊の噂もすぐに知り尽くしていた。
マサが言うにはこうだ。
「凪朝は現実主義者だからなぁ。こういうのは楽しむためにあるんだぜ?いいか?目撃者の情報によると、浴衣で、狐の面をかぶってて、ゆらりゆらり歩くんだとか……。んで、面を外すと、黄色の目でこっちを睨んでて、金切り声をあげ突進してきて……挙句、鋭い歯でガブリ……骨も残らない……。ひひっ。な?怖いだろ?」
ふんぞり返って身振り手振り物凄い剣幕で語ってくれた。
マサの話を聞いてからまもなく、周りでも囁かれるのを頻繁に耳にした。
よく都市伝説とか、学校七不思議とかは話題に上がることがあるが、今回の幽霊の話は、異常なほど、噂されている。
まるでその幽霊が、本当に存在するとでもいうように。
本当に、この町を見ているとでもいうように。
それは今から一週間ほど前だっただろうか。
始まりは、朝の教室で、僕の机の周りをマサと宙と何人かで囲み、雑談をしていた時。ゲーム魔の宙が、「その幽霊って本当にいんのかな、見てみたいな」と軽く言った。問題はそこからで、「あっじゃあさっ! 探しに行こうよ! 幽霊。」と、横にいた夏呼が言い出してしまったのだ。
「いいじゃんそれ! 夏だしな! 肝試し、行こう行こう!」
マサがのった。いや冗談だって、と宙が言っても聞く耳を持たない。
「宙と、夏呼と、俺と、他に行く人―?」
「だからおれは行かないって。ゲームのステージ、オールクリアしないと」
宙は迷惑そうにかぶりをふった。
「今ゲーム機没収されてるんじゃなかったっけ?」
「まあそうだけど」
「ハイ決定―、他行く奴いる?」
誰一人として行くとは言わなかった。
「幽霊なんているわけねえじゃん。本気で言ってんの?」
「ガキだわー」
僕も行くつもりなんて毛頭なかった。
「さーて、始めよーぜ、幽霊調査団第一回作戦会議!」
昼休みの、屋上へ続く階段。窓から差し込む陽光は四つの影を作り出す。
「メンバーは、俺、夏呼、宙、凪朝。ミッションは、幽霊の目撃および証明。具体的には、ビデオか写真に収めたい。作戦意義は、自らの知的好奇心の充足。以上!」
「ひゅー!」
人気のない静かな階段に、やる気に満ちた声が響く。ただし、夏呼とマサだけの。なぜこんなことになったのか、自分でも分からない。もう中三だというのに未だ小学生気分が抜けていないらしい二人にひっぱられ、気づいたら幽霊調査団に入団させられていた。
凪朝はやる気は全くないので、とりあえず話し合いを聞いていることにした。そして、凪朝の他にもやる気が全くない奴がいた。
「宙、お前幽霊見てみたいって言ってなかった?」
「現実にいるわけないじゃーん。ま、明日は暇だったから行こうと思ってるけど。昨日から、ゲーム没収されててさ。やる事ないんだよね。」
この阿呆な幽霊探しを止めてくれそうな人はいなかった。
ちなみに、幽霊調査団という名称は夏呼がつけた。肩くらいの黒い髪を揺らして、時折飛び跳ねながら喋っている。
「ねっ、幽霊ってさ、写真とかビデオに、映るの?もし映らなかったら、証明できないね。それはそれで鳥肌もんだけどっ!きゃはっ!」
きゃはっ、じゃないわ!……でも確かにそうだ。というか、幽霊がそこに存在すると前提しての話はまだ早いと思うけれど。まあ、それは行ってみれば分かるだろう。今更止めるのも面倒くさい。いないと分かれば、二人とも、また違うことに興味が移るのだろう。
「んじゃ、その時は俺らだけの秘密ってことで、いいだろ。」
「そうだね!でも、心霊写真って撮ってみたいなあ」
「カメラに映ったら、幽霊じゃなくてゾンビとか、あと、不審者とかも考えたほうがいいかもな。生きている可能性だってあるわけだし。懐中電灯とスマホ、拘束具とか戦えるものとかは各自持参で。それらしいものが確認できたら、幽霊かどうか知るためにもまずカメラを向けることにしよう」
マサの意見にそれいいね!と夏呼が手を打つ。宙は僕の隣で冷めた表情で黒縁眼鏡をくいっと持ち上げた。
「あほらし」
「誰だよ、見たいって言った奴は!」
僕と宙とは反対に、マサと夏呼はものすごく張り切っていた。
このままでは、まずい。僕も本当に行く流れになっていっていそうだ。ここらへんで抜けておかなければ。
「ごめん、やっぱ僕、予定が……」
「えー! 来れないってこと?」
夏呼が不満げな顔をし、こちらに近づいてきた。しかし、ここでひるんでいては行くことになってしまう。
「そう、ちょっと予定が。じゃ、教室戻ってる。幽霊探し頑張って。」
「ちょっと待って。だったら最初から言えばよかったのに。予定ほんとにあるの?」
これだから、夏呼は油断ならない。正直ぎくりとしたのを悟られぬよう、平然を装って返した。
「あるよ」
怖いだけでしょう? と夏呼は覗き込んできた。慌てて目をそらす。
「怖くないし。」
「来るよねえ?」
「行かない。」
「理由は?」
「よ、用事……?」
「……無いんだね。じゃ、来て」
本当に、このままではまずい。必死に頭を回転させる。
「あるよ、従妹が、花境町に来る予定でさ。」
「ふーん。おばさんに確認してみよっかなー」
そういったとたんに夏呼は僕のポケットに入っていたはずのスマホを耳に当て、あっもしもしおばさん? と言い出した。一体いつ掏ったんだ。
「ああーっ、ちょ、ストップ!」
僕の伸ばす手を、夏呼はひらりと避ける。
「あっすみませんおばさん、夏休み前日の午後なんですがあ、」
「ちょいっ」
「——行くの?凪朝。」
「行っ、行……かないけどっ!」
「あのすみませーん、凪朝君の従妹って」
「やめっ、分かったから」
根負けした。したり顔で、行く? と聞く夏呼に、うなずいてしまった。
「行くけれど! すぐ、帰ってくるよ」
「やったー。あ、スマホ返すよ。」
ほい、と渡されたスマホには、通話履歴なんて表示されてなかった。なんてこった。
「てめっ夏呼!」
「カッカッカッカッひゃひゃっ」
マサと宙は、この一部始終を「夫婦喧嘩してんぞ」だとか「凪朝はツンデレだな」だとか言いながら観察していた。お願いだから助けてほしい。
持ち物だとか、日時だとかいったことをやる気のあるマサと夏呼の二人が一通り話し終えると、じゃあまとめるけど、と夏呼が片手をあげて今までの会話を確認した。
「計画決行日は、明日。参加する人は私含めここにいる四人。目的は幽霊を見ること。ついでに撮れたら写真を撮る。学校が終わったら家に帰ってすぐ荷物をまとめて、商店街の一番端っこの手芸屋の裏あたりに集合。田んぼの間を通って皆で誇神山に入る。遅くなるようなら連絡を取り合おう。あ、私スマホ持ってないや。まあ、さすがに夏休み前は部活もないと思うから、すぐ来れるよね。持ち物は水、お菓子、お賽銭、十字架、ロープ、戦える物、懐中電灯……それくらいだっけ。」
「ああ。格好は、一応運動できる服のほうがいいよな」
「そうだね。誇神山はあんまり手入れされてないらしいから。あっ、虫よけとかもあった方がいいかも。じゃあ、こんな感じで。明日の放課後ちゃんと来てね。……とくにそこ二人!」
階段の手すりにもたれかかっていた宙と僕は、はーい、と間延びした返事をした。
授業開始五分前のチャイムが鳴り、解散になった。僕は階段を下りた。夏呼が職員室前に用があるというので三人残り、僕は少し静かになってから気づく。
……心配だ。とてつもなく。
なんなんだ、この持ち物「十字架」だとか「戦える物」だとかは。そんな物たちは使うことにはならないだろう。そうであることを願う。
どうせ行ったって、幽霊は見られない。分かり切っていることだ。幽霊なんて存在しない。それを確かめに行くことが、そんなに楽しいのか。
自転車のせいでここには来たけれど、正直、誇神山に行く気は起きなかった。でも、考えてみると夏休み前日の放課後なんて僕も暇だ。ついていくだけならいいか。
僕は、少し用があるから、と言って二人と別れた。でも、別に用事なんて無かった。
ひとけのない、四階の廊下を歩く。
少し遠回りをして教室に戻ろう。
廊下の窓からはよく澄んだ青空がのぞき、つんざくような蝉の鳴き声があたりを包んでいた。
静寂。
……閑さや 岩にしみ入る 蝉の声、それをなんとなく理解させる空間だった。まだ七月だというのに、汗で髪が首筋にへばりついている。延々と続く、頭を乗っ取るような鳴き声。
あの時も、こんな空だった。おぼろげに、あれは夢だったんじゃないかとさえ思う。
あの夏の空と、蝉の鳴き声だけが、やけにはっきりと脳裏にこびりついて取れない。
歩きながら、長い息を吐き出した。
この蝉の声を聞いていると、時間が止まっているように感じる。暑さのせいもあるのだろうが、少し頭がぼうっとする。それでもゆっくり、廊下を進んだ。首筋から汗が滴るのを感じてそれを拭いながら、廊下に目を落とした。気を紛らわすように、歩を進めた。教室に向けて歩くのを止めてしまうと、足の裏から、淡い緑色の廊下に、染み込んでいきそうだった。
幽霊は、信じられない。ゾンビも、悪魔も、神様も、そういったものは信じていない。どんなに考えたって、科学的に、存在し得ると思えない。それは単に、僕に霊感が無いせいだろうか。もしくは、やはり存在しないのだろうか。中学生ともなった男子が、本気で考えるのも我ながらかっこ悪いと思うけれど、それでも、確かめたい理由があった。……死んだ人の魂は、この世に存在するのかどうか。幽霊がいて欲しいとは思わないけれど、もし。
もし、死んだ人の見えない魂が、この世に存在するのなら、僕は霊感が、欲しい。
凪朝は屋上から覗く大きな入道雲を窓から見上げ、それから静かに教室に戻った。教室はにぎやかだった。
<><><>
「あー!来た来た来た!凪朝遅いー!」
「早くしろ―!」
ついに今日が来てしまった。まさか本気でやるとは。
「ごめんごめん、遅くなって。」
「ほんとに思ってんの~?」
学校は今日で終わり。その記念すべき日に、僕たちはこれから、山に登る。そう、幽霊を見るために。
「いや……なんで来ちゃったんだろ……」
商店街の端っこに、マサ、宙、夏呼、そして僕が集まった。ゲームをしていない宙を外で見るのはなんだか変な感じがした。色白の肌が目立つ。マサや夏呼とはサッカーをしたりするから普段着は見慣れているけれど、しょっているリュックを見て、これから山に登ることを改めて思い出した。
「んじゃ、行きますか!」
マサの声と同時に、歩き出す。田んぼの間の広いあぜ道を進み、木が鬱蒼と集まっているところへ入っていく。マサが先頭を歩き、次に夏呼、宙と続いて、僕は最後にちょっと遅れて後ろを歩いた。
実のところ、僕は少し戸惑っていた。決して怖いわけではない。
考えてしまうのだ。
こんな可能性ゼロの幽霊探しなんて馬鹿なんじゃないのか。
こんなことで今日の放課後を棒に振ってしまっていいのか。
中学生だけで、ひとけの少ない山奥へ登って行くのは問題なんじゃないか。
こういうのは信じるタイプじゃないけど、もしかしたら、神社から罰が当たったりしてしまうのではないか。
……もしかしたら、幽霊が、出るんじゃないか。
……。
ごめんなさい、少し怖いです。
そんなことを考えてたって、ここへ来てしまった時点でもう遅いのは分かっている。でも、心の何処かで、警報が鳴っている。
馬鹿みたいだけど、この幽霊探しは危険かもしれないという予感が、なんとなくする。怖いからだけじゃない。根拠なんてないし、ただの虫の知らせ的なものだと思うのだけれど、たぶん、この山に登ったら後戻りはできない。
何かが起こるのかもしれない。本当に行っていいのだろうか。
忘れ物はない!と万全に準備して家を出て、それでも歩きながら何かを絶対忘れたという気分になる、あの感じと似ている。頭の隅でころっと異物がある。引っ掛かる。妙だ。忘れるものなんてないし、ただの登山だというのに。誇神山の登り口に近づけば近づくほど、その感じは強くなっていった。三人について歩いていると、木深くなって、だんだんと日の当たる面積が減ってきた。
……何が起こるのだろう。霊感もない人が、何かヤバい雰囲気を感じるとか言ったって説得力がないけれど、いやだからこそ、今回は、今までに感じたことのないくらいの胸騒ぎを感じた。ひしひしと恐怖が湧き上がってくる。
だが今更戻りたいと言っても遅い。僕はもう何も考えないことにした。五円玉をさっさと投げ込んで帰ってこよう。
後ろのあぜ道を振り返って、前の黙々と歩いている三人に視線を戻した。
大丈夫。三人と一緒なのだし、何も心配することはない。ただの小さい山登り。ただの遠足。そう、遠足だ。
遠足、遠足。遠足、遠足。大丈夫、これは遠足。遠足、遠足。
母親が子供に安心させるために子守唄を歌うような要領で、僕は自分自身に言い聞かせた。
遠足、遠足。
「んー?お前ら顔暗ぇな。宙はいつも通りだけど。しっかし凪朝はマジでやる気ゼロじゃん。そんな離れんなよ。」
遠足、遠足。遠足、遠足。
「ちょ、凪朝どした?」
「……えんそく、えんそく」
「園児か?」
「え?」
そこで気づいた。
「あ、マサ?ごめん、何か言ってた?」
「はっはーん。ビビってんだろ?!」
「いや、ちが、ちがうって!」
図星をつかれてイラつくのと同時に、マサと会話ができて安心もした。
「あーはいはい、分かってますよ。……お前が園児だってことは知らなかったけどな」
「園児じゃないって!」
「あっはははははっ」
「ふっ」
「夏呼……何?まさか笑った?」
「笑ってなーい。…………ふふっ」
そうこうしてる間に、山の入り口の赤い鳥居が見えた。もはやここは森で、ほとんど光が入らず、肌寒かった。パーカーを着てきて正解だった。
その鳥居と、そこからから続く石の階段の周りには草や木が鬱蒼と生い茂っていた。赤い塗料の剥がれ落ちかけた古めかしい鳥居は、ますます僕の不安感を搔き立てた。
すぐ前を歩いている宙に気取られないように、どこからか出てきたつばを飲み込んだ。
四人の靴が草と砂利を鳴らした。足元を見ると、無数のクローバーが生えていた。僕は、歩きながら無意識に四つ葉を探したけれど、見つかる気配もなかった。
しかし、もう少しで鳥居の手前に着く、という時だった。不意に列の二番目を歩いていた夏呼が立ち止まった。先頭のマサが気づいて、僕らの列は止まった。
僕は下を向いていたから、宙に軽く頭をぶつけて顔を上げた。
どこからか肌寒い風が吹いた。
まだ鳥居にもついていないのに、なぜ止まる必要があるんだ? 妙に思って、僕が、どうした?と声をかけた瞬間、静かな木々の間に、絶叫が響き渡った。
「……あっ!あーーーーーー‼」
「!?」
「おやつ忘れた‼」
その予想だにしていなかった夏呼の叫びは、僕ら三人の耳をつんざいた。鳥が鳴きながらバサバサっと散った。
「うるっさいわあ」
両耳を抑えながら宙が大声で突っ込む。よほどおやつを忘れたことがショックだったのか、夏呼は膝に手をついてがっくりと肩を落とした。
「はぁ……もう最悪っ」
ではその臙脂色のパンパンのリュックには一体何が入っているのだろうか。
「俺らの分もあるから大丈夫だって。つか、遠足の醍醐味のお菓子を忘れるなんてドジだなお前」
マサが耳を押さえながらも慰めていた。いや、お菓子は醍醐味ではないが。
「ありがとぉ……ドーナツある?」
夏呼はこの世の終わりのような顔をしながらも、ちゃっかり駄菓子のドーナツをゲットしていた。それを見ながら僕は、跳ね上がった心臓を抑えるように、深呼吸した。
落ち着け、僕。
僕らは、鳥居の前に着いた。色褪せた注連縄はほろほろと朽ちてきていて、本当に幽霊が出そうだ、と思ってしまうくらいの陰気な雰囲気を醸している。いや、出て来はしないんだけど。その向こうには、先の見えない、気が遠くなるほどの石の階段が続いている。僕の隣にいる宙が言った。
「ここからは、神の領域なんだってさ。階段を上る前に、一礼していこう。鳥居は、一般社会と、神様のいるところをわける結界みたいなものらしいよ。」
モンスターの攻略法以外を真面目に話す宙は何となく面白かった。また、不本意だけど、なぜだか頼もしくも見えた。
「まじでこれが神の領域への入り口?ボロっちいのに?」
「あっ罰当たるよ」
真ん前にある小さめの鳥居を見上げて愚痴をこぼし、夏呼に諭されるマサは、怖くもなんともなさそうだった。僕の左脇の宙も、スピリチュアル的な事を信じない性格だからなのか、ひょうひょうとしていた。
「幽霊なんていない。さっさと五円玉投げて戻って家帰ってゲーム返還の交渉するから」
なぜそんな余裕ぶれるのか知らないけれど、その意見には賛成だ。
「そうだよ。さっさと帰ってこよう。あれはただの噂なんだし。」
「幽霊いるし! 私が見つけるから!」
夏呼と自分自身に言い聞かせるように、いないよ、と凪朝は言う。
「第一、見たことある?」
「見たことは、……ないけど。てか凪朝、夢無いなー」
「幽霊なんていない」
「いる!」
「いない」
「あーもう! 絶対見つける!私が見つけてやるから凪朝は腰まげてついてこい! 私、ペーパーナイフと、ロープと、双眼鏡と、防犯ブザーと、輪ゴム銃と、トマトケチャップと、お守りと……まあとにかく準備万端だから、幽霊だろうが何だろうがとっ捕まえてやんだからっ!」
周りにいた僕ら三人は、その膨れ上がった臙脂色のリュックを見た後、一斉に笑い出した。
「そんな物がその中に入ってんの?……くくっ……はははっ」
「なんだよ凪朝―、あっ、お祭りで買った光る剣もあるよ!誰か使う?」
「あっははは!」
「戦えるうえに光るから暗くなっても役立つ! うーん、この剣は、先頭を行く晶人に授けよーう」
「ありがたくいただく!」
「絶対いらないでしょ」
「こら宙! なんか言った?」
「わー、とっても強そうな剣ですねー。羨ましーい」
「あっそう? じゃ、宙には光るカチューシャを貸してあげよう」
「うっわ、言わなきゃよかった」
「あっはははは!」
「凪朝にもあげる」
「えっ」
僕らは気を取り直してもう一度鳥居の前に並びなおした。夏呼が言う。
「きをつけ! れい! 神様お邪魔します!」
皆で深々と頭を下げた。
「……それじゃ、いこっか。……せーので超えるよ」
無意識に薄く息を吸った。
夏呼、マサ、宙、そして僕の声が重なる。
『せーーーのっっ』
それは、鳥居をくぐったその一瞬に、聞こえた。
(——樋口君)
周りの音は、消え、また戻った。
後ろを振り返った。さっきと同じ、森に細い道があるだけ。
おかしい。今、樋口君、と聞こえた気がする。誰かが僕の苗字を呼んだだろうか。夏呼に聞くと、目を見開いて、怪訝そうな顔を向けられた。
僕ら四人以外に人はいない。もう一度後ろをさっと確認してみたが、木々があるだけでやはり誰もいない。背中を寒気がはい回った。
空耳、だ。
少し怖くなっていたから、気が動転したのかもしれない。
「凪朝? 夏呼? 行くぜ?」
「ごめん、何でも——」
(樋口君)
はっきりと聞こえた。樋口君と呼んだその声は、夏呼じゃなかった。知らない声。
すーっと、冷たい風が僕の横を通り過ぎた。
その声が何処から聞こえる声なのか分からないのが奇妙だった。はっきり聞こえるけれど、遠くから呼ばれている気がして、頭が痛くなった。
「……誰」
つぶやいても、返事はなかった。
「誰?」
辺りを見回しながら、少し大きめに声を発してみた。今度も返事はない。
脳裏に、幽霊、の二文字が浮かんだ。
「凪朝、どうしたの?」
階段を上りだした宙とマサが動かない僕を振り返った。一瞬で、僕は脳裏に浮かんだ二文字を消した。
「いや、別に……何でもない」
「幽霊でも見たんじゃねぇかー?まさかここまで来てびびってんじゃねえだろうな」
本気ではないと分かっていながらもマサにはっきりと言われ、耳がひっくと動いた。
「あ、あのさ、さっきから……」
「何?」
「……女の人の声がするんだけど……」
言うと、マサと宙は顔を見合わせ、噴き出して、笑った。ひとしきり笑った後、表情を崩さない僕を見ると、音楽が急に止まったみたいにぴたっと笑うのを止めて、二人して僕を覗き込んだ。
「それ、まじ?」
「……まじ」
「行かなきゃ……」
隣でつぶやいたのが聞こえて、僕は横を見た。夏呼が目を見開いて、何かを必死に探しているような顔をしていた。茶色く透ける目は、山頂のあたりを、吸い込まれるように見ていた。
「……夏呼?」
「行か、なきゃ……」
どこに、と僕が聞くのが速いか、夏呼はもう走り出していた。宙とマサの間を押しのけて進んで行った。
「おい、待て、危ないって! 皆で行こうっ」
夏呼は聞く耳を持たず、二段飛ばしで階段を駆け上がっていく。揺れる黒髪が、遠ざかっていった。
どうしよう。答えはすぐ出た。
「……追いかけよう」
「あいつ、やばくね? 幽霊に乗っ取られたんじゃねえか」
「いいから!」
(樋口、君)
「えっ」
まただ。
「どうかしたか、凪朝」
「いや、急ごう」
どうしてこんなことになっているんだ?
僕は何かをしてしまったか?
この声は何なんだ?
夏呼は、何を見ているのか——?
薄い石の階段を踏みしめ、唇を嚙んだ。くそっ。何やってんだ、僕。こんな変な幽霊探しに行かなければ、今頃マサとサッカーをするか、家で菓子でも食べてたのに。明日から、夏休みなのに。
早くも夏呼との差は十段以上開いていた。
駆け上がって通り過ぎる時に、両脇にじっと座っていた狛犬が、息を切らす僕たちを、せせら笑っていた。
前だけ見よう。それでも、夏呼の背中には一向に追いつけそうになかった。
どうしたんだ。僕の方が体力はあるのに。守らなければいけないのに。
このまま、何もできず、僕ら四人幽霊にでもなるんじゃないか。
嫌な想像ばかりが、頭の中ではしゃいでいた。
……来なければ、よかった。
背中は変な汗でじとっとしている。誇神山の階段には木に拒まれて光なんて入らず、冷たく重い空気が充満していた。寒いのか、暑いのか分からない。とにかく駆け上がった。日頃使わない太ももの筋肉が、悲鳴を上げていた。追いかける僕らの呼吸と夏呼を呼ぶ声が、深く静かな森にこだましていた。距離のあるここからでも、夏呼も息が切れているのが分かった。
しかしどれだけ呼んでも、いっこうに止まらない。あいつらしくない。なんなんだ。
風がはるか上の木々を揺らした。周りの幹は大きく囁くように、さざ波のような音を立てた。飲み込まれる。足を動かし続けている時間が、永遠に思えた。後ろで宙の足音が止まった。振り返ると、白い肌に流れる汗をぬぐい、また上り始めるところだった。マサは必死に走っていた。さっきくぐった鳥居は、はるか遠くにぽつんと見えた。
今止めなくてどうする。勢いあまって落下したり、足を滑らせたりしたら危険だ。違っていてほしいけれど、幽霊に取りつかれているのならば、止められるのは、今しかない。
再び足に力を入れた。
その時、夏呼が、階段から足を踏み外した。
短い悲鳴を漏らし、頭からこちらへ落ちてきた。
「夏呼っ!」「夏呼!」「黒川!」
必死に手を伸ばした。夏呼が、宙を舞う。あぁっ、届、かない……。もう少し、あとちょっと。
全てがスローモーションのように映った。
……あと、一歩!
僕らは、階段を蹴った。
そして、全員が地から完全に離れたその瞬間に——
——どこかで鯉が跳ねて、そして、時は止まった。