翌日、窓側の一番前の席に視線が自然と向いた。休み時間になると、藤田くんはひとりだけぽつんと席に座っている。誰も近づこうとせず、彼自身も話しかける隙を与える気がないようにスマホをいじっていた。

 また明日と言葉を交わしたけれど、学校での私たちの距離は遠い。すれ違うことすらなく、当然目も合わない。昨日のことが嘘のよう。
 もしも彼に声をかけたら、私たちに視線が集まり、教室は静まり返る。注目を浴びるのは間違いない。そんなことを想像して勇気が出なかった。

 三限目が終わり、休み時間になると手帳を広げる。早めに文化祭のスケジュールについて考えないと作業するのに困るはずだ。ざっくりとスケジュールを立てて、各グループのリーダーに確認をとりながら調節しないといけない。

「ちょっといい?」
 声をかけてきたのは、めぐみだった。心の準備が整っていなかった私は、突然のことに動揺して言葉が喉から出てこない。

「文化祭のことで話があるんだけど」
 彼女と対面するのは、約一ヶ月半ぶりだ。目尻が上がっている奥二重は涼しげな印象で、凛とした佇まいは芯の強さを感じさせる。以前はかっこよく思えていた姿に、今では威圧感を覚えて怯んでしまう。
 めぐみは少し離れた位置で、他のクラスの子とお喋りをしている美来を横目で見やる。

「リーダー、楓でしょ。美来はやる気ないっぽいし、藤田くんはやらなさそうだし」
「あ、うん」
 情けないほどか細い声になってしまった。私たちのことをよく理解しているめぐみには、誰がリーダーになるのかわかっていたみたいだ。

「これ今わかる範囲の大まかなスケジュール」
 一枚の紙を机に置かれる。そこには達筆なめぐみの字で、テーマ会議や材料の買い出し日などが綴られていた。

「テーマが固まったら、また変わるかもしれないから仮だけど」
 正直なところすごく助かる。けれど、本来であれば、私がするべきことだった。めぐみには他の作業だってあるはずで、短い期間でここまでまとめるのは大変だったに違いない。

「ありがとう。……ごめんね、こんなことさせちゃって」
「この方が効率いいかなって思っただけだから気にしないで」
 私の行動が遅くて、めぐみに呆れられているかもしれない。すぐに動けばよかった。本当は今日この作業をしようと思っていたけれど、そんなの伝えたところで言い訳にしかならない。自分の無力さを改めて感じてしまう。また迷惑かけないように、やるからにはしっかりしないと。

「あのさ」
 言いかけたものの、めぐみは諦めたように途中で止めてしまった。

「……あとはお願い」
 めぐみが背を向けて離れていく。あの言葉に続くものはなんだったのか。想像をしてみても、いい言葉な気はしない。めぐみは与えられた仕事はしっかりやり遂げたいタイプで、仕事の遅い私をよく思っていない気がする。
 久しぶりの会話で疲労感が押し寄せてきて脱力した。あの真っ直ぐな眼差しは、逃げ出したくてたまらなくなる。けれど見つめられると、身体が石になったみたいに動けなくなってしまうのだ。

 それに自分との違いを思い知らされる。私は行動を起こすことが苦手で、誰かに頼ってばかり。けれど、めぐみは私と気まずいはずなのに、私情よりも作業を優先してくれた。せめてほんの少しでも役に立ちたい。そんな思いから、授業中にどのようにしたらみんながスケジュールを共有しやすいか考えていた。

 四限目が終わると、教室の黒板横に貼られているカレンダーを持ってきて、そこに消せるペンでスケジュールを書き込んでいく。
「それもしかして文化祭のやつ? え、てかこのメモすごいね。まとめるの大変だったんじゃない?」
 私の元にやってきた美来が顔を引きつらせた。
「他の人がまとめてくれたんだ。私はそれをカレンダーに書き込んでるだけだよ」
 そのスケジュールをくれた人がめぐみだとは口に出せなかった。今彼女の名前を出せば、めぐみをよく思っていない美来がどんな反応をするかわからない。

「楓はしっかり者だから頼りになるね。楓いなかったら文化祭ニートだったよ〜」
 美来が悪びれもなく笑いながら言うと、私の斜め前に座っている女子が横目でこりらを見やった。微妙な空気が流れた気がして、口元が引きつってしまう。

「てか、結構スケジュール詰まってるね」
 綺麗に整えられた指先で、美来はカレンダーに書いた文字をなぞる。今までサボってきてしまったツケで、放課後に残って作業をしなければ間に合わなさそうなのだ。
 美来がちらりと窓側を見たのがわかった。そこにはめぐみがいて、同じチームの子たちと集まって食事とをとりながら、文化祭のことを話し合っている。
 関わりたくないと言いつつも、美来はめぐみを意識しているみたいだった。

「……他のチーム忙しそう」
 寂しげで弱々しい声は、普段の彼女らしくなかった。
 ——あれ?

 よく目を凝らしてみると、美来の橙色のオーラの中にほんのりと赤が見える。藤田くんのときと同じだ。みんな一色しか纏っていないものだと、私は今まで思っていた。それなのにどうして他の色が混ざっている。

「ねぇ、購買行かない? 私お昼買ってきてなくってさ〜」
 美来が私の腕を軽く掴む。一応聞いてはくれているものの、これは行かなければならない空気だった。
 本当はここで作業をしていたい。時間だってないし、早めに終わらせた方が他のグループもやりやすいはず。けれど握っていたシャーペンを置いて、私はカバンから財布を取り出した。
 行かないなんて言ったら、私と美来の関係も悪くなってしまう。友達のはずなのに、心のどこかで怯えながら一緒にいる。そのことを深く考えないようにして私は美来と教室を出た。
 廊下を歩きながら、美来はスマホをいじっている。時折人とぶつかりそうになっていて危ない。

「……美来、」
「ね、明日スイラン行かない?」
 スイーツ食べ放題のお店で、夏前までは三人でしょっちゅう通っていた。けれど美来の家の近くに店舗があり、私の家からは遠い。それに明日はバイトのシフトが入っていて、行けそうにない。

「今芋フェアしてるんだって! 紫芋のタルトがすんごい美味しそうでさ〜」
「あ、」
「それと楓の好きなモンブランもメニューにあったよ!」
 言葉を挟める間もなく話が進んでいき、私は口を僅かに開いたまま声を振り絞る。

「ごめん、明日バイトがあって」
 美来の笑顔が消えて、声のトーンが落ちていった。

「そうなんだ。てか、バイト辞めたんじゃなかったっけ?」
「最近また始めたんだ」
 あまり興味がなさそうに「ふーん」と美来は言うと、購買に入っていく。ふたりで遊ぶのを避けているように受け取られたらどうしよう。そんな不安が過ぎる。だけど実際断る理由があって、安堵している自分もいる。こんなことを思うなんて最低だ。
 美来がパンを選んでいると、三年生の男子たちが数名やってきた。髪が無造作にセットされていて、制服をほどよく着崩している。その中にいるひとりが、以前から美来が憧れている先輩で、夏前に連絡先をゲットした人だった。

「お、パン買いに来たの?」
「はい! 先輩もですか?」
 声を弾ませながら美来が片想い中の先輩と話している。先輩と会えることは滅多にないので、かなりテンションが上がっているみたいだ。先輩たちはパンを何個か選んで購入すると、私たちの方へ向いてニッコリと笑いかけてくる。

「またね」
「はいっ!」
 先輩たちが談笑しながら去っていく。階段を登っていったのを確認すると、美来が興奮気味に顔を手で覆う。

「やばい〜! ほんっとかっこいい!」
「先輩に会えてラッキーだったね」
 私では気の利いた言葉が浮かばない。こういうときめぐみがいたら、美来になにかいいアドバイスをしたり、話を膨らませてくれていた。でももうこの輪の中に、めぐみはいない。
 教室へ戻ろうとする美来に、「飲み物買ってもいい?」と聞くと、すぐに先輩の話に戻ってしまう。購買を出て、自動販売機がある方へ行こうとすると、〝楓〟と引き留められる。

「どこ行くの?」
 頬がほんのりと赤く蒸気したまま美来が、目を細めて微笑んだ。先輩について夢中で話していたので、先ほどの私の言葉が聞こえていなかったみたいだ。

「……自販機で飲み物買ってくるね」
「購買で買えばいいのに」
「飲みたいやつ向こうにあって」
「いってらっしゃーい。私は先戻ってるね〜」
 へらりと笑顔を貼りつける。別行動が取れることに私は今、安堵してしまった。なんとなくひとりになりたい。

 軽く右手をあげると、腕にはめられたバングルが肘に向かってするりと落ちていく。仲がいいことを証明する物であり、私の心を縛りつける枷のようにも感じる。
 そう考えた途端に、腕が拘束されているような違和感を覚えて、もう片方の手で腕の上からバングルを握りしめた。学校の中では外したくても、外せない。
 購買を離れて自動販売機の前に着くと、一気に肩の力が抜けていく。
 なんだか最近、少ししんどいかもしれない。自分から滲んだ灰色を見つめながらため息を零した。
 まだスケジュールの作業が残っている。早く教室に戻ってお昼を食べてから作業に取りかからないと。だけど、どうしても気分は沈んだままで浮上しない。

 お財布の中の小銭を自動販売機へ投入していく。
 カラカラと、落ちていく硬貨の音を聞きながら、下段の左端を押した。取り出し口へと手を伸ばす。小さいサイズのペットボトルに触れて、思わず声を上げてしまう。

「わっ!」
 予想外の温度に驚いて、取り出し口のプラスチックの蓋に腕がぶつかり、ペットボトルが叩きつけられるように床に落ちて転がる。間違いなくアイスミルクティーのボタンを押したはずなのに、何故か出てきたのはホットだった。

 ボタンをもう一度確認してみると、この間まで夏仕様でアイスばかりだった自動販売機に、ホットのコーナーができていた。
 色の認識ができていたら、こんなことにはならなかったはずだ。冷たくて甘いものを飲みたい気分だったので、がっくりと肩落とす。けれど買ってしまったものは仕方ない。ゴミ箱の方へと転がったホットミルクティーを拾おうとすると、誰かが先に拾ってくれた。

「なにしてんの」
 拾ってくれた相手は藤田くんだった。私の挙動を見られていたことに、羞恥で頭を抱えたくなる。

「……アイス買ったつもりが、ホット間違えて押しちゃったんだ」
「そんなやつ本当にいるんだ」
 苦笑しながら、何故か藤田くんはミルクティーを自分のブレザーのポケットに仕舞う。そしてお金を自動販売機に入れて、〝つめたい〟と書かれたミルクティーのボタンを押した。

「はい」
「え、でも!」
「俺はホット買う気だったから」
 買ったばかりのミルクティーを私に手渡してくれる。手のひらに伝わる冷たい温度に、不思議と心臓の鼓動が高まる。

「いらねぇなら、それももらうけど」
 多分藤田くんは私のためにホットをもらってくれた。九月になったとはいえ、今日は特に夏の名残を感じる。ホットを飲みたくなるような気温ではないはずだ。
 彼の優しさは、ちょっとだけ不器用なのかもしれない。噂なんて、当てにならない。口調はキツいけれど、暴力的なところなんて一切見えない。それともまだ私が彼のことをよく知らないだけなのだろうか。

「ありがとう」
 ミルクティーを大事に握りしめながら、お礼を告げる。藤田くんはポケットからホットミルクティーを取り出すと、その場でキャップをひねった。

「展示のスケジュールのことだけど、今週中に決めた方がいいよな」
 ミルクティーを一口飲むと、一瞬「甘いな」と眉を寄せる。やっぱり買う気なんてなかったみたいだ。

「他のグループの子がまとめてくれたのがあって……」
「へえ、仕事早いな」
「……うん。すごいよね」
 リーダーなんて名前だけで、私は全く仕事ができていない。頑張ってくれているのは他のグループのリーダーのめぐみだ。

「他に手伝えることは?」
「大丈夫! 今のところ私ひとりでできるよ」
「……菅野にも声かけた方がいいんじゃねぇの」
 美来は展示の作業はあまりしたくなさそうだし、昼休みや放課後を使って一緒に考えようというのは気が引ける。

「つまんなくねぇの」
「え?」
「……つまんないって?」
「あいつといるの退屈そう。笹原、すげえ気ぃ遣ってんじゃん」
 機嫌を損ねないようにと気を張ってはいたけれど、退屈そうになんてしているつもりはなかった。一緒にいてしんどいことがあっても、楽しいときだってある。

「無理して笑う理由ってなんなの」
 心の中にぎゅうぎゅうに押し込めていたなにかが、沸騰したお湯のように熱を持って吹き出てくる。

「それは、その方が上手く周りと過ごせるから。でも別に本当に笑ってるときだってあるよ」
 感情的になりたくないのに、早口で言い返してしまう、愛想笑いをしてしまっているのは、自覚している。だけどそれをくだらないと投げ出してしまったら、私の築いてきた関係は崩壊してしまう。

「そんな疲れ切った顔してんのに?」
 言葉が出てこなかった。ついさっきだって、一緒にいることをしんどく感じていた。嫌いなわけじゃないのに、どうしてこんな気持ちになるのか自分でもよくわからない。
 ひとつだけ確かなのは、波風は立てなくないということ。できれば誰にも嫌われたくない。離れてしまっためぐみにさえも、私は悪い人だとは思われたくなかった。

「……周りと上手く過ごすために、気持ちをのみ込むことだって大事でしょ」
 言いたいこと言ったら、スッキリするかもしれないけれど、人は離れていく。めぐみは、そうして私たちの輪から弾かれた。藤田くんだって人と揉めて、ひとりで行動している。

「そうまでしてひとりになりたくねぇの?」
「私は……なりたくないよ」
 藤田くんやめぐみみたく、強くなんてない。きっとひとりになった途端、教室中が敵に感じてしまい、心が削られて登校する勇気すらなくなるはずだ。

「誰かと一緒に行動しないと、お前ら死ぬの?」
 呆れたような声音で、けれど真剣に問われて私は返答に困る。死ぬなんて大袈裟だ。でも周りと上手くやろうとして無理をしている私の方が、藤田くんにとって大袈裟に見えるのかもしれない。

「藤田くんみたいな人には、私の気持ちなんてわかんないよ!」
「あっそ」
 言いすぎた。すぐに後悔して慌てて謝罪を口にしようとすると、藤田くんは背を向けてしまう。

「笹原がこのままでいいならいいんじゃね」
 去っていく藤田くんを止める術もなく、私はただ呆然と冷たいミルクティーのボトルを握りしめる。
 このままでいいと、私は本当に思っているのだろうか。心の中でなにかが引っかかっている。そんな違和感を抱えながら、私は教室へと重たい足を動かした。

 教室のドアのところで美来の後ろ姿が見えて、歩みを進めていく。隣のクラスの志保ちゃんと喋っているみたいだ。美来とは中学から一緒らしく、最近では時々三人でお昼を食べることもあった。
 声をかけようとしたタイミングで「楓ってさ」と自分の名前が聞こえてきて咄嗟に立ち止まる。

「なに考えてんだかわかんないときがあるんだよねー」
 背筋に氷が伝ったように、美来の言葉にひやりとする。

「さっきも一緒に来てって言えばいいのに、ひとりで自販機のほうに行こうとするし」
「ついて来てほしいけど、言えないってこと? 面倒くさくない?」
 志保ちゃんが呆れたような声を上げた。自分の話が広がっていくことに得体の知れない恐怖が襲いかかってくる感覚に陥る。

「真面目だし優しいけど、はっきりしないっていうかさ」
 美来に便乗するように「わかる!」と志保ちゃんが返す。美来と親しいので話すことはあるけれど、私はそこまで親密な仲ではない。それなのに〝わかる〟なんて言葉で、私を理解しているみたいに話されいるのを聞いて、モヤモヤとした感情が湧き上がってくる。

「八方美人って感じするよね。いい子なのはわかるんだけど」
「そう! そうなんだよね〜! それにスケジュールだって、楓ひとりでやってるから気まずいっていうか……私っている?って感じで」
「え、なにそれ。美来の前で頑張ってるアピールしてんの?」
「でもまあ悪気はないんだろうし、色々やってくれて助かるんだけど」
 私が作業している姿を見て、そんな風に思われていたのかと衝撃を受けた。役に立つことをしなければという焦りはあったけれど、頑張っている姿を見せつけたいわけではなかった。

「……っ」
 どうしよう。私の態度が誤解を生んだのだろうか。そんなつもりじゃなかったと、今ふたりの間に入って説明をしたら信じてくれる?
 動こうとしても、足が竦んでしまう。言ったら、どんな反応をされるんだろう。
 嫌われたくない。いい人でいたい。そう思っていたことは事実で、角が立たないように曖昧なことを言っていた自覚もある。そんな私を今まで八方美人だと思っていたんだ。泣きそうになるのを堪(こら)えながら、下唇を噛み締めた。

 ——無理して笑う理由ってなんなの。
 人と上手くやるためだと思っていた。だけど笑って場の空気が悪くならないように気をつけていても、結局どこかで綻びが生じてしまう。

「あ、てか先輩のクラス、和カフェやるらしいんだよね〜!」
「えー! 絶対いこ!」
 話が私のことから先輩のことに切り替わり、私は止まっていた足を踏み出す。
 嫌だ。本当はあの中に、今はいたくない。だけど避けては通れない。わざわざ反対側から入ったら、それについてもなにか言われてしまうかもしれない。

 バングルが手首を締めつけているような感覚に陥る。これはひとりじゃない証。大事なもののはずなのに、時々外したくなる。だけど結局外せない。そして臆病な私は、なにも聞かなかったように輪の中に入っていく。
 笑わなくちゃ。ここで先ほどの会話を指摘しなければ、いつも通りの平和を保てる。

「あ、楓やっと戻ってきた〜!」
 美来は今——どんな顔をしてる? 私が戻ってきたから、志保ちゃんに目配せしていないか、表情が硬くなっていないか。そんなことを考えてしまう。だけど、ふたりの顔を見ることができなかった。

『楓は、なに考えてんの?』
 めぐみ、私はどうしたらよかった?
 返ってくるはずもないのに、私は心の中で何度も投げかける。笑うことが苦しくて、手を握りしめていないと涙が出てきそうだった。

 私たちが三人グループだったとき、輪の中心は美来とめぐみだった。やりたいことがあったら突っ走って進んでいく美来と、計画的で慎重なめぐみ。そして私はそんなふたりについて行く。
 めぐみたちの性格は全く違ったけれど、時折言い合うことがあってもお互い気が楽な関係だからこそだと思っていた。だけど七月に入ったとき、放課後のファーストフード店でそれは起こった。

『ねえ、夏休みにここのプール行こうよ!』
 目を輝かせている美来は上機嫌でスマホを開く。そのプールの場所は美来とめぐみの家の近くにあり、私の家からは遠かった。

『八月の頭くらいがいいなぁ。みんないつなら平気?』
『えっと……』
 行くことは決定事項のように話が進んでいってしまう。不意にめぐみと視線が交わった。するとめぐみが食べ終わったポテトの箱を潰しながら、「あのさ、美来」と重々しい口調で話を切りだす。

『いつも楓の家から遠い場所だから今回は変えない?』
『えー、でもここ評判いいし』
『美来は自分の考え、押しつけすぎじゃない?』
『え?』
 美来はぽかんと口を開けて硬直する。そして、めぐみの瞳が私を捕らえた。咎めるような眼差しに見える。だけど理由に心当たりがない。

『楓も無理なら無理ってちゃんと言いなよ』
 早くなにかこの場を収める言葉を言わないと、状況が悪化していく。それなのになにも思い浮かばない。

『いつも遊ぶときだって、毎回こっち方面に来てくれてるから帰るの大変でしょ?』
『それは……』
 めぐみと美来の視線が同時に私へ注がれて、焦燥に駆られる。胃のあたりが鈍く痛んだ。
 ……いつからめぐみは、私の隠した感情に気づいていたの?
 私たちがよく集まるのは、美来の行きたがる場所だった。それは美来にとっては家から近い場所で、私は電車の乗り換えをしなければいけない。そのため遊んだ帰りは帰宅ラッシュの時間帯で、家に着くまでが一苦労なのだ。

『私は電車一本だし、美来は地元だけどさ。楓は乗り換えもあるし、ここから一時間くらいかかるでしょ』
 正直、学校の近くで遊びたい。けれどそしたら、今度は美来の家が遠くなってしまう。美来の地元は学校の最寄りから、電車で約四十分かかる場所にある。
 最初は美来の家の方面で遊ぶことを私は受け入れていたけれど、回を重ねるごとに大変になってきた。せっかくバイト代を稼いでも電車代で地味に出費が嵩む。

『それなら誘ったときに言ってくれればいいじゃん!』
 美来の勢いに、私は開きかけた口を噤む。今、遊ぶ場所を変えたいと言ったら、状況はますます悪化する。

『断ると不機嫌になるから言いにくいんでしょ』
『私のせいなの? 無理して遊んでる方が嫌なんだけど!』
『なんですぐそうやって怒鳴るの。ただ私は、楓が我慢してるんじゃないかって話を……』
『だから私が悪いってことじゃん!』
 ふたりの言い合いが始まって、私は慌てて間に入る。

『私は別に無理なんてしてないよ! こうしてみんなで遊ぶのも楽しいよ』
 めぐみの思い過ごしで、私は大丈夫だと笑顔を見せる。遊ぶ場所はちょっと遠いけど、それさえ我慢すれば問題ない。今は穏便に収まる方が大事だ。
『てか、みんなで遊ぶのが嫌なのってめぐみなんじゃないの?』
 めぐみの中の不満を、私の不満に置き換えて話したのではないかと美来は疑いを向ける。だけどめぐみがそんなことをするようには、私には思えない。私の帰りが大変なことや、電車賃がかかることに気づいて、心配してくれたからこそ遊ぶ場所についても言及してくれた。
 でもそれを言ったら、私が抱えている本音を知られてしまう。自分を守るために言葉を発することができなかった。

『そう思いたいなら勝手にどうぞ』
 めぐみは気を悪くしたのか吐き捨てるように返した。
『……感じ悪くない?』
 美来にとっては、めぐみが自分の意見が間違っていたから、ふてくされてしまったように見えているようだ。私たちの間で壁ができてしまっている。

『めぐみって、平気で人を傷つけること言うよね』
 咎めるように美来が言うと、めぐみが軽く笑う。けれど眼差しは冷たかった。

『美来だって、機嫌が悪いとき言うでしょ』
『は? なんで人の話にすり替えるわけ?』
 今回は、いつものちょっとした口喧嘩ではない。どちらも一歩も引く気がないようで、言葉を交わすたびに険悪になっていく。

『自分が正しいみたいな態度とられるのうざいんだけど。間違ったこと言ったんだから謝ったら?』
 美来の発言によって、めぐみから表情が消える。冷静になったように見えて、静かに怒っている。
『楓、勝手に言ってごめんね』
 めぐみが私から一線引いたように感じた。私は返答を間違えてしまったのだ。けれど、あのときめぐみの言う通りだと話したら、美来が傷ついていたかもしれない。
 めぐみは、カバンを手に取って席を立つ。

『空気悪くしてごめん。私、先に帰るね』
 私たちに大きな亀裂が入ったのは、この日からだった。
 翌日はいつも通り三人でお昼休みを過ごしていたけれど、美来がスマホを持って廊下へ出て行く。そして隣のクラスの志保ちゃんとでなにやら話し込んでいる様子だった。
 不穏な空気を感じたのは、私だけではない。めぐみも勘づいているようだ。廊下で話している美来たちの姿を眺めて、顔を顰めている。
 それが数日続いた。毎回取り残された私とめぐみの間には無言の時が流れる。少しすると、私のスマホに着信がかかってくる。相手は美来だ。

『もしもし……』
『廊下出てこれる?』
『え、廊下?』
 横目でめぐみを見やる。私ひとりだけ来てという意味みたいだ。でもこの状況でめぐみを置いていったら、除け者にしているみたいになる。
 躊躇っていると、電話が切れてしまった。お弁当を食べていためぐみが箸を置いて、視線を上げる。

『私のことは気にしないでいいよ』
 くっつけた三つの机。けれどそこにポツンと残されることを想像すると、身動きが取れなかった。
『楓、早く行きなよ』
『でも……』
 私が口籠ると、めぐみはお弁当を仕舞って席を立つ。そして机を下の場所に戻して再び座る。このときの私は、めぐみの突然の行動は突き放してきたのだとショックを受けた。そうして、ひとり残された私は逃げ出すように廊下に出てしまった。
 今思うと、私が美来の方へ行きやすいようにしてくれたのだと思う。このときめぐみの方へ行っていたら、今頃私は美来と仲が抉じれていたはずだ。


 翌週から、めぐみは昼休みになっても自分の席で食べるようになった。
『私、めぐみ呼んでくるよ』
 席を立とうとした私の腕を美来が掴む。

『呼ばなくていいよ。めぐみは私のこと嫌いみたいだし』
『え?』
『だって私のこと気に食わない感じだったじゃん』
 めぐみは美来の自由奔放さや気分屋なところに対してファーストフード店で指摘していたけれど、美来のことを嫌っているわけではないはずだ。美来の中で、めぐみに対しての誤解が生まれてしまっている気がする。

『めぐみは、美来のこと』
『楓』
 遮るように力強く、美来が私の名前を呼ぶ。これ以上めぐみの話をするのは、やめいうような眼差しに私は唇を結んだ。
『もういいじゃん。自分から離れたんだし、無理して引き戻す必要ないよ』
 めぐみから離れたというよりも、そうせざるおえない空気を作ったのは美来だ。孤立させるように教室に残して、めぐみが居づらい雰囲気にしていた。

 ——楓、早く行きなよ。
 ……美来じゃない。〝私たち〟だ。

 私だって関わっているくせに、自分は無関係で責任がない位置にいようとしていた。廊下に出て美来の方へ行った時点で、めぐみを心配するよりも、私は自分を守ったのだ。それにこうなったのは、私のせいでもある。抱えている不満をめぐみに指摘されても、なにも言えずに飲み込んでしまった。
 どうにかして前のように戻りたかった。グループの輪が崩れてから、美来たちの機嫌もめぐみの機嫌もとるように両方に話しかけていた。

 そんな私は、〝八方美人〟に見えていたのだと思う。実際教室でひとりになっためぐみを見て、なにかあったのではないかと噂しているクラスメイトもいて、周りの目が気になってしまっていた。

 私とめぐみの間に更に亀裂が入ったのは、夏休みに入る数日前。
 学校帰りにひとりで歩いているめぐみを見かけて、声をかけた。今帰り?と他愛のない会話をしながら、周囲を見渡す。

『無理に私に話しかけないでいいよ』
 冷たい口調で言いながらも、めぐみは複雑そうな表情だった。美来や他クラスの美来と仲の良い子がいないか、確認している私に気づいたのかもしれない。

『ごめん、めぐみと話したくないわけじゃなくって……』
 前方の信号の赤色を目にして、立ち止まる。めぐみは歩みを止めずに、一歩踏み出した。待って、と手を伸ばそうとすると、車道に入るギリギリのところで、めぐみは足を止めて振り返る。

『楓は、なに考えてんの?』
 苛立ちを含んだ声と、セミの鳴き声が耳の奥に反響していく。

『美来の顔色を気にしながら、私に話しかけるのはなんで?』
『それは……どっちのことも好きだからだよ』
 笑みを浮かべながら告げると、めぐみが疑わしそうな眼差しを向ける。好きなのは事実だけど、私自身もこれが本音なのかよくわからない。
 でも私が完全に美来たちの方へ行ったら、もう以前のような関係には戻れない気がして、必死に繋ぎとめようとしてしまう。

『いつも楓は周りの意見に合わせて、自分の言いたいこと口にしないでしょ』
『私はただ……仲良くしていたいだけで……』
 肌を刺すような日差しが降り注ぎ、こめかみの辺りから汗が流れ落ちる。
 いつのまにか信号は青に変わっていて、警告するように点滅していた。私たちの間を生温い風が吹き抜けて、再び信号が赤に切り替わった。

『ヘラヘラ笑って、やり過ごすのやめたら? そういう生き方って、しんどくならない?』
 鋭い言葉が心を抉る。善人のフリをして、周りから嫌われないように笑顔を貼り付けていたことを、めぐみに見透かされていた。

『それに美来も、私と一緒にいたくないと思うけど』
『話し合いをしてみたら、なにか変わるかも……』
『本音で話し合っても、美来が納得すると思う? どうせまた怒るでしょ』
 だけどこのままでいいとも思えなかった。めぐみを輪から弾きたいわけじゃない。できれば仲直りをしてほしい。けれどそんなことを言ったら、美来たちの反感を買うかもしれない。

『それに楓は美来に本音を言えるの? 自分ができないのに話し合いなんて言わないでよ』
 めぐみの正論が痛いくらいに突き刺さる。本音を隠して、自分の立場を守るために私は周りの機嫌を取っていた。そんな自分が卑怯者のように思えて、恥ずかしくてたまらない。

『みんなと上手くやるなんて無理だって、楓だってわかってるでしょ』
『でも』
『我慢ばっかりしてたら、一緒にいるのがしんどくなるよ』
 わかってる。わかってるけれど、それでも言ってしまえば取り返しがつかない。不満は雪のように積もっていっている。いつかそれが抱えきれない感情として爆発してしまいそうで自分でも怖い。だけど不満があるからといって、それを美来にぶつけたいわけでもなかった。ただ私がそれを消化できないだけ。もっと私が上手に立ち回ることができていたら……そんなことを何度も考えたけれど、解決する方法が思い浮かばない。

『めぐみは、美来のこと嫌いなわけではないんだよね?』
『嫌いではないけど。でも、今の状況は簡単には収まらないと思う』
 美来と話すことを諦めているように思えた。もう戻れないのかもしれないと、そんな予感がして、スカートを握りしめる。

『私、時々息が詰まりそうだった』
 困惑と同時に痛みのような衝撃が走る。美来とめぐみを中心に回っているグループで、やりたいように過ごしているように見えていた。けれど、めぐみは本心では一緒にいたくなかった?

『楓は私たちと一緒にいて、本当に楽しい? 不満はないの?』
 肯定する言葉を答えることができなかった。楽しい出来事はたくさんあった。だけど、それ以外の感情が邪魔をして声がでない。
 好きでも、合わない部分や傷ついた言動もあって、すべてを綺麗に受け止め切れるわけじゃない。だけど仲良くしていたい。不満があるなんて言ったら相手に嫌な思いをさせて、心の距離が離れてしまう。
 言葉の代わりに頷くと、めぐみが冷たく刺すような目で睨む。

『嘘つき』
『待っ……!』
 視界がぐにゃりと歪んだ。滲んだめぐみの姿に、青い空と赤信号。風に揺れる緑の葉と、車道を横切っていく水色のワゴン車。
 普段は景色のひとつだったものたちが、毒々しいほどに色を主張している。目眩がして、僅かに身体がよろけた。

『もういいよ、私に話しかけなくて』
 信号が青に変わり、めぐみは私に背を向けて歩いていく。手を伸ばして引き留めることもできない。眼球の裏側あたりに鈍い痛みが一定のリズムで繰り返される。
 目頭に溜まった涙が、頬に伝って落ちていく。視界は絵具で塗りつぶされるように灰色になり、めぐみの周囲だけが燃えるように赤く染まった。その衝撃に全身が粟立つ。
 ——なに、これ。

『ぅ……っ』
 怖い。なんで? おかしいこんなことありえない。色が消えた。木々も、信号も、車も、全てがモノクロに見える。
 明らかに視覚に異変が起こっている。足の力が抜けていき、その場に崩れ落ちてしまった。焼けたアスファルトの熱が私の身体を焦がしていく。熱いはずなのに震えて身体が動かない。

『大丈夫ですか?』
 近くを通りかかった年配の女性にと声をかけられて、おずおずと顔を上げた。

『具合悪いんですか?』
『ぁ……えっと、その』
 女性の身体を覆うように青色が見える。原因不明の現象に焦りを覚え、逃げ出したい衝動を抑えて笑みを貼り付けた。

『……ちょっと目眩がして』
 心配してくれている女性にお礼と謝罪を告げて、ふらつきながらも、ガードレールを支えにしながら立ち上がる。
 心臓は呼吸が苦しくなるほど、激しく鼓動を繰り返していた。

 ——この日から灰色異常を発症し、私の世界は大きく変わってしまった。




***

 美来たちが私を八方美人だと言っていたのを聞いても、私さえ黙っていれば関係は崩れることはなく、平穏な日々が続く。だから私は〝いつも通り〟を意識しながら過ごしていた。大丈夫。私の日常はなにも変わらない。

「スケジュール、カレンダーに書き込んだから、間違ってるところないか見てもらってもいいかな」
 他のグループの子たちに声をかけて、カレンダーを手渡す。

「ありがとう、楓ちゃん。確認しておくね」
「なにか変更があったら、書き込んでもらってもいい? それか私に連絡してくれたら書き込んでおくね」
 めぐみがまとめてくれた作業の内容を元に、テーマ決めや資材集めの締め切り、作業をいつまでに終わらせるかなど、わかる範囲をカレンダーに書き込んでおいた。今のところ大きな問題もない。

「なぁなぁ、海みたいにすんのはどう? ほら、これみたいな感じでさ!」
「わ、かわいい! これ、なにで作ってるんだろう」
「折り紙とはちょっと違うよね」
 デザインと制作グループは途中から一緒になってアイディアを出し合うようになったようで、和気藹々としている。その光景が羨ましくて、混ざれないことがもどかしい。本当はあの中に入りたい。けれどあの中に、私の入る場所なんてない。

「めぐみちゃん、去年の先輩たちって青のテーマでなに作ってたか知ってる?」
「先生に聞いたら、夜空って言ってたよ。窓に暗幕つけて、電飾とか使って表現したんだって」
 めぐみたちが話し合っている姿を見ていると、私も藤田くんや美来にスケジュールのことを相談するべきか迷う。だけど、あまり乗り気ではなさそうなふたりを巻き込んでいいのだろうか。それに藤田くんに自動販売機の前で酷いことを言って以来、彼と会話を交わしていない。

 ——八方美人って感じ。
 美来と話していた子が、あまり話したことのない私のことを話していたとき、決めつけないでほしいと苛立ちが湧き上がってきた。けれど、私も同じだ。藤田くんみたいな人には、私の気持ちなんてわからないと決めつけてしまった。

 藤田くんがどんな思いで私にあの言葉をかけたのか、きちんと知ろうともせず、表面上や噂だけの彼で判断している。最低だ。だけどこんな最低な自分からどう抜け出せばいいのかがわからず、ずっと水中をもがき続けているような感覚だった。
 息苦しくて、酸欠になりそうになる。灰色の世界も、周りを気にしながら貼り付けた笑顔も、なにもかも投げ出したくなってしまう。

 だけど現実から逃げるわけにもいかない。今日のバイトのシフトは藤田くんと被っているので、そのときにちゃんと謝ろう。気まずさは残したくない。

「楓ちゃん、スケジュールありがとう! 今のところこれで大丈夫だと思う!」
「わかった! じゃあ、黒板の横に貼っておくね」
 カレンダーを元の場所に戻しに行く。あとは制作などの進行によって臨機応変に修正していけばいい。
 これ以外に、当日展示の前に立つ人のタイムスケジュールを考える必要がある。何人体制で何時間おきにするべきか。それに部活の出し物などで抜ける人もいるだろうし、友達と回る約束をしている人は、外してほしい時間帯もあるはずだ。逆に友達同士で一緒にシフトに入りたいという希望も出てきそうだ。

 ……私ひとりで全部できる?
 けれどやらなければいけない。そうしなければクラスの人たちに迷惑をかけてしまう。
 頭が痛い。灰色の視界がぐらりと揺れる。いっそのこと、なにもかも投げ出せたら楽になれるのに。

***

 その日のバイトは、学生たちが大人数で来店したらしく息つく暇もない。特に揚げ物の注文が多く、常にフライヤーでなにかを揚げている状況だ。二時間ほど経ってようやく落ち着き、溜まったお皿を食器洗浄機にかける。

「笹原、手空いたらこれ受け渡しまで持っていって」
 藤田くんは手際良くレタスやプチトマト、クルトンなどを盛り付けて、シーザードレッシングをジグザグにかけていく。それを言われた通りに受け渡し台にサラダを並べると、おぼんに乗せたスープを藤田くんがサラダの横に置いた。先ほどまではスープなんてなかったはずなのに、作業の速さに目を剥く。

「サラダとスープ二人前」
「はーい」
 藤田くんの声に反応してホールの人が完成した料理を取りにくる。そしてにこやかな表情を貼り付けたまま、ゆっくり丁寧に、けれど迷いのない足取りでフロアへ料理を運んでいった。
 厨房へ戻ると、先ほどの忙しさで散らかったまだだった調理台の片付けをしながら、器具の場所を改めて覚える。

「そんな他の店舗と変わらねぇだろ」
「うーん、でも違ってるものも結構あるんだよね……」
「わかんないことあったら聞けばいいじゃん。キッチンにひとりなわけじゃねぇんだし。俺だってわかんなくなると周りに聞くし」
 藤田くんが周りに助けを求めることが意外だった。でもそれは学校での彼の姿からきている、勝手な私のイメージだ。

「暇になってきたし、季節メニューのレシピ暗記してていいけど。食器、俺が戻しておく」
 あのときのことを謝るのなら、今しかないかもしれない。

「この間は、ごめんなさい!」
「なにが?」
「自販機の前で藤田くんにはわからないとか、酷いこと言っちゃったから」
「あー……あったな。そんなこと気にしてたわけ?」
 私が気にしすぎていたみたいだ。藤田くんにとっては、記憶の片隅に追いやられる程度のものなのに、ひとりで過剰に反応してしまって恥ずかしくなってくる。

「色々気負いすぎじゃねぇの」
 藤田くんが顔を顰める。けれどこういう表情をしても機嫌が悪いわけではなく、おそらく癖なのだ。最初は少し怖かったけれど、今は慣れつつある。

「ひとりでなんでもやろうとしたり、考え込みすぎっつーか。疲れねぇ?」
「私は大丈夫だよ」
「笹原の大丈夫は、真逆に見える」
 持っていたベンが手から滑り落ちそうになった。心の中で何度も自分に、大丈夫だと言い聞かせてきた。

「展示のスケジュールのリーダー、本当はやりたくなかったんじゃねぇの」
「でも、誰かがやらないといけないから」
「だからってなんでもひとりでやろうとする必要あるわけ」
 じわりと、嫌な感情が胃のあたりから湧き上がってくる。リーダーという役割は私にとって重い。けれど、途中で投げ出すようなこともしたくない。

「同じグループなんだし、俺とか菅野に指示出せばいいのに」
 言えないよと、口に出してしまいそうだった。
 私はいつも当たり障りない言葉を口にして、笑って誤魔化して流されるだけ。ずっと意見なんて言えなかった。そんな私が急にリーダーをして、指示を出すなんてできるはずがない。

「別に難しいことじゃないだろ。ただ〝手伝って〟って言えばいいじゃん」
「……手伝って?」
 もっと具体的にこれをしてほしいとかではなくていいのかと、私は首を傾げる。

「リーダーなのにいいのかな」
「わかんねぇことは三人で考えればいいだろ」
 肩の荷がすっと降りていく。まとめなくちゃいけないと思って、気負いすぎていたみたいだ。

「スケジュールの件、他になんの作業が残ってんの」
「当日のタイムスケジュールを考えるのと、クラスの人たちの希望の時間帯とかを聞かなくちゃいけなくて……」
 まだ時間に余裕があるとはいえ、全員分のタイムスケジュールを決めるのは大変だ。

「アンケートのアプリでも使って、希望時間の集計取ればいいんじゃね?」
「え、そんなアプリあるの?」
「無料であったはず」
「ありがとう、藤田くん。あとでアプリのこと調べてみる!」
 私ひとりでは思いつかなかったことだ。藤田くんのおかげでいい案をもらえた。一人ひとりに聞いて回らなければいけないと思っていたので、簡単な方法がわかって安堵する。

「菅野にも相談したら? 集計だって三人でやった方が早いだろ」
「……うん」
 美来に頼んだら、どんな反応をされるか少し怖い。地味で面倒な作業だし、やりたがらない気がする。

「なんで菅野にそんな遠慮してんの」
「遠慮っていうか……美来はあまり展示の作業乗り気じゃなかったから」
「でもクラス行事なんだから、笹原がひとりでやるべきことじゃないだろ」
 藤田くんの言う通りだ。私の個人的なお願いではなくて、クラス行事のための作業。けれど、私の発言で美来の機嫌を損ねたくない。

「私みたいなのって八方美人だよね」
 美来たちに言われたことを自虐気味に口にする。

「言いたいこと飲み込みすぎんのはよくねぇけど、相手に合わせたり親切にできるのはすげぇと思う」
「……そうかな」
 私は周りの目ばっかり気にしてしまうので、時々窮屈な檻の中に詰められている気分になる。穏便に過ごす手段だと思っているし、自分で選んだはずだけれど、こんな生き方が無性に嫌になるときがあるのだ。

「藤田くんの方が、ちゃんと自分の意思持っていてすごいと思う」
 周りがじゃなくて、自分がどうしたいのかで生きることは簡単ではない。

「すごくねぇよ。俺は笹原みたいに人と上手くやれねぇし」
 私の場合は波風立てないように表面上は良好に見せているだけで、上手くやれているとは言い難い。

「それに自分の考えがわからなくなることが一番怖かったから、人と一緒にいるのやめただけ。俺は自分勝手なんだよ。周りのことよりも、自分を優先してる」
 たとえ本当に彼が自分勝手に生きているとしても、厳しい言葉の中には思いやりがある。赤色の中に混ざる緑色を見つめていると、「笹原」と呼ばれた。

「もっと自分勝手に生きてもいいんじゃね」
「だけど思ってること言ったら、関係が崩れるかもしれないし……」
「言いたいことを言って人を傷つけろってわけじゃなくて、笹原の気持ちを大事にした方がいいって話」

 藤田くんは、注文が届いたタブレットに手を伸ばす。話を中断し、お皿の用意をしながら、先ほど言われたことについて考える。私は今まで居場所を守るために、自分の気持ちを蔑ろにして心を傷つけ続けていたのかもしれない。