高校入学五日目の朝、僕は今日も覚えのあるアラーム音で目を覚ました。
布団をめくって足の方にたたみ、床に足をつけるとひんやりとした感触が足裏から伝わってくる。
家の場所がちょっとした山の中だからか、季節が春の始まりだからか、少しだけ空気と指の先が冷たい。
こういう時に冷え性の自分を恨んでしまう。
作者別にわけられた本棚はさまざまなジャンルの作品がずらりと並んでいる。
僕は地味で普通な自分の部屋をあとにして、一階の洗面所に向かった。
思わず鼻の付け根にしわがよるほど冷たい水をパシャリと顔にかけ、綺麗なタオルで優しく顔を包み込む。
一瞬、鏡に写る自分がぼやける。
シャッ——!
両手で端を持ち、力一杯その大きな窓にかかったカーテンを開いた。
瞬間、左側に広がる背の低い山並みに重なった太陽が空を赤と青でグラデーションしている。
一度二階に上がり、制服に着替えてまた一階に降りた。
リビングと同じ空間にあるキッチンの電気をつけて、壁にかかった深緑色のエプロンを首にかけ、腰の辺りで少しきつめに紐を結んだ。
この家では父さんと僕の二人暮らし。家事は全て僕が受け持っている。
フライパンに油を敷いて、朝食とお弁当のおかずを作っていると、ギシッと聞き慣れた音が背後でした。
ここまでがセットだ。
「おはようあおい。今日の朝食はなんだ?」
台所続きのリビングから声をかけてきた父さんは白髪の混じった頭をぽりぽりと掻いて、そう言った。
「昨日と同じだよ。それより早く顔洗ってきなよ」
「ああ、そうだな」
ダンダンと踵から床を踏む音を鳴らしながら、父さんはリビングを出て洗面所に向かっていった。
父さんはそこそこ大きい企業の営業部で働いている。
僕の家には母さんがいない。数年前、僕がちょうど小学校六年生の時に大きな交通事故に巻き込まれて亡くなったのだ。
母さんが生きていた頃の父さんは今よりもずっと明るくキリッとしていたが、今はその影もない。むしろかなりだらしない。
当時のことを思い出すと、今でも胸が締め付けられる。きっと僕もまだ母さんの死から立ち直れていないのだろう。
先にお弁当の用意を終え、父さんとできたてほやほやの朝食を食べる。
通学鞄の隅に弁当箱を入れて、中に入った教科書の上に今日読む予定の本を二冊のせた。
「いってきます」
「ん、いってらっしゃい」
父さんに挨拶をしてハンカチを右足のポケットに突っ込んで家を出る。
朝の雰囲気はどこか不思議で、その柔らかい朝日に包まれるとどんなものでも静謐で爽快に様変わりする。
さっき見た時より少しだけ太陽の位置があがっていた。
高校はここから三十分ほど自転車を漕いだ先のちょっとした山の中にある。
家の建つ山を一度おりて、川沿いの道を走って橋を渡り、山にのぼると市内じゃ一番、県内じゃ二番目に賢い僕の高校だ。
運動部に所属していたわけでもそのつもりもないが、この自転車通学のおかげか足の筋肉はなかなか鍛えられている、と思う。
ハンドルを握りスポーツバイクの小さいサドルに腰掛けると、少しだけ心が浮き立つ。
少し踏み出すと、ペダルをに軽く足をかけるだけで徐々にスピードが上がりだす。
チリ チリ チリチリチリリリ……
しばらくの間ポカポカで爽やかな風を身に受けながら坂を下っていくと大きな川と合流した。河川敷にはテニスコートが何面も広がっている。
緩やかに流れ、朝日に照らされ輝く水面を目の端に映しながら優しく走っていると、茶色い橋にさしかかった。
自動車用の大きな橋と歩行者用の人三人分ほどの細い橋とに別れたそれの歩道を前に僕は自転車を降りた。
すれ違う人のほとんどは自転車に乗っているが、人にぶつかると危ないので僕はいつも降りるようにしている。
目線の先には何人か見覚えのある紺色の制服を着た人がちらほらと映る。同じ高校の生徒だろう。
チリチリ コツッ チリチリ コツッ
強く柔らかい風に押されるようにして橋を歩いていると、橋の真ん中らぐらいに広がったちょっとしたスペースの柵に組んだ腕をのせた小さな背中が目に映る。
どこからかやってきたピンク色の花びらと一緒にその黒く柔らかそうな髪を踊らせていた。
「先輩……?」
確証はなかったがその綺麗で柔らかそうな短い黒髪から昨日公園のベンチで眠っていた名前のわからない先輩な気がして声をかけた。
その声で目を覚ましたのか、その人はゆっくりと顔を上げて、よりいっそう髪を踊らせて顔だけを振り返らせた。
「やあ、少年。また私を起こしてくれたね」
彼女は一瞬、驚いたように目を見開いたと思えばふわっとどこか寂しそうに泣きぼくろが笑った。
振り返った彼女の姿と後ろで重なった太陽がキラキラと輝いている。
それは、まるではじめからそこにいたかのように、どうしようもないくらい写真に収めたくなる、美しい眺めだった。
「君と会うなら放課後のあの公園かと思ったんだけど、そうでもなかったみたいだね」
名前のわからない先輩は聞き覚えのある凛とした澄んだ声を響かせて笑った。
「あの、先輩。名前、教えてください」
先輩の言葉に返事をすることなく、僕は気になっていたことを尋ねてしまった。
失礼だっただろうか……。
「日月瑞季。たちもりは日に月でみずきは瑞季の瑞に季節の季」
瑞季の瑞という説明に内心苦笑しながらも
怒らせてなかったことに心の中で安心ていた。
日月瑞季……厳かでいて爽やかなそんな不思議で魅力的な名前だ。
「日月先輩、でいいですか?」
「うーん、私的には後輩君には名前で読んでもらいたいな」
先輩はイタズラを思いついた子供のように笑った。
「じゃあ、瑞季先輩で」
「うんっ」
ニコッと嬉しそうに目を細めてはにかんだ先輩の笑顔に少しドキッとしてしまう。
「君の名前は?」
「僕、ですか?」
突然の質問に動揺してしまいうまく言葉を返せない。
「それ以外に誰がいるって言うの?」
瑞季先輩は後ろで手を組んでさぞおかしそうにクスクスと笑ってその髪を楽しそうに花開かせた。
「ああ、えと橘です。橘あおい、たちばなは立つに花じゃない方で、あおいはひらがなです」
失敗に少しだけ恥ずかしくなり、頬をぽりぽりと掻きながら僕は苦笑いを浮かべてそう答えた。
「立つに花でも立花《たちばな》っていうんだ、初めて知ったな。というか君も青系統かっ」
瑞季先輩は嬉しそうに不思議な言葉を言った。
「青系統ってなんですか?」
「え、ああ瑞季の瑞とあおい君のあおがなんとなく青っぽいなーって思ってさ」
「なる、ほど……?」
なんとなくわかるがなんとなくわからないその言葉に驚きを隠せない。
「ふふっ、よくわかんないか」
「ですね」
僕らはお互いコロコロと笑いながら春風に吹かれた。
布団をめくって足の方にたたみ、床に足をつけるとひんやりとした感触が足裏から伝わってくる。
家の場所がちょっとした山の中だからか、季節が春の始まりだからか、少しだけ空気と指の先が冷たい。
こういう時に冷え性の自分を恨んでしまう。
作者別にわけられた本棚はさまざまなジャンルの作品がずらりと並んでいる。
僕は地味で普通な自分の部屋をあとにして、一階の洗面所に向かった。
思わず鼻の付け根にしわがよるほど冷たい水をパシャリと顔にかけ、綺麗なタオルで優しく顔を包み込む。
一瞬、鏡に写る自分がぼやける。
シャッ——!
両手で端を持ち、力一杯その大きな窓にかかったカーテンを開いた。
瞬間、左側に広がる背の低い山並みに重なった太陽が空を赤と青でグラデーションしている。
一度二階に上がり、制服に着替えてまた一階に降りた。
リビングと同じ空間にあるキッチンの電気をつけて、壁にかかった深緑色のエプロンを首にかけ、腰の辺りで少しきつめに紐を結んだ。
この家では父さんと僕の二人暮らし。家事は全て僕が受け持っている。
フライパンに油を敷いて、朝食とお弁当のおかずを作っていると、ギシッと聞き慣れた音が背後でした。
ここまでがセットだ。
「おはようあおい。今日の朝食はなんだ?」
台所続きのリビングから声をかけてきた父さんは白髪の混じった頭をぽりぽりと掻いて、そう言った。
「昨日と同じだよ。それより早く顔洗ってきなよ」
「ああ、そうだな」
ダンダンと踵から床を踏む音を鳴らしながら、父さんはリビングを出て洗面所に向かっていった。
父さんはそこそこ大きい企業の営業部で働いている。
僕の家には母さんがいない。数年前、僕がちょうど小学校六年生の時に大きな交通事故に巻き込まれて亡くなったのだ。
母さんが生きていた頃の父さんは今よりもずっと明るくキリッとしていたが、今はその影もない。むしろかなりだらしない。
当時のことを思い出すと、今でも胸が締め付けられる。きっと僕もまだ母さんの死から立ち直れていないのだろう。
先にお弁当の用意を終え、父さんとできたてほやほやの朝食を食べる。
通学鞄の隅に弁当箱を入れて、中に入った教科書の上に今日読む予定の本を二冊のせた。
「いってきます」
「ん、いってらっしゃい」
父さんに挨拶をしてハンカチを右足のポケットに突っ込んで家を出る。
朝の雰囲気はどこか不思議で、その柔らかい朝日に包まれるとどんなものでも静謐で爽快に様変わりする。
さっき見た時より少しだけ太陽の位置があがっていた。
高校はここから三十分ほど自転車を漕いだ先のちょっとした山の中にある。
家の建つ山を一度おりて、川沿いの道を走って橋を渡り、山にのぼると市内じゃ一番、県内じゃ二番目に賢い僕の高校だ。
運動部に所属していたわけでもそのつもりもないが、この自転車通学のおかげか足の筋肉はなかなか鍛えられている、と思う。
ハンドルを握りスポーツバイクの小さいサドルに腰掛けると、少しだけ心が浮き立つ。
少し踏み出すと、ペダルをに軽く足をかけるだけで徐々にスピードが上がりだす。
チリ チリ チリチリチリリリ……
しばらくの間ポカポカで爽やかな風を身に受けながら坂を下っていくと大きな川と合流した。河川敷にはテニスコートが何面も広がっている。
緩やかに流れ、朝日に照らされ輝く水面を目の端に映しながら優しく走っていると、茶色い橋にさしかかった。
自動車用の大きな橋と歩行者用の人三人分ほどの細い橋とに別れたそれの歩道を前に僕は自転車を降りた。
すれ違う人のほとんどは自転車に乗っているが、人にぶつかると危ないので僕はいつも降りるようにしている。
目線の先には何人か見覚えのある紺色の制服を着た人がちらほらと映る。同じ高校の生徒だろう。
チリチリ コツッ チリチリ コツッ
強く柔らかい風に押されるようにして橋を歩いていると、橋の真ん中らぐらいに広がったちょっとしたスペースの柵に組んだ腕をのせた小さな背中が目に映る。
どこからかやってきたピンク色の花びらと一緒にその黒く柔らかそうな髪を踊らせていた。
「先輩……?」
確証はなかったがその綺麗で柔らかそうな短い黒髪から昨日公園のベンチで眠っていた名前のわからない先輩な気がして声をかけた。
その声で目を覚ましたのか、その人はゆっくりと顔を上げて、よりいっそう髪を踊らせて顔だけを振り返らせた。
「やあ、少年。また私を起こしてくれたね」
彼女は一瞬、驚いたように目を見開いたと思えばふわっとどこか寂しそうに泣きぼくろが笑った。
振り返った彼女の姿と後ろで重なった太陽がキラキラと輝いている。
それは、まるではじめからそこにいたかのように、どうしようもないくらい写真に収めたくなる、美しい眺めだった。
「君と会うなら放課後のあの公園かと思ったんだけど、そうでもなかったみたいだね」
名前のわからない先輩は聞き覚えのある凛とした澄んだ声を響かせて笑った。
「あの、先輩。名前、教えてください」
先輩の言葉に返事をすることなく、僕は気になっていたことを尋ねてしまった。
失礼だっただろうか……。
「日月瑞季。たちもりは日に月でみずきは瑞季の瑞に季節の季」
瑞季の瑞という説明に内心苦笑しながらも
怒らせてなかったことに心の中で安心ていた。
日月瑞季……厳かでいて爽やかなそんな不思議で魅力的な名前だ。
「日月先輩、でいいですか?」
「うーん、私的には後輩君には名前で読んでもらいたいな」
先輩はイタズラを思いついた子供のように笑った。
「じゃあ、瑞季先輩で」
「うんっ」
ニコッと嬉しそうに目を細めてはにかんだ先輩の笑顔に少しドキッとしてしまう。
「君の名前は?」
「僕、ですか?」
突然の質問に動揺してしまいうまく言葉を返せない。
「それ以外に誰がいるって言うの?」
瑞季先輩は後ろで手を組んでさぞおかしそうにクスクスと笑ってその髪を楽しそうに花開かせた。
「ああ、えと橘です。橘あおい、たちばなは立つに花じゃない方で、あおいはひらがなです」
失敗に少しだけ恥ずかしくなり、頬をぽりぽりと掻きながら僕は苦笑いを浮かべてそう答えた。
「立つに花でも立花《たちばな》っていうんだ、初めて知ったな。というか君も青系統かっ」
瑞季先輩は嬉しそうに不思議な言葉を言った。
「青系統ってなんですか?」
「え、ああ瑞季の瑞とあおい君のあおがなんとなく青っぽいなーって思ってさ」
「なる、ほど……?」
なんとなくわかるがなんとなくわからないその言葉に驚きを隠せない。
「ふふっ、よくわかんないか」
「ですね」
僕らはお互いコロコロと笑いながら春風に吹かれた。