「なるほど……。それは良かったんだか、突然すぎたんだか……」
数日後、ようやく学校に出てきた茜音は、今回の旅行中の出来事を話した。
「あまりにも唐突だぁなぁ……。でも、なんか情報はもらえると思ってたんだろ?」
「ううん。全然。本当に、もしダメだったらそのあとどうしようって、そればっか考えてた……」
確かに、今回の旅行は期限直前ということもあり、テスト休みと学校を無理に休んで信州・東北のこれまで回っていないところを駆け抜けるという超強行軍になるはずで、だからこそ茜音が一人で出発した。
いわば彼女にとっても背水の陣だった。
残る二人もネットでの情報を逐次旅先の茜音に送り続ける役目もしていたのに、突然連絡が途絶え、動きが分からなくなったと思ったら、次には日程をすべて切り上げ、帰路についたという。
最後の探索の旅が無駄でなかったことがようやく分かったのだが、二人が思っていたとおり、茜音の不安はその次に向けられていた。
「そんでもさぁ、来週末でしょ? もう悩んでいる時間もないような気もするんだけど?」
菜都実が言うように、その日はもう次の週末に迫っている。これまでの流れで行けば、当日その場所に行くだけで目標達成だ。しかしなかなか単純にものごとは進まない。
「そうなんだけどね……」
「まぁ茜音の場合、別格だよ。思い入れの深さが違いすぎるし……。でも茜音、これで何もしなかったら、それこそこれまでの時間何やってたのって事になっちゃわないかな」
「そうだよねぇ……」
もちろん、茜音もそれは十分に承知している。
昨年までの9年間は思い出を引きずりながらも、どうしたらいいかを考える日々だった。その場所を探しに行くにしても、自分の知識と経験だけでは広範囲に出かけることは出来なかったし、自分一人で全国を渡り歩くということも、さすがの茜音の両親と言えども許してもらえることではなかった。
最後の1年に突入し、菜都実や佳織を巻き込んでの日々。彼女たちの協力に応えるためにも自分は行かなければならないことも分かっている。
「茜音……」
言葉を発しなくなった茜音に、佳織はやさしく声をかけた。
「茜音、もう今日はまっすぐ家に帰りな。そしてよく考えて。茜音が健君に会いに行こうと行かなくても私たちは気にしないから……」
「佳織……」
一応シフトが入っていると渋る茜音を、二人は家まで送り届けることになった。
「ごめん……。情けないなぁ……。本当は胸躍らせていなきゃいけない時間なのにね……」
そして、翌週に入ると、教室の中では妙な空気が流れ始めた。もちろん原因は一つしかない。
昨年の秋以来、学校中で知らない者はいない物語の終結の日が目の前に迫っているというのに、肝心のヒロインであるはずの茜音の様子がどんどんおかしくなっていくのに、佳織と菜都実を除く周囲は戸惑いを隠せなかった。
自分が原因で、悪いことだとは分かっていながらも、ついには周囲の目が気になって教室にいることができなくなり、保健室での自習に切り替えたほどだった。
最初は仕事を休ませて考えるように勧めていた二人も、せめて仕事中は気を紛らわせることが出来るかもしれないという茜音の訴えで、ここ数日は時間が許す限り店の手伝いをしてもらっている。
そして、残り2日となったとき、夕方のお店に一人のお客がやってきた。
まだ夜のメニューに変えるための準備をしているところで、テーブルのセッティングを変える作業をしている後ろで、店の扉が開いた。
「いらっしゃいませぇ……。あれー、萌ちゃんだぁ」
「こんにちはぁ」
入り口に立っていたのは、今ではすっかり茜音と仲が良くなった大竹萌だ。プライベートでも遊びに行く回数も増え、時々こうやって店にも双子の姉の美保と一緒に顔を出してくれる。しかし、今日は萌一人だけ、しかも大きめの袋を抱えている。
「こっちどうぞ。なんか大変そうだねぇ……」
大事そうに抱えている袋はそれほど重くはないらしい。
萌は店内に他の客が居ないことを確認すると、茜音を呼んだ。
「ほぃ? なに?」
「茜音さん、今週末でしたよね……?」
「う、うん……」
「話は佳織さんから聞いています。でも、今日は説得しに来たんじゃないです。ただ、渡したい物がようやくできあがったんで届けに来ただけです」
きょとんとする茜音に萌は持ってきた紙袋を渡した。
「すみません。ラッピングもしていなくて……。でも間に合うかどうか分からなくて……。やっと今朝出来たんで、急いで持ってきました」
茜音は手にした袋の中身をのぞき込むとはっとして顔を上げた。
「これは……」
茜音はもう一度それを見ると、静かにそれを取り出した。
「服?」
ただならぬ気配を感じた佳織と菜都実も二人の元にやってきて、袋から取り出された物を見る。
「もう着られないって思ってたのに……。自分じゃ作れないから……」
その服を全員見たことはある。しかし、それは目の前にあるものとは比べ物にならないほど小さいもの。
萌が持ってきたのは、それを今の茜音のサイズに起こしなおしたものだった。
白いレースの付いたブラウスと、淡いブラウンの生地をベースにしたシンプルなジャンパースカート。
ブラウスは既製品で済ませたのかと聞けば、いいものが見つからずオリジナルをコピーして起こし直したという。
確かに萌が遊びに来たときに、熱心に見て携帯電話のカメラで写真も撮っていったのは覚えていて、当時は「参考です」というコメントを聞いていたけれど、それがこんな形になってくるとは思ってもみなかった。
「いろいろ思うことはあるかもしれませんけど、やっぱり当日は昔に戻って話したいんじゃないかって思って、思い出せる限り作ってみたんです」
「うわぁ……」
「すげぇなぁこれ」
二人もその出来映えに驚いているが、一番驚いているのは当の茜音だった。
「これ……、本当に着ていいのかなぁ……?」
「もちろんですよ。たぶん大丈夫だと思いますけど、サイズとか見てもらえませんか?」
萌に言われ、茜音は再び奥に戻っていった。
「しかし、当日の衣装としては最高の準備だなぁ」
「茜音さん、あの服が凄い気に入っているって言ってて、でも手に入らないから無理だって言ってたんです。本当は、もう1着頼まれていたんですけど、こっちを優先しちゃいました」
どうやら、本来頼まれていたものの順番を繰り上げて、茜音にも内緒で作ってしまったようで、急ごしらえながらも、なんとか間に合ったという感じらしい。
「確かあの服ってそもそもオリジナルなんだから売ってないはず……。時間かかったでしょう?」
佳織はお店の冷蔵庫から冷えたアイスティーをグラスに注いで萌に渡す。
「髪型も昔から変えてないんでしょ。そうすると10年前の茜音がもう一度見られるわけだ」
「小物類までは再現できませんでしたけど……」
「へーきへーき。茜音のことだから、そのくらいはちゃんと持ってるって」
そんな三人の背後に立つ気配がした。
「おかえりーって、うわぁ……」
「そのまんまですねぇ」
「あんたいくつ?」
学校帰りだったので靴下や靴、髪を留めているゴムなどは学校時の仕様だから仕方ないとして、それを身につけた茜音は一気に年齢が下がったように見えた。
もちろん身長が当時よりも伸びているから完全というわけではない。それでも最近の小学生の高学年では彼女を追い抜くような子もいる。ただでさえ同年代よりも幼い雰囲気の茜音だ。全く違和感なく着こなしてしまった。
「萌ちゃん……、ありがとぉ……」
当の本人が一番感激しているらしく、その声は震えていた。
「本当に、よく似合います。やっぱり元のデザインは子供服だから、アレンジしても作ってるときはちょっと不安だったんです。でも、よかった」
「へぇ、これは見事だよな。みんな見たら驚くだろうなぁ」
普段から茜音はほとんどノーメイクだから、これで全体の小物系を揃えれば、本当に背の高い小学生で通ってしまうかもしれない。
よく見れば顔つきはやはりそれなりに整っていて、全体のバランスは年相応ではある。それでもこの服に衣装替えしたときの雰囲気はそんなものを一気に吹き飛ばしてしまうだけの威力はありそうだ。
「これで当日の衣装は決まったな」
菜都実の一言で、茜音は顔を曇らせた。
「そう……、だねぇ……」
「茜音、あんたここまでやってもらって、まだウダウダ言ってんの?」
「まぁまぁ」
声を荒げそうになった菜都実を佳織は押さえる。
「いいんですよ、茜音さんが悩んでいる気持ち、本当に分かりますから」
「萌ちゃん……?」
萌は盛り上がっている二人とは逆に、年下とは思えないくらい落ち着いた声で続けた。
「私も、あのあとに、大切な人ができました。私がその人を見ていなかったときも、ずっと私のこと見ていてくれました。でも、最初にそのことを告白されたとき、私、どうしていいか分からなかったんです。自分はその人の想いを知らずに5年間も過ごしてしまったんです。でも、今は一緒にいるのが嬉しくて、あのとき悩んでいたけど、結果は本当に良かった。私もいろんな人に迷惑もかけたし、それに一人になるのはもう嫌ですから……」
萌の言いたいことは痛いほど茜音も分かる。彼女も大切な人を何度も失って、自分を見失っていた時期があった。結果的に今は支え合っていける人がいるというのは、やはり自分がいつまでも閉じこもっているわけにはいかないということだ。
これまでにあちこちを渡り歩き、各地で応援してくれた人の顔が浮かぶ。それに、自分はやはりこの先にどうするかを決めるためには、結果がどうであれ向かわなければならない。
「萌ちゃん、ありがと。うん、大丈夫。ちゃんと行ってくる。行かないとこの先に進めないよね」
顔を上げた茜音の表情はどこか吹っ切れたようにすっきりとしていた。
「そうですね」
「この服使わせてもらうね。なんか10年前の素直なときに戻れそうだし」
「おし、んじゃ明後日の足を考えておくわ。あとで場所教えてな」
「いいよぉ。電車で行く。あのときと同じに……」
「あれだけ探して大変だったんだから、どれだけ不便なところに行くつもり?」
佳織に押し切られ、結局以前と同じように佳織の従兄の車で出発することが決まった。
その日、茜音は店の閉店後の片付けまでをきちんと終わらせた。
夏休みに入り、バイトもフル回転のはずだったが、出発を控えていることを考慮したマスターは茜音のシフトを帰ってくるまで頑として入れなかったから、これが当初の目的での仕事をする最終日ということになる。
「本当に、ありがとうございましたぁ」
学校の制服に戻り、店から出るとき、茜音はマスターに深々と頭を下げた。
「明後日、頑張ってね。まぁ、この先もうちの看板娘として来てくれるとありがたいんだけど」
「はいぃ。分かりました。これからもお願いしますぅ」
もう一度頭を下げると、茜音は暗くなった店を後にした。
早朝、菜都実が出発前の準備をしていると、突然スマートフォンの着信音が鳴った。画面を見ると主は佳織である。
「どうした? まだ時間はあるでしょうが?」
「大変! 菜都実早く支度して!!」
普段は何があっても冷静に判断を下す佳織が相当取り乱しているということが声だけでも分かるほどの慌てぶりで、菜都実は面食らった。
「なんかあったの?」
「いいから早く来て! 茜音がもう一人で出かけちゃったの!」
「はいっ!?」
寝ぼけていた頭を一気にフル回転させるための一撃としては十分すぎる。
「分かった? すぐに行くからその準備しといて!」
確かに出発の直前まで行くことには迷っていた茜音。しかし、最終的には約束の場所へ赴くことを約束したし、現地までの足もちゃんと確保できている。それなのに、なぜ茜音が単独行動を取ったのか、今はその疑問でいっぱいだ。
大急ぎで支度を済ませ、家の外に飛び出したときには佳織を乗せた車はもう到着していた。
「さすがに車は速いわな。目的地はわかってんの? 茜音最後まで教えてくれなかったじゃん?」
車は菜都実がドアを閉めるやいなや急発進した。
「場所? とにかく今から新潟に向かうわよ……」
「新潟だぁ?」
思いもしなかった地名にぽかんとした菜都実、佳織は小さく震えている。
「もっと早く気づいてあげるべきだったのよ……。茜音の部屋にあったこの時刻表に……」
震える手が菜都実に渡したのは、もう数年も前に発行された大型の時刻表の表紙をコピーした物だった。
「どこよここ? それにそれらしい橋は写ってないじゃん?」
菜都実の指摘通り、それらのコピーには茜音の目的地とおぼしきシーンは写っていない。
「私もそれで気づくのが遅れたのよね……。慌てて地図を見たらそんな地形がゴロゴロしてるじゃん……。間違いなくこの只見線に向かってるはず……。それに……」
言葉を濁した佳織の表情はさらに険しくなる。
「それになんさ?」
「茜音、書き置きまで書いて行ったのよ」
「なんで?!」
見つからなかったらいざ知らず、そもそも場所は見つかっているのだ。それに今の情報では茜音は現地に向かっているはずである。彼女自身が責任を感じてしまうような落ち度はないはずだ。
「もし、帰らなくても探さないで欲しいって……」
「それって遺書じゃないよ!? そんな事言われて黙ってるアホがいる?」
一昨日、お店の後片付けをしている時の茜音の顔を思い出す。昼間の一件もあったが、あの日は先に進むことを決めたはずだ。しかし、よく考えると、何かを思い詰めたような表情を見せることもあった。
昨夜は携帯に『今までありがとうねぇ』というメールが入っていた。そのときはいつものセリフだと思って適当に返しておいたのだけど、きっとそれはすでに出発してからのものだ。物語の結末によっては最悪の場合に二人への最後のメッセージになることを、分かっていて書いたのかもしれない。
「あのバカ、ずっとそんなこと考えていたのかな」
「わからないよそんなの。とにかく茜音に追いつかなくちゃならないのよ」
「本当に現地に行ったんだろうね?」
それ以外に選択肢はないと思いながらも、菜都実は聞かないではいられなかった。
「うん、間違いなく出かけたはず。一昨日の服も部屋にはなかった。それに、茜音が本気で思い詰めたとすれば、他に行く場所なんて無いと思うの」
「そうか……」
二人とも茜音のこんな行動に戸惑いを隠せないが、やはり他の場所に消えてしまうと言うことは考えにくい。しかし、菜都実には消えない疑問があった。
「でもさ、こんな夜中に動いている乗り物なんてあんの?」
佳織は悔しそうに頷いた。
「終点じゃないから見逃してたわ……。一つだけ方法があったんだよ。新宿から新潟行きの夜行バスがあって。それに乗ると3時過ぎに小出のバス停に停まる。歩き慣れてる茜音の足よ。そこからなら只見線の8時前の始発に歩いても間に合うのよ」
二人とも時計を見る。順調ならもうすぐバスが小出に到着する時間だ。横須賀からどんなに急いで国道や高速道路を走り抜けたとしても、列車が発車する前に追いつくことは無理だ。
「何はともあれ、茜音を捜し出すのよ。あんな格好の子なんてそうそういるもんじゃない。手がかりを見つけるのは楽よ」
佳織は自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
佳織と菜都実が慌ただしく出発した頃、茜音を乗せたバスは一路関越道を北に向かっていた。途中の通過時刻を見ている限り遅れはなく、早めの到着となりそうだ。
夏休みが始まって間もないということもあり、夜行バスでありながら学生グループや家族連れなども見られたので、茜音が一人その中に紛れ込んでいたとしてもあまり目立つことはなかった。
「ふわ……」
小さくあくびをかみ殺す。
結局昨日は昼間を含め、一睡もできなかった。
悩んだあげく一昨日の夜にこの行程が組めることを見つけ出し、昨日の朝1番で切符も自分で取った。
夜中に通過するバス停での途中下車ということもあり、眠れないことも予想できたから、準備ができると昼間のうちに休んでおこうと横になったりもした。しかし努力もむなしく、結局目は冴えたままで出発の時間を迎えてしまった。
両親には前日から皆で出かけると、この旅で初めての嘘をついたのが心苦しかった。佳織には申し訳ないと思いつつ、自分の中で納得のいく形で結末を迎えたかった。
あのときも二人きりで夜中に出発した。勝手なわがままだけど、どうせなら同じように出発したいと思った。
今日の結果予想を聞かれても、自信は全くない。
確かに最後に渡してもらえた情報は本物であることに疑いはなかった。しかし、その入手時期は昨年の夏の話であり、その後1年で状況が変わらないという保証など、どこにもない。
最後に訪れた大宮夫妻のもとで、敢えて現在の彼の連絡先を聞かなかった理由がそこにある。
とにかく、あの手紙の内容を信じて現地に赴くことしか今の茜音にできることはなかった。
夜中なので車内放送はなく、運転手の上にある電光掲示板に次の停留所が表示されている。もっとも、乗車の時に切符を見せてチェックされているから、下車することは分かっており、通過してしまうことはない。
自分でメモしてきた時刻表とスマートフォンの画面で周辺の詳細地図をもう一度確認する。バス停のある小出インターから駅までは3,4キロ。普通に歩けば1時間弱という距離だ。それでも夜中に歩く初めての土地。余裕はあると言っても小出駅からの列車の時間が決まっている以上、道を間違えないように慎重に進むことになる。通常よりは時間がかかると見積もっていいだろう。
バスは予定より10分早く、午前3時ちょうどにバス停に到着した。こんな時間に途中の停留場で降りるのは当然彼女だけだった。
アイボリーのカーディガンを上にエアコン対策として羽織っていたので、それなりの年に見えたのか何も問いかけられることもなく降車すると、高速バスは再び目的地に向かって走り去っていった。
「さてぇ、行くしかないね」
バスが行ってしまうと、あとは車が走り抜けていく音しかしない深夜のバス停。数人が入ったらいっぱいになってしまう小さな待合室は明かりがついている。地方の無人駅を多数訪問している身としては明かりがついているだけでもありがたい。
エアコンの効いていたバスの中とは違い、蒸し暑い夜だった。出かける直前に入浴してきたけれど、すぐに汗が出てきてしまう。それにこの場所は高速道路のインターチェンジのすぐ横の場所。その分の熱もあるのかもしれない。
冷房よけのカーディガンをしまい、代わりにウオーキング用のライトを取り出す。もう一度地図を見て方向を確かめる。
「しばらく歩くから補給かなぁ」
バス停前の信号を渡ったところにコンビニがあり、ここなら飲み物や出発の準備ができそうだ。
小出の駅前にはコンビニなどがないと調べてあったので、貴重な補給ポイントになる。
飲み物と飴を買って、今回唯一の荷物であるトートバッグに入れる。
そう、今回はキャリーケースなどの宿泊用の装備はない。同時にこれまでのように帰宅用の手段まで用意しているきっぷも今回は用意していない。それは茜音の覚悟を示している……。
道は歩道も整備されていて、所々に街灯もあり暗闇を歩くような恐怖はない。
逆に夜中であっても幹線国道には時々車が通る。それはある意味幸いとも言える。道に迷ってしまった人気のないところなどで、不審者と思われ通報でもされてしまったらやっかいだ。茜音が旅先でも服装を整え、荷物を小さくまとめているのも、家出などに間違われないための防護策でもある。
さらに今回は荷物を持たないので、あくまで夜行バスを降りた地元の女子高生が自宅に帰宅中というカモフラージュが必要だ。彼女の本当の話をしたところで、なかなか信じてはもらえないだろうから、そんなことで無駄な時間を浪費したくない。
途中で目印にしていた国道に角を曲がり、小出の市街地を進む。
スマートフォンのルートマップでも順調に来ている。この位置からならば、もうそれほど怪しまれることもなく街中を歩くことができそうだ。
空が白み始めるころ、ようやく大きな川の土手に出る。川の反対側にはJR上越線の線路が見える。あとは場所を間違えないように川をわたって橋の反対側に出れば、最初に目指す小出駅に到着する。
「ふわぁ、朝かぁ~」
途中、休憩などをはさみながら、朝5時少し前に目指していた小出駅に到着した。
どうやら駅が動き出すのは6時になってかららしい。少し考えて、改札の外にある待合室がきれいに整備されているのを確認して、夜通し蒸し暑い中を歩いて汗をかいたところをウエットタオルで拭う。幸いにして今日の衣装にここまで汚れはなかった。
改札口が開き、数名の客が中に入っていく。予めメモをしてあった駅へのきっぷを券売機で買い、駅の中に入る。一番奥のホームでその列車は待っていた。
「乗ったこともないのに、懐かしい感じがする……」
ここ数年で配備されたと思われる新型車両は空調も入っている。
表面の汗は拭ったけれど、歩いてきた体の火照りを冷やしてくれるのはありがたかった。
発車までしばらく時間もあるのを確認してもう一度ホームに降りる。
すると、これまでには感じなかった感覚が茜音を包み込んだ。
「これまでと違う……」
同じような地方の小さな駅には何度も降り立った。これまで知ることもなかったような地方のローカル線もこれまでに何度も乗ってきた。しかし、何かが今は違う。記憶の奥底に眠っていた感覚が感じているのか、懐かしい空気のような気がした。
もっとも、この駅には直接降りたことはないはずだ。
あの日の貨物列車はこの駅を通過したかは覚えていない。二人とも下車したわけではないし、帰りは施設の先生の車で戻っている。しかし、もし通過だとしても茜音は10年前にこの地に彼と二人でやってきている。間違いなくそう断言できる自信がわいた。
列車はそれほど混雑もなく出発した。この時期なので登山などに向かうグループ、地元の人々、夏休みとなったことで鉄道ファンなどと分かる姿もちらちら見られる。
しかし、茜音が待ち望んでいる姿を見ることはできなかった。これからのことを考えると車内で周りを見回すなど、あまり目立つのも得策ではないと、一人外を眺めていた。
すぐに小出の市街地は終わり、農村部から山間部に差し掛かってくる。細かいところまでは覚えていないはずなのに、このあたりの風景はさっき駅で感じたときよりも身近に感じられた。
きっとあの当時、このあたりを走っていた頃には二人とも目を覚まして外を見ていたからに違いない。駅の周辺以外から人家がほとんどなくなった頃、列車は大白川駅に到着する。この沿線では比較的大きな駅で列車のすれ違いができる駅だ。
隣に置いてあったトートバッグを肩に掛け、茜音は列車を降りて駅を見上げた。
「うん、ここだぁ……」
小出駅の時より、あきらかに自分の感性に訴えかけるものが大きかった。列車が発車していった方向を見つめる。あの時は薄暗くなってから二人でこの線路を歩いてきた。そしてたどり着いたのがこの駅だった。
「変わってないなぁ」
多少の変化はあったかもしれないが、雰囲気は当時とまったく変わっていない。
ホームから駅舎へ線路を渡り、駅舎の階段を上る。
そう、はっきり思い出せた。線路を歩いてきて見つけた明かりのついた駅舎に上るために、この階段を10年前に登ったことを。
当時、自分たちを保護してくれた泊まりの駅員も今は無人化されてしまっているようでその姿は見られない。
最後の切符を駅員代わりの回収箱に入れて駅舎の外に出た。
「覚えてる。ここで引き渡されたんだね……」
あれだけ長いこと空白で思い出せなかった駅前の景色を今ではしっかり思い出すことができる。ここで先生たちに引き渡されるときには、二人とも連れ戻される覚悟もすっかりできていた。すでにこの先離れ離れになってしまうことを受け入れるための約束も済ませてあったからだ。
「きっとみんな大騒ぎになってるし、ここまで来たら、もう引き返せないからね。あとは歩くしかないよ……いい、茜音?」
一度駅舎内のベンチでペットボトルから水を飲むと、スカートから伸びている自分の足に言い聞かせるようにポンと膝をたたいて立ち上がった。
最後の小休止をした駅舎を後に、片側1車線の国道を歩き始める。
「あの時は線路を歩いたんだよねぇ」
大きくなった今はさすがに無理だ。手紙を書いてくれた健も、最後の写真を送ってきた葉月姉妹も線路に沿っている国道から位置を教えてくれている。
山道なので歩く早さに個人差はある。今の茜音の足なら順調にいけば午前中にはあの場所に立てるだろう。
小出までの蒸し暑さが嘘のようだ。まだ6時台前半で、朝日は出ているが夜気が完全に抜け切れていない。
「ちょっと寒いかぁ」
今の服装はブラウスが長袖で上半身の寒さはない。足下が冷え込んできたので、最後まで残しておこうと考えていたハイソックスに履き替える。
それは学校はもちろん普段着にも使っているものではなく、レースをワンポイントにあしらって、子供用のフォーマルなどで幼い頃よく使ったもの。
菜都実たちと買い物に行ったとき、今でも履けるサイズの物を偶然見つけて購入し、今日まで保存しておいたのには訳がある。
服を作ってくれた萌も小物は分からないと証言したように、あの写真では茜音や健の膝から下が切れて写っていない。つまりスカートより下は当時立ち会った本人たちでないと分からない。
靴も当時と可能な限り同じようなデザインをサイズ違いで合わせた。最後の調整で茜音の装いは10年前当日とほぼ同じになった。
再び山の中に延びる道を辿る。疲れがないわけじゃない。駅にタクシー呼出の電話番号も書いてあったけれど、使わなかった。
何より旅の最後としては当時と同じく歩いてたどり着きたい気持ちが強かった。この道を歩くのは確かに初めてだ。しかし、駅に降り立った時からゴールへの一歩ずつだと分かっている。
「山道は早く歩けないなぁ……」
歩道がないので車の気配に用心していたけど、30分ほど歩いても前後からその姿はない。同時にスマートフォンの電波表示もすでに圏外になっている。
それほど人気がない場所だという証拠だ。ならばその方が都合がいい。この先に人家がないなら、早朝と同じで顔なじみでない女子高生が一人で歩いているという状況は普通ではないと思われてしまう。
ゆっくりと、途中休んだり周囲を見ながら2時間近く歩いただろうか。GPS表示の地図は目的地に辿り着いたことを表示していた。2週間前にここに到達した葉月姉妹は、河原まで実際に降りたそうで、高く急な崖を降りられるところに目印を残してくれているという。
急なカーブを抜けたところに、その場所は突然現れた。
「あれだぁ……」
スノーシェードがかかる道から右側に見下ろした風景。
1本の赤い小さな鉄橋。なんの変哲もない小さな橋。それが10年間探し求めた物だった。
しかし、確かに真弥たちが報告してきたように道からその河原までは高い崖になっており、そこにたどり着くのは大変そうだ。
「これって、真弥ちゃんのリボン……」
しばらく周囲を探索すると、工事用の鉄の棒が路肩に突き刺してあり、そこに見たことのある小さく黄色いリボンが結びつけられていた。
紛れもなく、春先に京都で真弥が頭の両サイドに結びつけていたはずだ。最初汚れてしまったのかと思った黒い模様は、近くで見ると『茜音さんへ』と書き加えられている文字。間違いなく二人が自分のために残してくれたメッセージだった。
そこは少し戻って橋は直接目視できなくなるが、河原まで自分の足でもなんとかなりそうな経路が確認できた。
「ここ……しかないよね」
ほかの場所と比べればまだいいという程度の道なき道なので、足を踏み外せば崖を転がり落ちてしまう。しかし、葉月姉妹は上に目印をしてくれただけではなかった。途中のところどころに、真弥は自分の髪飾りのスペアだけではなく姉がポニーテールの飾りにしていたものを細く切り、手をかけられる場所に結んである。そのガイドのおかげで危ない目には遭わずに河原まで降りることができた。
「着いた……」
自然に目から零れ落ちるものがあった。
目の前にあるのは、末沢川にかかる只見線の鉄橋で、当時は立派と思っていた大きさのイメージとは違って見える。そこでこれまでと同じように目線を下ろして見上げると、頭の中に入っていた画像と見事に重なった。それ以外でもこの場所が間違いないということは、この河原を歩いているだけでも足から伝わってくる。
「ただいまぁ……」
しばらく探索しているうちに、見覚えのある大きな岩を見つけた。
「昔はもっと大きく見えたなぁ」
斜面が平らになっていたその岩に上り、そこに寝ころんで周囲を確認した。
二人で一緒に並んで座っていた場所。そして、茜音が彼から初めての告白を受けたのも、この岩の上だった。
「ここでいいやぁ」
あとは彼が現れるのを待つだけ。茜音はようやく胸のつかえが取れたような気がした。
「すみません、今朝、この写真の子が通りませんでしたか?」
茜音が現地で一息をついた頃、ようやく佳織たちを乗せた車は小出の駅に到着した。
バスを降りたと思われる小出のバス停は無人なので、次に誰かが茜音を目撃したとすれば駅が有力だと、佳織は駅に着くなり改札口の駅員に駆け寄った。
「あぁ、朝一番に来ましたね。只見線の方に行ったかな?」
夜勤明けだという改札口の駅員は佳織が出した写真を見て頷いた。
「ホントですか?」
「通学でも見たことない顔だし。夏休みに入って遊びに来ている学生さんも多いからね」
「そうでしょうねぇ」
佳織が予想したとおりだ。以前に高知から来た千夏にも話していた。
利用客の絶対数が少なく、また通学の定期利用者なら顔馴染みにもなる。逆に同じような年齢でも見たことがない顔は印象に残りやすい。
「どの辺まで行ったか分かりますか?」
「さぁ、そこまでは見てないなぁ。車掌が戻ってくれば聞いてみることもできるけどなぁ」
「いえ、それだけでも助かります。ありがとうございました」
佳織は車に戻ってきた。
「やっぱり、駅から只見線に乗ってるって。どこまで行ったかは分からないけど」
列車に乗ったとすれば、この先の沿線に沿っていることは間違いない。8時前の発車を考えれば、すでに降りてしまっているだろう。それでも見当はずれの場所に行ってしまったかもしれないという懸念は消えた。
「とりあえずさ、1駅ごとに様子を見ながら行きますかね」
あわてて飛び出したので、朝食のことも考えずに来ていた。駅前では食料を確保できるコンビニすら見つからないので、一度国道17号に戻り朝食の他これからのことも考えて大量に買い込んだ。
JR只見線は、冬場は並走する国道が豪雪のために通行止めになってしまうことから、この付近の集落をつなぐための唯一の交通機関になる。
そのおかげで廃止が免れているという説もあるが、過疎の山の中を走るため、その本数は極端に少なく、朝7時台の次は13時台というダイヤだ。
只見線の存在に気付き、途中でスケジュールを考えた佳織もその13時の列車に合わせればいいのではと考えていたのだが、茜音は夜行バスを使うという強行策で1番列車に合わせたことになる。
せっかくの機会なのだから朝から現地にいたいという気持ちも理解できる。しかし、二人にはそれだけではないような気がしてならなかった。
小さな駅は道路を走っているとうっかり見落としてしまうような無人駅も多い。幸いにして茜音が降りそうな場所は無かったが、それでも神経質にはなる。
「……え、本当に? その駅で間違いない?」
それまで電話でずっと連絡をしていた菜都実の声が変わった。
「分かった。すぐに行ってみる。ありがと!」
「誰に電話してたの?」
カーナビと地図の両方を見ていた佳織が後部座席の菜都実を振り返った。
「佳織、大白川駅の先だって。そこから車で20分ぐらいの場所」
「それで間違いないわけ?」
菜都実はすぐにスマートフォンで地図を検索する。
「茜音と最後まで場所の詳細を確認していた真弥ちゃん。茜音からも間違いないって言ってたって」
菜都実は夜が明けると同時に、これまでの旅で知り合っていた人たちへのコンタクトを取り続けていた。
もう少し走ると携帯電話の通話エリアもギリギリになってくる。その直前で菜都実は最後の連絡先にあたっていた。
冬の京都で知り合った、葉月美弥、真弥の姉妹。今の電話で分かったのは、茜音に最新の現場情報を知らせたのが真弥だったという事実。そして、茜音のためにその場所には目印も残してきたということ。
状況から考えて、ほぼ間違いなくその場所へ向かったと思われた。
車でカーブとアップダウンの厳しい国道を走り、1時間ほどするとこの沿線にしては大きめな駅が見つかった。
駅前のスペースに車を置き、再び佳織が駅舎の中に入っていく。列車のすれ違いができる駅で、駅員がひとり、きっぷの回収や駅舎の掃除をしていた。