全く、いつまで蓋をし続ければいいのだろう。

 三限目の授業は「音楽」で、吹奏楽部生に大人気の木藤先生が教室に入った。

「はい、それじゃ、今日はこの曲を聴いてもらいます。」

いつもなんの前置きもなしで、いきなり曲を生徒に聴かせるのが彼女の授業スタイルだった。

「あっ、始まったよ。なんだろ〜?」

「木藤先生、今日も可愛くない?」

吹部メンバーが一瞬ざわついたが、すぐに曲に耳を澄ませていた。

-流れゆく日々その中で
変わりゆく物多すぎて
揺るがないものただ一つ
あなたへの思いは変わらない-

先生はなぜか、原曲ではなく、合唱バージョンを聴かせたらしい。

あとから、原曲とのギャップに驚いたけど、素敵な歌詞だなって思った。

「ほら、今ってさ、情報過多って言うのかな?スマホとかタブレットとか出て、簡単に情報にアクセスできるようになって、時代が大きく変わったよね。当たり前にあった仕事もAIに取って代わられたりとか。コロナで仕事ができなくなった人もいる。日常だった風景が非日常になってもさ、変わらないもの、みんなにはある?」

-変わらないもの?-

「うーん、なんだろ?変わらないものって深すぎて逆にわかんない。けど、そこがエモいよね。」

「木藤先生、いつもいい話振ってくれるよね。じんとくる。」

木藤ファンは恍惚とした表情で互いに意見交換をしている。

変わらないものの定義が難しい。

一年後、二年後に必ず存在するもののことを言っているのだろうか。

命とか、気持ちとか、カタチとか。

変わってほしくないものも、いつか変わってしまうのだろうか。

そう思うとやるせない気持ちになった。

「ねぇ、詩織はどう思う?」

耳元で囁くように彼女が聞く。

「うーん、今考え中、、、」

彼女も真似して考えるポーズをとると、かわいいエクボが顔を出した。

「詩織は真面目なんだよ〜。」

ツンツンと腕をつつかれる。

「じゃあさ、菜々の思う、変わらないものってなに?」

なぜかドキドキして、自分で聞いたくせに穴に入りたくなった。

「失いたくないって気持ち、だと思う。」

一瞬、彼女の真顔がもう大切なモノを握っているみたいで、寂しくなった。

私はその存在をきっと知らないのだと思った。

「ねぇ、もう答え出た?」

弧を描くような目が今、合った。

多分、あと10分考える時間をもらったとしても、答えが出そうになかったのでまた後日といって先延ばした。

帰りは用事があるからと言って、真っ直ぐ帰った。

「変わらないもの」について、ちゃんと向き合わなければいけないと思ったからだった。

そういえば、最近よく起こる現象はなくなってくれないなと思った。

彼女を一目見ると、自分の心が熱くなる現象を何と言ったらいいのか。

何度も溢れ出しては必死に抑えた。

こじ開けようと渦巻く感情は、今か今かと外に飛び出すタイミングを狙っている猫のように、息を潜めている。

気を許すと流れ出てしまうのではないかとはやる気持ちを鎮める。

想えば想うほど比例していくように暴れ出す感情をどう制御すればいいのか、もうコントロール術を知らない。

この熱はいつまで続くのだろうか。

なぜか途方もない、と思った。

翌日、彼女はなぜかやけに「変わらないもの」についての解を聞き出そうとしてきた。

「はい、詩織さん。教えてもらうよ?昨日の約束。」

「えっとね、変わらないもの。それってね、熱だと思う。その人を想う熱。」

「うーん、例えば、好きって気持ちがずーっと続くってこと?だよね。」

「そう。その人を初めて好きになった時の大切だなって想う感覚っていうのかな。他の人とはちがうなにかが心の中にずっと存在してるみたいな。」

「なるほどね。じゃ、詩織にはそういう人がいるんだね。」

屈託のない笑顔を浮かべた彼女に悪気が全くないことも知っているのだけど、胸がチクっと痛んだ。

「んー、まぁ?」

それ以上詮索されたくなくて、彼女の失いたくない人の存在も引っかかっていたが、自然体を装って「今日の昼ごはん何食べる?」と言って、話を逸らした。
「おーい、こっちこっち!」

「パス!!センキュ!!」

6限が終わり、教室のバルコニーでさっき自販機で買ったばかりのサイダーを勢いよくカチッと開ける。

シュワワワと小さい泡が弾けて心地のよい音に包まれた。

今日も彼は楽しそうにサッカーボールを追いかけている。

友達や先輩にも人気のようで、彼の周りにはいつも人がいる。

いつ見ても笑顔で、まだ一度も話しかけたことはないが気になっていた。

最近、ふと気がつくと、いつも目で追いかけている存在が彼だった。

わたしの視線と交差した彼の瞳が大きく揺れる。

どうしていいものやら、考えるよりも先に「がんばれ…!」という声が前に出た。

部員の声で掻き消されてしまわないか心配だったが、彼の鼓膜に届いたようで安心した。

ちょっと照れ笑いをして手を振ってくれた。

それだけで今は充分だった。

「菜々、何してるの?」

大好きな心友の声が近づく。

「うーんとね…サッカー見てた。かっこいいじゃん?」と共感を求めてみたが、いまいちみたいで寂しくなった。

「詩織は何見てるのがすきー?」

わたしのマイブームはサッカーを観ることだけど、彼女のマイブーム的なものを知らないなと思った。

「小説だよ〜〜〜」

もうそれしかないじゃん!と若干キレられたが、たしかにそうだったなとも反省した。

もくもくと厚みを増した雲が校舎に近づき、あたりは一層暗くなった。

実は、詩織のすきな存在が気になっている。

わたしがいつもの調子で突いた一言が、若干気まずさを作ってしまったのは、目の逸らしようがなかった。

そんなに触れてはいけないキーワードだとも思っていなくて、というより、こういう話をできるのが心友だと、どこかで腑に落ちない。

もしかして、告白がうまくいかなかったのだろうか。

そもそも自分から進んで告白できるタイプなのだろうか。

すでにすきな人には、パートナーがいるのかもしれない。

いろんな事が考えられて、頭を抱える。

最悪の状態が今起きているのだとしたら、失言なのはまちがいないなとも思った。

だけど、本当のところはわからないのに早とちりするのはよくない。

「詩織。聞きたいことがある。」

これから何が起こるかなんて、話してみないと分からない精神が顔を出した。
気づけば6限終わりのチャイムが鳴り、授業を受けてはいるものの上の空だということに気づく。

私の中で生まれた秘密を守るのにきっと必死なのだろう。

私の目の前にいる彼女に連れられ入ったカフェは静まり返っていて、もっと逃げたくなった。

彼女が頼んだアイスカフェラテから雫が落ちる。

沈黙を先に破ったのは、いつもと変わらない声だった。

「ねぇ、詩織。わたし、好きな人ができたよ。」

てっきり私の好きな人を聞き出そうとしているのではないかと焦ったが、どうやら違うらしい。

思ってもみない状況に思考が追いつかず、返事ができていないことに唖然とした。

自分がどんな表情をしているのかもわからず、とにかく目の前にいる彼女だけは困らせたくないという気持ちが言葉を紡いだ。

「え、よかったね!どんな人なの?」

かなり無理やりだなとは思ったが、彼女はそんなのお構いなしで、多分話を聞いてほしいだけなのだろうなと察した。


「サッカー部の直人くん!いつも笑顔なところがすてきだなって思って、気づいたら…」

当たってほしくないほど、当たってしまうこの現象に名前はあっただろうか。

「すき、なんだね。」

噛み締めるように、でも、心は音を立てない。

現実だと分かっていながらも、それを咀嚼するのに時間がかかる質だが、いつになったら受け入れられるのか。

そんな時が来るのかは、わからない。

ただ目の前にいる彼女が心友である以上、きっと私は受け入れざるを得ないのだろうな、とも思った。

いつも私の事を気にかけてくれていた話題が少しずつ減り、直人という存在の話をよく聞くようになった私の心情なんて、彼女は知らない。

こんなに近くて、その人よりもずっと前からすきだった私の気持ちなんて、きっともう届かないと諦めそうになる。

「ねぇ、詩織?」と彼女の口から出た言葉は、なぜかこれまでの会話がこれから言う話題の前振りだったのではないか、と思わせた。

「どうしたの?」といつもの調子で答えてみる。

「あのさ、詩織はこういう恋バナ!みたいなのって苦手だったりする?」

言葉が出なかった。
さすが心友、とも思ったが、、、

3秒という一瞬でかつ少し長く感じられる時間で脳内会議を始めた。

ウソをついても見破られるなら、少し方向を変えてみよう、と。

背筋を伸ばして、今から大事な告白でもするかのように彼女を見つめた。

静かな空間が流れているが、心は若干暴れていた。

「あのね、私、びっくりしちゃって、言葉が出なかった!いつも眺めてるなぁとは思ってたけど、すきだったんだね!」

明るく、でも、明るすぎない私らしい声色をキープする。

「あ、そうだよね!初めて言ったから、、、」

唐突に記憶が蘇る。

「そういえば、直人くん、新しく入ったマネージャーのキキちゃんと仲良すぎるって話聞いたよ?」

彼女の心を少しでも独占したい芽は枯れてくれなかった。

---早く諦めさせればいい---

こんなことしたくない自分もいたが、止めなければ、今言わなければという思いに呑み込まれた。

それほどまでに、私には彼女しかいなかった。


新しいマネージャーの話は、カースト上位の軍団が廊下ですれ違った時話題にしていた。

どれだけの情報を握っているのか、と呆れるほど、噂話、悪口で盛り上がっている連中だった。

サッカー部の新マネージャー、キキちゃん?すっげぇかわいいって。

一瞬というか、もうその人と付き合っててほしいとも思った。

両者が付き合っているのか、詳しく知らない身としては不安要素大だ。

かといって、彼女が直人という存在をすきになる前よりも先に告白なんてできただろうか、と問う。

ハイリスクすぎて、なめくじみたいな弱小者には到底できない。

告白してこの家族のような関係が切れてしまうくらいなら、いっそもう消えてなくなりたい。


「え、そうなの。だったら、遠慮しとこ!」

あまりにも上向きな声だったので

「ふぇ?」と情けない声が出た。

「だってさー、好き同士だったらさー、悪いじゃん?」

あぁ菜々って、ほんとこういう人だ。

自分の気持ちどうこうではなく、相手の方を優先する。

素早く身を引くみたいな、どうしてこんな事ができるのだろうと思った。

大して私は、自分の殻を破る勇気も持ち合わせていない癖にいっちょ前にプライドだけは高い。

上辺だけの情報に頼って、すきな人の幸せすら隣で応援できない私は彼女に相応しくないはずなのに、とてつもなく安堵した。

勢いよく飲み干したアイスコーヒーは、いつもとは違う味がした。
__飽きる。ほんと飽きる。
なんでこんな魅力ないわけ?__

目の前にいるのはサッカー部のキャプテン水戸孝介(みと こうすけ)。

一昨日、ワタシから告白した。

ワタシのあまりの可愛さに見惚れて、だれも告白してこないとかありえないと思わない?

よく「橋本◯奈似だね!」と言われるけど違う。全然違う。

ワタシに似てるんだよ、橋本◯奈が!!

毎回笑顔取り繕って「ありがとう!うれしい!」って言うのもうんざり。

てか、◯◯似とかわざわざ言わなくていいよ。

向こうはなんの気もなく言ってるんだろうけど、本人が言われてうれしい人じゃなかったパターンとかどうすんの?って感じ。

初めから言うなよ!って思うんだけど!!

付き合った男は口を大にしてその台詞ばっか。

結局、ワタシを見てるようで見てなくて、理想を押し付けてるタイプばっかりだった。

なんていうの?
神対応を求めてる感じ?
だから、素とか出せないし、押し殺すのも段々面倒になってくる。

未来の花婿探しなんて、3日も一緒に居れば充分だよね?

「別れたい」

部活後にほんとは伝えるはずの台詞を、部活前に口に出した。

理由は簡単、もうこれ以上一緒に居るメリットなんてないから。

「は、なんで?まだ3日だよ?」と水戸の声が聞こえる。

「うん、だから3日でよ〜くわかった!」

とびきりスマイルで返しても、なんか腑に落ちませんみたいな顔する水戸、うざい。

「いやいや、3日でなんて何もわからないよ?俺、まだキキちゃんの事全然知らないもん。」

あ、こいつ何もわかってないなと冷めモードになってきた。

早くここを去りたいけど、本人に納得してもらった方が静かに収まる。

「うーん。ワタシ、他に気になる人できたかも。」

ぶっちゃけ、そんなやつはいないが、これから作る(未来形)ので、ウソじゃない。

「そ、そっか…。わかったよ!3日間ありがとう!応援してる、キキちゃん!」

そう、こういう切り替え早いやつはすきだなと思った。

「おーい!アップ始めるぞー!!!」
と、遠くから早川の声が聞こえる。

爽やか1年でワタシと同じクラス。

あんまり話したことはないけど、雰囲気イケメンって感じがする。

友達は多いけど、すごく仲良さそうにしてるのは槙原って子だけ。

え、全然あの二人接点なさそうなのに、なんで仲良いわけ?

気が合うだけであんだけ仲良いとか、もはや意味不明レベル。

ちょっと不思議な感じがそそられるなと思いながら、部活帰りに寄ったコンビニでいちごミルクを飲む。

ちょっと甘酸っぱくて、いちごのふんわりした鼻に抜ける香りがすき。

あーなんか、この時間が至福だったりする。

あ、そういえば最近バルコニーから、やたら早川のことずっと見てる女いたな。

顔は覚えてるけど、名前知らないんだよな。

じーっと見るってことは好きだったりして?

目で追いかけたくなるほど魅力的ってやつ?

そういえば、早川って付き合ってる人いたっけ?と月を見ながら帰路に着いた。

いつもより念入りに肌のケアは欠かさず、明日のお試し期間に向けて早く眠りについた。
あぁ、ねみぃぃぃ。

崩れかけた前髪をセットし直し、手を洗う。

ドラッグストアで新登場と謳われていたワックスは、想像以上に落ちてくれない。

今日は試験期間だからってことで、いつもあるはずの0限はなく、ゆったりと登校できた。

特に朝練はないようだが、自主的に朝練をしているサッカーキラーとの登校は次第に回数が減っていった。

身体を休めるのもアスリートだろ?というオレの心配をスルーしやがって。

イケてるメンズ系で発信してるユーチューバーがイケてる10カ条を出していた。

その中で一際目を疑ったのが冷水シャワーだった。

ドーパミンが250%くらい上がるらしい。 

ただ、温度は20℃以下でという条件付きだったが。

ほんとかよと思って、そういう系の本を読み漁っていたら、科学的に証明されてる健康法の一つである事を知った。

冷水シャワーは合法ドラッグだということが論文を読むことで確信に変わり、ついにオレのモーニングルーティンが一つ増えた。

冷水を浴びて死ぬかと思ったが、想像以上に効果を実感できた。

最高にハイになり、スッキリして見える。

だから、アイツの不審な挙動にもすぐ気づけた。

「おはよ。朝飯何食べた?オレ、バナナと卵モリモリ。」

「あー、おはよ。僕はいつもの。熱々味噌汁かなー。」

いつも醸し出す雰囲気はそこにない気がした。

お、あぶねっとスマホを両手で握りしめる。

「なんかあった?オマエいつもとちがうじゃん。」

なんでお前わかんだよ?!みたいな顔をするのも、やつらしい。

「いや、そのさ、だれにも言うなよ?僕さ、新しく入ったマネージャーに告られて。」

まぁ、そんな感じだろうとは思っていたが的中したことにオレ自身が驚いた。

「はぁ?!まぢかよ!オレすげぇーな!」

「いやいや何言ってんだよ!お前何もしてないだろ!」

サッカーキラーの顔が綻んだところに直球でかました。

「で?オマエなんて言ったん?」

唇をキュッと引き締めて出てきた言葉は可愛らしかった。

「お願いします!って言ったよ。そりゃ、可愛い子に告られたらそれしかないじゃん。」

どこか照れくさそうにモジモジするやつの脚を蹴って、教室へと向かう。

あ、そうだ自販に用があるんだったと言って、やつとは別れた。

アイツはまだ知らないんだよな。

オマエのこと、ずっと前から見てるやつがいるのにな。

いつかそいつも報われてほしいと、青空を見上げる。

今日は晴れのち曇りってとこか。

プシュッといわせたキャップから甘い香りが漂った。
「早川くんの事が気になってて大好きなの。付き合って?」

上目遣いで見上げた彼は、かなり動揺していてかわいいなと思った。

状況を呑み込んだ彼の口からは「お願いします!」という言葉が出て、意外だなと呆気にとられた。

彼女を諦めたのだろう。私が思っているよりも潔く、切り替えの早い男なんだなと思った。

だから、彼に秘めた心があることなんて知らなかったし、見て見ぬふりをすることになるなんてこの時はまだ知らなかった。

「お疲れ!」

月が西から東へ沈みかけた頃、ようやく部活から解放された。

部員のみんなのドリンクを配り終わり、労いの言葉をかけながら、帰りの支度もせっせと済ませる。

「ねぇ、一緒に帰らない?」

爽やかな彼と下校する、というのは乙女が絶対にしたい小さなイベントの一つ。

そういえば、どこに住んでいるか聞いていなかったので、これを機にどこまで一緒にいられるのかも知れるなとカバンを肩にかける。

「僕、こっち方面なんだけど、キキは?」

高すぎず、低すぎずの心地よい声が耳にこだまする。ちょっと特別感に浸りながら、同じ方向を指差した。

偶然とはいえ、近所に住んでいるという事実に驚きを隠せずに「運命かもね?」と少女マンガに出てきそうなキザなセリフを呟いてしまった。

こういうドキッとしたセリフを積み重ねることこそが、男の心を掴むという真理も学んでいるつもりだ。

「ここ、乗せろよ」

大して中身があまり入っていないカバンを横取られて焦ったが、重たい荷物を彼女になんて持たせられるわけがないという彼なりの配慮だということを知る。

「あ、ありがとう。中身ほぼ入ってないけど乗せてくれるんだ。優しいね。」

じわじわと彼の優しさが身にしみるような口調で感謝の言葉を伝えてみる。

「うん。ちょっと入ってるだろ?だからいいんだよ。」

恩着せがましくもなく、かといって荷物が少ないことをネタにするような性格ではないのだと、帰り道がもう少し長く続けばいいなと思った。

ちょっといいかも、の彼と3日間過ごしたら、ワタシの気持ちはどうなるんだろう。

初めてかも、3日間過ごしてバイバイは寂しいと感じたのは。

「ちゃんと見てる。キキが家に帰り着いたの確認したいから。」とワタシがドアの鍵をきちんと閉めたのを確認してから帰る後ろ姿に今まで感じたことのない鼓動を感じた。

なんで、こんなにドキドキするの。

彼氏に呼び捨てされるというちょっとしたことですら、顔が真っ赤になってたし、ほんと恋してるみたいでやばいかも。

「未来の花婿になって!」ってお願いする時が来るのかなぁと口角が上がったまま、今晩のホットケーキを頬張る。
「え、あの子付き合ってるんだよな。他校のやつと。」

耳を疑うようなセリフにどうして反応してしまうのだろう。

これが地獄耳ってやつか。

一目惚れした彼女には、すでに彼氏という存在がいるという事実が痛く、脚を負傷したことを忘れていた。

冷やさないと、と思っていたら長髪のマネージャーが氷を持ってきてくれた。

「大丈夫?結構痛む?」

優しく気にかけてくれることが嬉しいと感じるよりも、あの人も彼氏に同じ事を言うのだろうなと妄想に拍車をかけてしまう。

「痛いけど、冷やしてるからマシになったよ。ありがとう!」

どんな時も笑顔でいたい僕にとって、今が乗り越え時なのかもしれないと氷を握り締める力が強くなる。

黒髪を靡かせながら「またいつでも持っていくね!」と優しく微笑んだキキという名前をこの時は特別に感じられた。

次の日だったんだ。

キキが僕の特別な人になったのは。

一目惚れした彼女とお付き合いすることを夢見ていた僕にとって、これほどまでにショックなことはないなと内心かなり落ち込んでいたが、目の前に現れた美少女が救世主に見えて、思わず縋ってしまったのかもしれない。

どうか、僕を諦めさせてほしい。そんな投影を彼女と付き合うことで晴らそうとしていた。

「お願いします!」とやや力を込めすぎた声に、彼女は微笑み、手を握りしめてくれた。

天使のようだと思うほど眩しく見えた。

それからは、僕を守ってくれる天使を護ることが自分の使命に変わった。

そう、好きだから付き合ったというより、辛すぎる現状から目を背けるために付き合ったという事実すら彼女と過ごしていくうちに遠い昔のように感じた。

「直人〜」

アイドルみたいな可愛らしい声で名前を呼ばれるという経験は初めてだったので、やはり嬉しかったし、特別だなって思う。

「キキ」

2文字の名前なのにとても愛おしく感じられるようになったのは、彼女が僕に愛を惜しみなくくれるからだと思う。

部屋のライトを点けると、彼女にもらった造花が生きているかのように感じられて、思わず微笑んだ。

男性に花をプレゼントするなんて、あまり聞いた事ないなとGoogleの検索窓に「女性が男性に花を贈る」と打ち込む。

上位に表示されたサイトの中身が表示されていた。

ーーー男性へお花を贈る時の注意点は「相手の好みを考える」こと。ーーー

男性が喜びそうな色の中に、彼女が贈ってくれた「ブルー」がランクインしていたのを見て嬉しい気持ちになった。

造花とはいえ、ブルーの薔薇を選ぶセンスの良さに惚れたのかもしれない。

きっと、同じ雑貨屋さんで同じものを見たら、手に取っていたかもしれないと思わせるほど、綺麗な青だった。

自分が失恋なんてしたことを忘れてしまうくらい、僕にとって彼女は絶対的存在になっていた。

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