茜音が紅茶を煎れてくると、それまで部屋の中を見回していた菜都実が首を傾げていた。
「どうしたの?」
「いや、茜音の部屋も久しぶりなんだけど、なんかずいぶん片付けた? なんだか地味になったって言うか……。茜音らしいというかなんていうか」
「少し前に模様がえしたの。色を統一したから目立つのかもねぇ」
「やっぱそうだよな? 昔はピンクとかも多かったよね?」
茜音の部屋は菜都実の殺風景に近いそれと比べると、まだ部屋のインテリアには手をかけている。
それでもよくテレビや雑誌などで紹介される流行品などはほとんど見られない。普段から最低限のメイクで通しているためか、鏡はあっても薬用リップやローションなどで、コスメというよりも肌荒れを防ぐための用意と見ていい。
壁や家具の白やベージュ、ブラウン系や木目調の落ち着いた色使いとシンプルな家具など、今時の女子高生としては落ち着いていて、大人びているような雰囲気に感じられる。
一方でカーテンや家具にかけてあるカバーなどの品は色は同系ながらもリボンなどのアクセントを多用している。この部屋を見れば茜音の私服や持ち物の好みなどにも納得がいくといった具合だ。
菜都実が指摘したのは、半年くらい前に来たときと部屋の雰囲気ががらりと変わっていることだ。当時は今と違い、パステル系の色調、レースなども多用してあって、言ってみれば「メルヘン調」となっていたものが見あたらず、ガラッと方向転換されていることだ。
「飽きた訳じゃないけれど、秋に千夏ちゃんが来てね。その時に欲しいってことになって、中古でよければって譲ったの。どうせだから全部取り替えちゃえってことになってねぇ」
「それじゃ、高知に行くと第2の茜音の部屋が出来ていると?」
「そうかもね。今のを揃えているとき、ずいぶん変わったなぁと自分でも思ったけどね」
「これはこれで茜音らしくていいじゃん? 佳織んちは効率性重視デザインだもんねぇ」
どちらかといえば自然素材を使ってカントリー風の茜音の部屋と、金属系の調度品も機能美アクセントとして用いて都会風に仕上げている佳織の部屋を対比すると、普段の二人の行動もなんとなく理解できる菜都実だ。
「それでも着る物の趣味はあんまり変わっていないんだけどね……」
そんな部屋の隅から、茜音はアルバムを取り出してくる。
「たぶん、菜都実と行くとしたら……、西日本のほうになるかな」
茜音はそれをめくりながら言う。
これまで旅をしてきた記録と地図への書き込みがされている。
改めて見てみると都市部から離れた部分を中心に回っている事が分かる。しかしどうしても茜音一人では回れる場所にも限界がある。
だからといって代理に頼むというわけにもいかない。本格的な春にはもう少し間があるこの時期では、東北や北陸の山奥に行くことはできないというのが実情で、自然と西の方に照準が向いてくる。
「そうだねぇ、京都なんかどうかなぁ?」
「京都?」
意外な場所の候補に菜都実は聞き返した。
「うん、まだ行ってないんだよぉ。京都っていうより、その近くの嵐山とかの方がメインなんだけど」
「そうなんだ。まぁ、茜音がいいって言うならどこでもいいんだけどさ」
マップを見てみると、京阪神地帯は調査 空白地帯になっている。関東近辺と同じように、都市部に近い場所の可能性は薄いと判断してのことだろう。
しかし、茜音が自分でその場所を指定したということなので、それを拒否する理由もない。
「んじゃ決定ね。菜都実の家は大丈夫なの?」
「茜音と旅行に行くって言われて断られたことはないから大丈夫。それに、今回は結構特別だしね……」
「そうか。でも、よかったよぉ。菜都実に元気が戻ってきたみたい」
茜音だけが心配したのではなく、このところ、以前のような威勢の良さが菜都実から消えてしまっていた。
忌引きとして休んでいたのは周囲も知っているから、一般的な感情は分かっている。
ましてや、菜都実姉妹の事実を知ってしまった佳織と茜音は訳が違う。
「しゃーないわよ。いつまでもくよくよしているわけには行かないしさ」
まだ時々痛々しい表情を見せることはある。それでも普段の調子を取り戻そうとしているところには、自身の経験があるだけに安心すると同時に、「無理をしないで」と茜音はいつも思っていた。
「そうそう。佳織にも見せたことないんだけど、これどうしようかなぁ? 掃除してたら出てきてねぇ」
茜音が思いついたように、洋服タンスの引出から紙袋に入れてあった服を取り出してきた。
「それって、あの写真の?」
茜音が出してきたのは、なんの変哲もない服。サイズからして今着られるものではないが、その服には見覚えがある。
「うん、あの写真に写っている服なんだよ。処分はしてないはずと思ったら出てきたんだ」
茜音には捨てることなどできないだろう。彼女の思い出の1ページを語る上で間違いなく重要になるはずのその服は、あの日の茜音たちを撮った写真の中の現物なのだから。
これまで何度も写真は見てきた菜都実だが、その服が今も茜音の手元に置かれていることは驚きだった。
「ずいぶん擦れちゃってるもんだね」
「仕方ないよ。施設にいるときのだからね。それに、この服はちょっと特別なんだよ……」
「ん?」
茜音は机の上から例の写真を持ってきて見せる。
「この写真見て、少し変だと思わない?」
「どれどれ?」
何度となく見てきた写真だが、改めてよく見直す。
「この服ね、それを撮ったときにはもう小さかったんだよぉ。まだ着れるからって着てたんだけどね」
言われてみれば、そうも見えなくもない。ただ、当時8歳という年齢を考えれば、育ち盛りのはずで、多少小さくなってしまったのを着ていてもあまり違和感はない。
ただし、茜音はかなり身なりに気を使うだけに、サイズ違いのものを好んで着るかどうかは微妙なところだ。それをまだ持っているというところも引っかかる。
「なんか理由が他にもあるんでしょ、そんなに大事に取っておいてさ」
「うん……。これねぇ、ママが最後に作ってくれた服なんだよ。だから絶対に捨てるなんてできなくて、しまい込んじゃってたんだ」
「そんな。でも、茜音の両親が亡くなったのってこの2年くらい前でしょ? その間にそんなもんしか育たなかったわけ?」
いくら何でも5歳から8歳の間で服のサイズが変わらないなんてことは考えられない。
一緒に写真に写っている健が同じく小さいのでなければ、茜音も平均的な身長だったはずだ。
「あぁ、もちろんずっと着ていたんじゃなくて。確か、この服はもともと誰かに渡すものだったんだよ。事故にあったときに、先に送った荷物に入っていたものなんだって」
「そうなん? ちょい待ち?!」
そうだとすれば、本来この服を着るべきだった人物は茜音よりいくつか年上の、しかも当時の両親とは親しい交流があったのではないだろうか。しかし事故後に茜音がメディアに登場しても結局彼女を引き取る者はいなかった。
それをパズルのピースのように組み立てていくうちに、菜都実は腹が立ってきた。
「仕方ないよ。身寄りのない子を引き取るなんて大変だと思うよ。出てこられなかったのも分かる。それに、今のわたしはこうやってみんなに囲まれて幸せなんだから」
「だけどさぁ」
茜音が理解しているというコメントも分かる。それを差し引いたとしても、親友が受けてきた孤独さというのは計り知れない。
菜都実も家族の一人は失ってしまったけれど、孤独というのにはまだ程遠い。この少しくたびれた服は、茜音と一緒にいろんな時間を過ごしてきた証明になっていることも、着られなくとも処分できない理由の一つなのだろう。
結局、その日は出発の日程を決め、宿泊の予約を入れたところで菜都実は帰っていった。
「よーし、着いたぞぉ!」
「着いたねぇ」
「とりあえず、この荷物どうすっかなぁ?」
新幹線が京都に到着し、改札を抜けた二人は駅前ロータリーで立ち止まっていた。
「大きい荷物じゃないけど、ずっと持って歩くと考えたら邪魔だねぇ」
もともと連休を利用しての2泊3日の行程なので旅支度も大きなものではない。
持ち歩くには少々大きいけれど持てないサイズではない。ホテルに預けてしまうか悩むところだ。
「どうせお土産とか買うんだよねぇ。だったら預けた方が楽だよ。そのほうが身軽で回れるしぃ」
そういう茜音の提案で、宿泊するホテルに連絡を取ってみる。
チェックインにはまだ早いけど、預かってもらえるとの答えをもらい、駅前を少し外れ、15分くらい歩いたところにある観光兼ビジネスホテルに向かった。
フロントで尋ねると、荷物の預かりどころかチェックインまでできるとのことで、遠慮なく部屋に行くことにする。
「ツイン1部屋だけどいいよね?」
「もちろんそれで十分!」
ふたつのベッドが並んだ部屋に入り荷物を降ろす。
「これで身軽に行けるね」
荷物の中から手持ち品を取り出して茜音が振り返ると、菜都実がベッドに座り込んで外の風景を無表情で眺めていた。
「菜都実? 大丈夫? 少し休む?」
「おう? 平気平気。いつでも出られるぞい!」
すぐにいつもの顔に戻るけれど、しばらくぶりの遠出だ。最近の心労も重なっている親友に無理はさせられない。
「うん。今日は近場にしようよ」
駅の案内所でもらってきた観光マップを見て、これからの時間で回れそうな場所をリストアップする。佳織ほどの精度はないけれど、茜音もこれまでの経験からそれなりに行動範囲を絞り込めるようになってきていた。
二人とも中学の修学旅行で京都と奈良に来ている。そんなこともあり、寺院などの参拝は三十三間堂を本堂とする蓮華王院や、清水の舞台のある清水寺、銀閣のある東山慈照寺などを中心に必要最低限にして、学校の修学旅行当時には時間を割くことができなかった参道の土産店などをじっくり見ていくことに決めた。それには菜都実のリクエストがあったからでもある。
「すまんなぁ、本当は茜音の探索旅なのに、よけいなのがくっついてきちゃって」
結局、清水寺から三年坂をとおり祇園地区から市内の中心部の京都御所へと足を伸ばした結果、明日は金閣寺と嵐山方面を残すだけとなった。
「なんか忙しかったけど、本当ならこういう修学旅行がよかったね」
夕日も落ち、鴨川の土手の上をホテルに向かいながらのんびり歩いていく。
「あたしも、茜音と一緒にまた来れるなんて思ってなかった。そうだなぁ。あたしも修学旅行をやり直したって感じかも。茜音は大丈夫なんか?」
「ん? 疲れてないよぉ。今回は歩きまわれるように用意してきたし」
「そうなんかぁ? いつもと変わらないっつーか、寒くないの?」
1月、京都の観光としてはオフシーズンになる。冷え込みもそれなりにあるので、二人とも服装には気を付けようと事前から段取りはしていた。
それなのに、茜音の服は普段とあまり変わっていないように見えていたから。
普段あまり着衣にこだわりのない菜都実もせっかくの機会だからなのか、初めて見るグレーの厚手のコートを着ている。内側は丸襟のニットのセーターを着て下はズボンという装備だ。
そんな菜都実が寒そうと思った茜音の装備と言えば、襟にファーが付いたオフホワイトのハーフコートはよしとして、その中は確か白いブラウスに上下をあわせたベストとスカートだったはず。靴がやはりファーを付けたショートブーツだったとしても、下半身は冷え込んでしまっていてもおかしくない。
「大丈夫だよぉ。このくらいじゃ大したことないし」
「そうなん? でもそれオーバーニーじゃないでしょ?」
「うん、普通のハイソックス。その下に厚手のストッキング重ねてるから、このくらいなら全然平気」
「そっかぁ……。茜音はズボンはかないもんね」
「そうかもねぇ。小さい頃からずっとだから……」
今度は茜音がふと遠くを見るような視線をして立ち止まる。
「どうした?」
「ほぇ? なんでもなぁい。はやく帰ってごはんにしよ?」
「それ賛成だ!」
坂の上に建物の姿が見えて、二人のおなかの虫が同時になる。
思わず見詰め合って、ひとしきり笑うと坂を走り出した。
「ごちそうさまぁ」
「結構食べたなぁ」
レストランで天ぷらの定食で満腹になった食後、歩いて5分程度のコンビニで飲み物や軽いお菓子を買い込んで帰ってくる。
「うん~。菜都実ごはんお替りしてるから余計でしょぉ」
「さぁ、もう寝るだけだぞい」
「でも、修学旅行は夜がメインでしょ?」
「茜音も言うようになったなぁ」
部屋に戻ってカーテンを開ける。窓の下には中庭があり、ほのかにライトアップされた庭の向こう側には街の明かりが見えている。
「悪かったねぇ。こんなオフシーズンに来ることにしちゃってさぁ。夜になるとさらに冷え込んだ感じ?」
食後に再び着込んでいたコートをハンガーにかける。菜都実が振り返ると茜音が自分のコートを同じようにハンガーにかけていたのだが、
「やっぱり。そんな格好で足冷えなかったの?」
制服以外のプライベートではスカートをめっきり使わなくなった菜都実。一方の茜音は季節を問わず、めったにパンツ姿を見ることはない。
「平気だよぉ。いつもこんな格好だから感覚麻痺してるのかもねぇ」
「そうかぁ……。あたしは朝は制服がつらくてさぁ。太ももが毎日鳥肌でのぉ」
「学校でストッキング禁止されてないから使ってみたら? 何もないよりだいぶ楽になるよ?」
茜音は笑ってベッドに腰掛ける。
「最初はねぇ、やっぱり寒かったんだぁ。だから小さい頃は両方はいていたよぉ。あの事故の日も長ズボンだったね」
「あ……」
はっとする菜都実。そんな記憶があるならば、着るものへのトラウマがあっても当然だと思った。
「それもあるんだけど、あとは健ちゃんの影響かなぁ」
「おいおい、彼は服にまで注文付けたんかぁ?」
「ううん。別に注文付けられたわけじゃないよ。スカートの方が可愛いって言ってくれたくらいかなぁ。でもね……、やっぱりそう思ってくれたんなら、普段はスカートにしようって思ったんだろうねぇ。この前の千夏ちゃんと一緒だね」
去年の夏に会って以来の親睦を深めている河名千夏も、同じような理由で服装を選んでいるというエピソードを聞いている。
「あたしももう少し考えたほうがいいのかいなぁ? 本当に気にしないもんだからさぁ」
「でも、今日はずいぶんお洒落してきたみたいじゃない?」
「うん、まぁね……。今回は特別だよ……」
菜都実はクローゼットに脱いだコートの方を見やる。
「……でもさぁ、やっぱり茜音の服装って理由があったんだなぁ。そうすっと、やっぱ体型維持って大変?」
視線を再び茜音に向ける。同学年の中でも大柄な方に入る菜都実と、反対にかなり小さい方に入る佳織。その中間にいる茜音なのだが、それぞれ好みの服を探すのはなかなか苦労しているという。
まだ佳織は流行を追いかけるにしても小さいサイズなのでなんとかなるのだけど、菜都実はもう諦めたようで、普段着は気にしなくなってしまったというし、茜音は夏の旅で親交を深めた年下の大竹萌に型紙の作り方を教わってからは、サイズがなければ自作で乗り切る三者三様。
しかし、数年前の服が着られるということはサイズが変わっていない証拠でもある。
「あんまり意識はしてないんだけど、でも、太ったりして雰囲気が変わって、わたしって分からなくなっちゃうから、そうならないようにしないとねぇ」
「そっか、やっぱり会うまではってやつか?」
「うん、そのあとはなにも決めてない」
「本当に好きなんだなぁ。今までずいぶん苦労したってぇのに」
茜音がそこまで想いを寄せる少年とはどんな人物なのだろうか。姿は当時の写真でしか見たことはないけれど、幼い茜音と駆け落ち未遂を実行したという逸話だけではないはずで、彼女の心に絶対的な存在感を植え付けている。
だからこそ、茜音がこの先どの道に進むにしても、この10年計画の結果が半年後に出るまでは動かない。
失敗できないというプレッシャーは、本人が一番感じているはずなのに。
「茜音……、強いね、あんたは……」
菜都実にはそれが精いっぱいの言葉だった。
先に入浴に入ってもらい、菜都実は窓から外を眺めている。
茜音と出会ってもうすぐ満2年となる。その間だけでも、彼女の思いを理解されないことを原因とするトラブルを何度も見てきた。
去年の秋、偶然にも生徒会長を巻き込んだことから、茜音の一件が公けになったことで、校内の大半は彼女を応援してくれるようになった。
それまで彼女には男子からの注目を一手に集めた上、誰の告白も受け取らないという表向きのことを周囲の女子や、その騒動を問題視する教師などからもあまりいい印象は受けていなかった。
「でもねぇ、誰かとお付き合いするなんて、考えることもできなかったなぁ。それに、もし誰かとお付き合いしたところで、すぐにダメになっちゃうよ」
「そうかなぁ?」
菜都実から見る分には、同性である自分から見ても茜音は理想の彼女になりそうな感じはする。
しかし、茜音は顔を横に振った。
「わたしの場合、健ちゃんのことが大きすぎるんだよ。男の子からしたら、どうしたって健ちゃんと比べられちゃう。きっとそれは嫌だと思うよ」
「そうか。うん、そうかもな」
これは菜都実も佳織も同感だ。今の茜音は健という少年がすべてのベースになっている。
その彼は茜音の思い出の中にある姿だから、現在は仮にどうなっていようとも、今の現状では誰もかなわないだろう。
この先もし、茜音が他の男子と友達以上の関係を持つためには、その彼と再会して決めるか、それに匹敵するようなことが発生しなければならない。
それ以上、言葉が続かなくなって、二人は窓の外の夜景に再び視線を戻した。
他の都市と違い、景観を大事にする街だけあり、派手さはないが冬空にマッチしているような静けさがあった。
「京都なんて中学以来だぁ。来年の修学旅行はどうなんだろうなぁ……?」
二人の通う私立櫻峰高校では3年生の1学期に修学旅行が行われる。毎年目的地が変わるので、まだ自分たちの番にどこに行くかは決まっていない。
「修学旅行かぁ……。わたしも京都だったぁ……」
菜都実とは逆に茜音は窓から視線をそらした。
「そうだったんか。茜音って同じ中学じゃなかったよね?」
菜都実の記憶には茜音が同じ中学だったようには記憶されていない。それは同じ中学から来た佳織とも以前話しているから間違いないだろう。
「本当はね、菜都実と一緒の中学校に入学はしたんだよ。でもすぐに私立の学校に転校しちゃったんだよ」
「そうだったの?」
これは佳織も知らない事実だろう。ただ、すぐに転校した同級生がいた記憶はないから、同じクラスではなかっただけにすぎない。
「小学校の頃から、やっぱりいろいろ言われちゃってね……。中学に入ってエスカレートしそうになって……。結局転校することになっちゃったんだよ……。あのままだったら、わたしは高校進学もなかったと思うよ」
淡々と話すけれど、それは簡単に出来ることではなかったはず。
菜都実にはどう声をかけていいのか分からなくなってしまった。
「うん……、中学まではわたしの黒歴史だね……」
小さくつぶやくように話す茜音。実の両親がいない状況は彼女が自ら望んだことではない。
それどころか彼女は事故による被害者である。大人はそれが分かったところでクラスメイトには伝わらないだろうし、好奇心が優先して周囲にあわせて弱者をからかうなんてことはよくある話だ。
「でも、結局、そこでもあんまりいい思い出はなくてね……。結局変わらなかった。でも、お父さんとお母さんにそれ以上心配かけるわけにもいかなかったから……。わたしはどこに行っても一人ぼっちなんだって、ずっと思ってた。そんな中での修学旅行だったんだよ……。グループ行動だったんだけどね、時間がすぎるのを待ってた……」
茜音にそんな苦い思い出が残る京都に行くことは複雑な思いがあったに違いない。
「そうか、悪かったね。そんなところに来させちゃってさ」
「ううん、逆。楽しかったよ。ようやく前回の後悔したのが消えてきたから。ほんと、菜都実と佳織には感謝してるんだぁ。高校に来て、初めて学校が楽しくなったよ……」
普段は口にすることのない本音。部外者の目にはあの事故のことはもう過去のことだ。それに茜音も養父母に引き取られており、表向きでは被災孤児という言葉は当てはまらなくなっている。しかし、実際にはその後もそのこと自体ではなく、周囲の十分な理解がないことから、茜音は一人戦ってきていた。
「今でもね……、本当はいつまた言われ始めるか怖くて仕方ない……」
「そうなんだ……。あたしたちは絶対にないけど、他は分からないもんね。この間、公表しちゃったから陰でなにを言われ始めてるか分からないからなぁ」
「時々、学校の中で一人とか、一人で帰るときとか、なんか怖いって思うことがあるんだけどぉ。この歳で情けないよねぇ」
「それはもともとでしょうが!?」
茜音が恐がりだとは会った時から知っている。それよりも菜都実が気がついていたのは、旅先などで茜音がほとんど眠れないと言うことだ。寝ないと言うのとは違うらしく、ちゃんと寝床にはついても、ふとした気配や小さな物音にも目を覚ましてしまうらしい。
そんな時の茜音はいつも怯えたような表情をしている。自宅で睡眠不足という話は聞いたことがないので、やはり家族以外の旅先では部屋に入っても落ち着くどころかいろんなことをされてきたのかもしれない。
「もう、いいんだぁ……。今さらなにを言われても……。ただね、一緒にいてくれる菜都実とか佳織に迷惑はかけたくないなって思って……」
「なに言ってんの? あたしと佳織は、茜音が彼と会うまではずっとそばにいるから。安心していなさいって。誰にも手出しさせやしないからさ」
「ありがとう……。いつもそばにいてくれて。二人に会えて本当によかったよぉ」
茜音の言葉に嘘はない。それは今だからこそすんなり染み込んでくる。
「さぁ、そろそろ寝よか。明日もあるしさぁ」
「そだねぇ」
部屋を暗くし、ツインのベッドにそれぞれ入り込む。
「鍵もかけたからね。安心して寝なさいよ」
「うん、ありがとぉ。おやすみぃ」
「ういす、おやすみ茜音」
しばらくすると、疲れに安心も加わったためか、茜音は動かなくなり小さな寝息まで聞こえてきた。
「今夜は大丈夫かぁ……。可愛い寝顔しちゃって……」
菜都実も休もうとしたものの、こんなときに頭が冴えてしまいなかなか寝付くことができなかった。
「由香利……、悪いけどあたしが行くまで……、あの子も頼むわ……。寂しがって泣いている気がする……」
自分より先に空に向かった妹のこと、同じように幼くして家族を見送った親友のこと。……それ以外にも忘れられないこれまでの人生での出会いと別れ……。
頭の中に様々なことが浮かんでは消えた。
ようやく彼女が眠りに落ちたのは日が変わる頃だった。
菜都実が目を覚ましたときには、茜音は身支度を終え、部屋のテーブルで何かを広げていた。
「あ、おはよぉ。大丈夫だよ、寝坊じゃないから」
「そっか、焦って損した」
「そうでなくても今日は日曜日だし」
「そっかあ。なんだか最近曜日感覚も危ないときあってなぁ」
「大変だったもんね。そういうときは少し休んでいいんだよ」
昨夜、茜音の寝顔を見ていたら眠れなくなってしまったなんて言えるわけない。
それに、菜都実は初めて茜音の寝言を聞いた事実だけではなく、その内容に驚いていた。
その内容が彼女の過去の生活記憶の一部だとしたら、幼い頃の茜音はその後に待ち受ける過酷な運命などとは無縁で成長していたはずだと……。
でも、そのことを今の時間に話すことではないと菜都実の中に押しとどめることにした。
窓際のテーブルの上に広げられているのは京都周辺の地図だ。しかも、観光用のものではなく自分たちのような観光客が持ち込むには似合わない道路地図。
聞けばこの場所探しの旅を始めてから使い続けているもので、観光マップと違い誇張などがないから目的の当たりをつけるのはこちらの方が都合がいいとのこと。
「ちょっと準備しちゃうわ」
「うん」
洗面台で歯を磨きながら考える。茜音が見ていた地図は今日予定している場所よりもさらに奥地になる。そこに何かがあるのか。
ただし、茜音がこれまでに何度も人里離れた場所にも向かっていることを思い出してみると、そこに確かめたい場所があることは間違いなさそうだった。
「さて、朝飯食って出かけますかぁ」
「そうだねぇ」
テレビの天気予報によると今日は後半になるほど崩れるような内容だったから、動き出すなら早めようと話しながら部屋を出る。
朝食会場のレストランは既に先客で混雑しており、これから仕事に出かけるようなビジネススタイルの人、自分たちと同じように観光に来ているらしい人と混じっている。
「あれ、あの三人も同じホテルだったんだぁ」
「あ、ほんとだ」
茜音が気づいたのは、昨日自分たちと同じようなコースで回っていた三人連れだった。
大学の入試が終わった高校3年生なら少し早い卒業旅行などと気にもしないかもしれない。
ただ、どう見ても年齢層が違うし、男女混合という組み合わせ。
恐らく、女子二人は姉妹なのだろうとの予想はあった。それは同じ髪の色や形は違っても同じ色のリボンを髪に留めていたことからも想像に容易い。
一番年長に見える少女がポニーテールのアクセント。もう1人は両サイドにやはりトレードマークのように結んで、残りは肩口まで自然に降ろしている。
疑問はもう一人同行している男子の方だった。年齢的には恐らく妹と同級生くらいなのだろう。ただ、感じられる雰囲気からは兄妹というようなものでもない。
茜音も菜都実も三人を見かけては、どういったグループなのかと話題になっていたものの、答えを出せたわけではないし、そこまで聞く必要もないと思っていた。
そんな前日のことを思い出していると、混雑のために相席でも構わないかと聞かれ、頷いた二人が案内されたのは偶然にも例の三人のテーブルだった。
「失礼します……」
先にテーブルに着いていた三人にも相席の了承は取っていたのだろうが、そこに案内されてきたのが、茜音と菜都実ということにも驚いてる様子だ。
すぐに確かめるように、
「おはようございます。昨日も所々でお見かけしましたね」
と声をかけてきたことからも、お互いに存在が気になっていたことが分かる。
遠目ではよく分からなかったが、近くで見ると、やはり年齢差がある組み合わせだと分かった。声をかけてきた彼女の方が年上らしい。
「やっぱりそうだったねぇ」
「茜音も目立つからねぇ……。お互いチェックしてたってことか……」
そのやりとりを聞いていた三人が目を丸くした。
「あ、あのぉ……」
それまで黙っていたもう一人がおずおずと口を開いた。
「なにぃ?」
「い、今、『あかねさん』て言いましたか……」
「うん。あ、自己紹介してなかったね。わたし、片岡茜音。こっちは友達の上村菜都実だよぉ」
その名前を聞いて、三人とも顔を見合わせる。
「ひょっとして……、10年ぶりの再会のためにその場所を探してるって……」
「ほえぇ? なんで知ってるのぉ?」
思いがけず、初めての相手から自分の情報がでてきたことに、茜音の方が驚いた。
「うちの学校では結構有名ですよ。あ、申し遅れました。私、葉月美弥と言います。お二人よりひとつ上の高3です。こっちは妹の真弥で中3です。その友達で同い年の坂本伸吾くん」
姉の美弥が答える。続けて彼女たちもこの連休と試験休みをつなげてやってきたことを教えてくれた。
「そうなんだぁ。ちょっと恥ずかしいなぁ」
「去年の夏休みにSNSにも登録して、写真を見たりしながら凄いなぁってずっと思ってたんですよ。本当に会えるなんて感激です」
自分のことをネット上で知ってくれたという人物に会い、茜音は少し恥ずかしい気がしたが、真弥は茜音に会えたことが本当に嬉しいようだ。
「今日は、どんなルートで回られるんですか?」
「そうだねぇ、今日は金閣寺の周りとぉ、後半は茜音の調査が中心になるのかな?」
明日には横須賀に戻ることにしているので、観光はなるべく早く終わらせ、茜音の時間を多くとれるようにするつもりだった。
「もし……、お邪魔じゃなかったら、一緒に行ってもいいですか……?」
「真弥、迷惑になっちゃうわよ それに伸吾くんはどうするの?」
美弥が指さしたのを見て、茜音と菜都実は、伸吾が歩行に杖の補助が必要なのだと瞬時に理解した。
「どうする茜音?」
突然の真弥の申し出に、少し考えていた茜音だが、
「いいよ。でも、他に見たいところがあるなら、そっちを優先してね。面白いものじゃないし、それに道の悪いところも行くから、絶対に無理しないでね。伸吾くんはどうしたい?」
「俺は……、もし邪魔でなければ一緒に行ってもいいですか? 葉月がずっとこのことをいつも話してくれていたんで……」
「茜音、大丈夫? あたしもついていこうか?」
菜都実が心配そうに聞きてくる。茜音の現地調査は興味本位で行けるものではないことを知ってのことだから。
「ううん大丈夫。そういう場所に行くときは、きっと真弥ちゃんも安全なところにいてもらおうと思うから」
「そっか……」
もともと茜音は菜都実とは別行動にすることを考えていた。一人で行くことを考えれば、一緒に来てくれる人がいるのは心強いが、場所や状況が通常の観光とは全く違うだけに、せっかくの機会を自分のためだけの時間にしては申し訳ない。
「大丈夫です。もしそれまでに少しでも体調がおかしくなったりしたら行きません」
「分かった。じゃぁ一緒に行こう」
「はい!」
五人は朝食をそこで切り上げ、1時間後にホテルのロビーに集合することにして分かれた。
「まさかなぁ、こういう展開になるとは思ってなかったわ」
「そうだねぇ。でもいいんじゃないかなぁ。菜都実はその時間ゆっくり観光しておいでよ。昨日の修学旅行の続きだから」
茜音はそう告げながら、親友の肩を優しくたたいた。
「へぇ、さすが金閣寺は教科書通りだねぇ」
金閣寺というのは正式には北山鹿苑寺というが、前日回った銀閣のある東山慈照寺とは対照的に、文字通りの堂々たる風格を見せている。オフシーズンに関係ない観光客の多さはさすがの知名度と言うところか。
「さっきのおみくじはどうだったのよ?」
「うぅ、小吉ぃ。凶よりはよかったけどぉ」
「なるほどね。さっさと結んじゃったわけだ」
「いいじゃん~。菜都実は大吉だったんだからぁ」
伸吾のことも考え、1台のタクシーに乗り合わせ、予定通りの観光ルートを回っている一行だった。
その間にも、特に茜音に憧れを抱いていたという真弥は折を見てこれまでの話を聞こうと質問を浴びせていた。
「そんなに焦らなくてもあとでゆっくり時間あるでしょ?」
「だってぇ」
「いいんだよぉ。なんか恥ずかしくなっちゃうけどねぇ」
一通りの拝観を終え、和菓子と抹茶をいただいて一息をついていた。この後は嵐山に向かい、真弥と伸吾は茜音に同行して調査に向かう。菜都実と美弥は引き続き市内の散策となっていた。
「しっかし、今日は雨降らなくてよかったねぇ」
「ホントだね。あんまり予報よくなかったんだよね」
朝の天気予報が話題に上がったけれど、今の時間は冬の青空がすっきりと広がっている。
「おし、そんじゃ出かけますか」
菜都実が立ち上がったのをきっかけに、残りの面々も店を後にする。
タクシーで渡月橋の近くまで乗せてもらい、そこで分かれることになった。
「それじゃ、夕方にみんなでご飯食べよぉ」
「茜音、あんた一人じゃないんだから無理させないのよ?」
「ほぉい。ゆっくりで大丈夫だからねぇ」
三人が駅の方に歩いて行くのを、菜都実と美弥は見送っていた。
「真弥、本当に嬉しかったのね」
「そうなんですか?」
「あの子、ずっと茜音さんに憧れていたの。その人と一緒にいられるんだから。伸吾君も気の毒に……」
美弥は苦笑している。
「茜音って、そんなに有名ですか?」
保津川にかかる渡月橋を渡りながら、並んで歩く美弥に菜都実はたずねる。
「そうですねぇ。結構知っている人は知っているみたいですよ。勝手ファンサイトもできているみたいだし」
「ファンサイトだぁ?」
目を丸くした菜都実。基本的にはSNSからスタートした茜音の情報収集は、本人の報告はもちろん、その後行った場所を紹介するために佳織の手によってメンテナンスがされている。
それだけならまだしも、美弥の話ではそんな茜音を応援するためのアカウントがあちこちにできているというのだ。
「あんな茜音でも、やっぱ影響力は凄いんだなぁ」
「私もこういうことは初めてですけど、実際にお会いしてみると真弥が茜音さんを追いかけていたのが分かる気がします。私も見習わないといけないところはたくさんあると思うんですよ」
「あんなのが何人もいたら、周りがたまんないです!」
普段、茜音のお守り役を自負する菜都実が思わずため息混じりに言うと、二人は顔を見合わせて吹き出した。
「真弥は人見知りが激しいから、ああやって初めての人とすぐに話せるなんて信じられないんですよ」
三人が行ったほうを振り返る美弥を菜都実はじっと見ていた。
「なんか付いてますか?」
「あ、ううん。真弥ちゃんいいなぁって。ちゃんと見ていてくれる人がいるから……」
最後の方は顔をうつむけて、小声になった菜都実。
「真弥はこれまで本当に苦労してきたから……。それでも今はよくなってきたけど、まだまだだですし……」
「真弥ちゃん、可愛いですか?」
「もちろん。真弥がいないなんて私には想像できない。体は弱かったからハンデもたくさんあったけど、本当に優しくていい子だから……」
美弥の言葉には実感がこもっているように菜都実には感じられた。
「そうなんだ……。あたしなんか……、同じ姉として失格です……」
「菜都実さん?」
立ち止まって橋の欄干にもたれかかった菜都実を美弥は支える。
「あたしは……、妹を助けられなかった……。姉として失格です……。この旅行は、あたしのために茜音が計画してくれて……」
「そうだったんですね……」
さっきまでとは違い、打ちひしがれたようにおとなしくなってしまった菜都実に美弥は少し時間を置くことにした。