ジェイコブ王太子は、毒物の研究をした。
 コーデリア・ブラウンを毒殺するためである。
 それはあの日ーー私をお妃に選んでほしいという、虫唾の走る図々しい手紙を受け取った日に、決定したことだった。

(どうせなら、いちばん苦しむと言われている毒にしよう。フグの毒だ)

 さまざまな本を調べた結果、王太子はそう決めた。本にはこう書いてあったのである。

・フグ中毒に特効薬はない
・致死率が極めて高い。
・フグ毒は無味、無色、無臭。しかしその強さは青酸カリの一千倍以上。
・煮ても焼いても冷凍しても毒性は失われない。
・食後二十分から三時間で身体がしびれはじめ、手足が動かなくなり、頭痛、腹痛、嘔吐、言語障害が起こり、やがて運動麻痺から倒れて呼吸困難となり、四時間から六時間で死亡する。

「いいぞ、いいぞ」

 ジェイコブ王太子はゾクゾクした。
 あのよくしゃべるコーデリアが言語障害になり、頭痛や腹痛に喘ぎ、ぶっ倒れて呼吸困難になり、苦しみ抜いて死んでいくさまを思う存分眺めることができるのだ!

(最高だ。これは絶対に成功させたい。父と母の堪能する様子が、今から目に浮かぶようだ)

 王太子は自ら厨房に足を運んだ。料理人たちはぎょっとした。王家の者が厨房に顔を出すなど、かつてなかったことだからだ。

 慌てて料理長が飛んできた。

「殿下、何か粗相がありましたでしょうか?」

 今年で五十歳になる料理長は蒼褪めていた。
 彼は勤続三十年のベテランで、料理の腕もさることながら、王室を心から崇敬する点で、常に料理人たちの模範でありつづけてきた人物だった。

「そうではない。ちょっと相談がある」

 料理長は蒼褪めたまま、厨房の扉をぴたりと閉め、王太子と二人きりで廊下に立った。

「料理長」

 王太子の目は、真っ暗な二つの穴のようだった。

「お前、フグ料理はできるか?」

 返事をためらう料理長。なぜ王太子殿下は、そのような質問をなさるのか?
 暗い瞳に魂が吸い込まれそうな怖れを感じながら、料理長は答えた。

「……はい。できます」
「そうか。フグの毒がある部位をよく知っているのだな?」
「それは、はい、知っています」
「どのくらいの量で人が死ぬかも知っているか?」

 料理長は、言葉に詰まった。

「えー、それは、ごく少量で死ぬこともありますし、そうでないこともありますが、私どもとしたら、ほんのわずかな量でも死ぬと考えてーー」
「では大量に食べたら必ず死ぬな?」

 料理長の額に嫌な汗が浮いてきた。いったい殿下は、何をおっしゃりたいのだろう……

「はっきり言おう」

 王太子は、極めて無表情に、淡々と言った。

「食べたら必ず死ぬとお前が思う量の、その十倍以上のフグ毒を、俺が頼んだときに、料理に入れてもらいたいのだ」

 料理長は後ろに倒れそうになった。もう少しで、気を失いかけたのである。

「返事はすぐしろ。やるのかやらないのか?」
「いたし……ます」

 何も考えずに出た言葉だった。貧血状態で、頭が正常に働いてくれない。

(フグ毒を料理に入れる……必ず死ぬ量……その十倍……つまりこれは……殺人指令なのか?)

「安心しろ。これは謀反ではない。それとも俺が父の殺害を依頼したとでも思ったか? え?」

 ジェイコブ王太子は、まるで上手いジョークでも言ったかのように笑った。料理長を悪寒が襲う。

「できると言ったんだから、やるしかないぞ。お前の王家に対する忠誠はよく知っている。だから頼むのだ。わかったな?」

 料理長は震えながら頷いた。
 これがほかのことであれば、王太子殿下直々の頼み事を躊躇する理由はない。むしろ両手を挙げて、ぜひ私めにさせて下さいと、涙を流してありがたく承ったはずだ。

(でもさすがに殺人は……軍人でもない私に、人が殺せるか? 無理だ。できない。やりたくない。もし断わったら、私は死刑だろう。それだけならいいが、家にいる妻も、二人の娘も、きっと反逆罪で処刑されるに違いない。嗚呼……私はどうしたらよいのだ?)

「どうした。さっきから蒼い顔をして。人を殺すのが怖いか?」

 怖い、などと言うものではない。人が痛がったり、血を流したりするのをチラッと見るだけでも嫌なのだ。
 自分は料理人だーーと料理長は思う。
 人が美味しい料理を食べ、嬉しそうな顔をするのを見るのが生きがいだ。その自分が、料理で人を殺す? 冗談じゃない。三十年間も料理人として御奉公してきて、そのようなことのできる人間に見られていたとは、何と情けないことか……

 料理長は泣いた。情けなかった。自分が心から崇敬していた王太子殿下は、こんなお方だったのか? 料理長に毒入り料理を作れと命令なさるとは。そんなことは、軍人か暗殺者に頼んでくれ!

「おいおい、泣くなよ。男だろ? なに、殺すのはたった一人だ。しかも王家の者ではない。俺の婚約者さ。どうだ、これで気が楽になったか?」

 料理長の背中を電流が走る。
 まさかーーコーデリア様!?

 正式な発表はまだだったが、ほぼ婚約者に内定している彼女は、何度も王宮に招かれて食事をした。その都度配膳をしたのが料理長であり、近くでコーデリアの美貌を一目見たときから、すっかり彼女のファンになっていたのだ。

(美しい王太子妃の誕生に、きっとコーデリア妃フィーバーが起こるぞと、妻や娘にも話したあの名門ブラウン家のお嬢様をーー私が毒殺する?)

 気がつくと、厨房の扉に寄りかかっていた。一瞬気絶したのだ。が、ジェイコブ王太子は、料理長の激しい葛藤など意に介したふうもなく、

「婚約発表したら、数日以内にやる予定だ。しっかり準備しておいてくれ。もしあいつが死ななかったら、お前が命令に背いたものとみなす。いいな、反逆罪は重罪中の重罪だぞ」