俗に言うネット恋愛ってやつに興じていたことがある。

 今からさかのぼること十数年前。南関東某所の三流私大生であったギャル男崩れの僕は、しかしその似非メンズエッグモデル的な派手な見た目に反し、まったくと言っていいほど女っけがなかった。

 大学に女友達はおらず、強いて言うならば知り合い、顔見知り程度のもの。片や男友達だって、さほど多いわけでもない。そんな悶々エッセンスを凝縮したかのようなキャンパスライフの中、二十歳くらいのころだろうか。僕は、ひょんなきっかけから2ちゃんねる (現5ちゃんねる) よりもだいぶ格が落ちるマイナー掲示板の存在を知り、いつしか入り浸るようになった。

 ちなみに、時はゼロ年代後半。ツイッターやフェイスブック、インスタグラムなどのサービスがまだ一般に普及していないSNS黎明期の話である。当時幅を利かせていたミクシィやら何やらに正体不明の拒否反応を起こしていた僕が、この場末感漂う無名のネット掲示板に居場所を求めたのは、今思うと至極当然の流れだったのかもしれない。

 夏。街の至るところでセミがジージーと鳴き狂い、液晶の向こうでは高校球児たちが死にもの狂いで白球を追いかけていたあの夏。僕は「馴れ合い」と名づけられた、同じ趣味を持った者同士の交流を主とした賑やかなカテゴリにて、とある少女と出会った。彼女は千葉県某所の女子校に通う十八歳で、受験生で、深夜アニメが好きな声優オタクだと言った。同じくアニメやマンガ、ライトノベルに代表されるような典型的オタク趣味を持つ僕が、さして年齢の変わらぬマナツちゃんなる少女に心を開くまで、そう時間はかからなかった。

 夏休み真っただ中のなんちゃってニート生活にかこつけて、アルバイトもしていない、サークルにも所属していない怠惰の権化たる僕は、暇さえあればガラケーでもって掲示板を訪れ、スレッドを覗き、そのたびにマナツちゃんとのネット逢瀬を楽しんだ。当初こそ本当の意味での暇つぶしに過ぎなかったのだが、僕は穏やかで気さくでどこか天然なマナツちゃんの人柄に徐々に心惹かれていき、気づけば全細胞レベルで彼女に夢中になっていた。

 マナツちゃんとは、もっぱら文字だけのつき合いであった。ただの一度だって電話やスカイプ、テレパシーでのやり取りを交わしたことはない。けれど、十分だった。十分過ぎた。なぜなら僕は、彼女の書き込みを当時推していた人気アイドルAの萌えキュンボイスに変換し、脳内再生し、言わばもうそれだけで満ち足りていたのだ。

○○○

 いわゆる「捨てアド」を用い、僕らが掲示板以外での交流を図るようになったのは、出会いから一ヶ月ほどが経過したころの話である。

 プライベートでのやりとりを提案したのは僕のほうだった。このころにもなるとマナツちゃんのさらにパーソナルな部分を深掘りしたいという欲が萌芽し始めており、何より自分自身が何者なのかということを彼女に知ってほしい、受け入れてほしいと、そんな身勝手な願望を心密かに抱き始めていたのだ。

 あるとき、お互いの顔写真を交換しようという、いかにもありがちな流れになった。僕は、三歳児にほどよく弄ばれた哀れリカちゃん人形みたいな髪型の、当時としてはイケていると確信していたホスト風のマイベストショットをドキドキしながらマナツちゃんに送信。

 嫌われたらどうしよう。微妙なリアクションだったらどうしよう。一抹の不安が脳裏を過り、けれどそれは杞憂に終わった。

 結論から言うと反応は上々。ジュノンボーイっぽい! かっこいい! とマナツちゃんは片田舎出身のギャル男崩れの容姿を大絶賛してくれた。お世辞でもうれしかった。

 次いで、待ちに待った彼女のターンである。あんまりかわいくないけど……そんなネガティブ極まりない文面が、まず真っ先にコンタクトレンズ越しの網膜に飛び込んでくる。もっとも、僕は美少女を期待していたわけではなかった。いや期待していなかったと言えば嘘になるが、とにもかくにもマナツちゃんという存在を文字だけではない、現実に生きる生身の異性として認識したかったのだ。

 大げさでもなんでもなく喉から五臓六腑が飛び出しそうなくらいド緊張しながら、マナツちゃんからのメールをカチカチと縦スクロール。無意識のうちに指先が震えてしまう。

「……‼」

 そして次の瞬間、僕は呼吸の仕方を、瞬きの仕方を忘れていた。

 文末に添付されていた、いささか解像度の低い一枚のプリクラ画像にはなんと、あろうことか憧れのアイドルAが! あのAが写っていたのだ!

 もちろん、低偏差値の三流私大生とてそこまでバカヤローではない。画像の中で堂々たるハリウッドスマイルを浮かべ、某プリキュア戦士ばりのダブルピースをカメラ目線で決めてみせる楚々とした少女が、A本人ではないということくらい重々に理解していた。Aが、いや華やかな芸能の世界に生きる大スターのA様が、こんな一介のさえない鼻クソ学生風情をお相手にしてくださるはずがないのだから。

 思いつつ、けれどもクモの巣状にひび割れた液晶に写る制服姿のロングヘアガールは限りなくA似であり、また誰がなんと言おうとも純然たる美形であった。身体の隅々からみずみずしいピーチやらストロベリーやらの甘い香りがふんわり漂っていそうな、パリのアパルトマン風の部屋がすばらしく似合いそうな、僕好みの正統派美少女だった。

 冷房をガンガンに効かせた極寒の101号室にてガラケーをこれでもかと強く握りしめながら、僕は人生もう何度目かの運命とやらをチャクラでもって感じ取る。

 そしてこの日、僕は手のひらサイズの勇気を振り絞り、早くもマナツちゃんとの初デートの約束にこぎ着けた。

 デート。デェト。でえと──。

 頭上三十センチで永久機関のごとく回り続けるスイートワード。

 少女とのスペクタクルな恋物語を妄想、空想しては頬肉をだらしなく弛緩させていたこの瞬間が、今思えば幸せの絶頂だったのかもしれない。

○○○

 デート前日の夜、部屋の電波時計が二十時ジャストを表示したころだったろうか。愛用の低スペック・ノートパソコンを用い、動画サイトにてお気に入り配信者のギャルゲー実況を観ていた僕のもとに、突如として一通のメールが届いた。充電器につながれたガラケーの背面ディスプレイを確認すると、そこにはマナツちゃんの名前が。

 なんとなく嫌な予感を覚えながら、咥えていたメンソールたばこを手元の灰皿にむずと押しつけた僕は、おそるおそるメールを開封した。

『リョウくん、ごめん。あのね、本当に残念なんだけど……明日のデート行けなくなっちゃった』

 ビンゴ! 僕は思わず心で叫んだ。悲しいかな、こういうときの予感は経験上、八割型当たってしまうのだ。

 ガックシと肩を落としつつ理由を尋ねると、何やら入院中の母親の容態が悪化しており、デートどころではないということだった。

 マナツちゃんの母親が血液のガン──白血病を患っているということを僕は、彼女から前もって聞かされていた。

 美顔ローラーを入念に繰り返し、ブックオフで購入した恋愛指南書を隈なく読み込み、またデートスポットのロケハンまで完璧に済ませていたのだが、理由が理由だけに悪あがきもできない。

 僕はジェントルマンらしく潔くデートを諦めると、親愛なるマナツちゃんになし得る限りの温かな言葉をかけ、

『またメールするよ』

 と早々にやりとり終了の空気を醸し出した。

 返事は秒だった。

『待ってる。好きだよ』

『ありがとう、マナツちゃん。僕も好きだ』

 大好きだ。

○○○

 僕らの居場所であったマイナー掲示板が閉鎖されたのは、上記のやりとりからほどなくのことだった。

 理由は無修正アダルト画像の横行だったと記憶しているが、詳細は不明である。ただ、閉鎖間近のころの雰囲気は全体的に殺伐としており、また精神年齢のすこぶる低い「荒らし」の続出により、もはや無法地帯と化していたことだけはよく覚えている。

 そして、奇しくも掲示板閉鎖のタイミングと時を同じくして、僕とマナツちゃんの関係にも終わりがきてしまった。それはまさに青天の霹靂と呼ぶにふさわしい出来事だった。

 端的に述べよう。マナツちゃんはメールアドレスを変更していたのだ。なんの前触れもなく、唐突に。

 大学のつまらない講義中、学食での味気ない食事中、排泄中、すえた匂いの東武東上線の中、就寝前の数十分、いつだって彼女の想念が脳裏にちらつき、こびりついて離れない。どうにも忘れられない。そもそもなぜ愛想を尽かされてしまったのか、その理由すらもわからない。まるで心当たりがない。

 つらい。切ない。苦しい。悲しい。もどかしい。

 すっかり空虚と化してしまった日常にかつての色彩を取り戻すため、僕は雨の日も風の日も、何度も何度もマナツちゃん宛てにメールを送信した。彼女からのメッセージを待ち続けた。しかしいくら愚直に待ち続けてみたところで、やはりメーラーデーモンさんなるへんてこりんな名前の外国人から長文の返信が届くばかりであった。

 ため息ばかりの毎日にふと思う。マナツちゃんはもしや、己が雑念が生み出した、ひと夏の幻だったのではなかろうか──いいや、待て。そんなライトノベルじみた話があってたまるか。たまるものか。彼女は確かに存在していて、なんの取り柄もない僕のことを受け入れてくれて、「好きだよ」と言ってくれたのだ。たとえそれが、メールでのやりとりだったとしても。

 十八歳当時のマナツちゃんにいったいどんな事情があって、そして今はいったいどんな暮らしをしているのか。あの蜃気楼のような季節から十数年が経ち、すでに三十代を迎えているにもかかわらず、僕はいまだに未練がましく彼女の幻影にすがってしまうきらいがある。

 東京の大学に進学したいと言っていたけれど、無事に合格できたのだろうか。お母さんは元気なのだろうか。結婚はしているのだろうか。子どもはいるのだろうか。幸せにやっているだろうか。

 あの夏を、僕を、ほんの少しでも覚えてくれているだろうか。

 記憶の底をさらい、遠い黒歴史の日々に思いを馳せた、ひどく感傷的な夜。

 彼女とのやりとりに使用していた京セラのガラケーは、もう動作することのない手垢まみれのガラケーは、今もなお静かに自宅のクローゼットで眠っている。



「少女は真夏の電波にさらわれたのだ」完