異界転生譚シールド・アンド・マジック

前回のあらすじ

大怪獣の雛に懐かれてしまった紙月と未来。
格好いいから、いいか。





「おいでタマ」

 そう呼びかけると、地竜の雛は素直に未来に従った。
 タマというのは紙月のつけた名前だった。しわがれた声でみゃあみゃあと鳴くので猫みたいだなと紙月が言い、そのまま勢いで名付けてしまった。未来はもう少し格好の良い名前が良かったのだが、しかし紙月の言うことも実にもっともだと納得してしまったので、仕方がない。

 未来は出来た人間なので、紙月のそういう子供っぽいところも受け入れてやらねばならないのだった。

 このタマと名付けた地竜の雛は実に賢く、簡単な指示や合図はすぐに覚えたし、また匂いや魔力、そう言った目には見えないものでも未来を認識しているようで、鎧を脱いでもすぐに未来と察して鼻先をこすりつけてくるのだった。

 タマを連れて帝都を歩くには難儀があった。
 なにしろ、馬車に乗せるという訳にもいかない。どこかに繋いでおくというのも物騒で仕方がない。かといって背中に乗っていくというのもどうにも不格好だし、第一とげとげの甲羅は座り心地がよろしくない。
 また帝都から西部に帰るにしても、まさか《絨毯》に乗せていくという訳にもいかず、参った。

 仕方なしに二人は大学に頼んで幌馬車を一台用立ててもらった。
 これをタマにひかせて行こうというのである。

 タマの体に合うように馬具を調整するには少し時間が必要だったが、それでも甲馬(テストドチェヴァーロ)という大型の亀のような馬が他にあるらしく、調整可能な範囲内ではあった。
 タマもこのお荷物を最初は不思議そうに眺めていたが、未来と紙月が乗り込むと、成程成程というように何度か頷いて、それから手綱の合図もすぐに覚えて、立派な馬車引きとなった。

 恐ろしい顔立ちも、夜ならばいざ知らず、一夜明けて朝が来て、日の光に照らされればそれほどでもなかった。ただすこうしばかり目がぎょろりとしていて、牙やら棘やらあちこちとげとげしているだけだ。道行く人も、しっかりとした幌馬車を引いていることもあって、ちょっと変わった甲馬(テストドチェヴァーロ)だという風に受け入れているようだった。

「……何事もなくてよかったっつうか、何事もなさ過ぎて怖いっつうか」
「紙月はつくづく心配性だよねえ」
「未来は肝が据わってんな。大物になるぜ」

 別段度胸があるというつもりは、未来には全然なかった。ただ、なるようになることはなるようになるし、ならないようなことはどうあってもならないのだということを、子供ながらに知っているだけのことだった。
 なんだったか、そう、ケ・セラ・セラだ。
 なるようになる(ケ・セラ・セラ)
 それが未来の人生哲学だ。

 ひょんなことからこの異世界に転生することになったのはさすがに驚いたけれど、でも、これもなるようになる(ケ・セラ・セラ)だ。どこかには落ち着くものだし、落ち着かない場所には落ち着かない。

「さて、紙月、これからどうしようか」
「そうだなあ。帝都観光って気持ちでもないし、当初の目的通りにしようか」
「じゃあ、まずは人探しのための人探しだね」
「いよいよお使いゲーめいてきたな……」

 未来はあまり気にしてはいないが、紙月は元の世界に帰ることにこだわっている。またそうでなくても、元の世界の住人がいるかもしれないというのは、確かに気になることだった。

 海賊討伐の依頼で知ったところによれば、この世界には()()()()()が、つまり元の世界の尺度が存在する。そしてそれを広めた人物も、帝都にいるんじゃないかというところまでは予想がついた。

 問題はその人物を探す手段なのだが、これもすでに伝手を入手していた。

「人探しぐらいしか取り柄のない女、ねえ」
「いまの僕らにとっちゃこれ以上ないくらい欲しい才能だよね」
「全くだ」

 海賊のお頭、もとい海運商社の社長であるプロテーゾに紹介状を書いてもらった人物の肩書はこうだった。

「『探偵』ドゥデーコ・ツェルティード、ね」
「なんか心くすぐられる響きだよね、探偵って」
「わかる。探偵って必ずしも名探偵とかそういう感じじゃないんだろうけど、ちょっと盛り上がるな」

 しかし問題はまず、慣れない帝都で指定の住所を見つけ出すことだった。

「まあ、でも、歩いてれば見つかるでしょ」
「本当に肝が据わってるよ、お前は」
なるようになる(ケ・セラ・セラ)なるようになる(ケ・セラ・セラ)だよ、紙月」
「Whatever will be, will be、ね。そう思えるってことは、度胸あるってことさ」
「それは……褒められてる?」
「いつだって手放しで褒めてるよ」
「それはそれでなあ……肝心なところで締めて欲しいよ」
「難しいお年頃だな、全く」

 みゃあみゃあとしわがれた声で、タマが鳴いた。
 それはどちらに賛同するとも知れない鳴き声で、二人はなんだか不思議とおかしくなって噴き出したのだった。





用語解説

甲馬(テストドチェヴァーロ)(testudo-ĉevalo)
 甲羅を持った大型の馬。草食。大食漢ではあるがその分耐久力に長け、長期間の活動に耐える。馬の中では鈍足の方ではあるが、それでも最大速力で走れば人間ではまず追いつけない。長距離の旅や、大荷物を牽く時などには重宝される。性格も穏やかで扱いやすい個体が多い。寿命も長く、年経た個体は賢く、長年の経験で御者を助けることも多い。

前回のあらすじ

なんやかんやあって巨大なワニガメを仲間にした二人であった。
なんやかんやはなんやかんやです。





 帝都での人探しの為に、人探しが得意だという『探偵』を頼る紙月と未来だったが、問題はまずその『探偵』の住まいを発見しなければならないということだった。

 帝都は碁盤目状に計画的に建設された都市であり、それぞれの通りには数字が割り振られており、機能的でわかりやすくはなっている。しかしそれはある程度大きめの通りに限った話であって、区画内の小さな通りなどはそれぞれに何かしら由来があるのであろう名称がつけられている。しかもそれという看板があるわけでもなく、なかなかどれがそうなのかは判然としない。

「このブロックだっていうのはわかったんだがな……」

 ある程度までは絞れる、というのは、そもそも番地などあってなきがごとしいい加減な他の町に比べればずっとましではある。しかしある程度絞ったあとは、今度はどの建物も似通った造りをしている帝都の町並みが捜索を困難にさせるのだった。

 これで屋根の色が何色だとか、変わった形をしているとか、そう言う特徴がつかめればいいのだが、何しろずらりと並ぶのはみな似通った建物ばかり。看板を掲げていたとしても、これでは見落としかねない。

「ふーむ」
「どうしよっか」
「未来ならどうする」
「しらみつぶしに冒険してみる」
「じゃあ、俺がもうちょっと大人のやり方を教えてやろう」
「なあに?」

 紙月は問題のブロックに馬車を止めて、それからとことこと少し歩いて、一頭立ての小さな馬車に歩み寄った。

「やあ、お兄さん」
「おや、お客さんかい」
「いや、ちょっと道に迷ってね。こういう事務所を探してるんだけど」
「ああ、《ツェルティード探偵事務所》! あそこは看板を出してないからね。ちょうど次の角さ。ほら、あそこだ」
「ありがと。今夜の酒代にでもしてくれ」
「ありがとよ」

 チップを握らせて帰ってくると、紙月はにやっと笑った。

「タクシー運転手は道をよく知ってるんだ。あとは郵便配達員」
「成程なあ」

 紙月の後ろ姿ににやにやとした視線を送ってきた御者をさりげなく鎧姿で威圧しながら、未来は感心した。未来も頭の回転は悪くない方だが、タクシーなどを自分で利用した経験はない。また、生活圏内でもあまり多く接する機会のないものだ。とっさには思いつかないことだった。

 二人は地竜の雛ことタマの手綱を引いて言われた角にまで移動した。
 このタマは見かけこそ狂暴そうだったが実に暢気で、賢く、待っているようにというと、すぐに頭と手足を殻に突っ込んで、昼寝を始めてしまった。
 そうしていると、まるで道端に転がった巨石に幌馬車がつながれているような、ひどくシュールな光景であった。

「よし、行ってみるか」
「うん」

 未来が先に立って、ドアに取り付けられたノッカーを鳴らすと、少しして中から返答があった。

「どちらさまですか?」
「冒険屋の未来と紙月といいます。プロテーゾさんの紹介で参りました」
「紹介状はございますか?」

 あるというと、すこし戸が開くや、年のいった老婆が顔を出した。

「フムン……確かに、この封蝋はプロテーゾ様の印ですね。お伺いしてまいりますので、中でお待ちください」

 中に通されると、簡素だが質の良い家具に出迎えられた。派手な装飾はないが、どれも品が良く、選んだものの美的感覚の高さがうかがわれた。

「ほう、これはセンスがいい」
「僕でも何となくすごいと思うもの」
「お恥ずかしい。お嬢様が良く破壊されるもので、安物ばかりでして」

 おっとりとした様子で言うのだから思わず聞き流しそうになったが、なにやら聞き捨てならないことを言われたような気も、する。しかし改めて聞き直すのもなんだかためらわれたので、二人は大人しく椅子について、これまた上品なカップで甘茶(ドルチャテオ)を頂いた。

 老婆は物静かにそのまま奥へと消えた。造り上、その奥というのには階段があって、そのまま二階に続いているらしい。思うに、水場の関係から一階が生活関係のスペースになっていて、事務所の本体は二階にあるのではないかというのが紙月の予想であった。

 水道が整っているのに一階も二階も関係があるのかと小首を傾げる未来に、紙月はうなった。

「現代基準程ってことは、多分ない。仮に三階まで水道を通すと、かなりの圧力をかけないといけない」
「魔法でどうにかっていうのは?」
「俺も《魔術師(キャスター)》ってことで、いろいろ街中の魔法関係を見たんだがね。どうにも魔法で何かやるっていうのは、俺たちが機械で何かやるのと同じくらい手間暇がかかるものみたいだ」
「ファンタジーも世知辛いねえ」
「全くだ」

 少しして、老婆が戻ってきた。

「お会いになるそうです。どうぞこちらへ」

 二人は頷いて後に続いたが、なんだか不思議ではある。

「探偵に依頼しに来たはずだけど、まるで貴族にでも会うみたいだな」
「そうだね」

 老婆は小さくうなずいた。

「お嬢様は実際、いわゆる貴族にございます。爵位もございませんし、ただ貴族であるというだけでございますけれど」
「えっ」
「跡を継げるでもなし、嫁ぎ先もなし、商売でも始めればという勧めに応じられまして、トチ狂ってお始めになられたのがこの、ええ、事務所にございます」
「トチ狂って?」
「失礼、年のためか言葉が出ませんで。ええと……そう。酔狂で」

 よりひどくなったかもしれない。

「ご安心ください。お客様が何をお求めか存じ上げませんけれど、しかしお嬢様は事、()()()()()というそれだけに関しましては、期待を裏切ることのないお方です」
「それ以外に関しては」
「勿論それ以外に関しても期待を裏切らないお方です。期待をしないでいる限りにおいては」

 表情一つ変えずにしれっと言ってのける妖怪じみた老婆の後を歩いているのがなんだか不安になったころ、ようやくゆったりとした歩みが二階に辿り着いた。

「失礼いたします。お客様をお連れいたしました」
「入り給え」

 これまたセンスはいいがどこか安普請の戸を開ければ、そこは立派な応接具を整えられた執務室であった。奥の執務机には、男物の服を見事に着こなした長身の女性がどっかりと腰を掛けて待ち構えていた。
 勘違いのないように言っておくならば、執務机と一組の椅子にではなく、執務机そのものにそのご機嫌な尻をどっしりと乗せて、無造作に脚など組んで座っているのである。

「よく来たな。海坊主のおやじからの紹介となれば、こうして会ってみるのもやぶさかではない、などと思っていたところだが、成程これはなかなかに面白い組み合わせじゃあないか。フムン。なかなかいい。面白いぞ。結構。座ってよろしい。座り給え。さあ」

 天井どころか天上から降ってくるのではないかという実に上からの言葉を、ごくごく自然に吐き出す女である。

 おずおずと二人が応接具のソファに腰かけると、女もするりと執務机から腰を下ろし、応接具のソファにどっかと腰を下ろす。そして老婆が改めて甘茶(ドルチャテオ)を三人に振る舞い、そして流れるような手つきで銀盆で主人の後頭部を叩くにあたって、ようやく空気は動き始めた。

「ええと、俺達は」
「なんだ君は。()()()()のか?」
「はっ?」
「それにそっちの鎧は面白いな。どういう造りだケモチビ」
「ち、チビっ!?」
「まあどうでもいいか。それで何の用だったか、えーと、シヅキにミライ」

 名乗ってもいない名前を呼ばれてぎょっとすると、老婆が再び銀盆で主人の後頭部を叩いた。

「いささかはしたのうございますが、人様のお名前を当てるのもお嬢様の――探偵ドゥデーツォ・ツェルティードの特技にございます。名刺代わりと思ってご笑納ください」
「は、はあ」
「ばあや、茶もいいが甘いものも欲しい」
「後になさいませ」

 それよりも主に対して全く敬意のなさそうなこの侍女の方が気になって仕方がないのだが、もうこれはこういうものとしてスルーした方がいいのかもしれない。チビ扱いされてご機嫌斜めの未来がこれ以上こじれても、困る。

「えっと、俺達は帝都で人探ししてまして」
「それは海坊主の親父の手紙にも書いてあった。どこのだれを探して欲しいんだ耳長」
「このっ」
「ステイステイ、いちいち煽られるな未来。えーと、手掛かりなんですけど、いまこれくらいしかなくて」

 そう言って紙月は、懐から、と見せてインベントリから一枚の金貨を取り出した。手のひらに収まるような小さな金貨である。それでも帝国では金貨といえば相当な額の貨幣として扱われるから、老婆が少し、教養ある範囲で目をむいた。

 それはかつて《エンズビル・オンライン》で使用されていたゲーム内通貨であった。

 一方でドゥデーツォはその金貨をむんずと無造作につかみ取って、指先でつまんでは明かりに透かすように眺めた。どう見ても高額貨幣を見る目ではない。だがそれ以上に面白そうなものを見つけたと言わんばかりの目である。

「こいつはどこで?」
「以前いたところから持ってきた。それ以上は言えない」
「成程。成程。この金貨を持っているやつを探して欲しいというわけだな、君たちは」
「そうなる」

 ぽいと無造作に金貨を投げ返してから、ドゥデーツォはにっこりと笑った。それは貴族という血筋の良さからなのか、暴力的な顔面の良さを見せつけるような笑みだった。

「では残念ながらその依頼は請けられない」





用語解説

・一頭立ての小さな馬車
 大きめの町ではよくみられる辻馬車。
 作中で言われるように、いわゆるタクシーとして利用されている。

・《ツェルティード探偵事務所》
 帝都でも最初で唯一の探偵事務所。
 そのため住人も探偵というものが何なのかよくわかっていない。
 とりあえず物探し、人探しを請け負っているということだけはわかっている。
 また所長が奇人変人の類ということも知られている。

・探偵ドゥデーツォ・ツェルティード(du deco celtido)
 北部の貴族ツェルティード家の三女。
 物探しに関して非常に優れた才能を持つが、人と違うものが見えているせいか振る舞いは奇矯。
 跡を継げるでもなし、嫁ぎ先も貰い元もないし、親に放置されていたところを、人から勧められて探偵事務所を開く。
 金には困っておらず、完全に趣味でやっており、客も自分を楽しませるためのものだと思っている。
 なお、専門の探偵屋という概念そのものが今までなかったので、この世界で最初にして唯一の専業探偵である。
 仮にこいつを探偵と呼んでいいのならの話ではあるが。

前回のあらすじ
探偵(?)と遭遇した二人。
しかし、依頼を断られてしまい……。





「では残念ながらその依頼は請けられない」

 しれっと言ってのけられた言葉の意味を理解するのに、いくらかかかった。

「な、なん」
「おお、いいぞ、その間抜け面。写真機を買っておくべきだったな」
「欲しければ稼いでくださいませ」
「無理だな、止めておこう」
「なんで駄目なんです!?」
「うるさいぞケモチビ。本当はそんなに興味がないくせに騒ぐな」
「なっ」

 ドゥデーツォは薫り高い――しかし安物らしい甘茶(ドルチャテオ)をグイっと飲み干すや、カップを未来に向けて放り捨てた。鎧にカップの破片が飛び散る。

「お嬢様!」
「ばあやの茶はうまいからな。中身はもったいなかった」
「そういうことでは」
「頭を冷やせということだったんだが、今度はお前か耳長」

 ずいと突き付けられそうになった指先が、逆に伸ばされたドゥデーツォの手で握りしめられる。

「あっ、ぐっ!」
()()()()()()()()()()()()()()、これ以上家具を壊すとまた叱られるんでな」
「お嬢様が大人しくなされば済む話でしょうに」
「死ねと?」
「その前にわたくしの寿命が尽きますわね」
「それは困るな」
「くっ、はな、せっ!」
「そら」

 放せとは言ったが、文字通り急に放されてひっくり返りそうになる紙月を、未来が慌てて支える。

「沸点の低い連中だな」
「あんたが怒らせるようなことを言うからだろう!」
「面倒な奴らだな。図星を刺されたくらいで」
「お嬢様がカップをお投げになったからでは」
「おっとそこか」

 あまりに暢気な発言に、怒りを通り越してあきれ果てた紙月は、思わず立ち上がってそのまま出て行こうかとも思った。しかしカップを投げられた当の未来が、痛いところを突かれたと言うように黙然として老婆に鎧を拭われているのを見て、深くため息をついてこの怒りを鎮めた。

「……改めて聞くが、なんでダメなんだ」
「私は依頼の二重取りはしないことにしている」
「はあ?」
「つまり、こういうことさ」

 ドゥデーツォが胸元から取り出したものに、二人は思わずあっと声を出して驚いた。
 それもそのはずである。なんとそれは二人が先ほど示したものと同じく、《エンズビル・オンライン》で用いられていたゲーム内通貨の金貨だったのである。

「『この金貨の持ち主を連れてくること』。これは私が探偵事務所を開く際に金を出した爺さんの依頼でね」

 手の中でキラキラと光る金貨を指ではじいて、探偵は笑った。

「よりにもよって一件目の依頼がなかなか完遂せずに不満だったんだ。今日はいい日だ」



 探偵が二人を連れて訪れたのは――、正確に言うと二人の馬車に強引に乗り込んで、狭いだの椅子が堅いだの文句を言いながら案内したのは、町はずれのかなり大きな建物だった。
 もともとの建物自体が大きなものであったのもあるだろうが、そこにさらに建て増しを繰り返しているらしく、美的景観としてはいまいち周囲との調和がとれていないものの、迫力は結構なものがあった。

「えーと、ここは?」
「言っただろう、依頼人のヤサだ」
「そういうことではなくて」

 気にした風もなくドゥデーツォは、この商社風の建物の広い入り口を抜けてずかずかと中に入っていく。

「あ、あの?」
「気にするな」

 受付嬢が声をかけるのも全く気にかけず、勝手知ったるとばかりに探偵はのしのし歩いていく。仕方なしに二人もその後をついていくのだが、なにしろ男装の麗人に、女装の魔女、二メートルはある大鎧と個性豊かな面子である。行きかう人々からの視線が痛い。

「えっと、おい。どこに行くんだ?」
「知らん」
「はあ?」
「知らんがどこに居るかはわかる」

 自信満々に歩いていく癖に、知らんと言う。知らんとは言うが、わかるとも言う。
 全く訳が分からずに後をついていくと、やがて建物は様相を変えて、少し埃っぽくなっていく。金槌がものを叩く音や、ごうごうと火の燃える音、ぎりぎりとものをねじる音など、工房のように移り変わっていく。
 実際、物づくりの現場なのだろう、行きかう人々も土蜘蛛(ロンガクルルロ)が目立つようになってきた。中には、二足歩行の人型に近いが囀石(バビルシュトノ)らしき姿も見える。

「ええい、五月蠅い所だな」
「まだなのか?」
「知らん。知らんがもうすぐだろう」

 なんだ、誰だと誰何する声も無視して突き当りのドアを開けた先は、個人用の工房といった具合で、炉のそばに老人がどっしりと腰を下ろして、何かをいじっているところだった。

「おお、いたか爺さん。もっとわかりやすい所に居ろ!」
「おわっ、なんじゃお前さん、こんなところまで」
「お前がわかりやすい所にいないのが悪い!」
「どんな理屈じゃい……おっ、おお、もしやその二人は!」

 老人は背こそ低かったが、かなりがっしりとした体つきで、その体躯は、以前の世界でならこんな風に形容されただろう。
 「酒樽のような」と。

「ど、ドワーフ!?」
「おう、その呼び方を知ってるってことは間違いないな。恰好からすると、なんじゃ、《無敵要塞》の二人組か?」
「その呼び名を知ってるってことは、もしやあんた《選りすぐりの浪漫狂(ニューロマンサー)》の倉庫番!」
「いかにも。HN(ハンドル・ネーム)レンツォじゃよ」

 にっかりと笑って見せたこのドワーフこそは、かつて《エンズビル・オンライン》において、ギルド《選りすぐりの浪漫狂(ニューロマンサー)》の倉庫番として膨大なアイテム・資金を管理していたプレイヤー・レンツォその人であった。

「本名は有明(ありあけ) 錬三(れんぞう)という。こっちじゃもっぱらレンゾーで通しとるがな」
「あ、ああ、俺は紙月。古槍紙月。シヅキでいいです」
「僕は衛藤未来です。ミライって呼んでください」
「くすぐったくなる様な敬語はやめてくれ。ゲームの時と一緒で、爺さんで構わんよ」

 三人の微妙にくすぐったくなるような再会にして初対面を打ち破ったのは、探偵だった。

「よし! じゃあ私は帰るぞ!」
「何しに来たんじゃお前」
「お前の依頼だろうがボケジジイ!」
「冗談冗談。じゃあな。とっとと帰れじゃじゃ馬」
「言われんでも帰る!」

 もう用はないとばかりにドゥデーツォは長い脚をするりと翻して帰っていった。

「……結局、なんだったんだ、あいつ」
「性格には難があるし仕事も雑じゃが、物探しは抜群でなあ」

 聞けば、そう言う才能があって、持て余しているところを、錬三が探偵事務所を開くことを勧めたのだという。

「当時、まだ探偵なんてもんは帝都にはなかったし、何かしら適当な枠に放り込んどかんと、ありゃ妙なもんに目を付けられかねんかったからな」
「しっかし、そう言う才能ったって、どういう才能だ?」
「魔術師どもは物探しの術と似ていると言っとる。本人は自分は神だと言っとる」
「気が狂ってるんですか?」
「いたって正気なのが手におえん所じゃな」

 ふと、未来が気づいたように言った。

「あの人に探偵になるように勧めたって言うけど、いつから探偵事務所なんてやってるの?」
「あれが成人した頃じゃから、十年くらい前かの」
「十年前もあんな感じだったのか……」

 そのまま流しそうになりながらも、紙月は引っかかったように小首を傾げた。

「……()()()?」
「そんなもんじゃろ」
「いや、そうじゃなくて、ええと、つまり……爺さん、あんた、その、()()()()?」
()()()()()かのう」

 少し遅れて、紙月がエッと声を漏らした。

「あれ、ニュースとか見んかった? 一応わし、有名人なんじゃけど」
「有名人って…………ああああああああッ!」
「なになになにっ!?」
()()()()!!」
「そうじゃって言っとるじゃろ」

 紙月は錬三を指さしたまま、目を見開いた。

「だっ、えっ、ま、マジで!? 本物!?」
「マジマジ。本物」
「な、なに、紙月?」
「ニュースで見た! 《エンズビル・オンライン》つくってる会社の大株主だよこの爺さん!!」
「ええっ!?」
「正確には親会社の会長な、会長」

 MMORPG 《エンズビル・オンライン》を開発・運営する株式会社ラムダは、複合企業体デイブレイク・グループの事実上傘下企業である。
 そのデイブレイク・グループの会長ともなればそれこそ現代の殿上人とでもいうべき存在ではある。

 ではある、が。

「ええ、だって、ええ……!?」

 紙月は困惑した。

「だって、四か月前、ニュースで、あんた、()()()()って……!」





用語解説

・有明錬三
 HN:レンツォ。
 《エンズビル・オンライン》ではドワーフの《黒曜鍛冶(オブシディアンスミス)》としてギルド《選りすぐりの浪漫狂(ニューロマンサー)》に所属していた。
 現実世界では複合企業体デイブレイク・グループの会長であり、MMORPG 《エンズビル・オンライン》を開発・運営する株式会社ラムダは、事実上傘下企業である。
 ざっくりいうと、どえりゃあ人。

前回のあらすじ
ついに再会した、ゲーム時代の友人。
しかしその人物は二か月も前に死亡しているはずで……。





「ほーん、四か月か。やはり時間はずれとるようじゃな」
「四か月と二十年じゃ大違いだよね」
「くるみ……オデットにも聞いたんじゃが、どうも時間は必ずしも同じようには流れておらんようだの」
「オデットさんも来てるの?」
「おお、最近は忙しく飛び回っとるがの」

 暢気に語らっている二人に、しかし動揺したのが紙月である。

「いや、だって、ええ……!?」
「なんじゃい。お前さんSFとか読まんの? 時間のずれ位あってもおかしくないじゃろ」
「そういうことじゃ……だって、あ、あんた、死んで……!?」
「……なんじゃい、お前さん、覚えとらんのか?」
「覚えるって、なにを」
「死んだから、こうして異世界に転生したんじゃろうが」

 至極さっぱりとした錬三の物言いに、瞬間、紙月の脳内は完全に化石したと言ってよかった。

「覚えとらんようじゃのう」

 豊かな白髭をしごいて、錬三はゆっくりと言葉を選んでいるようだった。
 それさえもなんだか紙月には、薄紙一枚通したようにどこか現実離れした物事のように思えた。

「そうさな。わしの話をしようか。わしからすれば二十年前。お前さんからすれば四か月前か。わしは、死んだ」
「死んだ」
「お前さんも自分でそう言っただろうが。ニュースじゃほれ、何と言うとった」
「なん、だっけ、そう、心臓がどうのって……それで、家事代行サービスの人が」
「は、心筋梗塞かなんかじゃろうな。で、雇っとった家政婦のおばちゃんに見つかったわけだ」

 フムンと一つ頷いて、錬三は何とも言えぬように口を曲げた。

「そろそろお迎えかもしれんなあとは、まあ前々から思っとった。何しろわし、そん時でもう九十二歳じゃったからな。百歳まであと八年とはいえ、まあそれまでには死ぬじゃろと思っとった」
「長生きだったんだね」
「そうしようと思って長生きしたわけじゃあなかったんじゃが、まあ、あっちを手掛けて、こっちを手助けして、あいつに助言して、こいつに指示出して、なんてやっとるうちは、なかなか死ぬに死ねんでな。
 だが最近は、といってもわしにとっちゃ二十年も前だが、会社もわしなしでやっていけるようになっておったし、早めに身辺整理も済ませたし、毎日ゲームやっちゃ適当に判子捺すだけのいい生活じゃったわい。
 それでなあ、それで、まあ、なんだ。
 そろそろいいかな、と思っとった時に、具合よくおっ死んだじゃろうなあ」
「具合よく、って」
「ゲームできんくなったら死に時じゃと思っとったけど、ゴーレム用のキュー・コードが思い出せなくなってな、これはあかんと思ってふて寝した晩じゃったから。ちと寝苦しいような思いもしたが、気づけば死んどったから、タイミングも死に方も、まあ具合よかったと言ってよかろ」

 あっけらかんと言ってのける錬三が、紙月にはなんだか全く別の生き物か何かのように思えて、不気味を通り越して心底不思議だった。だがそれこそ当然の話だった。相手は大企業の会長になるまで上り詰めた人物で、何十年と年の離れた相手で、更にはこの異世界で二十年もドワーフとして生きてきたのだ。
 それはもう、紙月とは全く別の価値観を持った、全く別の生き物と言ってよかった。そこには紙月の知らない人生哲学があるのだった。

「ふと気づくと、わしは妙な夢を見た。夢だったのか、現実だったのか、正直な話今でもよくわからん。わからんが、それは確かにあったことなんじゃと思う」

 話は死後に進んだ。あるいは、死のただなかへと。

「そこには上も下もなく、右も左もなく、前も後ろもなかった。光もなく、闇もなく、明るくも、暗くもなかった。寒くも暖かくもない。何にもない真っ白な闇の中に、肉体も何もかもそぎ落とされた、わしという一つの点がぽつんと浮いておるような心地だった。それはどこまでも美しくて、そして恐ろしい光景だったように思う」

 錬三は傍らの煙管を手に取り、手馴れた様子で煙草を詰めると、指先をかざして小さく何事か唱えた。すると小さく火がともり、錬三は何度かこれをふかした。
 言葉をまとめ、何よりもその不可解な体験に対する自分自身の考えをまとめるように、ゆっくりと何度か紫煙が吐き出された。

「真っ白な闇のどこかから、あるいは向こうから、またあるいはそれ自体が、わしに語りかけた。
 『ようこそここへ』 とな」

 それはしわがれ、酒焼けしたドワーフの声に過ぎなかった。だがそのたった一言に奇妙な魔力でも込められていたかのように、その言葉は紙月たちの耳朶を恐ろしくも冷たい響きを持って打つのだった。

「声はまるで長年の友に対するように気やすい調子じゃった。しかしわしにはすぐに分かった。それは友としてわしを尊重しているからこその優しい響きなのではなかった。わしという存在を吹けば飛ぶようなたやすい存在として扱う易しい響きじゃった」

 声はこのように語りかけたのだという。

 いま、君の肉体は死を迎え、その魂は零れ落ちようとしている。
 その魂を、私が卵の白身と黄身を選り分けるように、繊細に受け止めてやっているのだ。
 おっと、君はあまり料理をしなかったな。この喩えはわかりづらいかな。
 ではもう少しわかりやすく言おう。

 いま、()()()()()()()()()()()()()()

 ああ、()()()()、有明錬三。
 私は君を害するものではなく、また試すものでもない。
 或いは君を愛するものでもなく、また育むものでもない。

 私は君に選択を与える。

 一つはこのまま死を受け入れ、その魂を流転のままに任せる。
 そうすれば君の魂は、海の波に漂泊するように無限の時を彷徨い、激烈な化学薬品に浸したように漂白されることだろう。
 いまのは海の漂泊と薬の漂白をかけたジョークなんだ。
 わかってくれ。私はただ君を安心させ、心穏やかに選択してほしいだけなんだ。

 ()()()()()()()()()

 さあ、安らかならぬ君にもう一つの選択を示そう。

 そうだ。もう一つは、今の死を受け入れ、私が与える次の生を生きることだ。
 私にはどのような肉体も生み出すことができる。どのような振る舞いをさせることもできる。
 しかし魂だけは創造することを許されていない。
 そう、ただ魂だけは。それだけは侵すことの許されない領域なのだ。

 君が望むのならば私は死を、そしてまた或いは新たな生を与えよう。

 私は何も強制しない。選ぶのは君だ、有明錬三。
 ここには時間の流れなどあってないに等しい。
 ゆっくりと考えるがえっもういいのかい。
 別に急がなくても私は一向にかまわないのだが。

「わしはこのふざけた存在に新たな生を願った。死は怖くなかった。とうに死ぬ準備はできとった。だが、いざ先があるとなれば、やりたいこと、やり直したいこともあった。そいつはわしにゲームで慣れ親しんだ体を寄越した。そいつ自身のゲームの駒であるからと、そしてまた早死にされても面白くないからとな」

 ふん、と鼻先から煙を吐き出して、錬三はその不気味な神の名を唱えた。

「境界の神プルプラ。それが奴のこの世界での名じゃよ」
「境界の……神」

 頭痛が。
 酷い頭痛が紙月の頭の中をかき回していた。

「未来……」
「……うん」
「お前は……お前は、知っていたのか? いや……覚えていたのか?」

 すがるような問いかけに、鎧の向こうから静かに声は応えた。

「うん。僕は全部――覚えてたよ」





用語解説

・オデット
本名:形代(かたしろ)くるみ。
ゲーム内ではピクシー種の《歌姫(プリマドンナ)》。
ギルド《選りすぐりの浪漫狂(ニューロマンサー)》の賑やかしで、高いコミュニケーション能力でギルドメンバーを集めた立役者。
 現在はアイドルグループ「超皇帝」の片割れとして帝国各地を飛び回っている。

・ゴーレム
 《エンズビル・オンライン》内にて、《錬金術師(アルケミスト)》系統と、高位の《鍛冶屋(ブラックスミス)》が使役することができたMob。
 決められた行動を入力しておくことで、半自動で動くことができた。
 アイテムと時間さえ費やせば人が居住できるほど巨大なものや、前線での戦闘に使用可能なものなども制作できた。その労力に見合うかどうかは別の話だが。

・キュー・コード
 ゴーレムに指示を出すための合図。

・境界の神プルプラ(Purpura)
 山や川などの土地の境、また男や女、右や左など、あらゆる境界をつかさどる神。北東の辺境領に信者が多い。
 顔のない神。千の姿を持つもの。神々の主犯。八百万の愉快犯。
 非常に多芸な神で、また面白きを何よりも優先するという気質から、神話ではトリックスターのような役割を負うことが多い。何かあったら裏にプルプラがいることにしてしまえというくらい、神話に名前が登場する。
 縁結びの神としても崇められる他、他種族を結び付けた言葉の神はプルプラが姿を変えたものであるなど他の神々とのつながりが議論されることもある。
 過酷な環境と敵対的な魔獣などのために死亡率が高い辺境では、性別に関係なく子孫を残せるよう、プルプラの力で同性同士での子作りや男性の出産などが良く行われている。

前回のあらすじ
自らの死とその後を語る老人。
そして未来は……。





 《白亜の雪鎧》を脱ぎ去り、自分の目でしっかりと紙月を見つめて、未来は、改めて呼吸を整えた。舌が乾いて、指先が冷えた。目は泳ぎそうになり、唇は震えた。
 しかし、それでも未来は語らなければならなかった。
 覚えていないことをいいことに、隠し続けてきたのは自分なのだから。

「紙月は、元の世界で最後の日が何の日だったか、覚えてる?」
「最後の日……は……確か………」
「その日は、人と会う約束をしていた」
「そう、だ……俺は、そうだ、あの日、俺は」
「そう。僕と会う、約束をしていた」

 MMORPG 《エンズビル・オンライン》は老舗ではあったが、どうしようもなく陰りを見せてきている下火のゲームだった。未来たちはそれでも休日の度に二人で組んでプレイし、平日も暇を見つけては入り浸っていたけれど、《選りすぐりの浪漫狂(ニューロマンサー)》というギルド内でもログインしなくなるものは増えつつあり、往年の活気は失われて久しかった。
 それはたかが一年、しかし大きな一年だった。一年もあれば、世の中の流行り廃りは変わっていく。誰が強制するわけでもないゲームともなれば、なおさらだ。

 きっとこのまま何年も何十年も、同じようにゲームをプレイして、同じように付き合っていくということはできないんだろう。
 小学生の未来にだってそのくらいのことは分かった。
 どれだけ今が楽しくても、その今は、いずれなくなってしまうものなのだ。

 だから未来は、その今が失われてしまう前に、何かを、してみたかった。
 何かになるようなことを、してみたかった。
 自分の行く末どころか足元さえもおぼつかない未来には、多くのことは思いつかなかった。 
 何かをしようと思い立っても、何かを成し遂げるだけの力もなかった。

 だからその単純な思い付きに至ったことは、未来にとってこれ以上ない幸運だった。

 会ってみたい。

 ただそれだけのことだった。
 ただそれだけのことを言い出すまでに一月かかり、そして帰ってきた答えは一瞬だった。

 いいよ、と。
 会おうよ、と。

 幸い、二人の住所は天と地ほど離れているわけではなかった。土日の連休を使って、十分に会いに行けるほどの距離。少し前までは宇宙よりも遠く感じていたはずの場所は、地図上で指でなぞることができるほどの近さだった。

 二人きりのオフ会は、計画をしているときこそ楽しいものだった。

 二人の住んでいるどちらで会おうか。最初はお前の、いいやペイパームーンのと押し問答して、結局すぐに二度目があるからと、未来の家の近所にされてしまった。少し悔しかったけれど、でも楽しかった。始まる前から、二度目の約束ができたのだから。

 じゃあ何月何日の何時に、俺はこれこれこういう格好をしていくから、じゃあ僕はこういう格好をしていくね、そうして段取りを組んで待ち構える週末は、遠足前のようにドキドキした。

 当日になって、かなり早めに駅前の待ち合わせ場所について、急に冷や汗が止まらなくなって、どうしようって焦り始めた。本当は小学生なんだって言ったら、どんな反応をされるだろうか。彼女(もしかしたら彼?)は怒ったりしないだろうか。怒って帰ってしまわないだろうか。
 そうして、そのまま縁が切れてしまわないだろうか。
 ゲームの中でさえ、もう会ってはくれなくなったりしないだろうか。

 そんな考えがぐるぐると駆け巡るうちにふいに突き飛ばされる様な衝撃がしたのだった。

「あぶない!」

 そんな声と同時に、続けて衝撃があって、そして。

「そして、僕は死んだ」
「……っ、あ………!」

 頭の中が真っ白になったようなものすごい衝撃と、酷い耳鳴り。どこか遠く聞こえる悲鳴と、空の青さ。焼け焦げたようなにおいと、ぬるく湿った感触。

「ああ」

 溜息のようにこぼれた吐息が、未来の最期だった。

「プルプラに聞いたよ。交通事故だって。お年寄りの乗った車が、アクセルとブレーキを踏み間違えて、暴走したんだってさ。話には聞いてたけど、あるんだね。まさか自分が被害者になるなんて、思ってもみなかったけど」

 無意識に撫でた胸元は、いまはもう、ただ平らに、健康にそこにある。けれどあの時はきっとひどいありさまだったことだろう。

「あの時助けようとしてくれたのが、紙月だったんだって。ごめんね。僕の巻き添えで、死なせてしまったようなものだ」
「そんな、そんなこと!」
「そんなことあるんだよ。紙月があの時助けてくれようとしたから、紙月は死んでしまったんだから」
「ぐっ……うっ……!」

 夢現に、生ぬるいアスファルトの上に未来は神様を見た。あるいは神様のようなものを。
 それは本当に神様としか形容ができない全くよくわからない何かで、そしてそれは何者とも知れぬ声で語りかけたのだという。

 やあやあ未来くん。
 死んじゃったねえ。
 物の見事に死んじゃったねえ。
 救急車も呼ばれて君はこの後緊急病棟に担ぎ込まれるけど、でも残念、すでに肉体の死は確定して、三十二秒後に君は完全に死ぬ。
 今はその三十二秒間を引き延ばしてこうしてお話しているわけだ。

 大丈夫?
 お話通じてる?
 よかった。君本とか読む子? 読む子は大概話通じるってわけでもないけど、読まない子よりは通じる確率が高いよね。あくまでわたし論だけど。

 えーっとそれでなんだっけ。
 そうそう。
 君は死にました。
 わーいぱちぱちぱち。
 うん? 違うか。まあいいや。

「ペイパームーンは」

 うん、なにかな?

「ペイパームーンは、待ち合わせしていた人は、どうなったかな?」

 ああ、君をかばおうとして一緒にはねられちゃった人だ。
 その子も死んじゃってるよ。
 いま同時並列で勧誘中。

 そう、勧誘中なのだよ君を。

「後の話は、お爺ちゃんと似てるけど、少し違う」
「違う?」
「残りの三十二秒間があれば、僕は、僕の方だけは助けられる、プルプラはそう言ったよ」
「じゃあ……!」
「答えは今目の前にある通り。僕はそのまま死んでしまう代わりに、そのまま生きていく代わりに、プルプラの与えてくれたこのゲームキャラクターの体で、この世界に転生した」





用語解説

・神は言った。
 特にないと。
前回のあらすじ
未来は語る。
自分は生と死とを選ばされた。
そして選んだのがこの世界なのだと。





「どうして……?」
「どうしてって?」
「どうして、普通に生き返ることを望まなかったんだ……! お前にはそれができたんだろう……!」
「僕をかばってくれた紙月を見殺しにして?」

 さっと青ざめる紙月に、未来は苦笑いした。そんな顔をさせたいわけじゃない。けれど言葉を選ぶのは難しかった。

「紙月のこともあったよ。でも、それだけじゃない。紙月のことがなくても、僕はきっとこの道を選んでた」

 何故ならば。

「僕には、僕の身の置き所っていうものが、他になかったからね」

 未来は父子家庭だった。
 母は未来がまだ幼いころに、交通事故で亡くなってしまった。
 つくづく交通事故に縁があると思う。残された父親には申し訳のない死に方だ。

 けれど、死にゆく三十二秒間で、未来はふと思ったのだった。
 これでもう、邪魔はなくなるな、と。

 ずっと父の背中を見て育ってきた。それは確かに頼りがいのある背中だったかもしれない。しかし、同時に寂しく、孤独な背中だった。もうずいぶんと、父の顔を見ていないような気さえした。

 父はいつも朝早くに出勤し、夜遅くに帰宅した。帰れば必ず未来にただいまを言い、そしてそれを終えると力尽きたようにベッドに倒れた。
 未来をよい小学校に通わせるために、未来の生活を支える家政婦を雇うために、未来の将来の積み立てのために、父は一人孤独に働き続けていたのだった。

 愛されていたと思う。
 それは父なりの愛し方で、未来はその愛情をこれ以上なくはっきりと自覚し、受け止めていた。
 だがそんな愛情を受ければ受けるほどに、未来は感じるのだった。

 自分がいなければ、父はもっと楽ができるのではないか。
 再婚相手を探すこともできただろう。仕事も、もっと緩やかなものにできただろう。

 早く大人になりたかった。大人になって父を楽にさせたかった。
 けれど遅々として背は伸びず、時は進まず、本当のところ逃げ場を求めて始めたのが《エンズビル・オンライン》だった。

 誕生日に父が買ってくれた、小学生の身の丈に合わない立派なパソコンで、始めたのがゲームだったというのは、子供らしいと喜ばせたのか、子供っぽいと悲しませたのか、それはわからない。
 ただ確かな事として、《エンズビル・オンライン》は未来が安心して呼吸できる場所となった。
 だってそこには、紙月がいたのだから。

「ペイパームーン。紙月には本当に助けられたと思ってるよ」

 ただ広告につられるままに始めたゲームの世界で、何をどうしたらよいかわからず右往左往していた未来に声をかけてくれたのは紙月だった。まとめサイトのことも、クエストのささやかなコツも、ゲームを長く楽しむやり方も、みんなみんな、教えてくれたのは紙月だった。

 紙月自身が、自分のサポートとなるプレイヤーを探していたことはすぐに分かった。未来の意思を尊重しながらも、紙月自身のプレイスタイルに合うように誘導されていることもすぐに分かった。でもそれでよかった。それがよかった。
 だって未来には目的なんてなかった。ただ必要とされるのが心地よかった。自分がここにいてもいいのだと、そう言ってくれる人の存在が何よりも大事だった。

 そうだ。
 未来は誰かに必要とされたかった。
 誰かの助けになりたかった。

 父に愛されていることは知っていた。
 父に愛されていることはわかっていた。
 父に愛されていることを、本当は願っていた。

 きっと父は未来を愛してくれていたことだろう。まごうことなくそれは愛だっただろう。この世で何よりも尊い思いだっただろう。
 だがだからこそ、未来はそれが疲れに倦み、摩耗して元の形を失っていくことがつらかった。
 父の笑顔を最後に見た思い出が、どんどんと薄れていくことがつらかった。

 父はきっと未来を愛してくれていた。
 父はきっと未来を愛してくれていると思っていた。
 父はきっと未来を愛してくれていると、そう願っていた。

 でも現実的な話として、愛は絶対でも不変でもなかった。永久のものはこの世にはなかった。
 父が未来を愛することに努力を感じ始めるようになったことを、未来は中途半端に敏感に悟ってしまった。

 最初は純粋な慈しみであったものが作業になり果て、はじまりは確かな愛おしみであったものが惰性になり果て、求められることに疲れ果てて枯れ落ちそうな背中が父の姿だった。
 もはや顔さえもおぼろげにしか思い出せない、父の姿は枯れ木に似ていた。

 《エンズビル・オンライン》で紙月に求められ、未来はようやく気付いた。
 ああ、これが求められるということで、そして今自分はそれに依存しているのだと。
 父が失いつつある愛情を、この人に求めているのだと。

 それでも。

 それでも、それでもよかった。

 未来は誰かに愛されたかった。
 誰かに必要とされ、誰かに求められ、手を差し伸ばされてともに歩みたかった。

 だって、未来自身がそうしたかったから。
 誰かを愛し、誰かを必要とし、誰かを求め、手を握り締めて答えたかった。

 一人の人間に、なりたかった。

 だから未来は選んだのだった。
 愛することに疲れ果てた父を解放し、そしてまた、愛を求めることに疲れ果てた自分を解放するために。

「新しい世界を。そう望んだんだ」





用語解説

・愛
 それは人の数だけ存在するものなのかもしれません。
前回のあらすじ

愛とは。





 頭痛がした。
 頭の中をかき回すような頭痛がした。

 そしてそれとともに、紙月の脳裏に神の姿が思い出された。

 神は五月の日差しに似ていた。
 柔らかく、透明で、どこまでも無関心に降り注ぐ、光の雨。

 お前には二つの選択肢がある。

 神は言った。

 一つはこのまま魂を輪廻に預け、永劫回帰に身を任せるか。
 一つはお前の魂を我が手に預け、箱庭世界に身を投じるか。

 二つに一つだ。
 ただ死ぬか。
 新たな生か。

 選べ、古槍紙月。

METO(メト)は……METOはどうなったんだ?」

 お前の友は箱庭へと旅立った。
 今世での憂いを嘆き、来世に希望を託し、我が箱庭を遊び場と選んだ。

 神の言葉は、紙月にはよくわからなかった。
 ただ相方が助かったのだということだけは何となくわかった。
 少なくとも生きているという意味では。

 紙月は尋ねた。
 死ぬとどうなるのかと。

 神は答えた。
 ()()()()()、と。

 紙月は尋ねた。
 生まれ変わればどうなるのかと。

 神は答えた。
 ()()()()()()()()、と。

 結論はすぐに出るようなものではなかった。
 悩むことが多かったからではない。
 まず何を悩めばいいのかわからないほどに、紙月は空っぽだったからだった。

 古槍紙月にとって、世界とはどこか書き割りじみていた。
 薄っぺらで、現実感に乏しく、どこまでも無価値で無責任だった。
 そしてそれは紙月自身が薄っぺらで地に足がついていない、無価値で無責任な存在だからということもわかっていた。

 昔から大抵のことはできた。
 絵を描くこと。文章を書くこと。走ること。踊ること。歌うこと。
 でもどれも一等賞を取ったことはなかった。
 誰かの真似をすることはできた。でも誰かになることはできなかった。
 誰かの模倣をすることはできた。でも自分になることはできなかった。

 いつだって紙月は二番目か三番目だった。
 才能がないわけではなかった。でも届かなかった。
 努力はしているつもりだった。でも届かなかった。
 才能があって努力もして、それでも目には見えない何かが、一番と紙月との間に横たわっていた。

 資格魔と言われるくらいにいろいろな資格を取った。
 役に立ちそうなものも、役に立たなさそうなものも。
 きっと何かになれるだろうと、きっと誰かになれるだろうと、ひたすらにあがいた結果は、しかし届かなかった。

 どんな資格も、どんな免許も、取るのに苦労なんてしなかった。
 けれど、それを一番になるまで磨き上げることはできなかった。
 アクセサリのようにじゃらりと連ねた資格の類が、鎖のように酷く重たかった。

 誰かの代わりにはなれた。でも誰かになることはできなかった。
 誰かの替わりにはなれた。でも自分になることはできなかった。

 紙月は予備だった。どこまで行ってもこの世界の予備だった。
 紙月でなければならないことなどこの世には一つもなくて。
 紙月でなければいけないことなどこの世にはなにもなくて。

 紙月がいなければならない意味なんて、この世界にはなかった。

 家に帰れば、家族でさえそうだった。
 病死した父の代わりは母が十全に務めた。
 子の役割は三人の姉たちが十分に務めた。
 紙月はあまりだった。務めなどなかった。

 姉たちはみな器用だった。
 みな器用に生き、器用にふるまい、器用に楽しんでさえいた。
 紙月が人の真似をして、人の模倣をして、ようやくたどり着く場所に、姉たちは自然体でいた。

 大学に入って、演劇をしてみるようになって、紙月は自分の致命的な欠陥に気付いた。

 どんな役でも演じられた。
 どんな人でも演じられた。
 どんな役目でもこなした。
 どんな人間でもこなした。

 でも、それだけだった。

「君には芯がない」

 そう言ったのは誰だっただろうか。
 思い出すこともできないほど、ささやかな言葉だった。
 けれどそのささやかな言葉が、紙月の胸に今も深く刺さって取り除けないでいた。

 君には芯がない。
 ああ、そうだ。その通りだ。

 古槍紙月には自分というものがなかった。
 がむしゃらに自分というものを探して、いくつもの仮面をかぶって、それで結局仮面の内側がつかめないままで彷徨う亡者だった。

 この世が舞台ならば、書き割りの世界ならば、紙月はただ役者という役割を演じられた。
 だがこの世界は夢ではない。夢と同じものでできているふりをしても、むくろをさらすことは避けられない。
 からっぽで中身のない、寒々しいむくろをさらすことは。

 ゲームの世界では紙月は一息吐けた。
 なぜならばゲームの世界ではだれもが役者だったからだ。

 誰もがそれぞれのキャラクターという仮面をかぶり、誰もがそれぞれのキャラクターを演じていた。
 そこにひとり、中身のない仮面が紛れ込んだところで、誰も気づかず、誰も触れたりなんかしない。

 《エンズビル・オンライン》は紙月にとって救いだった。
 METOはその救いの象徴だった。
 他の誰でもない、ペイパームーンを求めてついてきてくれるたった一人の相棒。

 しかし今やその夢さえ終わる。終わる。終わる。
 死がもはや目前まで迫っていた。
 避けようのない死が迫っていた。

 だが死ぬことと生きていないことと何が違うだろうか。
 いままでのいつわりしかない人生と何が違うだろうか。

 そう思い至った時、紙月は決めていた。

「俺は……そうだった……俺が、選んだんだ」

 夢と始まり夢と終わるのならば、せめて実のある夢を見ていたいと。

「選んだのは、俺だ」

 それが、古槍紙月の異界転生譚だった。





用語解説

・異界転生譚
 それは彼の物語である。
前回のあらすじ

紙月の選択。





 自分の選択。自身の選んだ世界。
 神の記憶。自らの死の思い出。

 そういった記憶の揺さぶりに、紙月はあえいだ。
 溺れそうなほどの情報が、一時に脳を駆け巡っていった。

 床に崩れ落ちそうな体を抱きしめ、紙月は深く呼吸を改めた。

「俺達は……」
「なんじゃい」
「俺達は、もう、元の世界に帰ることはできないのか?」
「言うたじゃろ。わしらはもうすでに死んでおる。死んだ者が、蘇ることはない」
「でも、でも未来はまだ死んでなんかいなかった!」
「だが選んだ」

 錬三のいっそ冷徹な言葉に、そして静かな未来のまなざしに、紙月は黙り込んだ。黙り込むほかになかった。

「境界の神プルプラは気まぐれだが、人の自由意思を尊ぶという。わしは選択した。未来は選択した。そしてお前さんも選択した。わしらは皆、この世界で生きることを選んだ。一度選んだ以上、プルプラはその決定を覆すことはないじゃろうな」
「そう、か」

 なんだか不意に力が抜けるような思いで、紙月はふらふらと手近な椅子に腰を落とした。

「俺は、じゃあ……俺は、死んじまって……」

 自分を予備だと思っていた。
 何かの代わりにしかなれない、そう言うさだめだと思っていた。
 しかしいざ実際に自分がもう二度とあの世界には帰れないのだと知ると、途端に未練がわいてきた。
 母の顔が恋しかった。姉たちのからかいが懐かしかった。大学の友たちに会いたかった。
 だがそれはもう叶わないのだった。
 もう永久に、それは叶わないのだった。

「いままで、俺は何をしてたんだろうな……」

 元の世界に帰ろうと、紙月は努力してきたつもりだった。
 せめて未来だけでも帰してやりたいと、あがいてきたつもりだった。

 だがそれは無駄だった。
 無駄だったのだ。
 無駄なあがきですらない。
 最初から前提をかけ間違えていたのだ。

 無駄だった。無意味だった。無価値だった。
 それはまるで紙月の人生のようだった。
 何者になることもできなくて、何者かになれるはずもなくて。

「全部、無駄だったんだな……」
「違うよ」

 打ちひしがれる紙月に、しかし未来は否定した。

「違うよ紙月、違うんだ。無駄なんかじゃなかった。だって、紙月は僕を守ってくれた」
「未来……?」

 未来にとって、この世界での出発は、ゼロからのスタートのつもりだった。
 元の世界のしがらみをすべて放り捨てて、一人の人間としてやっていくのだとそう思っていた。
 不安はあった。
 むしろ不安ばかりだった。
 愛されることになれた自分が、疲れた愛にさらされることに倦んだ自分が、果たして誰かを受け入れることができるだろうか。
 愛することを知らず、ただただ愛されて甘やかされて育ってきた自分が、果たして一人でやっていけるだろうか。

 それでも未来は選んだのだった。
 そのまま父を擦り減らせてしまうくらいならば、もういっそ自分から消えてしまって、どこかへ行こうと。

 だからこの世界に転生して、傍らに眠る人を見て、自分が一人ではないのだと、本当に、本当に驚いたのだった。まさか、そんなはずはと思いながら、それでもその頬に触れ、ぬくもりを感じ、そしてその実存に心底救われたのだった。

 ちっぽけな不安と言えばちっぽけなものだっただろう。
 けれど、何もわからない世界で、もう一度、紙月は未来を救ってくれたのだった。
 右も左もわからず右往左往するばかりの未来は、紙月という存在に救われたのだった。

 紙月にはそんなつもりはなかったのかもしれない。
 紙月自身が追い詰められて、その末の選択だったのかもしれない。
 それでも未来は救われたのだった。

 それは、決して無駄な事なんかではなかった。
 決して、決して、無駄な事なんかではなかったのだ。

「紙月。僕は本当は一人ぼっちのはずだったんだ。巻き添えにしてしまったのかもしれない。紙月自身にも事情があったのかもしれない。でもね、紙月。僕は紙月が一緒にいてくれることで本当に救われたんだ」

 訳の分からない異世界で、どうしてこんなところにいるのかも覚えていなくて、それでも、紙月は未来を護ろうとしてくれた。一緒に居ようと、手を差し伸ばしてくれた。

 それがどんなにか未来の心を救ったか、紙月はきっと知らないのだ。
 未来自身、どんなに言葉を重ねても、その気持ちを伝えきれる気はしない。

 それがどんな由来で、どんななりゆきでやってきたのかにかかわらず、紙月という存在は未来にとってたった一つ暗闇でともるともしびだった。

 ペイパームーン。

 たとえそれがいつわりの光でも、中身のない張りぼての月だったとしても、それは確かに未来をここまで導いてくれたのだった。

「未来、俺は、俺は、」
「紙月。僕はね、本当に本当にうれしかったんだ。とっても身勝手で、自分勝手で、独りよがりなのかもしれないけれど、それでもね。僕は、紙月がしてくれたことを、どんなにか嬉しいことだと思うよ」

 紙月もまた、未来のまっすぐなまなざしに、自分が救われていたことに気付いた。

 何もわからない異世界で、本当は泣きたかったことだろう、辛かったことだろう、当たり散らしたかったことだろう。
 けれど未来は、一度だって弱音を吐いたことなどなかった。

 紙月が何も覚えていないことを悟って、今までこの小さな体に秘密を隠し通して、身の丈に合わない鎧で紙月を守ってくれたのは未来だった。

「未来。俺、本当に情けないやつだけどさ。本当に、本当に頼りないやつだけどさ。それでも俺、お前といられてよかったよ。お前が救われたって言ってくれて、それで、ようやく俺にも意味ができたんだと思う」

 それはいびつな依存関係かもしれない。
 互いに互いの体に寄り添って、お互いの傷をなめあうような関係なのかもしれなかった。

 しかしこうして二人は確かに、お互いに通じるものを得たのだった。





用語解説

・ペイパームーン
 紙製の月。偽物の月。
 でも君が信じてくれるなら、それは本物の月にだってなるだろう。
前回のあらすじ

それはただの書き割りの月。
もしも君が信じてくれなくちゃ。





「すこしは落ち着いたかい」

 錬三の入れてくれた豆茶(カーフォ)のカップを手に、紙月と未来は目を合わせて恥ずかしげに笑った。

 何しろつい先ほどまで、二人は抱き合ったまま、子供のようにわんわんと泣き喚いて、何事かと人が見に来るほどだったのだ。
 それがようやく落ち着いて、二人はやっとこさお互いの顔を、まともに見れるようになったのだった。

 いや、正直なところ、まともに見れるかというと、実際はそうでもなかった。ちらちらとお互いの顔を見上げては、なんとなく気恥ずかしくなって顔を俯かせるという、そう言う繰り返しだった。
 何しろ自分の半生を語ったうえに、互いに互いの共依存を語り合ったような、要するに自分達はべったりですよと告白しあったばかりのようなものなのだ。これが気恥ずかしくない訳がなかった。

 世の中に友情宣言をする者たちは数多くあれど、よくもまあ永久にだのなんだのと言えるものだと紙月は困惑するばかりであった。

「まあ、豆茶(カーフォ)でも飲んで、少し落ち着くがいいさ。こいつはまあコーヒーと同じようなもんでな。いくらか、落ち着くじゃろ」

 二人は並んで座って、受け取った豆茶(カーフォ)を少しずつ冷ましながら口にした。それはいままでの飲んだどんなコーヒーよりも優しく、そしてくすぐったい味がするのだった。

 この黒い液体はただ苦いばかりでなく、豊かな香りと、穏やかな甘みをもって、確かに二人の神経を鎮め、穏やかな心地を取り戻させてくれた。

「落ち着いたか。落ち着いたら、どうするね、お前さん方」
「どうするって、何を?」
「紙月、お前さんもうちょっとしっかりしてやらんと、未来をリードしてやれんぞ」
「む、むう」

 そう言われると、弱かった。
 もとより大人として、子供の未来のことを庇護し、引率しているつもりだった。
 しかしその実態は子供である未来に護られ、ここまで支えられてきたようなものなのである。

 錬三はあきれたように自分も豆茶(カーフォ)を啜り、それから煙管をふかした。
 ぷかぷかといくつかの煙の輪が、天井へと向かって登っていく。

「もともとわしを訪ねてきたのは、元の世界に帰る手掛かりを探してのことじゃったろう」
「ああ、そうだった」
「全く。それで、今やそれは不可能ということがしっかり思い出されたじゃろう。なら、今後は何を目的とし、何を目標とするか、考えておかんと、あとで苦労するぞ」

 そう言われて紙月は困った。
 何しろ紙月にはもう目的というものがなかったのだ。
 ただひたすらに未来をもとの世界に返してやりたい、できれば自分も帰りたいとそのことばかりだったのである。

 その目的が失われてしまった今、紙月に果たして何があるだろうか。

「……未来はどうしたい?」
「僕? 僕は、別に、最初から当てがあったわけじゃないからね。漠然と、新しいところで再出発しようかなって思ってただけで」
「小学生だからというか、小学生らしくもなくというか、後先考えん奴じゃのう」
「うう、だってあんなの急に言われたって、そんなすぐにその後の人生計画立たないよ」
「まあ、そりゃそうかもしれんな」

 何しろあなたは死にました、次の選択肢から進路を選びなさい、などと前置きなしの予告なしでぶちまけられたのだ。
 いくら未来が子供なりに賢しいとはいえ、それはあくまでも子供なりのものであって、経験も乏しい小学生にいったいどんな計画が立てられたというのだろうか。
 まして一応は大人である紙月だって、全く思いついていないようなことなのだ。

「お爺ちゃんはどうだったのさ」
「わしぃ? わしはあれよ。生前かみさんには苦労させたから今度は気楽に独り暮らししたいとか、会社経営失敗したような気がするからもうちょい楽な経営したいとか、そんなもんかのう」
「なんか地味」
「生きるってのはそう言うことじゃろ」
「生きるってこと、ねえ」

 二人はしばらくまんじりともせず豆茶(カーフォ)を啜って、それからゆっくりとうなずきあった。

「じゃあ、当面の目的は生きるってことで」
「楽しく生きるってのがいいね」
「そうだな。他に目的なんてもうないしなあ。しいて言うなら、お前を護ってやることくらいか」
「それでいいじゃん」
「へっ」
「それでいいよ。それだけだっていいよ。紙月は僕を護って。僕は紙月を護るから」
「あー……おう」
「おーおう、漠然としたこと言って、あとでもめる奴じゃな」
「物騒なこと言うない」

 結局のところ、何が変わったと言って、何も変わってなどいないのだ。
 紙月は紙月だし、未来は未来のままだ。
 お互いにいろいろと語り合ったとはいえ、コンプレックスはコンプレックスのままだし、欠陥は欠陥のままだし、そして互いに互いを護ろうという気持ちもそのままだった。

 ならば、きっとそれでいいのだ。
 無理に何かを変える必要なんてない。
 すでにこんな異世界に飛ばされるなんて言う、大きな変化があったばかりなのだ。

 この新世界での人生は、始まったばかりなのだから。





用語解説

・何もないのは平和の証