「よかったら、川の方行ってみる? なにもないけど、景色だけは保証できると思うよ」
まだ夕食の時間までは少し時間がある。茜音に対する警戒心が解けていた千夏が誘ってきた。
「うん、おねがい!」
二人はもうすぐ夕焼けに染まり始める道を河原に急ぐ。
「ここだよ。と言っても川しかないけどね……」
「うわぁ……」
目の前に広がる風景に茜音は言葉を失った。
木立の間を抜けると、そこは急に少し開けた場所になっていて、さっきから聞こえていたせせらぎを発している川が現れる。
川をはさんだ反対側にも畑があるから、軽トラックが通れるほどの幅の簡単な橋が渡されている他は何もない。
茜音が住む横須賀ではもう見ることが出来ない自然のままの河原だった。
水は澄み、涼しげな音を立てて流れている。夕方でなければすぐにでも裸足になって足を浸したくなるような魅力がある。ここに菜都実がいれば一番にはしゃぎ出すのではないだろうか。
さすが四万十川に注ぎ込む支流の一つと言うだけあり、濁りはほとんどない。川底まできちんと見える川を見たのは「あの日」以来だったように思える。
「もう少し下ると本流とぶつかるの。まだ上流だから写真で見るような広い川じゃないけどね」
茜音は川面を見つめたまま黙り込んでいた。
彼女の記憶にあるあの場所とは確かにここは一致しない。それでも、この川の流域であれば、もしかしたら見つかるかも知れないと期待をさせてしまうような雰囲気がそこにはあった。
「茜音ちゃん?」
千夏に言われてハッと現実に戻ってくる。彼女が心配そうに見つめてくれていた。
「ご、ごめんね。なんか懐かしく思えちゃって。でも、ここに来たことはないはずなのに」
間違いなくこんなに遠くまで来たとは思えない。もちろん景色も違う。でも……。
「河原の景色で綺麗なところは他にもたくさんあるよ。同じような景色だから。でも、私にはここが一番気に入ってる。小さい頃はよく真っ暗になるまで遊んで、気がついたら怖くなったときもあったよ」
「そっかぁ。少し山奥に入れば関東でもこういう場所はあるけれど、みんな違った……」
これまで少しずつ訪ねていた場所は、昼間が多かった。
そう、あの日はこのくらい薄暗くなるまでふたりでいろいろ話していたのだと。そのイメージが離れずに脳裏に残っている。
「茜音ちゃんの場合は普通の場所じゃダメなんでしょう?この辺は川の周りが高くないからあまり大きな橋はないんだよ」
「はぅ? どうしてそれを……?」
「お兄ちゃんから茜音ちゃんのこと聞いてるよ。私、最初はそんなこと真剣に考えてるって変な子だなって思っちゃった。でも、茜音ちゃんを一目見て変わった。この人だったらお兄ちゃんの言っていたことも本当かも知れないって」
「千夏ちゃん……」
「ごめんね。でも、都会の人っていうのと、まさか恋愛小説にあるような事を本当に思い続ける人がいるって、最初は信じたくても信じられなかった……本当にごめんなさい」
真剣な顔で頭を下げる千夏。その手をそっと握る。
「謝らないで? わたしも言われるよ。茜音は珍しいって。でも、あと1年で約束の日が来ちゃう……。今時変だと思うよ? 10年も前の約束を信じてるって……。でも、わたしにはそれしかなかったから……。他に何もなかったから……」
そこまで言うと、茜音は口をつぐんでしまった。
「茜音ちゃん、もう暗くなるよ。帰らなくちゃ」
何かを思い出し、耐えるような表情をしながら固まってしまった茜音を見かねて、千夏はそっと声をかけた。
夕日が山の向こうに沈んでしまうと、周囲は急に暗くなっていく。
横須賀では夜になっても家の窓から漏れる光や、店の明かりがそこらじゅうにあるから、夜でも周囲は十分に分かる明るさがある。
ここでは車道の所々に街灯がぽつんとあるだけで、それ以外は本当に真っ暗になってしまう。
二人が千夏の家に向かう道は、あぜ道に毛が生えた程度のものなので、もちろんそんなものはない。
「こんな暗くなるんじゃ、やっぱり怖い?」
「今は平気。小さい頃は怖かったかな。慣れれば星明かりとかでも歩けるよ」
まだ夕焼けの名残がかすかに残っているので、完全な暗闇にはなっていないけれど、女の子二人だけでは何かと不安もあるので、走り込むようにして千夏の家に着いた。
「千夏ぅ、こんな暗くなるまでどこ行ってた?」
「げぇっ、香澄どうしてここにいるん?」
玄関の前で、千夏たちを待ちかまえていたのは、仁王立ちになっていた香澄だ。
さっき車から降りたときにはいなかったはずだから、二人が川辺に行っているうちに、タイミングを見計らって現れたのだろう。
「都会嫌いの千夏が、余所から来た子に会うって聞いたら、どんなのか見たくなっちゃうじゃない!」
「失礼だよ香澄! 茜音ちゃんごめんね……。私の周りこんなのばっかだから」
申し訳なさそうな千夏だけど、そこは同い年でもあるし、普段の茜音の周りも負けてはいない。
それに突然の出来事への対応力は経験からしても茜音の方が上だ。
「千夏、早くお客さんをお部屋に通してあげなさい。和樹ちゃんも来てるんだから、早く手伝っておやり」
「え? 和樹も来てるの……?」
その名前を聞いたとたん、一瞬固まる千夏。
「どうしたの?」
「ううん。なんでもない。ちょっと待っててね」
玄関の上がり口に茜音を待たせ、千夏は勝手口へと消えていった。
「千夏、まさか来てるとは思わなかっただろうなぁ……」
ぽつんと一人残された形の茜音の側に、香澄が苦笑しながら座った。
「さっきはごめん。千夏、ほんと人付き合いが苦手でさ……。実際どうなったのか心配だったんだ」
「そうだったんだ……」
千夏が一度顔を出し、香澄に茜音を自分の部屋に案内するように頼むと、また消えてしまった。
「千夏が初対面の人とあんなに話せるようになるなんて、ちょっと驚きだったなぁ。きっと和樹もそれが気になって押し掛けてきたに違いないんだけど。でも、なんか心配して損しちゃった」
茜音を見て不思議そうに言う香澄だったが、それは香澄がいつも千夏のことを気にかけている証拠だと理解できる。
「あの、和樹さんって誰なんですか?」
2階の千夏の部屋の片隅に荷物を置き、彼女が呼びに来るまでの間、香澄にさっきの様子を話して聞いてみた。
「和樹? 千夏の彼氏だよ。彼氏って言っても、幼なじみだからお互いそんな意識は全然してないみたいだけどね。いい奴だよ」
「そうなんですかぁ……。千夏ちゃんいいなぁ……」
茜音が言いかけたときに、下の階から『夕ごはんできました』と千夏が呼ぶ声が聞こえてきた。
夕食後、千夏兄妹、香澄、和樹、茜音の五人は千夏の部屋に集まった。
それぞれの自己紹介のあと、茜音を除く四人は彼女の計画について詳しい話を聞きたがるのは自然の流れだ。
「もちろんいいよ。じゃぁ、話すね……」
声を一段小さくして、茜音は言葉を続けた。
「……この中で、もう12年前に起きた飛行機の事故を覚えてる人っているかな……?」
雅春を除けば、全員が当時5~6歳だから、覚えていなくても不思議ではなかった。
「確か、山の中に墜落した奴だな……。助かった人がほとんどいなかったって……」
雅春はそこまで言うと、千夏の部屋を飛び出し、しばらくして古いスクラップ帳を持ってきた。
「親父のが残ってた。大事故だったからな。どの新聞にも大きく取り上げられて、テレビじゃそのニュースしかやってなかったってのだけは覚えてる」
車座の中心でパラパラと古い新聞記事を見ていくうちに、全員の目があるところに集中した。
茜音が辛そうに目を伏せる。
「わたし、その時に助けられた一人です……。お父さんもお母さんも、わたしのことをかばって助かりませんでした……」
「まさか……。生存者に佐々木茜音・6歳ってあるけど……、それが君なのか?」
「はい……」
かすかに頷く茜音が、他の四人には本当に小さく見えた。
「片岡の姓は、今の両親に引き取られてからです……。その事故でわたしは家族も全て失ってしまいました……」
そのあとの話を彼女は続けた。失語症になったこと。病院での生活から、児童福祉施設に移ったこと、そして健と約束を交わしたあの最後の日のことも。
「さっき千夏ちゃんに、これしかないからって言ったよね? わたしには他に信じる物が残っていなかったんだよ……。わたしに残っている物なんて何もないから……」
無言で聞いていた四人は、すぐに返す言葉がなかった。
「ごめんなさい。でもね、その約束のおかげでわたし、一人でも9年なんとかやってこられた。結果はどっちでもいい……。ただ、確かめたいの……」
「こいつは……、想像以上に深い話だなぁ。見つけださなくちゃ」
それまで黙っていた和樹も思わず唸る。他の三人も一同に頷くしかない。
「あ、でもすぐに見つかるとは思っていません。覚えてないわたしが悪いんだから」
「そっかぁ。それで一番最初に来たのがここだってわけ?」
「川の上から下まで見て行かなくちゃね」
「まぁまぁ慌てるな。さっきの茜音ちゃんの話だと、ある程度場所絞れそうじゃないか。千夏、下から地図もってこい」
千夏が1階から道路地図を抱えて戻り、五人は高知県の山間のページを覗き込んだ。
「茜音ちゃんの話だと、あまり下流の方じゃないって事が分かる。四万十川沿いで鉄道って言ったら予土線で窪川くらいまでだから、そんなに場所は多くない。ポイントは絞れるさ」
自分の車で走り回ってるだけのことはある。話を聞けば、明日回るその場所では、途中千夏の家の周りよりずっと山奥になり、人家さえも少なくなってしまう場所だという。
「そんな場所なんだぁ……」
「明日は早いぞ。二人もついてくるんだろ?」
こんな話を聞いて、最初から同行する予定の千夏はともかく、和樹や香澄の二人が黙って留守番をしているわけがない。
翌朝の再会を手を振って約束した二人を雅春が車で自宅まで送り届けている間に、茜音と千夏は先に休むことになった。
「茜音ちゃん、また謝らなくちゃね……」
「ほえ?」
本当は客用の布団も用意してくれていたのだけれど、千夏は茜音を彼女のベッドに招いた。
「だって、茜音ちゃんの話、聞けば聞くほほどすごくって……。それなのに、なにも知らないで私ったら……」
「え? 全然謝ることじゃないよ。それにわたし、自分のことをそんなふうに思ってないもん。必要なことなんだって思ってる」
「そうなの?」
「それに、連絡がとれないくらいに離れたから、わたしの気持ちが変わらなかったんだと思う……。わたしの見た目が昔から変わらないのも、そういうのがあるんだよね……」
茜音の外見は、身長こそ大きくなっているものの、服装の趣味や髪型などは当時から大きくは変えていない。
育った環境もあるけれど、やはり茜音の中では当時と変わってしまうことによって、あの日が風化してしまうことを避けたいというのが根底にある。
「そうなんだぁ。やっぱり意識してたんだぁ。そうだよねぇ……」
考え込む千夏。茜音はふと帰りがけに香澄が言い残していったことを思い出した。
「ねぇ、千夏ちゃんは和樹君との事はどうなの?」
「へっ? な、なによぉ!?」
突然自分のことに話がふられてしまい、薄明かりの中でもはっきり分かるほど千夏は動揺している。
「ごめんごめん。でも、幼なじみなんだよね……。いいなぁ……」
「そうかなぁ。いつも邪魔くさくいるから、茜音ちゃんみたいな思い出なんかないよっ」
ぷいとそっぽを向いてしまう千夏。本人が気づかないだけで、茜音には千夏の気持ちは十分に感じられた。
彼が現れてからの千夏は、本人としては周りに気づかれないようにしているものの、どこかわざとよそよそしくしている。
きっと気付かれていないと思っているのは本人だけだろう。
「わたしは……、もう幼なじみも誰も今はいない……。だから、千夏ちゃんが羨ましいな……」
「茜音ちゃん……」
さっき、自分のことを語ったときの茜音のことを思い出すと、千夏にはなにも言えなくなってしまう。
「私だって、和樹のことは気になってるよ……。でも、そう言う雰囲気じゃないんだぁ……」
「そう?」
「うん。だって幼なじみってそう言うものじゃない? 彼氏とか彼女って雰囲気にはならないもん……」
つきあいが長くなればなるほど、いわゆる恋人という雰囲気から外れていってしまうというのは良くあることで、それが幼なじみとなればなおさらかもしれない。
「そうだったなぁ。でも、お互いそれがなんとなく分かるってものだと思う。健ちゃんともそんな感じだったなぁ……。好きとか嫌いじゃなかったよ……。家族だったな……」
文字通り、突然のことで肉親を失った茜音には、彼の存在はまさしく家族だったから。
「そっか……。私も和樹とそんな感じになれればいいな……」
しばらくして千夏がそう答えたとき、早朝からの長旅だった茜音は静かな寝息を立ててしまっていた。
「千夏ちゃん、おはよう」
「茜音ちゃん、疲れてたんだね。よく寝れた?」
「うん、なんか先に寝ちゃってたみたい。ごめん……」
翌朝、まだ太陽が顔を出す前に目を覚ました二人。それにも関わらず千夏の兄の雅春は、既に和樹と香澄を迎えに出たあとだった。
大急ぎで身支度を済ませ、全員分のお弁当を詰めていたときに、車が戻ってきた。
「あれ? お兄ちゃんいつもの車と違う?」
千夏が驚いたのは、いつも雅春が乗り回しているコンパクトな乗用車ではなく、ミニバンになっていたから。
「あれも五人乗れるけど、長旅になるだろうから、広い方がいいだろ?」
昨日、茜音を迎えにいったときに乗り替えたなら別として、こんな早朝からレンタカーを借りることはできないから、知り合いに頼んであったらしい。
「さすが」
「その代わり、借り物だからナビとかは使い慣れてない。誰か地図を見ること。千夏見るか?」
方向音痴な自分に地図を持たせるなんて、それこそどこに行くか分からない。
「えー? なんで私? 和樹見てよ、男でしょ?」
「俺?」
もう理由は何でもいい。千夏の頭がフル回転して、ようやくひとつの理由を見つけ出した。
「この間、出かける約束をすっぽかした天罰!」
「そーだそーだ。あのとき千夏は和樹のこと健気に待ってて結局どこにも行けなかったんだから、そのくらいちょろいもんでしょ」
「げ……」
結局千夏と香澄に弱みを握られていた和樹が助手席で地図を見ることになり、女子三人が後部を占領することになった。
「うーん、どうしようか。一口に四万十川と言っても、本流支流合わせるときりがないし、その中で橋が架かっているのも数が多いから、鉄道の橋に絞っていけばいいのかな?」
雅春の言うとおり、四万十川と名前の付く本流は全体のごく一部で、途中でいくつもの支流が合流している。
「わたしはこっちの地理全然分からないから、お任せするしかないんですけど。道路の橋は記憶にないので、それで大丈夫だと思います」
「なにせ四万十は橋だらけだからねぇ」
「そんなに多いんですか?」
香澄のつぶやきに心配になって尋ねる。
「大丈夫だよ茜音ちゃん。全部の橋を探し回ったら大変なことになるけどね。もともと四万十川は沈下橋だらけだから……」
その心配そうな顔がよほど気の毒そうに見えたのか、千夏がすかさずフォローを入れた。
「ほえ? 沈下橋……っていうの?」
「あれ、わざわざこんな遠くの川まで橋を見に来るから、知ってるのかと思ったよ。じゃぁせっかくだからそれを最初に見せてあげなくちゃね」
香澄の一言で鉄橋とは違うけれど……と、最初の目的地が決まった。
千夏の家に来る時は、反対側に座っていたので気づかなかったけれど、道路はずっと川の横を走っている。その川は、昨日千夏に連れられて行った小川の下流になるのだろう。澄んだ水は車の中から見ていても分かる。
「もうすぐ本流に出るよ」
細かった道が終わり、T字路を曲がると、これまでの支流が広い川に合流していた。
「まだこの辺はどこに出もある普通の川と変わらないよね」
道路の右側を流れているのが、四万十川そのものだと気が付くのに、時間はかからなかった。
「あれがそうなんですね……」
茜音とて四万十川の名前は聞いたことがあるし、よく最後の清流として紹介されるのを知っている。
しかし、車の中からちょっと見る分には、田舎を流れる普通の川と見かけは変わらない。
車はしばらく走ったところで線路と平行に走り出す。そこから数分の道端に車を停めた。
「さぁ、ここからは歩いて行った方がいいかな」
促されて車を降りてみると、確かに川の方にゆるやかに降りていく側道はこれまで走ってきた片側1車線とは違って細い生活道路だ。
「うわぁ……」
ため息とも歓声とも言えない声を上げる。
細い側道はゆるやかに川岸まで続いており、川向こうにある集落まで橋を渡って道が続いている。
「あれ……?」
その橋は、普段茜音が見ている橋と違うとまず思った。
「そう、これが沈下橋って言うの」
千夏の説明によれば、昔から四万十川は氾濫を起こしやすい川だったので、普通に橋を架けてもすぐに壊れたり流されてしまう。そこで、水位が上がったときには橋が水の中に潜ってしまっても構わないように作られた橋のことだという。
普通の橋との最大の違いは欄干がない。欄干をなくすことで、水面下に橋が潜った時に、流木などが引っかかって壊れてしまう心配を無くしている。逆を言えば、橋の上から落ちる物を防ぐ物がない。
「凄い綺麗だけど、ちょっと怖いかも……」
沈下橋は概してあまり幅は太くなく、車1台がやっとという物が多い。手すりがないので、慣れない者にとっては真ん中を渡るのも怖く感じてしまう。
「ここは、昔から子どもたちの遊び場としても有名で、よく連れてきてもらったんだ」
聞いた話だと、和樹はこの近くに親戚の家があるそうで、このあたりの橋や川は絶好の遊び場だったらしい。男の子同士であれば、川に飛び込んだり、釣りをするにはもってこいの場所だ。
「小学校の頃に社会科見学で行った一斗俵沈下橋なんか、昭和10年だって。あの頃から危なくて通行禁止になってるけど、あそこを好きで渡る奴はいないだろう? ここの長生沈下橋だって確か昭和35年だって爺さんが言ってたな」
「うん、そうだったね……。あ、茜音ちゃんあんまり端によると危ないよぉ」
千夏が茜音の袖を引っ張る。水面まではそれほど高さはないけれど、やはり怖い物には違いない。
「あ、うん。でも、ほんと綺麗……。ここでもまだ中流なんですよね?」
茜音は周りを見回してみた。確かに周辺には人家が少ない。それでも、川幅はゆうに100メートルはある。中流ともなれば、川底を見ることさえ難しくなってしまう場所もある。それがここでは、千夏の家のそばの小川同様、川底まできちんと見えていた。
「だんだん小川みたいになっちゃうけどね。でも、そっちに行くと、時間無くなるなぁ……」
四万十川の全域を回るためには、どれだけ急いでも2日ほどはかかってしまう。茜音の主たる目的がなければ、日程からすれば可能だが、今回はそうは行かない。
「大丈夫。帰りにそっちを回るようにするから。とにかく出発しようか」
雅春に促され、ようやく本題に向かうことになった。
出発前に今日のコースをみんなに説明する。
千夏たちの通う高校の近くにJR予土線が走っており、今回はその線路にそって進められることになっていた。四万十川本流と、宇和島に向かう山岳地帯を含め、全部で10カ所ぐらいだという。
「これより東になると、もうある程度開けた場所になるから、どちらかというとここから西だろうな……」
地図を見ながら、雅春の言うことを聞いてみる。全体地図や流域図を見る限りではそれほど広い地域ではない。しかし……、
「道狭いから、後ろの席も喋ってないでしっかり前見ていないと危ないぞ」
助手席で和樹が言うと同時に、車は急カーブを切った。
「もうー、もう少し丁寧に運転してよねぇ……」
「これでもトンネルができたりしてよくなったんだ。昔はもっとひどかった。旧道だったらこんなに飛ばせない」
普通、国道や県道と言う物は、最低でも片側1車線ずつはあって、整備も行き届いてると思いがちだが……。それは都市部や幹線道路の一部だと言うことが分かる。
ここ四万十川の流域も例外ではない。川に沿って走る道は、地図上には県道と記載されてはいるものの、場所によっては車が1台ようやく通れるような細く曲がりくねった田舎道の場所もまだ残る。
すれ違う車のことも考えたら、それほどスピードを出せるような場所ではない。
そんな道が続くものだから、地図上の地域は狭くても、実際にそこを回るには相当の時間がかかってしまう。
鉄橋を探すために、途中で車を止めながら、ようやく最初の場所に着いたのは、千夏の家を出発してから、2時間は経ってしまっていた。
「さぁ、着いたぞぉ」
「うわぁ~」
先ほどの沈下橋の所では、川は平野を流れていた川が、また雰囲気は山の中に入ってしまったように見える。
周りを見ると、今走って来た道路は川沿いに作られた細い道路で、反対側は少し開けている感じだ。まだ人の気配はする場所に、少しほっとする。
「あそこに鉄橋があるだろ?そっちまでちょっと車が入れないもんでね」
雅春も河原まで降りてきて、茜音に教えた先には、立派な鉄橋がかかっている。この場所はよく列車の撮影ポイントなどに使われるそうで、比較的河原も広い。
茜音は周りを見回してみた。あの当時から9年という年月が経っていること、当時の彼女の年齢からの視線や見え方の違いなどを考慮すると、簡単に判断はできない。
当時は大きく見えたものが、成長と共に小さく、別の物のように見えてしまうのはよくあることだ。
これまでの調査と同じく、茜音は全体の風景よりも、頭の中にある1つ1つの記憶の部品との照らし合わせを念入りに行っていた。
1つでも一致しそうなものがあったら、他にも探していく。全てを試してみて、当てはまらないと思ったら断念する。その繰り返しだった。
「ごめんなさい。次に行ってみてください」
河原に降りて15分ほど。茜音は千夏と雅春に告げた。
「了解。それじゃ次行ってみようか」
車に戻って、次のスポットを探して車を走らせる。
周りの風景は、前よりも山奥に来てしまったように見えるのに、実はさっきよりも下流だと水の流れがちゃんと教えてくれている。不思議な川だ。
それから数カ所、それらしい場所に止まってみたものの、茜音の琴線に触れる場所は現れなかった。
「ごめんなさい……。こんなに広くて時間がかかるって知らなかったから……」
道の駅に車を止め、積み込んできたお弁当をみんなでつつきながらの昼食。茜音はメンバーに頭を下げた。
「そんなので頭下げないでよ」
香澄は茜音の肩をたたく。もともと根気が要る作業だとは、茜音の話を前夜に聞いて、覚悟はしていたこと。
「まぁ、時間かかることは確かだよねぇ」
「このペースなら今日で回りきれるよ」
「あんまり茜音ちゃん急かしちゃダメだよぉ」
地元の四人も、これまで通り過ぎたことはあっても目的を持って止まりながら来たことはなかったので、いろいろ新しい発見があって楽しんでる様子に救われた。
「どう?こんな感じの所だったのかな?」
雅春が聞く。茜音がこの流域に来ていることは、登録しているSNSなどにはもう流れている。彼女の話に賛同してくれ、情報を提供してくれている人たちに、結果は報告しなければならない。
次に備え、次の候補地での彼女たちのサポートを行うための体制が、茜音の候補選びとは別のところで雅春達の手によって作られつつあった。
「はい、こんな感じな所ではあるんですけど、これだって決め手がないんです……」
「そうか……。とにかく次に進んでみようか」
地図で大まかな目的地を確認すると、車はまた走り出した。
次に車を止めたところで、車を降りた茜音に急に身震いが走った。
「似てるかも……」
そこは町境の山の中で、近くにあるのは清掃工場があるくらい。道も狭く、普通であれば早く通り過ぎてしまいたくなるような地域にその場所はあった。
一段と谷が深くなっており、見上げると大きな鉄橋が川と道路をまたいでいる。
「茜音ちゃん?」
千夏が茜音の異変に気が付いた。
「ちょっと、下まで降りていきたいけど、行けるかな……」
「行ってみる?」
その付近は、かなり急な切り込みになっていて、茜音一人で降りるのは不安だ。
「和樹! ちょっと手伝ってあげて!」
千夏が車に向かって叫ぶ。
念のためのロープなどを和樹が持ち、少しでも緩やかな場所を探している。
「千夏は危ないから上にいろ」
「えー? 連れてってくんないの?」
「何かあったときに二人同時は無理だ」
「でもぉ……」
駄々をこねる千夏をなんとかなだめ、二人は坂を下りて行った。
「うー、こんなひどい山だったかなぁ……」
比較的緩やかな場所を選んでいるつもりでも、それなりに危ない場所はある。
「今日の服装は正解だ」
今日の茜音は、スカートの多い茜音にしては珍しいデニムのパンツをはいていた。あの当時、河原で気が付いたら随分とスカートが汚れてしまっていたことを思い出してのことだ。
「うん。千夏ちゃん来たら汚れちゃってたよ」
「あいつ、これまでも何度か危ない目に遭ってるんだ……。それなのに全然反省しねぇもんな」
「え?」
ちょっと強がりで好奇心がありそうな千夏。でもそれは彼女の本心からではない。
道も険しくなってしまったので、それ以上の会話は続かなかった。黙々と急な斜面を降りていくうちに、急に水の音が大きくなった。
「さて、着いたぞ」
出発してから20分ほどで、二人はようやく河原に着いた。上を見上げると道路からかなりの高さを降りてきたことが分かる。
「じゃ、ちょっと待ってて下さい」
これまでと同じように、茜音が周りを見回した。
情景的に言えば、この場所はかなり当てはまるところが多い。
しかし、今降りてきた山道を7歳の自分が降りてこられたかと言うことに一番の疑問が浮かんでいた。それに鉄道の線路はもっと高いところにある。
彼女は河原を歩き回って、これまでと同じように座り込んで上を見上げた。
15分ほどで、休んでいた和樹の元に戻った。
「どうだった?」
「……ごめんね……。凄く似てるんだけど、どこか違う……」
申し訳なさそうにしょげる茜音の背中を、和樹はポンポンとたたいた。
「そんなに気を落とすなって。なんかその気持ち分かるな。景色は似てるんだけど、どっか違うんだよな。この辺りは同じような場所ばっかりさ。また探せばいい」
茜音は、千夏が彼のことを想うのが分かる気がした。
こんな人が幼なじみなら、あの千夏も安心して彼のそばにいたいと思うようになるだろうと。
「和樹さん、優しいですね。千夏ちゃんが羨ましい……」
茜音のつぶやきに彼は笑った。
「君のその彼氏の方が凄いと思うぜ? ガキの頃だったけど、もう茜音ちゃんを連れだしたんだからな。俺もその位しなくちゃならないかも」
和樹は、昨日の茜音の話を聞いてショックを受けたと続けた。
「でもさぁ、千夏の奴、どこまで本気だか分からねぇし」
「和樹さん、千夏ちゃんのことどう思ってるんですか?」
「千夏? 幼なじみだけど、結局あいつが一番俺のこと分かってくれてる。俺が結構無茶やっても、あいつだけは許してくれたからな……」
斜面を登る準備をしながら和樹は笑う。
「さっきさ、千夏が危ない目に遭ってるって言っただろ?」
「はい」
「あいつさ、ドジだから何回も沈下橋から落ちたりしてんだ。溺れそうになったこともある。でも、いっつも俺の後くっついてきてさ。仕方ないから俺が泳ぎ教えたんだよ。おまえには命いくつあっても足りないから教えてやるって」
「千夏ちゃん……」
「あいつ強がりだろ? 困るんだよなぁ。ああいうのが一番。茜音ちゃんみたいな女の子の方が見ていて楽なのにさ」
口では千夏のことをバカにしながらも、ちゃんと彼女をいつも見ている。幼なじみというのはこんな存在なのだと。
「和樹さん、これからも千夏ちゃんのこと、守ってあげてくださいね……」
「あのじゃじゃ馬を見続けろっていうのかい?」
茜音は笑顔で頷く。
「千夏ちゃんが危ない目に遭う前に、守ってあげるのが男の子の役目だと思うよ」
茜音は和樹と再び坂を上りながら、そう言って笑った。
日が西にだいぶ傾いた頃、車はようやく最後の場所にたどり着いた。
「さぁ、今日は結果はともかくこれで最後だよ。どのみち、ここから別の場所に行こうとしても、夜になっちゃうしね」
車を道路脇の空き地に停めて、運転席から振り向いた雅春から説明を受ける
この辺りはもう四万十川の本流ではない。
すでに高知県からも出てしまい、隣の愛媛県に入っていた。線路はこの辺りまでは川と並行して走っているけれど、そのあとは比較的平地を走るようになり、茜音が目指すような場所ではなくなってしまう。
後部のスライドドアを開け、茜音が真っ先に飛び出し、千夏がそれに続く。
川岸への下り坂を降り、川砂利の上を鉄橋の付近までゆっくり歩みを進める。
「どう……?」
隣を歩く千夏が恐る恐る聞いた。
今日1日見続けてきた他の場所と同じように、このあたりも大きな集落はほとんどない。
鉄道の線路と通ってきた道の他にある人工物は所々にぽつんと建つ民家だが、そこに人が住んでいるかまでは分からない。
これまでと同じように、どちらかと言えば寂しい場所。
茜音は、最後の場所であることと、陽の光が弱くなっているのも手伝って、それまでよりも注意深く周りを見回した。
頭上にかかる鉄橋だけでなく、河原の風景やむき出しになっている岩の感触まで。
見て触って、あの当時の思い出の風景と、目の前の風景の中で少しでも重なるところはないかと念入りに照らし合わせていった。
しかし……、
「ごめんね……、千夏ちゃん。ここも違う……」
申し訳なさそうに、茜音は首を横に振った。
「そっか……」
力を落としたように、石の上に座り込んだ茜音の元に、千夏は駆け寄った。
「ごめんね。ずっと付き合わせちゃって」
「ううん。茜音ちゃんこそ、ここまで来てくれたのに……」
今回の結果は誰のせいでもない。最初からそれは分かってはいるけれど、千夏は茜音に申し訳なく思っていた。
「ほえ? いいんだよぉ……。覚えていないわたしが悪いんだもん。あと1年あるから、それまで頑張るよ」
「なんか、その気持ち、凄いなぁって思ってるんだ……。私だったら出来ないかも……」
千夏は車を見上げた。他の三人は夕食の場所を検索サイトで探しているはず……。
「千夏ちゃんには和樹君がいるでしょ?」
前の場所で、和樹の気持ちを察した茜音だったけれど、敢えてそれは出さないようにする。
「和樹のこと、そこまで思えるかどうか分からないよ……。茜音ちゃんみたいに、大事な思い出があるわけじゃない。小さいときからの腐れ縁ってやつ?」
「そっか……」
でも、千夏の本心はそうじゃない。分かってはいるけれど、それは黙っていることにした。
「昨日の夜、どこまで話したっけ?」
今日は朝からずっとみんなで一緒にいたからこんな話はできなかった。
ようやく二人きりになれたこともあって、千夏はぽつりぽつりと和樹との思い出を語り始めてくれた。