駅から線路沿いをしばらく引き返しながら、線路は山の中に消えていく。しかし茜音はその山に入る口を見つけると、ずんずんと進んでいく。
「足下気を付けてね」
「うん」
幼い頃から周囲の自然が遊び場所で、このくらいの山を歩き回ったとしても体力に不安はあまりない千夏でも、多少道が悪い場所もすいすい進んでいく茜音には感心するしかなかった。
突然、前方の木々が無くなり、小さな川が流れる沢になっている。
こんなところに出てしまって、どうするのかと思った千夏の目の前で、茜音はその沢へ降りる急斜面を下り始めた。
「すごいなぁ……」
思わず口に出てしまう。そもそも今日の茜音の恰好はと言えば、茶色い地にタータンチェックが入ったワンピースと布製のカジュアルスニーカーで、とても山歩きをするような装いではない。
そんな茜音は千夏が下りてこられないことに気付くと、そこで待っているようにとゼスチャーで知らせてきた。
周囲を見回すと、近くに人家らしき存在はほとんど見られない。もしこんなところで怪我でもしたら大変だ。
しかし、そんな心配をよそに、茜音はあっさりとまた急斜面を戻ってきた。
「大丈夫だった……?」
「うん、このくらい平気。さて、みんなの所に戻りますかぁ?」
特に興奮した様子もなく、元来た道を歩きだした二人。
しかし、行きに比べると足取りが重い茜音に気づいた千夏。
「違った……?」
「ほえ? うん……、まぁね……。あんまり期待はしてなかったしね……。こんな潮の香りはしていなかったからなぁ。これで海沿いじゃないってことは分かったかな」
期待はしていなかったと言っているけれど、自分で現地に乗り込むというのは、茜音が多少なりとも可能性を見いだしたという証拠でもある。全く落胆しないということではないはず。
帰りの熱海への列車の中でも、口数は少なかった。半年前の夏に会ったときには候補が外れた時でももう少し明るく振る舞っていたことを思い出すと、千夏の方が心配になってしまう。
約1時間後、熱海駅に降り立った二人は、先に菜都実と佳織が向かった温泉を目指すことにした。
「佳織がさぁ……、温泉巡りにはまったらしくてねぇ……。しかも隠れたところを探し出してくるもんだから……」
幸い、日はまだ高く乾燥した秋晴れ。散歩がてらに歩くにはちょうどいい季候で、二人は途中の土産屋などを覗きながら歩いていった。
その場所は表通りから少し離れた坂の上にある。昔からの由緒ある熱海の温泉浴場で、佳織が以前一人で温泉地巡りをしたときに見付けておいたイチおしだという。
受付で料金を払い、畳が敷いてある休憩室を横目で見たとき、見覚えのある顔が横になっているのが見えた。
「ほえぇ~、なに寝そべってんのぉ……」
「あ、お帰り茜音……。このおばかさんのぼせちゃってさぁ……。また後で入りに行くから先行ってて」
菜都実の顔をうちわであおいでいる佳織。
「すまんっちゃぁ……。目が回ってよぉ……。また後で行くっすー」
確か、何度か温泉施設には一緒に行っているけれど、菜都実はそれほど長風呂ではなかったはずだと思い出す。
「はぁ……。まぁいいや、千夏ちゃん行こ」
休憩室の二人を置いて脱衣所へと進んだ。
「あれ……、今日は露天のお風呂は使えないのかぁ……」
事前に佳織に教わっていた情報ならば、日替わりで男女が入れ替わるので、運が良ければ露天風呂になるとのことだったけれど、残念ながら今日は男性側に設定されているようだ。
他のリゾート温泉などとは違い、これと言って楽しむアトラクションなどは設置されていない。その分静かな雰囲気が良かった。
「あ~~~、あったかぁい……」
先に浴槽に入っていると、後から千夏が隣に並んで座る。
「お疲れさま。久しぶりのオフロードはきつかった?」
「千夏ちゃんの地元ではあのくらい普通だもんね。今日くらいならまだまだかなぁ……。疲れてるときは、足がガチガチになっちゃうよ」
お湯の中で伸ばした足をさすってみせる茜音。病気ではないけれど、昔から疲れが溜まった時には、筋肉が硬直し痛くて動けなくなるといった癖がある。
「そうかぁ……。でも、凄いよねぇ……」
仮にそんなものを抱えていることを知らなくても、初めて会ったときから茜音の細い足を見れば、山奥の悪路を長期間歩き回るには向いていないことぐらい容易に予想はつく。
「この夏まで動けばいいかなぁなんてね……。その後は車椅子になるかもしれないけどぉ」
「まさか?」
「冗談だって。調べてもらったけど、特に骨が折れやすいとか、壊れやすいとかいうのは聞いていないから」
「ならいいけど。茜音ちゃん……、ごめんね……」
「ほぇ?」
千夏は申し訳なく思っていた。自分は茜音の尽力もあって和樹と進むことが出来ている。一方の親友はまだ一人でゴールに辿り着くことが出来ずにいるのだから……。
「そんなこと気にしないのぉ。そうかぁ……、千夏ちゃんうまく行ってたんだもんねぇ。なんか夏に会ったときより大人っぽくなったみたいね……」
「そかな?」
隣に座る千夏は半年前に見た時よりも、数段大人びたように見える。
「ごまかされないぞぉ~。プロポーションよくなってるでしょぉ? やっぱ彼が出来ると幼児体型って訳にはいかないかなぁ……」
水面の下に隠れているとは言え、滞在していた数日間は一緒のベッドで寝ていたこともある。数ヶ月前に比べ、明らかに出るべき所は成長しているのは脱衣所で服を脱いだときから一目見れば分かる。
「でもねぇ……。いくら頑張っても香澄には勝てないよ……。もともとが違うから……」
千夏は視線を下ろして胸元に手を当てる。
「和樹君はなんて言ってくれてるの?」
「うん……、別に張り合う必要はないって言ってくれてるけど……。香澄なんか『小さいのは小さいなりに需要がある』って……」
「ははは、それわたしも菜都実に言われたことあるよ。それって慰めてないよねぇ」
「ほんとにねぇ……」
思わず笑顔になったが、すぐに思い出したようにまたうつむいてしまった千夏。
「ご、ごめん……。嫌なこと思い出させちゃった……」
「いいよ……。私に魅力がないなら仕方ない……」
言葉少なくなってしまった千夏から視線を外し、膝を抱えて茜音は考え込んだ。
成り行きが分かり、きちんと彼女の自宅に連絡は付けてあるとはいえ、自分に救いを求めてきた千夏に大したフォローもせず連れ回してしまった。
本当なら千夏はもっと自分とじっくり話したかったのではないだろうか……。
彼女をいつどうやって高知に帰すかはまだ決めていない。
帰りたいと言えばいつでも手配できる準備にはしてあるが、その前に千夏の気持ちをきちんと聞いておく必要は絶対にある。
自分がなにも分からない土地にいきなり飛び込んだときに、人見知りという恐怖感がありながらも精一杯もてなしてくれた千夏には何かの形で恩返しが必要だと考えていたからだ。
どれくらいの時間が過ぎたのか、いつの間にか、横にいたはずの千夏の姿が見えないことに気づく。
「あれ……?」
脱衣所に戻ったのかと思って見てみても、千夏が脱衣かごを置いたところには中身が入ってるのが見える。
「外が見えるほうに行っちゃったのかなぁ……」
露天風呂になっていない方でも、隅の一角に天井が開放されている区画があり、そこなら露天気分は味わうことが出来る。茜音がのぞいて見ても千夏の姿は見えない。仕方なく戻るとすぐ隣がサウナだ。
「千夏ちゃん……?」
ドアを開けてみると、室温よりも湿度重視のタイプだ。表からはすぐに見えない端のほうに千夏が座っているのが見えた。
「ずいぶん長く入ってるよぉ?」
手をかけると、千夏はそのまま自分の方に倒れこんでくる。
「ちょ、ちょっと、大丈夫? しっかりしてぇ!!」
サウナから千夏を抱え出し、とりあえず浴室角の安定したところに座らせる。
「菜都実、佳織! 力貸してぇ!」
茜音はバスタオルを巻き付けたままの姿で休憩室の二人の元に走った。
「千夏ちゃん……、大丈夫……?」
「あ、あれ……? 私……?」
千夏が気が付くと、目の前には茜音がうちわを持ってゆっくりと顔のあたりを扇いでくれていた。
浴衣を着せられている部分には首振りにした扇風機で弱い風が当てられている。
「サウナで倒れちゃったんだよ……。しばらく冷ませば大丈夫って。そんで……」
「そっか……。あ、でも、私みんなに見られた……?」
「大丈夫。脱衣所閉めてもらって、着替えに入ったのはわたしと佳織だけだし、そのあとここまで運んだのは菜都実だから……」
「あ、そうなんだ……」
ほっとため息をつく。非常事態ではどうしようもないのは覚悟していたのに、茜音たちの対応には感謝するしかない。
あとの電車の中で話を聞いたとき、どちらかといえば、バスタオル1枚だけで休憩室に駆け込んできた茜音の方に二人は焦ったという。
「ありがと……。ごめんなさい……。考えごとしてたら、いつの間にか気絶してたみたい……」
「大丈夫だよ。それよりゴメンね……。もっと早く気づけばよかったのに……」
誰も悪いわけではない。逆にそれだけ千夏の思いが複雑だということを知らされた出来事に、茜音はこのままなにもせずに千夏を帰すことは出来ないと考えていた。
「もう大丈夫。情けないなぁ……。迷惑かけてばっかり……」
「そんなの気にしない。誰だって悩むし、千夏ちゃんの気持ち分かるから……」
「ありがと……」
よく冷えたお茶を飲んでいるうちにようやく落ち着いてきたところで、千夏はもとの服に着替えて茜音と外に出た。
「あれ? あとの二人は……?」
それまでようやく合流したかと思っていた、菜都実と佳織の姿が見えない。
「お土産とか他にも見て回るって言うから先に出発してもらったよぉ。うちらも少しお土産とか見てから出発しようかぁ……」
きっと、茜音は自分が気にすることを分かっていて、友達である二人に無理を頼んだのではないか。千夏はますます茜音に頭が上がらなくなってしまう。
「それは千夏ちゃんの考えすぎだよ。逆に千夏ちゃんに気を遣わせちゃってゴメンね……」
海岸線に向かってまっすぐ道を降りていく。茜音が先を歩き、その後を千夏はなにも言わずについてくる。
海岸が見える道までたどり着くと、茜音は砂浜への階段を降りていった。
「天気が良くてよかったあ」
茜音は消波ブロックの1つに座る。
「茜音ちゃん……」
「わたし……、最近の和樹君を見たわけじゃないから言い切れないけどね……。本当に和樹君は千夏ちゃんに愛想尽かしちゃったのかなぁ……?」
「だって……」
千夏としても、最初は違うと思うようにしていたけれど、事態を見守っているうちに耐えきれなくなったという経緯もある。
同じように、あれだけ穏やかな千夏がこうして飛び出してきてしまったという事実は、やはりそれなりの状況が起きたのだと茜音も考えている。
ただどうしても腑に落ちなかったのが、千夏をあれだけ想っている和樹が本気で彼女を泣かせるようなことはしない、と言うより出来ないはずだと。
ちょうどいい機会だから、茜音は二人きりで状況整理をしてみたかった。
「悪いけど、もしよかったら……、もう一回最初から話してくれると嬉しいな……。もちろん辛いならいいけど……」
「うん。茜音ちゃんならいいよ……」
そんな問いに、茜音ならばと千夏は頷いた。
『最初から一緒に整理して見ようよ』
相手が茜音ひとりだけなら遠慮もいらない。
千夏は異変が起き始めた辺りのことからを話し始めた。
「結局、一度疑い出しちゃった私が悪いのかもしれないけど……」
小さく呟く千夏。よく考えてみれば、本当に和樹が千夏のことを裏切ったのか、その証拠となるものといえば、千夏が自分で見たあのシーンでしかない。和樹当人に事情を聞いたわけでもない。
「そっか……。千夏ちゃんの前で悪いかもしれないけど、和樹君って千夏ちゃんのことあれだけ惚れてるんだもん……。そう簡単に、しかも香澄ちゃんに心変わりするとは思えないんだよねぇ……。それだけのことができるとは思えない……」
知らない人が聞けば、和樹をけなしているようなセリフに通常はなってしまうものを、今の状況では茜音の方が和樹の性格を冷静に判断しているようにみえる。
「内容は分からないけど、香澄ちゃんに何かあったか、起きることになって、それは千夏ちゃんにはまだ話せないことで。仕方なく身近にいた和樹くんに持ちかけたって思う方がわたしには自然に思えるかなぁ……」
「香澄に……?」
顔を上げた千夏は不思議そうな顔をしてる。
「だって、和樹君と千夏ちゃんが本当にお互いを大事に付き合っているのを一番知っているのは香澄ちゃんじゃない? そんな香澄ちゃんが千夏ちゃんを目の前で裏切ることなんか出来ないと思うんだよねぇ……」
「そうか……」
香澄と千夏が出会って相当の時間が経つ。なかなか外部からの転入が少ない土地で、転校してきた当初から一緒の香澄のことを一番よく理解しているのは他ならぬ自分かもしれない。
「そうだよね……。私、二人になにも聞いていなかった……。最低だな……私……。失格だよ……」
今度は自分を責め始めてしまった千夏の肩を茜音はそっとたたく。
「それを言うなら、わたしだってどうなるか分からない……。健ちゃんのこと本当にあと半年以上も待てるのかな……。って、こんなの考えること自体最低だと思わない……?」
「でも、それは茜音ちゃんのは特別だよ……」
「うん……。そう考えてもおかしくないし、誰もそのくらいじゃ責めないよね……。それと同じ。千夏ちゃんだけが悪いわけじゃないと思うよ。でも、わたしにはどう見ても和樹君が千夏ちゃんを理由もなく見捨てるとは思えなくて……。千夏ちゃんだってそう思ってるから残してきた和樹君のことが心配なんでしょ?」
「う、それはぁ……」
不意を突かれて赤くなる千夏。
茜音に言われたとおりだ。もの場の弾みで飛び出してきたのはいいが、時が経つに連れ、千夏の頭の中には和樹のことばかりが浮かんでいる。
茜音はそんな千夏を見て微笑む。
「どんなにうまくいっているカップルだって、いつも順調とは限らないよ。時々は気まずくなったり、すれ違ったりして……、お互いのことがもっと好きになっていくんだと思うよ。以前はもっと二人とも素直だったじゃない?」
「うん……」
言われなくても分かっていた。出会ってもう十数年の付き合いとなる和樹。幼いときから不器用ながらも自分をいつも見ていてくれた。
お互いに意識しあったのはずっと後のことだったけど、その時も千夏のペースに合わせてくれていた。
和樹には浮ついた話が起きたことはなかった。つまり周囲は彼の隣に落ち着くの千夏なのだと認識していることの現れでもある。
きっと半年前の告白がなかったとしても、いつかは同じ所にたどり着いたのではないかと思っている。自分の中から彼がいなくなることは考えられない。
「うん……。もし私が悪いなら……、謝らなくちゃならないし……。もう一人になるのは嫌……」
言葉に出してあらためてはっとする。この一件が収まったら、もっと仲良くなれるかもしれない。その前にもう一度お互いの気持ちを確かめることが必要だと思う。しかし、それも怖かった。
もし、今回の一件をきっかけに一人になることを言い渡されてしまったら、自分はそれに耐えられるのだろうか……。新しい出会いを見つけるどころか、そのショックから立ち直ることすら出来ない。
これまで考えることを避け続けてきたことが頭をよぎってしまう。
千夏の心を見通して安心したように、茜音の顔から緊張感が消えた。
そう、もう一人ぼっちに戻りたくはない。それが千夏の偽らざる心の声だ。
「ほら……。その気持ち、和樹君に正直に話せばいいんだよ。和樹君だって同じこと考えているのかもしれないし? それが聞けるのは千夏ちゃんだけだよ」
「茜音ちゃん……」
「わたしのいい先生になってねぇ……。うちはもっと大変だよぉ……。10年間の音信不通なんだから……。10年を取り戻すって大変なはずだから……」
いつも一緒にい続けた自分たちと、10年のブランクを超えていかなければならない茜音とでは状況はかなり違うことになるのは間違いない。
それでも、同い年で性格も似ている自分なら、茜音の手助けができるかもしれない。それが自分と和樹を結び付けてくれた茜音への恩返しになると千夏は考えている。
「茜音ちゃん……、私和樹にもう一度聞いてみる。ちゃんと聞かないでこのままいつまでも嫌な思いでいるのいやだもん」
「そうだね。きっといい返事が返ってくると思うよ。わたしが思ったとおりの和樹君なら」
「うん。ねぇ、さっきのところもう一度行っていいかなぁ? 考え事して気絶しちゃったからあんまり楽しめなかったから……」
ようやく千夏に笑顔が戻る。まだ地元に帰るための余裕は十分に残っているのを確認し、二人はもと来た道を戻ることにした。
その夜、千夏は茜音の家の近くの公園で自分の携帯電話の見慣れた番号を選択した。
「もしもし……」
コール音が消え、電話はつながっているものの、返事の声はない。
「もしもし……、千夏です……」
それでも声は聞こえてこなかった。
諦めて電話を切ろうとしたとき、
「本当に千夏……?」
小さな声が聞こえた。わずか2日ほどの間しか開いていなかったのにこれほど聞きたかった声。
「うん……。河名千夏です……」
声の主はようやく安心したようだった。
「今どこにいるんだ?」
「茜音ちゃんのおうちでお世話になってる……」
「そうか……。元気なんだな?」
ようやく普通の口調に戻る。
「ごめんなさい……。心配かけて……」
「こっちこそ、ごめんな……。千夏の気持ち、気づいてやれなくて……」
千夏の膝から力が抜けていく。大丈夫。自分たちはまだ先に進むことができる……。
「もう……、ダメかと思った……」
「違うんだ千夏。今から大切なことを話すけどいいか?」
「うん? 香澄のこと?」
「そうだ。だだ先に断っておくけど千夏が想像しているような内容じゃない。もっと真面目な話題だ。話しても大丈夫か? それとも聞かない方がいいか?」
和樹なりの心遣いだとわかる。
自分が想像している話題ではないということはもっと深刻なことなのか。
逆にそれを知らずに香澄とこれまでと同様に会話ができるか……。
「他の人は知ってるの?」
「千夏が飛び出していったあと、誤解していた連中には香澄が直接話している。だから、逆に知らないのは千夏だけだ。香澄からは千夏に話すかは自分に任せると言ってもらえている」
「分かった。何が起きていたのか、最初から教えてほしい」
「よし、じゃあ落ち着いて聞いてほしい……」
和樹は千夏を落ち着かせるように、ゆっくりとしゃべりだした。
あの夜の電話から2日後の朝、茜音は千夏を伴って羽田空港の到着ロビーを訪れていた。
「ごめんね。わざわざ来てもらっちゃって……」
茜音の家からも横須賀土産をもらい、空港でも迷惑をかけたことへのお詫びにと買い込んだ。
「いいの。そんなの気にしない!」
ロビー内に設置されている大型スクリーンの中で高知からの便の到着を知らせるアイコンが点滅する。
「きっと荷物も何も持ってないよ。折り返しの便ですぐに帰るって言ってた」
千夏が見せてくれたのは、帰りの二人分のチケットの写真で、和樹の到着予定時刻から2時間ほどしかない。フライトの便名から折り返しとして設定されているものだと分かる。
「そうなんだぁ。本当に飛行機で迎えにくるなんて頑張るねぇ」
「茜音ちゃんに比べればそのくらいやってくれなくちゃ」
「あんまり無理させたらかわいそうだよぉ」
口は動かしながらも、二人の目は乗客が降りてくるゲートに釘付けになっている。
「あっ……」
茜音が気づいたときにはすでに遅かった。
それまで持っていた荷物を足元に落とし、千夏は人ごみの中を走り抜けていく。
「和樹ぃ……」
茜音がその場にたどり着いたとき、千夏は和樹にすがりつくように涙をこぼしていた。
「ごめんなさい……。心配かけて……」
「いいんだ……。あ、茜音ちゃん……。今回は千夏が迷惑をかけました。すみません」
久しぶりに二人そろっての様子を見た茜音は、ようやく胸のつかえが取れたような気がした。
「やっぱり、大丈夫だったねぇ……。今回はみんないい勉強になったんじゃないかなぁ……」
「そうっすね。ところで、もう少し落ち着いたところはないのか? いくらなんでもここは目立ちすぎるぞ……」
外国の映画のシーンならまだしも、やはりこの再会シーンは和樹に少々恥ずかしさもあるようだ。横を通り過ぎる通行人も、そんな空港ならではの微笑ましい光景には寛容ではあるけれど。
10分後、三人は展望デッキの端にいた。逆に目立つのではないかと思った和樹だが、茜音に案内されてみて納得する。都内でも有数のデートスポットと紹介されるだけに、少しぐらい千夏が気持ちを表したところで目立つことはない。
「そうそう。出発直前に連絡もらったんだけどさ……、香澄のこと」
「あっ……」
千夏の顔が強張った。先日の電話の後、千夏は泣きそうな顔で茜音の部屋に戻ってきた。
慌てた茜音が千夏を落ち着かせてなにがあったのかを聞くと、和樹から聞いた話の内容が、この春休みにも香澄が引っ越してしまうかもしれないというニュースだったから。
結局、今回の騒ぎの発端はそれが原因だったとハッキリした。
まだ未確定の話だったし、香澄も気にかけている千夏のことも含めていろいろ和樹に相談をもちかけていたのを千夏が誤解していたことが今回の騒動に発展したということが分かったからだ。
「結局は、私の空回りだったってことなんだよね……」
申しわけなさそうに和樹に顔を伏せる千夏の肩を持って、茜音は首を横に振った。
「どんなに仲がよくても、ボタンの掛け違えは起こるよ。でも、和樹くんが迎えにきたってことは、わたしが心配することもなかったんだね」
どんなに虚勢を張ったところで、茜音には見透かされてしまう。
千夏だけでなく和樹も茜音とは初見ではない。二人ともそれは分かっているようだ。
「それにしてもひどいよぉ……。そんな大事なこともっと早く話してくれればよかったのに……」
千夏の言うことももっともで、ちゃんと話してくれれば彼女もここまでの騒ぎを起こすことはなかっただろう。
「まだ確定していないから話せなかったんだとさ。それで、今日の速報として、少なくとも春までは引っ越さないことが決まったそうだ。弟が中学3年の受験の時期に引っ越してなんかいられないってことらしくてな。春になれば高校も確定するだろうし、でも今度は香澄が受験生ってことで……。その後のことはまたそのときに決めるって言ってた。これを千夏に伝えてくれって」
「そうなんだ……。またバラバラになっちゃうね……」
それでも寂しそうに言う千夏。香澄は同級生でも古くからの千夏の味方であり、一緒に苦楽をともにしてきた仲だ。
「千夏に悪かったって言ってくれって。高知の方には香澄も来てるからさ」
「へ? そうなん?」
今日のスケジュールは、朝の便で和樹が千夏を羽田空港まで迎えに来て、千夏を連れて帰るという少々ハードなスケジュールだった。
茜音が空港まで見送るのは確定していたのだけど、当初は千夏が一人で帰るはずだった。しかし、突然和樹が上京、千夏を迎えに来るというプランに変更されたのだという。
「方向音痴な千夏だからな。変な飛行機に乗っちゃわないか心配だし……、無理やりにでも連れて帰る必要があったから……」
「え?」
思わず和樹を見上げる。彼はやさしく笑っていた。
「千夏が飛び出してからさ、ほとんど寝れてないんだ……。この間の電話でようやく一晩寝れたけど、結局昨日もだめだった。千夏が近くにいてくれないと、俺、ダメみたいだ……。情けないけどな……」
「ね、千夏ちゃん。心配要らないって言ったでしょ?」
茜音はそれだけ言うと、二人からそっと離れて自販機が並ぶコーナーへと歩いていった。
そんな茜音の後ろ姿を見送りながら、「あーあ」とため息をつく千夏。
「茜音ちゃんはなんでもお見通しだね……。心配かけてごめんなさい……。帰ったらマッサージでも膝枕でもなんでもしてあげる。あそこで和樹の寝顔見るのまたできるから……」
二人が高校に入ってから見つけた息抜きの場所。日曜日など勉強の合間に二人が向かうのは町や四万十川を見下ろす山の斜面。
誰にも邪魔されず、本を読んだりしゃべったり昼寝をしたり、二人きりになれる場所だった。
普段は和樹がいつも千夏の前面に立つということが多いのに、そこでは逆に千夏が彼をリードすることもある。たまたま勉強で疲れていた和樹に千夏が膝枕を貸したところ、二人ともなぜかそれが気に入ってしまった。
それに、千夏は和樹の腕を心配し、悪化させないようにとマッサージも覚えた。そんなことを堂々としてあげられるのもその場所だけだから。
陽射しも春が近づいているのが感じられて、そんな外での時間を過ごすのにぴったりの季節がすぐそこまで来ている。
「私、迷惑ばっかりかけた……。でもね……、今回のことで、私も……、和樹がいてくれなくちゃダメなんだって、……分かっちゃったの……。だから……、和樹にフラれたらもう一生立ち直れない……。それで怖くて……、一人になるのが怖くて……、帰る勇気が出なかった……。ごめんね……。情けない私でごめんね……」
本当は、もっと前にこの言葉を言っておかなければならなかったはず。
「バカだなぁ……千夏は……。俺だって同じなのにさ……」
「うん……。もう……、嫌いって言われるまでどこにも行かない……」
「そうしてくれるとありがたいけどな」
「うん……。そうだね。一人じゃなにもできないもん」
「ウソこけ。まさか一人で東京までくるなんて誰も思ってなかったぞ」
久しぶりに二人で並んで笑えた。これならもう大丈夫。
「さて、そろそろ行かないと間に合わないよぉ……」
それまで席を外していた茜音が後ろから声をかけてくる。
「もう大丈夫だよねぇ。今度来るときは二人で仲良く来てねぇ」
三人で出発ロビーに移動し、セキュリティゲートの前で立ち止まる。
「本当に今回はご迷惑かけました。今度、茜音ちゃんも二人になって遊びに来てください。それまでにはもう少し仲良くなれてると思いますし……」
「いまでも十分だと思うよぉ……。あ、そうそう。さっき落っことした荷物……。制服もクリーニングかけておいたってお母さんが言ってた」
千夏が赤くなった。すっかりその存在をすっかり忘れていたらしい。お土産と上京の時に千夏が着ていた制服と荷物も。
今日の千夏が着ている一式は茜音からの借り物だ。
「俺が持っていきます。服はあとで千夏から返させますから」
「ううん。いいよぉ。千夏ちゃんが気に入ってくれてるからそのまま使って。今回のこと思い出して仲良くいるためのお守りにでも……」
「ありがとう茜音ちゃん……。茜音ちゃんも頑張ってね。ずっと応援してるから……」
千夏は茜音の手をぎゅっと握った。涙もろいのは二人とも同じだ。
「幸せになってねって言うのはまだ少し早いけど……、もう大丈夫だよね。わたしもいい報告ができるようにがんばるねぇ……」
セキュリティゲートを抜け振り返りながら手を振った千夏に答えていた茜音の肩をたたく者があった。
「ほえぇ。二人ともどうしたのこんなところでぇ?」
「しまったぁ、一足遅かったかぁ……」
「菜都実の寝坊が悪いんでしょ。せっかく感動の再会シーンと千夏ちゃんを泣かせた犯人を見ようと思ったのに!」
どうやら二人は千夏が実家に帰る話を聞いて羽田までわざわざやってきたらしい。
「どうだった。仲直りできたの二人は?」
「うん、二人とも本当に素直だったよ……。もう大丈夫……」
「茜音……?」
再び送迎デッキに移動し、フェンスに手をついた茜音の様子は少し寂しそうに見えた。
「正直羨ましかったなぁ……。本当に二人とも素直だったんだもん……。もう心配いらないね」
「茜音だって、そうなれるよ。あんたほど彼のこと想ってるのは日本中探したってそういるもんじゃないでしょ……」
「そっかなぁ……。まだまだだと思うけど……」
飛行機を見ている茜音の横顔は、佳織にもその心境が伝わってくるようだった。
「茜音……、見返してやるんだよ?」
「ふん?」
「千夏ちゃんたちのカップル。そして茜音のこと笑いものにしてきた人たちのこと。茜音ならできるからさ……」
「うん……。頑張ってみるよぉ……」
「さぁて、茜音。今日の午後はヒマ?」
しんみりした空気を吹き飛ばすように、菜都実の声が響いた。
「うん。大丈夫だよ」
「せっかくここまで来たんだからさ、帰りちょっち寄り道して帰ろうって。佳織も賛成してるしさ?」
「うん、いいよ」
返事を聞く前に、すでに立ち上がっていた二人はもう出口の方へと進んでいた。
「茜音! 早く!!」
「千夏ちゃん……、がんばれぇ」
誰にも聞こえることはない。飛行場の騒音にかき消されてしまう小さな声だったけれど、再び歩き始めた親友にエールを送り茜音は二人の後を追った。
【茜音 高校3年 6月】
「このルートだと、こっちの線に乗れないしなぁ……」
「こっちは幹線だから、可能性としては低いと思う。航空写真見てもそれっぽいのないし」
喫茶店ウィンディの閉店後。茜音、菜都実、佳織の三人が地図帳と時刻表を広げてすでに約1時間が経過している。
時刻は夜11時を回っているけれど、土曜日の夜でもあったので、閉店作業はマスターである菜都実の父親に任せ、ウエイトレス役の三人はテーブル上の備品や掃除などの仕事をひととおり片づけると、店の一番奥にある三人が勝手に会議室と名付けた四人がけのテーブルに集まって、タブレットを手元にさっきからひたすらメモを書いている。
「ふわぁ。なかなか難しいねぇ」
ガタンと椅子をならして立ち上がった茜音は、仕事の時間からつけっぱなしだったエプロンを外し、大きく伸びをした。
「信越と東北って列車の本数が少ないから難しいんだよこれが」
時刻表から顔を上げた佳織も一息をついた。
「正直、これが最終戦だからなぁ。多少の無茶は承知なんでしょ、茜音?」
「うん。もう学校休んだどうこうとは言ってられないし」
高校3年生となり、春休みやゴールデンウィーク、果ては修学旅行を使ってまでの茜音の旅は大詰めを迎えていた。
とにかく雪の多い地区は避け、西日本、九州をやむなく一部手分けをして駆け抜け、そのほかの地区も四国を千夏に、信州と中部地方を理香と清人、北海道を家族旅行で回っていた萌、箱根や日光など関東の山間などは真弥にお願いしたり、それ以外にもSNSの力も借りながら情報を集めた。
その結果、残る地域は東北地区だけとなっている。
それは佳織の意見としても、一番可能性の高い地域でもあり他人任せではなく、直接回れる時期が来るまで最後に残したのだという。
残されている時間はあと1ヶ月。1学期の期末試験を終えれば夏休みに入る。あの写真に印字されている日付では、この年の夏休み3日目があの日から10年となる。
現実的な話、高校3年生となった三人とも目前に迫る期末試験の対策に抜かりはない。放課後は店の夜の部ギリギリまでは佳織を先生とする勉強会が開かれている。
その後の夏休みの間には最終の進路決定もしなければならない。
しかし、茜音はたとえそれらを考える時間や寝る暇を削ってでもしなければならないことがあった。
自分に与えられている時間はわずか1ヶ月。平日は学校があり、祝日もなく動けるのは週末だけという6月になっても、まだはっきりとした手がかりをつかむことができない状態では十分な時間とは言えない。
そこで茜音が考え出した最後の手段は、フットワークが軽く、多少の無理もできる一人旅で、これまで回ることができなかった未踏破地域の一掃を行うことだった。