ETERNAL PROMISE  【The Origin】




 千夏たちの住む高知県には2つの有名な岬がある。

 東側には室戸(むろと)岬、西側には足摺(あしずり)岬。どちらも観光地としては有名だけど、空路で高知入りをする場合、移動距離などの関係で、室戸岬に行く観光客が多いらしい。

 昨夜も、茜音と雅春はどちらにするかの意見を交わし、時間的に余裕が持て、また静かな方をと考えて、足摺岬へと車を進めていた。

 夏休みという時期柄、それなりの混雑も覚悟していたのにも関わらず、近くには砂浜の海岸も少ないためか、岬に近づくとかえって車の数は減っていた。

 この岬は、太平洋の黒潮が初めて日本に当たる場所でもある。温暖な気候で、亜熱帯の植物なども育っている。

 昨日のうちに、橋探しの結果が出てしまったため、本来なら千夏の家の近くで川遊びでもしようということになっていたのを、昨日の帰りの道中で予定を変更することになった。

 その代わり、昼に使うはずだった食材を夕食に回すという条件になったので、早い時間に帰らなくてはならなくなってしまったけれど、このペースなら問題ない。

 四国巡礼の拠点もあるだけに、海沿いの細い道にはお遍路(へんろ)さんと呼ばれる巡礼者の姿も見られる。そんな細い道を走り続け、ようやく駐車場にたどり着いた。

 ここからの海の景色がきれいだと聞いていたので、胸を躍らせて車から降りる。

 まず展望台に上った五人は、思わず息をのんだ。

「すごい……」

 この日は早朝から雲もなく、青い夏空が広がっていた。その下に茜音が今まで見たことのないような、黒潮と呼ばれるに相応しいネイビーブルーの水面が水平線まで続いていたから。

「こんなに真っ青なのは滅多に見られないぞ。タイミング良かったなぁ」

「うん…」

 誰となくうなずいた。茜音の地元も海を見下ろせる場所ではあるが、ここまでの色彩を見ることは出来ない。

「あぅ、カメラ車に置いて来ちゃった!」

 茜音は車のダッシュボードにさっきも使っていたデジタルカメラを置いてきたのを思い出した。

「仕方ないなぁ……。じゃ車まで戻ろうか」

「んじゃあたしもトイレ行って来よう」

 雅春と香澄がそれぞれ振り向いた。

「ちょっと、みんな行っちゃうのぉ?」

「千夏たちは好きに回ってろよ。2時間したら駐車場に集合な?」

「へ? でもぉ……」

 きょとんとする千夏と和樹を残して、三人は駐車場の方へ戻っていった。



「……どうしよ?」

 思いがけず二人になれたのだけど、何となく気まずくなってしまう。

「うん……。でも、ここに戻ってくるとは限らないから……。千夏、あそこに行かないか?」

「え? ……うん。いいよ」

 少し声のトーンを落とした和樹の言葉に千夏はゆっくりと頷いた。




 駐車場へ戻る道の途中で、茜音はちらっと後ろを振り返る。

「わざとデジカメ忘れてきたでしょ?」

「あうっ……」

 突然香澄に言われ、冷や汗の茜音。

「ま、そんなもんだろうな。俺取りに行ってくるよ」

「あぁ……、バレバレ……?」

 椿のトンネルの途中で、立ち止まる茜音と香澄。さっきの場所から二人の姿は見えない。

「まぁ、きっと千夏は気づいてないだろうねぇ。和樹は時々鋭いときがあるからわかんないけど……」

「逆に気づいてもらった方がいい?」

「そらそーか」

 二人は顔を見合わせて笑った。

 車に戻っていた雅春も戻ってきて、さっきとは違う通路に足を進める。

「そうだよなぁ……。二人だけになるなんて、いつもはできないし……」

 香澄はぼんやりと海を見ていた。

「茜音ちゃん、悪いね……。千夏のこと……」

「いいんです。千夏ちゃんたち、ゆっくり話せる時間もなかったんじゃないかって思って……」


 昨日、それぞれの気持ちを聞いた茜音。今日の行き先を決めるときに、なるべく地元から離れた場所を雅春と相談していた。

 地元ではきっと無意識に素直に話すことも出来ないだろうと思ってのことで、茜音の経験からも、彼が自分に告白してくれたのは普段の場所ではなかったから……。

「茜音はきっと会えるよ……」

「ほぇ?」

「その彼にね。あたしがその彼だったら、絶対に離さないだろうなぁ」

 香澄が茜音の頭に手を置く。

「あたし、千夏と一緒に祈ってるから……」

「うん。もし会えたら、祝ってくださいね?」

「当たり前じゃん! ねぇ、あの二人見に行ってみない?」

「のぞきかよ?」

「なぁに? 妹が他の男に告白されるの見るのがイヤ?」

 香澄に言われてしまっては雅春も返す言葉がない。

 三人は千夏たちが向かったと思われる海岸の方へ急いだ。




 岬の灯台から15分ほど歩き、遊歩道の階段を下りきったところに、小さな海岸がある。

 もう少し先に進めば砂浜もあるけれど、ここは岩場との中間で、砂利がうち寄せられている海岸。周りに人はおらず、二人は少し奥まったところにある岩に腰を下ろしていた。

「ここ、一緒に来たよね……」

「そうだな……」

「中学の時だったよね? バスの時間があったから全然景色も見なかったけど……」

「だって。景色を見に来たわけじゃなかったもん。あの時は……」

 中学3年の夏。二人だけでここを訪れていたことを思い出す。

 夏休みに入り、和樹の所属していた中学校は野球の最後の県大会で負けてしまい、3年生が部活を引退していたころの話だ。

「あのとき、まさか千夏が誘ってくれるとは思わなかったなぁ……」

「だって和樹、全然元気なくて、私がなに言っても相手にしてくれなかったんだもん……。無視されたって正直傷ついてたんだよ?」

 当時のことを思い出したのか、少し拗ねた声を出す。

「そっか。ごめんな……。でも、千夏が誘ってくれて、親に黙って始発の電車とバス乗り継いでさ、海を見せてくれたんだよな……。帰って怒られたけど」

「うん。でも、あれから和樹元気になってくれたよね。誰にも話したこと無いんだ。あの日のこと」

 千夏は笑った。二人きりで和樹を誘ってここまで来たのはいいのだが、帰りも相当な時間がかかる。

 地元に帰ったのはすっかり暗くなってからのことで、二人はこっぴどく怒られたのだが、千夏はその後も和樹のそばにいてくれた。

 なによりも和樹が驚いたのは、あの千夏が「どうして騒ぎを起こしたのか」と問いつめる兄の雅春に最後まで理由は話さなかったことだ。

「千夏、ごめんな……。もう、俺野球なんて出来ないの分かってるのに、そっちにばかり気を取られて……」

「ううん、いいんだ……。誰にも言ってないんでしょ?」

「知ってるのは親と監督と千夏だけだよ」

「うん、体をこわしちゃったらおしまいだもん。手遅れになる前でよかった……」

 あの頃を思い出すように、千夏は和樹の右肘をなでた。

 春の予選大会で、試合後に腕の痛みを訴えた和樹は、当時マネージャーだった千夏と監督と一緒に病院に向かった。

 そこでの診断結果は、和樹にとってショックなものだった。これ以上続けていれば、骨折や故障が頻発し、状況によっては右腕を使えなくなることも予想されると……。

 いわゆる蓄積疲労だ。学生時代という限られた時間の中では、それを回復させるにはもう時間がないということも宣告された。

 悩んだあげく、和樹はその数日後に野球選手への道を断念した。それまで一生懸命に打ち込んだ物がなくなり、和樹は落ち込んでいた。

 突然の彼の退部は周囲も驚いた。

 腕のことを言えば、きっと同情してくれるかもしれない。でも彼はそれを最後まで漏らすことはしなかった。

 最終的に自分で決めた道を、言葉だけで同情されてほしくなかったし、それで腕が治るわけでもない。

 千夏も、そんな幼なじみを見ているのが辛くなり、後を追うように部活を辞めた。




 事情を知らない周囲は、そんな二人のことをはやし立てた。

 仕方なく、和樹は何度か腕のことを持ち出そうかと思った。そのたびに千夏は笑って首を横に振った。

 千夏も和樹の腕のことはずっと後になるまで彼女の両親にすら言わなかった。

 しかし和樹は、散々からかわれた後ひとり残された現場で悔しそうにしている千夏を見てしまった。

 大切な千夏を守れない無力感だけが彼を襲っていた。

「ごめんな。千夏……」

「いいんだよ。あの騒ぎから私、男の子に声をかけられることもなくなったし……」

 いつの間にか和樹と千夏は部活で風紀を乱したため退部という噂が流れ、男子ばかりか女子も声をかけなくなっていった。

 それでも千夏は和樹が決めた男性のプライドを守り抜いた。

「千夏には2回も助けてもらったんだな」

「ううん、和樹には数え切れないくらい助けてもらったから……。よく川に落ちたし……」

「そうだったな。いつも『飛び込んだ』とか言ってたけどさ」

 沈下橋から落ちたこと。でも、それは千夏の虚勢だということも分かっていたから、すぐに服を着たままでうまく泳げない彼女の近くに飛び込んだっけ。

「和樹が言ったんだよ。スカートになればもっと女っぽくなれるかなって。だから……」

「え? やっぱりあれからだったのか?」

「うん……」

 頬を赤く染める千夏。

「和樹知らないかもしれないけど、いろいろ言われた……。いじめられたりしたよ。でも香澄がいてくれたし……」

「うん……」

「和樹が似合ってるって言ってくれたから……。和樹が好きな服を着てれば、きっと守ってくれるって思ったから……」

 耳まで真っ赤に染めて、最後はつぶやくようになってしまった千夏の肩を、和樹はそっと抱き寄せた。

「なぁ千夏……?」

「ん?」

「これからも、俺が千夏のこと守ってやる……。いや、違うな……。もう千夏に辛い思いをさせたくない」

 千夏は和樹の顔をじっと見つめた。見開いた大きな目から光る滴が頬に流れた。

「俺じゃ嫌……、か?」

「ううん!」

 大きく首を横に振る。

「私……、和樹とお兄ちゃんしか男の人知らないから……」

 すすり上げる千夏をぎゅっと抱き寄せる。

「和樹……。知ってると思うけど、弱虫だよ。一人じゃなにも出来ないよ……。そんなんでいいの?」

「そんな千夏だから放っておけないんだよ。もう千夏を泣かせたりしない」

「ありがと……。もう泣かない……」

「千夏……」

 ささやくような声で、胸元で泣いている彼女の名前を呼ぶ。

「俺、千夏のこと、ずっと好きだった。だから誰にも渡したくなかったんだ。それなのに、ずっと言えなくてごめん」

「どこにも行けないよ。私……。和樹のこと好きだったから……」

 赤くなってしまった目をこすり、恥ずかしそうに笑う。いつも子供っぽいとしか見ていなかった顔が、本当に可愛く見えた。

「腕が悪くなったら、千夏に迷惑かけるかもしれないぞ?」

「うん。それでもいい……」

 柔らかい手が、そっと腕をなでる。迷惑をかけていたのは自分の方だから。

「ねぇ、誰にも取られないうちに、もらって……?」

 千夏は隣で自分が映っている和樹の瞳に頷くと、そっと瞼を閉じた。




「なにはともあれ、これであたしの心配はなくなったわけだ」

「あーあ、とうとう千夏を持って行かれたか……」

「お兄ちゃん、恥ずかしいからそんなこと言わないでぇ」

 暗くなった千夏家の庭先。昼に消費するはずだった食材をバーベキューにしての夕食。話題はひとつしかなかった。

「それにしてもひどいよぉ……。みんな見てたなんて……」

 あの後、気がつくと雅春たち三人が階段の上から見下ろしているのが分かって、それこそ全身が真っ赤になってしまった二人を、みんなは歓声で迎えた。

 後で気がついたけれど、三人が階段のところにいてくれたおかげで、他の邪魔が入らなかったということまで分かって、帰りの車の中では、香澄の突っ込みにただただ小さくなる二人だった。

「だって、あんたたち、ああでもしなくちゃ!」

 香澄は大笑いだが、雅春は気にかけていた妹が新しい一歩を踏み出したことに、寂しさと安堵の混じった様子だ。

「でも、お兄さん、ずっと千夏ちゃんのこと心配してたじゃないですか?」

 茜音に言われ苦笑するも、ちゃんと和樹に注文することも忘れなかった。

「千夏のこと、泣かすなよ?」

「はい。もし泣かしたら千夏はあきらめます」

「お兄ちゃん、和樹? 私が涙もろいの知ってぇー!」

「大丈夫。うれし泣きは加算しないから。ね? 香澄ちゃんという見張り役もいるし」

 そう言った茜音の顔が少しゆがんでいたのに気づいたのは千夏だけだった。

「ねぇ和樹。千夏のファーストキスの感想は?」

「えっ! 言わなきゃだめか?」

 全く前触れもなく襲撃した香澄に、和樹は全く防戦しようがなかった。

「そりゃぁ、千夏が大事にしてきたものをもらったんだもんねぇ。そのくらいは言えよ」

「おまえがもてないのが分かったよ……」

 香澄以外が吹き出すと、和樹は顔を赤らめている千夏の手をつないだ。

「あれ、ホントにそうだったのか?」

「うん。間違いなく私のファーストキス。お兄ちゃんにもあげてないもん」

「そうかぁ、しょっぱかったぞぉ」

 一人拗ねていた香澄も吹き出した。

「もう、雰囲気ぶちこわしぃー。和樹のバカぁー」

 千夏は持っていたお皿を縁側に置き、もう一度和樹の前に立った。

「もうしょっぱくないから……」

 千夏は少し背伸びをして、彼女の唇を和樹のそれに合わせた。




「茜音ちゃん、ありがとう……」

 すべてを片づけ、雅春が二人を送り届けに行くと、あたりにはまた静寂と虫の声だけが残った。

 翌朝の出発準備を済ませ、ぽつんと窓から外を見ている茜音。

 お風呂から上がってきた千夏は、その背中に手をついて言った。

 部屋を暗くして、窓を開けているので夏の天の川がきれいに見える。

「茜音ちゃんがいなかったら、きっと今日みたいに出来なかった。ありがとう……」

「うん。本当によかったね。わたしも嬉しい……」

 千夏は茜音の声が震えているのに気がついた。

「茜音ちゃん?」

「今日はね、わたしと健ちゃんが離ればなれになった日なんだ……」

 茜音は抱きしめていた写真を見せた。9年前の今日の日付がプリントされている。あの最後に撮ってもらった写真を見ながら、茜音は続けた。

「あの日は朝から何もしゃべれなかった。でも、健ちゃんが笑ってくれたから、笑顔で写ってる……」

 茜音は自分とは違い、一番そばにいてほしい人の居場所が分からない。

 千夏は喜んでいただけの自分を振り返って申し訳なくなった。茜音はこの旅行で自分の目的は達成できていない。そんな茜音が自分へのプレゼントをしてくれたのだから。

「茜音ちゃん泣いてる……」

「毎年、この日はいつも一人で素直に泣ける日。だから本当は誰とも会わないの。どんなに寂しくても、辛くても泣かないって決めてるんだ……」

 さっき、和樹と雅春が千夏を泣かせないと言ったとき、茜音の表情がゆがんだのを思い出した。

「千夏ちゃん、和樹君と離れちゃだめだよ。もうわたしたち、自分で決めることも出来る歳になったんだ。わたしみたいなこと、しちゃだめだよ?」

「茜音ちゃん、きっと見つかるよ。茜音ちゃんも絶対に幸せになれるよ」

「頑張るね。きっと千夏ちゃんにいい報告できるようにするから」

「ずっとお友達でいてね。私、お友達少ないから……」

「うん。また遊びに来るから」

 千夏は茜音をそっと手を握った。

 その夜、千夏は再び茜音を自分のベッドに招き、涙ぐむ茜音をずっと抱きしめていた。




「本当に、ありがとうございましたぁ」

「茜音ちゃんも、お疲れさま。残念だったけど……」

「いいんです。また頑張ります」

 夕方の空港。先日の約束通り、四万十川の源流を経由して、千夏兄妹と和樹は茜音を見送りに来ていた。

「香澄が行けないって悔しがってたぞ」

「うん、よろしくって」

 カウンターでチェックインし、身軽になると、四人は空港の展望デッキに上がった。

「今度は、茜音ちゃんところに遊びに行くね」

「うん。みんなで歓迎するよ。こっちに比べたらゴミゴミしているけれど、目の前は海だからね」

「千夏、そんなとこ行って平気なのか?おまえの人見知り…」

「誰も一人で行くなんて言わないもん」

「へいへい。俺はもう用済みだなぁ」

 千夏が和樹の腕にしがみついたのを見て、雅春は半分呆れている。

 でもそれでいいのだと。

「茜音ちゃん、私たち、これからも時間があるときは四国の中で探しておくから、それらしいところがあったらまた来てね」

 今回、茜音が直接見たのは、まだ四国の路線の中でもほんの一部だ。

 高知県内だけでも、東側半分が残っているし、四国の山岳地帯はまだまだ残っている。

 千夏達はそれを調べて写真で送ってくれることを茜音に約束していた。

「あ、そうそう。茜音ちゃん。たぶん、残りの二人には連絡が行ってると思うけど、あちこちで茜音ちゃん達の手伝いをしてくれるメンバーができたからさ。きっと足には困らないと思うよ」

 茜音のに賛同する雅春たちによる独自の連絡体制が完成したという。

 あまり迷惑をかけるつもりはないけれど、いざというときにはありがたい。

「ありがとうございます」

「茜音ちゃん……。そろそろ時間だよ……」

 出発時間までもうそれほど残っていない。千夏だけがセキュリティゲートまで行ってくれることになった。

「茜音ちゃん。本当にありがとう…」

 千夏は茜音に抱きついた。

「うん、千夏ちゃん、初めて会ったときより可愛くなったよ。和樹君のこと大切にね。わたしも頑張るから」

「うん。あ、そうそう! これ、昨日の写真。私からのお土産」

 昨日、二人だけで撮った写真。顔は違うのに、雰囲気は気心知れた姉妹と言っていいくらい似ている。空港のコンビニに置いてある複合機に画像を送ってプリントアウトしてくれた。

「ありがとう。大事にするからね」

「今度は私と和樹を迎えに来てね?」

 千夏は顔を崩したが、それでも何とか笑顔を見せた。

「もちろん。それじゃ、行くね……」

「茜音ちゃん! 頑張ろうね!」

 茜音はその声に答えるように、手を振ってゲートをくぐると、千夏の姿は見えなくなってしまった。

「千夏ちゃん、泣いてたなぁ……」

 最後の顔を思い出して、鼻の奥がつんとしてしまう。

「だめだめ。千夏ちゃんにあんなに慰めてもらったんだから」

 渡された写真を大切にしているアルバムにしまって、飛行機に乗り込んだ。



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「茜音大活躍だったんだってねぇ」

 数日ぶりのウィンディでの昼食。

 アルバイトをしながら、茜音は佳織と菜都実に高知での出来事と結果を伝えていた。

 結果の速報は現地からも届いていたし、なによりも千夏兄妹たちがその後も詳しい調査を続けてくれている。

「さぁて、このカップルが来る前に、もうひとっ走りしなくっちゃ」

「うん。どこか決まってるの?」

「あとは茜音がゴーサインを出すだけ」

 佳織が笑ってくれた。

「こんどはあたし達もついていくよ?」

「うん!」

 一つの旅の終わり。目的が果たされた旅ではなかったけれど、茜音は行ってよかったと思っていた。

 思い出の場所を探し出し、自分と思い出を共有している人と再会するためにまた走り出せばいい。茜音の1年は始まったばかりだ。
【茜音・高校2年・夏・天竜川編】



「ねぇ佳織(かおり)……。『夢空職人さん』って聞いたことある?」

「ん?」

 ウィンディでのバイトの時間。テーブルの後かたづけをしながら片岡(かたおか)茜音(あかね)はカウンターの中にいる友人の近藤(こんどう)佳織(かおり)に話しかけた。

 ここは二人のクラスメイトで遊び仲間の上村(うえむら)菜都実(なつみ)の父親が開いているカフェ喫茶。

 横須賀の海岸線沿いにあるこの店は、休みともなると朝晩問わず人が集まってくる。

 オーナーである菜都実の父親も、娘の友達二人が仕事を覚えてくれたのが分かると、自分の所有しているクルーザーを出してしまうという始末。

 夏休みで人が増えるといえども、特に忙しい時間帯でもなければ、三人で何とか回せる。お客さんから聞いた話によると、彼女たち三人が給仕をしてくれるこの店は、仲間内で密かな評判を生んでいるとのことだった……。

 店内のテーブルや椅子を片づけて茜音が調理場に戻ってくる。白いフリルの付いた可愛らしいエプロンは茜音が自前で用意した物で、それも自分で作ったという。

 そのエプロンから茜音はスマートフォンを取り出した。

「あのね、千夏ちゃんが教えてくれたんだぁ」

 彼女は佳織にメール画面を見せた。

 メールの送り主は河名(かわな)千夏(ちなつ)といい、高知県の小さな町に住む高校生だ。

 夏休みに入ってすぐ、茜音は一人で彼女の元へ飛んだ。二人は一緒になって茜音の思い出の場所である橋の場所を探し出そうとした。

 結果的には空振りに終わったのだけど、その時に茜音が千夏の恋を応援して成就させたことをきっかけにして、二人は非常に仲がよくなり、メールや電話での連絡も頻繁に続いている。

「あー、あのサイトかぁ……」

 メールを読み終えた佳織は思い出したように言った。

 千夏からのメールには、偶然インターネットで風景写真のサイトを見つけたこと。その写真が茜音の探している風景に近いこと。その作者に聞けば何らかの情報が得られるのではないかと言うことが書かれていた。

「知ってんの?」

 菜都実が尋ねる。茜音の思い出の地を探すためにSNSへ登録している彼女たちでも、そのハンドルネームには聞き覚えがない。

「うん、風景写真じゃ結構有名どころ。昔はよく雑誌とかにも掲載されていたはずなんだ」

 佳織は一時期写真を撮ることに熱中した時代があったという。そのころの雑誌にあった名前だというのだ。

「へぇ。そんな人がいるんだ」

「うん。でもねぇ……」

 佳織が呟きながらテーブルに置いてあったタブレットを手にする。しばらくしてホームページが表示された画面を見せてくれた。

「ここ。んー、やっぱり今年もまだ更新されてないか……」

「どれどれ?」

 他の二人も画面をのぞき込む。

「これ、確かに凄いねぇ。でも、更新は1年前だよ?」

 そのサイトには、街中から山奥、海岸などの風景写真がたくさん掲載されている。

 写真には大抵場所と撮影日が書いてあり、この写真の撮影者が全国をあちこち歩き回っていることがよく分かる。興味深いのは渓谷などの写真に鉄橋などが写っている物が多いことだった。

 当然すべての写真を掲載しているわけではないだろう。でも話を聞いてみるには十分すぎる雰囲気だ。

 しかし、茜音が指摘したように、このサイトの更新日は昨年の日付になっている。

「そうなの。このサイトさぁ、普通年に1回。多くても2回の更新しかしないんだよね。たぶん、毎年のペースだともうそろそろ更新になるはずなんだけど……」

 ウェブサイトの更新として、年に1回と言うのは確かに少ない方だ。しかし、これだけの写真を掲載する作業は大変な物かもしれない。

「あとねぇ、最近この人を生で見たことがないって言うんだよね。女の人なのは確からしいんだけど。私も会ったことないよもちろん」

「へぇ、女の人なんだぁ」

 これだけ奥地に入って撮影を行う人物像として、それなりに体力のある年上の男性を想像してしまう。

「女の人ならまだ話を聞いてくれるかもしれないよ。ちょっと連絡してみたいなぁ……」

「とりあえず、サイトに行ったわけだから、挨拶だけしてみよう。いきなりあの話を持ち出すわけには行かないでしょ?」

 とりあえず、三人は連名でそのサイトの管理者にメールを書くことにした。サイトの感想や、少し話を聞きたいという内容で。

「これで返事が来たら教えるよ」

「分かった」

 もうすぐランチタイムになり、またお客さんの数が急に増えてくる。

 夕方、菜都実の父親が帰ってきた頃には三人とも疲れて、送信したメールのことも忘れてしまっていた。



 数日後の土曜日、三人は横浜市内の外れにある駅の前で、その人物を待っていた。

「まさか横浜だったとはねぇ…」

 菜都実が驚いたように見回す。

 近所の市と言えども、その広さは半端ではない。鉄道の路線は何本もあり、その駅はいくつあるか数えたこともない。

「でも、よく会ってくれるって言ってくれたね」

「茜音のあの話を聞いたら、優しい人ならOKしてくれるよ普通……」

 菜都実が言うが、ここまで来るにはそれなりに大変だったのだ。



 メールのやりとりが進む中で、管理人である夢空職人嬢と直接会って、写真の撮影場所などの話を聞きたいと提案したのだが、なかなかいい返事はもらえなかった。

 仕方なく、茜音がこれまでの経緯を話し、もしかしたらこれまでに撮影で訪れたことのある場所に、探し求める場所があるかもしれない。その協力をお願いしたいという内容を書いた。

 驚いたことに、すぐ返答があり、落ち合う駅と時間、そこに迎えに行く人物の特徴と画像を送ってきてくれたのだった。

「それにしても、可愛らしい子だよねぇ」

「この子本人じゃないでしょう? いっくらなんでも若すぎるよぉ」

「妹さんなんかなぁ」

 プリントした写真を見ながらそんな話をしていると、待ち合わせの時間になった。

「ねぇ、あの子かなぁ?」

 茜音が中学生らしいセーラー服を着た少女を見つけた。

 彼女もすぐに三人組に気づいたらしく、小走りでやってきた。

「あの……、片岡茜音さんですか?」

「うん、あなたが迎えに来てくれた人?」

 茜音が答えると、その少女は安心したように微笑んだ。

「はい。私、大竹(おおたけ)(もえ)と言います。お待たせしてすみません」

 と頭を下げた。

 今時の中学生にしてはかなりしっかりしている部類に入るだろう。

 大きな瞳が特徴の可愛らしい顔立ちに、背中まで届く黒く艶のある髪の一部を左上でヘアゴムを使ってサイドテールにしている髪型。

 学校の制服であろうセーラー服の着こなしも上下ともきちんとしていて、一目見ただけでも彼女の性格を表しているように見えた。

 茜音からみたとき、高知で知り合った千夏の印象に近いことから、探せば同じような子はいるのだと不思議に思った。

 駅前の商店街を萌に導かれて歩いていく。15分ほど歩いた住宅地の一戸建ての前で一行は足を止めた。

「ここです」

 萌はスカートのポケットから鍵を取り出し扉を開ける。

 三人をリビングに通すと、萌は冷えた麦茶を出してくれた。

「今、ちょっと着替えてきますね」

 階段を上がって行く姿を、嬉しそうに見送る茜音。

「可愛い子だよねぇ。あんな妹いたら可愛がっちゃうなぁ……」

「茜音ぇ、あの子は違うでしょ? それにしても他の人は留守みたいよ?」

「あ、そっか……」

 そう。ここに来た目的は、例のサイトの管理人に会うためだ。その妹に会うためではないのだけど……。

 その疑問は数分後には驚きに入れ替わることになった。




 しばらくして萌が階段を下りてきた。薄いピンクのシャツにアイボリーのサスペンダースカートを着ている。両手にはたくさんのアルバムを抱えていた。

「お待たせしました……」

「あの……、萌ちゃん?」

「はい、分かってます……」

 萌の表情が、悲しそうなものになった。

「ご紹介します。ハンドルネーム、『夢空職人』さんです」

「え?」

 萌が額に入った写真を持ってきた。そこには彼女のお姉さんとおぼしき女性の写真が収まっている。ただ……、

「亡くなった……?」

 萌は申し訳なさそうにうつむいていた。

「複雑そうな事情ね。よかったら説明してもらえるかな?」

 事態をつかめないでいると、佳織が優しく萌に話しかけた。相手を責めることなく、やんわりと理由を聞いてくれる佳織はこんなときの突破口でもある。

「本当の夢空職人さんは、私の亡くなったお姉ちゃんです……。でも、あのサイトに関わるときだけ、今は私がその後を継いでいるんです。もともと私のハンドルで出ることはなくて……」

 萌は少しずつ話し始めた。

 悲しい物語だった。もともと萌は五人姉妹の四女で、一番上の優子(ゆうこ)お姉さんと一番仲がよかったという。

 しかし複雑な家庭の事情で、その彼女は親戚などからも冷遇されていたという。同時に優子に一番懐いていた萌にも被害はあったそうだ。

 ある時カメラをもらい、妹たちの写真を撮ったところから、彼女の写真を撮ることが始まったという。当時高校生だった優子は、萌を連れてあちこちに写真を撮りに出た。

 当時優子もまだ高校生。車を運転するわけにも行かないので、電車やバスを使っての旅行だったという。そして、その頃から作品の一部を雑誌などに投稿していたというわけだ。

 姉妹の母親代わりでもあった優子を病で亡くしたのは4年前。父親は仕事柄海外赴任。今は姉妹四人での生活を続けているという。

「それじゃ、萌ちゃんはもう4年も? それで最近は投稿しなくなった訳ね?」

「はい……。そんな腕はないし、まさか私が投稿するわけにも行かなくて……」

 さすがに、姉が亡くなってからは雑誌への投稿はやめ、亡くなる直前に立ち上げたホームページを更新するだけにとどめていたという。

「本当は閉鎖しようとも考えたんです。でも、いろんな方から続けて欲しいと言われていて……。まさかお姉ちゃんが亡くなったとも言えなくて……。理由になっていないかもしれないですけど……」

「じゃぁ、去年とかの写真は、あれは萌ちゃんが撮ったの?」

「はい……。学校のお休みとか、部活の旅行に行くときに撮ってきます」

 感心したように佳織はうなずいた。

「あれだけ上手なのを中学生が撮ってるとは思わなかったなぁ。ジュニアの部なら、絶対に賞とれるよ!」

 三人とも、彼女の行動を責めようと思う気持ちにはならなかった。姉の意志を継いで活動を細々とはいえ続けていることは逆に感心すべきことでもある。

「じゃぁ、萌ちゃんもあちこち見て回っているのなら、萌ちゃんに直接聞いても構わないよね?」

 ことの内容が分かったことで、佳織は続けた。

「茜音さんの橋のことですね。私もどこかはよく分かりません。候補はたくさんあると思います」

「うん、わたしもそう思う。逆に候補が多すぎるんだよぉ。それにたぶん超マイナーどころのような気がするし……」

 ようやく自分の話題に移ってきたので、茜音は佳織から話を受け継いだ。

「そうですね……。でも、なんとか見つけたいですよね。橋と聞いていたので、お姉ちゃんと私の写真からいろいろ集めてみたんです。まだ行っていない路線もたくさんあるんで、はっきりとは言い切れないんですけど……」

 茜音はテーブルの上に広げられた写真に目を通した。明らかに違うと思うのもあれば、確かめてみたくなるような場所もある。

「うー、やっぱりこれだけあると、当たれるだけ当たってみるしかないのかなぁ……」

 茜音が顔をしかめる。

 萌は茜音が選んだ中から1枚の写真を抜き取って言った。

「この橋の写真は愛知県の奥の方で、周りは同じような景色が続いてるんです。今度、その近くに用事がありますが、行ってみますか?」

 突然の話に顔を見合わせる三人。

「前は茜音に単独行動されちゃったから、今度こそ行きますか」

「うん」

 菜都実の一言が次の行き先を決めてしまったので、三人は急いで準備に取りかかることになった。




 週明けの月曜日、茜音たち三人は東京駅の新幹線ホームで萌を待っていた。

「やっぱ早く着きすぎだよぉ……」

「仕方ないじゃん。今日はうちらだけじゃないんだからさぁ」

 夏休みの東京駅は、通勤時間以外でもそれなりの混雑を見せる。これがお盆などになると大変なことになるのだけど、今日はまだそれほどでもない。

「しかし、よく食べるねぇ……。朝ご飯食べてこなかったのぉ?」

 茜音がペットボトルのお茶を飲みながら菜都実を見る。

「だってぇ、今日はお店お休みにして船を出すって朝早くから準備始めちゃったから、あたしの朝ご飯なんて……」

 ふくれ顔の菜都実。それにしても、東京駅で買った駅弁をすでに2つも平らげているのは、それだけではないような気もする。

「そういえば、萌ちゃんもう一人一緒に行くって言ってたよね」

 食べっぱなしの菜都実をあきれ顔で見ていた佳織が、茜音に言ったとき、

「おはようございます」

 聞き覚えのある声がして、三人はそちらを見た。

「えっ?」「ほぇ~~!!! 分裂してるぅ!」

 最初、全員が見間違いではないかと目を疑った後、茜音は思いきり叫んだ。

 ボストンバックを提げて立っている萌の横に、全く同じ顔をしたもう一人が立っていたのだから。

「脅かすつもりではなかったんです。わたしの双子の姉で、美保(みほ)と言います」

「そっかぁ。双子じゃぁ仕方ないよねぇ。見分けるの大変だぁ……」

 萌に紹介され挨拶をした美保。服装を除けば見た目は全く同じなので、佳織が苦笑するのも仕方ない。

「萌とあたしは性格と服装が全然違うから、それでみんな見分けてます」

「それじゃぁ、学校の制服着たら大変でしょう!?」

「うんうん。制服着て黙ってたら絶対に分からなさそう」

「もう、周りも慣れたみたいです……」

「そうかぁ。あれ? 菜都実どうしたの?」

 さっきまで猛烈な勢いで弁当を平らげていたはずの菜都実の表情が、この美保と萌姉妹が現れてから、突然冴えないものになってしまった。

「え? なになに? ほら、揃ったなら早く行かないと席なくなるよ!」

 茜音に言われて我に返った様子の菜都実は、荷物を担ぎ上げると列車を待つ列に並んだ。


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「そうなんだぁ、それじゃあもう慣れたって仕方ないよねぇ」

 無事に自由席に五人分の席を確保した一行を乗せた新幹線は定刻で東京駅を発車した。

 茜音たち三人とも、ここまでそっくりな一卵性の双子を見たのは初めてだったので、どうしても話題はそこに集まってしまった。

「生まれたときからずっと一緒ですから、もう気にならないですよ」

 萌が話す。

 ここまでの短い時間でも分かったことは、彼女たち双子は見た目は同じでもその性格や趣味などが全く正反対だというものだ。