「うー、最後にあんなこと言わなくてもぉ~」
一方のゲートをくぐった茜音も、荷物を再び受け取ると、両手で目のあたりをこすった。
「ここからは一人かぁ……」
もう一度、チケットとゲートを確認する。
「うん。いつだってわたしは一人だったもん。大丈夫だよぉ」
次に前を向いたその顔には、もう迷いはない。
飛行機は羽田を飛び立ち、ほぼ予定通りに青森空港に到着した。
空港から最初の乗車駅になっている青森駅までは、空港からの路線バスで約35分弱の道のりになる。
バスに揺られながら、今日の予定を確認する。
するとスマートフォンの通知エリアにメールのアイコンが表示されている。
「誰だろぉ」
先ほど空港からは青森空港の到着を知らせるメールは入れてある。
画面を見ると、佳織からのメールで、菜都実のお店に戻り体制ができたとの連絡と、もう1通、上野を出発してまずは日光に向かったという真弥からのメール。途中で予定を合わせられたらいいですねというメッセージ。
「はうぅ。みんなわたしのこと泣かせたいのかなぁ……」
再びこみ上げてくるものをなんとか抑え、二人にメールを返しているうちに、バスは駅に到着し、ホームにはすでに列車が待っている。あわただしく乗り込んだ直後にドアが閉まり、その日の旅がスタートした……。
「どうだったぁ?」
夜も10時半を回り、その日の到達点を予定どおりの釜石と伝えてあった佳織が駅前の旅館を用意しておいてくれた。
その日の結果をSNSなどに投稿を終え、いろいろな機材の充電をしているところに待機している二人からの電話だ。
「うぅ、疲れたぁ。気仙沼までは行けたんだけどねぇ。最後の方は暗くなっちゃって。でも、駅の雰囲気とかを感じていったけど、やっぱ違うねぇ。釜石まで戻りながら寝ちゃったよぉ」
「山田線でもダメだったか……」
佳織はいくつかの路線を重要路線と指定してあり、そこを通るときは可能な限り明るいうちに通れるように組んである。
山田線は山の中を縫うように走る路線で、鉄橋の写真なども多数ネットなどにも掲載されている。三人とも、もしかしたら初日にも可能性があるとみていたため、急遽の途中下車によるスケジュールの遅れが出ても今後の日程でカバーできるようになっていた。
「うん。かなり確率も高いっていうから、ずっと窓際で観ていたんだけどね。どうしてもピンとこなかった。降りたらもう少し分かるのかもしれないけど、なんか違うんだよぉ」
「そうかぁ。残念だなぁ。まぁ、明日も頑張ろう」
「うん。ありがとぉ。明日は宮城県、山形県中心だねぇ」
「疲れると悪いから、おやすみ」
「うん、ありがとぉ。おやすみぃ」
一人だけの部屋の中が再び静まりかえる。
ハードな旅とは覚悟していたが、初日からずいぶん疲れた気がする。
テレビをつけていようとも思ったけれど、時間も遅くなり地方局の番組に切り替わってしまうと、観ていても馴染みがない。翌日の天気予報だけを確認して消してしまった。
「明日も早いからもう寝よぉ」
明かりを消し布団に潜り込んだ茜音は、旅初日の疲れも吹き出したのか、すぐに深い眠りに落ちていた。
2日目も天気はまずまずで予定通りの行程をこなすには問題は無い。
夜のうちに佳織たちがいろいろな情報を分析して入ったメールを確認したけれど、特に予定を変更しなければならない情報は入っていなかった。
朝から釜石線、東北線、北上線と乗り継ぐ。
途中、列車の乗り換えの時間を利用して昼食をとっていた茜音。
ローカル線どうしの接続は、朝晩の通勤・通学の時間帯をはずしてしまうと、極端に時間が空いてしまうこともある。
そもそもこの空白の時間は、初日にスケジュールが遅れた場合を想定してわざと作ってあったものなので、前日を予定通りにこなしてしまった茜音には、ホームから周囲をのんびり見回す休憩時間になっていた。
「ほえぇ、誰だろぉ」
周囲が静かなので、スマートフォンのバイブレーションの音も大きく聞こえた。ディスプレイを見ると、これまでに見たことの無い番号が表示されている。
「はい……」
「もしもし、茜音ちゃん?」
電話の主は若い女性の声だ。
「はいそうです。……もしかして理香さんですかぁ?」
「そう、茜音ちゃん元気してる」
「はいぃ。お久しぶりですぅ」
平川理香。昨年度の生徒会長だった坂口清人の幼なじみのお姉さんであり、今は清人と両家公認の交際中のはずだ。
また、これまでにも中越や長野方面の情報を集めてくれた良きお姉さん格でもある。
「茜音ちゃん、もうすぐあの日だよね。場所は見つけられた?」
「それがまだなんです。今も探すために山形県にいるところですよぉ」
事情を知っている理香に隠す必要はない。今回の予定を簡単に話した。
「そうなんだ。茜音ちゃん、それじゃぁまだ見つかってないのね?」
「はい。見つかるまでは帰らないつもりです」
それは出発前から決めていたことだ。
「ならよかった」
そこで理香の声は少し真剣になると、一息ついて続けた。
「茜音ちゃん、今の茜音ちゃんにどうしても会わせたい人がいるの。少し遠いんだけど、会いに行けるかしら」
「それはいいですけど……、今すぐですか?」
「ええ、茜音ちゃんが旅に出ているなら、少しでも早いに超したことはないと思う」
そこまで言われて、気づかない茜音ではない。
「もしかして……?」
「ええ。そう思ってもらえればいいわ」
これまでの茜音なら、すぐにそこに飛んで情報の真偽を確かめに行くところだ。しかし、今は状況が違う。
「でも、理香さん。わたし、今最後のチャンスなんです。佳織が最後のために作ってくれたリストをこなさないで、もしその情報が間違っていたら、もうわたしに時間がないんです……」
「片岡さん」
電話の向こうの声が変わった。
「ほえっ、会長さんですか?」
この春から大学生になった清人の声だった。彼の働きにより、茜音の活動が学校中に公になったことで、それまで彼女のことを誤解していた人たちからは解放されることになったし、校内からもちらほら情報も寄せられるようになった。
「もう会長じゃないよ。それよりも、今の理香ねぇの話だけど、確かに片岡さんに時間がないことも、最後のチャンスだっていうのも、俺たちは十分に理解している。でも、どうしても伝えないわけにはいかなかったんだ」
「そうなんですかぁ……」
清人の声はいつも以上に真剣さを持っている。
「だから、俺たちも中途半端な情報は送らないようにしていた。だけど、ほぼ間違いない情報を持っている人を見つけたんだ」
「えっ……? 本当……ですか?」
思わず茜音の声もうわずる。気持ちがぐらりと揺らいだ。
「理香ねぇの学生時代の同級生だそうだ」
「なんで……そんなところに……」
「そう、私の昔の同級生で、教師になった人がいたのよ。その人から教えてもらえた。10年前に施設の閉鎖で離ればなれになってしまった同い年の女の子と、この夏に再会するのを楽しみにしている男の子の話をね」
「そんな……」
この短い話だけで、これまでに集めてきた情報の量ではなく、質が全く違う。もう直感が『本物だ』と言っている。
「そして、その人は茜音ちゃんしか知らないことを話してくれたし、決定的なものを持っているのよ。茜音ちゃん、それを受け取ってほしいの。『佐々木茜音』ちゃんに……」
「は……い……」
理香の声は電話越しのはずだったけれど、目の前で告げられているように、そのときの茜音には感じられていた。
通話先の声が一度静かになる。しかし、茜音にはどちらが話していようが関係なかった。問題はその中身だ。
自分の生まれた時の名前を呼ばれた。これを理香に話したことはない。清人が伝えたとしても、それを茜音の心を開く鍵のように使えるのは理香が事実を確信しているからだ。
「あ、あの……、その人は今どこにいるんですか……?」
体が震え、声がかすれる。
「JRの小海線って分かる?」
「はい。今回も最後の方に回る予定です」
「そう、そこの佐久海ノ口って言う小さな駅のそばなの。行けるかしら」
「あの……、もう一度質問してもいいですか……? 本当にその人は健ちゃんを知ってると思っていいんですよね……?」
少しの間を空けたあと、理香の声がした。
「茜音ちゃん。本当に遅くなってごめんなさい。でも、情報を確実にしたかった。だから、私たちも彼のところに行って来たわ。そして茜音ちゃんのことを話してきた。そうしたら、間違いないってことになったの。でも、中身は分からなかったわ。内容はその人も分からないって言ってた。佐々木茜音ちゃんへの手紙になっているのよ」
「そうですか……。すぐにかけなおすので、ちょっと待ってもらえますか?」
茜音はそう言って一度通話を切る。
体の震えが止まらなかった。自分の名前まで一致している理香の話はほぼ間違いない。すぐにでも向かって確認したほうがいいことは分かっている。
しかし、万が一でもそれが間違っていたとしたら、ただでさえ十分とはいえない時間において決定的なダメージを受けることになる。
それでも彼女の中では決意が決まりつつあった。佳織が作ったスケジュールでは、この急な変更までは見込まれていない。
スマートフォンを操作して、今からの経路検索を行う。そしてこの時間ならば、行き先を変更して今日中にたどり着くことが可能だと確認した。
「あの、理香さんですか? 茜音です」
先ほどの電話番号にかけなおす。すぐに通話がつながった。
「茜音ちゃん、どうする?」
「あの、今日、これから向かいます。到着は夜になりますけど、構わないですか?」
「了解。私たちは行けないけど、すぐに連絡しておくわ。駅に迎えに来てもらうようにするから。あと、先方の連絡先をメールで入れておくわね」
理香たちが同行できないという不安要素はある。でも、これまでもそんな事は何度もあった。仮に何かがおきたとしても、それを受け入れるだけの覚悟はずいぶん前からできている。
もう一度荷物と時刻をチェックする。再び少し険しい顔つきになると大きな荷物を抱えて立ち上がり、駅の改札に向かった。
「ごめんね、佳織……」
理香からの先方の連絡先が書かれたメールを受け取ると、そのあとは青森の空港に到着したときから電源を入れっぱなしにしてあったスマートフォンの電源を切った。これで二人からは自分の行動の把握はできなくなる。
駅の窓口に行き、乗車券の行き先変更と新庄からの新幹線の特急券を買う。座席に座って、ようやく茜音は緊張していた体がほぐれていくのが分かった。
列車が動き出すと、それまで張り詰めていたものが切れるように、いつの間にか眠りに落ちていた。
「おかしいんだぁ。お昼過ぎくらいから茜音と連絡が取れない」
「でも、今日のルートって山の中ばっかだったじゃん? 昨日だって何度か電波届かないところ走っているはずだし?」
茜音が理香たちからの連絡を受けて数時間、ようやく佳織も様子が変だということに気がついた。それまで定期的に送られてきていた茜音からの途中駅の通過連絡がぱったり来なくなったから。
あまりにも連絡が来ないので、電話での連絡を試みた佳織にしても、圏外のメッセージを繰り返すのみ。
当然、茜音が自分から電源を切ってしまったことなど知らされていない二人には、ただ連絡が来ないという状況しか分からない。
「そう考えたんだけど、いくらなんでも間が開きすぎだと思うのよ」
「そんじゃ、昨日の夜に充電し忘れたか?」
「それだけならいいんだけどね……。あれで茜音結構かわいいからなぁ……」
自分が把握できないことが起きると、最悪のケースを考えてしまうのは昔からの佳織の性格でもある。
「誘拐でもされたかもって? 大丈夫だって。きっと電池切れか寝てるんでしょ。あ、でも寝てたら探せないじゃん。ダメだなぁ」
「とりあえず、電池切れだと思って今夜か明日までは様子見るか。明日になってもなんの連絡も無かったら探しに行く準備だけはしておくわ」
「佳織も心配性なんだから……」
菜都実は画面を覗き込むのをやめて仕事に戻った。
しかし、茜音がこのときの二人の想像を超えた行動に出ていたのを知るのは、数日経ってからのことだった。
「さてぇ、次かぁ……」
窓の外はずいぶん前に暗くなり、今は列車の窓からの明かりが届く範囲が見えるだけである。車内はかなり空いていて、乗り込んだときは通勤客などで座る場所も確保できなかったけれど、今では空席の方が目立つ。
あのあと、山形新幹線で一度大宮まで戻り、その後再び北陸新幹線で北上。1時間ばかりの乗り換え時間を待ち、さらに小海線で1時間ほど揺られて目指す駅に到着した。
「ここが最後に降りる駅かぁ」
同じ列車から降りたのは茜音ともう一人の学生の二人だけ。駅のホームを照らしている明かりの他は、周囲の家の明かりだけ。駅前の街灯が照らす範囲を外してしまうと、月明かりだけが頼りとなってしまう。
理香の話では駅にその人物が迎えに来てくれることになっていた。しかし駅前の広場を見渡してもそれらしい人物は見あたらない。
仕方なく駅舎の中に戻る。
以前は有人の駅だったのだろう。今でも時々使われているような事務所の建物があり、待合室もきれいに整備されている。これまで無人地帯を渡り歩いていた頃の駅に比べれば居心地は格段にいい。
しかし、時間は夜の8時を回っている。先ほど乗ってきた列車は、この先の清里や小淵沢に向かうための最終列車だったこともあり、もう先に進むことはできない。あと30分ほどすると、今度は小諸方面への最終列車がやってきて、午後9時にはこの駅は眠りにつくことになる。明かりはまだついているが、さすがに一人でここにいるというのは心細い。
理香からその人物に連絡してくれているという話を信じて、そこで待つしかなかった。
茜音が駅に到着して1時間ほどしたとき、1台の車が入ってきた。
「ごめんなさい。遅くなって。あなたが片岡さんね?」
連絡をしてくれたという理香と同い年くらいの女性が慌てた様子で迎えに来てくれた。
「はいそうです。突然ご迷惑をおかけします」
考えてみれば、この地に来るのを決めたのは今日の午後。しかも突然の他人宅への訪問となる。準備もあっただろうし、迎えに来てくれたことを考えたら、1時間遅れだとしてもありがたかった。
「ちょっと、予定外の用事が入っちゃって。乗って。とにかく家に行きましょう」
彼女が乗ってきたオフロードタイプの軽自動車の助手席に乗る。その車は彼女専用なのだろう。内装も女性らしくきれいに片づけられている。
あらためてその女性を見直す。歳は理香が同級生といったとおり、二十代半ばと言ったところか。
ショートカットの髪は二重まぶたのぱっちりした顔によく似合っている。さっき車から降りたところでは比較的小柄な方に入るかもしれない。長袖の白いブラウスに薄いピンクのパンツ。ナチュラルメイクに抑えてあるところは、茜音のチェックからしてみれば、比較的話しやすそうなイメージに見えた。
「どうしたの? なんかついてるかなぁ?」
「はうっ、なんもないですぅ」
彼女は茜音を見て笑った。
「理香の言ったとおり、今時珍しい、かわいくて素直な子ねぇ。これでも私だって数年前間では東京にいたんだからね」
「そうなんですかぁ」
車は駅前を出発し、国道をすぐにそれて川を渡り、山の方へ向かった。
「本当に遅れてごめんね。私は大宮早月って言うの。理香とは学校で同じ専攻だったから」
彼女はそう話しながら曲がりくねった山道をあがっていく。最初はどうして軽自動車にオフロードのタイプかと思ったが、確かにこういう道を毎日通るのであれば普通自動車では心細い。
「片岡茜音です。本当に突然ですみません…」
「いいのよ。理香が訪ねてきたときはびっくりしたけどね」
電話でも、理香たちは二人でここまでやってきて、情報を確認してくれたのだと言っていた。
「さぁ、着いたわよ。まだ主人が帰ってきていないから、家の中でもう少し待っていてね」
早月は茜音の荷物を下ろして玄関まで持ってきてくれた。山の中にある一軒家で、庭からは村や川が見下ろせる。周囲にも明かりが少ないおかげで、夏空に星がたくさん見えた。
玄関の中までキャリーケースを運んでもらったので、茜音もそれに続いた。
中に通された大宮家は外見は山の中にある古めの一軒家だったけれど、中はそんなふうには見えず、現在風の住みやすい部屋になっている。
「ここはね、私たち夫婦が引っ越してくるまで空き家だったのよ。見ての通りぼろ屋だったからどう改装してもいいってことでね。家賃も安かったし」
早月はキッチンに戻る。どうやら予定が遅れた中で急いで夕食の用意をしているうちに、茜音を迎えに行く時間になってしまったようだ。
「あのぉ……、お手伝いしましょうか?」
料理ならば茜音も手伝うことはできる。味付けが必要なものは早月に任せ、二人で夕食の用意を済ませたところに、この家の主人が帰ってきたようだ。
「早月、ただいま。お客さんはみえたかい?」
早月は急いで玄関に走っていった。声の様子からほぼ同じ年頃だと思われた。
「茜音ちゃん、紹介するわね。私の旦那様の祐司さん」
「はじめまして。突然お邪魔してすみません」
今夜はこの家でやっかいにならねばならない。夏場でもあの駅まで戻って野宿というのは、一人旅という現状では避けたい。
いや、理由はそれじゃない。この人物こそ自分がこの長い年月探し求めていた情報を持っている当人なのだから。
「ずいぶんと長旅をしてきたそうで。もっと早く知らせてあげられれば良かったんだけどね。すまないが、先に食事にしてもいいかな。いろいろ話も長くなりそうだから」
「そうですねぇ」
茜音にしてはタイミング悪く、昼から何も口に入れていなかった茜音のおなかが鳴る。
「はうぅ。す、すみません……」
「ははは、高校生なんだからそのくらいの方が健康で普通だよ。早月、すぐに用意してあげてくれるか?」
真っ赤になってしまった茜音を大宮夫妻は暖かく笑って食卓に招いてくれた。
食事の席で、夫妻はもう一度自己紹介をしてくれ、今回の連絡を教えてくれた理香との関係を教えてくれた。
「理香とはね、私たち二人とも理香と同期なのよ。というか、理香が私たちを縁結びしてくれたのよね」
「そうなんですかぁ」
今でこそ、仲むつまじく夫婦生活をしている二人だが、当初は互いに自分の気持ちを伝えることも難しかったという。
「でも、そこに理香が入ってくれて、何かとお世話になっちゃったの。理香がいなかったら、私たち結ばれてなかったわよね」
「すごいですねぇ」
その後は、どちらかといえば学生時代の理香の話に移っていった。
「本当はね、理香を狙っていた人も多かったのよ。でも理香はずっと自分から拒否してた。結局あの頃から今の彼氏君ことをずっと意識していたのよね」
「理香、結構辛そうだったよな」
意外な話を聞いたと茜音は思った。理香の話では学校時代はあまりもてなかったと聞かされていたからだ。
「違うのよ。理香って本当の意味で理香のこと好きになってくれていたのは今の彼氏君だけ。この間二人で来てくれた時によくわかった。彼、理香のことよく分かってる」
「ほら、理香って地元ではいいところのお嬢さんじゃないか。そういう女の子とつき合いたいって連中はいくらでもいたし。でも、あいつは本当に自分を選んでくれた人じゃないと嫌だったんだな」
「そうなんだぁ」
理香がそういった性格の持ち主ならば、昨年秋の話にも納得が行く。彼女は清人に本当に自分の気持ちを向けてくれているか試していた。やはり理香からの片思いだけでなく、偶然に再会した、幼馴染でもあった清人からの本気を確かめたかったから、あんな手の込んだことをしたのだ。
それを考えれば、彼女が茜音の話に熱心に聞き入ってくれたのも分かる。
「なんか、理香さんもわたしと同じことしてたんですね。そうかぁ」
「そうだ、話がずれちゃったけど、問題は茜音ちゃんの話だね。少し待っていてくれるかい」
祐司は茜音を居間の座卓の前に残し、奥の部屋へ消えていった。
早月はテーブルを片づけた後に人数分の麦茶の入ったグラスを持ってきてくれた。
部屋の中にエアコンはかかっておらず、網戸にした掃き出し窓からは涼しい風が吹き込んでくる。夏場の夜間に普通にエアコンが不要というのは、都会暮らしの茜音には少しうらやましい。
もっとも、茜音はどちらかといえば夏は得意な方なので、少々の熱帯夜ぐらいでは寝不足を起こすこともなくて、海風が強い日は窓を開けて寝ることも多い。
「ごめんなさいね、なんか私たちの昔話になっちゃって。でも理香、茜音ちゃんのこと気にしているみたいだった。あの子、見た目は強気なところがあるけど、本当は泣き虫でね、優しい子よ。みんなから好かれてる。ちゃんと受け止めてくれる人ができてよかった」
「わたし、理香さんとか、みんなに心配かけてばかりなんです。今回だってもともとはみんな来てくれるって言ってました。わたしが頼りなくて心配だから……」
自分を責めるように話す茜音。自分がもっとしっかりしていて、当時の記憶をきちんと思い出すことができたなら、そもそもこんな無謀とも言える計画を発動しなくて良かった。すべては自分が悪いのだからと茜音はいつも思っていた。
「その考えは今日でおしまいね。茜音ちゃんは自分の意志であれだけの予定を変更して来てくれたんだもの。その決断は勇気の証しよ。責める必要なんかないわ」
早月が首を横に振りながら諭してくれる。
「もう大丈夫よ。理香もその彼もみんな間違いないって言ってくれた。これで茜音ちゃんを喜ばせられるって。よく頑張ったと思うわ」
そこに祐司が1つの封筒を持って戻ってきた。
「さぁ、これだ。渡す前にひとつ聞いておきたいんだけど」
彼はそう言って、封筒を座卓の上に置いた。
「あっ……」
茜音はそれ以上言葉が出なかった。
その様子を見て、夫妻は顔を見合わせてうなずく。
「あ、ごめんなさい。質問はなんですか?」
茜音の様子から、二人はもう聞くまでもないと思ったらしいけれど、祐司は封筒に書かれている文字を示しながら言った。
「ここの、佐々木茜音さんというのは間違いなく君なんだろうか? 僕らは君のことを片岡さんとして紹介されているので、それを確認したらこれを渡そうと思ってね」
茜音はうなずいて自分の荷物の中から封筒を取り出した。これまでの探索に出るときも必ず持っていたが、使う出番がなかった。
それにはいくつかの書類が入っていて、その中に茜音の生い立ちを証明できるもの、彼女の戸籍の写しが含まれていた。茜音はそれを二人に見せる。
「このとおり、わたしは両親を事故で失って、8歳で今の両親のもとに養子に入りました。そのときから片岡の姓を名乗ってます。でも、わたしに最初に付けられた名前は、片岡ではなくて、佐々木茜音です。もし、これを書いたのが、わたしの知っている松永健さんなら、わたしが片岡姓になったのは知らないでしょうから、そのままと思っていても不思議ではないです」
「そうか。えっ……、佐々木秀一郎と成実って……まさか……」
「はい。わたしを生んでくれた両親の名前です」
茜音の出生書類を見た二人は、驚いた様子で顔を見合わせたけれど、すぐに元に戻った。
「よろしい。早月、はさみを持ってきてあげなさい」
祐司は十分に納得したように、茜音に封筒を手渡した。
「さぁ、これで僕の役目も終わりだ。本当に良かったよ」
白い封筒を受け取った茜音は、それをもう一度よく見てみる。表には佐々木茜音様と書かれているだけ。しかし、裏返した茜音は再び息をのむ。
「健ちゃん……」
「彼でいいんだね」
「はい……」
裏には、手紙の差出人として、こちらも松永健と名前だけが書かれている。
この二つの名前だけでここまでの反応ができるのは、間違いなく本人だけだろう。
「でも、どうやってこれを……?」
早月がはさみを持ってきてくれてはいたが、その前に茜音はなぜこれがここにあるのかを知りたかった。
「これを預かったのは、実は去年なんだよ」
祐司は優しい眼差しで茜音を見て話し始めた。
前年、新人の教員としてこの長野県の学校に派遣された祐司は、夏に開かれる地元のサマースクールの担当として派遣されていた。
小学生から高校生くらいまでが、全国から親元を離れ地元の施設に泊まり、公民館や廃校となった学校の校舎を利用して様々な経験を体験できるような試みで、校舎を使う範囲の監督員として、祐司が選ばれていた。
「せんせー、やっぱり王子は凄いですよ」
日程もほぼ終了し、翌日の解散式を迎えるだけとなったその日は、子どもたちのアイディアで学校のグラウンドでの飯ごう炊さんの夕食となっていた。もちろん、子供たちが自分たちで準備から自主的に用意をし、祐司の役目は食品の管理や火の管理がメインだった。
校庭の真ん中で焚かれているキャンプファイヤーを囲んで食事をしているときに、子供の一人が言った。
「おぉ、そうか?」
1週間の日程ともなると、自然とそれぞれにあだ名が付いてくる。王子と付けられているのも参加者の一人で、高校2年生だった。あまり背の高い方ではなく、髪型をスポーツ刈りから元に戻していると自己紹介で言っていたので覚えている。仕事ぶりを見ていると、力も強く器用だったので周囲からも頼りにされていた。
「王子凄いねぇ。もう9年も一人の女の子追いかけてるんだって」
「ほぉ。でも幼なじみだったら、そのくらいおかしくないだろ?」
「そうなんだけど、つき合ってる訳じゃないし、今どこにいるか分からないんだって」
「なるほどなぁ。それは結構凄いかもしれん」
その場は本人もいなかったので、その程度で話は収まった。しかし、そのあとの片付けをしているうちに年少組の就寝時間となり、祐司が再び片付けの続きをするため外に出てくると、彼がまだ一人作業を続けていた。
「ご苦労さん、ここまでやればもう明日でいいだろう」
「明日は雨になりますから、今日中にやっておかないと油ものの処理は面倒ですよ。もうそんなに残ってないですから」
彼は手を休めずに答えた。祐司も手伝い、思ったよりも早く片付けは終わってしまう。
「お疲れさん。余り物だけど飲むか?」
アイスボックスの中に残っていた缶ジュースを渡してやる。
「すんません。ありがとうございます」
さすがに午後からずっと力仕事では疲れているようだ。それでも最後まで任された仕事を全うするという姿勢には好感が持てた。
「さすがに、山の中は星がきれいですね」
「周りに明かりがないからな」
「こんな星空を見るのも随分と久しぶりです」
残り火を見ながら彼の顔を見る。最初に出会ったときから感じていたのだが、彼の場合は確かに同い年の少年たちとは少し違う気がした。
「なぁ、こんなこと聞いたら怒られるんだが、女性関係にはずいぶん苦労しているみたいだな?」
「あぁ、それですか。なぜかそんな話で盛り上がっちゃいましたからね。叶うかも分からない約束の話ですよ」
彼は苦笑して答えた。
年頃の少年に女性の話題を聞いてもはぐらかされてしまうことも多いのに、彼は懐かしそうに笑いながら話題に乗ってくれた。
「別に悪いことなんかじゃないですよ。僕の初恋の話ですからね」
「そうか。今はその子の所在は分からないのか?」
「そうですね。今はどこにいるか分かりません。最後に会ったのは9年も前の話です。ただ、その当時にした約束があるんですよ」
「ほぉ」
「10年したら、もう一度会おうって。僕たちは施設で育ちましたから、この先どうなるかなんて分かりませんでした。だから、大人になって認められるようになるまでは別々の場所で頑張っていこうと話していたんですよ」
「そうだったのか。君たちは福祉施設で育ったのか」
彼は頷いた。
「別々の施設に移されることが決まって、それが嫌で僕たちは二人で夜に施設を抜け出しました。回送の列車に忍び込んで山の中の河原まで行ったんですが、子供ですからそれ以上は無理で、結局は連れ戻されました。そのときに10年後の再会を約束したんです」
祐司は驚いた。それを実行したのは小学2年生だという。大人であれば駆け落ちと言われてもおかしくない行動だ。
「そんなことがあったのか。今はその子の行き先は分からないのか?」
「ええ、僕もそのあとに何度か移りましたし、彼女も施設を移ったか、里子か養子で家庭に入ったかは分かりません。普通には再会できないでしょう。だから、再会できるとしたら来年、昔に約束した場所に行って、彼女がそれを覚えていれば会えると信じてます」
祐司はうなった。彼の話自体は物語などでは語られてもおかしくない。しかし、実際にそれを実践しているのはなかなかいるものではない。
「なるほどな。それまではその子一筋ってことか」
「そうですね。僕にとっては人生を変えてくれた恩人ですから」
「そうか……」
しばらく考え込んでいる祐司を彼は不思議そうに見ている。
「探してみるか……」
「えっ、探せるんですか?」
「申し訳ないが約束はできない。こんな仕事をやってるくらいだから、児童福祉施設の関係者とも知り合いなんだ。君のいるところも含めて、主な市町村にある施設なら登録されているから、入所者は名前で探し出せるかもしれない」
実際にできるかどうかは分からないが、彼がそれだけ一生懸命に行動しているのを聞けば、祐司の性格として放っておけなくもなっていた。力になれるかは分からない。それでも何かの協力はしたいと考えていた。
翌日、予報通り天気は雨となり、各地からそれぞれの親が迎えに来るのを祐司と彼は見送っていた。
「そうか、君はお迎えがないんだっけな」
「仕方ないですよ。大丈夫です。駅まで歩けばいいだけですから」
「この雨だ。全員送り出したら駅まで乗せていくから待ってなさい」
しばらくして、担当した生徒たちが全員いなくなると、祐司は車を持ってきた。
「乗ってくれ。駅まで送ろう」
車は会場だった校舎を出発した。
「昨日の話だけど、うまくいくといいな」
「はい。僕はあの場所をもう一度訪ねたことがあるので知っていますが、彼女は覚えているかどうか……」
「とにかく、昨日言ったとおり、調べられるだけ調べてみる。彼女の名前とか教えてくれるか?」
そう言っている間に、車は小さな無人駅に到着した。
「もし彼女に連絡が付くか、会うことができたら、これを渡してもらえませんか。この日付が過ぎたら処分して構いません」
彼はそこで1つの封書を祐司に渡した。そこには一人の女の子の名前と来年の日付が書かれている。
「佐々木茜音さんと言うのがその子の名前か?」
「そうです。歳は同い年です。僕は詳しいことは分かりませんが、元々はしっかりした家のお嬢さんだったはずなので、今でもそれなりの品格はあると思います」
「それは君の希望的観測も入ってるだろ?」
「もちろんですよ」
二人は笑うと、彼は何度も礼を言って車を降りていった。
「そうだったんですね。健ちゃん……」
祐司の話を聞いていた茜音は、渡された封筒をもう一度見つめた。
「その時に預かったのがその封筒で、その中の話はなにも知らない他人がその場所に行っても分からないと言っていた。茜音ちゃんにしか分からないと。だから開けずに持っていたんだが、ひょんなことから、その条件にぴったりの子の話を持ちかけられて、是非渡さなければならないと思ってね」
「ありがとうございます。でも、健ちゃんは本当に私のことを探せていないみたいでしたか?」
紛れもなく本人と会話を交わした人物である。せっかくなので、いつも不思議に思っていたことを聞いてみた。
「どうも、それはなかったみたいだね。ネットの環境も施設では自分専用には持てないと言っていたし、夜学に行っているみたいだったからね」
「そうなんですか……」
恐らく、昼間は働いたあとに定時制の学校に通っているということだろう。それでは自分たちのように夜にネットで長時間検索というものはできなかったに違いない。
「でもな茜音ちゃん、彼は茜音ちゃんと再会することを本当に楽しみにしている。その手紙の中身を見て、彼に会いに行って欲しい」
「はい。もちろん行くつもりです」
座卓に置かれていたはさみを取り、封筒を明かりにかざす。中の便せんが切れないことを確認して封を切った。
「うん……、そうだよ。ここだよ……」
中の写真に思わず涙が頬を流れ落ちる。
「間違いないんだね?」
「はい……。ここを探していました……」
茜音の反応を見た二人は、安心したようにその場を外してくれた。
そのとき、それまで沈黙していた茜音のスマートフォンにメールの着信があった。
「誰だろ……。真弥ちゃん?」
受信メールを開くと、同じ日に旅行に出ていた葉月真弥からのメールであり、添付で写真ファイルが付いていた。
『大変です茜音さん』と本文には書かれている。あとはファイルを開けと言うことなのだろう。
2つ添付されている写真の1つ目を見た瞬間、茜音は凍り付いた。
「はうぅ」
茜音は気が遠くなって、その場に崩れ落ちた。
「大丈夫?」
「はいぃ。すみません。もう大丈夫ですぅ」
異変に気づいた早月に手際よく介抱してもらったおかげで、茜音はすぐに気を取り戻した。
お風呂をいただいたあと、パジャマ姿で縁側に腰掛けて外を見ている。
「疲れて、気が張っていたのよね。恥ずかしがることじゃないわよ」
「同じ日に同じ情報が入るとは思わなかったですよぉ」
真弥が携帯に送ってきたのは、まさに茜音が訪ねなければならない目的地だった。1つ目は健からの手紙に書いてあった場所の写真。
もう1つは記憶の底に沈んでいた、あの日の二人を保護してくれた駅の写真だった。
健からの手紙の中には、約束の日に当たる今年の日付が書いてあった。
幸いなことに、それは茜音が予定していた日と同じで、これだけの情報がこのタイミングで集まったのは運命かもしれないと思った。
あとはこの情報を元に当日出発すればいい。
祐司から、健の連絡先のことを聞かれたときに、彼女はこう答えた。
「健ちゃんの気持ちは十分伝わりました。いまここで連絡先を聞いてしまうと、この約束の日の意味が薄くなってしまいます。この日にこの場所で会えるかどうか。それが答えだと思っていますから……」
そんな茜音に、大宮夫妻は何かを感じ取った様子だった。