「え……お昼、別で食べるの?」
 美来の声が沈み、表情に陰が落ちる。

「毎日じゃなくて、美来が志保ちゃんと食べるときに私抜けてもいいかな……?」
 志保ちゃんを交えて三人でお昼を食べるときが度々あるので、そういう日に私は輪から抜けて知夏ちゃんと藤田くんと一緒にお昼を食べるつもりだった。

「志保が混ざるの嫌だった?」
「ううん。そういうのじゃないよ。ただ一緒に食べたい人たちがいるんだ」
「そっか……わかった」
 詳しく聞かれるかと思ったけれど、美来はそれ以上聞いてこなかった。他の人たちとはほとんど交流がないはずの私が、別で食べると言い出したことが意外だったのか呆然としている。
 どう思われたのか、いなくなった後にどんなことを言われるのか。考えると怖い。だけど、嫌われたくないからとひとつの居場所にしがみつくのではなくて、美来との関係も知夏ちゃんたちとの関係も大事にできるようにしていきたい。

 昼休み、志保ちゃんの元へ行く美来と別れる。私はお弁当を持って一階まで降りた。渡り廊下を進み、東館と呼ばれている増築された校舎に足を踏み入れる。授業以外でここの建物に訪れる生徒は少ないため、ひと気がない。
 パソコン室の近くまで行くと、階段付近の開けた場所に知夏ちゃんが座っていた。

「お待たせ、知夏ちゃん」
 ふたりで床に座り、他愛のない会話をしていると、少しして藤田くんがやってきた。どうやら購買までパンを買いに行っていたようで、両手にパンを四つ抱えている。藤田くんの食べる量に驚愕した。私だったらふたつでお腹いっぱいになる。

「そんなに食べれるの?」
「余裕。てか、岡辺それだけかよ」
 一方知夏ちゃんは小さなおにぎりひとつだけで、かなりの少食のようだった。

「お昼ってあんまりお腹空かないんだよねぇ。食べすぎると気持ち悪くなっちゃうときがあって」
 あっけらかんとした口調で話しているけれど、その原因はおそらく学校での人間関係が原因なのではないかと思う。気を張り詰めて過ごしているため、食事があまり喉を通らないのかもしれない。
 黙り込んだ私と藤田くんがなにを考えているのか察したらしく、知夏ちゃんが眉を下げて微笑む。

「でも今日は久しぶりにお昼休みが楽しいよ」
 鼻の奥がつんとして、目が潤んだ。心の支えというほど大きくはなくても、このひとときが知夏ちゃんの中で小さな希望になっているのなら、お昼ご飯を食べようと提案してみてよかった。

「そういえばさ、さっき先生に呼び出されたんだよね」
 知夏ちゃんは、複雑そうな笑みを浮かべながら言葉を続ける。

「体育でボール投げられたり、足引っ掛けられたりしてる私を見て、いじめのこと勘づいたみたい」
「教師が目撃してんだから言い逃れはできねぇんじゃねぇの」
「……そうだね。多分注意されてもあの人たちは変わらないと思うけどさ」
 藤田くんは良い方向に捉えているようだけれど、知夏ちゃんはどこか浮かない表情だ。できれば、いじめがおさまってほしい。でも相手がどう出るかわからない。

 誰かの悪意を止めるというのは、簡単ではないのだ。
 ご飯を食べ終わり、三人で東館を出た。あと十分くらいで昼休みが終わる。知夏ちゃんの表情は先ほどよりも強張っていて、教室に戻りたくないようだった。

 階段を上り始めてから、私たちの口数は減っていく。時折物珍しそうな視線が向けられて、藤田くんや知夏ちゃんに注目しているのがわかる。

 一年生の教室がある三階に着いて、左へ曲がった。教室の位置的に、一番近いのは知夏ちゃんのクラスだ。
 何事もなく無事に終えると思ったときだった。前方に女子四人組が立っていて、こちらを見ている。敵視というよりも戸惑いを含んでいるような眼差しで、コソコソとなにかを話しているようだった。無遠慮で嫌な視線だ。
「俯くなよ」
 知夏ちゃんの右側に立った藤田くんが、私たちにだけ聞こえるほどの声量で言った。その一言は、私の背筋までピンと伸ばす。
 そうだ。なにも悪いことをしていないのだから、俯く必要なんてない。私は知夏ちゃんの右側に立つ。

「大丈夫だよ、知夏ちゃん。なにかあったら、私駆けつける!」
 自分でもこんな言葉が出てくるとは思わなかった。目立つのは苦手で、陰口を言われるのは嫌だというのは変わらない。
 けれど苦しめられている知夏ちゃんを守りたいという気持ちが強い。大した力なんてないけれど、それでも傍にいることはできる。

「……ひとりぼっちじゃないって心強いね」
 泣くのを堪えるような震えた声。ずっと知夏ちゃんはひとりぼっちで戦ってきた。やってないことを証明するのは難しい。噂は勝手にひとり歩きをして、尾鰭がついていく。
 誤解している結愛ちゃんたちだけではなく、噂を聞いただけの無関係な人たちまで知夏ちゃんに勝手なイメージを貼り付ける。だけど、彼らと私も同じだった。あの人はこういう人だと決めつけて接していたのだ。

 私自身、他人に貼られたイメージで苦しさを抱えていたのに。
 真面目。周りと上手くやれる。しっかりしてる。八方美人。誰かの中での私は、そういう人で、それが窮屈に感じることがあった。私よりも私を知っているようにイメージが作られていき、本当の自分がよくわからなくなっていく。

 ——笹原の気持ちを大事にした方がいい。
 藤田くんがくれた言葉が頭に過ぎる。私はどうしたいのか。今まで何度も考え続けてきたけれど、今は自分の気持ちの形が見えてきていた。
 周りの目やイメージよりも、もっと大事にしたいものがある。私は自分を守り続けてばかりじゃなくて、大切な友達を守りたい。
 集まる視線から逃れるのは無理だけど、だけど怯まないように顔を上げて歩いた。

「ありがとう、ふたりとも」
 知夏ちゃんのクラスの前までたどり着くと、声はすっかり硬くなっていた。これからまた知夏ちゃんは味方のいない教室で過ごさなければならない。
 教室の中へ入っていき、知夏ちゃんの背中が遠ざかっていく。
 バイト初日に、なにかあったらいつでも相談をしてねと声をかけてくれた知夏ちゃんの笑顔や、困ったときに素早くフォローしてくれたこと、辛いと言いながら泣いていた姿が脳裏に浮かぶ。

 ほんの些細なことかもしれないけれど、それでも——

「知夏ちゃん、またね!」
 私は味方だよって、伝えたい。振り返った知夏ちゃんは、今にも泣きだしそうな表情のまま唇で弧を描く。

「うん! またね。楓ちゃん、藤田!」
 教室の真ん中で、知夏ちゃんがバイト先みたいに大きくて明るい声を出す。たくさんの視線を浴びながら、私たちは手を振り合った。

「俺と教室戻って大丈夫なわけ?」
 知夏ちゃんと別れて、私と藤田くんはふたりで廊下を歩いていく。
 私たちのクラスはここから少し離れている。今から別々で歩けば同じクラスの人たちからは好奇の目で見られない。そうしたいのなら今のうちだという藤田くんなりの優しさだ。私は「大丈夫」と答える。

「さっきので、ちょっとだけ吹っ切れちゃった」
「あんな大きな声出すのは意外だった。いや、笹原って案外大きな声出すよな。バイト初日とか、帰り道でびびったし」
「あれは力が入り過ぎちゃっただけだよ!」
 揶揄うように言われて、慌てて否定する。普段は特に声は大きくないけれど、緊張したり、力みすぎるとつい声量が上がってしまう。

「笹原も悪い噂流されるかもしれねぇぞ」
「それは嫌だなぁ」
「なら……」
「でもそれを気にするせいで、藤田くんや知夏ちゃんと一緒にいられないなら、そっちの方が私は嫌だなって」
「笹原がそう思うなら別にいいけど」
 素っ気なく言いながらも、表情は柔らかい。藤田くんは歩調を合わせてくれるし、話も真剣に聞いてくれる。ぶっきらぼうだけど優しくて、困っていると手を差し伸べてくれる人だ。噂なんて当てにならないなと改めて思う。

「今日のお昼、楽しかった?」
「久しぶりに誰かと昼飯食ったし、つまらなくはなかった」
 あと素直じゃないも追加だ。クスクスと笑ってしまうと、怪訝そうな顔をされる。

「なんだよ」
「藤田くんっておもしろいなって思って」
「そんなこと初めて言われたけど」
 歩いていると、無数の視線を感じる。だけど、それでも今は不思議と怖くはなくなっていた。私は自分の意思で、彼の隣にいる。

 学校という狭い世界の中で、私たちは自分の色(こせい)を隠したり、誰かの色に寄せたり、自己主張をする。人とうまくやるには多少の本音と我慢が必要だけれど、自分を飲み込みすぎていたら、やがてエラーが起こる。灰色は私自身のSOSだったのかもしれない。

 教室に戻ると、藤田くんと私が一緒に入ってきたことに特に驚いている人はいなかった。おそらく偶然同時に教室に入ってきたくらいにしか思われていないようだ。

「あ、楓〜。おかえり〜」
 私に気づいた美来が軽く手を振ってくる。

「ただいま!」
 お弁当を机の上に置いてから、美来の方へ歩み寄ると何故かほっとしたように私を見上げてきた。

「どうしたの?」
「楓がお昼別々なの初めてだったから……なにしちゃったのかなって思って」
 歯切れ悪く美来が答える。私が突然他の人とご飯を食べに行ったことに困惑をしているようだった。

「バイト先が一緒の子たちがいて、お昼時々食べようってなったんだ」
「それって藤田くん?」
「藤田くんと、商業科の岡辺知夏ちゃん」
「え、岡辺さん?」
 以前だったら、答えることに躊躇っていた。けれど隠す必要なんてない。

「うん。バイト先が同じで仲良いんだ」
 私たちの関係を意外そうにしながらも、美来は安心したように口元を緩める。
「そっか、そうだったんだ」
 めぐみのこともあって、揉め事が起こるのを不安がっていたみたいだ。
 顔色をうかがわれる側の人間だと決めつけていたけれど、美来だって誰かの顔色をうかがうこともある。強さの裏側に脆さも抱えていて、私と同じで嫌われたくないという思いが美来の中にもあるのだ。
 左腕につけているお揃いのバングルを指先でなぞる。これは自分を縛りつけるもの。いつの間にか、そう認識してしまっていた。

 けれど、美来が好意からくれた思い出の品のひとつであり、拘束力なんてないのだ。ひとつの居場所の証であって、留まらなければいけない鎖ではない。
 私は自分が思っているよりも、きっと自由だ。


***


 大きなスケジュール変更もなく、展示の準備は順調に進んでいる。板にペンキを塗る作業も一枚は無事に終わり、今日は残りのもう一枚に塗っていく予定だ。
 洗って乾かしていたハケや水を入れたバケツ、新聞紙などを抱えて歩いていると、隣にやってきた藤田くんがバケツを持ってくれた。

「貸して」
「ありがとう」
「作業順調?」
「うん。このままいけば間に合いそうだよ。あ、それとアンケート集まったから私たちも来週当日のタイムスケジュール組もう」
 何人ずつで組んでいくかなどをふたりで話していると、あっというまにピロティまで到着する。まだみんな来ていないようだった。

「運んでくれて、ありがとう。そこに置いておいてもらって大丈夫だよ」
 床にペンキが垂れないように新聞紙敷いていると、藤田くんもそれを手伝ってくれる。

「藤田くんも色、塗らない?」
「……俺いても邪魔じゃね?」
 私が板に手をかけると、藤田くんが一緒に持ち上げて新聞紙の上に置いてくれる。

「そんなことないよ。みんなでやった方が早いし」
 端っこに並べていた使いかけのペンキを板の前まで持ってきて、ハケに色をつける。

「ペンキで塗るの初めてだったんだけど、結構楽しいよ」
 たっぷりと色を含んだハケからポタリとペンキが垂れる。ぽたぽたと雨の雫のような染みが板に広がった。

「笹原、それ」
「え?」
「青じゃなくて赤のペンキ」
 ……赤?
 血の気が引いていく。慌ててハケをペンキの蓋の上に置いて、余っている新聞紙で板から色を吸い取ろうとするけれど、一度ついた色は消えない。

「っ、どうしよう、私……」
 間違えて他のクラスのペンキを使ってしまった。もっと気をつけてペンキに書いてある色の名前を確認するべきだったのに。なんとかしなくちゃ。でもどうやって?

「なんで赤塗ってるの⁉︎」
 叫ぶような声が聞こえて、びくりと肩を震わせる。
「どうしたの?」
「え、なにこれ……」
 めぐみやクラスの子たちが私の周りに集まってきた。板についている色を見て戸惑っている声が聞こえてくる。
 くしゃくしゃになった新聞紙を持っている私に視線が集まり、頭が真っ白になっていく。みんなに説明をしなくちゃいけないのに、言葉が出てこない。

「俺が間違えた」
 私を庇うように藤田くんが声を上げた。違う。藤田くんじゃない。私がしてしまったことなのに。

「ちが……」
「ごめん」
 みんなの非難するような視線が私から藤田くんへ向けられていく。このままじゃ藤田くんの責任になってしまう。

「……テーマ、海なのに」
「赤塗るとか、ありえなくない?」
 どくりと心臓が大きく跳ねる。私のせいだ。
 色がわからない私のために、藤田くんは名乗り出てくれた。このままやり過ごしたら、私のミスはみんなに知られない。誰からも責められることもない。だけど藤田くんの影に隠れていたら、こんな私は自分を許せなくなる。藤田くんの優しさに甘えちゃダメだ。

「私……っ」
 振り返った藤田くんがやめろというように眉を寄せた。

「赤を塗ったの私なの!」
 新聞紙を握り締めながら、声を上げる。

「間違えて赤をハケにつけちゃって、藤田くんがそれに気づいて止めようとしてくれたんだけど、ペンキが垂れちゃって……」
 理解できないといった様子のみんなの瞳。それでも自分の言葉できちんと説明をしないと。

「本当にごめんなさい!」
 静まり返り、痛いほど心音が加速していく。
 なにか言わなくちゃ。このままじゃダメだ。せっかくみんなで頑張ってきたのに。

「……っ」
「一旦落ち着いて。どうすればいいか考えよう」
 めぐみは冷静に言いつつも、気遣うように私の肩に手を乗せる。溢れ出てくる涙を服の袖で拭いながら私は頷いた。こんなときだからこそ、しっかりしなくちゃ。色が見えないからなんて言い訳にならない。確認を怠った私の責任だ。

「これって上から塗ったら一部だけ色変わっちゃったりするのかな」
 ひとりの子が漏らした疑問に、みんな黙り込んでしまう。彼女の言う通り、安易に重ね塗りしてしまったら混ざるのだろうか。

「白く塗れば」
 私たちの沈黙を裂いたのは、藤田くんの声だった。

「白いペンキ買うくらいの予算まだ残ってねぇの?」
 めぐみはカバンからノートを取り出して、ページを捲っていく。

「結構使っちゃったから、買えるか微妙」
 私が白いペンキ代を負担するのが一番いい方法かもしれない。だけど注文して届くまでの期間は作業ができない。それか近場でないか検索して探しにいくしかない。

「ペンキって先輩たちがまとめて購入してくれたんだよね? どこで買ったのか聞いてみる? もしかしたら余りとかもあるかも」
「でも先輩って三年のでしょ?」
 話したことないしと躊躇っている子たちの会話を聞きながら、あることを思いついた。

「美来に協力してもらう!」
 なんで美来の名前が出てくるのかと戸惑っている人が多い中、めぐみは私の考えがわかったようだった。

「確かに適任。三年に仲の良い人いるし」
 まだこの時間帯なら学校の近くにいるかもしれない。スマホを取り出して、美来に電話をかける。五コールほど鳴ると、『楓? どうしたの』と声がした。
「美来にお願いがあって……」
 私は展示の板に塗るペンキの色を間違えたことや、上から白いペンキを塗りたいことなどを説明していく。

「先輩たちがまとめてペンキを買ってくれたから、白のペンキがあったら少し分けてくれないかお願いしたくて……美来、三年の先輩の連絡先知ってたから、できれば聞いてみてくれないかなって」
 相槌を打っていた美来の声が止まる。こんなときに頼られて嫌な気持ちになっているのかもしれない。美来に聞いてと頼むより、連絡先を教えてと言った方がいいのだろうか。でもそれはそれで想いを寄せている相手なので、複雑な思いをさせてしまうはずだ。

『えーっと、つまり私から先輩に白いペンキあったら分けてほしいって頼めばいい?』
「……お願いできる?」
『おっけー! ちょっと今から聞いてみる。あとでまた連絡するね!』
 協力をしてくれたことに、再び目が潤んでいく。俯いたら涙がこぼれ落ちそうだった。まだペンキを貰えるかもわからないのだから、泣いている場合ではない。
 白いペンキを貰えた場合、私が塗ってしまった赤色が乾いていないと今日塗ることができない。なにか乾かす方法はないのだろか。下敷きで仰いでも限界がある。
 他にないかと考えを巡らせると、ある物が頭に浮かんだ。

「私、保健室の先生にドライヤーないか聞きに行ってくる!」
 居ても立っても居られず、動き出そうとする私の腕を藤田くんが掴んだ。

「落ち着けって。そもそも保健室にドライヤーなんてあるのかよ」
「……ないかな?」
 ひとりの子が「水泳部!」と声を上げた。

「部活が終わったらドライヤー使ってるって言ってたよ! 今日も部活あるはず」
「私、借りてくる!」
 じっとしていられず、動き出そうとする私を藤田くんが止める。

「まだ白いペンキ貰えるかわからねぇだろ」
 藤田くんの言いたいことはわかる。だけど貰えた場合のことを考えると、一秒でも早く乾かした方がいい。

「事前に準備しておきたくて!」
「水泳部に知り合いいんの?」
「……いない」
 急に知らない人がドライヤーを貸してと言いに行くのは、水泳部の人たちは躊躇うかもしれない。

「中学のときの友達、水泳部にいるよ。借りに行ってこようか?」
 めぐみが名乗り出てくれた。けれど、これは私に責任があることだ。めぐみだけに行かせるわけにはいかない。

「一緒に来てもらってもいい?」
「わかった。じゃあちょっと行ってくるね」
 他の子たちに断りを入れて、私とめぐみはピロティを出た。

 校舎の西側にある四角い建物が温水プールになっていて、水泳部の人たちがいる。中に入ると準備運動をしていた。
 めぐみの知り合いの子に声をかけて、事情を話す。部の物らしく、先輩や顧問の先生に確認をしてくれることになった。
 私とめぐみは部活の邪魔にならないように女子更衣室のベンチに座って待つ。

「一緒に来てくれてありがとう」
「……うん」
 こうしてめぐみがいてくれるだけで心強い。それに焦って取り乱していた私を落ち着かせようとしてくれた。

「それとスケジュールの件も手伝ってくれたり、いろいろ本当にありがとう。助けてもらってばっかりなのに、こんな迷惑かけちゃってごめんね」
 向き合わないといけないと思いながら後回しにして、私はめぐみに伝えられていなかったことがたくさんある。
「私……めぐみと話したいって思ってたんだ」
 あの夏の日、突き放されたように感じて、めぐみを避けるようになってしまった。だけど私たちはお互いにまだ言葉にできていない思いがたくさんある。

「自分の気持ち言うのが苦手で、流されて楽をしてたこともあったんだ。でも……めぐみのことも美来のことも大事だったの」
 好きだからこそ嫌われたくなくて、私はふたりの機嫌を気にしていた。

「不満がまったくなかったわけでもないけど、嫌々一緒にいたわけじゃなかったんだ。それだけは知ってほしかった」
 私がもっと本音を伝えることができていたら、壊れずに済んだのかもしれないとか、ふたりの間を取り持てていたらとか考えてしまう。だけどもう一度戻っても、正解なんてわからない。それに後悔をした今だからこそ、自分の気持ちを伝える大切さに気づけたのだと思う。

「……私の方こそ、ひどいこと言ってごめん」
 めぐみの声が微かに震えていた。泣きだしそうな眼差しで私を見つめている。

「私ずっと、楓に謝りたいって思ってたのに、なかなか言えなくって。……勇気がでなかった」
 予想外の言葉に呆然としていると、めぐみが諦めたように目を伏せる。

「ごめん、楓。怒ってるよね」
「……どうして?」
 文化祭の件で何度かやりとりをしたけれど、私はめぐみに対して苛立ちをむけたことはなかった。むしろめぐみが私を嫌っていると思っていたのに。

「八つ当たりでキツいことたくさん言ったし……。いつも楓は不満があっても我慢するでしょ。だから内心、私に呆れてるんじゃないかって思うと怖かった」
 人と上手くやるには表に出さない方がいい感情もある。けれど私の我慢は、めぐみにとって見えない壁のように感じていたんだ。


「ごめん……めぐみ」
 ——美来の顔色を気にしながら、私に話しかけるのはなんで?
 八つ当たりと言っていたけれど、きっとそれだけじゃない。

「私の行動がめぐみを苦しめていたんだよね」
 人の顔色ばかりうかがっていた私は、悪者になりたくなかった。めぐみを仲間外れにするのも嫌で、だけど美来から嫌われるのも恐れていた。

「揉め事が起こるのが嫌だったんだ。平和でいたかった。そのためならちょっとの我慢くらい大丈夫って思い込んでたの」
 それが原因で、私は気づかないうちに心にストレスが蓄積されていった。

「私、自分のことが嫌いで、でもこんな自分を手放せなくて、変わることも怖くって……そんな私をめぐみに見透かされた気がしたんだ」
 変わる努力をしなかった。なにをするにも自信が持てないまま、その場しのぎの言葉を羅列して、無害な善人を演じていたのだ。自分で首を絞めているのに、指摘された途端、中身のない笹原楓という存在が恥ずかしくてたまらなくなった。

「楓は優しいから、みんなに合わせてくれてたんでしょ」
「違うよ。ただ臆病なだけで、本当はめぐみみたいになりたかったんだ」
「私みたいって……?」
「はっきりと言いたいことを口にできるところとか、自分を持っていて強いところに憧れてたの。でもなれないって諦めてた」
 曖昧なことばかり言っている私とは違って、自分があるめぐみを眩しい存在に思えていた。そして手に入れられないものから目を逸らすように、苦手なタイプだと身勝手なラベルを貼って避けてしまった。

「強くなんてないよ」
 めぐみは手をきつく握りしめると、今にも泣きそうな表情で笑う。

「強がってただけ。本当は……結構しんどかった」
 美来と仲違いをしてもめぐみは平然としているように見えていた。無理して合わない人といるよりも、ひとりの方が楽なのだろう。そう思っていたのだ。だけど平気なフリをしていただけだったんだ。

「居場所が少しずつなくなっていくのがわかって、一緒にいるのが辛くって……」
 目頭に溜まった透明な涙が、めぐみの頬をなぞるように伝っていく。

「楓も私と美来に気を遣って大変そうだったし、私なんていない方がみんないいんだろうなって」
 〝いない方がいい〟そんな言葉をめぐみが口にしたことに耳を疑う。

「学校行きたくなくて直前まで悩んだときもあったし、教室で泣きそうになったこともあって、気持ちの切り替えができたのは最近なんだ」
 親しかったはずなのに、私はなにもわかっていなかった。めぐみは強いからと決めつけて、表面上だけで判断していた。
 教室の中で、みんな平等に席を与えられているはずなのに、誰かとの関係が悪化しただけで、居場所が狭くなったように感じて心地が悪くなる。
 もしも自分がめぐみの立場だったとしたら、じわじわと酸素が減っていくように呼吸が苦しくなって、声を出すことすら躊躇っていく。

「だけど……ごめん。自分がしんどかったからって、酷いこと言って楓のこと傷つけていい理由にならないよね」
 私たちはお互いのことを見ようとせずに、自分の痛みばかりに気を取られていた。もっと早く気づけていたら。そしたら私たちはここまで傷つけ合うこともなかったのかもしれない。

「めぐみが辛いことに気づけなくて、ごめんね」
 私と同じで、めぐみも弱さを持っている。でもその形が違うだけ。美来だってそうだ。当たり前のことに気づくまでに遠回りをしてしまった。
 めぐみは首を横に振る。

「……私もごめん」
 赤色の中に、ほんの少しだけ橙色が混ざっていることに気づいた。
 めぐみは藤田くんと同じ赤色を纏っていても全く同じというわけではない。それぞれ自分の個性(いろ)がある。そしてそれは、関わる人や環境、自分自身がどう在りたいかによって変化していけるのかもしれない。

 水泳部の子から無事にドライヤーを借りることができた。赤いペンキがついてしまった板を乾かしていると、元気な声が廊下に響き渡る。

「先輩から白いペンキ貰ってきたよ〜! これ全部使っていいって!」
 美来はペンキの缶を抱えながら、小走りでこちらにやってきた。どうやら美来は先輩に連絡をした後、学校まで戻ってきて受け取りに行ってくれたらしい。

「本当にありがとう!」
 白いペンキを塗る作業が追加になってしまうのは申し訳ないけれど、なんとか乗り切れそうで緊張の糸が解けていく。
 板に白く下塗りをすることになり、早速みんな準備に取り掛かる。放課後にできる時間は限られているので、今日はあと一時間くらいしか残っていない。

「……美来と藤田くんも手伝ってくれる?」
 おずおずとふたりに声をかける。美来も藤田くんも、周りの子たちを気にしながらも頷いてくれた。
 赤の部分が乾いたことを確認してから、みんなでペンキを板に塗っていく。黙々と作業をしていて、普段の和気藹々とした空間とは別物になっていた。そんな中、沈黙を裂いたのは美来だった。めぐみの塗りを見て、笑いながら指摘する。

「めぐみ、ペンキ多すぎなんだって! よれてるじゃん!」
「少ない方が綺麗に塗れないし」
「いやいや、藤田くんの見てみなよ! めちゃくちゃ綺麗に塗ってんじゃん!」
「……どうやったらそんな風に塗れるの」
 意外とめぐみが不器用で、藤田くんの方が几帳面だ。美来と私が笑うと、他の子たちもつられて笑う。それから段々とみんな口数が増えていき、いつもの活気が戻っていった。

 無事に白いペンキを塗り終えて、私と美来とめぐみはみんなのハケを回収して水道に洗いに行った。冷たい水でハケを手で揉むように洗い、ペンキを落としていく。

「ちょ、めぐみ! ジャージに思いっきりついてんじゃん!」
「洗ったら落ちるでしょ」
「ペンキなんだから、落ちなくない?」
「え、うそ! 落ちないの?」
 ふたりのやりとりに私は笑ってしまう。特別可笑しいことを言っているわけではないけれど懐かしかった。

「なんかこういうの久しぶりだね」
 美来もめぐみも「そうだね」と言って笑う。
 三人で過ごしてきた日々が、今では遠く感じる。廊下から誰かの笑い声が聞こえて、あの頃の記憶が蘇る。
 高校に入学してから初めて食堂に行ったとき、楽しみにしていたけれど、思ったよりもメニューが少なくてガッカリしたこと。

 でも揚げたての唐揚げが美味しくて、みんなでしばらくハマっていた。
 体育祭では、当日に美来が先輩に彼女がいることを知って泣き腫らしていて、リレーの選手だったけれど出られるメンタルじゃなかったので、補欠だった私が代打で出場した。応援してくれているめぐみの大きな声が聞こえたとき、恥ずかしかったけれど嬉しかった。
 めぐみの誕生日には、カラオケに行って、サプライズでお祝いした。
 いきなりバースデーソングが流れたときのめぐみの茫然とした表情がおかしくって、私たちは笑って途中で歌えなくなった。

 ——楓は私たちと一緒にいて、本当に楽しい?
 あのときの返事を今ならできる。

「私、めぐみと美来といて楽しかった。仲良くなれてよかったって思ってる」
 いいことも、ちょっと苦しかったことも、全てひっくるめて私にとっての大事な思い出。
「私も楽しかったよ」
 めぐみが迷いのない声音で言い切ってくれたことに、私は目頭が熱くなる。美来はどこか寂しげに微笑みながら「私も」と言葉を続けた。

「てか、卒業するみたいな空気じゃん! まだ二年あるのに!」
 しんみりしすぎだと美来は笑うけれど、涙声になっている。この先のことははっきりとはわからない。けれど、仲直りをしてもまた三人で一緒にいるようになるわけではないと思う。それでも終わらせたくなかった。

「どうしてもふたりには、私の気持ちを伝えておきたかったんだ。ふたりとも、ありがとう」
 めぐみは泣くのを堪えるような表情で、私に笑いかける。
「楓の気持ち、聞けてよかった」
 すれ違ったりぶつかったり、綺麗に片付かない思いも私たちは抱えている。けれど、一度拗れたからといって投げ出さずに、繋がりの形が変わっていっても、ふたりとの縁を私はこれからも大事にしていきたい。
 ハケを洗い終わり、ピロティへ戻る途中、藤田くんの後ろ姿が見えた。カバンを持っていたので、先に帰るみたいだ。

「ごめん、先戻ってて!」
 私は走って追いかけていく。まだお礼を言えていない。あとで連絡もできるけど、でも今面と向かって伝えたい。階段を下っていく彼を見つけて、「藤田くん!」と呼びかける。

「塗るの手伝ってくれてありがとう!」
 立ち止まった藤田くんは、浮かない表情だった。無理矢理手伝わせてしまったせいだろうか。

「あの、」
「余計なこと言って悪かった」
「え……?」
「赤いペンキの件、俺がやったってことにしたら大丈夫だって思って勝手なことした」
 だけどあのとき、藤田くんがいてくれなかったら、私はひとりで混乱したままだった。そしてなにも言えず、余計に状況は悪くなっていた。

「藤田くんがいてくれてよかった。あのとき、庇ってくれてありがとう」
 不器用な彼の優しさのおかげで、私は自分のしてしまったことに向き合うことができた。すると、藤田くんはほんの少しだけ口元を緩める。

「ペンキ、案外楽しかった。じゃあな」
 ひらりと手を軽く振って階段を再び下っていく。その背中を追うように私は手すりを掴み、一歩踏み出した。

「藤田くん! またね!」
「だから、声でけぇって」
 そう言いながらも「またな」と藤田くんは返してくれた。


***

 赤色のペンキのアクシデントがあったものの、展示の準備はその後順調に進んだ。
 いよいよ文化祭の明日へと迫り、校内がより一層落ち着かない雰囲気になっている。

 いまだに準備に追われて忙しそうな人もいれば、どんな髪型にしようかとはしゃいでいる人たちもいて、お祭り前の高揚感が学校全体を覆っているようだった。

「うちのクラスは、受付とか当日の雑用係だから今日はすることなくってさ〜。あ、そうだ土曜日の昼どこで待ち合わせする?」
 おにぎりを食べながら、知夏ちゃんが声を弾ませながら話す。

「外から回りたいし、昇降口のところにしよっか」
「おっけー! 一緒に回るの楽しみだなぁ」
 知夏ちゃんは明るくなった。元々賑やかな性格だったけれど、学校ではどこか無理をしていた。でも今は笑顔も自然で、本当に文化祭を楽しみにしているのがわかる。

 体育の授業がきっかけで先生が気づいたことによって、知夏ちゃんをいじめていた子たちは呼び出されて叱られた。とはいっても、大人が介入したって綺麗に丸くおさまったわけではない。
 今でもすれ違うと陰口を言われたり、舌打ちをされるし、クラス内では話しかけてくれる人もいないそうだ。けれど、怪我をさせられるような極端な嫌がらせはなくなったようで、以前よりは過ごしやすいと言っていた。

「藤田も空けといてよ!」
 気怠げに「はいはい」と藤田くんが返す。なにか興味を引くものがあれば、楽しみにしてくれるだろうか。

「たこ焼きとかお好み焼きとか、あとスープとか当日売ってるんだって!」
「うん? まあ、文化祭だしな」
 特に食いついてくれることもなく、だからなにとでも言いたげな眼差しに、がっくりと肩を落とす。藤田くんを乗り気にさせるのは難しい。

「あとは?」
「え?」
「他に笹原の行きたい場所ねぇの?」
 藤田くんは甘いものよりもご飯系が好きかと思って提案したけれど、私が行きたい場所の話をしていると思われているみたいだ。

「うーんと、二時からやる演劇が気になってるかな……」
 演劇部の催しは毎年人気があり、今年は卒業生が脚本を書いた大正時代の物語だとクラスの子たちが話していた。衣装や小道具も細部までこだわっているらしく気になっている。

「じゃあ、それ行くか」
「いいの?」
「観たいんだろ」
 すんなりと承諾してくれて、口をぽかんと開けてしまう。藤田くんは演劇には興味がなさそうなので、嫌がるかと思った。私たちのやりとりを見ていた知夏ちゃんが、目を細めてにんまりと微笑む。

「藤田は楓ちゃんには優しいねぇ」
「お前はそうやってからかうから優しくしたくない」
「え〜、からかってないじゃん? 本当のこと言ってるだけだし」
「だから、そういうところだつってんだろ」
 藤田くんと知夏ちゃんの口喧嘩にも最近は慣れてきた。仲が良いなぁと表情を緩めると、言い合っていたふたりの視線が一気に私へ集まる。

「文化祭、藤田なんて置いてふたりで楽しも! 楓ちゃん!」
「は? 俺と演劇観に行く約束しただろ」
「え、ちょ、ちょっと落ち着いて!」
 どっちと行くんだと詰め寄られて困惑していると、しかめっ面だったふたりが私の顔を見て数秒硬直する。そしておかしそうに笑い出した。

「慌てすぎ」
「だ、だって!」
 笑っている知夏ちゃんと藤田くんの姿を見ていると、恥ずかしかった気持ちが吹き飛んで、私までつられてしまう。三人の笑い声が、ひと気のないパソコン室前の廊下に響く。
 この居場所を大事にしたい。失いたくない。だけど、守ろうとし過ぎて言葉を我慢することがないように、自分のことも大事にしたい。

 立ち上がったふたりが私に優しい眼差しを向ける。もうすぐ昼休みが終わる時間だ。行こうと声をかけられて、私も立ち上がった。三人での穏やかなひとときは、あっというまに過ぎてしまう。
 一学年の教室のある階につくと、忙しく作業をしている生徒たちの声が廊下に聞こえてくる。どのクラスも最終調整しているところみたいだ。

「楓ちゃんところの展示、海がテーマなんだっけ?」
「うん。もうほとんどできてきたよ! あとは細かい飾りつけかな。見てみる?」
「見たい!」
 知夏ちゃんを連れて、私と藤田くんのクラスがある方へ歩いていく。普段はこちら側にあまりこないので初めて見るのか、知夏ちゃんは他のクラスが作っている物を物珍しそうに眺めていた。

「あれだよ」
 後ろのドアから教室を覗き、私たちが制作している海をモチーフにしたフォトスポットを指差す。
「わあ、きれー!」
 感嘆の声を漏らした知夏ちゃんが、いいこと思いついたと手のひらを叩いた。

「当日さ、三人で写真撮ろうよ!」
「なんで俺らのクラスの展示でわざわざ撮るんだよ」
「いいじゃん、記念! あ、でも当日並んだりするのかな〜」
 そんな私たちの会話が聞こえたのか、めぐみが「撮ろうか?」と声をかけてきた。噂のことがあるからか、遠巻きに見ている人たちが多くいる。けれど、めぐみだけはそんなこと気にしていないようだった。

「まだ完成じゃないけど、写真映えはするでしょ。楓、スマホ貸して」
「え! い、今?」
 早くと、めぐみが手のひらを差し出してくる。
「ありがと〜! ほら、撮ってもらおう!」
 乗り気な知夏ちゃんと、諦めたように引っ張られていく藤田くん。私はめぐみにスマホを手渡し、展示の前に立つ。今は無彩色に見えるけれど、それでもきっといつかこの写真を見返したとき、取り巻く世界の鮮やかさを知れる。
 藤田くんと知夏ちゃん、そして私が並ぶと、教室にいる人たちの物珍しいものでも見るような視線が集まっている。

「撮るよー」
 スマホをめぐみが構える。その瞬間、ああもうそんなこと考えなくていいやとなにかが吹っ切れた。みんなにどう思われているのかは、わからない。だけど私は、自分の意思でここに立っているのだ。
 ——カシャ、と機械音が鳴る。数枚撮り終わると、めぐみは私に近づいてスマホを差し出した。

「ありがとう」
 あとで送るねと約束をして、知夏ちゃんが教室を去っていく。注目されることは緊張したけれど、でも撮ってもらえてよかった。大切な思い出がひとつ増えた。

「楓ちゃん!」
 クラスの子たちが近づいてきて、どういうこと⁉︎と聞いてくる。私たちが一緒にいるところを数名に目撃されてはいるものの、親しいということはまだ浸透していないようだった。

「楓ちゃんって、あのふたりと仲良いの?」
 矢継ぎ早に質問をされながらも、私は躊躇うことなく頷く。答えは決まっている。
「友達!」
 噂なんて関係ない。私にとってふたりは、これからも仲良くしていたい大事な人たち。その返答に嫌悪感を表すこともなく、むしろ印象がみんなの中で変わったようだった。

「藤田くんって写真とか撮ってくれるんだ? ちょっと意外」
「岡辺さんってあんな感じの人なんだ」
 簡単に噂は消えないし、悪いイメージもすぐには払拭できないだろうけれど、少しずつ変化していっている。人から聞いたことではなく、自分の目で見たものを信じてほしい。そんな考えが浮かんで、変わったなと自覚する。

 私はずっと、心のどこかで自分ではない誰かになりたかった。
 めぐみみたいに自分の意見をきちんと持っている人や、美来のように輪の中心にいるリーダー的な人。知夏ちゃんみたいに明るくて場を和ませてくれる人。

 そんな鮮やかな色を纏う人たちが羨ましかったのだ。でも変わることが怖くて、同調して、飲み込んで、愛想笑いを繰り返していた。そうして私の色は、他人の色と混ざって灰色に濁ってしまった。
 どうせあんな風にはなれないと諦めて、波風立てないようにと本音を隠す。だけど、私はなに色にだってなれる。誰かの目を気にせず、自分らしくいられる色をゆっくりと見つけていきたい。

 肩にかかった私の髪が左右に揺れた。そして宙を裂くような音と共に、風が教室に吹き荒れる。灰色の正方形の紙や薄手の布がはためき、白いビーズカーテンがじゃらじゃらと揺れ動いた。
 髪の毛で視界が遮られて、反射的に目を瞑った。めぐみの焦ったような声が聞こえてくる。

「窓、開けたら紙が飛んで行っちゃうよ! 早く閉めて!」
「ごめんごめん! 今閉める!」
 空いた左手で髪を押さえながら、おもむろに目を開ける。

「——っ!」
 視界に映った光景に、私は息をのんだ。

 ひらひらと舞っているオーロラの紙は、海に降る雪のようだ。雲のように流れている薄手の布は深い緑色をしていて、ペンキが塗られた板は、少しムラがあるけれど空よりももっと濃く、目が冴える青だった。
 飾られているビーズカーテンは乳白色で、真珠のような煌めきを放っている。和紙でできたクラゲは水彩絵の具で色をつけられていて、淡い水色や紫色のグラデーションになっていた。

 世界の色を取り戻して、涙が滲んでいく。
 こんなにも綺麗なものを、私たちは作っていたんだ。

「笹原? どうした?」
 私の異変に気づいた藤田くんが心配そうに声をかけてくれた。
 涙を拭おうとすると、自分の指先から桃色や緑色などの鮮やかな色が溢れていくのが見えて、動きを止める。けれどそれは一瞬のことで、自分の纏う色も周りの人たちが纏う色も見えなくなった。

「藤田くん。私……」
 目尻に溜まった雫がこぼれ落ちる。

「自分のことが前よりも好きになれそう」
 たくさんのことを気づかせてくれて、ありがとう。

 ——さよなら、私の灰色の世界。