毒見役の選定の日が決まった。
ジェイコブ王太子とコーデリア・ブラウンの婚約発表という一大イベントの、四日後。
すでにニコラス・スミス宰相が、残りの六名の候補者選びを終えていた。いずれも容姿は整っているが、どことなく輝きのない娘ばかりであった。
「絶妙な人選だな。これでランの髪型を父好みにし、父好みの服を着せたら選ばれること間違いなしだ」
首尾よくランが毒見役になったら、食事の毒見をするときに、目にも止まらぬ早業で料理に【睡眠薬】を入れる。ランのすばやさは常人の二百倍あるので、その手の動きが人間に見えるはずはなかった。
レオ第二王子は自信を深めていた。
が、ただ一点、心の隅に晴れないものがあった。
兄の婚約者ーーコーデリアの存在である。
(婚約発表が済めば、彼女も王宮に住み、父や兄と同じ食事をすることになる。父と母と兄には眠ってもらうが、彼女はどうしよう。国民に何も悪いことをしていない彼女まで、百年の眠りに就かせてしまっていいものか……)
心優しい第二王子は、そのことを気に病んだ。
「大事の前の小事。王太子の婚約者など気にして計画を鈍らせてはなりません。一緒に眠らせてしまいなさい」
ニコラス宰相は強硬に主張した。レオ第二王子も、結局はそれに同意した。
ところが、婚約発表のために催された舞踏会で、図らずもコーデリアに農民の悲惨な現実を伝えることになったとき、
『……それは、知りませんでした』
兄の婚約者は目を真っ赤にした。初めて知った農民の窮状に、心を痛めたのである。
この瞬間、第二王子は胸を打たれた。
この人は、ほかの貴族令嬢とは違う。
奴隷である農民に同情する心を持っている。
あまりにも美貌を鼻にかけるから、高慢な女性だとばかり思っていた。
本当はーー心の美しい女性だったのだ。
(もし自分が新しい王となったら、彼女のような、奴隷の気持ちを思える女性をパートナーにしたい。この国を変えるのにもっとも大事なのは、我々トップがそういう心を持つことなのだ)
第二王子の胸に、温かい火が灯った。
それは恋の火種であった。
しかも、彼は極めて純情であったので、ひとたび好意を持つと、まるで世界中に女性はコーデリア一人しかいないかのようになり、その恋に火傷するほど胸を焦がされた。
(彼女は決して眠らせまい。ニコラスが何と言おうと)
兄の婚約者の処遇が、第二王子にとって小事ではなくなった。むしろ、日に日に大事になっていった。
やがて、毒見役の選定の日になった。異例なことに、その場にジェイコブ王太子とレオ第二王子も呼ばれた。
「どうだ、レオ。お前ならどの女を選ぶ?」
「誰でも」
王太子の問いに第二王子はムスッと答えた。こんなことには関心がないし、女の顔など見たくもないという態度で。
しかし、心臓は早鐘のように打っていた。間違いなく選ばれる、と信じてはいても、そう決まるまで緊張に喉はカラカラだった。
グレイス二世がランを指名した瞬間、第二王子の口からフーッと息が洩れたのは、そういう事情があったからだ。が、それを知らないジェイコブ王太子は、「何だ、弟もやっぱりランに注目していたのだな」と思っただけだった。
(ランはこのあと後宮に入る。今夜遅く打ち合わせをしよう。父と母と兄の料理には薬を入れ、コーデリアさんのには入れない。この程度のことをランが間違えるとも思えないが、いちおう念を押しておかないと)
ジェイコブ王太子がランに一目惚れして、頭の中が菜の花畑になっていたとき、レオ第二王子の脳裏には、農民に同情して涙したコーデリア・ブラウンの顔がちらついていた。
(父と母と兄が【睡眠薬】に倒れたあと、コーデリアさんには何と言おう。婚約者は今後百年間は目覚めません。ですから、どうぞ実家にお帰り下さい……)
第二王子は首を振った。
(それは男らしくない。ただのやせ我慢だ。フラれてもいいから、どうぞ新しい国づくりを手伝って下さい、僕のパートナーになって、と言ったらどうだ?)
第二王子は首を捻った。
(いや、いきなりパートナーなんて言っても、とまどわせるだけだ。なんせ僕は、彼女にずっと冷たくしてきたのだ。それなのに、兄が寝た瞬間に「結婚して下さい」じゃあ、人格破綻者かと疑われてしまう。ああ、恋とは何と難しいのか。クーデターの百倍難しい……)
ランの王宮入りを果たし、作戦の成功を確信したとたん、第二王子の心の比重は、目覚めたばかりの恋にすっかり傾いてしまった。
第二王子が自室にこもって、コーデリアさんにどう言おう、こう言ったらどうだろう、などとシミュレーションしているあいだに、兄の王太子は矢も盾もたまらずに後宮を訪れ、
「新しい毒見役と話がしたい」
と言って、女官のエリナを驚かせていた。
その数時間後、晩餐のあとに、第二王子は人目を避けて後宮に行った。
後宮では、王と王太子は蛇のように嫌われており、純情で奥手な第二王子は「かわいい」と大人気だった。
なので、密かに後宮を訪ねても、それを王や王太子に告げ口する者はなく、また彼を「女に興味のない弱々しいやつ」と決めつけている父と兄は、第二王子が後宮にいるなどとは想像もしなかった。
彼はランの牢獄のような殺風景な部屋に入った。
そして、意外すぎる話を聞き、頭が真っ白になった。
「何ということ……」
ここまできて、クーデター作戦の変更を余儀なくされたのだ。
レオ第二王子の頭が真っ白になったのは、
「婚約者のコーデリアとは婚約破棄する。そしてあなたを正式に妻として迎える。これは勅命であるし、コーデリアも身を引いて毒見役と交代する所存だ」
と、ジェイコブ王太子がランに語ったと聞いたからだ。
完全に虚を衝かれた。
せっかくランを王宮に入れ、毒見役という立場を活かして薬を入れさせようとしたのに、王太子妃になったらその機会が失われてしまう。
毒見役は、王と王太子とそれぞれの配偶者(または婚約者)の飲食物に毒物が混入していないかチェックするために、全員分の食事に近づける(ちなみにレオ第二王子は、農民の窮状を知って以来王室の美食を拒みつづけ、使用人と同じメニューを自室で摂るようになっていた)。
ところが王太子妃の立場になると、王や王妃からはかなり離れた位置に座ることになる。ランが王や王妃の食事に【睡眠薬】を入れるには、食卓を立って彼らに近づく必要があるが、いくらすばやさが常人の二百倍あっても、そこまで大きな動きをしたら気づかれる恐れがあった。
(まったく意外すぎる展開だ。どうしてこんなことになったのか……)
勅命、ということは、グレイス二世が息子の婚約者と毒見役の交代を命じたことになるが、そんなことをする理由やメリットがどこにあるのか?
どこにもない。あるとすれば、父がコーデリアさんを欲しくなり、愛人にするためにこんな奇策を編み出したということくらいだが、兄が素直に従っているのがおかしい。いくら王が独裁者でも、自分の後継者から婚約者を奪うなどという、確実に禍根を残す真似をするわけがなかった。
もっとおかしいのが、コーデリアさんが自ら身を引いたという点だ。これこそ理由がない。彼女は公爵令嬢だ。奴隷身分の毒見役になるくらいなら死を選ぶだろう。たとえ彼女が奴隷に同情的であっても、自分からそうなるとはどう考えてもあり得ない話である。
残るは兄の動機だが……
「王太子、キモかったなー。あれ完全に私に惚れてたよ。ダサッ!」
ランがオェーッ吐く真似をした。もしそれが本当なら、今日毒見役に決まったばかりのランに一目惚れした兄が、父にコーデリアさんとランを交換してくれるように頼み、父がそれを了承し、コーデリアさんに圧力をかけて毒見役になるよう命じたことになるが……
メチャクチャである。確かに父も兄もデタラメなところがあるが、これはいくら何でも行きすぎだ。クレージーすぎる。二人とも、あの心のきれいなコーデリアさんを何だと思っているのか。こんな残酷な仕打ちをできるなんて、彼女に対する情というものがないのか?
待てよ。と、レオ第二王子は思い直した。
(ひょっとすると、兄には最初から、コーデリアさんに対する情などなかったのではないか?)
仮に、この婚約全体が兄によるお芝居、偽装結婚ならぬ偽装婚約だったとする。コーデリアさんから送られた写真を見て一目惚れした、という出発点がそもそも嘘だったとしてみるのだ。
なぜそんな嘘をついたのか? それは、自分に寄ってきた美しいコーデリアさんを、父親に対して、毒見役との交換のカードに使いたかったからだ。
そう言えば……と、レオ第二王子は思い出した。
かつて兄はこう言ったことがある。「毒見役の美しさは別物だ。とてもこの世のものとは思えない。あれを独り占めして好きにしている父は羨ましい。お前もそう思わないか?」と。
そうだ。昔から兄は、決して手に入らない父の「所有物」に懸想し、嫉妬の炎を燃やしていたのだ。
その兄の懐に、期せずして美しい獲物が飛び込んできた。さっそく兄は父にその写真を見せる。陛下、どうです? 上物(じょうもの)でしょう? 私と婚約したがっている女ですが、陛下に差し上げます。その代わりに、この次毒見役となる女はぜひ私に……
あの兄なら、考えそうなことである。それに対して、父はどう反応しただろう?
「わかった。余のものにしよう。もしそれを嫌がったら、毒殺すればよい。毒見役として余の代わりに死ねば、その名は歴史に残るのだから、ただの王太子妃になるよりずっと名誉なことだ」
このくらいのことは言ったかもしれない。あの父ならば。
レオ第二王子は唇を噛み締めた。
(何と血も涙もない男どもだろう。待ってろよ、コーデリアさん。あいつらの毒牙からもうすぐ救い出すからな。そう、明日の朝には……)
自分の推理が当たっていると確信した第二王子は、ランに鋭い目を向けた。
「ラン、予定を変更するぞ。明日の朝食時に決行だ」
ランはすでに前任の毒見役からその役を引き継ぎ、今日の晩餐で初の毒見をしていた。
そして予定では、明日の朝食と昼食も実際に毒見をし、夕食時に【睡眠薬】を入れることになっていた。つまり今夜と合わせて都合三回、一種の「リハーサル」をする予定だったのである。
しかし今では、いつコーデリアさんと交代しろと告げられるかわからない。であれば、明日の朝食を本番にするしかなかった。
「私はいつでもいいよ」
ランはあくび混じりに答える。元々彼女は楽勝と思っていたのだ。
「交代はいつだろうな。これまで後宮に入った毒見役は、三日間は教育期間として女官からしきたりを指導される決まりだった。それを過ぎると父が夜這いにくるから、その前に決行すれば良いと思っていたが……王太子妃にする気なら後宮に置いておく意味はない。さすがに今夜はもう遅いからないだろうが、明日にはコーデリアさんと部屋を交換しろと言ってくるかもしれない」
「別に夜這いだろうと結婚だろうと」
ランは第二王子の前であぐらをかく。
「私はそいつらの百倍力があるんだから、来たらぶっとばすだけよ。何なら毒見役から降ろされて【睡眠薬】を使えなくなっても、食堂でみんなまとめてノックアウトするからいいよ」
「いや、万が一王宮内の衛兵に見られたらアウトだ。僕らは反逆者として軍に処刑されるだろう。決して暴力は使わず、王宮に仕える侍医(じい)に王と王太子は奇病の『眠り病』にかかったと診断させてこそ、軍関係者を黙らせることができるんだ」
そうかなー、私なら暴力の証拠を残さずに制圧できるけどなー、とランは自信を覗かせたが、第二王子はそれは最終手段だと言って認めなかった。
そのとき、ランの部屋がノックされた。
第二王子の心臓が跳ね上がった。
(しまった。兄がもうランを連れ出しに来たか?)
第二王子は急いで部屋の隅に敷かれた布団に潜り込んだ。
見つかったらやるしかない。ランの力で兄を制圧し、間髪入れずに父と母も制圧する。そして気絶した三人の喉に【睡眠薬】を流し込む。衛兵に見つかる危険はあっても、緊急事態になれば一瞬たりとも躊躇すべきではなかった。
がーー
「ラン、お客様よ」
それは女官のエリナの声だった。
(お客様? 兄ではないのか? ではこんな時間に誰だ?)
布団の中で息を潜めている第二王子の耳に、ドアを開ける音と、エリナの秘密めかした声が聴こえてきた。
「奥さんをお連れしたわ。どうか約束どおり救けてあげてね」
場面はコーデリア・ブラウンの部屋に戻る。
婚約四日目の午後、女官のエリナに、
「旦那さんがランに奥さんと婚約破棄して、お前を娶るって言ったんだよ」
と教えられ、
「第二王子に鞍替えしたら?」
と唆(そそのか)され、
「ランは後宮一の美貌の、毒見役の十四歳の少女ですよ」
と余計な知識を吹き込まれて、
(きっと毒見役のランは、その解毒の術の秘法によって、全身を毒に冒されているだろう。ひょっとすると身体全体が毒になっているかもしれない。そんな少女とキスでもしたら、たちまち相手の男は毒がまわって死ぬのではないか? いっそのこと王太子もそうなればいい)
美貌で負けたかもしれないという嫉妬に苦しんで、コーデリアがそんなことを願った場面の続きだ。
「奥さん」
エリナが言った。
「ランはいい子ですよ。会ったら、絶対に奥さんも好きになります」
絶対にそうならないと、コーデリアは確信を持って言えた。
「私、勘は鋭いんです。あの子は信用できる。どうか奥さんも信じて下さい」
その「奥さん」の地位は、その小娘のものになるかもしれないのだ。信じるもへったくれもなかった。
「ランから言付けがあります。きっと近いうちに、『お前を毒見役と交代する』って旦那さんに言われるよって」
もしコーデリアがペンを持っていたら、怒りで真っ二つにへし折っていただろう。
(どういうつもり? もう自分が婚約者になった気分でいるの?)
まるで目の前に毒見役の少女がいるかのように、両の瞳に炎をたぎらせた。
「それで、もしそう言われたら、『では毒見役の心得を教わってきます』と旦那さんに言って、私を訪ねてくるようにって。そうしたら、奥さんを救けてあげられるからって」
「救けるですって?」
コーデリアの喉から出たのは、その美貌に似つかわしくないヒステリックな金切り声だった。
「私は奴隷に救けてもらう身分じゃない! もしそんなことになったら、舌を噛み切って死んでやる!」
あまりの剣幕に硬直して黙り込んだエリナに、
「出てけっ! お前は奴隷と仲良くしていろっ!」
怒号を発し、部屋から追い出した。
コーデリアは一人になった。
彼女のことを好いてくれ、自分も味方にしたいと思っていたエリナに、恐怖で顔が歪むほどの暴言を浴びせてしまった。
ベッドに倒れ込み、枕に顔をうずめる。
(お父さん、お母さん、救けて……)
その心の悲鳴が、遠い実家に届くはずもなかった。
いくら名門ブラウン家であっても、王室に文句をつけることは許されない。
仮に愛する娘が毒見役にされ、奴隷と同じ扱いを受けても、それが王、あるいは王太子の方針であれば、意義を申し立てることなど不可能なのだ。
文句、意義は、死を意味する。しかも下手をすれば、国家反逆罪に問われ、一族すべてが虐殺されかねなかった。
(逃げられない。衛兵に見つからずに王宮から逃げるのも無理だし、もし奇跡的に逃げられたとしても、その罰としてブラウン家全員が処刑されてしまう。私に逃げ道はない。もちろん毒見役の小娘にも、私を救うことなどできやしないだろう。残された道は王太子様の愛を取り戻すだけ……王太子、様? 様? うっ!)
心の中でさえ、ジェイコブ王太子に「様」をつけると拒絶反応が起こり、胃液が逆流しそうになった。
(救けて……)
このとき、枕に押しつけていた彼女のまぶたの裏には、レオ第二王子の顔が浮かんでいた。
王室で、唯一尊敬できる人物の顔が。
『第二王子に鞍替えしたら?』
エリナの声が頭に響く。
(あの方に打ち明けたら、何とかしてくれないだろうか?)
それははかない希望だった。
第二王子の立場で何ができるだろう。
シェナ王国の王室は長子相続だ。長男がすべてを得て、次男以下にはいかなる権力も渡らない。
第二王子が意見したところで、王太子に聞く気がなければどうにもならないのだ。
(レオ第二王子様に泣きつこうだなんて、虫のいいことを考えちゃだめ。殿下は私なんかが近づけない崇高な方。農民の窮状に心を痛めるような、王侯貴族には珍しい心の美しい方ですもの……)
それに引き換え自分は、奴隷と仲良くしてろなんて怒鳴ったりしてーーとコーデリアは、自己嫌悪に苦しんで枕を濡らした。
やがて夕刻になり、エリナがしょげた顔で晩餐の時間ですと告げに来た。
「気分がすぐれないから行かないわ。みんなにそう言って謝っておいて」
気分がすぐれないのは事実だったが、食堂に行きたくないいちばんの理由は、新しい毒見役になったランの顔を見たくないからであった。
「……はい」
エリナはドアを閉めようとした。すると、
「待って」
コーデリアが呼び止めた。
「さっきはごめんなさい。悪かったわ。まだ十四歳のあなたに、大人げなく怒鳴ったりして」
「いえ……」
エリナは首を振った。
主人はコーデリアである。自分が怒鳴られることは少しも気にならない。
しかし、ランを誤解させたことは気が重かった。
ランの正体は、反体制派の女スパイ。本当は毒見の一族ではないし、エリナの女主人から王太子妃の座を奪おうなどとは夢にも思っていない。
しかもそのボスはレオ第二王子。すなわち反体制派のリーダーは、第二王子なのだ。
その事実は、口が裂けても言うことができない。が、言えないことによって、コーデリアにランのことを信用させられないという、もどかしいジレンマに陥ってしまった。
(奥さんには、ランを頼ってほしい。それしか奥さんの救かる道はない。でもその根拠は言えない……ああ、もどかしいっ!)
エリナがしおれていると、コーデリアは近づいて肩に手を置いた。
「ランには申し訳なく思っているわ。毒見役も立派な仕事なのに、奴隷なんて罵ったりして。だからさっき言ったことは忘れてね」
エリナの目に熱いものが込み上げた。なんて優しい奥さん……どうか奥さんが、救かりますように!
目をそっと拭って帰るエリナ。
再びベッドに横になるコーデリア。
その二時間後、いきなり部屋のドアが開いた。
「朝まで寝てる気か?」
ジェイコブ王太子だった。
「そろそろ起きろ。俺は退屈なんだ。撞球でもしよう」
そう言った王太子の目は、まるで底なし沼を覗くように真っ暗だった。
ジェイコブ王太子は、毒物の研究をした。
コーデリア・ブラウンを毒殺するためである。
それはあの日ーー私をお妃に選んでほしいという、虫唾の走る図々しい手紙を受け取った日に、決定したことだった。
(どうせなら、いちばん苦しむと言われている毒にしよう。フグの毒だ)
さまざまな本を調べた結果、王太子はそう決めた。本にはこう書いてあったのである。
・フグ中毒に特効薬はない
・致死率が極めて高い。
・フグ毒は無味、無色、無臭。しかしその強さは青酸カリの一千倍以上。
・煮ても焼いても冷凍しても毒性は失われない。
・食後二十分から三時間で身体がしびれはじめ、手足が動かなくなり、頭痛、腹痛、嘔吐、言語障害が起こり、やがて運動麻痺から倒れて呼吸困難となり、四時間から六時間で死亡する。
「いいぞ、いいぞ」
ジェイコブ王太子はゾクゾクした。
あのよくしゃべるコーデリアが言語障害になり、頭痛や腹痛に喘ぎ、ぶっ倒れて呼吸困難になり、苦しみ抜いて死んでいくさまを思う存分眺めることができるのだ!
(最高だ。これは絶対に成功させたい。父と母の堪能する様子が、今から目に浮かぶようだ)
王太子は自ら厨房に足を運んだ。料理人たちはぎょっとした。王家の者が厨房に顔を出すなど、かつてなかったことだからだ。
慌てて料理長が飛んできた。
「殿下、何か粗相がありましたでしょうか?」
今年で五十歳になる料理長は蒼褪めていた。
彼は勤続三十年のベテランで、料理の腕もさることながら、王室を心から崇敬する点で、常に料理人たちの模範でありつづけてきた人物だった。
「そうではない。ちょっと相談がある」
料理長は蒼褪めたまま、厨房の扉をぴたりと閉め、王太子と二人きりで廊下に立った。
「料理長」
王太子の目は、真っ暗な二つの穴のようだった。
「お前、フグ料理はできるか?」
返事をためらう料理長。なぜ王太子殿下は、そのような質問をなさるのか?
暗い瞳に魂が吸い込まれそうな怖れを感じながら、料理長は答えた。
「……はい。できます」
「そうか。フグの毒がある部位をよく知っているのだな?」
「それは、はい、知っています」
「どのくらいの量で人が死ぬかも知っているか?」
料理長は、言葉に詰まった。
「えー、それは、ごく少量で死ぬこともありますし、そうでないこともありますが、私どもとしたら、ほんのわずかな量でも死ぬと考えてーー」
「では大量に食べたら必ず死ぬな?」
料理長の額に嫌な汗が浮いてきた。いったい殿下は、何をおっしゃりたいのだろう……
「はっきり言おう」
王太子は、極めて無表情に、淡々と言った。
「食べたら必ず死ぬとお前が思う量の、その十倍以上のフグ毒を、俺が頼んだときに、料理に入れてもらいたいのだ」
料理長は後ろに倒れそうになった。もう少しで、気を失いかけたのである。
「返事はすぐしろ。やるのかやらないのか?」
「いたし……ます」
何も考えずに出た言葉だった。貧血状態で、頭が正常に働いてくれない。
(フグ毒を料理に入れる……必ず死ぬ量……その十倍……つまりこれは……殺人指令なのか?)
「安心しろ。これは謀反ではない。それとも俺が父の殺害を依頼したとでも思ったか? え?」
ジェイコブ王太子は、まるで上手いジョークでも言ったかのように笑った。料理長を悪寒が襲う。
「できると言ったんだから、やるしかないぞ。お前の王家に対する忠誠はよく知っている。だから頼むのだ。わかったな?」
料理長は震えながら頷いた。
これがほかのことであれば、王太子殿下直々の頼み事を躊躇する理由はない。むしろ両手を挙げて、ぜひ私めにさせて下さいと、涙を流してありがたく承ったはずだ。
(でもさすがに殺人は……軍人でもない私に、人が殺せるか? 無理だ。できない。やりたくない。もし断わったら、私は死刑だろう。それだけならいいが、家にいる妻も、二人の娘も、きっと反逆罪で処刑されるに違いない。嗚呼……私はどうしたらよいのだ?)
「どうした。さっきから蒼い顔をして。人を殺すのが怖いか?」
怖い、などと言うものではない。人が痛がったり、血を流したりするのをチラッと見るだけでも嫌なのだ。
自分は料理人だーーと料理長は思う。
人が美味しい料理を食べ、嬉しそうな顔をするのを見るのが生きがいだ。その自分が、料理で人を殺す? 冗談じゃない。三十年間も料理人として御奉公してきて、そのようなことのできる人間に見られていたとは、何と情けないことか……
料理長は泣いた。情けなかった。自分が心から崇敬していた王太子殿下は、こんなお方だったのか? 料理長に毒入り料理を作れと命令なさるとは。そんなことは、軍人か暗殺者に頼んでくれ!
「おいおい、泣くなよ。男だろ? なに、殺すのはたった一人だ。しかも王家の者ではない。俺の婚約者さ。どうだ、これで気が楽になったか?」
料理長の背中を電流が走る。
まさかーーコーデリア様!?
正式な発表はまだだったが、ほぼ婚約者に内定している彼女は、何度も王宮に招かれて食事をした。その都度配膳をしたのが料理長であり、近くでコーデリアの美貌を一目見たときから、すっかり彼女のファンになっていたのだ。
(美しい王太子妃の誕生に、きっとコーデリア妃フィーバーが起こるぞと、妻や娘にも話したあの名門ブラウン家のお嬢様をーー私が毒殺する?)
気がつくと、厨房の扉に寄りかかっていた。一瞬気絶したのだ。が、ジェイコブ王太子は、料理長の激しい葛藤など意に介したふうもなく、
「婚約発表したら、数日以内にやる予定だ。しっかり準備しておいてくれ。もしあいつが死ななかったら、お前が命令に背いたものとみなす。いいな、反逆罪は重罪中の重罪だぞ」
場面は戻る。
ジェイコブ王太子に誘われたコーデリアは、亡霊のような足取りで、二階の自室から一階の撞球室へ。
言われるまま、機械的にナインボールをする。その二ゲーム目の途中、
「ランという毒見役の女がいる」
キューを握って撞球台に身を乗り出した王太子が、自ら切り出した。
「……はい?」
彼女は知らない顔をして聞き返した。しかし心臓は、激しく鳴っていた。
王太子が冷たい目を彼女に向ける。
「珍しく、まだ父が手をつけていなかった。ほんの数日前に選ばれたばかりだからだ」
ここで王太子は、奇妙な嘘をついた。
ランが選ばれたのはこの日の昼であって、数日前などではない。
このサディストの王太子は、自分が十四歳の少女に一目惚れしたことに動揺していた。
それを認めるのが恥ずかしいーーという気持ちがあったため、ランは数日前から後宮にいたが、たまたま王がまだ夜這いに来ていないことを知ったため、興味を持った。というストーリーを作ったのである。
どうでもよい自意識であった。
ランが今日選ばれたことは、コーデリアはエリナから聞いて知っていた。事実、今日の昼までは、前任者が毒見役を務め、その場にコーデリアもいたのである。見え透いた嘘を平気でつく。それもまた、王太子の特徴であった。
王太子は続けた。
「俺は前から願っていた。父が手をつけていない毒見役の女を自分のものにしたいと。その最大のチャンスが訪れた。あれを正式に俺の妻にしたら、もはや父も手は出せまい」
「ちょ、ちょっと、待って下さい、殿下……」
鼓動が速くなりすぎて、切れ切れにしか声を出せなかった。
「どういうことでしょう。私はーー」
「婚約破棄だ」
王太子の目がギラついた。
「俺は独裁国家の王太子だ。文句は言わせない。何ならお前は突然死したことにしてもいいんだぞ」
「教えて下さい、理由を!」
「飽きた。お前の濃い顔に。もうゲップが出たよ」
この瞬間、コーデリアの中で何かが切れた。
(私の濃い顔に……ゲップ?)
クソ野郎め。
人を馬鹿にしやがって。
王太子妃の座? フン。そんなものクソ食らえだ。
あんたみたいなクズ野郎には、いつか絶対復讐して、ざまぁ見ろって言ってやっからな!
と、心の中で吠えたものの、
「どうか命だけは」
口ではそう懇願するしかない立場だった。
王太子は唇だけで笑った。
「命だけはか。さあて、こういう場合父ならどうするか。自分に恨みを持つ者を、果たして呑気に生かしておくような甘い真似をするかな?」
「恨みません! どうぞ私に落ち度があったとして、婚約破棄なさって下さい! 家に帰って一生おとなしくしていますから!」
「お前が一生約束を守ると、どうしてわかる? やはり殺してしまったほうが気苦労がない」
「お願いです! お願いです!」
コーデリアは土下座をした。王太子は非情にも、彼女の頭をキューで突いた。
「やめろ。お前の運命は決まったんだ。決まってないのは死に方だけだ。ピストル、ナイフ、ロープ、どれがいい?」
返事をせず、ひたすら床に額をこすりつけるコーデリア。
すると王太子は突然、
「そうだ。毒見役の女を妻にするんだから、お前が毒見役になればいい!」
と、まるでたった今思いついたかのように叫んだ。
「そうだそうだ。これぞナイスアイディア。まさに万事が丸く収まる」
芝居である。見え透いた嘘に、次から次へと嘘を重ねる。
「毒見役といっても、暗殺計画がなければ何の危険もない。俺たちと同じ物を食える特別な身分だ。たいてい数年で交代するが、父に気に入られたら、二十年くらい愛人でいられるかもしれないぞ。よし、そうしろ。これは命令だ。父には俺から話しておく。ただし、あくまでもお前が志願したことにするんだ。不満ならいつでも殺すからな」
毒見役の少女の予言どおりになった。
近いうちに、「お前を毒見役と交代する」と王太子に告げられるだろうと。
無念だが、拒否する選択はなかった。
この提案を呑むしかない。
でなければ、ブラウン家一族全員が殺される。
そして、コーデリアにはわかっていた。
このクソったれの王太子は、毒見役をする一度目の機会で、必ずや彼女を毒殺しようとすることを……
「そうと決まれば早いほうがいい。明日の朝食から、お前が毒見をしろ」
むちゃくちゃな話である。
だが現実だ。
うら若きコーデリアの命は、翌日の朝食までと決まった。
(こいつはきっと、できるだけ苦しんで死ぬ毒物を選ぶだろう。そういう男だ。だったらいっそのこと、この場で舌を噛み切って死んだほうがマシ……)
本気で死にたい、と彼女は思った。
しかし、そう思った次の瞬間、
(何で私が、こんなクソ野郎のために死ななきゃならないの?)
馬鹿らしいにもほどがある、という思いが突き上げてきた。
(ランのところに行こう。私を救けると言ったんだ。残された道はそれしかない)
コーデリアは、女官のエリナから教えられたとおりに言った。
「承知いたしました、殿下。それでは毒見役の心得を、ランさんから習っておきます」
それを聞いたとき、王太子はこう思った。
(どうやら観念したな。でもお前が毒見をするのはたった一回だ。それで死ね)
彼女がフグ毒で苦しみ抜いて死ぬ場面を想像して、込み上げる笑いを噛み殺しながら、「好きにしろ」とサディストの王太子は言った。
コーデリアは一礼すると、撞球室を出て後宮に向かった。
入口のところで声をかけ、エリナを呼んでもらい、ランにあてがわれた部屋に案内させた。
このときエリナの心では、快哉の叫びが上がった。
(やった! 奥さんがランを信用してくれた!)
エリナはドアをノックすると、弾んだ声で言った。
「ラン、お客様よ。奥さんをお連れしたわ。どうか約束どおり救けてあげてね」
毒見役のランは、狭くて、灯りの薄暗い部屋にいた。
その少女を一目見た瞬間、
(あ、負けた)
と、コーデリアは思った。
(この子はちっとも派手じゃない。それなのに、輝いている……)
髪の毛は、コーデリアがブラウンで腰の下まである超ロングなのに対し、黒くて清潔感のあるショート。
顔の造りは、コーデリアが眉も目も鼻も唇も濃いのに対し、いずれも小ぶりで上品。
毒見の一族から連想されるような、毒々しさや禍々しさはどこにもない。
むしろ健康的な感じすら受ける、まぶしいような「美」がそこにあった。
コーデリアは知る由(よし)もなかったが、ランのまぶしさは天使からもらった「転生特典」である。だから普通の人間(ランから見れば異世界人)である彼女が、敵わないのは当然であった。
しかしコーデリアは、そのまぶしさに心を打たれた。完敗だ。生まれて初めて美しさで負けた。これなら婚約者を奪(と)られても仕方がない。奴隷身分だろうとまだ十四歳だろうと、この子のほうが私より美しいのだもの……
この瞬間、彼女から高慢さが消えた。
彼女は謙虚になった。
公爵令嬢コーデリア・ブラウンは、ほとんど生まれ変わったと言っても過言ではなかった。
「ランさん」
声の調子にも、謙虚さが溢れた。
「あなたの予言どおり、私は婚約破棄されました。ジェイコブ王太子殿下は、あなたと婚約する代わりに、私に毒見役となるように申し付けられました」
ランの黒い瞳が、ほんの少し大きくなった。
ランもまた、心を打たれていたのである。
(貴族令嬢に生まれながら、奴隷の毒見役に敬語を使うなんて……この美貌のお嬢様は、レオ第二王子と同じきれいな心を持っている)
見つめ合う美しい二人。
やがてコーデリアが言った。
「王太子殿下は、明日の朝から毒見をしろと申しました。そこでエリナから聞いていたとおり、『それでは毒見役の心得をランさんから習っておきます』と答えて、こちらに参りました」
ランが驚きの声を上げた。
「え、明日の朝からですか?」
「そうです。その朝食できっと私を毒殺するつもりです。早く厄介払いしたいでしょうから」
これもまたコーデリアは知る由もなかったが、部屋の隅に敷かれた布団の中では、レオ第二王子が歯を食いしばって拳を握り締めていた。クーデター計画の肝心要の部分が、崩れてしまったからである。
「ですからランさん、もはや私には、あなたに救けていただく以外に道がないのです。どうか解毒の術を教えて下さい。できる自信はないですが、たとえわずかでも、生き延びる可能性に懸けたいのです」
ランが私を救けると言ったのはそういう意味だろうーーとコーデリアは解釈し、お願いしますと頭を下げた。
ランは考え込んだ。
なるほど、そうなったか。明日の朝食で、王たちの食事に【睡眠薬】を入れるという計画はこれで崩れた。となると、やっぱり常人の百倍の力と二百倍のすばやさに物を言わせて、強硬手段に出るしかないか。
「えーと、待って下さい。解毒の術ですね?」
と言いながら、腰に手をやり、少女らしい動物の飾りがついたポーチを開けた。
このポーチもまた「転生特典」として与えられたものである。その中からは、転生前の世界に存在する薬を自由に取り出すことができたが、それらの薬はこちらの世界で絶大な力を発揮するので、いわゆるチートアイテムになるのであった。
ランはポーチから摘み出した物を渡した。
「これを食前に服(の)んで下さい。【胃薬】です」
「……胃薬?」
向こうの世界の【胃薬】を使うと、こちらの世界の人間の胃袋からは、大量の粘液が分泌される。
その粘液は、胃に達した毒物を包み込み、無毒化してしまう。ちょうど黒魔法の【ポイズン】をかけられても、【完全毒防御】の効果を持つ防具をつけていればダメージを受けないのと同じように。
ちなみにランのような転生者は、こちらの世界の青酸カリやフグ毒を摂取しても、何も起きない。
たとえば、殺虫剤は虫にとっては致死的な毒だが、人間の体内に入っても、分解酵素によって速やかに分解されて体外に排泄される。つまりこちらの世界には、向こうの人間にとって殺虫剤レベルの毒しか存在しないのだ。
そんな事情などいっさい知らないコーデリアは、受け取った数錠の【胃薬】を不思議な気持ちで見つめた。
「あの、これと解毒の術とは、どんな関係がーー」
「ごめんなさい。私は、解毒の術など知らないのです。ただの転生者ですから」
と、ランはあっさり素性をバラして、いかにも申し訳なさそうに首をすくめた。
「……ただの、転生者?」
「はい。こちらの世界に存在する毒は、私のいた世界と比べるとどうってことありませんし、こちらの世界の人も、向こうの【胃薬】を使えばほぼ解毒できます。間違っても死ぬことはありません」
「あなたの、いた、世界?」
無理もないが、コーデリアは口をあんぐり開けてしまった。
「はい。向こうの世界でトラックのタイヤに跳ね飛ばされて死んだ私は、天使にお願いして、こちらでの職業を毒見役にしてもらいました。そうすれば、何の危険もなく、王や貴族の食事を毎日食べられるからです。しかも、ご飯の支度も後片付けもしなくていいし、掃除も洗濯も買い物もしなくていいし、食事以外は部屋で寝ていればいい。最高じゃないですか?」
まったく話についていけないコーデリア。
ランは続ける。
「だから、私は結婚して、王太子妃になんかならなくてもいいんです。あ、それと、毒見役だからって、雇い主と寝るなんて誤解しないで下さいね。ほかの人は知りませんけど、もしそうされそうになったら、私はぶん殴って出て行きますから。だってこっちの世界の男性は、私の百分の一の力しかないですもん」
カラカラと笑った美しい顔に、話は理解できなくても、コーデリアは引き込まれた。
(この少女は、信じられる)
彼女は思わず床に膝をつき、ランの手を両手で握った。
「ランさん。あなたに逃げる力があるのなら、そうなさい。王太子はいい人ではありません。そしてそういう王太子を許している王も王妃もーー」
「知っています。この国が腐っていることは、転生してすぐにわかりました」
毒見役の少女は、コーデリアの手を優しく握り返した。
「コーデリア様が、それに気づいてくれて良かったです。コーデリア様はとってもきれいなので、この国と一緒に滅びてほしくないと思っていました」
ランの言うことに、コーデリアは次から次へと驚かされた。
「……シェナ王国は、滅びるんですか?」
「腐った建物は潰れます。理の当然です」
気がつくと、コーデリアはランに抱きすくめられていた。
突然聞かされた国の未来にショックを受け、泣きだしたからだ。
レオ第二王子は、呼吸が苦しくなっていた。
掛け布団と顔が密着していたからである。
(苦しい……横を向いて息をしたい。でも下手に動くと、この部屋に隠れていることがバレてしまう。もしそうなったら、僕は自分の立場を説明するしかないが、この危険なクーデター計画に、コーデリアさんを巻き込みたくはない……)
次第に酸欠状態になり、頭がぼうっとしてきた第二王子の耳に、恋するコーデリア・ブラウンのすすり泣く声と、それを慰めるランの声が聞こえた。
「国が滅びるのは、悲しいですか?」
「……よくわからない。でも、私はこの国に生まれて、家族も友達もいるから」
コーデリアは敬語をやめていた。自然にランとの距離が縮まっている。
「大丈夫。滅びるのは腐った部分だけ。腐ってない人が、また建て直してくれます」
「そんな未来のことまで、転生者には見えるの?」
コーデリアが涙を拭いてそう訊いたときだった。
レオ第二王子の呼吸が限界に達した。
(もうだめだ。ここから出て、コーデリアさんにすべてを打ち明けよう。兄にこれほどひどい目に遭わされながら、この国が滅びると聞いて、涙を流してくれた彼女に)
ランの部屋の隅に敷かれていた布団が、むくっと持ち上がった。
悲鳴を上げかけるコーデリア。その口を、ランがすばやく押さえる。
「安心して。この国を救う人よ」
掛け布団が中からめくられる。
そこから姿を現したのは……
「まあ!」
あまりの衝撃に、コーデリアの時間が止まった。
(レオ第二王子様!? いつから? どうして? なぜ殿下が後宮に?)
第二王子は、照れたように頭を掻いた。
「驚かせるつもりはありませんでした。お詫び申し上げます、コーデリアお義姉(ねえ)様」
彼女のことをお義姉様などと呼んだことは、かつて一度もない。なのにとっさにそう呼んだのは、この場面に決まりの悪さを感じて、おどけてみせたのだった。
(仮にも一国の王子が、女性の部屋の布団に隠れていたとはみっともない。しかもそれを、いちばん見られたくない人に見られてしまった……ああ、何だかドキドキしてきた。何をしゃべればいいのかも、どんな顔をすればいいのかもわからない)
第二王子はモジモジした。そしてコーデリアも、同じくモジモジした。
(レオ第二王子様に聞かれてマズいようなことを、私は言わなかったろうか? ジェイコブ王太子のことをあのクソ野郎とか? ああ、全然思い出せない。でもお邪魔だったのは間違いないわ。殿下も、この美しい少女に惹かれたのね。私、ランにダブルで男性を奪(と)られちゃった)
コーデリアは沈んだ顔をした。しかし元々、レオ第二王子様と自分とでは釣り合わないと思っていたのだ。悲しいけれど、ランに負けたのならしょうがない。転生者とは初めから勝負にならないのだ。
とはいっても、コーデリアも十八歳の乙女である。どんなに負けたと自分に言い聞かせても、それで恋の炎が消えるわけではなかった。
お互いに、まるでお見合いの席での初対面のように相手をチラチラ見ていると、
(王子もコーデリア様もダサすぎるよ。好きなら好きって言っちゃえ!)
ランはそう言ってやりたくてウズウズした。
やがてコーデリアが、ゴクリと喉を鳴らして言った。
「ど、どうして殿下が?」
レオ第二王子は、いかにもリラックスしているふうを装い、よいしょと言って布団の上にあぐらをかいた。
「フフフ。僕には女嫌いという評判がありましてね。それが煙幕になって、後宮が格好の隠れ場所になったというわけですよ」
第二王子は、二十一歳という年齢にふさわしい若々しい笑い声を立てた。
「まあ、それは冗談として、この国を救うには、父と兄を斃(たお)すしかない。ということは、明白な事実です。そのための行動を、ずっとしてきました」
そんな恐ろしい話を、レオ第二王子はサラッと言う。
「僕を支持してくれる人はたくさんいます。あとは本当に、父と兄を斃すだけ。しかしそれを実行に移すには、特別な力がいる。そこで僕がやったのが、転生者捜しです」
さっきは口をあんぐりしたコーデリアが、今度は目をまん丸くする。
「転生者の力を借りれば、このクーデターは成功する。その信念を胸に、捜し続け、そして見つけました。もうおわかりでしょうが、それが彼女です」
ランはまた申し訳なさそうに、首をすくめた。
「彼女を新しい毒見役として、父に選ばせるのは簡単でした。父の好みの髪型や服装を知っていますからね。まあ、兄まで夢中になるとは予想しませんでしたけど。で、彼女が向こうの世界から取り出せる【睡眠薬】に、大変な力があることを、僕は仙女を名乗る女性から教えてもらっていたのです。明日の毒見の機会に、それを父と兄に服ませる手はずでした。が、事情が変わりました」
第二王子はランのほうを見た。
「さて、どうしよう。暴力は使わずに、薬を服ませたいが」
「強硬手段はだめ?」
「何度も言ったように、だめだ」
ランは腕を組んだ。
「じゃあさ、料理人たちを仲間にして、睡眠薬を料理に入れてもらうのはどう?」
すると第二王子は即座に首を振った。
「それは話にならない。彼らは王家に忠誠を誓っている。特に料理長は、コチコチの勤王家だ」
第二王子は知らなかったが、この時点ではすでに、料理長の忠誠は揺らいでいた。ジェイコブ王太子が最低のクソ野郎だと、勤続三十年目にしてようやく知ったから。
「じゃあこうしたらどう?」
ランがまっすぐにコーデリアを見た。
「コーデリア様は、もう王太子を愛してはいないわよね?」
「大嫌いだわ!」
コーデリアは反射的に叫んでいた。
「では、王太子に復讐したいと思ってる?」
「……それは、まあ」
「そしたらさ、コーデリア様が、毒見のときに【睡眠薬】を入れたら?」
コーデリアは固まった。
「えっ? 私が?」
「大丈夫。さっき夕食のときにシミュレーションしたけど、手のひらに隠した薬を料理に入れるのは超簡単。これなら誰でもできるなって思ったから」
「確かに」
と、レオ第二王子も頷いた。
「配膳された料理から、一口分を取り分けるのは毒見役だ。特にサラダを取るときは、そっと錠剤を落とすことはそう難しくない。この錠剤は水によく溶けるので、野菜の水気やドレッシングで充分溶ける。そして父も母も兄も、サラダは必ず残さず食べる。よし、義姉(ねえ)さんにやってもらおう!」
コーデリアに復讐させる、というランの思い付きを、第二王子はすっかり気に入ってしまい、蒼くなった恋する人を「あなたなら絶対できる」と笑顔で励ました。
エリナを連れて、深夜に自分の部屋に帰ったあと、コーデリアはしばらく茫然自失していた。
ランの部屋での、レオ第二王子との会話が頭の中をぐるぐると回る。
「もしかして、私が、陛下と殿下を暗殺するのですか?」
向こうの世界の薬には大変な力があると聞かされたコーデリアが、血の気の引く思いで訊くと、
「いいえ。まさか女性に、そんなことはさせませんよ」
レオ第二王子は、ランから受け取った【睡眠薬】を、コーデリアの手に握らせて言った。
「【胃薬】と間違えないで下さいね。こっちが【睡眠薬】。このほんの小さな錠剤一つをこちらの世界の人間が服むと、百年間は眠ります。ちょうど白魔法の【スリープ】をかけられたときのように、生命は維持したまま細胞の活動が超スローになるのです」
転生者の老婆から聞いた知識の受け売りを、恋する人に得意げに話す。
「細胞の活動が超低速になると、呼吸だけで生命を維持する【ブレサリー】という状態になります。実際、ヨガの達人の中には、過酷な訓練によって【ブレサリー】の術を身につけて、七十年間も呼吸だけで生きた人がいるそうです。まあ、それはともかく、百年後に再び父と兄が目覚めたときには、シェナ王国は独裁国家ではなくなっているでしょう。それは僕が保証します」
そんな大事な役を私などに、とコーデリアが固辞しても、
「いいえ、僕は決めました。あなたが明日の毒見役になったことに、僕は運命というか、何か大きな天の意志のようなものを感じるのです。僕のクーデター計画、ランの転生、兄の毒見役への執着、あなたの手紙などすべてが、明日の朝食という一点に集約されたことーーそう。あなたこそ、邪悪な王と王太子を百年眠らせるべく選ばれた女性です。大丈夫、僕を信じて下さい。決して危険な目には遭わせません。何が起きても、必ずあなたを護ります!」
そのあと何を話したかは憶えていない。
ぼんやりと時計の針を見る。午前零時十分。
「エリナ」
今夜は眠れそうもない、と思ったコーデリアは、女官の少女の手を握り、
「お願い。薬を入れる練習を手伝って」
するとエリナはにっこり笑い、
「はい、奥さん」
と言った。
コーデリアは嫌な顔をした。
「奥さんはやめて。婚約破棄されたんだから」
エリナはますます笑顔になる。この勘の鋭い女官は、コーデリアに対して、「未来の王様の奥さん」という意味で言ったのだ。
「奥さんは奥さんです。ねえ、奥さん。シェナ王国は、どんなふうに変わるでしょうね?」
エリナの楽天的な口調に、コーデリアはやや苛立った調子で、
「今はそれどころじゃないわ。明日のことで頭がいっぱい」
「第二王子様が僕を信じろっておっしゃったじゃないですか。悪いことを考える必要はないですよ」
「私は自分を信じられないの! あんなサディストを、いい人だと信じたくらいドジなんだから」
そして、レオ王子様の気持ちに気づかないくらいドジだわーーとエリナは、女主人を愛おしい思いで見つめた。
「奥さん、レオ王子様は、どんな改革をなさるでしょうか?」
コーデリアは苛立ちながらも、
「それはきっと、農民の税を軽くなさるでしょうね」
と答えた。エリナは手を叩いた。
「素晴らしいです! 農民たちは、涙を流して喜びますよ!」
エリナの目が潤んだ。それを見て、コーデリアの目頭も熱くなった。
「そうね。餓死の心配がなくなったら、飛び上がって喜ぶでしょうね」
言ったとたん、コーデリアの目から涙が溢れた。
エリナが涙声で言った。
「奥さん、優しいですね。農民のことを思って泣いて……」
「あなたも泣いてるじゃない……」
「もらい泣きですよ。それとも嬉し泣きかな……」
「どうして私たち、こんなに泣くんでしょう……」
深夜はおかしいテンションになるものだ。しかも今夜は特別。二人にとって、生涯でもっとも長い夜になった。
「……エリナ、そろそろ練習してもいい?」
「はい、奥さん」
エリナがテーブルに皿を用意した。
右手に【睡眠薬】の錠剤を隠し持つコーデリア。
その手をゆっくりと皿のほうにーー
「あっ!」
錠剤は、皿の遙か手前で落ちた。
「もう一度!」
今度は、手汗で錠剤が溶けかけて、手のひらに貼りついてしまった。
「もう一度!」
今度は震える手が皿に当たって皿をひっくり返し、錠剤も勢いよく宙を飛んだ。
「だめだ! 絶対に無理っ!」
コーデリアはテーブルに突っ伏して泣いた。悲しすぎる涙であった。
「誰でもできるだなんて大嘘よっ! 手汗はひどいし手はぶるぶる震えるし……私が死ぬほど不器用なのを殿下は知りもしないで勝手に決めたのよ。百パーセント確実に失敗するわ!」
「奥さん、信じて。奥さんは選ばれた人よ」
「無理無理無理無理無理無理!!」
パニックで呼吸困難になる。エリナもさすがにこれは無理だと考え直し、
「仕方ないですね。料理長にお願いしましょうか」
と提案した。
えっと驚いて、エリナをまじまじと見つめるコーデリア。
「料理長にお願い? だって、コチコチの勤王家なのでしょう?」
「つい最近までは」
エリナは、はっきりとした確信を持って言った。
「でももう、王家への崇敬の念はないですね。目を見ればわかります」
「それは、単なるあなたの勘でしょう?」
「勘ですよ」
エリナにとって、それこそが何よりの証拠なのであった。
「そして彼は、奥さんの大ファンです。だから奥さんが、料理にこれを入れてって【睡眠薬】を渡したらーー」
「いけないわ。殿下に黙ってそんなことをしたら」
コーデリアが首を振ると、
「じゃあ予定どおり、奥さんがします?」
エリナは非情に言い放った。
コーデリアはにっちもさっちもいかなくなった。
「……私、どうしたらいいかわからない。あなたはどう思う?」
「レオ王子様に相談しても、今さら作戦は変更しないと思います。だから私が料理長のところに行って、奥さんの命が懸かってるって言ってきます。そうしたら、絶対に協力しますよ」
「そこまで言うなら……任せるわ」
「任せて下さい」
エリナはコーデリアの部屋を出て、料理人たちが寝泊まりする地下へと降りていった。
そしてこれが、最悪の失敗であった。
(だめだ。今夜は眠れそうもない)
コーデリアと同じく、深夜に悶々としている人物がいた。
料理長である。
「いよいよ決行だ。明日の朝食で、全員分の肉料理にフグ毒を入れろ。どの皿にも致死量の十倍以上だぞ。いいな?」
洞穴のような目をしたジェイコブ王太子にそう告げられたのが、つい二時間前。眠っているところを起こされて、廊下に呼び出されての、爆弾投下だった。
(無理だ無理。絶対無理無理無理無理)
料理長は、ベッドに身を起こして嘆息した。そこは料理人用の大部屋で、同じ部屋に八人が寝起きしている。声を出せばほかの料理人を起こしてしまうので、料理長は無言でため息をつくばかりだった。
(フグの肝臓を大量に炒め、すり潰して水気を抜き、濃縮されたレバーペーストを作る。これをレアステーキにべったり塗り、上から赤ワインソースをたっぷりかける。はい、美味しい猛毒フィレステーキの出来上がり!)
料理長は声を出さずに泣いた。こんな料理を誰が作りたいものか。でもやらなければ、愛する妻と娘は虐殺されるのだ!
料理長の心は死んだ。
もうどうでもいい。
なるようになれ。
自分は王太子様から命令されたとおりにするだけだ。
フグのレバーペーストを食べて、あの美しいコーデリア様は死ぬかもしれない。でも、毒入り料理など作ったことはないから、単に食中毒になるだけで、命はとりとめるかもしれない。
コーデリア様が死ねば、自分は殺人者だ。潔くフグの肝臓を食って死のう。
もし死ななければ、手心を加えたと疑われ、反逆罪が確定する。そうなれば、家族みんなで手を取り合って死のう。
そこまで考えたとき、大部屋のドアが、そーっと音もなく開いた。
目を瞠(みは)る料理長。
口に指を当ててシーッとしながら入ってきたのは、女官のエリナだった!
「静かに、静かに」
まるでスパイのような忍び足で料理長のベッドのそばまで来ると、エリナは囁き声で言った。
「きっと起きてると思ったわ。王太子に、良からぬことを頼まれて悶々としてたんでしょう。どう、図星?」
料理長はガタガタ震え出した。
(コーデリア様に付いている女官に、秘密がバレている……嗚呼、いったい私はどうなってしまうのか!?)
「奥さんの大ファンだもんね。身を裂かれる思いだったんでしょ? わかるよ、その気持ち。今から救けてあげるから、黙ってついて来て」
エリナが料理長の寝巻きの袖をつかんで引いた。
料理長は、糸を引かれた操り人形のように立ち上がる。
ドアを閉め、忍び足で階段へ。
召使い部屋や厨房のある地下から、セレモニーホールや食堂のある一階へ。一階から、王の間や王室の人々のプライベートルームがある二階へ。
暗い二階の廊下を、コーデリアにあてがわれた部屋に向かってそろそろと進む。
そのときだった。
「こんな時間に誰だ! 何をしてる?」
鋭い誰何(すいか)の声。
料理長は気が遠くなった。
◆◆◆◆◆
ポーラ王妃は後宮の主(ぬし)であった。
シェナ王国の宮殿は、王宮と後宮が渡り廊下でつながっている。
王妃の部屋は王宮にもあったが、夜は後宮で過ごすことを好んだ。
なぜなら、ほぼ毎晩のように、自分の部屋で女官たちにレスリングをさせて、それを観るのを愉しみにしていたからだ。
「ほらもっと頑張りなさい。髪の毛を引っ張ればいいのよ。休んでないで。さあ、顔を思いっきり引っ掻きなさい!」
女たちが本気でケンカをし、仲の良かった者同士が険悪になったりすると、王妃はたまらなく喜んだ。平和よりも争いが好きなのである。
しかしその夜は、レスリング大会を開催しなかった。
翌朝の、コーデリアの毒殺が愉しみすぎて、ほかのことに気が乗らなかったのだ。
(早く見たいわあ。フグにあたって人が死ぬところを。青酸カリの一千倍も強いって、なんて素敵な毒なんでしょう。きっとものすごーく苦しむわ。ああ、早く見たい見たい見たい……)
ポーラ王妃はうっとりとした。
そして、お腹の奥が熱くなり、ジンジンと疼いていることに気づいた。
(だめだわ。こんなに興奮していたら、今夜は眠れそうもない)
彼女は立ち上がって部屋を出た。
女官も連れずに、一人で渡り廊下を歩く。
向かう先は夫ーーグレイス二世の寝室だ。
これはまことに異例であった。
王と王妃が身体の関係を持つ場合、必ず王のほうから後宮に忍ぶ。その逆はない。
が、近頃は後宮に来ても、お気に入りの女官か毒見役を抱くばかりで、王妃の部屋を訪れることはなかった。
(久々に、身体が男を求めている。これを我慢するなんて地獄。今夜だけは、前例を破らせてもらうわ)
階段で二階に上り、王の寝室へ。
その扉の前には、夜間に王を警護する任務を負っている、衛兵隊長のコールマンが陣取っていた。
(……む。何奴(なにやつ)?)
衛兵隊長は、近づいてくる人物のほうへ、左手に持ったランタンを掲げた。
(シルエットは女のようだが……あっ、あれは!)
ランタンの灯りで、暗い廊下を一人で歩いてくる女性が、ポーラ王妃であることを知った。
衛兵隊長は直ちにランタンを足元に置き、銃剣を身体の前で垂直に立てて、捧げ銃(つつ)の敬礼をした。
「コールマン、敬礼はいいわ」
ポーラ王妃の妖艶な笑みが、ランタンの黄色い光りに浮かび上がる。
「どうぞ妻が忍びに来たのを見逃してちょうだい。そこで聞き耳を立ててもいいのよ。いつも忠実に仕えてくれるあなたへの、これはほんのボーナス」