【茜音・高校2年・夏・天竜川編】
「ねぇ佳織……。『夢空職人さん』って聞いたことある?」
「ん?」
ウィンディでのバイトの時間。テーブルの後かたづけをしながら片岡茜音はカウンターの中にいる友人の近藤佳織に話しかけた。
ここは二人のクラスメイトで遊び仲間の上村菜都実の父親が開いているカフェ喫茶。
横須賀の海岸線沿いにあるこの店は、休みともなると朝晩問わず人が集まってくる。
オーナーである菜都実の父親も、娘の友達二人が仕事を覚えてくれたのが分かると、自分の所有しているクルーザーを出してしまうという始末。
夏休みで人が増えるといえども、特に忙しい時間帯でもなければ、三人で何とか回せる。お客さんから聞いた話によると、彼女たち三人が給仕をしてくれるこの店は、仲間内で密かな評判を生んでいるとのことだった……。
店内のテーブルや椅子を片づけて茜音が調理場に戻ってくる。白いフリルの付いた可愛らしいエプロンは茜音が自前で用意した物で、それも自分で作ったという。
そのエプロンから茜音はスマートフォンを取り出した。
「あのね、千夏ちゃんが教えてくれたんだぁ」
彼女は佳織にメール画面を見せた。
メールの送り主は河名千夏といい、高知県の小さな町に住む高校生だ。
夏休みに入ってすぐ、茜音は一人で彼女の元へ飛んだ。二人は一緒になって茜音の思い出の場所である橋の場所を探し出そうとした。
結果的には空振りに終わったのだけど、その時に茜音が千夏の恋を応援して成就させたことをきっかけにして、二人は非常に仲がよくなり、メールや電話での連絡も頻繁に続いている。
「あー、あのサイトかぁ……」
メールを読み終えた佳織は思い出したように言った。
千夏からのメールには、偶然インターネットで風景写真のサイトを見つけたこと。その写真が茜音の探している風景に近いこと。その作者に聞けば何らかの情報が得られるのではないかと言うことが書かれていた。
「知ってんの?」
菜都実が尋ねる。茜音の思い出の地を探すためにSNSへ登録している彼女たちでも、そのハンドルネームには聞き覚えがない。
「うん、風景写真じゃ結構有名どころ。昔はよく雑誌とかにも掲載されていたはずなんだ」
佳織は一時期写真を撮ることに熱中した時代があったという。そのころの雑誌にあった名前だというのだ。
「へぇ。そんな人がいるんだ」
「うん。でもねぇ……」
佳織が呟きながらテーブルに置いてあったタブレットを手にする。しばらくしてホームページが表示された画面を見せてくれた。
「ここ。んー、やっぱり今年もまだ更新されてないか……」
「どれどれ?」
他の二人も画面をのぞき込む。
「これ、確かに凄いねぇ。でも、更新は1年前だよ?」
そのサイトには、街中から山奥、海岸などの風景写真がたくさん掲載されている。
写真には大抵場所と撮影日が書いてあり、この写真の撮影者が全国をあちこち歩き回っていることがよく分かる。興味深いのは渓谷などの写真に鉄橋などが写っている物が多いことだった。
当然すべての写真を掲載しているわけではないだろう。でも話を聞いてみるには十分すぎる雰囲気だ。
しかし、茜音が指摘したように、このサイトの更新日は昨年の日付になっている。
「そうなの。このサイトさぁ、普通年に1回。多くても2回の更新しかしないんだよね。たぶん、毎年のペースだともうそろそろ更新になるはずなんだけど……」
ウェブサイトの更新として、年に1回と言うのは確かに少ない方だ。しかし、これだけの写真を掲載する作業は大変な物かもしれない。
「あとねぇ、最近この人を生で見たことがないって言うんだよね。女の人なのは確からしいんだけど。私も会ったことないよもちろん」
「へぇ、女の人なんだぁ」
これだけ奥地に入って撮影を行う人物像として、それなりに体力のある年上の男性を想像してしまう。
「女の人ならまだ話を聞いてくれるかもしれないよ。ちょっと連絡してみたいなぁ……」
「とりあえず、サイトに行ったわけだから、挨拶だけしてみよう。いきなりあの話を持ち出すわけには行かないでしょ?」
とりあえず、三人は連名でそのサイトの管理者にメールを書くことにした。サイトの感想や、少し話を聞きたいという内容で。
「これで返事が来たら教えるよ」
「分かった」
もうすぐランチタイムになり、またお客さんの数が急に増えてくる。
夕方、菜都実の父親が帰ってきた頃には三人とも疲れて、送信したメールのことも忘れてしまっていた。
数日後の土曜日、三人は横浜市内の外れにある駅の前で、その人物を待っていた。
「まさか横浜だったとはねぇ…」
菜都実が驚いたように見回す。
近所の市と言えども、その広さは半端ではない。鉄道の路線は何本もあり、その駅はいくつあるか数えたこともない。
「でも、よく会ってくれるって言ってくれたね」
「茜音のあの話を聞いたら、優しい人ならOKしてくれるよ普通……」
菜都実が言うが、ここまで来るにはそれなりに大変だったのだ。
メールのやりとりが進む中で、管理人である夢空職人嬢と直接会って、写真の撮影場所などの話を聞きたいと提案したのだが、なかなかいい返事はもらえなかった。
仕方なく、茜音がこれまでの経緯を話し、もしかしたらこれまでに撮影で訪れたことのある場所に、探し求める場所があるかもしれない。その協力をお願いしたいという内容を書いた。
驚いたことに、すぐ返答があり、落ち合う駅と時間、そこに迎えに行く人物の特徴と画像を送ってきてくれたのだった。
「それにしても、可愛らしい子だよねぇ」
「この子本人じゃないでしょう? いっくらなんでも若すぎるよぉ」
「妹さんなんかなぁ」
プリントした写真を見ながらそんな話をしていると、待ち合わせの時間になった。
「ねぇ、あの子かなぁ?」
茜音が中学生らしいセーラー服を着た少女を見つけた。
彼女もすぐに三人組に気づいたらしく、小走りでやってきた。
「あの……、片岡茜音さんですか?」
「うん、あなたが迎えに来てくれた人?」
茜音が答えると、その少女は安心したように微笑んだ。
「はい。私、大竹萌と言います。お待たせしてすみません」
と頭を下げた。
今時の中学生にしてはかなりしっかりしている部類に入るだろう。
大きな瞳が特徴の可愛らしい顔立ちに、背中まで届く黒く艶のある髪の一部を左上でヘアゴムを使ってサイドテールにしている髪型。
学校の制服であろうセーラー服の着こなしも上下ともきちんとしていて、一目見ただけでも彼女の性格を表しているように見えた。
茜音からみたとき、高知で知り合った千夏の印象に近いことから、探せば同じような子はいるのだと不思議に思った。
駅前の商店街を萌に導かれて歩いていく。15分ほど歩いた住宅地の一戸建ての前で一行は足を止めた。
「ここです」
萌はスカートのポケットから鍵を取り出し扉を開ける。
三人をリビングに通すと、萌は冷えた麦茶を出してくれた。
「今、ちょっと着替えてきますね」
階段を上がって行く姿を、嬉しそうに見送る茜音。
「可愛い子だよねぇ。あんな妹いたら可愛がっちゃうなぁ……」
「茜音ぇ、あの子は違うでしょ? それにしても他の人は留守みたいよ?」
「あ、そっか……」
そう。ここに来た目的は、例のサイトの管理人に会うためだ。その妹に会うためではないのだけど……。
その疑問は数分後には驚きに入れ替わることになった。
しばらくして萌が階段を下りてきた。薄いピンクのシャツにアイボリーのサスペンダースカートを着ている。両手にはたくさんのアルバムを抱えていた。
「お待たせしました……」
「あの……、萌ちゃん?」
「はい、分かってます……」
萌の表情が、悲しそうなものになった。
「ご紹介します。ハンドルネーム、『夢空職人』さんです」
「え?」
萌が額に入った写真を持ってきた。そこには彼女のお姉さんとおぼしき女性の写真が収まっている。ただ……、
「亡くなった……?」
萌は申し訳なさそうにうつむいていた。
「複雑そうな事情ね。よかったら説明してもらえるかな?」
事態をつかめないでいると、佳織が優しく萌に話しかけた。相手を責めることなく、やんわりと理由を聞いてくれる佳織はこんなときの突破口でもある。
「本当の夢空職人さんは、私の亡くなったお姉ちゃんです……。でも、あのサイトに関わるときだけ、今は私がその後を継いでいるんです。もともと私のハンドルで出ることはなくて……」
萌は少しずつ話し始めた。
悲しい物語だった。もともと萌は五人姉妹の四女で、一番上の優子お姉さんと一番仲がよかったという。
しかし複雑な家庭の事情で、その彼女は親戚などからも冷遇されていたという。同時に優子に一番懐いていた萌にも被害はあったそうだ。
ある時カメラをもらい、妹たちの写真を撮ったところから、彼女の写真を撮ることが始まったという。当時高校生だった優子は、萌を連れてあちこちに写真を撮りに出た。
当時優子もまだ高校生。車を運転するわけにも行かないので、電車やバスを使っての旅行だったという。そして、その頃から作品の一部を雑誌などに投稿していたというわけだ。
姉妹の母親代わりでもあった優子を病で亡くしたのは4年前。父親は仕事柄海外赴任。今は姉妹四人での生活を続けているという。
「それじゃ、萌ちゃんはもう4年も? それで最近は投稿しなくなった訳ね?」
「はい……。そんな腕はないし、まさか私が投稿するわけにも行かなくて……」
さすがに、姉が亡くなってからは雑誌への投稿はやめ、亡くなる直前に立ち上げたホームページを更新するだけにとどめていたという。
「本当は閉鎖しようとも考えたんです。でも、いろんな方から続けて欲しいと言われていて……。まさかお姉ちゃんが亡くなったとも言えなくて……。理由になっていないかもしれないですけど……」
「じゃぁ、去年とかの写真は、あれは萌ちゃんが撮ったの?」
「はい……。学校のお休みとか、部活の旅行に行くときに撮ってきます」
感心したように佳織はうなずいた。
「あれだけ上手なのを中学生が撮ってるとは思わなかったなぁ。ジュニアの部なら、絶対に賞とれるよ!」
三人とも、彼女の行動を責めようと思う気持ちにはならなかった。姉の意志を継いで活動を細々とはいえ続けていることは逆に感心すべきことでもある。
「じゃぁ、萌ちゃんもあちこち見て回っているのなら、萌ちゃんに直接聞いても構わないよね?」
ことの内容が分かったことで、佳織は続けた。
「茜音さんの橋のことですね。私もどこかはよく分かりません。候補はたくさんあると思います」
「うん、わたしもそう思う。逆に候補が多すぎるんだよぉ。それにたぶん超マイナーどころのような気がするし……」
ようやく自分の話題に移ってきたので、茜音は佳織から話を受け継いだ。
「そうですね……。でも、なんとか見つけたいですよね。橋と聞いていたので、お姉ちゃんと私の写真からいろいろ集めてみたんです。まだ行っていない路線もたくさんあるんで、はっきりとは言い切れないんですけど……」
茜音はテーブルの上に広げられた写真に目を通した。明らかに違うと思うのもあれば、確かめてみたくなるような場所もある。
「うー、やっぱりこれだけあると、当たれるだけ当たってみるしかないのかなぁ……」
茜音が顔をしかめる。
萌は茜音が選んだ中から1枚の写真を抜き取って言った。
「この橋の写真は愛知県の奥の方で、周りは同じような景色が続いてるんです。今度、その近くに用事がありますが、行ってみますか?」
突然の話に顔を見合わせる三人。
「前は茜音に単独行動されちゃったから、今度こそ行きますか」
「うん」
菜都実の一言が次の行き先を決めてしまったので、三人は急いで準備に取りかかることになった。
週明けの月曜日、茜音たち三人は東京駅の新幹線ホームで萌を待っていた。
「やっぱ早く着きすぎだよぉ……」
「仕方ないじゃん。今日はうちらだけじゃないんだからさぁ」
夏休みの東京駅は、通勤時間以外でもそれなりの混雑を見せる。これがお盆などになると大変なことになるのだけど、今日はまだそれほどでもない。
「しかし、よく食べるねぇ……。朝ご飯食べてこなかったのぉ?」
茜音がペットボトルのお茶を飲みながら菜都実を見る。
「だってぇ、今日はお店お休みにして船を出すって朝早くから準備始めちゃったから、あたしの朝ご飯なんて……」
ふくれ顔の菜都実。それにしても、東京駅で買った駅弁をすでに2つも平らげているのは、それだけではないような気もする。
「そういえば、萌ちゃんもう一人一緒に行くって言ってたよね」
食べっぱなしの菜都実をあきれ顔で見ていた佳織が、茜音に言ったとき、
「おはようございます」
聞き覚えのある声がして、三人はそちらを見た。
「えっ?」「ほぇ~~!!! 分裂してるぅ!」
最初、全員が見間違いではないかと目を疑った後、茜音は思いきり叫んだ。
ボストンバックを提げて立っている萌の横に、全く同じ顔をしたもう一人が立っていたのだから。
「脅かすつもりではなかったんです。わたしの双子の姉で、美保と言います」
「そっかぁ。双子じゃぁ仕方ないよねぇ。見分けるの大変だぁ……」
萌に紹介され挨拶をした美保。服装を除けば見た目は全く同じなので、佳織が苦笑するのも仕方ない。
「萌とあたしは性格と服装が全然違うから、それでみんな見分けてます」
「それじゃぁ、学校の制服着たら大変でしょう!?」
「うんうん。制服着て黙ってたら絶対に分からなさそう」
「もう、周りも慣れたみたいです……」
「そうかぁ。あれ? 菜都実どうしたの?」
さっきまで猛烈な勢いで弁当を平らげていたはずの菜都実の表情が、この美保と萌姉妹が現れてから、突然冴えないものになってしまった。
「え? なになに? ほら、揃ったなら早く行かないと席なくなるよ!」
茜音に言われて我に返った様子の菜都実は、荷物を担ぎ上げると列車を待つ列に並んだ。
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「そうなんだぁ、それじゃあもう慣れたって仕方ないよねぇ」
無事に自由席に五人分の席を確保した一行を乗せた新幹線は定刻で東京駅を発車した。
茜音たち三人とも、ここまでそっくりな一卵性の双子を見たのは初めてだったので、どうしても話題はそこに集まってしまった。
「生まれたときからずっと一緒ですから、もう気にならないですよ」
萌が話す。
ここまでの短い時間でも分かったことは、彼女たち双子は見た目は同じでもその性格や趣味などが全く正反対だというものだ。
いくら一卵性の姉妹と言えども、見た目とは違い性格までは似なかったようだ。
どちらかと言えば外向的な姉の美保と、対照的に内向派の妹の萌。服装も美保の方がラフなものを着ている。
その服装のことで、茜音がどうしても萌に聞きたいことがあった。
「ねぇ萌ちゃん。今日って私服だよね……?」
「はいそうですよ。この前のセーラーが学校の制服です」
そう尋ねたくなるのも仕方ない。今日の萌の服装は白いブラウスの上に夏らしい薄目のマリンブルーに白いラインチェック地の前開きベスト、スカートも同じ生地で襞の入ったもので、少しお洒落な私立の学校などの制服として見間違えられそうだ。
「そうだよねぇ……。でも、どこのブランドなんだろ……。この前から、こういうの売ってるところ探してみたんだけど全然ないんだよね……」
どうやら先日初めて会ったときから、茜音は萌の服装を見て、そのセンスの良さから手に入れたいと思っていたらしい。
すると萌ではなく美保が口を開いた。
「これは確か萌の手作りだよね」
「ほえーー?!」 「え? これ自作なの?」
茜音だけではなく他の二人にまで目を丸くされ、恥ずかしそうに萌は頷いた。
「はい、生地だけ買ってきて自分でミシンで縫ったものです。この前着ていたスカートもそうですよ」
「そうなんだぁ。じゃぁどこを探してもないよねぇ……」
萌は着ていたベストを脱いで茜音に見せてくれた。確かにどこにも製造元やブランド名を書いたタグがない。夏らしく薄手の生地だけど、縫製もしっかりしていてとても中学生が作ったとは思えない。ところどころに彼女らしい細工が施してあって、バックルなども可愛いデザインを使っていたり、背中側の腰のあたりにも飾りベルトの布をリボンのように結んで縫いつけてある。
「茜音こういうの好きなんだよねぇ……。そうかぁ、自作かぁ……」
「茜音も自分で作れるようになればいいんだよ!」
「うぅ、でもこんなの型紙がないと作れないもん……」
茜音も裁縫にはそこそこの腕を持っている。バイト先で使っているエプロンだけでなく、佳織や菜都実が持っている小物を入れておく袋などは茜音の手製だし、学校で制服のボタンが取れても、彼女に渡せばわずか数分の早業だ。
そんな彼女もここまでの洋服を作るのはまだやったことがない。
もっとも、茜音の言うとおりこれだけの洋服一式を作るとなると、その為の型紙だけでも大変なことになる。型紙だけならその手の本などにも載っていたりもするのだが、それを自分のサイズにするのが大変だから。
「これ、お姉ちゃんの制服が型の見本なんです……。だから制服みたいなデザインになっちゃったんですよ」
「なるぅ。そっか、その手があったか……」
もとが実際のサイズなら少しの手直しだけですむ。
「でも、なんでこんな凄いの作るようになれちゃったの?」
「デザインは好きなのがあっても、どうしても色とかが自分好みにできなくて……。あとあまりお金に余裕もないですから。だったら作っちゃえって……」
だから、型紙も自分で起こせるようになっているとのことで、茜音の採寸も約束してくれた。
豊橋駅に到着する。在来線なら名鉄や快速列車の停車駅として存在感のある駅だけど、新幹線だと「のぞみ」はもちろん、「ひかり」でさえほとんどが通過してしまう。
「まだ時間はあるよね?」
階段を下りながら、予定を確認する。
「次の岡谷行きまで、1時間半あります」
「その前の列車じゃだめなの?」
「菜都実ぃ、調べたでしょうがぁ……」
この先は飯田線に乗り換えての旅。
途中の豊川までは本数も多い。その先になると線路も単線になり、1時間に1本程度のローカル線となってしまう。
茜音たち三人も事前にもらった情報を元に調べて、探索の地域はまさにその超ローカル線地帯になるという事が分かり、案内役の萌がいなければ候補から外してしまいそうな地域だ。
「少し早いですけど、お昼にしますか?」
「あたしいつもの洋食屋さんがいい!」
「そこ美味しいの?」
萌の提案に真っ先に答えたのが美保で、すぐに菜都実が喜々として続く。
「うん、大きくて美味しいよぉ」
「菜都実さぁん? あんたまだ食べる気……?」
東京で駅弁を二つ平らげ、車内でもずっと何かをつまんでいたように思えるから、さすがにと思っていたのだけど、どうやらその考えは甘かったようだ。
「もち! 旅行の時は胃のリミッターが外れるみたい」
「はぁ……」
茜音と佳織のため息があまりにも大きかったので、萌はたまらず口を押さえて笑い出してしまった。
「分かりました。菜都実さんと美保ちゃんは大盛りで注文してくださいね」
美保に任せたお店で全員が空腹を満たすと、ホームに列車が入ってくるところだった。
「2両?」
「菜都実は初めて? この前の千夏ちゃんのところは1両で走ってるよぉ」
「まだ『電車』ってとこだけマシと思いなさいって」
「佳織、なにげに鉄道マニアか?」
「鉄子ちゃんとでも呼んでくれる?」
「誉め言葉かそれ……?」
これまで茜音が二人と一緒に出かけてたのは、少なくとも電車で十分に身動きがとれる地域で、列車も5両近い編成で走っていることがほとんど。全国に目を向ければ1、2両で走っている路線はいくらでもある。
幸い車内はそれほど混雑していなかったので、左右両方側にシートを確保できた。
「ここからは1時間以上かかりますから……。近くなったら教えますね」
通路向かい側のシートに座っている萌が教えてくれる。美保と萌が左右に席を取ったのには理由があったのに気づくのは少し先のこと。
列車はしばらく住宅地を走っていく。豊川を通り過ぎて、線路が単線になると、少しずつ様子が変わってきた。
「だんだんと景色が変わるなぁ……」
まだ市街地を走っている内はいい。前方に見えてくる山に近づくに従って、車窓は少しずつ緑が多くなってくる。水田や畑なども多く見られるようになる。
「茜音さん、そろそろ窓に注意してください。高い鉄橋が2本来ます」
「はう。ありがと」
他の二人もやはり気になるので、窓の外を注目する。
鳥居の駅を出発してすぐ、豊川に合流する2つの川を渡る。そのときの風景に注意するようにとのアドバイス。
一瞬の間に、次々に水面まで20メートルクラスの鉄橋をクリアする。
「あ~、もう少しよく見てみたいなぁ……」
すぐに通過するだけに、あまりじっくり見てはいられない。
「大丈夫です。一応写真も用意してありますから。でも先に見ちゃうと先入観が入っちゃうと思って……」
窓の上半分を開けて、同じように外を見ていた萌。
写真は撮ってあるのだけど、とりあえず実際に見てもらった方がいいという計らいだったらしい。とても、中学生には思えない気配りだ。
「でも、ぱっと見た感じはどう?」
「ん~、たぶんあんなに大きくないかもしれないなぁ……」
川の水量なんてものは、時期やその日でも変わってくるので、あまり当てにはならないのだけれど。
「両側から見たかったねぇ……」
「そう思って反対側は写真を撮っておきました。あとで見てくださいね」
「そうかぁ……。せっかく反対側にも席あるんだから見れば良かったよねぇ……」
それでもまだ萌が写真を撮ってくれたというのが慰めだった。
「もうすぐ着きます。忘れ物ないようにお願いします」
そう言っている間にも、列車は川沿いを上っていく。
「あそこいいなぁ~」
線路と反対側の川岸は、水遊びが出来る公園として整備されており、車で遊びに来ているのが見える。
「荷物置いたら、近くの河原に美保ちゃんに案内してもらってください」
「もう、ワンパターン扱いしてぇ……」
「あれ? 行かないの?」
「行くってば!」
窓の外を眺める暇もなく、電車は小さなトンネルを抜けたところの駅に到着した。
「ここも変わっちゃったねぇ……」
「そうだねぇ」
双子の姉妹が小さなコンクリートでできた待合室を見て話している。
「どうかしたの?」
「いえ……、大丈夫です。すぐですから早く行きましょう」
茜音は一人たたずんでいた萌に話しかける。すぐに彼女は表情を戻して先に進んでいる一行に続いた。
「あぁ~~~、疲れたぁ……」
「本当に菜都実は今回リミッターなしだね……」
「明日が本番なのに今日疲れ切ってどうすんのよ!」
夕食も終わり、先にお風呂をいただいていた三人。広い畳部屋に入ったとたん、菜都実が大の字になって倒れ込んだところだ。
「だってぇ、美保ちゃん元気なんだもん。年下には負けられないっす~!」
「だからってさぁ……」
「まぁまぁ。楽しんでくれているみたいでよかったよ」
茜音も前回の千夏の地元では一緒になって夜遅くまで起きていたことを考えると、あまり言えたものではない。
この場は佳織に任せておくことにしていた。
「どうしたの茜音?」
そんな二人の会話からいつの間にか離れ、一人窓の外を見ていた茜音に気づく二人。
「ううん。なんでもない……」
しかし、茜音はあの双子のうちのどちらかが一人駅の方に向かったのを見ていた。暗くてはっきりとどちらかは見分けられなかったけれど……。
体力を使い果たした菜都実と、以前から旅行に行っても寝付きのいい佳織が先に寝息を立ててしまったので、茜音は部屋の明かりを消して、そっと庭先に出てみた。
雲もなく月明かりがあるので、思ったほどの暗闇ではない。
「もう夜も遅いですよ?」
家の方から声がした。美保たちの一番上の姉、あの優子の祖父で、この家の主でもある。
今回の旅行のことも萌とこの老人の協力でこの家を拠点にすることができた。
「はい……。なかなか寝付けなくて……」
「それはいけませんね」
彼はそう言うと、縁側にお茶の用意をしてくれた。
「茜音さんとおっしゃいましたか。あれから……、ずいぶん苦労をなされたでしょう」
「はい?」
意外な言葉だった。確かに美保と萌姉妹には事の発端から話してある。
しかしすべてを話したのは今日の新幹線の中で、そのあともずっとみんな一緒にいたので、彼女の話はこの老夫妻は知ることもなかったはずだった。
「あれから……、もう12年ですか……。大きく立派になられて……」
不自然なくらい、その老人は茜音に丁重だった。何か大切なものを思い出しているような。
「あの……」
「ええ、不思議だとお思いかもしれません。覚えていなくても不思議ではありませんよ。でも、私はあなたを覚えていますよ。数少ない生存者でしたからね」
老人は茜音を愛しげに見つめていた。
「どこで……?」
少し脅える茜音の様子に、彼は心配させないようにゆっくりと話し始めた。
「あれは……、初日の捜索が終わってからでした。ふと山を見ると、ぽつんと明かりが見えました。残骸が燃えているのかと思いましたが、双眼鏡で見ると誰かが火を絶やさないようにしているとしか思えない。『生存者がいる』と騒ぎになり、朝まで出発を待つという命令を無視して、私は仲間を連れてその場所へと急ぎました。そこにいたのが、まだ幼かった女の子でしたね……。あの子と、今日ここでお目にかかれるなんて、不思議なご縁です」
「わたしを助けてくれた方……ですか……?」
事故当時のことはもうあまり思い出すこともなく、記憶の中に固く封印されている。しかし、「大丈夫ですか?」と夜明け直前の薄明かりの中で声をかけてくれた人がいたことは思い出せる。
「あの時はまだ幼かったですし、寒い中でひどく汚れていて「とにかく病院へ急げ」と、お名前を伺うことすらできませんでした。それでも間違いなく女の子をヘリコプターの隊員に引き継いだのは覚えています。こうして年月が経って再びお会いしたときに、あの時の女の子だというのが直感で分かりましたよ。よくご無事で……」
「そんなぁ……。びっくりしました……」
あのとき、自分たちを見つけてくれたことは何度お礼を言っても足りないと思っていた。
すぐに救助ヘリコプターに吊り上げられたこともあって、お礼を言うこともできなかったのだから。
自分たちを救助してくれた恩人が目の前にいる。
「今までお礼も言えなくて……。見つけていただいて、本当にありがとうございました」
衝撃の事実を知り、茜音はすっかり眼が冴えてしまっている。
「あのときはお母さまもご一緒でしたね。今もお元気ですか?」
彼ら救助隊は茜音たちを発見してくれ、ヘリコプターを誘導してくれるまでだったので、その後の事は知らされていないのだろう。
茜音は力無く首を横に振り、救助搬送された先の病院で母を看取ったという12年越しの事実を伝えた。
「そうですか……。それでは本当に苦労をされたでしょうに……。萌ちゃんからみなさんの事は少し聞いてはいたのですが……」
茜音はあの後のことを簡単に話した。
そして今回、この地にやってくることになったきっかけについても。
「そうですか。是非見つけてください。それが茜音さんにとってこれからを生きていく希望になるのでしたら」
「本当に、今回は萌ちゃんにお世話になっていて……。でも、萌ちゃんはなにかこちらに近づくにつれて顔色も冴えなくなって……」
東京駅で会ったときはそれほどでもなかったけれど、こちらに近づくにつれ萌の表情は少しずつ影を落とすようになっていた。
誰も指摘してはいないのでそれは茜音にしか気づかない位なのかもしれなかったけれど……。
「萌ちゃんがねぇ……。あの子だけは他の子たちと違って、まだ立ち直れないんですよ……。毎年、この時期になると決まって訪ねてきてくれます。でも、それが……」
前に聞いた話では、異母姉妹でありながら、母親代わりの姉妹自慢の姉であり、この老人の孫にあたる優子が亡くなってから、もう4年の月日が経つ。
普通ならばそのくらいの月日が経てば、ある程度は吹っ切れてきてもおかしくはない。
茜音と違い、一人になってしまったわけではなく、三人もの姉妹が一緒にいてくれての話だ。
よほどのことがなければ、ここまでに陥ることは珍しいかもしれない。
「そうですね……。でも、わたしも時々、あのときのことを思い出してうなされます。飛行機も今は平気だけど、昔はだめだったから……」
「こんな事をお願いしては、大変失礼かもしれませんが……」
老人は茜音の方を向いた。
「はい?」
「今回限りではなく、萌ちゃんのことをこれからも見続けてやってもらえませんか? さっき、あの子も茜音さんのことが気になるようでしたので……」
「そうですね……。萌ちゃんはさっきのお話を知っていますか?」
茜音は萌が時々見せる切ない表情が気になって仕方なかった。14歳の女の子の顔にしてはあまりにも頼りなくて、何とかしてあげなくてはという気持ちが芽生えていた。
「いや。間違えたことを伝えてはいけないと。でも、茜音さんと確認ができたので、茜音さんさえよければ聞かせてあげたいことですね」
「萌ちゃんにはわたしからも話します。でも、いきなり言っても大丈夫でしょうか?」
「大丈夫ですよ。あの子は味方になってくれる人にはきちんと心を開いてくれる子ですからね」
本当の孫ではなくとも、その老人は萌のことをちゃんと気にかけているのが分かる一言だった。
「そろそろあの子も戻ってきます。私はそれを待って戸締まりをしますから。明日は早いのですから、もうお休みください。飯田線は1本乗り遅れると大変だからねぇ」
あの当時と同じ笑顔に見送られ、茜音は寝室へと戻っていった。
「窓から手や顔を出すと危ないですよ」
「すみません……」
巡回してきた車掌に注意され、しゅんとなる菜都実。
「ほらぁ、走ってる電車は危ないんだからぁ」
翌朝、茜音たち三人と双子の姉妹の五人は、列車に乗って前日より山奥にやってきていた。
「でもぉ、こんなきれいな景色なところ、滅多に見られるもんじゃないよ?」
「分かったから、着くまでおとなしくしてなさいって」
「菜都実、この旅行はずいぶんとお子さまモードになってるよね」
「ばぶ~だ!」
口をとがらせた返事に他の四人はみんな吹き出した。
「親に見せられたもんじゃないなこりゃ……」
一人でオチを入れると、また窓に張り付いて外を見ている。
「きれいだけど、何もないとこだね」
はしゃいでいる菜都実をよそに、茜音は萌と話をしていた。
「このあたりは国立公園のなかなんですよ。それだけ人の手が入っていないって言うか……」
「そうだねぇ」
「だから知っている人しか来ません。都会的なものは何もない山奥ですからね」
「でも、昨日の列車には結構若い人いたよ?」
トンネルに入ってしまったので、菜都実が話に割り込んできた。
「間違いなく鉄道ファンだろうねぇ……。飯田線は乗るのも写真撮るのも有名な線だもん」
飯田線がその手の人たちに有名なのはネットを少し調べるとよく分かる。全線乗り通しや全駅を訪問したなどのページがいくらでも出てくる。
しかし、佳織はそれを見る前から知っていたのではないだろうか……。
いくつかの集落を通り過ぎ、川沿いにある小さな駅で萌は一行を列車から降ろした。
「うひゃ~、まさに山ン中!」
「このまえお見せした写真はここから歩いて行けるところなんです。この周辺は小川が流れ込むので谷に架かる橋も多いんですよ」
列車の中でカメラを用意していた萌が言った。昨日は茜音よりも就寝は遅かったはずなのに、眠そうな素振りも見せていない。
「これは萌ちゃんの私物?」
茜音も確認用にカメラは持ってきたけれど、望遠なども使えない小さなものだ。今は逆にスマートフォンで大抵のことが足りてしまう。
萌が肩から下げているのはいかにもプロの写真家などが使っているような、いわゆる一眼レフタイプと呼ばれるもので、茜音たちでさえ簡単に手を出せる代物ではない。
「貰い物ですけどね。お姉ちゃんも丁寧に使っていたので、まだまだ使えますよ。本当はボディを買い替えたいんですけどね。フィルムの時代と違って、デジタルだとすぐに新製品が出てしまうので」
「レンズはいいとしても、でも欲しくなっちゃうか……。分かる人なら欲しくもなるよねぇ……」
佳織の情報では、一番安いモデルでもセットで揃えれば10万円は下らないし、本格的に吟味を始めたらそれこそ100万円を超えてもおかしくないと言う。
「少しずつお小遣いは貯めてますけどね」
「萌ちゃん、コンクール出してみなよ。最近はジュニアの部でも結構いい賞金出るし……」
川沿いの道を歩きながら、佳織は話していた。他の二人もホームページや先日の写真を見て、彼女にはその素質は十分にあると思っている。
「いいんですよ。あのページはお姉ちゃんの物ですから。あるもので、趣味で、きれいな写真を撮れればそれでいいんです」
「そうかぁ。じゃいいの撮れたら見せてよね」
「はい。よく撮れたのはちゃんとプリントしてますし」
川沿いと言っても、ダムもあったりする関係から、本流の川幅は狭くなったり広くなったりする。
元々は工事用通路だったと思われる道は、ところどころ遊歩道のように整備されていて、ハイキング登山もできるようになっている。
そして、その本流に向かってたくさんの支流が流れ込んでいて、その川にかかるいくつもの鉄橋のことを萌は茜音に教えていて、今日の目的地にしていた。