不思議な夜行列車 ~彼女と彼のお見合い婚約~

「私には、もう何も残っていません。結婚なんて始めから考えていなかったんです。――あの人には、きっと相応しい女性が他にいますから」

 晃光にずっと言えなかったことが、そのときになってようやく口を割って出た。

(結局、最後まであまり『晃光さん』と呼ぶこともできなかったわね……)

 そう、なぜか今になって香澄は気付いた。一度だけ抱きしめられた彼の腕の感触が、肌には不思議と残されたままだった。

 晃光の母親が、香澄の左手薬指の指輪に気付いて眉を寄せた。

「あなた、晃光が勝手に作って贈った正式な婚約指輪は、まだはめていないのね?」

 力強い確認に、香澄はこくりと頷いた。

「この婚約指輪は、お返しします」

 香澄は、父の仏壇に預けていた婚約指輪のジュエリーボックスを取り出し、彼の母親に手渡した。

(――楽しい思い出は、これだけで十分よ)

 香澄の薬指に、今でもはめられたままでいる仮の婚約指輪。これだけあればいいと思えた。彼には十分よくしてもらえた、もう、いい。
出会いが違っていれば、晃光とはいい友だちになれたかもしれないな、とふと思ったりした。

 香澄はしばらく指輪を見つめたあと、やっと顔を上げると泣き顔に微笑みを作った。

 晃光の母親はジュエリーボックスを奪いように取り上げると、どこか安堵したように胸を撫で下ろして、付添人に合図した。

 黒スーツの一人が封筒を取り出したが、香澄はそれについては強く拒んだ。

「お金はいりません、線香だけで――」

 一瞬、その封筒の熱さに怒りで頭がカッと熱くなった。

 バカにしないで欲しい。お金で、彼との縁を売ったわけではない。

 何かあれば、この家を売ればいい。アパートに暮らして、普通のOLとしてやっていげばいいのだから。

「ふん、わたくしは先に車に戻ります」

 彼の母がそう言って踵を返した。

 桜宮家の代表として一人が残されて線香を上げている間にも、両親や付き添いの面々は早々に引き上げていった。

 最後まで残り、長い間手を合わせていたのは三十後半大柄な男だった。
 沈黙が十数分も立ち込めた後、彼は横顔だけでちらりと香澄を見た。

「本当に、これでいいのかい」

 野太いが、決して嫌な感じがする声ではなかった。

 香澄がじっと見つめると、男は立ち上がって今度は真っすぐ顔を見合わせてきた。

「あんたと出会ってから、弟はとても楽しそうだった」

 香澄は、どことなく声が似ていると分かって、悲しい顔で微笑んだ。

「ああ、彼のお兄様なんですね」
「そうだ、何かあれば力になりたい。弟は本当に君のことを――」
「本日はもう疲れてしまいましたの、どうか、もう、お引き取りを」

 無礼なことをしているとは分かっている。

 香澄は、畳に額を押し付けて土下座をした。

「今日は雪も強いですのに、父のために線香を上げにいらっしゃってくださいまして、誠にありがとうございました」

 彼は心配したみたいな顔をした。何か言いたそうにしたが、玄関先から聞こえてきた甲高い母親の声に「行くよ!」と答えた。

 香澄は、玄関へと去っていく大きな後ろ姿を見送った。

 それを眺めていると、記憶の中から、父の声が聞こえた。
『ずうっと北へ、雪がすべてを染める寒い土地だった――』

 思い出を懐かしく語って聞かせる父の柔らかな声色が、意識とは関係なしに、香澄の脳裏に反響する。


 何をするべきなのか、自分がこれからどうしようとしているのかわからない。

 しかし、「行かなければ」と立ち上がった。


 あてなど何もなかった。それでも、父が乗ったという夜行列車が、香澄を待ってくれているような気がした。

 彼女は歩き出しながら白いシャツを脱いだ。暖房があまり効かない室内では寒さを感じたが、焦りに突き動かされるように喪服寄りのスカートも脱ぐ。

 そして私室で、膝が隠れるほどの白いワンピースのスカートを着て、ニットの長袖に袖を通した。ベージュのコートをはおり、両手で髪を出すと、母譲りのウェーブの入った髪が背中に流れた。

 小さくなった父の遺骨をボストンバッグに入れる。

 ここしばらく時計なんて見ることもなかったのに、このときは、まるで夜行列車の発車時刻を確認するように時計を見上げていた。
(――今は、午後八時半を切ったところ)

 九時に間に合わなければと、なぜか香澄はそんなことを思った。

 そのまま外に出た。財布もスマホも鍵も持たなかった。

 外は、どういうことかあり得ないほど空気がとても冷たくなっていた。息を吐くと、凍えそうな白い吐息が静かにゆらゆらと漂う。

「……不思議、どうしてこんなに静かなのかしら」

 先程まで停まっていたまずの高級車の後も、薄い雪に覆われて見えない。他の車の通行音すら聞こえてこない。

 静まり返った凍える秋の夜に、夜行列車の吐息が聞こえてくるようだった。


             ※

 外に出ると、冬に似た極寒の冷気が身に染みた。

 風のない凍てつく寒さだ――。

(どういうことかしら?)

 香澄は不思議に思った。ハタと思い出して、外へと足を進めた。

 母の遺骨の行方がとうとう見つからなかったのは、帰るべき墓へと父が送ったのかもしれない。

 父の話を思い返すと、父なら、父が引き離したという家族の元に送ってあげて和解した――気もするのだ。

 お詫びの言葉を添えて、死ぬ前に一度だけでもと連絡を取ったのかもしれない。
「ふぅ、まだ早い時間のはずなのに真っ暗だわ……」

 真冬並みの冷気が夜の闇に満ちていた。

 歩き慣れた住宅街には、冷気のヴェールがかかった灯りがぼんやりと映るばかりで、真っ暗といってよかった。

「はぁ」

 かじかむ寒さのあまり、父が入ったボストンバッグを胸に抱え寄せ、震える吐息を吐き出す。すると途端に真っ白い煙がたくさん出てくるのだ。

 疲れてはいたが、その驚きは自然と込み上がった。

「こんなに寒いなんて」

 やはり、口にする際の吐息もとても白い。

 父と通っていた公園までもうすぐ、という距離で、香澄は静まり返った空気を震わす暖かで奇妙な蒸気音を聞いた。

(何かしら……?)

 まさか、本物の上蒸気音だろうか。

 疑問を覚えた直後、急かされるようにハッと走り出していた。

 音が聞こえる方へ向かってスカートをひるがえし、駆ける。

 すると公園の入り口すぐに、見慣れない黒い物体が立ち塞がっていることに気がついた。それは公園の街灯に黒々とした光沢を照り返し、いかついフォルムをくっきりと浮かび上がらせている。
 角ばったプレートには『夜行列車』と金色の装飾で明記されていた。

 真新しいレールに収まった、重々しい機体と車輪の間から蒸気が上がっている。

 その列車には、小さな窓がいくつも並び、後方は闇の中に溶けて見えないほど長かった。

(どうしてこんなものが、街中に……)

 様子を観察しつつ先頭車両を目指して歩いてみた。

 機関室の窓だけが、明るい電灯を灯して開いていた。白いシャツに、見慣れない機関帽をかぶった若い男が顔を覗かせている。

「さあさあ、夜行列車はもうじき発進するよ! お嬢ちゃん、乗るのかい? 乗らないのかい?」

 やけに古い言い方をする青年だった。小麦色に焼けた肌に、楽しそうに笑った口元からは白い八重歯が覗いている。

 奥にはもう一人別の男がいた。彼はずんぐりとした身体に肌着を覗かせた着流しをはおり、顔を隠すように深々と軍帽を下ろしている。

「夜行、列車……?」

 香澄は、知らず知らずに呟いた。

 青年が表情豊かな顔を顰め、馬鹿を見るような具合に片眉を引き上げた。
「乗車一名の予定なんだが、ここで夜行列車を呼んだのはお嬢ちゃんじゃないのかい? ほら、ポケットに切符が入っているはずだよ」
「素人はこれだから困る」

 ずんぐりとした男が、口元に深い皺を刻んだままむっつりと言った。

 香澄は慌ててコートのポケットに手を突っ込んだ。

 そこには、硬質なカードのような感触が指先に触れた。まさか、と思って恐る恐る取り出してみると、それはカードほどの大きさと形をした銀白の切符だった。

「お、こりゃあ上等もんを持ってるなあ。高かっただろうに」

 香澄は、意味が分からなかった。

「え? い、いつの間にか財布から支払われてここにあるということ? ほんと、いつの間に……」
「いいから乗りな。夜行列車は長居無用だぜ。いろいろなところを走り続けているんだ」

 香澄は、慌てて駆け寄った。

 大きな男の方が無言のまま、香澄の腕を取って引き上げた。背後で硬質な音がして扉が閉まる。
 列車の中は、木材で出来ていた。古い昭和時代のワンシーンに出てくるような、どこか懐かしい感じのする造りだった。

 小さな窓が直線に並び、それに背をくっつけるようにして木材の椅子が続いている。

 第一車両は、バスほどのスペースで、香澄はその中央に腰を降ろした。

「あら?」

 今になって気付いた。向かいには、六歳ほどの少年が床につかない足を広げて座っていた。

 画家がかぶるような形をした紺緑の上質な帽子を深くかぶり、唇を一文字に引き結んで腕を組んでいる。

 すると夜行列車が、がたんがたんと振動して発進し始めた。
 それは昔、どこかで聞いたような懐かしい音を軽快に刻んで、走り出す。

 窓の向こうには何も見えなかった。窓硝子には、車内の様子が反射して映っているばかりだ。

 香澄は、父の遺骨を抱えたままぼんやりと車窓を眺めていた。窓硝子に反射する自分の横顔は、魂を抜かれた人形のように虚ろだった。