ETERNAL PROMISE  【The Origin】




 夕方、二人は来た道を登り、線路沿いに歩いた。

「足元気をつけてね」

「うん」

 ただでさえ、線路際というのは砂利道だったり枕木が横たわっていたりと昼間でも歩きにくい。

 それに、二人が過ごしてきたときわ園の周囲とは違って電灯などもない。

 陽が沈み、月明かりの中で歩いていると屋内に灯りの点った駅を見つけ、そこの駅員に事情を話した。

 こんな山奥だというのに、駅舎の中にいたのはまだ若い夫婦だった。

 最初、幼い来客に驚いていた夫妻だったが、二人の話を聞くと怒りもせずに優しく迎えてくれ、お風呂だけでなく、洗濯やお腹いっぱいのもてなしをしてくれた。

「健くんと言ったかな。帰ってから怒られるかも知れないが、茜音ちゃんを絶対に悪く言っちゃ駄目だよ。それに、健くんも茜音ちゃんのことを思うなら、そのくらい平気じゃなくちゃいけない。女の子を守るってのはそういうことだからね」

 その駅員さんは茜音の寝顔を見ながら健に話しかけた。

 聞くと、その夫妻も大恋愛を両親に反対され、二度と戻らない覚悟で家を飛び出し、今の婦人を連れて家出をしたまま、それ以来は家に帰ることも出来ないでいるという。

 だから、年齢は大きく違えど、健の気持ちはよく理解できているようだった。

「そうか、10年か。その頃には君たちも18になるんだな。その時まで今日のことを忘れていなければ、二人の気持ちは本物と言っていいだろう。それまでは辛いかもしれないが、茜音ちゃんのことを思い続けられるかい?」

「はい」

 翌朝、連絡をしておいたときわ園から先生が二人を迎えに来た。

 2日ぶりにときわ園に戻った健と茜音を誰も怒らず、周りの子たちからはあれだけの騒動を起こした彼らを褒め称える拍手で迎えられたほどだ。

「そういう事をするのは、もう少し大人になってから、今度は相談してくれよな。よく二人とも無事に戻ってくれたよ。茜音ちゃんの体力が心配だったんだ」

 園長先生からも怒られるだろうと覚悟していた二人を叱りつけることなどはせず、無事に帰ってきてくれた事を喜んで、最後にそう言い残しただけだった。

 その日、二人は最後の時間を過ごした後、翌日それぞれの新しい施設に移っていった。

 最後の夜、茜音と健が手をつないで熟睡しているのを見た先生たちは、この短い時間の冒険で何をしたのかは分からずとも、幼い二人の結束が強くなったことを確信していた。

 佐々木茜音と松永健、8歳の二人が交わした10年間の約束の時計の針が動き始めた、夏休みの最初の日のことだった。


【茜音・高校2年・初夏・横須賀】



 7月、今年の梅雨はあっという間に明けて、(ちまた)では水不足になるのではないかと危惧するニュースもちらほら聞かれる。

 日差しもすっかり真夏モードに入ったらしく、まだ朝だというのに、制服のブラウスに汗の模様を作るにはもう十分すぎた。

 つい先日までは新緑だった、この私立櫻峰(さくらみね)高校に続く坂を囲うように植えられている木々も、気が付くと濃い緑の葉を広げ、涼しげな木陰を作り出していた。

「は~。今日は遠くまで見えるぅ」

 坂道を途中まで上り、後ろを振り返る。正面には砂浜の広がる海岸線。右側には東京湾を望むヨットハーバー。反対側の遠くには、大きな港町や工場地帯を見通すことが出来る。これらが全て見渡せるためには、天気の他にもいろいろ条件が必要だ。

「お~い、茜音(あかね)! 学校遅刻するよぉ~!」

 かなり苦しそうに坂を駆け上がってきた、同じ制服の少女が叫ぶ。

「はうっ! 間に合うかなぁ~?」

「わからん! とにかく走れぇ~」

「うんっ! 菜都実(なつみ)先行くよぉ~!」

「あ、まてこらぁ~、薄情茜音ぇ~っ!」

 茜音は息も絶え絶えになってしまった友人をその場に残すと、また坂を駆け上がって行って行こうとした……。

 しかし、その努力も空しく、校門直前で予鈴が鳴ってしまったのだが……。



 片岡茜音、高校2年生の16歳。

 そう、あれから9年を経たあの茜音だ。名字は佐々木から片岡に変わっていた。

 新しい施設に連れて行かれてからすぐ、入院時代から彼女の事を心配し、申し出ていた夫妻の元に、茜音は引き取られていた。

 受け入れてくれた家庭は、茜音の心をほぐし、すぐに馴染んでいった。

 もともと片岡家に子供はおらず、茜音のことを周囲にも長女と紹介し育ててくれている。実の娘ではない茜音に里親ではなく養子縁組みを適用したうえ、私立の学校に行かせてくれたのも、茜音を家族の一人として接してくれている証拠でもある。


 彼女はあの当時と変わらない魅力を持っていた。艶のある黒髪の左右のもみあげを中心にしたに細い三つ編みをアクセントに、残りを後ろにまっすぐ伸ばしている型も当時のまま。

 片岡家の生活方針や嗜好も影響しているのかもしれないけれど、彼女の服装にも大きな変化はなく、同年代よりも少し幼く見えてしまう風貌は、あの当時の茜音をそのまま成長させたような形である。



「おはよう佳織(かおり)

「おはよー。もう、今日で何回目? 今日はまだ先生来てないからセーフだけど?」

「はうぅ。今日はお天気よかったからつい……」

「あー、この学校が平地にあればなぁ」

「そこ文句言うならあと5分早く起きなさいって」

 一緒に教室に飛び込んだ上村(うえむら)菜都実(なつみ)と、そんな二人に朝から説教をしている近藤(こんどう)佳織(かおり)の二人は、茜音の過去を知っている数少ない友人だ。

 ショートカットでいかにも快活そうに見える菜都実はいつも明るく、成績の方はちょっと怪しいけど……、ムードメーカー的な存在の彼女は、茜音が落ち込んだときにどうしても必要だった。

 もう一方の佳織は、メガネこそかけていないが、セミロングにしたさらさらの髪と三人の中で一番落ち着いた顔つきで、大人っぽく見える。

 見かけ通りかどうかはともかく、常に冷静で頭の回転も速い。ただ勉強が出来るというのではなく、どこから仕入れてきたのか、茜音と菜都実が呆れるようなネタまで知識は豊富だし、柔らかでのんびりとした性格が周りからも好かれている。

 もちろん、茜音と菜都実にとってのテスト前の頼み綱であることもお約束だ。

 こんな三人だから、いつも一緒にいたし遊びに行くのもいつも一緒。もちろん茜音の過去の話はオフレコだったけれど、彼女のことを決して特別視しない二人が茜音は大好きだった。

【茜音・高校1年・春】



 そもそも、茜音と佳織、菜都実が三人チームを作ったのは、高校1年生の入学式の日にまでもう少し時間を巻き戻す必要がある。
 
「今日は入学式とオリエンテーションだけっしょ? 面倒だなぁ」

「なに初日から言ってるの。最初が肝心」

「しょうがないなぁ。それにしてもなんでこんな坂の上に学校作ったかなぁ?」

 真新しい制服に身を包んだ佳織と菜都実が、学校に続く坂を上っていく。

「これはいくら菜都実でも寝坊してダッシュって訳にはいかないんじゃない?」

「うぅ、くそぉ。佳織、起こしに来てくれぇ」

「えぇ? だって菜都実の家、うちからだと途中から寄り道になっちゃうもん!」

 そんなことを言っているうちに、坂の頂上にある高校の門をくぐった。

「まだそんなに集まってないなぁ」

「あ、ほら菜都実、やっぱりあの子いるよ」

「うわ、やっぱりここに入学決めたんだ」

 櫻峰高校の入学式の当日。

 上村菜都実と近藤佳織の二人は、校庭の一角に貼り出されているクラス分けの表の前に向かうとき、その少女を見つけた。

「どうなんだろ、同じクラスなのかな」

「だといいね。面白そうだし」

「ていうか、佳織の世話焼き癖が出ただけなんじゃないの?」

「べ、別にそんなんじゃないけど……」

「だってさぁ。発表のときからあんなことやってちゃねぇ……」

 佳織も苦笑しながら、自分たちも発表の掲示板に足を進めた。


 その事件とは、菜都実と佳織がこの櫻峰高校の合格者発表を見に来た時のことだ。

「はうぅ……」

 自分たちの受験番号が掲示板にあるのを確認し、帰ろうと思ったときだった。

「ん?」

 すぐ隣から落ち込んだ声が聞こえる。

 二人が目をやると、市内の私立中学の制服を着た少女が、がっくりした様子で掲示板を見ていた。

 この櫻峰高校は決して簡単に入れる学校ではなく、倍率も周辺平均からすれば高い。そもそも内申点をそれなりに取っていなければ受験すらさせてもらえないという学校だから、受験しているだけでもそれなりの頭の持ち主ということだ。


 しかし、佳織はその少女に声をかけずにその場を立ち去ることができなかった。

「あ、あのぉ……」

「ほえぇ?」

 本当に同い年の子なのだろうか。その容姿ともリンクしているどことなく幼い感じの残る声が返ってくる。

「大丈夫ですか……?」

「ご、ごめんなさいですぅ。番号なかったからからこれからどうしようかなぁって思って……」

 どうやら普通に話せばちゃんと話が通じるようだ。

「ここは補欠とか条件付きだから無いと思うよ。あっちが正規合格だから」

「ほぇ?」

 狐につままれたような顔をしている彼女を、佳織は別の掲示板の前に手を引いて連れて行った。

「ほら、あそこにあるの、あなたの番号じゃない?」

 ようやく状況を飲み込んだのか、少女はもう一度自分の受験票を確認する。

「ね? あるでしょ?」

「ほ、ほんとだぁ。あったよぉ、あったよぉ……」

 さっきまでの沈んだ顔は消え、無邪気に喜んでいる彼女を見ると、他人事ではあるのに二人ともなぜか自分のことのように嬉しくなった。

「よかったね」

「はいぃ。ありがとうございますぅ」

 情報をくれた佳織だけでなく、菜都実にもきちんと頭を下げて礼を言い、手続きのカウンターの方へ歩いていった。

「よかった…」

「まぁ、それでも今日書類をもらわなかった場合は送られてくるんだからなぁ。でも、なんかウルウルしてたぞ?」

「今時珍しいくらいかもね。なんか可愛い子だったなぁ」

 佳織は彼女が去っていった方を見たが、すでに人混みに紛れてしまってその姿を探すことはできなかった。




「へぇ、茜音って私服になるとお嬢様なんだねぇ」

「そ、そんなことはないよぉ」

「だって、学校の制服を着ているときとは雰囲気違うじゃない。部屋のインテリアだってみんな結構するよこれ?」

 菜都実は部屋の中を見回していた。

 あの初日のクラス発表のあと、同じ教室で再会した三人は、すぐに打ち解けた。

 もともと受験の時から茜音の受験番号を気にしていた佳織に、これまでの様子を見ていて、悪気はないけれど面白そうな子という認識でいた菜都実。

 同じ出身中学の子からも離れて独りでいた茜音には新しい友人を作れるか不安も大きかったから、二人が差し伸べた手をありがたく受け止めていた。



「はうぅ、なんか変かなぁ?」

 まだ授業が本格化する前の土曜日、自分の部屋に菜都実と佳織の二人を招き、お茶会を開くことになり、二人が彼女の部屋に入っときに発したのが冒頭の言葉だった。

 さすがに学生の身分だけあって、目が飛び出すような価格のものではないが、佳織などが見ても茜音のセンスの良さは分かった。

「いや、嫌みとかじゃなくて、こんな女の子が身近にいたんだなぁって思って」

「そっかなぁ?」

「ほら、最近フリル付きの洋服とかがいろいろ雑誌とかにも載ってるけど、本当にそれが似合う人って見たことなくてね」

「あうぅ。そっかぁ。最近流行ってるみたいだもんねぇ」


 茜音の私服を見るまでもなく、色はそれほど派手ではないがフリルやレースを使った小物が好きだとわかる。それだけでなく佳織が言ったように、無理が無く自然に身に付いている同年代を見るのは二人にとっても初めてだった。

「でも、みんなから色々言われちゃうから、他の人と一緒の時はあまり着ないようにしていたし……、もう少し大人っぽくしなきゃダメかなぁって……」

「いや、いいんじゃない? その髪型だって似合ってるし」

「ほんとぉ?」

 佳織は気づいていた。茜音の幼げとも言える独特の雰囲気というのが、彼女の髪型や言い回しから来ているものだと言うことだ。

 左右のこめかみ上辺りから細めの三つ編みにして、あとは艶のあるストレートの髪を後ろに下ろすのは、小さい女の子にはよく見かけても高校生になった同年代には見かけることは少ない。でも、茜音はそれが服装同様に自然と似合っていた。

「変えなくても大丈夫かなぁ……?」

「必要ないんじゃない? 似合ってるし」

 茜音の顔がほっとしたように見えた。やはりこの髪型には深い思い入れがあるのかもしれない。

「そんなに心配?」

 そこまで言ってもなかなか自信が持てないのは、やはり何かありそうだ。

「ねぇ、心配だったら理由を話してくれれば、ちゃんと相談に乗るよ?」

 佳織が紅茶をすすりながら促すと、茜音は急に重くなってしまった口を開き始めた。




 片岡茜音は数奇な運命に翻弄されてきた。

 その証拠とも言える、彼女の名乗る片岡というのが彼女の本来の姓ではないことは戸籍を見ると分かる。

 片岡の姓を名乗るようになったのは、小学校2年生の時からだ。

 もともとは佐々木家の長女として生を受けた彼女は、幼い頃から両親の愛情をたっぷり注ぎ込まれながらもきちんとしつけられ、幼稚園に入る頃には有名私立幼稚園のお受験も十分にクリアできるほどだったという。そんな受験などは一切せず、近所の幼稚園で友達と遊んでいた。

 しかし、突然の事故が彼女のその後を大きく変えてしまった。

 そんな状況の彼女を養女としてを引き取ったのが、今の両親である片岡夫妻だ。

 二人の献身的な努力によって、茜音も少しずつ心を開き始め、家庭では回復を見せたなか、最後まで手こずったのが学校生活である。

 小学校時代、施設から通っていたことは他の子供たちにも分かっていたし、そもそも心に傷を負った状態の茜音の状態はいじめの対象になりやすかった。

 新しい家族の一員となり、この街にやってきて小学校に転入してからも、やはりどことなく儚げで同年代より下に見られてしまう。また生まれ持った元来のおとなしい性格が災いし、ここでも居心地の悪さは続いた。

 中学になって収まることを期待したが、逆に環境は悪化の一途をたどる。登校拒否になり、進学僅か1ヶ月で私立の学校への転校を余儀なくされた。新しい環境でも孤独は続いたけれど、それ以上両親に迷惑をかけることもできないと、3年間を耐え抜いたというのが、彼女が口にしたこれまでの大まかな軌跡。



「茜音……、苦労したんだね……」

「あんな性格だから、仕方ないかもしれないなぁ」

 茜音の家を出てから、菜都実の家でもある喫茶店ウィンディで一息をついた二人。

「でも、茜音が話してくれたおかげで、謎が解けたかな」

「そう?」

 佳織はアイスティーの氷をカラカラ言わせながら頷いた。彼女は受験の時から茜音の行動を謎だと言っていたのだから。

「だって、茜音の中学って市内だから、それなりに受験生も多かったんだよ。みんな友達同士で固まっていたのに、茜音だけ朝から帰りまでずっと一人だったんだよね。合格発表だってそう。おかしいなって思ってたんだよね。それにいつも何となく寂しそうだったし」

「そっかぁ。味方に恵まれなかったってことか」

「女子って意外に残酷なところあるし」

「どうした、なんか気になることでもあったのかい?」


 二人が話し込んでいるところへ、この喫茶店のマスターでもある菜都実の父親がスナックを運んでくる。

「まぁね。新しくできた友達なんだけどさ」

「かわいいんだけど、どっか抜けてて、見ていられないって言うか。実際なんか寂しそうって言うか……」

「また佳織ちゃんの世話好きが反応したんだな?」

「そんなところですかねぇ。でも今度こそ大当たりだったかも」

 佳織はポテトチップをかじりながらうなずいた。

「親しい友達もいない。あれ聞いちゃうと学校で元気にしているところを見たらちょっと痛々しく見えちゃう」

「本当の性格は理想的なのにねぇ。なんでそんなに孤立しちゃったんだろう」

 二人は首をかしげる。

「まぁ、その辺は少しずつ。話したくなったら話してもらえばいいか……」

「もしその子がよければ、今度連れておいでよ。佳織ちゃんみたいに居心地が良ければ学校以外の居場所になるかもしれないし」

 マスターの提案の前から、二人は茜音を連れてこようと考えていた。

 マスターも年頃の娘を持った親だ。学校と家や塾といった学生としてあるべきものとは別に、好きな居場所を持っていていいというポリシーの持ち主であるから、この店、ウィンディーを集合場所としてもらうのに嫌な顔はしない。

 そんな親をもつ奈都実だけでなく、佳織も学校では話すことができない話題を扱う時は、放課後にウィンディーに集合というのがお約束になっている。

 茜音の話題などはまさにそんな学校で聞かれたくないであろう話題そのものだと感じた。

「そうだなぁ。さて、夜の準備すっかぁ」

 菜都実が立ち上がり、新しいメンバーの話はそこで打ち切りになった。




「茜音、いろいろあったんだなぁ……」

「うん……、いろいろあったよぉ」

「よく、頑張れたね。私じゃギブアップしてたかも」

 翌日、菜都実と佳織の二人は、茜音をいつもの喫茶店『ウィンディ』に誘った。

 これまで学校帰りに喫茶店に寄り道など頭にもなかったのだろう。最初は拒否していた茜音に、

「どうせあたしの家なんだからさ」

 この菜都実の一言によって、今はいつも菜都実と佳織が占領することが多い一番奥のテーブル席に座っている。



「いや、佳織がどうしても茜音のことをもっと知りたいって言ったもんだから……」

「うぅぅ……」

 切り出した菜都実に少し顔をこわばらせる茜音。

「またぁ……。菜都実は何でもストレートすぎるんだから。違うの。初めて茜音と会ったときから、ずっとなにかを抱え込んでいるような気がして……。この間話してもらったこと以外にも、私たちで手伝えることがあれば、少しでも役に立てないかなって思っただけなんだよね……」

 佳織もとっさのことなので上手く説明できたとは思わなかったが、それでも言いたいことは伝わったようだ。



「そうだねぇ。やっぱりまだ学校に行く時の朝は気が乗らないことがある。でも、二人に会えるんだって思ってなんとかお家を出るのは間違いないよぉ」

「なるほどね……。あれだけ小中ときつい時間を過ごしてきていればなぁ。分かった。今度から茜音が大丈夫って言うまで、途中で待ち合わせて三人で学校行こう?」

「い、いいの? わたしも悪いんだと思うから、無理はしないでね?」

「そんなの気にしない! どう聞いたって茜音に非はないわけだからさ。一人で思い詰めることはないよ」

 二人に本当のところを理解してもらえたと茜音も理解できたのか、緊張していた顔が少しずつ崩れた。

「うん……。ありがとぉ。初めてだよぉ」

 感極まってしまったのか、目を真っ赤にしている。

 そう。学校で話しができる友達が欲しかった。たったそれだけの事すら叶わなかったこれまでの学生時代。

「もう、安心しなよ。あたしらがついて居るんだから。それに同じクラスなんだから、大船に乗った気分でいいんじゃない?」

「いいのかなぁ? 二人にも迷惑かけちゃうかもしれないよぉ? それだけが心配で……」

 そこまで彼女が慎重なのは、以前から自分と関係を持つことで、無関係の人物まで巻き込んでしまうところを何度も見てきている。そのことによって失った人間関係も少なくないから。

「心配しないで。茜音は気にしないで大丈夫」

「うん、本当にこの二人なら大丈夫だと思うぞ。菜都実も我が娘ながら、無鉄砲はやるがウソはつかないからな」

 マスターはカフェラテのおかわりを持ってきてくれた。

「そうですかぁ……?」

「茜音ちゃん、嫌でなければいつでもこの店にも来ていいんだよ。佳織ちゃんも中学の時からいつもこうやって宿題もやってるくらいだから」

 どうやら暇なときは宿題などもしていながら、混雑している時には佳織も手伝っているらしい。その分は試作品のケーキや飲み物という形で還元されているようだったが。

「わかりましたぁ。よろしくお願いしますぅ」

「よし、今度の学力テストの対策、明日から始めますか!?」

 茜音にとって、これまでの「放課後」は学校からすぐ逃げるように帰っていた時間だったもの。それが佳織と菜都実と友達になったことで、何もかもが新鮮に生まれ変わった最初の1学期はあっという間に過ぎていった。




 時計は再び元に戻り、三人は高校2年生に進級していた。

 初めての出会いから1年も経ち、最初はぎこちなかった茜音も、すっかり周囲にとけ込めるようになっている。

「どうよ、こういう泊まりがけの旅行は?」

 菜都実は防波堤の上に座って昼食に買ってきたおにぎりを手に隣の茜音に聞く。

「うん。来てよかったかなぁ……」

「海で遊ぶなんて、私も久々だったかも」

 茜音に続いて、佳織も大きく伸びをしながら加わる。

「うちなんか家の目の前が海だって言うのに、海水浴なんか全然しないもんなぁ」

 今回は夏休み直前、期末テストも終わった採点日からの連休。菜都実の提案で房総半島の先端にある鴨川まで泊まりがけの旅行をすることになった。

 ハイシーズンなので宿が取れないと言っていたところ、ウィンディのマスターでもある菜都実の父親のマリンスポーツ仲間が民宿を営んでいて、両方の商売とも夏休みシーズン直前だからと格安(ほぼ招待らしい…)という条件が舞い込んだことで実現した。

 茜音の希望で到着初日は水族館を訪れ、2日目の今日は菜都実の計画通りに海水浴を楽しんでいる。

「でもなぁ。茜音ってひでぇなぁ」

「ほへぇ?」

 菜都実がグレーのタータンチェック柄の水着と上に1枚羽織っているものを見透かすような目つきで言う。

「だってさぁ。まさかそんなにご立派だとは思わなかったぞ。制服だって分からないし、私服じゃぁ幼児体型にしか見えないしよぉ。体操着の時はどうやって隠しているのやら」

 この三人を背の順に並べると、いちばん大きいのが菜都実、その後に茜音、佳織と続く。

 年頃の女の子の注目は身長よりも別のところにある。もともと体格の良い菜都実は圧倒的として、その次には佳織が来ると思っていた。

 しかし昨夜三人で温泉に浸かったとき、その予想は外れていた。決してグラビアに載るようなものではないけれど、茜音のそれは体型とのバランスでは菜都実よりも理想的に見えた。

「そんなに気にしてないんだけどなぁ。それは少しでも大きくなれぇって思ったこともあったけどぉ」

「佳織も怒れ! こんなんでワンピースの水着だなんてありえねぇ」

「だって、私はもう諦めてるし。胸が必要以上に大きくたって邪魔なだけだし? それに茜音が普通にあるのは知ってたよ? それなりに背があるから気づかないだけよ」

 一緒になって言ってくれるはず……(と菜都実が思いこんでいただけだが)の佳織にあっさりかわされてしまう。

「くそ、今日の風呂でまたじっくり見てやる」

「ほえぇ? そんなじっと見られたら恥ずかしいよぉ」

「大丈夫よ茜音。菜都実は今日の長風呂は無理だから」

「そうなのぉ?」

「だって、菜都実日焼け止めもなんもしてないもん。痛くて熱いお湯なんか入れないわよきっと」

「あぁぁぁ!!! し、しまったぁ……」

 佳織の指摘で青ざめる菜都実だったが、時すでに遅し。日焼けで赤くなってしまった背中は、その晩の入浴時に菜都実をノックアウトするのに十分すぎた……。

 茜音がこういったやり取りを自然にできるようになったのは、やはり友人たち二人の影響が大きい。

 ショートカットでいかにも活発そうに見える菜都実はいつも明るく、成績の方はちょっと怪しいけど、体力勝負とムードメーカー的な存在の彼女は、茜音が落ち込んだときにどうしても必要だった。

 もう一方の佳織は、メガネこそかけていないが、セミロングにしたさらさらの髪と三人の中で一番落ち着いた顔つきで、大人っぽく見える。

 見かけどおりかどうかはともかく、常に冷静で頭の回転も速い。ただ勉強が出来るというのではなく、どこから仕入れてきたのか、茜音と菜都実が呆れるようなネタまで知識は豊富だし、柔らかでのんびりとした性格が、周りからも好かれている。

 もちろん、茜音と菜都実にとってのテスト前の頼み綱であることもお約束だ。

 こんな三人だから、いつも一緒にいたし、時間があればお店の手伝いだけでなく、出かけてもいる。

 もちろん茜音の過去の話はオフレコだったけれど、彼女のことを決して特別視しない二人が茜音は大好きで、とても1年前には人見知りで満足に会話もできなかったとは思えないほどの成長を遂げていた。




「しっかしさぁ、茜音も純情だよねぇ」

「え~、突然なによぉ、それはぁ」

 佳織の予想どおり、昼間の日焼けダメージで長時間の入浴ができなかった菜都実が、温泉を堪能して部屋に戻ってきた二人を出迎えて言った。

「だってさぁ、この前の朝だって、あんな潤んだ目して海見てたらさぁ……。どーせいつもみたいに妄想モードに入っていたんだろうけどぉ……」

 菜都実の言うとおり、茜音が坂の途中でぼんやりとしていて、遅刻しかけたことは珍しいことではない。そういう時の茜音は、大抵空想に耽っているときなのだが……。

「う、それはぁ……」

「だって、もう9年でしょう? 一人の男の子思い続けるなんて純情以外になんて言うのよ?」

「いいじゃん。それが茜音じゃん?」

「佳織……?」

 年頃の女の子三人がこういう話を始めてしまったら、それまでの恨み節などもどこかに飛んでしまう。

「だって、素敵じゃん。それって茜音の初恋でしょう? 頑張ってかなえて欲しいなぁ」

 いつも堅実派に見える佳織も、なかなか結構夢見てしまうタイプだったりする。三人の中で一番背は小さいけれど、落ち着いた雰囲気に何故か1年生からの人気が高い。

 児童施設にいた茜音の経験は二人には新鮮に映ったし、そこで結んだ約束を今もなお追い続けている姿に、二人は惚れ込んでしまったのだから。

 茜音も、やはりお年頃の女の子だ。彼女の容姿を見れば注目されないことはないし、無謀……にも、ことある毎に告白を挑んだ男子は数知れずである。

『ごめんね、私にはまだそういうこと考えられないから……』

 と、いつも相手を傷つけないように心がけてはいるけれど、茜音だってせっかくの気持ちを断ることを心苦しく思っている。

 教師には内緒で行われる校内の非公開人気ランキングでは、常に上位のポジションを誇る茜音だけに、その動向は常に注目されている。

 いつしか『難攻不落』と言われてしまっている茜音を誰が射止めるのかは学校中の男子にとって、気になるところだ。

 茜音自身、健とした10年前の約束がまだ有効なのかどうか、それが約束の日が近づくに連れて不安がどんどん大きくなってきている。

 悩んだ茜音が出した結論は、とにかく約束の日にそこに行ってみることだった。再会の約束が結実するかは問わない。とにかく自分の気持ちに決着を付けるためにはそれしかないと決めていたのだけれど……。

「でも、健君だっけ?今どこにいるかも分からないんでしょう?」

「うん……」

 施設を移り、すぐに片岡家に引き取られたりと、めまぐるしく変わる環境。茜音も連絡をすることが出来ず、今となっては彼がどこにいるのかさえつかむことが出来ていなかった。

「せめて、その場所がどこだか分かってればいいんだけどねぇ……」

 実際、茜音が持っている情報は無いに等しい。場所の手がかりは、山奥の渓流に架かる橋という事だけ。こんな場所はそれこそ日本中にいくつあるか分かったものではない。

「うーん。どこまで絞り込めるかだよねぇ……」

 三人とも気が思いやられる。なんと言っても、現場がどこなのか見当も付かない。

 あの体験をしたのがあと1年遅ければ、茜音も場所などの記憶がはっきりしてくるのかも知れないが、当時小2で誕生日前の7歳。無理を言えるものではない。

「ねぇ、茜音!」

 突然、菜都実が隣にいた佳織の肩に手をかけながら呼んだ。

「なに?」

「ネットで、橋の情報探せないかな?」

「ほえ?」

「ほら、その橋の情報だよ。佳織出来るかな?」

「検索エンジンで探せば結構引っかかると思うよ? 試しにやってみようか?」

 佳織はすぐにスマートフォンを取り出して有名検索エンジンにキーワードを入力してみる。

「うわ~、出る出る……」

 キーワードに『橋』と打ち込んだだけでは、それこそ数千という検索結果が出てしまう。市街地を外すと追加条件を追加しても、かなりの数が表示される。

「どうするこれ?」

「とりあえず、片っ端から見ていくしかないよねぇ……」

「写真とかが載っているものを重点的に調べてみよっか」

「う~。頭いたくなりそう……」

「ほら、茜音も菜都実もスマホ持ってるんだから、自分で調べなさいよね」

 三人とも宿の無線LANの設定を間借りしているから、通信費に響くものではない。

「そっか。一人で探すこと無いんだ」

 佳織に言われ、二人は顔を見合わせ笑った。




「そっかぁ。実際に行ってみるしかなさそうだよね」

 夕食後、三人はそれぞれが調べた情報交換をしながら今後のことを話し合った。

「そうなんだよねぇ……。条件はある程度絞ってみたんだ。あとは使えるとしたらSNSで情報をかき集めるか」

 インターネットは巨大な情報を持つだけに、それを1つ1つ探していくだけでも気が遠くなるような作業だ。条件を絞って探していかないと、なかなか目的の情報を探し出すのは難しくなってしまう。

「でもさぁ……、いざ確かめに行くとなるとねぇ……」

「やっぱ、これぇ?」

 菜都実が指でジェスチャーをする。

「あぅ~。そうなんだよぉ……。先立つものがねぇ……」

 茜音はテーブルに突っ伏した。

 国内とは言え、場所次第では全国を巡ることになりかねない。交通費だけでなく遠出なら宿泊費も必要になってくるから、高校生のお小遣いだけでは限界がある。

 普段の生活では、茜音があまりお金に苦しいと思うことはない。そもそもが浪費をするタイプではないし、彼女が世話になっている片岡家も比較的裕福ではあるが、今以上の迷惑をかけることはしたくない。

 それと、櫻峰高校もやはり一般のアルバイトは禁止となっている。中には無視してやっている生徒もいるが、茜音にはそこまでの度胸はない。

「ねぇ、どうしても自分で旅費を貯めるってなら、うちでやったら?」

「ほえぇ?」

 突然の菜都実の提案に一同驚く。何度か手伝いをしたことはあるが、それはあくまでお手伝いであり、報酬もケーキなどをもらって帰るくらいのものだ。

「だって、勝手は分かってるし、茜音も佳織も信頼できるし。よっぽどその辺のバイトの人を雇うよりいいと思うんだよね」

「でもぉ、アルバイト禁止だよぉ?」

 茜音が言うと、菜都実は大笑いした。

「だって、あたしんちじゃん。あたしだって他のとこなら校則違反かも知れないけど、うちの手伝いしてることになるんだもん。お手伝い賃ってことでどう?」

「それもありかぁ……」

 茜音が渋ろうとしたときには、佳織の方が先に納得してしまった。

「でしょでしょ?」

 言うが早いか、菜都実は部屋を飛び出すと、今回の旅行の主催であり、ウィンディのマスターでもある父親を連れてきた。

 茜音は最初どうしようか少し悩んだが、すぐに彼女の過去を話し、今回のアルバイトをやらせて欲しいいきさつまでを説明した。

 菜都実の父親は、彼女の話を一通り聞き終わると大きくうなずいた。

「そうか。喜んで協力させてもらうよ。君たちなら店のことも良く知ってるから心配ないしね。正直、これからオンシーズンだから店も混んでくる。人手は必要だから」

「よっしゃ。これでお金のことは解決。あとは……」

「あとは何? 菜都実」

「ウィンディでバイトするなら、仕事の合間にも情報収集できる方がいいなぁ」

「そっかぁ。どうせ休憩時間もあるわけだから、パケ代を気にしないでいたいよね」

 ただでさえ膨大な情報を扱うとなれば、通信費もできるだけ抑えておきたい。

「ん~。分かった。ちょっと考えるから待ってて」

 佳織は菜都実に自宅兼店舗の見取り図を書いてもらって、いくつか質問をしている。

「分かった。お店の客席でネット出来るようにしておくよ」

 話しを終えて佳織は自信たっぷりに答えた。