【茜音・小学2年・夏】
「茜音ちゃん、一緒に行けなくてごめんね」
「ううん……。健ちゃんが悪い訳じゃないもん。元気でね……」
茜音と呼ばれた女の子は涙を少し浮かべながら、それでも健気に笑顔を作っている。
「茜音ちゃん、健君、お昼ごはんできたぞぉ」
「は〜い!」
二人は声を揃えて返事をして、呼ぶ声の元に走っていく。
理由あって親元で生活できない子どもたちを預かる施設。一般的には児童福祉施設と呼ばれることが多く、その大半で自宅を離れた施設内で子どもたちの生活を支える取り組みがされている。
入所できるのは幼稚園から高校生まで。今この「ときわ園」には小学生から高校生まで、ここを「家」として暮らしている子どもたちと親であり先生代わりでもある職員も含めて二十人ほどが一緒に生活をしている。
先の小学2年生の二人、佐々木茜音と、松永健もその一員だ。
健は家庭の事情で2年前に連れてこられた。幼稚園の年長という歳であったけれど、本当の両親が健在だったということも覚えている。
しかし、もうそのどちらの元に戻ることもないと、幼いながらも悟っていた。
はじめは勝手な両親に腹を立て、職員の言うことを聞かなかったり、物を壊したりといろいろと荒れていたが、ある日を境にそれが変わった。
同い年の茜音が「ときわ園」に連れてこられた時、彼の中で何かが動いた。
茜音は彼より半年遅れて仲間に加わった女の子だ。
最初に連れてこられた時から、彼女はそれまでに入所していたどの子どもたちとも少し違っていた。
連れてこられたときの服装はブラウンを中心としたチェックのスカートに丸襟のブラウス、髪型は左右のもみあげを中心に細い三つ編みを両側に結い、背中まで伸びる残りの後ろ髪は自然に下ろしている。
顔や手足に傷と言った家庭内不和の子に見られる要素も見あたらない。持ってきている荷物はどれも大切に育てられていたのを感じさせる品ばかりで、普通であればこのような施設に来ることはないような彼女の登場に、他の面々は少々戸惑っていた。
服装や持ち物以上の違和感が、彼女が幼稚園の年長生にも関わらずひとことも話せないことにあるのだとすぐに気づく。
しかし、茜音の身の上の説明を受けた後は、皆その認識が変わった。
彼女は前年の冬に起きた飛行機事故で救われた数名の生存者の一人だというのだから……。
その事故は史上最悪とも言われた。雪山に墜落した飛行機の破片は数キロ四方に及び、飛び散った燃料による山火事も発生した。あまりの惨状に、現場からの第一報は乗員乗客四百名余り全員絶望と報道されたほどだと茜音自身も後に知ることになる。
彼女は幼稚園の年長になり、冬休みを両親とスキー場で過ごすため、その便に乗っていた。
事故の直前と直後のことはあまりはっきりと覚えていない。
気が付いた時その目で見た物は、真っ黒に汚れ溶けた雪と煤に覆われた深い森。まだ燃えている機体の破片。あちこちで倒れている乗客とそこから聞こえるうめき声や泣き声。燃え上がる油と血の臭い……。
そんな中、茜音は自分がなぜ無事であるどころか、ほとんど怪我らしい傷を負っていないことが理解できなかった。
しかし次の瞬間、彼女は自分が立ち上がった場所を振り返り、愕然とした。
『パパっ!』
茜音の大好きだった父親が、泥の中に埋もれていた。それが自分が無傷であった代償だったと悟ることになる。
『パパぁ…………』
幼い茜音にも、その人は二度と笑いかけてくれないという事が分かってしまったほどだったから。
そしてその両腕が、茜音を最後までしっかりと抱きしめていてくれた形を保っていた。
恐らく茜音が気を失ったあと、幾重にもクッションや毛布をあて、しっかりと抱きかかえてくれて、自身をクッション代わりにして娘の命を守ったのだと……。
あまりのショックで茜音はその場を離れることが出来なかった。
『その声は茜音?』
『ママ!?』
振り返ると、少し先に手足から血を流している彼女の母親の姿があった。
『茜音……無事なのね……?』
『パパが……パパが……!』
茜音は雪をかき分けその声のそばに駆け寄った。
『ママ……、怪我してる……』
母親は足を骨折したようで自分で動くことが出来なかった。それでも、彼女は機体の残骸から燃やせる物を茜音に探させて暖をとらせた。自分の着ていた服を茜音に着せ、動かない体を引きずって茜音を抱きしめて暖め続けた。
夜通し燃やし続けた明かりのおかげで、翌日早朝に救援隊が二人の元にやってきた。
怪我をしている母親を先にヘリコプターに引き上げようとする救助隊に、彼女は茜音を先に乗せるように言った。
茜音が母親の笑顔を見たのはそれが最後だった。娘のすぐあとに引き上げられた彼女は、ヘリコプターに収容された時にはもう意識がなかったから……。
怪我による失血に加え、自らの衣服を使って愛娘を暖め続けたその代償はあまりにも大きく、収容先の病院で、娘に看取られながら彼女は息を引き取った。
その日以来、茜音は言葉を失った。笑顔を見せることもなく、ダークブラウンの大きな瞳からは光が消えた。
当初、報道にも彼女の名前は繰り返し流れ親戚などからの連絡を待ったが、何故かいつまで経ってもそれはなく、茜音はそのまま病院で過ごすことになった。
事故の恐怖だけでなく両親を同時に失ったこと。そして何よりも誰も自分を迎えに来てくれない孤独感。
彼女は自分から一歩も病室を出ようとはしなかった。もちろん体の傷跡などはとうの昔に消えているし、歩くことも問題はない。ただ、外に出れば大人たちの好奇の目に曝される。それが嫌でたまらなかったから。
『おほしさまがみたい』
彼女の外出は、病院の面会時間が終わった後、看護師に付き添われて病院の屋上で星明りを見ることだけだった。
それでも、事故から1年が経った頃には、気持ちのリハビリやみんなからの励ましで、ようやく視線を動かす程度に表情が戻り始めたけれど、口から発せられていたはずの言葉は戻らなかった。
そんなとき、一人の男性が茜音の病室を訪れた。
それまでにも、茜音のことを知り気の毒に思った人たちがたくさん訪れてくれていたけれど彼女が心を開くことはなかった。
しかし、その男性は茜音に無理にしゃべらせようとはしなかった。彼女もなぜその男性に許したのかは分からない。病室の中で頭をなでられたり、抱きしめられるというスキンシップを受け入れた。男性から病院側に同じものを出してほしいと依頼し、食事も一緒に食べた。
いつもの夜の時間、同行したその男性に抱きしめられ、ついに茜音の頬に一筋の跡が付いた。それは病院のどれだけベテランの職員でも成し遂げることができなかった、茜音の心の扉の鍵を開いた証拠でもあったから。
その後、病院側と話し合いがあり、その男性、『ときわ園』の園長が茜音を引き取ることに決まった。
そして、先にスキー場に送ってあったために事故を免れた当時の荷物を引き取り、茜音は病院を退院し、ときわ園に連れて来られた。
新しい生活に茜音は最初戸惑っていた。他の子どもたち達との初めての共同生活。
そんな茜音に、一人の男の子が常にそばにいてくれるようになった。同い年の健は、茜音に施設での生活を教えた。最初は乱暴そうに見えた彼を怖がっていた茜音も、自分に手を差し出してくれた彼を少しずつ受け入れ始めた。
そんなことから、二人の距離は必然的に近くなっていった。
学校も一緒に通い、ときわ園の中でもいつも一緒に行動していた健。でも園の外に出れば言葉の話せない茜音はいつもクラスの子から嘲笑された。
そんな連中を健は許さなかった。時には彼らを相手に向かっていった。そんな時、いつも健の手を取って止めさせたのは、他ならぬ茜音だったから。
「どんなに悔しくても、言い返せない茜音ちゃんは我慢している……」
そんな彼女を見て、健は自分の行動を改めていき、見違えるように明るい少年に戻っていった。
そして、茜音も彼と一緒にいるときには笑顔が戻った。病院では最後まで戻らなかった言葉もいつの間にか戻ってきた。
幼い子どもの時代、特に物心が付き始めた一番難しい時期を二人はお互いの存在を糧に乗り越えていったのだから。
先日、二人は園長先生に呼ばれ、そこで聞かされた話は双方にとって寝耳に水だった。
「なんで、なくなっちゃうの??」
詳しいことは幼い二人には理解できなかったけれど、このときわ園が閉鎖されてしまうことが決まってしまったという。
「それと……、君たち二人なんだが……。残念ながらそれぞれ別の行き先になってしまったよ」
「えぇ〜〜??」
「そんな……」
ここがなくなることは、彼らの家も無くなってしまうことと同意。それ以上に自分たちが離されてしまう衝撃の方が大きかった。
他の子たちも同様で、みな同じ施設に移れるわけではない。
ただ、茜音と健についてだけは、その事情も配慮した先生達が受け入れ先を同じにするようにお願いしてあったのだけれど、先方の事情などでそれは叶えることが出来なかった。
あまりのショックに、二人はその日の夕食に手を着けることが出来なかった。
「茜音ちゃん……」
「先生?」
日が落ちたあと、他の面々が宿題をやっている時間になっても、茜音は一人庭のブランコに座っていた。
「茜音ちゃん。健君とのことは本当にごめん。みんなでなんとか二人一緒に行けるところを探し回ったんだよ。だから、二人を預かってくれる先生達には、僕から直接お願いをしたんだ」
「え?」
「茜音ちゃんと健君が会いたいと思ったら、会わせてあげて欲しいって。そして、もし二人が一緒にいられるようになったら、施設を移してあげるようにとね」
「じゃぁ、もう会えないんじゃないの?」
「茜音ちゃんがもう少し大きくなったら、一人でも会いに行けるようになるよ」
先生は茜音の頭を撫でた。
これだけの言葉で、茜音が全てを理解できたかどうかは分からない。
しかし、先生が自分たち以上に心を痛めていることを幼い心に感じていた。
自分を病院から連れだし、新しい生活を教えてくれた恩人を、これ以上困らせるわけには行かない。
「分かった。わたし、健ちゃんに話してみる」
そのあと茜音は彼の所に行き、聞いた話をした。
そしてついに、健も別の施設に行くことを納得してくれた。
その一件の後、ときわ園の先生たちは二人に特別な時間をくれた。
毎日の就寝時間は決まっているが、一般的な小学2年生の就寝時間には少し早い。これを中学や高校のお兄さん、お姉さん達と同じにしてもいいと言ってくれた。兄妹のように育ってきた二人を離ればなれにしてしまうことへのお詫びと、問題児だった健をここまで成長させてくれた茜音へのささやかなお礼だった。
「ちゃん。ごめんね……」
いつも繰り返される茜音の言葉。彼女は後悔していた。自分の行動が二人を離ればなれにしてしまうことを決定づけてしまったと……。そして、健にそれを飲ませてしまったことを……。
「茜音ちゃん、いいよ。新しいところに行っても、ずっと友達だからね」
「うん……」
二人が別れる日が近づくに連れ、茜音の表情はどんどん冴えなくなっていった。
もともと茜音はあまり体は丈夫でなかった。喘息をこじらせかけたこともあったくらいだ。
初めて会ったときのような寂しそうな茜音の顔を見ていると、健はなにか茜音にしてあげられることがないかと常に考えるようになった。
「ねぇ、茜音ちゃん」
健は数日前、あるアイディアを思いつき茜音にそっと打ち明けた。
「えぇ?!」
「ダメだよ。声が大きいよ」
慌てて茜音の口をふさぐ。
「だって……、家出なんかしちゃダメだよ……」
「じゃぁ茜音ちゃんはこのままでいいの?」
「う……」
困り果てる茜音。せっかくこの時間まで起きていられるのだ。これを使わない手はないと健は考えたらしい。
みんなが寝静まるのを待ってから、茜音を連れて、どこか遠いところに行ってしまおうと言いだした。もう少し大人の世界になって俗っぽく言ってしまえば「駆け落ち」だ。
「きっと怒られるよ?」
「分かってる。でも茜音ちゃんとこのまま別れちゃうのはイヤだ」
「健ちゃん……」
もちろん茜音もこのまま彼と別れてしまうのは嫌で仕方ない。
しばらく考え込んだ後、茜音は彼の手をぎゅっと握った。
「茜音ちゃん?」
「怒られるときはわたしも一緒に怒られる。だから一緒に行こ?」
このことが、後に二人の運命を大きく変えていくことになるとは、このときの二人にも予想できなかった……。
夕食が終わり、小学生以下の部屋の電気が消え、数時間後には全ての電気が消えた。しばらくすると、二人の影がそっと部屋から出てきた。茜音と健だ。明日はときわ園での最後日となる。今日を逃したらもうチャンスはない。
緊張した顔で廊下をそっと窺う。同じフロアで起きている人はなさそうだ。忍び足で階段を下りていく。表玄関からではなく、裏口を使って建物の外に抜け出した。
裏庭に出ると、月の明かりがぼんやりと周りを照らしている。健はこの時のために隠しておいた荷物のある物置に走った。
茜音はその間にパジャマから服に着替えている。さすがに園の中で普通の服で夜までいたら怪しまれてしまうから、表向きは寝る準備をしていた。
「茜音ちゃん、いい?」
「うん。行こう」
音がしないようにそっと門を通れるだけ開け、二人は闇の中に姿を消した。
「ねぇ、どこに行くか決めてるの?」
こんな時間に小学生が二人でいるのを誰かに見られたら、たちまち引き留められてしまうに違いない。
時々後ろを振り返ったり、お巡りさんに見つからないかとドキドキしながら、二人は町はずれの方に向かっていった。
「行く先決めてないよ。行けるところまで行こう」
「うん」
二人が走っていく先は鉄道の駅だ。駅と言っても普通の駅ではなく、貨物列車の駅のことで、そこならば暗いところもたくさんある。駅員やほかのお客さんに見られる心配もないと考えた。
なんとか誰にも見つからずに家の間を走り抜けてくると、突然目の前に暗い空間が広がる。少し離れたところには水銀灯で照らされた貨物のコンテナ。しかし、こちらの端の方は大きな明かりもなく、小さな二人を見つけられるような環境ではない。
低いフェンスを乗り越え、時々確認しながら、出発待ちの列車を探す。
長い車列の一番後ろに、古い客車が連結されていたのが停まっているのを見つけると、急いで駆け寄って乗り込んでみる。作業も終わっているらしい。この車両には誰も乗っていなかった。貨物列車のコンテナの中や、積み込まれた石などの上を想像していたのだけど、これならば雨が降ったりしても大丈夫だ。
「茜音ちゃん大丈夫?」
「う、うん。平気……。こんなに長く走るの久しぶりだから……」
手で胸を押さえ、息を落ち着かせようとしている茜音。一番心配しているのは喘息が再発してしまうことだけど、とりあえず今はその心配はなさそうだ。
小さな汽笛の音と共に、列車が動き出した。
「どこに行くのかなぁ」
「どこでもいいや。行けるところまで行く!」
「うん。健ちゃんと一緒ならいいよ」
貨物列車扱いなので駅にも停まらないし、そもそも茜音はこの土地で生まれ育ったわけでない。ただ窓から見える夜景を眺めていた。
「今頃、みんなどうしてるかなぁ」
時間的にはまだみんな熟睡をしている時間だろうが、彼らがいないことに気がついただろうか。
朝になれば間違いなく気づくだろう。見つかって連れ戻されることは十分承知の上だ。ただ少しでも長く二人で過ごしていたいという方が優先だったから。
「健ちゃん、わたし眠くなっちゃった……」
「うん、僕も……」
「寝ても平気だよね。少しくらいなら」
「きっと大丈夫だよ」
小さな二人を乗せた列車は、途中駅を通過し、待ち合わせに停まったりとどこまでも走っていった。
窓の外が明るくなり、二人が目を覚ますと、列車は都会を離れ、山の中を走っていた。
途中で切り離しがあったのか、機関車もディーゼル機関車になっているし、前に繋がっている貨物の数もずいぶん減っている。
「茜音ちゃん、大丈夫?」
「うん。大丈夫。ここどこ?」
見知らぬ土地、もちろん土地勘などない二人にはここがどこかすら全く調べる手はなかった。通過する駅には誰もいなかったり、本当に人が住んでいるのかというような場所を走っているときもあり、都会育ちの二人には少々寂しい場所に見えた。
列車はますます山奥に進んで行くようだ。
「次に停まったら降りてみようか」
「うん」
しばらくして列車が停まる。信号待ちのようで、しばらく動く気配はない。
「今だよ、茜音ちゃん行こう」
「分かった」
ホームなどはなく、乗ったときと同じように扉の横についている梯子を伝って降りる。こんな時に動き出したら大変だ。先に茜音を下ろして、健が続いた。
「行こう」
線路の脇にある小道を見つけると、二人は森の中に走り込んでいった。
「園長先生、やっぱりいませんね」
「昨日の夜からいないみたいです」
二人が列車から降りた頃、ときわ園の中は大騒ぎになっていた。なにしろ今日は健と茜音の引越しだというのに、肝心のその二人が消えてしまっている。
朝から学校や公園など、二人が行きそうな場所を当たってみたが、そのどこにも見つけることは出来なかった。
「危ない事していなければいいけど……」
「大丈夫よ。健君だけだと分からないけど、茜音ちゃんも一緒だから危ないことはしないでしょう」
「園長先生、やっぱりいないっす」
年長の子ども達も総動員して、捜索範囲を広げて探してみたけれど、結果はやはり同じだった。
「あの二人もやってくれるじゃないか」
周りの心配をよそに、園長先生は何故か懐かしそうな顔をした。
「とりあえず、健君も茜音ちゃんが一緒なら危ないことはしないでしょう。ただし、一応警察には捜索願を出しておきましょうか。何かがあってからでは遅いですからね」
「すげぇ……。あいつら駆け落ちしちゃったぜ……」
「でもさぁ、あんなに可愛い彼女いたらやりたくなる気持ちも分かるなぁ」
ときわ園の中で二人の仲を知らない者はいない。茜音は1年半のこの施設での生活を経て、素直な性格に加えその容姿も手伝って、注目度はいつも上位だ。
「おいおい、君たちまでやめてくれよ? とりあえずあの二人には無事で帰ってきてもらわないとな」
園長先生は他の子どもたちに苦笑して答えた。
「茜音ちゃん、もう少しだよ。歩ける?」
「うん。疲れちゃったけどまだ大丈夫」
二人が入った山林の中は薄暗く急な斜面が続いていた。
歩けそうなところを一歩ずつ下っていくと、どうやら沢沿いに出られそうだと言うことは分かったのだけれど、どう行けばいいのかが分からないので、あちこち迷いながら進んでいく。
ようやく二人が苦戦しながら川沿いに出たのは、もう陽も高く昇った頃だった。
「え〜、あんな高いところから降りてきたんだ」
深い谷の上には鉄橋が架かっており、おそらくそれが二人が降りた列車が通る線路なのだろうと思われた。
「茜音ちゃん、洋服汚れちゃったね」
「うん。いいよ。洗えばいいもん」
半袖に半ズボンという軽装な健に比べ、茜音はブラウスにジャンパースカート、足下もスニーカーとは違うので、山道には厳しかったはずだ。
現に茜音の体力は底をつきかけていて、あと少しこの山道が続いていたら、彼女は動けなくなってしまっていたかもしれない。
「茜音ちゃん、やってあげるよ」
河原の石の上で痛くなった足をさする茜音を見て、健が替わった。
「ありがと……」
「茜音ちゃん足細いね……」
茜音の足を裸足にし、力を込めてマッサージをする。みるみる固くなっていた筋肉がほぐれていくのが分かった。
「すごいなぁ。痛いのが飛んでいくみたい……」
「こうやると痛いのが飛んでいくって教わったんだ……」
「えっ?」
健の顔が赤くなっていった。
「茜音ちゃん、よく足が痛くなるって言うから、先生にどうすればいいか聞いたんだ。茜音ちゃんが元気になればいいなって……」
「健ちゃん……。ありがと……」
ぽとりと石に落ちたしずく。健が顔を上げると、茜音は涙を堪えきれなくなっていた。
「茜音ちゃん、泣いちゃダメだよ」
「うん……。約束破ってごめんね。でも……、優しいね……」
最初の頃、泣いてばかりだった茜音を元気付けようと、健は茜音に泣かないように約束した。でも、彼女はもともと涙もろい子だったので、あまり守られなかったけれど……。
二人は大きな岩の上に体を横たえると、お互いの事を話し合った。
今は同じような境遇の二人。けれどときわ園に入る前は全く違っていた。
健の家は家族関係がうまく行っていなかったのに対し、茜音の家は正反対だったという。
他の子達と茜音の一番大きな違いはそこだ。彼女は暖かい家庭を知っているから、自然とそれがにじみ出る。だから小学2年生という幼い年齢にも関わらず、年下からは慕われ、年上からも自然と可愛がられるようになっていた。
「そっか……。茜音ちゃんはみんなと違っていたもんね……。僕みたいに捨てられたわけじゃないもんね……」
「健ちゃん、違うよ。わたしだってひとりぼっちになっちゃって、最初は泣いてばっかりだったよ……。いろんな所からお手紙もらって、知らない人なのにお見舞いに来てくれて、一人じゃないんだって思うようになったもん。健ちゃんと一緒にいたいと思う人がいるはずだもん」
茜音の顔が少し赤くなる。
「茜音ちゃん?」
「わたしね、健ちゃんと会えてよかった。わたしを元気にしてくれたんだよ。しゃべれなくなったのも治してくれたもん。お別れなんかしたくないよ……」
「僕だって、茜音ちゃんが来てから……、茜音ちゃんに教わったんだよ。頑張ってる茜音ちゃんが……」
茜音の寂しそうな視線を見ると、次の言葉が出なくなってしまう。茜音が自分のことを思っていてくれていた。それだけでも気持ちが違う。
「健ちゃん、大きくなってもずっとお友達でいてくれる?」
茜音の潤んだ目で見つめられる。
「友達だけじゃないよ。僕は……、茜音ちゃん好きだぁーーっ!」
最後の方は叫び声になって、谷間に響いていった。
「健ちゃん……」
茜音の方がドギマギしてしまう。それほど彼の告白は彼女の心に突き刺さった。
「言っちゃったぁ」
彼のすっきりした顔を見ると、茜音も心の中につかえていた物が取れていく。
「健ちゃん、また会えるよね……?」
どのみち二人はもうじき離ればなれになってしまう。
ずっとこうしていたい気持ちもあるが、今の自分たちではそれが無理だということは分かっていた。
「茜音ちゃん、10年後、10年後の今日。大人になってここで会おうよ。そしてまた一緒に遊ぼう!」
「うん。約束だよ……」
茜音は疲れたように目を閉じた。出会った頃からスタイルを変えていない、茜音の柔らかい髪の毛からは、ほんのり甘い香りがした。
「健ちゃん……。わたしね……、健ちゃんのこと……」
そこまで出掛かって言葉に詰まる。彼女の気持ちを表すにはどういう言葉を使えばいいのか、茜音は思いつけなかった。
「ごめんね。わたしまだ勇気が出ない……。でも健ちゃんのこと忘れない。約束する」
彼女の優しい視線。明日から来る辛い現実にも、彼女は耐えていけると健は確信した。
夕方、二人は来た道を登り、線路沿いに歩いた。
「足元気をつけてね」
「うん」
ただでさえ、線路際というのは砂利道だったり枕木が横たわっていたりと昼間でも歩きにくい。
それに、二人が過ごしてきたときわ園の周囲とは違って電灯などもない。
陽が沈み、月明かりの中で歩いていると屋内に灯りの点った駅を見つけ、そこの駅員に事情を話した。
こんな山奥だというのに、駅舎の中にいたのはまだ若い夫婦だった。
最初、幼い来客に驚いていた夫妻だったが、二人の話を聞くと怒りもせずに優しく迎えてくれ、お風呂だけでなく、洗濯やお腹いっぱいのもてなしをしてくれた。
「健くんと言ったかな。帰ってから怒られるかも知れないが、茜音ちゃんを絶対に悪く言っちゃ駄目だよ。それに、健くんも茜音ちゃんのことを思うなら、そのくらい平気じゃなくちゃいけない。女の子を守るってのはそういうことだからね」
その駅員さんは茜音の寝顔を見ながら健に話しかけた。
聞くと、その夫妻も大恋愛を両親に反対され、二度と戻らない覚悟で家を飛び出し、今の婦人を連れて家出をしたまま、それ以来は家に帰ることも出来ないでいるという。
だから、年齢は大きく違えど、健の気持ちはよく理解できているようだった。
「そうか、10年か。その頃には君たちも18になるんだな。その時まで今日のことを忘れていなければ、二人の気持ちは本物と言っていいだろう。それまでは辛いかもしれないが、茜音ちゃんのことを思い続けられるかい?」
「はい」
翌朝、連絡をしておいたときわ園から先生が二人を迎えに来た。
2日ぶりにときわ園に戻った健と茜音を誰も怒らず、周りの子たちからはあれだけの騒動を起こした彼らを褒め称える拍手で迎えられたほどだ。
「そういう事をするのは、もう少し大人になってから、今度は相談してくれよな。よく二人とも無事に戻ってくれたよ。茜音ちゃんの体力が心配だったんだ」
園長先生からも怒られるだろうと覚悟していた二人を叱りつけることなどはせず、無事に帰ってきてくれた事を喜んで、最後にそう言い残しただけだった。
その日、二人は最後の時間を過ごした後、翌日それぞれの新しい施設に移っていった。
最後の夜、茜音と健が手をつないで熟睡しているのを見た先生たちは、この短い時間の冒険で何をしたのかは分からずとも、幼い二人の結束が強くなったことを確信していた。
佐々木茜音と松永健、8歳の二人が交わした10年間の約束の時計の針が動き始めた、夏休みの最初の日のことだった。