カフェー女給殺人事件

カフェーの看板娘お千代さんが水死体で見つかった。
チャンバラ河川の船頭さんが第一発見者だった。お千代さんは帝政天婦羅女学院に通う才女で喇叭が趣味のモダンガールだった。

誰にも好かれる女給さんで小町花のような淑やかさがあった。本名を駒川千代といい横浜のスフィンクス船長が仔猫のように可愛がっていた。

愛娘を失ったスフィンクス船長の憔悴ぶりは涙を誘いお千代さんの銅像を建てようと浄財が集まるほどだった。
横浜署はカフェーもんたなに出入りする常連客のうちパラフィン長屋に住む書生たちを容疑者に絞り込んだ。

ルサンチマンを気取る竹中、西洋かぶれの岸本、大正紳士の風格を備えた蕁麻疹だ。
三人にはそれぞれアリバイがあり竹中はお千代さんの死亡推定時刻に本郷の明治百科館で勉学に励んでおり、岸本は渋谷のバナナホールで白人たちとダンスパーティーを舞っていた。
蕁麻疹は相変わらず長屋で高下駄の研究に没頭していたが横浜の中華蕎麦屋が蕁麻疹の注文に応じてニンニクたっぷり蕎麦を出前した証言がある。

蕁麻疹は確かに部屋にいた。では誰がお千代さんを殺したのかと言えばやはり三人しかいないと警察は睨んだ。

なぜなら『カフェーもんたな』から裸電球が盗まれているからだ。帝政天婦羅女学院に通う子女の間で裸電球を愛玩する癖が流行しておりお千代さんも裸電球を一羽飼いたいとスフィンクス船長に強請っていた。

だが裸電球とピラミッドの相性は甚だ悪く特にハトホル電球殿の女神が裸電球を美女神ラモトリギンの使いと見做して激しく嫉妬していたので船長は警戒していたのだ。そこで裸電球を盗まれた人はどう扱おうと殺すのと殺されるのでは大違いだった。

身の危険を感じたお千代さんは帝政天婦羅女学院を休学してスフィンクス船長と帰省することにした。地元の金毘羅さんは水運の女神である。いかな異国の神といえど聖水を潤す地母神にはかなうまいと父親は考えたのだ。

ところが船出の日、万世橋からの見送り船が横浜港に到着すると船酔いの為、お千代さんや竹中、岸本の目の色が変わってしまった。スフィンクス船長主催の洋上歓送会は中止され見送り船は神田に引き返した。

そしてその後、船に乗って帰ってきた者を待ち望むお千代さんと竹中の目から涙があふれた。

なぜお月さんの日が泣くなんて。竹中と岸本は港で泣き喚いた。船から下は水の底のように静かだった。二人は悲しみに苛まれた。自分たちはお千代さんを殺害したい欲望が暴走した。

船出の当日に伊豆の金字島が大噴火した。裸電球が盗まれた日から十九日目だった。一夜で島は沈んだ。ラモトリギンの呪いは人を殺し奪っていく。自分たちだけが幸せになれるなど認めるわけにはいかないと書生たちは結論づけた。特に竹中には思い人が他におりお千代さんを始末することで呪禍から遠ざけたい思惑があった。

しかし竹中は自分がお千代さんを殺すと船の仲間を巻き添えにしてしまうと思い、お千代さんの殺害を諦めた。この時、竹中が船頭を務めていたお月さんの日、お千代さんが泣いていたという写真が後に出回った。船上の密談に目撃者がいないが警察は写真を根拠に容疑者を絞り込んだ。

書生たちは窃盗容疑で逮捕され、警察署に連行された。この事件は検事に引き継がれ、検事は3人を裁判にかけることを決めた。検察官は3人の容疑者を法廷に連れてきた。
検察官は、お千代さんの殺害について、「お千代さんは嫉妬深い恋人の被害者である」という弁護を用意していた。
被告側は、3人の容疑者は朝のうちに逮捕されたのだから、殺人を犯すはずがないと主張した。お千代さんの死亡推定時刻は正午近くだった。検察官の主張は、3人の容疑者は最善を尽くして殺人を行ったが、その最善の努力はあまり成功しなかったというものであった。

それ以前に三人の証言とアリバイと状況証拠のそれぞれに矛盾があり検察と弁護側が提出した証拠が破綻した状態で公判維持は不可能という判断が下され一時休廷する羽目になった。いったいこれはどういうことだろうか。横浜署は首を傾げた。まるで狐狸妖怪の類に化かされているようだ。

捜査は振り出しに戻り三人は仮釈放された。杓子定規な石頭にラモトリギンは見えない。彼らは法の番人でありホルスの傍女ではない。だから見えない。
殺害が行われる一か月前のこと。

お千代さんは明治百科館にて勉強をしていたという。この頃は帝政天婦羅女学院の二年生だったと思われる。お千代さんは大学生だった。そしてカフェーが酒場になる時間帯に仕事をあがってこちらにいらっしゃると館員は証言した。

同時に明治百科館は大正ロマン主義の美術館だったのでお千代さんもロマンチシズムの憧れを持っていた。文学青年と夢に恋い焦がれる乙女。ありがちな外見と内面は著しく乖離していた。

お千代さんは縋るような思いで伊藤野枝を読み漁っていた。その自由恋愛の女神と崇められた女流作家は活動家の大杉栄と無政府運動に傾倒し憲兵に捕まって獄死する。結婚制度の否定や廃娼などアナーキズムを盛り込んだ作風はお千代さんの琴線に触れたようだ。

スフィンクス船長が良かれと持ってくる強引な縁談話に辟易していたのだ。そこで彼女は一計を案じた。結婚相手に枷を嵌める策として愛玩動物を飼養しはじめた。動物嫌いの男は少なくない。スフィンクス船長は跡取り息子に船を委ねたいと願っていたのでお千代さんはそれを利用した。

夫の留守を預かる間の話し相手と用心棒が欲しい。愛くるしい猛禽である裸電球なら間男を退けてくれる。そう主張した。また古来エジプトでは鳥を神のしもべとみなしすべての飛ぶ者に翼を与えた。太陽神の肖像画にさえ羽を付け加えたほどである。まるくてふわっとした鶏冠をもちお日様のように明るく啼く裸電球は魅力的な伴侶だ。

「ちょうど、お父様はカルナックに御用でお寄りになるのでしょう?」と言葉巧みに牽制した。船長は船長でエジプト航路の励みに娘には言えぬ営みをしており不承不承エジプト原産の裸電球を土産に持ち帰るはめになった。この経緯がルサンチマンを気取る竹中を大いに面白がらせた。話が弾んで「君、奇しくも我が書架に裸電球の本がある」と誘われるまでの関係になった。ただ竹中の洋服は女の香りがする。

そこでお千代さんは、竹中の部屋にそれらしき人の姿を見かけた。竹中は自分に見える姿に気づき、お千代さんを訪ねる。
「もしもし、君はひょっとして」
竹中の部屋でお千代さんが目を覚ました。
「君は僕が視えている人物が見えるのですか?」
●お目井の影
「見えまするがうつつの人とは思えません。いでたちも今様とは違います」
「どのような姿か」
お千代さんは顔を赤らめ「それを乙女に申せよと?」
それを聞いて竹中はやっぱりか、と確信した。
「青墓の目井だ。透き通るような単衣の女ではないかね」
お千代さんは竹中に頭を下げた形で目井を探す。
「存じております。美濃の傀儡女ですね。しかし平安の歌い手がなぜ?」
「それは芸の一つだ。夜は客と閨を共にする。しかも歌は呪術であるのだよ」
一冊の古びた洋書を手渡された。お千代さんはイングリッシュも堪能だ。
表題を音読し口ごもる。「ハトホルの……秘儀書?」
「それを君に贈ろう。ハトホル神が厄除けになる。それと御父上と仲良く」
竹中が迫ってきたのでお千代さんは辞去することにした。
「さっぱり解せません。無学ゆえ私には豚に真珠かと」
洋書をそっと本棚に戻しお千代さんは一目瞭然に下宿の廊下を駆けぬけた。
「待て、君。最後に一つだけ聞きたい」
呼び止められてお千代さんは振り向いた。
「何か?」
「君はキリシタンか?」
「どうしておわかりですの?」
「さっき君は豚に真珠と言った。猫に小判とはいえぬが、聖書の言葉だ」
こくりとお千代さんはうなづき十字架を取り出した。竹中は慌てて書斎に取って返し秘儀書を差し出した。「だから厄除けが必要だというのだ」
「わかりません。私は竹中様が恐ろしゅうございます」
聞く耳を持たず走り出す。「待つんだ、君。僕は何も悪くない! 待ち給え」
釈明によれば蕁麻疹が発端だという。遊女のたしなみである高下駄。その研究に没頭する倒錯が遊女の色情因縁を呼び寄せた。連鎖的に傀儡女を誘引した。パラフィン長屋は亡者の遊郭にされたばかりか類を求めている。カフェーもんたなは窓口だ。その一切合切を淫霊が仕切っている。学院の子女が小動物を愛でる癖もだ。
「ハトホル神とやらと基督様に何の関係があるやら解せまぬ」
お千代さんはパタパタと表へ飛び出す。
「単刀直入に言う。君は狙われているのだ。どうしても裸電球を飼いたいならこの本を肌身離さず持っておきたまえ。ハトホル神は基督と合一にして鳥の王だ」
竹中が声を嗄らすがお千代さんは街灯の向こうに消えてしまった。
「あたくしが連れに参ります」
スゥと遊女が宙に躍り出た。

目井がお千代さんを呼びに行ったのでちょうど帰ってきた下宿の女将に見つかってしまったのだ。驚いて目井は泣いた。女将はパラフィン長屋を支配していた。何をしているのかと恫喝され、穢れた聖水で清め払うと脅された。徳の低い霊能者が好んで乱用する九字切りや邪気払いの類には耐性を獲得している。むしろ背く下級霊を仕置きする道具に利用するほど女将の霊圧は強い。
それで言うがままにされた。
一方、竹中はお千代さんがやがて自分の子供を身ごもるということに気づき懸命に追いかけた。橋のたもとでお千代さんを見つけ、そして帰ってきた。

お千代さんが見た目年齢よりも熟れた色香を放っていた。竹中はそれを目に焼き付け胸の内にそっとしまった。そしてこれこそ大正紳士だ、と思った。なぜその時自分が人を殺したいと思ったのか、これは何から始めたらいいというのか。竹中は自分が理解できない。魔が差したという以外に説明がつかない。

目井はお千代さんを捕らえ部屋に軟禁しようとしたが竹中はそれを断ったのだ。お千代さんは竹中のことを信頼していたし尊敬もしていた。目井はその信頼を裏切るような真似はしたくなかった。竹中は竹中なりに信頼しているし尊敬もしている。お千代さんにも自分を尊敬して欲しいと思っていた。だからあえて女将からかくまうという行動を控えた。
●罪深き思惑

青墓の目井が竹中の部屋に出るようになったのは女将の命令による。書生を亡き者にして若い男の精気を吸えという。まず夢魔として接近せよと指示した。
目井は自分のお世話係に竹中を選んだ。反体制な彼と傾奇者な傀儡女には親和性がある。取り殺すつもりが惚れてしまった。しかしどう考えてもこの二人は分が悪い。死者と生者の関係だ。カフェーもんたなの看板娘は高根の花だ。その辺は竹中も弁えているらしく身分相応の女を探していた。しかし目井が実体を纏って店を訪れてみたところ男性客の色目が違った。
目井はお千代さんが自分よりも弱いのは本当だから竹中を頼ろうと考える。竹中の気持ちが痛いほど理解できた。だが、目井が自分に期待をされかけていることは竹中もわかっていた。竹中は目井に目をつける。そしてかき抱いた。
「目井、俺が必ずお前を止めてやる」
目井は黙って竹中の手を取った。
「俺の家族を犠牲に…」
「その方がいいよ」

二人の話は続いたが、そんなのは大きな影である。
話は裸電球が盗まれる前日に戻る。
目井が竹中の妻となるべき人を探していた。自分と竹中を隔てる三途は深い。生きとし生ける者同士が結ばれる理にかなう恋はない。目井は女将に弁明しどんな制裁を受けようと二人から手を引く覚悟でいた。チャンバラ橋でたゆとっていると、岸本に阻まれた。彼は涙ぐむお千代さんを連れて、どこかへ向かっていた。
「目井さん、どうかこの子のために恨まないでください」
お千代さんは目井に向かって籠を掲げた。裸電球がピィピィと悲鳴をあげる。
目井は首を振った。
「それでは竹中様が…」
お千代さんは欄干を雫で濡らした。
「わたし、もう疲れました。この後は、目井様に助け出されて、もう自由に出来なくなるのかもしれません」
岸本がぐいっとお千代さんの首を回す。
「竹中が言ってただろ、お前が俺の妻だって。お前のことを心配しているから、お前が自分についてくることはないと」
そう告げると、お千代さんは目井の方を見た。
「竹中様がこちらに参ります」
息を弾ませながら危ない橋を渡ってくる。そして岸本は聞こえるように言う。
「だからさ、目井。俺達、付き合わないか?俺も、お前もな」
お千代さんは竹中に向かって叫んだ。「目井様はこちらです!」
「そんな…」
ばったり出くわしたとたんに目井は頬を濡らした。
竹中は驚いて目井に問う。
「お前って、俺の妻になってくれないのか」
目井は、涙がこみあげてきて顔が涙に濡れているのに気づいた。そしてありったけの声で叫んだ。
「わたしは、わたしは、死んでもいい!わたしは、わたしは、わたし、わたしは、お千代様に、お許しをいただいて、死んでもいい」
その後、お千代さんは二人の愛の告白を受けて、そして涙声だったことに気がつくと、岸本を連れて立ち去った。目井と竹中だけが残された。お千代さんは竹中の部屋に上がって顔をあげた。
「なんですか、竹中様、なんだかお辛そうだけど」
それを聞いた竹中は笑い出して、目井はその顔をじっと見て、そして言った。
「これは、愛の告白、愛の言葉です。私はあの二人に幸せになって欲しいと、愛を伝えました」
●ラモトリギンの篭絡
「お困りのようですね」
ふわりとスカートを翻して少女が舞い降りた。碧眼に腰まである紅毛を背中で纏め、海軍水兵の服装を纏っている。そのような西洋娘は知らぬ。
ただ常人は虚空から出たり消えたりはしない。青墓の目井は同類だと悟った。
「どちらさまでしょう?」
探りを入れるも女はカマトトを見破った。「スフィンクス船長の下手人です」
「えっ?」
目井はぎょっとした。「図星でしょう。首を差し出せば竹中が助かる」
少女はスカートを風に吹かせながらニヤニヤと宙で笑っている。
「なんですか、いきなり。私はそこまで悪党ではありません。それにお千代さんが悲しみます。女将も納得するかどうか」
目井は懸命に否定した。「ああら、貴女の目は泳いでる。本当はお千代さんを苦しめている元凶を始末すれば丸く収まると…」
「いいえ!断じて、そんな」
打ち消せば打ち消すほどに目井の気持ちはゆらいでいく。
「貴女も本当は竹中とお千代さんの結婚を願っているんでしょう。岸本は西洋的でお父様の受けもいい。家督を譲るには相応しいと誰もが思う。それに彼はフランス留学を志している。ルサンチマンを気取る竹中より文化的で世間体もいい。しかし、岸本の魂胆は貴女も存じているはず」
胸中を見抜かれて目井は動揺した。「ええ…ええ。岸本様はセーヌ川に浮かぶ白鳥の島でお千代さんと祝言をあげる約束です。しかしそれは…ああ、想像だにおそろしい」
「そう。島の守護神は白鳥。涅槃の女神ネメシスの化身にして、太陽神に寝取られた女。岸本はそれを承知で船を騙し取ろうと企んでいる。お千代さんは奸計の道具にされて幸せといえるでしょうか」
目井は少し考えて「死ぬよりましかと…竹中様はお千代さんを殺そうと企んでいます」
「それはどうして?」
少女が身を乗り出す。
「諸悪の根源は蕁麻疹です。女ものの高下駄に執着している。女将が好事家を狂わせたのです。そもそも遊郭は舟遊びから始まりました。朝廷をも惑わす傾きおどりはまかりならぬ、とおふれが出たのです。それで幕府は舟をとりあげました。遊女は葦簀で囲われたおかで奉行に管理されることになりました。女将はカフェーもんたなに出入りする書生に目をつけて船の略取を企んだ。竹中様はお千代さんを女将に渡すぐらいならいっそのこと自分の手で…」
「噴飯ものだわ。さすが幽霊ね。生かすことを考えない。可笑しい」
「何がです!」
きゃらきゃらと失笑されて目井は憤慨した。
「だってそうでしょう。女将だか何だかしらないけどたかが悪霊ふぜい。退治てくれる神は履いて捨てるほどいる。竹中が本気で詣でれば相応の加護恩寵を賜るはず」
煽られて目井は反論した。「竹中様が金毘羅様にお参りすれば。最初は私もそう考えました。しかし加持祈祷程度で怯む女将ではありません。本当ならお千代さんが金字島の神前で竹中様と契りを結ぶべきでしょう。しかしクリスチャンのお千代さんが改宗するのは難しいと考え竹中様はお千代さんを岸本様に譲ることにしたのです。万が一、それに失敗した場合は、ああ…竹中様は愛する人の魂を天の御国に送る腹積もりです。基督様のところなら安全ですし竹中様もいつか会えるとお考えです。その前に私が竹中様にお参りを説得します」
「笑止。ルサンチマンが神仏に平伏するもんですか。だいいち、そんなファンタシィが実現するとお思い? わたしは太陽神ホルスの使い。悪霊は退散せねばなりません。わたくしがスフィンクス船長を亡き者にしてさしあげましょう。さすれば船頭は失われ舟は抵当に入ります。債権者はエジプト王国です」
少女はスカートをはためかせて夜風に消えた。
●革命の前払い
目井は、スフィンクス船長のもとに走った。詳細を包み隠さず話すと「そうか…」と悟った態度をとった。
「落ち着いている場合ではないでしょう。ラモトリギンが貴方様を…」
「わかっている。取立てに来たのだろう。竹中はそれを承知で娘に鈴をつけたのだ」
差し出された冊子に見覚えがある。「これはハトホルの…」
「色魔の使い手は君の話で腑に落ちた。女将だ。だからあの男はわざと…」
「お千代さんはそれをどうしてお父様に?」
目井は納得がいかない。
「君が思うほど愚かな教育はしてない。私を囮にするためでなく色魔を呼び寄せるためだ。だがその前に大義は護らねばならぬ。君に見せたいものがある」
薄暗い船倉の奥へ奥へと目井は案内された。ぼうっと青白い燐光が照らす一角に目井は親近感をおぼえた。厳重に梱包された箱や壺がある。
「今、ほほ笑んだな。中身はご明察どおりだ。私はこれを有効活用する」
船長はハトホルの秘儀書を紐解いた。
「しかし…そんなことをすれば戦争になってしまいますよ」
目井は船長の企みに戦慄した。
「やはり幽霊は幽霊か。死体の数を増やす方向に考える。ああ、気を悪くしないでくれ。事実を述べたまでだ。故に私はこれを有効活用したい」
「貴方様は王家を裏切るのですか?!」
目井は自分でも何を言っているのだろうと戸惑う。異国の内情、しかも人間同士の諍いなどどうでもいい話だ。
「王家を護りたい一心だ! 異国の駐留を疎ましく思う国民は多い。だからこそ太陽神はこれを民に授けた。やがて大きな戦争が起きる。日の本も無傷では済まないだろう。私はイスラームと東洋を橋渡す名目でこの船を買った。エジプト政府は無心を快諾してくれた。船が召し上げられたら万々歳だ。積荷も英国に渡る。それが戦乱を収拾し世界に変革を起こし、君主制は倒れるよ」
目井は目を丸くした。「貴方様は恩人を裏切るのですか?!」
すると船長は「君は何もわかってない。しかし今、君がここで見聞きし、起きていることは未来に大きな影響を及ぼすのだ」
彼はそういうと船倉を閉めた。
西暦千九百五十二年、青年将校団が蜂起したが、ファルーク一世一族は財産一式を積み込み、軍に見送られながら豪奢なヨットで出航することになる。
●アブラメリンの鈴
外は真っ暗だった。横浜の海は星空をちりばめている。
目井は長い髪と衣服を夜風で梳かした。
そして女流詩人、東瀬早絢の「枝垂れ月」を諳んじた

私は光り輝く世界を知っている。月が一つに、地球が終わるまでに世界は回り続ける。そして太陽が昇ったら地球が終わることを、誰もが知っている。

「そうか、わかった。君の言う通りかもしれん。君が見たもの、そして手を取り合っていることを思うだけで私は君に同情した。君は私たちには見えていない、光り輝くことを知らず生きている」

「でもね、私たちには見えないものを今、見えなくなっております。私は太陽なんて知らないから」
目井は涙が出てきた。

「私は先行きが見えなくなりました。私が太陽の代わりに生きたように、竹中様もまた私が人間の代わりに生きたように、地球のままなのです。だから今、どうでもいいから私は貴方の話を聞いております。でも、私が宇宙を見て、貴方が知っているのは光の国ではなく、それでも宇宙は美しいところを示す世界だと言いたいのです! それで」

長いあいだ見たことのない景色の中にいる。目井はそれだけで胸が苦しくなった。

すると、船長は続きを話した。
「私は、人間は宇宙があるように出来ていると言い間違えている」
目井は驚きはしたが、怒りもしなかった。人間がいいように動いていると思えば、それが美しい。

「人間の国の歴史の中には、それらがあるそうだ。私はその記録を目にするだけで心が躍る。人間から進化した、というのを私は聞いたこともない。ただそういう歴史があって、その歴史に人間が関わっているということだけでも、目井の話は大きいようだ。人間とは全くもって違う、私たちが知らない歴史があるらしい。人と宇宙が繋がっているのを人間を見てみたい。私はそう思っている」

目井は驚いたが、何だか面白く見えた。船長は続け、

「私と君の交わした会話が繋がっている、その部分だけは信じてもいいと思う。そして次に繋がったそれは、おそらく君も知っているだろう。人間の歴史を」

今度はこっちの番だと思いながら聞き流す。

「その人間の歴史を知る為、君は宇宙の中に入ることになった。そしてその後、私は人間には関わっていなかった。ただ単に私と人間が交わした約束により、地球に来たことになった。君から連絡も貰わないままだから、これは君に話してもいいくらいかな」

船長は目井に向かって、微笑した。

「目井君、君は言っている意味がよく理解できると思う。この話について、君は自分では何も答えられないし、もしかすると何もできないかもしれない。でも、自分が宇宙に関わっているというのを突き止め、宇宙から人間が生まれたということについて、考えて欲しい」

「私は何も知りません」

「そうだと思う。もし君が何かの理由で何かを考えているのだとしたら、答えを出してくれないと困る。だから私も言いに来たんだ」
船長の発言に目井は驚いた。何の目的から来たのだろう。

「君に私の目的と、君がどのようにして私に近づいてくるのか教える。そこにも繋がりが見られると思う」
「どんな繋がりですか」

船長は言うと目井の方を向き直った。

「君にとって、私と君がどう関わるろうが因果は巡って君に繋がっている。だから答えを聞かせてくれないかな」

総船長に言われて目井は考えた。

「どうしたらいいんでしょう」
「君はどう考えているのか聞きたいんだよ」

「どうなんだって、言われても」
「君は、自分の意志で何かを決めているんじゃなよね? だってさ、ここにいたいっていう希望や夢があったなら、今頃私はここにはいないわけだし」船長は苦笑しながら、続けた。

彼の笑い方を見つめているうちに目井は何だか腹が立ってきた。
船長の顔を見ると船長は自分の顔を見た。それから目を細めて口元を上げた。その仕草を真似して、目井も同じように表情を作ってみたがうまくできなかったのですぐ諦めた。船長はそれを見て笑う。目井の胸はまた苦しくなった。

「私も同じだったんだ、最初はね」
船長は続ける。

「私は太陽神と出会ってから今までのことを覚えているつもりだ。ただ、思い出そうとするだけで、思い出そうとしない。太陽神と一緒に居た頃のことばかりを考えて、今は忘れてしまった」

彼は目井の目を見て言った。そして、言葉は続いた。

「君と私はよく似ているように思えるよ」船長は言った。「私も今のように、太陽神様と共にあった時を懐かしむ。だから君とは少しだけ似ている」

彼が何を言いたいのだろうか、全く分からなかった目井は戸惑い始めたが、船長はまだ続ける。

私と君の出会いによって太陽神のことが少しでも分かるといいんだけどね……。
●竹中の人に言えぬ秘密

船長は静かに呟き、そして立ち上がった。彼を見ながら目井は自分も立った方がいいのかと思い立ち上がろうとしたら船長は首を横に

「いいんだよ、座っていてくれ。君が今ここで立ってもいいと言った覚えはないから」

「あ……、すみません」
目井は再び腰掛けた。

「謝ることではない。ただ、これからは私の話し方が君にも伝わりやすいかもしれないと思っただけだ」
「わかります」

「君は私が思っている以上に物分りがいいようだ」

そう言ってからスフィンクス船長は、太陽神との関係を暴露し始めた。自分はなぜ日本とエジプト政府の間で貿易しているのか。

どうして旅の途中でカルナックに立ち寄ってハトホル神殿に参拝したのか。
自分の長女であるお千代に懇願されて嫌々ながらも太陽神に神鳥をねだり、それを受け取ったのか。すべて話した。

話を聞いていると、太陽神は目井と似通った存在であることが分かってきた。
船長は言う。

私は彼と出会わなければよかったと今でも思う。私は、あの御方のお側にいたくてこの航海を始めた。だがこの航海で私は彼に見捨てられた。

目井は驚きつつも、船長の話を聞くことにした。船長が何を考えているかを知る必要があったからだ。

彼は何かとてつもない弱みを握られているようすがうかがえる。視線が泳いでいるのだ。この航海が始まってすぐに目眩がした。船長室に籠って眠り続けていた船長の身体には限界がきていたのだ。

船長は、その日から徐々に体調を悪化させていった。

日に何度か吐血するようになり、高熱に苦しめられるようになったという。船医に診せようとしたが、「自分で蒔いた種だ。私に構うな。私には成し遂げねばならぬ使命があるのだ。お千代を護るために返済すべき借りがあるのだ」と強引に説き伏せた。

目井は心配した。「そこまでして…。エジプト政府にどんな借りがあるというのですか?」

船長は不敵に笑みを浮かべて答える。それはもう満足げな笑みであった。

「借金だよ――。私は大層な金額を背負ったよ。でもそれを支払えるのは彼しかいないだろう? 彼は何も言わないが。太陽神にしかできない仕事なんだ。

私はもう長いあいだ寝込んだまま、食事も水も喉を通りにくくなっているんだが、私はそれでもまだ生きている。

目井。貴女は幽霊だから死ぬのは怖くないだろうが、人間は死を恐れる。私は自分より愛娘の死が何よりも怖い。誰だってそうだ。

子に先立たれる親は不幸だ。だから私は少しでも多くの親子を救おうとした。これから大きな戦争が起こる。世界中でだ。

前の大戦のよりもっとひどい。太陽を降らすような兵器すら使われるだろう。だから私はそれを阻止せよと神から賜ったのだ。

この船の積み荷は、地上に火を降らせる恐ろしい知恵だ。

それを大日本帝国に引き渡したい。天皇陛下が善きに計らって下さるだろう。天照大神と太陽神は同胞のはずだ。

そのために私はエジプト政府に莫大な借金をしてこの船を買ったのだ。あとは私の代わりに彼が動いてくれるだろう。私はそれで十分だった。後はお千代の無事さえ確認できれば」

目井は黙っていた。

そして船長は言った。
目井、もう私は長くはない。

「だから君に頼みがある。私の最後の願いだ。私はもう二度と太陽を見たくないよ。君はまだ見たことがないのならぜひ見るべきだ。そして君の子や子孫に伝えるといい。世界を変える力を秘めた偉大な太陽神の威容を伝えるんだ。

太陽は空にあり、地にあるあらゆるものは滅びるが太陽は永遠だ。私はこの世界を永遠のものとする。
それが私の最後の願いだ」

目井の幽霊は、船長に告げる。
「お断りします」
目井は断った。
「なぜ?!」
「貴方様の娘は私が必ず無事に連れ戻します」
「どうやって?」「ご安心下さい」
目井の目は決意を物語っている。
「君は……」
目井は船長の言葉を遮った。
「お待ちを! まずはこの鈴を見て頂けませんか? お父様。竹中様の部屋に転がっておりました。

これはアブラメリンの鈴と申します。英国の大魔術師アレイスター・クロウリーがエジプトで太陽神ホルスから叡智を掠め取るために召喚の儀式を行いました。その企みは成功し『術士アブラメリンの聖なる魔術の書』を著して大ベストセラーとなりました。

しかし彼はホルス神殿に相応の謝礼金を納めなかったのです。
莫大な印税におぼれ堕落した人間に対して神は天罰を下しました。
それがこの鈴です。

恋愛成就の法具ですが、同時に使った者を狂わせます。
竹中様は呪われているのです。これをアレイスター・クロウリーから授かった時に気づいていたはずです。

しかし、それを知りつつカフェーもんたなの女給たちに使ったのです。

お千代さんも、わたくしも、ああ、そうとは知らず、恋の魔道に堕ちました。竹中様がそこまでして恋愛にこだわる理由は彼のお父さんに問題があるのです。

竹中様はいじめられっ子でした。

彼のお父さんは鉄拳制裁で報いていたのです。竹中の親父は怖い、という噂がながれ、竹中様は学校で孤立しました。

話はそれだけで済みません。竹中様のお父様はいじめに加わった女子たちを強姦しておりました。

その因果が子に報い、竹中様は女日照りになられたのです。

アブラメリンの鈴を用いてまで女を愛して償おうとしました。この事実を暴露すれば、お千代さんをとりもどせます」
船長の目には希望が灯った。しかしそれも一瞬のことで「そんなもの何の証拠にもならん」と言い放った。

「竹中はそう簡単には口を割らんよ」
「いえ、その逆です」
「どういうことだね?」

目井はスカートのポケットから懐中時計を取り出す。その文字盤には亀甲と円を組み合わせたいわゆる紋切り型があしらわれている。
伏蝶丸――古代の女性宮司が魔除けにした文様だ。

「さきほど、おっしゃましたよね。つながりを永遠のものとしたい。太陽の天下としたい。ですが、それは間違いです。昼と夜は一対です。エジプトでは日時計《さんだいやる》を、夜は月時計《むーんだいやる》が時を刻みました」

恋の病は時薬で治すと彼女は言う。
「金毘羅様は断ち物の神様ですアブラメリンの鈴など一時の迷いにすぎません。竹中様の時を進めれば気も変わりましょう」

そして、目井は少しはにかむような、誘うような目線を投げると、セーラー服のスカートをチロとからげた。
船長は唾をのんだ。白地のシュミーズに麻輪違の柄がのぞく。
「これと同じ物をカルナックの海岸沿いにある仕立屋で織らせてください。お千代さんに」
「着せれば魔除けになるというのか。もし、それでも口をつぐんだら?」
目井の霊は船長の腕の中で眠る赤子の顔を撫でた。「これが私の最後の切り札です」
「どういう奥の手かね?」
「呪いには呪いで返します。人を呪わば穴二つと申しますが正当防衛は仇になりません」

目井は懐中時計をみやり「そろそろか……あの子が来てしまいます」と言った。
彼女が潮風に消えた後、スフィンクス船長は恐ろしい夢を見た。
竹中に待ち受ける恐るべき分岐だ。
どこかの病院で無数の管につながれている。もがき苦しむ竹中に看護婦がモルヒネ投与した。
それから間もなく、竹中重治は意識を取り戻した。
セーラー服姿の少女が見舞いに来ている。

「おお、お帰り。私の愛娘よ。よかった。これで私は思い残すことはないぞ! 私はもうすぐ死んでしまうだろう。それが怖いのだ…助けてくれぇ」
船長は竹中の娘の正体に気づき、「あっ」と驚いた。

目井が抱かせてくれた赤子の幽霊だ。
いったい誰の子だろう。目井でもお千代でもない。もちろん竹中の面影もない。少なくとも彼はどこかの馬の恥骨と縁を結び難病で死んでいくのだ。

「愛娘を遺してか?! おお、これが呪いだというのか。ああ、これが報復だというのか」
その子は頬がこけ、よれよれの制服を着ている。母親が健在なら放置しない。
スフィンクスは青ざめた。
貧しいまま両親に先立たれたら、娘はどうなる。
「パラフィン長屋は亡霊の置屋だといったな。目井! 女をないがしろにした者にたいして女はそこまで容赦ないのか?! おお」
船長は戦慄し、舵輪の傍においていつも愛でているお千代の写真を抱き寄せた。「お千代。私が悪かった! 私は何としてもお前を護る。そして、こんなこともあろうかと、神様は『悔い改めた時にこれを開け』と」
スフィンクス船長は木箱を開けた。長方形で高さは人の背ほどもある。
●犯行前夜
メインデッキは書斎を開放しているらしくドアを開けると香ばしいコーヒー豆の匂いに包まれながら古びた椅子とテーブル、革張りのソファ、真鍮製タイプライター、ガラス板を嵌めた黒檀製の本棚、蓄音機、それに何よりも壁一面を埋める書棚、天井に届く高さまで蔵書が詰まっている。
珈琲は美味かった。
黒檀の机には書物が二冊。
ひとつは聖書だがもう一冊は詩集であった。一ページ目はこんな具合になっている。
―――『君よ我に帰れ』
――
君は我を知らぬと 言ふよりほかに仕方がないか ――
――
我を知らねば 君も知らず 我を知らずんや 汝が心に棲めるを 汝も知らずと いはるゝこと如何にして 我が魂を去らせ得べき……
(中略)……わが眼差しを向けしを見れば(以下略)
――
「これは旧約聖書の一節だな。君は挑発しているのかね? やはり太陽神の使いだからか?」と俺は訊ねた。
「そう。私は神を信じている。そして悪魔も信じている。悪魔というのは太陽を崇めず、神を讃えることもしない、しかし世が滅んでしまえば悪事も善行も不可能。必要最小限の秩序は必要なの。そして貸借に神も悪魔もないわ。それに貴方は借りた物を用いて巨悪をなす資本に用いようとしている」
ラモトリギンはスフィンクス船長の企みを見抜いていた。
「積み荷のことか。あれは確かに私がハトホルの神々から賜ったものだ。しかし堕落したエジプト王家よりもっと相応しい所有者に渡すべきだ」
「中身が何か承知の上でですか? 無辜の人々に大いなる災いを齎す知識が詰まっていると知ってのことですか?」
「構わない。世界は2回目の大戦争を経験せねばならない。人類が成長するために必要な血だ。だから私は積み荷を大英帝国に渡すのだ。枢軸国よりはよっぽどふさわしい相手だ」
「それはいけません! もしそんなことをすれば世界は再び混沌の時代に戻ることになります。太陽と水と大気と土と木によって生れた我々人間の社会を再び戦火で焼き尽くしてしまうのは愚の骨頂!」
「ではどうするというのだ!? あの忌まわしい『バビロンの塔』の時代から何年経ったと思っている。またあの悲劇を繰り返すというのか?」
「いいえ。それこそ悪魔たちの望み通りでしょうね」
「私を殺しても無駄だぞ
。英国はユダヤ人たちを虐殺するつもりだ」
「知っています。でもそれも歴史の必然なのです。神の御心です。人間は決して抗うことができない。だから神と悪魔の闘いは永遠に続く。しかし人間はいつか勝利を掴むことができる。そのためにこの世界に生を受けた者たちがいるのですから。貴方も私の夫となる男。ならば私の力になるのが夫の務めではありませんか。そしてそれができるから貴方を選んだのですよ、船長さん」
船長はラモトリギンに魅入られた。
「神を信じる者に悪魔は存在しないのと同じだよ。私は君の言葉に従って行動しよう。ただ私は神を信じてはいるが、悪魔を信じないわけじゃないんだ。悪魔をも恐れぬ所存ではあるがね」
「それで十分だわ。神を信じながら悪魔の存在も認める人なら私は大好き」
こうしてまんまと船長は淫魔ラモトリギンの虜になってしまった。彼は虚ろな目が透過光のように輝いた。こうしてお千代さん殺害の運命は確定路線になったと思われた。物語の時間軸は犯行前夜に戻る。夜空には満月があった。カフェーもんたなの前で二人の男女が話し込んでいた。
「本当に行ってしまうのかい? お千代さん」
竹中は信じられないという顔をした。
「早く岸本様と祝言をあげろと。その方が安全だと父が申しまして」
お千代は嘘をついた。本当はスフィンクス船長の故郷の伊豆へ渡るつもりだ。その島の金毘羅宮なら確実に悪魔から守ってくれる。
「そうか。寂しくなってしまうな。いや、こんな湿っぽい話は慶事に相応しくない。おめでとうと言わせてくれ」
竹中は破顔したが、そこに冷ややかな笑みが混じっていた。お千代は殺さねばならぬ。決行は今夜だ。その夜の満月に照らされた『カフェーもんたな』に怪しい影が現れた。スフィンクス船長だった。
お千代が店の前に出た。
「お父様。なぜ、ここへ?」
「岸本君が来ているだろう。本来なら新郎が実家へ挨拶にくるものだが、急な出航で明日、発たねばならんのだ」
「そういうことでしたら。あなた~」
お千代はスフィンクス船長を店に招き入れた。
岸本は岳父の乱入に面を食らったが、西洋かぶれ同士、馬が合うらしくたちまちスフィンクスと親交を深めた。
岸本は宴の席に竹本も呼んだ。
「私と竹中様にお酌させてくださいませ、旦那様」
「いや……もう飲んだから大丈夫だよ。明日もあることだし、そろそろ休まないか?」
竹中は口籠った。そして厠に行くと言って岸本を誘った。
「計画通り進んでいるだろうな?」
「ああ、式をあげたあとセーヌ川に突き落とす」
そういう岸本の言葉に竹中は戸惑いを感じ取った。
「いくら奴の奸計をつぶすためとはいえ、お千代さんを手にかけるのは忍びないだろう。何なら俺が彼女を殺る。」
「竹中君に任せるとは一言も言ってはいないよ。これは男同士の勝負なんだ。このくらいのことは自分で解決するさ。ところで例の件だけど、本当にうまくいくんだろうね? 僕は君のことが心配でならない」

お嬢さんの恋路は複雑で一筋縄ではいかない。
「もちろん、お任せください! 私にいい考えがあるんです」
と船頭は請け合ったが、「私は目井の幽霊を見たことがあるんですよ。彼女は目井の娘ですよ。幽霊は実在する。幽霊は死を予言します」と怯えていた。しかし船頭が恐れたのは目井ではないのだ。スフィンクス船長は知っていた。だから幽霊が苦手なのだ。船頭の幽霊嫌いがどこからきているのか見当がつくほどに。
竹中は「ああ、そういえば」と思い出していた。お月の晩、お千代さんに呼び止められたことを。あれはいったい何だったのか?
――
お待ちなさい。
「お千代か?」
「ああ……やはり貴方が殺したのだ! お兄さま! お願いですからやめて下さい! ああ」「おや? 何を言っているのだ?」
「いいえ、何でもないの。ごめんあそばせ」
「ちょっと話したいことがあるのだが……」
と振り返るとお千代さんの姿はなかった。竹中の目に一瞬だが恐怖の表情が見えたが、それも消え失せた。「今のは誰なのかね、竹さん」と問い詰めた。
しかし、答えは得られなかった。彼は首を傾げた。あれは夢だろうか。それとも幻か?「俺は酔っているようだ。悪いが先に休むよ」
「待ってください。僕が案内する」と竹中を促した。そして二人は奥へと進んだ。廊下を抜けるとベッドが四つ並んだ寝室があり、ドアを開けると洗面の水瓶が並んでいる。さらにドアを開けると風呂場だった。床に桶が置かれている。
湯舟には誰も浸かっていない。そして洗い場の椅子に血糊の跡があった。それは紛れもなく殺人の証拠。しかもそれは昨夜のものだった。――まさか……あれは……いや……違う…… と呟きながらも彼の胸は早鐘のように鳴っていた。これは悪夢だ。そうに違いないと自分に言い聞かせても動顛は鎮まらなかった。血だ。間違いない血だ。犯人はここにいて血を流したのだ。これはどういうことなのだ!? そのとき竹中が叫んだ「大変だ!……血だ! 血だよ! 竹さん! 誰かいるぞ!」
竹中はドアを蹴破るように開けたがそこには闇が広がっているだけだった。血痕も消えている。
「血だって? どこにそんなものがあったというのだね?」
「ほら。あの床の血の染みを見ろよ。まだ濡れているじゃないか!」彼は床を指して言った。確かに乾いたような跡はない。まるでたった今流れ落ちたばかりといった様子だ。
そしてその足下に小さなメモが残っていた。『この部屋に近寄るべからず』
『スフィンクス・メッセージ』の書きつけであった。竹中とラモトリギンは互いに見合わせた。「これを書いたのは船長だな。おそらく船長は血を流すつもりだったのだ。そしてお千代を殺した。そして部屋を出た」竹中は独り合点している。
ラモトリギンが「馬鹿なこと言わないで! お千代が血を流して死んで、誰が得をするっていうんだね?」と抗議したが彼は耳を貸さない。「とにかく警察だ。すぐに電話をしろ」と言い出した。竹中は「分かった」と受話器を手にした。警察は呼ばなかった。竹中の脳裏に警句めいた思考が閃いていた。お千代はスフィンクスの凶行を止めようとして殺されたのではないか? だとすればお千代は悪魔の正体を知っている。あるいは悪魔の手先である可能性がある。「もし、お千代さんを葬れば悪魔たちは必ず報復に来る。今度は悪魔が殺される番だ」竹中は考えた。悪魔を始末するのはいいが、悪魔を匿えば自分とて命がない。ここは一時身を引くべきだ。そして証拠を掴むのだ。しかし岸本には告げられない。「君はどう思う?」
「そうだな。悪魔が人間のふりをしているだけかもしれないな。しかし人間社会は悪魔によって破壊されようとしている。悪魔は悪魔であることを隠したまま、巧妙に立ち回っているだけだ」
こうしてラモトリギンはスフィンクス船長殺害の決意を固めた。
そして翌朝、満ち潮によってお千代の死体が流れ着くはずだった。しかしその日は満月のはずだった。それが欠けている。
そしてお千代の遺体が発見された。彼女は海に流され溺れ死んだのだ。そしてその遺体は悪魔に喰い荒されていた。しかし悪魔とは何者か。
――この世で最も醜悪なものは悪魔ではなく人であると人は言う。悪魔は人間に擬態することができるが、人を喰う悪魔などはいないだろうというのが、世間一般の考え方であろう。だが、もしも人を食べる悪魔が存在するとしたならば?――人肉を食い、皮を被って人の真似事をすることしかできない卑小な生き物こそ人ではないか?
「お月さんも笑うだろうさ。満月に悪魔が現れて人を殺すなどと、そんな馬鹿げたお伽噺があってたまるものか」そう考える者もいるはずだ。ならばなぜお千代さんが人殺しになったか考えてみることだ。悪魔が本当に存在するからだとするなら?――「人肉を喰う悪魔なら、どうしてその正体を隠す必要があるのかね? もっと派手に暴れ回ればいいだろう」そう反論したくなる人もいるはずであろう。「お千代さんの幽霊を見たことがあるんだよ。お父様は目井の娘ですよ」そう告白したのはスフィンクス船長の娘の船頭だった。彼女も霊感の持ち主だったらしい。お月さんも笑っていたことでしょう。なぜなら悪魔を殺せば、その報いを受けるのはあなた自身なのだから――――
そのように語りながら少女はナイフを振りかざして竹中に襲い掛かった。
スフィンクスの船頭が「この世に神はいない」と呟くと、竹中の目の前に黒いローブをまとった男が現れた。フードを目深に被っている。そしてスフィンクスは拳銃を取り出した。「私はスフィンクス船頭。あなたを殺します!…………ああ……嫌!いやぁ!ああ……」と泣き叫び始めた。
スフィンクスの拳銃が火を吹き、銃弾が彼女の心臓を貫いた。しかし彼女はそれでも銃口を押し込み続けた。スフィンクス船頭も最後の力で抵抗を続けた。そして力尽きた。少女は倒れた。そして息絶えた。
スフィンクス船長は「娘が……お千代……お月様が泣いているぞ……」と呟いて、拳銃を取り落とした。竹中は彼女を仰向けにし、目を開けさせた。目は虚ろでどこも見ていなかった。竹中は船頭を揺さぶったが反応は見られなかった。竹中は肩を落とし「俺にはもう無理だ。これ以上は堪えきれない。お千代さんの復讐は果たしたよ」と言った。竹中の指は震えていた。「後は君に任せる」
竹中は踵を返した。
岸本はその背中に向かって叫んだ。「僕は彼女を殺せなかった! 彼女を愛してしまったんだ!お月さんの許へ行くつもりかい? 僕は君が心配で仕方ない! 僕は君の味方だよ! 竹中君! 戻っておいで!」
竹中は振り向かなかった。そのまま港に向かった。そして夜風の中に姿を消した。岸本と船頭は呆然と立ち尽くした。二人きりになってしまった。「お嬢さんに惚れていたのか?」と岸本が訊ねると「ええ、でも駄目ね。私じゃあ役者不足よ。だから諦めたわ。私、あの人と駆け落ちすることに決めたの」と答えた。「君が決めたのならそれでいい」船頭は「私はあの人に殺されたってかまわないの。あの人はきっと、私が憎かったんでしょうね。でもあの人が望むなら、私はどんなことでもできる。たとえこの体がばらされて、魚の餌にされたっていい。私にとっては幸せだもの。私にはあの人だけが生きて、私の全てだったのだから」「そうか」船頭の言葉が胸に突き刺さった。船頭の心には、もはや自分は必要とされていない。そう感じたからだ。だが、それは自意識過剰というもの。彼女は「竹中さんに会ってくる。彼にも挨拶しないとね」と付け加えただけだった。船頭の心には竹中の姿だけが焼き付いていたのだ。
スフィンクス船長は拳銃を拾おうともしなかった。
ラモトリギンも拳銃を抜こうとさえ思わなかった。「ラモトリギン」
「何だ?」
「君は僕を助けてくれた。ありがとう」「ああ」「これからも友達として付き合ってくれるね?」「当たり前じゃないか」
「ではまた明日だ」
こうして二人の青年の友情が成立した。岸本の家には明かりがついている。竹中が帰ってきたのだった。ドアの鍵を開けたが誰も出てこない。玄関を上がって廊下を通り抜けると寝室だった。ドアを開けるとベッドが四つ並んでいた。布団は綺麗なままだった。竹中は椅子に腰掛けた。
そのときだった。背後に誰かがいたような気がして竹中は振り返ろうとしたが、すぐにその考えを改めた。
やはり何もないのだなと思ったのだ。そしてベッドに入って眠りに落ちた…………

***
エピローグ『スクィーラ』(仮)に続く
『鳩』と『女神』の話ですが『鳩』が『女神』を殺したという話が抜けている。
それは竹中の視点で描かれているためだろうが……
* * *
(これは僕の物語だ。
おわりのない終わりの物語だ。これはぼくと彼女が出会った話だ。ぼくたちが出会ったときのお話だ。
それは突然のことだった。
ある日。ぼくの前に一人の女性が現れたのだ。彼女は自らをスクィーラと名乗る魔女と名乗った。
ぼくはそれを信じようとしないでいた。だっておかしいじゃない? この世に魔女なんて存在するはずがないんだからさ。でも、彼女は自分のことを信じろというのだ。それに彼女はこんなことも言ったのだよ。もし信じる気があるならわたしを手伝わせてあげてもいい、とね。
正直言って、ぼくはこの申し出をありがたいと思うべきなのか、悩むところだ。なにも信じないというのは寂しいけれど、その反面とても楽なのだから……。

* * *
その女性は白衣を身に纏い、黒髪をしていた。顔色は青白いの一言。血色が悪くて病的という形容も当てはまりそうな容姿だ。瞳の色は黒く、その肌の色がいっそう際立つように感じられる。その唇が開くまで生きているのか死んでいるのかわからなかった。しかし、彼女の声を聞いて初めて生きていると理解できたのだった。「あなたの悩みを解決する方法をご存知ですか?」「知らないな。そんなものはないだろう? だいたい、あったら困るだろう」
「それでは教えて差し上げましょう」と彼女は言った。「あるんです」

* * *
彼女は話を始めた。それは長い話になりそうだが、どうやらぼくのために用意してくれたらしいので最後まで聞いてみることにしよう。「その昔、ギリシャと呼ばれる国がありました。そこにスフィンクスという女がおりました」と切り出すものだ。まるで自分が神だと言わんばかりの口調である。「スフィンクスは人食いの女として恐れられておりました」と続けて言うのだが……?「彼女は人を襲っていたわけではありません。ただ、その人の願いを叶えるためにその人を食べてしまうのです」
スフィンクスの話が本当だとすれば、彼女は人を食べることになるが、そうではないらしい。「スフィンクスは人食いの怪物として、人々からは嫌われておりました。しかし彼女には、たった一人の友と呼べる存在があったのです」
スフィンクスの話は続く。「スフィンクスは人食いの化け物と呼ばれていました。けれども、スフィンクスは人を食べるために人を助けたことはありません。スフィンクスは人助けをしていただけなのです。そして彼女の友人も同じように人を助ける仕事をしておりました。二人は互いに認め合い支え合う関係であり続けました。しかしある時、悲劇が起こります」
* * *
「あるときのこと、二人の前に悪魔が現れました。悪魔は言います。お前たちは人喰いだと。その通りでした。スフィンクスと友人の男は人喰いの罪で追われることになったのです。悪魔はスフィンクスを殺せばその罪を許してやろうと言います。悪魔は人を喰うスフィンクスを恐れていたのです。悪魔はスフィンクスを殺す方法を教えてくれました。それは呪いをかけることでした。悪魔はスフィンクスに呪いをかけ、そしてスフィンクスは悪魔を喰らい、そして悪魔を呪ったのでした」
スフィンクスの話は続いた。「悪魔を喰らうと、スフィンクスの体はみるみるうちに大きくなり、その醜さを増していきます。その変化に耐え切れず、スフィンクスは死んでしまいました。そしてその死体は悪魔よりも醜悪なものとなり果てたのでした。悪魔は約束を守り、二人の罪を許してくれました。ただし、スフィンクスの肉体は残しておくようにと命じたのです。スフィンクスの魂は天に昇り星々のひとつとなって輝きを放ち続けるでしょう」「そのスフィンクスの友人は誰なんだ?」「それがあなたですよ」「なるほど」
* * *
「それから数百年が経ち、ギリシャの文明は衰えを見せ始めました。人々はスフィンクスを悪魔の使いとして恐れるようになり、スフィンクスは孤独になってゆきました。スフィンクスは嘆き悲しみます。しかしスフィンクスは、それでもまだ希望を捨てていませんでした。スフィンクスは、自分と同じ苦しみを抱える人間を探し始めたのです。そしてついに見つけたのでした。スフィンクスはその女性に近づき、話しかけたのです。『こんにちは、お嬢さん。私の名はスクィーラ。お嬢さんのお名前は?』『私はお月様よ』と、お月様が答えました」「お月様か。いい名前だね」「ありがとう」
* * *
「お月様は、自分のことを魔女だと名乗りました。お月様もまた、孤独な身であったのです。お月様は自分の魔法によって、たくさんの命を救いました。しかし、お月様はそのことを誰にも知られたくないと思っていたので、お月様は正体を隠したままでいました。お月様は、お月様が救った人たちにお礼を言われても、決してそれを喜びはしません。お月様は、感謝されることを嫌い、人々の前から姿を消してしまいました。お月様は魔女だからです」「そうか」
第四章に続く
「お月様はお腹が空くと、夜に空を飛び回り、地上の生き物の命を奪って食べていたそうです。お月様は人間のことも好きでした。なぜならば、人間はお月様に優しくしてくれるからです。だから、お月様は人間が大好きだったのです。でも、そんな優しいお月様でも、夜にしか姿を現さないのはなぜでしょうか? 実は、お月様は太陽に照らされると、石になってしまうからなのです。お月様は太陽の光を浴びると、その身を焼かれ、灰になってしまいます。ですから、夜しか姿を見せられないのですね」
第五章に続く
「お月様が、どうして夜だけ姿を表すようになったのか、その理由をお話しします。それは、お月様が恋をしたからです。お月様が恋に落ちたのは、一人の男性でした。お月様は、その男性と愛を語り合い、結婚を誓い合った仲でした。しかし男性はお月様を残して亡くなってしまったのです。お月様は泣きました。泣いて、泣いて、涙が枯れるまで泣き続けたそうです。お月様は、男性のことが忘れられず、毎晩のように夜になると、涙を流しながら空を飛んでいたといいます」「可哀想に……」
第六章に続く
「お月様は魔女でしたが、心はとても清いものでした。しかし、その清い心を穢してしまったのは、ほかでもない。お月様の夫となった男だったのです。男は、お月様が魔女であることを知っているにもかかわらず、その秘密を周囲に話してしまいました。お月様が夜に現れると、その美しさに惑わされて、つい口走ってしまうのでした。それを聞いた村人たちが、村外れに住んでいたスクィーラという老婆に話しました。すると老婆はすぐに、こう言い放ったそうです。『それはスフィンクスじゃ。奴に関わるな』スクィーラがスフィンクスと言ったのには理由があります。スクィーラはかつてスフィンクスの呪いを解いたことのある賢者でもあったのです。しかしスクィーラはスフィンクスと深く関わるのを恐れて、その後スフィンクスとは疎遠になったままでした。スクィーラとてスフィンクスが恐ろしい化け物だということを知っていたのです。スクィーラの予言通りに、スフィンクスと関わりを持った人は皆、スフィンクスの怒りに触れて死んでしまうという言い伝えがあったのですから。ですからスクィーラの言葉は説得力を持ちました。そしてその日から、お月様の正体がスフィンクスであることが広まり、人々から迫害されるようになったのでした。スクィーラの忠告は正しかった。その証拠にスクィーラは、その日以来、スフィンクスから距離をおいて暮らすようになりました。しかし皮肉なことに、スクィーラが遠ざけたことで、その分だけスフィンクスは人々に知られることになり、恐れられるようになったのです」

* * *
スクィーラの警告を受けて、人々は怯え、そしてスフィンクスを畏れるようになった。そして、その噂はあっと言う間に広がり、
「スフィンクスの肉を食べれば、不老不死になることができる」
という尾ひれまで付いてしまうのだった。人々は、スフィンクスを怖れていながら、同時にその肉を食らいたいとも思っていたのである。
しかし、そんなことをしても無意味なのだ。
「お肉を食べたい」
と人々が思うと、スフィンクスがやってくる。
スフィンクスの肉体は不浄のものとして恐れられ、忌み嫌われていた。それ故スフィンクスの死体が放置されているのを、人々は見捨てることができずにいたのだ。
そして、
「このスフィンクスを食べてしまえば、永遠の命が得られる」
という伝説が広まると、スフィンクスを食べた者が現れたという噂が流れたのも当然のことだっただろう。
* * *
「ある日のこと、一人の男がスフィンクスの死体を見つけました。その死体はミイラ化しておりました。男は恐ろしくなって逃げ出しました」

* * *
男は恐怖のあまり逃げだし、そのまま行方知れずに。
そして、男の失踪はニュースとなり、町を騒がせた。
だが誰も真相を知ることはできずに時だけが過ぎて行った。
* * *
男は逃げ出したあと、ある屋敷に逃げ込みました。そしてその屋敷の主人に匿ってもらうことにしたのです。
しかし、その男は、自分が魔女を拾ってしまったと話すのでした。
そしてその魔女は人を食べる化け物であると言いました。

* * *
男は、自分の身に起こっている出来事を全てその魔女に語りました。すると魔女は悲しそうな顔をして言いました。
――私は人間だよ――
しかし男は信じられなかったようです。

* * *
男は言いました。お前が人喰いだとしても構わんと。――私を食べるつもりなのか?――
男は言いました。
魔女は人を食べる化け物だからだと。
しかし魔女は、その答えを聞くと怒り狂いました。
男は、自分は何も間違ったことは言っていないはずだと思いました。
しかし魔女は激怒し、
「もういい!」と言い放ちました。「出ていけ! お前なんか知らない!」と。
こうして男は追い出されてしまったのです。
そしてその夜、男はスフィンクスに出会いました。
そして魔女の居場所を尋ねました。
スフィンクスが魔女のことを答えると、
「案内してくれないか?」と頼みました。
「わかった」とスフィンクスは言って、「こっちへ来い」と言って、歩き始めました。
「待ってくれ」と男は呼び止めます。
「なんだ?」とスフィンクスは立ち止まりました。そこで男は、魔女の話を詳しく聞きました。
スフィンクスの口から魔女の話が出ると、スフィンクスは嬉しくなりました。そして、魔女が住んでいる場所を教えました。スフィンクスはその家に向かって飛んでいきました。

* * * スフィンクスは魔女の家の前で降り立つと、ドアを開けました。
中には魔女がおりました。
魔女は驚いて立ち上がりました。
魔女はスフィンクスが自分を騙しに来たのだと思ったので、 スフィンクスを家に入れないことに決めました。しかしスフィンクスは、何もしないから入れて欲しいとお願いしました。
そして、魔女はしぶしぶ中に入れました。
スフィンクスは椅子に座り、魔女はテーブルを挟んで向かい側に腰掛けました。
それから、二人は話を始めました。まず、
「私は魔女ではないよ」「ではなぜ夜しか姿を現さないんだ」「それはね、昼間は私が醜い姿をしているからさ。太陽の光に当たれば私の身体は焼け爛れてしまうんだよ」
「魔女じゃないなら、君はいったい何なんだい?」「私はね、ただの猫だ。それも普通の黒猫だ」「そうか。それで、君の名前は?」「名前なんてないよ。魔女だった頃はあったけどね。でも今は名前がない」
「どうして名前をなくしたんだい」
とスフィンクスが尋ねると、
「それはね、私の夫が死んでしまったからだ。名前をつける前に、あの人は旅立ってしまったのよ」「それは可哀想に……」
「だけどね、夫は私のことを愛していてくれた。だから、名前をつけなくても、私は幸せだったよ。それにね、名前がなくとも、困ることもなかったしね」
「そうか」
「そうだ」
「じゃあ、君のことを呼ぶときはどうすればいいんだい」
「うーん……
魔女の頃は、みんな私のことをスクィーラと呼んでいた」
「スクィーラ? それはどういう意味なんだい?」
「スクィーラは賢者の名前だよ」
「スクィーラというのは、どこから来た言葉なのかい?」「昔々、この世界にスクィーラという名の賢者がいたの。彼は魔法を使うことができたの。でも、彼はとても嫉妬深い性格をしていた。だから彼の弟子達は彼を妬んで、彼を殺そうとしたの。でも、彼は死ななかったわ。だって彼が死んだら、誰が魔法を教えるのかしら? だから弟子たちは諦めることにしたの。でも、それでも悔しかったから、彼らは彼に呪いをかけたの。それが『スクィーラ』という言葉の意味なの。賢者スクィーラは不死身だったという謂われがあるのよ。だから、賢者スクィーラという名前を使ったの」
「そうかい。でも、どうしてその名前を自分で名乗らなかったのかな」「えっ!?」「どうして賢者スクィーラと呼ばせようとしなかったのかな」
「それはね、私は賢者スクィーラではなく、スクィーラという一介の猫に過ぎないからよ」「ふむ」
「でも、もし、誰かが私をスクィーラと呼んだら、きっと私はその人を恨んでいたと思うわ。その人の首を絞め殺していたかもしれない」
「どうして?」「スクィーラは、賢者スクィーラの弟子達が付けたあだ名で、彼らにとっては蔑称だったの。それなのに、その人たちが勝手に使って、しかもその名で呼ばれたとしたら、その人たちは許せないでしょう」
「なるほど」
「それに、スクィーラという名前は、魔女として暮らしていた頃の私に付けられた名前なの。そして魔女を辞めてからは、私は名前をなくしてしまった。だから、今更スクィーラと呼ばれても、私はそれを受け入れられないの」
「そうなのかい」
「そうなの」
スフィンクスは考え込んでしまいました。
「スクィーラ。僕にはよくわからないけれど、君が納得するならば、僕はスクィーラと呼ぶことにするよ」
「……ありがとう」
「ところで、スクィーラ。君はいつまでこの国にいるつもりなんだい? この国は君にとって住みにくいところだと思うんだけど」
「……」
「スクィーラ。どうかしたのかい」
「……うん。スクィーラはね、この国にずっといたわけじゃないの」
「そうか」
「スクィーラはね、元々は別の国に住んでいたの」
「どんな所なんだい」
「……」
「スクィーラ?」
「スクィーラはね、人間のいる世界とは別の世界で暮らしていたの」
「へぇ」
魔女の世界にも人間がいるのだろうかとスフィンクスは思いました。しかし、魔女と人間は共存できないと聞いています。ですから、魔女が暮らす世界とは全く別の場所なのでしょう。

* * *
魔女は続けて言いました。スクィーラは、ある日、突然この国の空に現れたのだと。
そして魔女はスクィーラを見て驚いたのでした。なぜなら、魔女の夫もスクィーラの姿を見たことがあったからでした。魔女の夫とスクィーラは友達だったのです。魔女は、スクィーラは夫の生まれ変わりだと思いました。しかし、魔女の夫はもう既に亡くなっていました。だから魔女は、スクィーラと会話をしてみようと思いました。
そして魔女はスクィーラと仲良くなりました。魔女はスクィーラを家に招き入れるようになりました。そして魔女はスクィーラと楽しく暮らしていました。
しかし、ある日のこと、魔女が目を覚ますと、魔女はスクィーラに殺されていたのでした。
魔女が殺されると、魔女の家は崩れてしまいました。魔女はスクィーラに騙されて殺されたのです。
スクィーラは魔女を殺したあと、魔女の家から逃げ出しました。
そして魔女の家の残骸の中に隠れて過ごしました。

* * *
魔女が死んでしまったあと、スフィンクスは悲しみました。そしてスフィンクスは魔女の仇を討つことを決めました。
スフィンクスは魔女の家に火を放ちました。そして魔女の家を燃やし尽くしたあと、スフィンクスは魔女の住んでいた街を焼き尽くすことにしました。
しかし、スフィンクスが魔女の街を焼こうとしているとき、一人の人間がスフィンクスの前に姿を現しました。
その人間はとても大きな剣を持っておりました。その人間こそ魔女の夫でした。
魔女の夫は言いました。
――お前がやったのか――
と。
スフィンクスは答えました。
――そうだ――
と。すると魔女の夫は、
――何故こんな酷いことをしたのだ――
とスフィンクスに問いかけた。
しかしスフィンクスは答えなかった。
魔女の夫は怒り狂った。そして魔女の夫がスフィンクスに襲いかかりました。
しかし、戦いはすぐに終わりました。魔女の夫はスフィンクスによって倒されてしまったのです。
魔女の夫は息絶える寸前に、スフィンクスに最後の言葉を遺しました。
「魔女は俺が死んだことを悲しんでいるはずだ。魔女は優しい奴なんだ。俺はあいつを一人ぼっちにしたくないんだ」
そして魔女の夫は息を引き取りました。
スフィンクスは魔女の亡骸を拾い上げ、自分の家に運びました。そして魔女の亡骸に、スフィンクスは優しくキスをすると、魔女の遺体を土に埋めました。それからスフィンクスは、魔女の家を再建することに決めました。
魔女の家は、魔女が住んでいた頃と同じように、美しい姿で蘇りました。
スフィンクスは、魔女の亡骸を埋葬してからというもの、毎日のように魔女の墓に通いました。そして、魔女の魂が天に召される日を待ち続けました。
魔女の夫は、魔女が死んでしまったことをとても嘆きました。魔女の夫は、自分が生きている限り、魔女は永遠に生きることができると、信じていたからでした。