「お月さんも笑うだろうさ。満月に悪魔が現れて人を殺すなどと、そんな馬鹿げたお伽噺があってたまるものか」そう考える者もいるはずだ。ならばなぜお千代さんが人殺しになったか考えてみることだ。悪魔が本当に存在するからだとするなら?――「人肉を喰う悪魔なら、どうしてその正体を隠す必要があるのかね? もっと派手に暴れ回ればいいだろう」そう反論したくなる人もいるはずであろう。「お千代さんの幽霊を見たことがあるんだよ。お父様は目井の娘ですよ」そう告白したのはスフィンクス船長の娘の船頭だった。彼女も霊感の持ち主だったらしい。お月さんも笑っていたことでしょう。なぜなら悪魔を殺せば、その報いを受けるのはあなた自身なのだから――――
そのように語りながら少女はナイフを振りかざして竹中に襲い掛かった。
スフィンクスの船頭が「この世に神はいない」と呟くと、竹中の目の前に黒いローブをまとった男が現れた。フードを目深に被っている。そしてスフィンクスは拳銃を取り出した。「私はスフィンクス船頭。あなたを殺します!…………ああ……嫌!いやぁ!ああ……」と泣き叫び始めた。
スフィンクスの拳銃が火を吹き、銃弾が彼女の心臓を貫いた。しかし彼女はそれでも銃口を押し込み続けた。スフィンクス船頭も最後の力で抵抗を続けた。そして力尽きた。少女は倒れた。そして息絶えた。
スフィンクス船長は「娘が……お千代……お月様が泣いているぞ……」と呟いて、拳銃を取り落とした。竹中は彼女を仰向けにし、目を開けさせた。目は虚ろでどこも見ていなかった。竹中は船頭を揺さぶったが反応は見られなかった。竹中は肩を落とし「俺にはもう無理だ。これ以上は堪えきれない。お千代さんの復讐は果たしたよ」と言った。竹中の指は震えていた。「後は君に任せる」
竹中は踵を返した。
岸本はその背中に向かって叫んだ。「僕は彼女を殺せなかった! 彼女を愛してしまったんだ!お月さんの許へ行くつもりかい? 僕は君が心配で仕方ない! 僕は君の味方だよ! 竹中君! 戻っておいで!」
竹中は振り向かなかった。そのまま港に向かった。そして夜風の中に姿を消した。岸本と船頭は呆然と立ち尽くした。二人きりになってしまった。「お嬢さんに惚れていたのか?」と岸本が訊ねると「ええ、でも駄目ね。私じゃあ役者不足よ。だから諦めたわ。私、あの人と駆け落ちすることに決めたの」と答えた。「君が決めたのならそれでいい」船頭は「私はあの人に殺されたってかまわないの。あの人はきっと、私が憎かったんでしょうね。でもあの人が望むなら、私はどんなことでもできる。たとえこの体がばらされて、魚の餌にされたっていい。私にとっては幸せだもの。私にはあの人だけが生きて、私の全てだったのだから」「そうか」船頭の言葉が胸に突き刺さった。船頭の心には、もはや自分は必要とされていない。そう感じたからだ。だが、それは自意識過剰というもの。彼女は「竹中さんに会ってくる。彼にも挨拶しないとね」と付け加えただけだった。船頭の心には竹中の姿だけが焼き付いていたのだ。
スフィンクス船長は拳銃を拾おうともしなかった。
ラモトリギンも拳銃を抜こうとさえ思わなかった。「ラモトリギン」
「何だ?」
「君は僕を助けてくれた。ありがとう」「ああ」「これからも友達として付き合ってくれるね?」「当たり前じゃないか」
「ではまた明日だ」
こうして二人の青年の友情が成立した。岸本の家には明かりがついている。竹中が帰ってきたのだった。ドアの鍵を開けたが誰も出てこない。玄関を上がって廊下を通り抜けると寝室だった。ドアを開けるとベッドが四つ並んでいた。布団は綺麗なままだった。竹中は椅子に腰掛けた。
そのときだった。背後に誰かがいたような気がして竹中は振り返ろうとしたが、すぐにその考えを改めた。
やはり何もないのだなと思ったのだ。そしてベッドに入って眠りに落ちた…………

***
エピローグ『スクィーラ』(仮)に続く
『鳩』と『女神』の話ですが『鳩』が『女神』を殺したという話が抜けている。
それは竹中の視点で描かれているためだろうが……
* * *
(これは僕の物語だ。
おわりのない終わりの物語だ。これはぼくと彼女が出会った話だ。ぼくたちが出会ったときのお話だ。
それは突然のことだった。
ある日。ぼくの前に一人の女性が現れたのだ。彼女は自らをスクィーラと名乗る魔女と名乗った。
ぼくはそれを信じようとしないでいた。だっておかしいじゃない? この世に魔女なんて存在するはずがないんだからさ。でも、彼女は自分のことを信じろというのだ。それに彼女はこんなことも言ったのだよ。もし信じる気があるならわたしを手伝わせてあげてもいい、とね。
正直言って、ぼくはこの申し出をありがたいと思うべきなのか、悩むところだ。なにも信じないというのは寂しいけれど、その反面とても楽なのだから……。

* * *
その女性は白衣を身に纏い、黒髪をしていた。顔色は青白いの一言。血色が悪くて病的という形容も当てはまりそうな容姿だ。瞳の色は黒く、その肌の色がいっそう際立つように感じられる。その唇が開くまで生きているのか死んでいるのかわからなかった。しかし、彼女の声を聞いて初めて生きていると理解できたのだった。「あなたの悩みを解決する方法をご存知ですか?」「知らないな。そんなものはないだろう? だいたい、あったら困るだろう」
「それでは教えて差し上げましょう」と彼女は言った。「あるんです」

* * *
彼女は話を始めた。それは長い話になりそうだが、どうやらぼくのために用意してくれたらしいので最後まで聞いてみることにしよう。「その昔、ギリシャと呼ばれる国がありました。そこにスフィンクスという女がおりました」と切り出すものだ。まるで自分が神だと言わんばかりの口調である。「スフィンクスは人食いの女として恐れられておりました」と続けて言うのだが……?「彼女は人を襲っていたわけではありません。ただ、その人の願いを叶えるためにその人を食べてしまうのです」
スフィンクスの話が本当だとすれば、彼女は人を食べることになるが、そうではないらしい。「スフィンクスは人食いの怪物として、人々からは嫌われておりました。しかし彼女には、たった一人の友と呼べる存在があったのです」
スフィンクスの話は続く。「スフィンクスは人食いの化け物と呼ばれていました。けれども、スフィンクスは人を食べるために人を助けたことはありません。スフィンクスは人助けをしていただけなのです。そして彼女の友人も同じように人を助ける仕事をしておりました。二人は互いに認め合い支え合う関係であり続けました。しかしある時、悲劇が起こります」
* * *
「あるときのこと、二人の前に悪魔が現れました。悪魔は言います。お前たちは人喰いだと。その通りでした。スフィンクスと友人の男は人喰いの罪で追われることになったのです。悪魔はスフィンクスを殺せばその罪を許してやろうと言います。悪魔は人を喰うスフィンクスを恐れていたのです。悪魔はスフィンクスを殺す方法を教えてくれました。それは呪いをかけることでした。悪魔はスフィンクスに呪いをかけ、そしてスフィンクスは悪魔を喰らい、そして悪魔を呪ったのでした」