<><><>



 「あー!来た来た来た!凪朝遅いー!」
「早くしろ―!」

ついに今日が来てしまった。まさか本気でやるとは。

「ごめんごめん、遅くなって。」
「ほんとに思ってんの~?」

学校は今日で終わり。その記念すべき日に、僕たちはこれから、山に登る。そう、幽霊を見るために。
「いや……なんで来ちゃったんだろ……」

商店街の端っこに、マサ、宙、夏呼、そして僕が集まった。ゲームをしていない宙を外で見るのはなんだか変な感じがした。色白の肌が目立つ。マサや夏呼とはサッカーをしたりするから普段着は見慣れているけれど、しょっているリュックを見て、これから山に登ることを改めて思い出した。

「んじゃ、行きますか!」
マサの声と同時に、歩き出す。田んぼの間の広いあぜ道を進み、木が鬱蒼と集まっているところへ入っていく。マサが先頭を歩き、次に夏呼、宙と続いて、僕は最後にちょっと遅れて後ろを歩いた。
実のところ、僕は少し戸惑っていた。決して怖いわけではない。

考えてしまうのだ。
こんな可能性ゼロの幽霊探しなんて馬鹿なんじゃないのか。
こんなことで今日の放課後を棒に振ってしまっていいのか。
中学生だけで、ひとけの少ない山奥へ登って行くのは問題なんじゃないか。
こういうのは信じるタイプじゃないけど、もしかしたら、神社から罰が当たったりしてしまうのではないか。
……もしかしたら、幽霊が、出るんじゃないか。


……。

ごめんなさい、少し怖いです。


そんなことを考えてたって、ここへ来てしまった時点でもう遅いのは分かっている。でも、心の何処かで、警報が鳴っている。

馬鹿みたいだけど、この幽霊探しは危険かもしれないという予感が、なんとなくする。怖いからだけじゃない。根拠なんてないし、ただの虫の知らせ的なものだと思うのだけれど、たぶん、この山に登ったら後戻りはできない。
何かが起こるのかもしれない。本当に行っていいのだろうか。


忘れ物はない!と万全に準備して家を出て、それでも歩きながら何かを絶対忘れたという気分になる、あの感じと似ている。頭の隅でころっと異物がある。引っ掛かる。妙だ。忘れるものなんてないし、ただの登山だというのに。誇神山の登り口に近づけば近づくほど、その感じは強くなっていった。三人について歩いていると、木深くなって、だんだんと日の当たる面積が減ってきた。

……何が起こるのだろう。霊感もない人が、何かヤバい雰囲気を感じるとか言ったって説得力がないけれど、いやだからこそ、今回は、今までに感じたことのないくらいの胸騒ぎを感じた。ひしひしと恐怖が湧き上がってくる。

だが今更戻りたいと言っても遅い。僕はもう何も考えないことにした。五円玉をさっさと投げ込んで帰ってこよう。

後ろのあぜ道を振り返って、前の黙々と歩いている三人に視線を戻した。

大丈夫。三人と一緒なのだし、何も心配することはない。ただの小さい山登り。ただの遠足。そう、遠足だ。
遠足、遠足。遠足、遠足。大丈夫、これは遠足。遠足、遠足。

母親が子供に安心させるために子守唄を歌うような要領で、僕は自分自身に言い聞かせた。

遠足、遠足。


「んー?お前ら顔暗ぇな。宙はいつも通りだけど。しっかし凪朝はマジでやる気ゼロじゃん。そんな離れんなよ。」


遠足、遠足。遠足、遠足。

「ちょ、凪朝どした?」
「……えんそく、えんそく」
「園児か?」
「え?」
そこで気づいた。
「あ、マサ?ごめん、何か言ってた?」
「はっはーん。ビビってんだろ?!」
「いや、ちが、ちがうって!」
図星をつかれてイラつくのと同時に、マサと会話ができて安心もした。

「あーはいはい、分かってますよ。……お前が園児だってことは知らなかったけどな」
「園児じゃないって!」
「あっはははははっ」

「ふっ」
「夏呼……何?まさか笑った?」
「笑ってなーい。…………ふふっ」


そうこうしてる間に、山の入り口の赤い鳥居が見えた。もはやここは森で、ほとんど光が入らず、肌寒かった。パーカーを着てきて正解だった。

その鳥居と、そこからから続く石の階段の周りには草や木が鬱蒼と生い茂っていた。赤い塗料の剥がれ落ちかけた古めかしい鳥居は、ますます僕の不安感を搔き立てた。
すぐ前を歩いている宙に気取られないように、どこからか出てきたつばを飲み込んだ。
四人の靴が草と砂利を鳴らした。足元を見ると、無数のクローバーが生えていた。僕は、歩きながら無意識に四つ葉を探したけれど、見つかる気配もなかった。

 

しかし、もう少しで鳥居の手前に着く、という時だった。不意に列の二番目を歩いていた夏呼が立ち止まった。先頭のマサが気づいて、僕らの列は止まった。
僕は下を向いていたから、宙に軽く頭をぶつけて顔を上げた。

どこからか肌寒い風が吹いた。

まだ鳥居にもついていないのに、なぜ止まる必要があるんだ? 妙に思って、僕が、どうした?と声をかけた瞬間、静かな木々の間に、絶叫が響き渡った。


「……あっ!あーーーーーー‼」


「!?」



「おやつ忘れた‼」

その予想だにしていなかった夏呼の叫びは、僕ら三人の耳をつんざいた。鳥が鳴きながらバサバサっと散った。
「うるっさいわあ」
両耳を抑えながら宙が大声で突っ込む。よほどおやつを忘れたことがショックだったのか、夏呼は膝に手をついてがっくりと肩を落とした。
「はぁ……もう最悪っ」
ではその臙脂色のパンパンのリュックには一体何が入っているのだろうか。

「俺らの分もあるから大丈夫だって。つか、遠足の醍醐味のお菓子を忘れるなんてドジだなお前」
マサが耳を押さえながらも慰めていた。いや、お菓子は醍醐味ではないが。
「ありがとぉ……ドーナツある?」
夏呼はこの世の終わりのような顔をしながらも、ちゃっかり駄菓子のドーナツをゲットしていた。それを見ながら僕は、跳ね上がった心臓を抑えるように、深呼吸した。

落ち着け、僕。


 僕らは、鳥居の前に着いた。色褪せた注連縄はほろほろと朽ちてきていて、本当に幽霊が出そうだ、と思ってしまうくらいの陰気な雰囲気を醸している。いや、出て来はしないんだけど。その向こうには、先の見えない、気が遠くなるほどの石の階段が続いている。僕の隣にいる宙が言った。
「ここからは、神の領域なんだってさ。階段を上る前に、一礼していこう。鳥居は、一般社会と、神様のいるところをわける結界みたいなものらしいよ。」
モンスターの攻略法以外を真面目に話す宙は何となく面白かった。また、不本意だけど、なぜだか頼もしくも見えた。

「まじでこれが神の領域への入り口?ボロっちいのに?」
「あっ罰当たるよ」
真ん前にある小さめの鳥居を見上げて愚痴をこぼし、夏呼に諭されるマサは、怖くもなんともなさそうだった。僕の左脇の宙も、スピリチュアル的な事を信じない性格だからなのか、ひょうひょうとしていた。
「幽霊なんていない。さっさと五円玉投げて戻って家帰ってゲーム返還の交渉するから」
なぜそんな余裕ぶれるのか知らないけれど、その意見には賛成だ。
「そうだよ。さっさと帰ってこよう。あれはただの噂なんだし。」
「幽霊いるし! 私が見つけるから!」
夏呼と自分自身に言い聞かせるように、いないよ、と凪朝は言う。
「第一、見たことある?」
「見たことは、……ないけど。てか凪朝、夢無いなー」
「幽霊なんていない」
「いる!」
「いない」
「あーもう! 絶対見つける!私が見つけてやるから凪朝は腰まげてついてこい! 私、ペーパーナイフと、ロープと、双眼鏡と、防犯ブザーと、輪ゴム銃と、トマトケチャップと、お守りと……まあとにかく準備万端だから、幽霊だろうが何だろうがとっ捕まえてやんだからっ!」
周りにいた僕ら三人は、その膨れ上がった臙脂色のリュックを見た後、一斉に笑い出した。
「そんな物がその中に入ってんの?……くくっ……はははっ」
「なんだよ凪朝―、あっ、お祭りで買った光る剣もあるよ!誰か使う?」
「あっははは!」
「戦えるうえに光るから暗くなっても役立つ! うーん、この剣は、先頭を行く晶人に授けよーう」
「ありがたくいただく!」
「絶対いらないでしょ」
「こら宙! なんか言った?」
「わー、とっても強そうな剣ですねー。羨ましーい」
「あっそう? じゃ、宙には光るカチューシャを貸してあげよう」
「うっわ、言わなきゃよかった」
「あっはははは!」
「凪朝にもあげる」
「えっ」


僕らは気を取り直してもう一度鳥居の前に並びなおした。夏呼が言う。
「きをつけ! れい! 神様お邪魔します!」
皆で深々と頭を下げた。
「……それじゃ、いこっか。……せーので超えるよ」
無意識に薄く息を吸った。
夏呼、マサ、宙、そして僕の声が重なる。
『せーーーのっっ』



それは、鳥居をくぐったその一瞬に、聞こえた。

(——樋口君)

周りの音は、消え、また戻った。

後ろを振り返った。さっきと同じ、森に細い道があるだけ。
おかしい。今、樋口君、と聞こえた気がする。誰かが僕の苗字を呼んだだろうか。夏呼に聞くと、目を見開いて、怪訝そうな顔を向けられた。
僕ら四人以外に人はいない。もう一度後ろをさっと確認してみたが、木々があるだけでやはり誰もいない。背中を寒気がはい回った。
空耳、だ。
少し怖くなっていたから、気が動転したのかもしれない。
「凪朝? 夏呼? 行くぜ?」
「ごめん、何でも——」

(樋口君)

はっきりと聞こえた。樋口君と呼んだその声は、夏呼じゃなかった。知らない声。
すーっと、冷たい風が僕の横を通り過ぎた。
その声が何処から聞こえる声なのか分からないのが奇妙だった。はっきり聞こえるけれど、遠くから呼ばれている気がして、頭が痛くなった。
「……誰」
つぶやいても、返事はなかった。
「誰?」
辺りを見回しながら、少し大きめに声を発してみた。今度も返事はない。
脳裏に、幽霊、の二文字が浮かんだ。

「凪朝、どうしたの?」
階段を上りだした宙とマサが動かない僕を振り返った。一瞬で、僕は脳裏に浮かんだ二文字を消した。
「いや、別に……何でもない」
「幽霊でも見たんじゃねぇかー?まさかここまで来てびびってんじゃねえだろうな」

本気ではないと分かっていながらもマサにはっきりと言われ、耳がひっくと動いた。
「あ、あのさ、さっきから……」
「何?」
「……女の人の声がするんだけど……」


言うと、マサと宙は顔を見合わせ、噴き出して、笑った。ひとしきり笑った後、表情を崩さない僕を見ると、音楽が急に止まったみたいにぴたっと笑うのを止めて、二人して僕を覗き込んだ。
「それ、まじ?」
「……まじ」



「行かなきゃ……」
隣でつぶやいたのが聞こえて、僕は横を見た。夏呼が目を見開いて、何かを必死に探しているような顔をしていた。茶色く透ける目は、山頂のあたりを、吸い込まれるように見ていた。
「……夏呼?」
「行か、なきゃ……」
どこに、と僕が聞くのが速いか、夏呼はもう走り出していた。宙とマサの間を押しのけて進んで行った。
「おい、待て、危ないって! 皆で行こうっ」
夏呼は聞く耳を持たず、二段飛ばしで階段を駆け上がっていく。揺れる黒髪が、遠ざかっていった。
どうしよう。答えはすぐ出た。
「……追いかけよう」
「あいつ、やばくね? 幽霊に乗っ取られたんじゃねえか」
「いいから!」

(樋口、君)

「えっ」
まただ。
「どうかしたか、凪朝」
「いや、急ごう」

どうしてこんなことになっているんだ?
僕は何かをしてしまったか?
この声は何なんだ?
夏呼は、何を見ているのか——?

薄い石の階段を踏みしめ、唇を嚙んだ。くそっ。何やってんだ、僕。こんな変な幽霊探しに行かなければ、今頃マサとサッカーをするか、家で菓子でも食べてたのに。明日から、夏休みなのに。

早くも夏呼との差は十段以上開いていた。

駆け上がって通り過ぎる時に、両脇にじっと座っていた狛犬が、息を切らす僕たちを、せせら笑っていた。

前だけ見よう。それでも、夏呼の背中には一向に追いつけそうになかった。
どうしたんだ。僕の方が体力はあるのに。守らなければいけないのに。

このまま、何もできず、僕ら四人幽霊にでもなるんじゃないか。

嫌な想像ばかりが、頭の中ではしゃいでいた。
……来なければ、よかった。

背中は変な汗でじとっとしている。誇神山の階段には木に拒まれて光なんて入らず、冷たく重い空気が充満していた。寒いのか、暑いのか分からない。とにかく駆け上がった。日頃使わない太ももの筋肉が、悲鳴を上げていた。追いかける僕らの呼吸と夏呼を呼ぶ声が、深く静かな森にこだましていた。距離のあるここからでも、夏呼も息が切れているのが分かった。

しかしどれだけ呼んでも、いっこうに止まらない。あいつらしくない。なんなんだ。


風がはるか上の木々を揺らした。周りの幹は大きく囁くように、さざ波のような音を立てた。飲み込まれる。足を動かし続けている時間が、永遠に思えた。後ろで宙の足音が止まった。振り返ると、白い肌に流れる汗をぬぐい、また上り始めるところだった。マサは必死に走っていた。さっきくぐった鳥居は、はるか遠くにぽつんと見えた。

今止めなくてどうする。勢いあまって落下したり、足を滑らせたりしたら危険だ。違っていてほしいけれど、幽霊に取りつかれているのならば、止められるのは、今しかない。
再び足に力を入れた。

その時、夏呼が、階段から足を踏み外した。
短い悲鳴を漏らし、頭からこちらへ落ちてきた。

「夏呼っ!」「夏呼!」「黒川!」

必死に手を伸ばした。夏呼が、宙を舞う。あぁっ、届、かない……。もう少し、あとちょっと。
全てがスローモーションのように映った。

……あと、一歩! 
僕らは、階段を蹴った。

そして、全員が地から完全に離れたその瞬間に——


——どこかで鯉が跳ねて、そして、時は止まった。