さよなら、灰色の世界


 私は灰色に染まってしまった。
 周りの目が気になって、同調して、飲み込んで、愛想笑いを繰り返す。そうして私の色は、他人の色と混ざって灰色に濁っていく。

 自分ではない誰かになりたい。こんな自分が嫌でたまらなかった。

 強い意志を持っている人。
 周りを笑顔にすることができる人、輪の中心にいる人。
 そんな鮮やかな色を纏う人たちが羨ましい。
 でも、どうせあんな風にはなれない。そう諦めていた。

 だけど私は、なに色にだってなれる。



***


「楓はどれがいい?」
 問いかけられて、視線を上げる。美来が袋からなにかを取り出して、机に並べた。

「これ、バングル?」
「うん! きのう三百円ショップで売ってるの見つけたんだけどさ、かわいくない? お揃いでつけようよ〜! ゴールドとシルバーどっちがいい?」
 朝のホームルームが始まるまでのわずかな時間、教室は賑やかな声で溢れている。
最近の私は美来とふたりで他愛のない会話をしながら過ごすことが多い。大抵は何事もなくチャイムが鳴って一日が始まるけれど、時々こうして選択を迫られることがある。

 ——どうしよう。
 伸ばそうとした手に迷いが生まれて、指先を握りしめた。並べられたふたつのバングルは、私にはどちらも同じに見える。違いがよくわからないまま、右側を指差した。

「……私は、こっちがいいな」
 手渡されたそれは、触れるとひんやりとしていて硬い。

「楓はこっち選ぶかと思った!」
「え?」
「シルバー系の方が好きって前言ってたじゃん?」
 今私の手にあるのは、ゴールドのようだ。バングルを握りしめながら、私は笑みを浮かべる。

「この色も好きなんだ」
 不審に思われることなく対応ができたかひやひやする。私がシルバーを好きと言っていたのは夏前の話で、今では自分がなに色を好きなのか、よくわかっていない。
 私には——全ての物がモノクロに見えている。

「かわいいね!」
 腕にはめて見せると、美来は満足げに頷いた。
「お金払うよ」
「いいのいいの! 私が楓とお揃いでつけたかっただけだから!」
「ありがとう。大事にするね!」
「てか、聞いてよ! プチプラで可愛いアイシャドウがあって、次のバイト代入ったら買っちゃおっかなー」

 ゴールドのバングルを選んだことにあまり追及されなくてよかった。乗り切れたことにほっと胸を撫で下ろす。
あることがきっかけで、私の視界から突然色が消えた。
 淡青の澄んだ空も、深緑の黒板も、木製の唐茶色の机も、全てがモノクロに見えるようになってしまったのだ。
最初は自分でもなにが起こったのか理解できず、戸惑いながら必死に調べた。ネットを駆使して、なんとか原因を探ろうしていると、あるページが目にとまった。

 ——タイトルは、灰色異常。
 視界が灰色になる病。色覚異常の症状と異なる点は、人の纏っているオーラだけが色づいて見えるそうだ。けれどそれ以上の情報はいくら調べても出てこず、まるで都市伝説のようだった。こんな奇妙な体験を誰かに話しても信じてもらえるような気がせず、二ヶ月が経った今でも誰にも言えていない。

 最近だんだんとわかってきたのは、オーラの色が同じ人は似たタイプ。
 美来みたいな好奇心旺盛でリーダー的な存在は橙色のオーラが多く、クラスの発言力のある男子もこの色だ。他には、黄色や赤色、緑色などの鮮やかな色がある。けれど、私のオーラは、ひとりだけ灰色だった。
 最初は自分のオーラが見えないだけだと思っていた。でも他の人のオーラの見え方とよく似て、身体に滲んでいる。学校や街で様々な色を纏った人を見てきたけれど、灰色に染まっているのは私だけ。この色がなにを意味するのか、よくわからない。

「そういえば隣のクラス、入り口のアーチ作り結構進んでるっぽいよね〜」
 美来の言葉に私は頷く。土台は既にできているようだった。
 もう九月だし、私たちのクラスもそろそろ作業しないと待ち合わなくなっちゃう。そう言いたいのに、言葉が上手く出てこない。

「展示の作業っていつから始めるのかな……」
 緊張しながらも話題を振ると、一瞬沈黙が流れた。
 失敗した。言うんじゃなかった。冷や汗が背中に滲み、手のひらを握りしめる。もっと違った言い方をするべきだったかもしれない。この空気をどうやって戻そう。焦るほど、言葉が思い浮かばなくなっていく。

「このままなにもやらずに終わった方が楽じゃない?」
 私に同意を求めるように美来が笑いかけてくる。
 うん、わかるよ。そう答えれば、この場をやり過ごせるとわかっていた。だけどこれは本音じゃない。でもまた微妙な空気になってしまわないか怖くて、口に出せなかった。

「一年の文化祭って本当やる気でなくない?」
 不満を漏らす美来に、私は曖昧な笑みでなにも答えられない。けれど、美来はどんどん話を進めていく。

「なんで雑用とか展示なのって感じ。展示なんてサボったってバレなくない? これだけ人いるんだしさ」
 美来の声が響いてしまい、窓側にいる一部の女子たちが眉を顰める。そのことに美来は気づいていないようだった。

「まあでも早く二年になりたいよね。屋台とかの方が絶対楽しそう! ね!」
 自分の本当の気持ちを隅に追いやる。そして私は目をぎゅっと瞑るように視界を潰して笑った。

「だね」
 私は展示作業が楽しみだな。たったそれだけのことが言えない。
 これを口にしたところで私を否定したりしないかもしれないのに、周りと違う意見を持つことが怖くて、些細な言葉さえ躊躇ってしまう。本当の気持ちを嚥下して、笑みを貼り付けたまま、腕についたバングルを指先でいじる。どうして私は、こんなに臆病なんだろう。

 予鈴が鳴り響くと、大きな足音を立てて男子数名が教室に流れ込んできた。

「掴むなって、馬鹿!」
「はい、俺が先―!」
 競争していたのか、お互いの服を掴み合いながら騒いでいる。他の生徒たちの机にも容赦なくぶつかっていて、私の机も斜めに曲がりペンケースが勢いよく床に落ちてしまった。
 その衝撃でプラスチック製の蓋が開いて、ペンが散らばる。近くの椅子の足に弾かれると、ペンが少し遠くまで転がっていく。取りに行こうと一歩動いたところで、誰かが拾い上げてくれた。その相手を見て、息をのむ。

 ——藤田良くん。
 深く刻まれた二重のラインは目尻に向かって上がっていて、不機嫌そうに曲がっている口角。近寄りがたい威圧感があり、騒がしいわけでもないのに目立つ存在だ。
 そして纏っている真っ赤なオーラは、意志の強さが現れていた。この色の人は、物事をハッキリと口にする人が多く、真っ直ぐで頑固なところがある。
 自分の方が先に着いたとふざけながら言い争っている男子たちを、藤田くんが睨みつける。

「おい」
 彼が一言発するだけで、場が凍りつく。

「ぶつかってんだろ」
「……悪い悪い!」
 空気を和ませようとしたのか、へらりと笑って男子が彼の肩を叩こうとすると、藤田くんがその手を払い除けて、「うぜぇ」と一蹴する。男子たちの表情が強張り、空気が一層重たくなった。
 周りの反応などお構いなしといった様子で、藤田くんは視線を私に向けて、歩み寄ってくる。彼の圧に押しつぶされそうな感覚になりながらも、金縛りにあったように動けなくなった。
 近くまでやってきた藤田くんは、無言でベンを私の机に置く。そしてすぐに背を向けてしまった。

「……ありがとう」
 口の中が乾いて声が掠れる。既に離れた席へ戻っていった彼には、私の言葉なんて届かなかったかもしれない。

「なんだよ、あいつ」
「ねえ、楓のペン散らばったんだけど! ちゃんと拾ってよ!」
 苛立った様子で文句を言おうとする男子たちの腕を美来が軽く叩く。
「ごめん」
 男子たちは気まずそうにしながらも、ペンを拾い集めてくれた。ケースに仕舞い終わると、離れた席にいる彼に視線を移す。頬杖をついて退屈そうにしている。

「喧嘩でも始まるかと思った」
「あれくらいじゃ喧嘩にならないっしょ」
「いや、だって藤田くんって、ぶつかっただけで他クラスの男子を殴ったらしいよ」
 女子たちが小声で話しているのが聞こえてくる。彼がクラスで浮いているのは、言いたいことをハッキリと口にする性格だからではない。

 入学して二週間で起こした問題が原因だ。学校内でタバコを吸い、さらには暴力沙汰を起こして停学になった。他にも喧嘩っ早いという噂も流れている。
 ペンを拾ってくれたことは感謝しているけれど、言葉がキツくて周りの空気など気にしていない様子の彼のことが私は少し怖かった。
 教室がざわつき始めると、前方のドアが開かれた。早く席に着くようにと担任の先生が促していく。

「文化祭実行委員、前に出てきてくれ」
今日は出席をとることなく、担任の先生が文化祭実行委員のふたりを黒板の前に呼ぶ。気怠そうで機嫌があまりよくなさそうだった。
 そこまで大変じゃないし、十一月の本番までに間に合わせればいいと先生が言ったため、九月になった今でも誰ひとり声を上げずにここまできてしまった。
さすがにこのままでは、まずいと思ったのかもしれない。

「今日中に役割くらいは決めて、グループで動くようにしてくれ」
スケジュール管理をするグループ、デザインを考えるグループ、制作や材料を調達するグループの大きく三つに分けるそうだ。

「あとこのクラスのテーマカラーは青だからな」
 クラスカラーというのが最初から決まっていて、体育祭のハチマキや文化祭のクラスTシャツで使うことになっている。展示もクラスカラーを使うことになるみたいだ。

「それぞれやりたいものに挙手して決めるように。じゃあ、あとは頼んだ」
先生はプリントを文化祭実行委員に渡すと、進行を任せて教室から出て行ってしまった。ドアが閉まった直後、各々が周囲の人と小声で話しだす。一緒にやろうと声を掛け合っている生徒や「展示ってなにするの?」という声が聞こえてくる。
このクラスで本当にやりたいものに挙手できる人は、どのくらいいるのだろう。

「ねー、スケジュール管理とか楽そうでよくない?」
隣の列の前方に座っている美来が振り返って、私に声をかけてくる。クラス全体に聞こえていて、私は自分たちに集まっている視線を散らしたくて、「そうだね」とすぐに了承する。

「はーい、私たちスケジュールやりまーす!」
 響き渡った美来の声に、実行委員の子は少し困ったように眉を下げた。手に持っていたプリントの束を教卓に置いて、控えめな声で呼びかける。

「……スケジュール希望の人、手を挙げて」
 暗黙の了解といった形で、美来と私だけが天井に向かって片手を伸ばす。本当は制作グループがよかったけれど、美来は嫌がるはずだ。それなら一緒に楽しくやれそうなのを選んだ方がいい。
 スケジュールの定員は三人だったものの、他の人は誰も手を挙げない。以前だったら三人グループだった私たちは、ぴったりだったはずなのに。

「じゃあ、ひとまず別のグループを先に決めます。デザイングループ希望の人、手を挙げて」
 展示のテーマやデザインを考えるグループと、制作グループが決まっていく。最後に残ったひとりが誰なのか予想がつき、私は冷や汗が額に浮かぶ。

「えっと……藤田くん、スケジュールで大丈夫?」
「別にいいけど」
 文化祭実行委員の子が顔色をうかがうように聞くと、藤田くんはすんなりと受け入れた。藤田くんと美来と、私。歪な三人が同じグループになってしまった。

「今からグループに分かれて、この紙を確認して」
 実行委員の子から渡されたのは、担任が作成した各グループの役割詳細だった。私たちのグループは、他のグループと連携をとりながら全体のスケジュールを組み、随時進捗を聞きながらスケジュール管理をしていくサポート係みたいだ。そして文化祭当日、展示の前に立つ人のタイムスケジュールも決めなければならない。

「えー……なんか意外と面倒くさそう」
 やめておけばよかったと、美来が口を尖らせた。けれどもう他のグループも決定してしまったので、今更撤回もできない。

「こんなのあるなら先に配ってほしかったな〜」
 美来がプリントの端を指先でくるくると丸めながら、不服そうに眉を寄せる。

「あ……」
「てかこれ、私たちでどこまで決めちゃっていいの? 当日までの制作スケジュールって、作業する人たちに聞かないと難しくない?」
 言葉を迷っているうちに、話がどんどん進んでいってしまう。美来の会話のペースに乗り遅れてしまい、唇を結ぶ。
 実行委員の子がプリントの束を持っていて、配ろうとしてたよ。私たちが先にスケジュールをやりたいって言ったから、先に決めてくれたのかも。
 ……そう言えばよかった。
 なるべく相手を不快にさせないように、上手に話したい。そんなことを考えすぎて、よく私は話すタイミングを失ってしまう。

「プリント配る前に菅野がスケジュールやりたいって言ったからだろ」
 空いていた椅子が埋まり、声の主は不機嫌そうに美来を見やる。藤田くんが話し合いに参加してくれることに驚きながらも、美来は指摘されたことがおもしろくなさそうだった。

「……私のせいってこと?」
「実行委員は悪くねぇだろってこと。それよりスケジュール、早く決めねぇと他のグループが困る」
 ふたりの間に微妙な空気が流れ始める。

「え、まじ? これ絶対いい案だと思ったのに!」
 窓側から大きな声が響いた。誰かひとりが噴き出すと、小さな笑い声が波紋のように広がっていく。展示のテーマやデザインを決めるグループだ。美来と同じリーダーシップを取るのが得意な橙色を纏った男子が中心となって話していて、楽しげな雰囲気だった。

 彼らとの温度差に、私たち三人の空気はますます淀んでいく。
 どうしたらこの空気が変わるのか方法が思い浮かばない。こんなとき、あの子だったら上手にまとめてくれた。
 教卓側に集まっている制作グループに視線を向ける。赤いオーラを纏っていて、肩にかかるほどの長さの髪にゆるくウェーブをかけた女子がすぐに目にとまった。

 真剣な表情でなにかを話している彼女の姿は、夏前と変わらない。変化があったのは私の視界と、私たちの距離だけ。彼女の視線が近くにいた女子から、廊下側へと流れていく。その瞬間、目が合った気がして慌てて俯いた。
 心臓が嫌な音を立てて、思い出したくない記憶を蘇らせる。
 閉じ込めて目を逸らしていた出来事の再生ボタンが無遠慮に押されて、当時の光景が脳裏に流れていく。

『なに考えてんの?』
 苛立ちを含んだ声がセミの鳴き声に混ざって鼓膜を刺激する。信号の青い光が警告するように点滅していて、立ち止まった私たちの横を生温い風が吹き抜けていった。

『楓は——』
 見ないで。そんな軽蔑するような眼差しを向けないで。下唇を噛み締めて、目蓋をきつく閉じる。

「ねえ、楓がリーダーするのはどう?」
 右側から聞こえてきた言葉に、我に返って顔を上げた。

「え? リーダー?」
「うん!」
 意識が逸れていたせいで、どうして突然私がリーダーをやるという話になったのかがついていけない。

「そういうの苦手で……向いてないよ」
「そんなことないって!」
 美来が声を弾ませる。
「楓って周りと上手くやるの得意なイメージだし、合ってると思う!」
 私のことをそう思ってくれるのは嬉しいことだけど、足を引っ張ってしまいそうだ。美来のような言葉に力がある人がまとめ役の方が私よりもずっと向いている。それに、私のイメージってどこからきているんだろう。

「無理に押し付けんなよ」
 藤田くんが咎めるように言うと、美来は「だって」と口を尖らせて、教卓側へ視線を向ける。

「私は、リーダーはやりたくないし」
 誰のことを見ているのかすぐにわかった。
 美来が避けているのは、先ほど私が見ていた女子——瀬尾めぐみ。
 制作グループのリーダーはめぐみらしく、輪の中心になってなにかを話している。リーダーになると必然的に関わることになるので、やりたくないみたいだ。

 めぐみは七月の前半までは私たちのグループにいて、美来が大好きだったはずの子だ。
 自分の意志を強く持っていて、曲がったことを嫌い、真っ直ぐな言葉を投げかけてくる。そういう彼女を美来は気に入っていて、ペアでなにかをするときはいつもめぐみに声をかけていた。だけど、美来に対してめぐみがハッキリと物申したことによって、平穏だった三人の関係は変化した。
 めぐみへの好意は、オセロのようにひっくり返って、敵意になってしまったのだ。

「お願い、楓! リーダー、頼んでもいい?」
 本当はやりたいくない。でもやりたくないのは美来も同じで、誰かがやらなければいけないことだ。それに美来は私がリーダーをやるのを望んでくれている。少しだけ気分は憂鬱だけど、期待に応えたい。

「うん。やってみるね!」
「笹原は、本当にそれでいいわけ?」
「大丈夫だよ」
口角を上げて笑みを作る。居場所を失いたくない。失敗をしてガッカリされないように、やるならしっかりしなくちゃ。
「ありがと〜! やっぱ楓は優しいし頼りになるね」
 心になにかが引っかかる。美来がくれた優しいとか頼りになるという言葉は、いい意味のはずなのに、素直に喜べない自分がいた。


***


 その日の夕方、私のスマホに電話がかかってきた。相手は前のバイト先の店長で、話すのは約二ヶ月ぶりだった。
「……え? 新店舗で面接ですか?」
 告げられた内容に驚愕して、思わず大きな声を出してしまう。
 四月頃から学校近くのファミレスでバイトをしていたけれど、七月で営業が終了してしまったのだ。店長は他の店舗に異動になったそうで、そこが私の最寄駅にある新店らしい。

『今人手が足りなくて、前の店舗の子たちにも声をかけてるけど、もう他で決まってる人ばかりで。笹原さんは他のバイト決まっちゃった?』
「いえ……」
『よかった! 会社の決まりで一応面接からしないといけないんだけど、どうかな』
 バイト代が入らなくなったことは痛手だったので、有難い話だけれど、ひとつ懸念があった。同じバイトの経験があるとはいえ、灰色異常のことがある。

「でも、私辞めて数ヶ月経ちますし、そこまで役に立てない気がして……」
『大丈夫! 笹原さん、しっかりしてるイメージだから、新しい場所でもすぐ仕事覚えられるよ!』
 私は、しっかりなんてしていないのに。言葉に出してしまいそうになって、口を閉ざす。あの頃、初めてのバイトで慣れるのにいっぱいいっぱいだった。ミスだってたくさんしたし、周りに助けてもらっていたからできていただけだ。

『お願いできないかな?』
 かなり困っているようだったので、ひとまずは面接だけでも受けるという形に収まった。バイトをまたやりたいのか、やりたくないのか。自分で決められないまま、また流されてしまった。私は自分の意思がどこにあるのか見えなかった。


 そうして早速翌日面接を迎えた。従業員用の裏口からファミレスへ入ると、四十代くらいの女性が「笹原さん!」と私に明るく声をかけてくれた。電話をくれた店長だ。

 纏っているのは緑色。灰色異常になって、店長のオーラを見るのは今回が初めてだった。前にバイトしていたときは、ちょう発症する前にお店が閉まったので、オーラを見る機会はなかったのだ。
 緑色は周りから好かれやすい。学校でも何人か緑色の人がいるけれど、人当たりが良くて親切なタイプが多かった。
 従業員の休憩スペースに入ると、私と店長は他愛のない話をしながら、パイプ椅子に座る。まだ迷いがあるとはいえ、面接を受けると決めた以上はきちんと形式に沿って履歴書を提出した。

「よろしくお願いします」
「そんな堅くならないで。季節のメニューとかは変わってるけど、グランドメニューはほとんど変わっていないし、こっちの方が最新設備だからやりやすいかも」
 作業などは前の店舗でしたこととほぼ変わりないことなどの説明を受ける。そのことに安堵したものの色のことがあって頷けずにいると、せめて冬の繁忙期だけでもバイトをしてほしいとお願いされた。

「私、足を引っ張るかもしれないです」
「笹原さんなら大丈夫。真面目だし、仕事覚えるのも早かったでしょ」
 流されてばかりの私は、本当に真面目なのだろうか。そんな疑問が浮かび上がる。

「でも……」
「今、キッチンの人手が足りてないの。お願いできない?」
 必死に懇願されて、言いたかったはずの言葉を飲み込む。
 できませんなんて言える空気じゃない。断るのなら面接を受けにくる前に言うべきだった。だけど私でも役に立てて、必要としてもらえるのなら有り難いことだ。せめて繁忙期が終わるまで働こう。自分に何度も言い聞かせながら、私は口角を上げる。

「はい」
 店長の表情に明かりが灯り、引き受けてくれてよかったと安堵していた。そしてすぐにでも人手が欲しいという要望で二日後の木曜日からバイトに入ることになった。


***

 バイト当日、久しぶりのバイトに緊張しながらも、真新しいキッチン用のユニフォームに身を包む。今は色が見えないけれど、ライトイエローのシャツと茶色と白のストライプ柄のズボン。そして帽子は茶色だ。
 いくら経験があるとはいえ、数ヶ月だけしか働いておらず、新人みたいなものなので早く仕事に慣れなければいけない。気を引き締めて従業員スペースを出ると、近くで店長が私を待ってくれていた。

「笹原楓です! あの……よろしくお願いします!」
 改めて自己紹介をすると、店長に軽快に笑われる。

「緊張してる?」
「二ヶ月ぶりくらいなので……」
「大丈夫だよ。笹原さんも知っての通り、キッチンの仕事って簡単料理だから」
 ここのファミレスの料理はそこまで複雑なものはない。基本的に冷凍が多いので、揚げたり、湯煎にかけたりする。とはいってもメニュー数は多いので、まだ全て頭に残っているか自信がなかった。

「それじゃあ、まずはここで手を洗って消毒ね」
「は、はい!」
 手を洗って消毒をし終えると、キッチンの設備についての説明をしてくれた。私が以前働いていた場所よりも最新の機器で使い方が違うらしい。

「あ、そうそう。フライヤーだけど、なにを揚げるのかボタンで選択してね。ちょうどいい温度になったら、音が鳴るから」
 フライヤー以外にも、いくつか前の店舗とは異なる使い方の物があり、メモを取っていく。
「あとはー……ちょうどいいところに藤田くんが来たね!」
 足音が聞こえてきて振り返ると同じユニフォームを着た男の子がいた。まさかこんなところで会うなんて想像もしていなかった。

「笹原さん、藤田くんと同じクラスなんだって?」
「え、あ……はい」
「昨日それ聞いてびっくりしたよ! クラスメイトならやりやすいね!」
 クラスメイトといっても、最近初めて関わりを持った相手。日常会話をしたこともない彼に親しみは持てず、むしろ困惑の方が大きい。

「ちょっと本部に連絡することがあるから、少しの間外すよ。それじゃあ、あとは藤田くんよろしくね〜!」
 藤田くんと向き合いながら、鋭い眼差しに息をのんだ。
 燃えているような赤いオーラが、逃げ出したくなるような焦燥感を与えてくる。意志を強く持っていて、周りの目を気にせずに自分を貫いている人。
 めぐみとの関係がうまくいかなかったこともあり、同じ色を纏っている藤田くんにも苦手だ。それに噂のこともあり、些細なことで怒らせたらと思うと怖かった。

「ょ……よろしくお願いします!」
 声が微かに震えてしまう。戸惑いを悟られないように、笑顔を必死に浮かべるけれど、藤田くんは機嫌が悪そうに眉を寄せている。
「よろしく」
 素っ気なく返されて、ますます萎縮していく。店舗が違うため、勝手が異なることだってこれから出てくるはず。わからないことがあったら、この人に聞かないといけない。毎度どんな反応をされるかと考えるだけで、胃がきりきりと痛む。

「洗い物は洗浄機を使うけど、ドリアとかソース類がこびりついているやつは、手洗いしないときちんと汚れが落ちないから、そこのシンクで洗って」
 私が以前他の店舗で働いていたことを藤田くんは知らないのかもしれない。だけど、知ってますなんて言いにくい。

「なに?」
 私がなにかを言おうとしたことに気づいた藤田くんが、じっと見つめてくる。

「そういえば別の店舗で働いてたんだっけ」
「……はい」
「俺も同じ。オープニングスタップ探してたから、こっちの面接受け直した」
「あ……そうなんですね」
 もっと話を広げるべきなのに、頭が上手く働かない。どこの店舗だったんですかとか聞くと詮索しているようだし、何ヶ月目なんですかと聞いてもそのあとに続く言葉がない。

 藤田くんは「じゃあ説明いらないか」と私の傍を離れていく。食器洗浄機から綺麗になったお皿を取り出して、素早く仕舞っている彼の姿を眺めながら、私は漏れそうになるため息を飲み込んだ。他愛のない会話すら、私は上手にできない。
 調理台の上に置いてあるタブレットから電子音が鳴る。

「注文俺がやるから、そこのドリアの皿とか洗っておいて」
「わ、わかりました!」

 注文が入るとデータが届く仕組みになっていて、タブレットにはオーダーの品が記載されていた。
 藤田くんはテキパキと動き、同時進行でふたつの料理を作っている。その姿を横目で見ながら、私は与えられたお皿洗いを遂行していく。汚れがこびりついているお皿だけ洗ってから、他の食器は全て洗浄機にかける。それが終わったタイミングで藤田くんも料理が完成したらしい。完成したパスタとピラフのお皿を持って、受け渡し口に置いた。

「バジルパスタと、エビとマッシュルームのピラフ」
 彼の声に反応して、ホールの人がすぐに料理を取りに来る。基本的に前の店舗と流れは一緒だ。藤田くんは棚の中からメニュー表を取り出すと、私の前に置いた。

「メニュー全部覚えてる?」
「……一応。でも所々自信なくて」
「じゃあ、全部ちゃんと覚えて」
「す、すみません! ちゃんとします!」

 私の返事に、藤田くんの動きが止まる。眉を寄せたまま、短く息を吐いた。前に働いていたくせに暗記できていない私に呆れているのかもしれない。

 機嫌を損ねてしまったことは間違いないので、焦りが全身に駆け巡る。できるだけ迷惑をかけないように、メニューを完璧に覚えたい。それ以外にもメモも素早く取って、負担を少しでも減らしたい。

「あとこれ、季節のメニュー。今は栗。プリンとパフェで使う栗の種類違うから気をつけて」
 失敗なく追われますようにと、何度も心の中で祈りながら、藤田くんの説明を聞いて、必死にペンを走らせる。

「すげぇメモとるんだな」
「えっ! あ……すみません」
「は?」

 あまりにもメモを取ることに夢中になってしまったので、逆に不快に思われてしまったのかもしれない。藤田くんは顔を顰めて、「意味わかんね」と吐き捨てる。びくりと身体が震えて、ペンをきつく握りしめた。
 怒らせたくないのに、うまくできない。どう返せばよかった?

「藤田くん、優しくね?」
 キッチンへ戻ってきた店長が、少し離れた位置で作業をしながら笑顔で指摘する。藤田くんはぎこちなく口角を上げて顔を引きつらせながら頷く。そして視線を巡らせるとパフェのグラスを手に取った。

「笹原、パフェのオーダー入ったから頼んでいい?」
「っ、はい!」
 チョコレートパフェの作り方を、タブレットに表示させる。これなら前に何度も作ってきた。念のため手順を確認しながら、グラスをデジタルスケールの上に置いて、シリアルを記載された量まで入れていく。

「ブラウニーとホイップは、そっちの冷蔵庫の中」
「わ、わかりました!」
 調理スペースの隣にある冷蔵庫からブラウニーを取り出して、角切りにして四つ入れて、ホイップクリームをぐるりと一周させる。

「バナナ」
 それだけ言うと、藤田くんは目の前の調理台にバナナを置いた。皮を剥いて輪切りにしたバナナを、絞ったホイップの上に重ねる。間違っていないか、藤田くんの顔色をうかがう。けれど隣でじっと見ているだけで、特になにも指摘してこない。

「アイスは冷凍庫の二段目」
 冷凍庫を開けて腰を少し屈めると、横長の容器がずらりと並んでいる。チョコレートとバニラと蓋に書いてあるアイスを取り出して調理台に戻ると、先が丸いディッシャーという器具を渡された。

「硬かったら、温めてから使って」
 凍ったアイスの表面を削り、丸く窪んだ中に詰めていく。硬いけれど、私の力でもできる。パフェ容器の上にチョコレートアイスとバニラアイスを丁寧に飾りつけた。

「仕上げのソースは、この下の冷蔵庫」
 調理台の下は冷蔵庫になっているらしい。扉を開けると、ミルクやソース類が仕舞われていた。
 ソースに手を伸ばそうとして、動きが止まる。並んだソースは、どれも透明な容器に入っていて名前がない。色が見えていれば、見分けがつくものかもしれない。けれど私には似たような色に見えて、どれがチョコレートなのか確信が持てない。

 真ん中の容器がチョコレートだろうか。手に取ってみて、観察してみるけれどよくわからなかった。
 これで合っているかなんて聞いたら不審に思われてしまうかもしれない。むしろ色のことを藤田くんと店長に今話したほうが——

「それ、キャラメルソース」
「すみません!」
「ごめん、洗い物溜まってきたから、頼んでいいー? ちょっと今、揚げ物作ってて手が離せなくて!」
 店長の声がキッチンに響く。藤田くんはパフェとシンクを交互に見ると、短く息を吐いた。

「あとは俺がやるから、皿洗いと洗浄が終わった食器を仕舞って」
 指示された通り、パフェの残りの作業は藤田くんに頼んで、お皿洗いに移る。気持ちが空気の抜けた風船のように萎んでいく。私の作業が遅かったせいだ。こんなこともできないのかと幻滅されたに違いない。色の判別ができないと、やっぱりこのバイトは難しいかもしれない。

 汚れのこびりついたお皿を洗ったあと乾いた布巾で拭いた。手洗いをする必要のなさそうなものは、そのまま洗浄機にかける。一部の食器だけ仕舞う場所がわからず探していると、藤田くんが近づいてきた。


「終わった?」
「あ、はい……すみません」
 洗う作業ですら遅くて見にきたのかもしれない。足を引っ張ってばかりだ。これくらい早くできないと邪魔者になってしまう。

「その皿は、ここに仕舞って。カトラリー系は、こっち」
 藤田くんに言われた通りに、洗い終わった食器類を仕舞っていく。平皿の場所は覚えたけれど、小鉢の場所がまだわからず、立ち止まる。

「あの、この器は……」
「それはここ」
「すみません……ありがとうございます」
 藤田くんは振り返り、目を細めた。眼差しから私への不満を感じて、嫌な汗が背筋に滲む。

「すみませんが口癖なわけ?」
「え……」
「なんで俺がなにか言う度に、すみませんって言うんだよ。別に悪いことしてねぇのに口癖みたいに謝るのやめろ」

 飲み込んだ生唾が喉に刺さるような痛みを残していく。
 適当に謝った気はなかった。迷惑をかけてしまっているので、口にしたけれど、藤田くんにとってそれは不快なことだったみたいだ。
 なにか言わないと、ますます気を悪くさせてしてしまう。だけどここで謝っても逆効果かもしれない。自己防衛のように自然と口角を上げて弧を描く。そして、なるべく当たり障りないように声を振り絞って返答する。


「気をつけます」
 けれど、それすら不快なようで藤田くんは顔を顰めた。

「そういうのもやめたら?」

 めぐみの言葉と重なり、笑みが抜け落ちていく。
『——ヘラヘラ笑って、やり過ごすのやめたら? そういう生き方って、しんどくならない?』

 握り締めた手に爪が食い込む。……やっぱり赤色の人は苦手だ。
 藤田くんやめぐみには、私の気持ちなんてわからない。そんな薄暗い感情が心を侵食していく。言いたいことを口にした方がいいときもあるけれど、揉めることが私は怖い。平和を守るためには飲み込むことだって必要なはずだ。

 それから藤田くんは業務以外のことを口にすることはなかった。私は指示されたことをきちんと覚えられるように、必死に頭に叩き込んだ。


 バイトを終えて、ユニフォームから学校の制服に着替える。立ちっぱなしだったからか、足が重たい。ヘアゴムを取ると、ほんの少し髪に跡がついてしまっていた。ちょっとだけ気分が落ちたけれど、これから家に帰れるのかと思うと緊張の糸が解れていく。

「おつかれさまでした。お先に失礼します」
 店長や他の従業員の人に挨拶をして、裏口のドアを開けた。外はすっかり暗くなっていて、生温い秋風が頬を撫でる。

 ファミレスの横の細い道を進んでいくと、フェンスに寄りかかるようにして立っている女の子の姿があった。バイトが終わる前に店長に呼ばれて、自己紹介程度だけ会話を交わしたホール担当の岡辺知夏さんだ。
 彼女も同じ高校らしく、商業科だと言っていた。けれど普通科の私とは教室が離れているため、学校では一度も見たことがなかった。

 短く折られたスカートからは、すらりと長い脚が伸びていて、胸元まで伸びた髪は綺麗に巻かれている。上向きな睫毛に猫のような大きな瞳は愛らしく、目を引く容姿をしていた。そして彼女には黄色が滲んでいる。黄色は明るいムードメーカーだ。
 私に気づいた岡辺さんが、スマホをいじるのをやめて片手を振ってきた。

「おつかれー! 楓ちゃん!」
 いつのまにか下の名前で呼ばれている。距離の詰め方に驚いたけれど、岡辺さんの笑顔は愛嬌があって親しみやすい。

「おつかれさまです!」
「敬語いらないよ」
 可笑しそうに、声を上げて笑われた。

「仕事早いんだって? すごいね〜!」
 一体どこからそんな話が出たのかと、目をまん丸くして瞬きを繰り返す。店長が大袈裟に褒めてくれたのかもしれない。

「藤田がびっくりしてたよ〜。楓ちゃん、仕事熱心だって」
「え? 藤田くんが? むしろ仕事遅いとかじゃなくて……?」
 あんなに迷惑そうにしていたのに、仕事が早いと言っていたなんて信じ難い。パフェだって、途中で中断させられたほどだ。

「もしかして素っ気ない態度でもとられた?」
「……多分怒らせちゃって」
「そんな気にすることじゃないよ! あいつ真面目で融通効かないし、わかりにくいんだよね〜。いっつもこーんな怖い顔してるじゃん?」

 わざとらしいくらいに眉を寄せて、口を曲げる岡辺さんに、私は耐えきれず噴き出してしまう。藤田くんには申し訳ないけれど、少し似ている。私の反応に、岡辺さんは表情を緩めて口角を上げた。


「でも嘘は言ったりしないよ」
 どことなく真剣さが伝わってくるような声音だった。藤田くんが私を褒めてくれたなんて想像がつかないけれど、岡辺さんがお世辞で言っているようにも感じない。


「とりあえず、なにかあったらいつでも相談してね!」
 風に髪が靡くと、岡辺さんの耳についたフープピアスが揺れた。笑うと八重歯が見えて、無邪気だけれど魅惑的な雰囲気を醸し出している。
 私も彼女のような黄色だったら、藤田くんを苛つかせることなく、初日から仲良くなれたのかもしれない。ないものねだりをする自分を惨めに思いながら、それを押し隠すように微笑みを浮かべて指先に滲む灰色を握り締めた。

 岡辺さんと別れて、居酒屋が立ち並ぶ賑わった道を抜ける。バス停の脇道を進み、人通りが少ない場所へ出ると、信号のところで男の子の後ろ姿が見えた。

 あれは間違いなく藤田くんだ。私よりも先にバイト先を出たため、鉢合わせることはないと思っていたので油断していた。
 手にはビニール袋を下げていて、コンビニに寄っていたみたいだ。近くにいるのに話しかけないことに気づかれたら、感じの悪いやつだと思われるかもしれない。

 それに信号待ちをしている彼が少し意外で、声をかけることに躊躇してしまう。この道は信号が設置されているものの、車なんてほとんど通らない。今だって車の姿はないのに、きちんと彼は信号を守っている。
 学校では不真面目なはずなのに、パズルのピースが合っていないような妙な気分になる。そういえば岡辺さんが〝真面目〟だと言っていた。


 ——楓ちゃん、仕事熱心だって。
 本当に彼が私のことをそう言ってくれていたのか、まだ信じられないでいる。岡辺さんの嘘だとは思わないものの、気遣いも含まれているのかもしれない。
 声をかけようか迷っていると、気配を感じたのか藤田くんが振り返った。そして「おつかれ」と言って、また前を向いてしまう。

 これだけ悩んでいたのに、会話の終了が呆気なくて表紙抜けてしまう。でもせめて私も一言くらい返したい。今度の関係のためにも気まずさは残したくない。


「っ……、お、おつかれさまです!」
 失敗した。こんなに大きな声で言うつもりなんてなかったのに、人が少ないとはいえ静かな夜の街に響いてしまった。
 恥ずかしくて逃げ出したい気持ちになりながら俯く。どうしてこれくらいのことも、上手くできないんだろう。自分がますます嫌になる。

「なんで敬語?」
 岡辺さんと同じ指摘をされてしまった。顔を上げると、藤田くんが再びこちらを向いている。視線を泳がせながら、不快にさせないような言葉を探す。

「バイト先では先輩、なので」
 私の返答は失敗したのか、藤田くんはなんとも言えない表情でため息を吐く。

「クラスメイトなのに変な感じするから、敬語いらねーよ」
「は、はい」
「とれてねぇじゃん」
「緊張しちゃって……」

 なんで?とでも言いたげな藤田くんに、私は苦笑する。目立たず周りに合わせて、個性を殺しながら溶け込んでいる私と、周りになにを言われようと己を貫いている藤田くん。私たちは同じ教室にいても、世界がまるで違う。少し前までは、こうしてふたりきりで話すことなんてないと思っていた。
 けれど、今ならあのとき届かなかったお礼を言うチャンスかもしれない。

「……ペン拾ってくれてありがとう」
「ペン?」
「床に散らばったとき、藤田くん拾って届けてくれたのにお礼言えてなかったから」
「あー、こないだのやつか。……困ってるように見えたから」
 確かに机にぶつかられてペンをばら撒かれて、戸惑っていたけれど、藤田くんは単にうるさいのが嫌で怒ったのかと思っていた。

「それで怒ってくれたの?」
「ああいうのくだらねぇじゃん。周りのやつらも迷惑そうにしてたけど、言いにくそうだったし」
「……そうだったんだ」
 彼へのイメージに変化が生まれる。藤田くんは他人に興味なんてないと思っていた。けれど、ちゃんとクラスの人たちのことを見ているんだ。
 僅かな沈黙が流れて、私は他になにか話題がないか必死に考える。そういえば大事なことを謝罪できていない。

「バイトで色々迷惑かけちゃってごめんね」
「は?」
 たった一言で空気がピリついた気がして、肩が飛び上がりそうになる。言葉を間違えてしまった。

「迷惑ってなにが?」
「えっと……その、私に教えるせいで藤田くんの時間拘束しちゃったし……パフェ作るのも遅くって。だからそれで迷惑かけちゃったかなって」
「笹原はこの店舗初めてなんだから、教えるのは当たり前だろ」
 藤田くんはどこか戸惑ったような声音だった。視線が交わると、気まずそうに目を伏せる。

「俺の方こそ、怖がらせて悪かった」
「え?」
「言い方キツいから、嫌な思いさせただろ」
 藤田くんの口調は強くて萎縮してしまうこともある。けれど、彼はそのことを気にも留めていないと私は決めつけていた。けれど違ったみたいだ。

「それとパフェの途中で俺が交代したのは、混んできたからってのもあるし、様子が変だったから」
「あ……それは」
「忘れることくらいあるし。別に気にすることじゃないだろ」
 ソースの色が見えず、手が止まったことについて、藤田くんは私がどのソースをかけるのか忘れたのだと思ったらしい。

「それに手際いいから片付けとか速いし俺は結構助かったけど」
「……邪魔だったからではないの?」
「そんなこと一度も言ってなくね?」
「言われてはないけど……邪魔って思ってるのかなって感じて……」
 眉間にシワを寄せたり、不機嫌そうにため息を吐かれたり、てっきり教えるのが面倒なのだと思っていた。すると、苦々しい表情で藤田くんが「俺に対して敬語だったから」と零す。

「笹原は俺と話すの嫌なんじゃないかって思って、なるべく業務以外のことは話さないようにしてたんだけど。それが態度悪く感じたならごめん」
「え、どうして私が藤田くんと話すのが嫌なの?」
 歩行者用の信号に歩く人のマークが映し出される。だけど、私たちは動き出すことができずに見つめ合う。

「俺の噂知ってんだろ」
 噂といえば、タバコと暴行事件だ。そのことを藤田くん本人が気にしているのは意外だった。
「だからそういうので関わりたくないのかと思ったから」
 藤田良は暴力的で怖い人。噂を聞いてそういう印象を抱いていた。そして更に纏っている色が赤だったこともあり、彼への苦手意識が強くなったのだ。

「……ごめんなさい」
 きっと私の態度に現れていた。噂や表面上だけで藤田くんのことを決めつけて、自分の目で彼を見ようとしていなかった。
 藤田くんは私のことを邪魔なんて思っていなくて、手際がいいと言ってくれたのに。本心なんて知ろうともせず、勝手に私は怖がっていた。

「いい噂ねぇのは事実だし、別に謝ることじゃないだろ」
「でも、私も態度がよくなかったから……」
 私が敬語を使ったり、何度も謝っていたことについて嫌そうにしたのは、藤田くんに怯えていると捉えられたようだ。

「だから、ごめんなさい」
「気にしなくていいって。俺も誤解させたし」
 素っ気ないけれど、でも棘はなくて声が柔らかくなった気がした。

「次同じシフトのとき、遠慮せず笹原に作業頼む。あと季節のメニュー作り方複雑だから、早めに覚えておいて」
「っ、うん! 季節のメニューもちゃんと覚えるから、作らせて!」
 勢いよく答えると、藤田くんは目を見開く。我に返り、はしゃいだような反応をしてしまったことに羞恥がこみ上げてくる。引かれたかもしれない。

 すると、藤田くんは表情を緩めた。

「いいよ」
 初めて見る彼の笑った顔に釘づけになってしまう。そして、視界に映った色に目を疑った。

 ——緑……?
 見間違えかと思ったけれど、間違いなく藤田くんの赤色の中に緑色が見える。どうして他の色が混ざっているのだろう。

「うわ、信号青になってんじゃん」
 歩行用の信号が、チカチカと点滅をしていた。それよりも私は彼の纏う色の方が気になってしまう。赤の中に隠れていた緑は淡くて、よく目を凝らさないとわからない。

「なにしてんだよ。早く渡らねーと」
「え……っ!」
 慌てた様子で藤田くんは、私の腕をとって走り出す。夜の横断歩道を、腕を掴まれたまま一歩、また一歩と進んでいく。チカチカと点滅をする中で、私は半歩先の赤色から目が離せない。

 赤色の人は苦手だ。頑固で自分の意見を貫き通す人で、傷つけることも言う。
 だけど車なんて一台も走っていなかったのに信号を守っていて、腕を掴む手は強引なようで力はあまり込められていない。焦ったように点滅する信号を渡る姿は、ちょっとだけ子どもっぽい。私の中のイメージと違う。

 藤田くんがどんな人なのか、今ではもう言葉で上手く説明できなくなっている。
 信号を渡りきると、腕は離れて「こっち来て」と手招きされる。パーキングエリアを曲がると、十字路に出た。そこは他のアスファルトよりも凹凸があり、視界がモノクロな私にもわかるほど地面が細かく光っている。

「こんな道、初めて見た」
「ガラスが混じって、キラキラしてるんだってさ」
「……星みたい」
 街灯の光を反射していて、まるで満天の星を映した道のようだった。気が緩んで妙なことを口走ってしまったかもしれないと、慌てて唇を結ぶ。すると、振り向いた藤田くんが、ほのかな笑みを見せた。

「俺もそれ思った」
 直視できなくて視線を地面に下ろす。今度は別の意味の恥ずかしさがじわりと熱を持って、頬に浸透していく。

「あ、悪い。寄り道させちゃったな。俺、若葉町の方なんだけど、笹原は?」
「私は高木町だから、すぐそこだよ」
「結構近所なんだな」
 中学は違うものの、どうやら私たちは同じ市内に住んでいるらしい。親近感を覚えながら、お互いの出身中学はどこかなどの会話が続き、無言になることはなかった。
 星の道を抜けて、そのまま住宅街へと進んでいく。五分くらい歩いていくと、分かれ道へと差し掛かり、足を止めた。

「俺、こっち」
「あ、うん」
 あんなに気まずいと思っていたのに、その気持ちは嘘みたいに消えていた。

「じゃあな」
 軽く手を振って、藤田くんは左の道を進んでいく。その後ろ姿を眺めながら、私は口を何度も開閉させた。
 緊張とか、どう思われるかとか、そんなことよりも、私が今伝えたい言葉で頭がいっぱいになる。

「っ、また明日!」
 夜道に響いた声は、藤田くんへ真っ直ぐに届く。振り返り、眉根を寄せた彼が破顔した。

「声、でけぇよ」
 そんな風に笑って突っ込みながら、「また明日な」と返してくれる。再び軽く手を振り合って、私たちは別々の道を歩き始めた。

 時折吹く柔らかい秋風は心地良くて、バイトで疲れ切ったはずの足は軽やかにアスファルトを踏む。
 また明日。何度も誰かと交わしたことがある言葉のはずなのに、どうしてか今夜は特別に感じて胸が躍った。








 翌日、窓側の一番前の席に視線が自然と向いた。休み時間になると、藤田くんはひとりだけぽつんと席に座っている。誰も近づこうとせず、彼自身も話しかける隙を与える気がないようにスマホをいじっていた。

 また明日と言葉を交わしたけれど、学校での私たちの距離は遠い。すれ違うことすらなく、当然目も合わない。昨日のことが嘘のよう。
 もしも彼に声をかけたら、私たちに視線が集まり、教室は静まり返る。注目を浴びるのは間違いない。そんなことを想像して勇気が出なかった。

 三限目が終わり、休み時間になると手帳を広げる。早めに文化祭のスケジュールについて考えないと作業するのに困るはずだ。ざっくりとスケジュールを立てて、各グループのリーダーに確認をとりながら調節しないといけない。

「ちょっといい?」
 声をかけてきたのは、めぐみだった。心の準備が整っていなかった私は、突然のことに動揺して言葉が喉から出てこない。

「文化祭のことで話があるんだけど」
 彼女と対面するのは、約一ヶ月半ぶりだ。目尻が上がっている奥二重は涼しげな印象で、凛とした佇まいは芯の強さを感じさせる。以前はかっこよく思えていた姿に、今では威圧感を覚えて怯んでしまう。
 めぐみは少し離れた位置で、他のクラスの子とお喋りをしている美来を横目で見やる。

「リーダー、楓でしょ。美来はやる気ないっぽいし、藤田くんはやらなさそうだし」
「あ、うん」
 情けないほどか細い声になってしまった。私たちのことをよく理解しているめぐみには、誰がリーダーになるのかわかっていたみたいだ。

「これ今わかる範囲の大まかなスケジュール」
 一枚の紙を机に置かれる。そこには達筆なめぐみの字で、テーマ会議や材料の買い出し日などが綴られていた。

「テーマが固まったら、また変わるかもしれないから仮だけど」
 正直なところすごく助かる。けれど、本来であれば、私がするべきことだった。めぐみには他の作業だってあるはずで、短い期間でここまでまとめるのは大変だったに違いない。

「ありがとう。……ごめんね、こんなことさせちゃって」
「この方が効率いいかなって思っただけだから気にしないで」
 私の行動が遅くて、めぐみに呆れられているかもしれない。すぐに動けばよかった。本当は今日この作業をしようと思っていたけれど、そんなの伝えたところで言い訳にしかならない。自分の無力さを改めて感じてしまう。また迷惑かけないように、やるからにはしっかりしないと。

「あのさ」
 言いかけたものの、めぐみは諦めたように途中で止めてしまった。

「……あとはお願い」
 めぐみが背を向けて離れていく。あの言葉に続くものはなんだったのか。想像をしてみても、いい言葉な気はしない。めぐみは与えられた仕事はしっかりやり遂げたいタイプで、仕事の遅い私をよく思っていない気がする。
 久しぶりの会話で疲労感が押し寄せてきて脱力した。あの真っ直ぐな眼差しは、逃げ出したくてたまらなくなる。けれど見つめられると、身体が石になったみたいに動けなくなってしまうのだ。

 それに自分との違いを思い知らされる。私は行動を起こすことが苦手で、誰かに頼ってばかり。けれど、めぐみは私と気まずいはずなのに、私情よりも作業を優先してくれた。せめてほんの少しでも役に立ちたい。そんな思いから、授業中にどのようにしたらみんながスケジュールを共有しやすいか考えていた。

 四限目が終わると、教室の黒板横に貼られているカレンダーを持ってきて、そこに消せるペンでスケジュールを書き込んでいく。
「それもしかして文化祭のやつ? え、てかこのメモすごいね。まとめるの大変だったんじゃない?」
 私の元にやってきた美来が顔を引きつらせた。
「他の人がまとめてくれたんだ。私はそれをカレンダーに書き込んでるだけだよ」
 そのスケジュールをくれた人がめぐみだとは口に出せなかった。今彼女の名前を出せば、めぐみをよく思っていない美来がどんな反応をするかわからない。

「楓はしっかり者だから頼りになるね。楓いなかったら文化祭ニートだったよ〜」
 美来が悪びれもなく笑いながら言うと、私の斜め前に座っている女子が横目でこりらを見やった。微妙な空気が流れた気がして、口元が引きつってしまう。

「てか、結構スケジュール詰まってるね」
 綺麗に整えられた指先で、美来はカレンダーに書いた文字をなぞる。今までサボってきてしまったツケで、放課後に残って作業をしなければ間に合わなさそうなのだ。
 美来がちらりと窓側を見たのがわかった。そこにはめぐみがいて、同じチームの子たちと集まって食事とをとりながら、文化祭のことを話し合っている。
 関わりたくないと言いつつも、美来はめぐみを意識しているみたいだった。

「……他のチーム忙しそう」
 寂しげで弱々しい声は、普段の彼女らしくなかった。
 ——あれ?

 よく目を凝らしてみると、美来の橙色のオーラの中にほんのりと赤が見える。藤田くんのときと同じだ。みんな一色しか纏っていないものだと、私は今まで思っていた。それなのにどうして他の色が混ざっている。

「ねぇ、購買行かない? 私お昼買ってきてなくってさ〜」
 美来が私の腕を軽く掴む。一応聞いてはくれているものの、これは行かなければならない空気だった。
 本当はここで作業をしていたい。時間だってないし、早めに終わらせた方が他のグループもやりやすいはず。けれど握っていたシャーペンを置いて、私はカバンから財布を取り出した。
 行かないなんて言ったら、私と美来の関係も悪くなってしまう。友達のはずなのに、心のどこかで怯えながら一緒にいる。そのことを深く考えないようにして私は美来と教室を出た。
 廊下を歩きながら、美来はスマホをいじっている。時折人とぶつかりそうになっていて危ない。

「……美来、」
「ね、明日スイラン行かない?」
 スイーツ食べ放題のお店で、夏前までは三人でしょっちゅう通っていた。けれど美来の家の近くに店舗があり、私の家からは遠い。それに明日はバイトのシフトが入っていて、行けそうにない。

「今芋フェアしてるんだって! 紫芋のタルトがすんごい美味しそうでさ〜」
「あ、」
「それと楓の好きなモンブランもメニューにあったよ!」
 言葉を挟める間もなく話が進んでいき、私は口を僅かに開いたまま声を振り絞る。

「ごめん、明日バイトがあって」
 美来の笑顔が消えて、声のトーンが落ちていった。

「そうなんだ。てか、バイト辞めたんじゃなかったっけ?」
「最近また始めたんだ」
 あまり興味がなさそうに「ふーん」と美来は言うと、購買に入っていく。ふたりで遊ぶのを避けているように受け取られたらどうしよう。そんな不安が過ぎる。だけど実際断る理由があって、安堵している自分もいる。こんなことを思うなんて最低だ。
 美来がパンを選んでいると、三年生の男子たちが数名やってきた。髪が無造作にセットされていて、制服をほどよく着崩している。その中にいるひとりが、以前から美来が憧れている先輩で、夏前に連絡先をゲットした人だった。

「お、パン買いに来たの?」
「はい! 先輩もですか?」
 声を弾ませながら美来が片想い中の先輩と話している。先輩と会えることは滅多にないので、かなりテンションが上がっているみたいだ。先輩たちはパンを何個か選んで購入すると、私たちの方へ向いてニッコリと笑いかけてくる。

「またね」
「はいっ!」
 先輩たちが談笑しながら去っていく。階段を登っていったのを確認すると、美来が興奮気味に顔を手で覆う。

「やばい〜! ほんっとかっこいい!」
「先輩に会えてラッキーだったね」
 私では気の利いた言葉が浮かばない。こういうときめぐみがいたら、美来になにかいいアドバイスをしたり、話を膨らませてくれていた。でももうこの輪の中に、めぐみはいない。
 教室へ戻ろうとする美来に、「飲み物買ってもいい?」と聞くと、すぐに先輩の話に戻ってしまう。購買を出て、自動販売機がある方へ行こうとすると、〝楓〟と引き留められる。

「どこ行くの?」
 頬がほんのりと赤く蒸気したまま美来が、目を細めて微笑んだ。先輩について夢中で話していたので、先ほどの私の言葉が聞こえていなかったみたいだ。

「……自販機で飲み物買ってくるね」
「購買で買えばいいのに」
「飲みたいやつ向こうにあって」
「いってらっしゃーい。私は先戻ってるね〜」
 へらりと笑顔を貼りつける。別行動が取れることに私は今、安堵してしまった。なんとなくひとりになりたい。

 軽く右手をあげると、腕にはめられたバングルが肘に向かってするりと落ちていく。仲がいいことを証明する物であり、私の心を縛りつける枷のようにも感じる。
 そう考えた途端に、腕が拘束されているような違和感を覚えて、もう片方の手で腕の上からバングルを握りしめた。学校の中では外したくても、外せない。
 購買を離れて自動販売機の前に着くと、一気に肩の力が抜けていく。
 なんだか最近、少ししんどいかもしれない。自分から滲んだ灰色を見つめながらため息を零した。
 まだスケジュールの作業が残っている。早く教室に戻ってお昼を食べてから作業に取りかからないと。だけど、どうしても気分は沈んだままで浮上しない。

 お財布の中の小銭を自動販売機へ投入していく。
 カラカラと、落ちていく硬貨の音を聞きながら、下段の左端を押した。取り出し口へと手を伸ばす。小さいサイズのペットボトルに触れて、思わず声を上げてしまう。

「わっ!」
 予想外の温度に驚いて、取り出し口のプラスチックの蓋に腕がぶつかり、ペットボトルが叩きつけられるように床に落ちて転がる。間違いなくアイスミルクティーのボタンを押したはずなのに、何故か出てきたのはホットだった。

 ボタンをもう一度確認してみると、この間まで夏仕様でアイスばかりだった自動販売機に、ホットのコーナーができていた。
 色の認識ができていたら、こんなことにはならなかったはずだ。冷たくて甘いものを飲みたい気分だったので、がっくりと肩落とす。けれど買ってしまったものは仕方ない。ゴミ箱の方へと転がったホットミルクティーを拾おうとすると、誰かが先に拾ってくれた。

「なにしてんの」
 拾ってくれた相手は藤田くんだった。私の挙動を見られていたことに、羞恥で頭を抱えたくなる。

「……アイス買ったつもりが、ホット間違えて押しちゃったんだ」
「そんなやつ本当にいるんだ」
 苦笑しながら、何故か藤田くんはミルクティーを自分のブレザーのポケットに仕舞う。そしてお金を自動販売機に入れて、〝つめたい〟と書かれたミルクティーのボタンを押した。

「はい」
「え、でも!」
「俺はホット買う気だったから」
 買ったばかりのミルクティーを私に手渡してくれる。手のひらに伝わる冷たい温度に、不思議と心臓の鼓動が高まる。

「いらねぇなら、それももらうけど」
 多分藤田くんは私のためにホットをもらってくれた。九月になったとはいえ、今日は特に夏の名残を感じる。ホットを飲みたくなるような気温ではないはずだ。
 彼の優しさは、ちょっとだけ不器用なのかもしれない。噂なんて、当てにならない。口調はキツいけれど、暴力的なところなんて一切見えない。それともまだ私が彼のことをよく知らないだけなのだろうか。

「ありがとう」
 ミルクティーを大事に握りしめながら、お礼を告げる。藤田くんはポケットからホットミルクティーを取り出すと、その場でキャップをひねった。

「展示のスケジュールのことだけど、今週中に決めた方がいいよな」
 ミルクティーを一口飲むと、一瞬「甘いな」と眉を寄せる。やっぱり買う気なんてなかったみたいだ。

「他のグループの子がまとめてくれたのがあって……」
「へえ、仕事早いな」
「……うん。すごいよね」
 リーダーなんて名前だけで、私は全く仕事ができていない。頑張ってくれているのは他のグループのリーダーのめぐみだ。

「他に手伝えることは?」
「大丈夫! 今のところ私ひとりでできるよ」
「……菅野にも声かけた方がいいんじゃねぇの」
 美来は展示の作業はあまりしたくなさそうだし、昼休みや放課後を使って一緒に考えようというのは気が引ける。

「つまんなくねぇの」
「え?」
「……つまんないって?」
「あいつといるの退屈そう。笹原、すげえ気ぃ遣ってんじゃん」
 機嫌を損ねないようにと気を張ってはいたけれど、退屈そうになんてしているつもりはなかった。一緒にいてしんどいことがあっても、楽しいときだってある。

「無理して笑う理由ってなんなの」
 心の中にぎゅうぎゅうに押し込めていたなにかが、沸騰したお湯のように熱を持って吹き出てくる。

「それは、その方が上手く周りと過ごせるから。でも別に本当に笑ってるときだってあるよ」
 感情的になりたくないのに、早口で言い返してしまう、愛想笑いをしてしまっているのは、自覚している。だけどそれをくだらないと投げ出してしまったら、私の築いてきた関係は崩壊してしまう。

「そんな疲れ切った顔してんのに?」
 言葉が出てこなかった。ついさっきだって、一緒にいることをしんどく感じていた。嫌いなわけじゃないのに、どうしてこんな気持ちになるのか自分でもよくわからない。
 ひとつだけ確かなのは、波風は立てなくないということ。できれば誰にも嫌われたくない。離れてしまっためぐみにさえも、私は悪い人だとは思われたくなかった。

「……周りと上手く過ごすために、気持ちをのみ込むことだって大事でしょ」
 言いたいこと言ったら、スッキリするかもしれないけれど、人は離れていく。めぐみは、そうして私たちの輪から弾かれた。藤田くんだって人と揉めて、ひとりで行動している。

「そうまでしてひとりになりたくねぇの?」
「私は……なりたくないよ」
 藤田くんやめぐみみたく、強くなんてない。きっとひとりになった途端、教室中が敵に感じてしまい、心が削られて登校する勇気すらなくなるはずだ。

「誰かと一緒に行動しないと、お前ら死ぬの?」
 呆れたような声音で、けれど真剣に問われて私は返答に困る。死ぬなんて大袈裟だ。でも周りと上手くやろうとして無理をしている私の方が、藤田くんにとって大袈裟に見えるのかもしれない。

「藤田くんみたいな人には、私の気持ちなんてわかんないよ!」
「あっそ」
 言いすぎた。すぐに後悔して慌てて謝罪を口にしようとすると、藤田くんは背を向けてしまう。

「笹原がこのままでいいならいいんじゃね」
 去っていく藤田くんを止める術もなく、私はただ呆然と冷たいミルクティーのボトルを握りしめる。
 このままでいいと、私は本当に思っているのだろうか。心の中でなにかが引っかかっている。そんな違和感を抱えながら、私は教室へと重たい足を動かした。

 教室のドアのところで美来の後ろ姿が見えて、歩みを進めていく。隣のクラスの志保ちゃんと喋っているみたいだ。美来とは中学から一緒らしく、最近では時々三人でお昼を食べることもあった。
 声をかけようとしたタイミングで「楓ってさ」と自分の名前が聞こえてきて咄嗟に立ち止まる。

「なに考えてんだかわかんないときがあるんだよねー」
 背筋に氷が伝ったように、美来の言葉にひやりとする。

「さっきも一緒に来てって言えばいいのに、ひとりで自販機のほうに行こうとするし」
「ついて来てほしいけど、言えないってこと? 面倒くさくない?」
 志保ちゃんが呆れたような声を上げた。自分の話が広がっていくことに得体の知れない恐怖が襲いかかってくる感覚に陥る。

「真面目だし優しいけど、はっきりしないっていうかさ」
 美来に便乗するように「わかる!」と志保ちゃんが返す。美来と親しいので話すことはあるけれど、私はそこまで親密な仲ではない。それなのに〝わかる〟なんて言葉で、私を理解しているみたいに話されいるのを聞いて、モヤモヤとした感情が湧き上がってくる。

「八方美人って感じするよね。いい子なのはわかるんだけど」
「そう! そうなんだよね〜! それにスケジュールだって、楓ひとりでやってるから気まずいっていうか……私っている?って感じで」
「え、なにそれ。美来の前で頑張ってるアピールしてんの?」
「でもまあ悪気はないんだろうし、色々やってくれて助かるんだけど」
 私が作業している姿を見て、そんな風に思われていたのかと衝撃を受けた。役に立つことをしなければという焦りはあったけれど、頑張っている姿を見せつけたいわけではなかった。

「……っ」
 どうしよう。私の態度が誤解を生んだのだろうか。そんなつもりじゃなかったと、今ふたりの間に入って説明をしたら信じてくれる?
 動こうとしても、足が竦んでしまう。言ったら、どんな反応をされるんだろう。
 嫌われたくない。いい人でいたい。そう思っていたことは事実で、角が立たないように曖昧なことを言っていた自覚もある。そんな私を今まで八方美人だと思っていたんだ。泣きそうになるのを堪(こら)えながら、下唇を噛み締めた。

 ——無理して笑う理由ってなんなの。
 人と上手くやるためだと思っていた。だけど笑って場の空気が悪くならないように気をつけていても、結局どこかで綻びが生じてしまう。

「あ、てか先輩のクラス、和カフェやるらしいんだよね〜!」
「えー! 絶対いこ!」
 話が私のことから先輩のことに切り替わり、私は止まっていた足を踏み出す。
 嫌だ。本当はあの中に、今はいたくない。だけど避けては通れない。わざわざ反対側から入ったら、それについてもなにか言われてしまうかもしれない。

 バングルが手首を締めつけているような感覚に陥る。これはひとりじゃない証。大事なもののはずなのに、時々外したくなる。だけど結局外せない。そして臆病な私は、なにも聞かなかったように輪の中に入っていく。
 笑わなくちゃ。ここで先ほどの会話を指摘しなければ、いつも通りの平和を保てる。

「あ、楓やっと戻ってきた〜!」
 美来は今——どんな顔をしてる? 私が戻ってきたから、志保ちゃんに目配せしていないか、表情が硬くなっていないか。そんなことを考えてしまう。だけど、ふたりの顔を見ることができなかった。

『楓は、なに考えてんの?』
 めぐみ、私はどうしたらよかった?
 返ってくるはずもないのに、私は心の中で何度も投げかける。笑うことが苦しくて、手を握りしめていないと涙が出てきそうだった。

 私たちが三人グループだったとき、輪の中心は美来とめぐみだった。やりたいことがあったら突っ走って進んでいく美来と、計画的で慎重なめぐみ。そして私はそんなふたりについて行く。
 めぐみたちの性格は全く違ったけれど、時折言い合うことがあってもお互い気が楽な関係だからこそだと思っていた。だけど七月に入ったとき、放課後のファーストフード店でそれは起こった。

『ねえ、夏休みにここのプール行こうよ!』
 目を輝かせている美来は上機嫌でスマホを開く。そのプールの場所は美来とめぐみの家の近くにあり、私の家からは遠かった。

『八月の頭くらいがいいなぁ。みんないつなら平気?』
『えっと……』
 行くことは決定事項のように話が進んでいってしまう。不意にめぐみと視線が交わった。するとめぐみが食べ終わったポテトの箱を潰しながら、「あのさ、美来」と重々しい口調で話を切りだす。

『いつも楓の家から遠い場所だから今回は変えない?』
『えー、でもここ評判いいし』
『美来は自分の考え、押しつけすぎじゃない?』
『え?』
 美来はぽかんと口を開けて硬直する。そして、めぐみの瞳が私を捕らえた。咎めるような眼差しに見える。だけど理由に心当たりがない。

『楓も無理なら無理ってちゃんと言いなよ』
 早くなにかこの場を収める言葉を言わないと、状況が悪化していく。それなのになにも思い浮かばない。

『いつも遊ぶときだって、毎回こっち方面に来てくれてるから帰るの大変でしょ?』
『それは……』
 めぐみと美来の視線が同時に私へ注がれて、焦燥に駆られる。胃のあたりが鈍く痛んだ。
 ……いつからめぐみは、私の隠した感情に気づいていたの?
 私たちがよく集まるのは、美来の行きたがる場所だった。それは美来にとっては家から近い場所で、私は電車の乗り換えをしなければいけない。そのため遊んだ帰りは帰宅ラッシュの時間帯で、家に着くまでが一苦労なのだ。

『私は電車一本だし、美来は地元だけどさ。楓は乗り換えもあるし、ここから一時間くらいかかるでしょ』
 正直、学校の近くで遊びたい。けれどそしたら、今度は美来の家が遠くなってしまう。美来の地元は学校の最寄りから、電車で約四十分かかる場所にある。
 最初は美来の家の方面で遊ぶことを私は受け入れていたけれど、回を重ねるごとに大変になってきた。せっかくバイト代を稼いでも電車代で地味に出費が嵩む。

『それなら誘ったときに言ってくれればいいじゃん!』
 美来の勢いに、私は開きかけた口を噤む。今、遊ぶ場所を変えたいと言ったら、状況はますます悪化する。

『断ると不機嫌になるから言いにくいんでしょ』
『私のせいなの? 無理して遊んでる方が嫌なんだけど!』
『なんですぐそうやって怒鳴るの。ただ私は、楓が我慢してるんじゃないかって話を……』
『だから私が悪いってことじゃん!』
 ふたりの言い合いが始まって、私は慌てて間に入る。

『私は別に無理なんてしてないよ! こうしてみんなで遊ぶのも楽しいよ』
 めぐみの思い過ごしで、私は大丈夫だと笑顔を見せる。遊ぶ場所はちょっと遠いけど、それさえ我慢すれば問題ない。今は穏便に収まる方が大事だ。
『てか、みんなで遊ぶのが嫌なのってめぐみなんじゃないの?』
 めぐみの中の不満を、私の不満に置き換えて話したのではないかと美来は疑いを向ける。だけどめぐみがそんなことをするようには、私には思えない。私の帰りが大変なことや、電車賃がかかることに気づいて、心配してくれたからこそ遊ぶ場所についても言及してくれた。
 でもそれを言ったら、私が抱えている本音を知られてしまう。自分を守るために言葉を発することができなかった。

『そう思いたいなら勝手にどうぞ』
 めぐみは気を悪くしたのか吐き捨てるように返した。
『……感じ悪くない?』
 美来にとっては、めぐみが自分の意見が間違っていたから、ふてくされてしまったように見えているようだ。私たちの間で壁ができてしまっている。

『めぐみって、平気で人を傷つけること言うよね』
 咎めるように美来が言うと、めぐみが軽く笑う。けれど眼差しは冷たかった。

『美来だって、機嫌が悪いとき言うでしょ』
『は? なんで人の話にすり替えるわけ?』
 今回は、いつものちょっとした口喧嘩ではない。どちらも一歩も引く気がないようで、言葉を交わすたびに険悪になっていく。

『自分が正しいみたいな態度とられるのうざいんだけど。間違ったこと言ったんだから謝ったら?』
 美来の発言によって、めぐみから表情が消える。冷静になったように見えて、静かに怒っている。
『楓、勝手に言ってごめんね』
 めぐみが私から一線引いたように感じた。私は返答を間違えてしまったのだ。けれど、あのときめぐみの言う通りだと話したら、美来が傷ついていたかもしれない。
 めぐみは、カバンを手に取って席を立つ。

『空気悪くしてごめん。私、先に帰るね』
 私たちに大きな亀裂が入ったのは、この日からだった。
 翌日はいつも通り三人でお昼休みを過ごしていたけれど、美来がスマホを持って廊下へ出て行く。そして隣のクラスの志保ちゃんとでなにやら話し込んでいる様子だった。
 不穏な空気を感じたのは、私だけではない。めぐみも勘づいているようだ。廊下で話している美来たちの姿を眺めて、顔を顰めている。
 それが数日続いた。毎回取り残された私とめぐみの間には無言の時が流れる。少しすると、私のスマホに着信がかかってくる。相手は美来だ。

『もしもし……』
『廊下出てこれる?』
『え、廊下?』
 横目でめぐみを見やる。私ひとりだけ来てという意味みたいだ。でもこの状況でめぐみを置いていったら、除け者にしているみたいになる。
 躊躇っていると、電話が切れてしまった。お弁当を食べていためぐみが箸を置いて、視線を上げる。

『私のことは気にしないでいいよ』
 くっつけた三つの机。けれどそこにポツンと残されることを想像すると、身動きが取れなかった。
『楓、早く行きなよ』
『でも……』
 私が口籠ると、めぐみはお弁当を仕舞って席を立つ。そして机を下の場所に戻して再び座る。このときの私は、めぐみの突然の行動は突き放してきたのだとショックを受けた。そうして、ひとり残された私は逃げ出すように廊下に出てしまった。
 今思うと、私が美来の方へ行きやすいようにしてくれたのだと思う。このときめぐみの方へ行っていたら、今頃私は美来と仲が抉じれていたはずだ。


 翌週から、めぐみは昼休みになっても自分の席で食べるようになった。
『私、めぐみ呼んでくるよ』
 席を立とうとした私の腕を美来が掴む。

『呼ばなくていいよ。めぐみは私のこと嫌いみたいだし』
『え?』
『だって私のこと気に食わない感じだったじゃん』
 めぐみは美来の自由奔放さや気分屋なところに対してファーストフード店で指摘していたけれど、美来のことを嫌っているわけではないはずだ。美来の中で、めぐみに対しての誤解が生まれてしまっている気がする。

『めぐみは、美来のこと』
『楓』
 遮るように力強く、美来が私の名前を呼ぶ。これ以上めぐみの話をするのは、やめいうような眼差しに私は唇を結んだ。
『もういいじゃん。自分から離れたんだし、無理して引き戻す必要ないよ』
 めぐみから離れたというよりも、そうせざるおえない空気を作ったのは美来だ。孤立させるように教室に残して、めぐみが居づらい雰囲気にしていた。

 ——楓、早く行きなよ。
 ……美来じゃない。〝私たち〟だ。

 私だって関わっているくせに、自分は無関係で責任がない位置にいようとしていた。廊下に出て美来の方へ行った時点で、めぐみを心配するよりも、私は自分を守ったのだ。それにこうなったのは、私のせいでもある。抱えている不満をめぐみに指摘されても、なにも言えずに飲み込んでしまった。
 どうにかして前のように戻りたかった。グループの輪が崩れてから、美来たちの機嫌もめぐみの機嫌もとるように両方に話しかけていた。

 そんな私は、〝八方美人〟に見えていたのだと思う。実際教室でひとりになっためぐみを見て、なにかあったのではないかと噂しているクラスメイトもいて、周りの目が気になってしまっていた。

 私とめぐみの間に更に亀裂が入ったのは、夏休みに入る数日前。
 学校帰りにひとりで歩いているめぐみを見かけて、声をかけた。今帰り?と他愛のない会話をしながら、周囲を見渡す。

『無理に私に話しかけないでいいよ』
 冷たい口調で言いながらも、めぐみは複雑そうな表情だった。美来や他クラスの美来と仲の良い子がいないか、確認している私に気づいたのかもしれない。

『ごめん、めぐみと話したくないわけじゃなくって……』
 前方の信号の赤色を目にして、立ち止まる。めぐみは歩みを止めずに、一歩踏み出した。待って、と手を伸ばそうとすると、車道に入るギリギリのところで、めぐみは足を止めて振り返る。

『楓は、なに考えてんの?』
 苛立ちを含んだ声と、セミの鳴き声が耳の奥に反響していく。

『美来の顔色を気にしながら、私に話しかけるのはなんで?』
『それは……どっちのことも好きだからだよ』
 笑みを浮かべながら告げると、めぐみが疑わしそうな眼差しを向ける。好きなのは事実だけど、私自身もこれが本音なのかよくわからない。
 でも私が完全に美来たちの方へ行ったら、もう以前のような関係には戻れない気がして、必死に繋ぎとめようとしてしまう。

『いつも楓は周りの意見に合わせて、自分の言いたいこと口にしないでしょ』
『私はただ……仲良くしていたいだけで……』
 肌を刺すような日差しが降り注ぎ、こめかみの辺りから汗が流れ落ちる。
 いつのまにか信号は青に変わっていて、警告するように点滅していた。私たちの間を生温い風が吹き抜けて、再び信号が赤に切り替わった。

『ヘラヘラ笑って、やり過ごすのやめたら? そういう生き方って、しんどくならない?』
 鋭い言葉が心を抉る。善人のフリをして、周りから嫌われないように笑顔を貼り付けていたことを、めぐみに見透かされていた。

『それに美来も、私と一緒にいたくないと思うけど』
『話し合いをしてみたら、なにか変わるかも……』
『本音で話し合っても、美来が納得すると思う? どうせまた怒るでしょ』
 だけどこのままでいいとも思えなかった。めぐみを輪から弾きたいわけじゃない。できれば仲直りをしてほしい。けれどそんなことを言ったら、美来たちの反感を買うかもしれない。

『それに楓は美来に本音を言えるの? 自分ができないのに話し合いなんて言わないでよ』
 めぐみの正論が痛いくらいに突き刺さる。本音を隠して、自分の立場を守るために私は周りの機嫌を取っていた。そんな自分が卑怯者のように思えて、恥ずかしくてたまらない。

『みんなと上手くやるなんて無理だって、楓だってわかってるでしょ』
『でも』
『我慢ばっかりしてたら、一緒にいるのがしんどくなるよ』
 わかってる。わかってるけれど、それでも言ってしまえば取り返しがつかない。不満は雪のように積もっていっている。いつかそれが抱えきれない感情として爆発してしまいそうで自分でも怖い。だけど不満があるからといって、それを美来にぶつけたいわけでもなかった。ただ私がそれを消化できないだけ。もっと私が上手に立ち回ることができていたら……そんなことを何度も考えたけれど、解決する方法が思い浮かばない。

『めぐみは、美来のこと嫌いなわけではないんだよね?』
『嫌いではないけど。でも、今の状況は簡単には収まらないと思う』
 美来と話すことを諦めているように思えた。もう戻れないのかもしれないと、そんな予感がして、スカートを握りしめる。

『私、時々息が詰まりそうだった』
 困惑と同時に痛みのような衝撃が走る。美来とめぐみを中心に回っているグループで、やりたいように過ごしているように見えていた。けれど、めぐみは本心では一緒にいたくなかった?

『楓は私たちと一緒にいて、本当に楽しい? 不満はないの?』
 肯定する言葉を答えることができなかった。楽しい出来事はたくさんあった。だけど、それ以外の感情が邪魔をして声がでない。
 好きでも、合わない部分や傷ついた言動もあって、すべてを綺麗に受け止め切れるわけじゃない。だけど仲良くしていたい。不満があるなんて言ったら相手に嫌な思いをさせて、心の距離が離れてしまう。
 言葉の代わりに頷くと、めぐみが冷たく刺すような目で睨む。

『嘘つき』
『待っ……!』
 視界がぐにゃりと歪んだ。滲んだめぐみの姿に、青い空と赤信号。風に揺れる緑の葉と、車道を横切っていく水色のワゴン車。
 普段は景色のひとつだったものたちが、毒々しいほどに色を主張している。目眩がして、僅かに身体がよろけた。

『もういいよ、私に話しかけなくて』
 信号が青に変わり、めぐみは私に背を向けて歩いていく。手を伸ばして引き留めることもできない。眼球の裏側あたりに鈍い痛みが一定のリズムで繰り返される。
 目頭に溜まった涙が、頬に伝って落ちていく。視界は絵具で塗りつぶされるように灰色になり、めぐみの周囲だけが燃えるように赤く染まった。その衝撃に全身が粟立つ。
 ——なに、これ。

『ぅ……っ』
 怖い。なんで? おかしいこんなことありえない。色が消えた。木々も、信号も、車も、全てがモノクロに見える。
 明らかに視覚に異変が起こっている。足の力が抜けていき、その場に崩れ落ちてしまった。焼けたアスファルトの熱が私の身体を焦がしていく。熱いはずなのに震えて身体が動かない。

『大丈夫ですか?』
 近くを通りかかった年配の女性にと声をかけられて、おずおずと顔を上げた。

『具合悪いんですか?』
『ぁ……えっと、その』
 女性の身体を覆うように青色が見える。原因不明の現象に焦りを覚え、逃げ出したい衝動を抑えて笑みを貼り付けた。

『……ちょっと目眩がして』
 心配してくれている女性にお礼と謝罪を告げて、ふらつきながらも、ガードレールを支えにしながら立ち上がる。
 心臓は呼吸が苦しくなるほど、激しく鼓動を繰り返していた。

 ——この日から灰色異常を発症し、私の世界は大きく変わってしまった。




***

 美来たちが私を八方美人だと言っていたのを聞いても、私さえ黙っていれば関係は崩れることはなく、平穏な日々が続く。だから私は〝いつも通り〟を意識しながら過ごしていた。大丈夫。私の日常はなにも変わらない。

「スケジュール、カレンダーに書き込んだから、間違ってるところないか見てもらってもいいかな」
 他のグループの子たちに声をかけて、カレンダーを手渡す。

「ありがとう、楓ちゃん。確認しておくね」
「なにか変更があったら、書き込んでもらってもいい? それか私に連絡してくれたら書き込んでおくね」
 めぐみがまとめてくれた作業の内容を元に、テーマ決めや資材集めの締め切り、作業をいつまでに終わらせるかなど、わかる範囲をカレンダーに書き込んでおいた。今のところ大きな問題もない。

「なぁなぁ、海みたいにすんのはどう? ほら、これみたいな感じでさ!」
「わ、かわいい! これ、なにで作ってるんだろう」
「折り紙とはちょっと違うよね」
 デザインと制作グループは途中から一緒になってアイディアを出し合うようになったようで、和気藹々としている。その光景が羨ましくて、混ざれないことがもどかしい。本当はあの中に入りたい。けれどあの中に、私の入る場所なんてない。

「めぐみちゃん、去年の先輩たちって青のテーマでなに作ってたか知ってる?」
「先生に聞いたら、夜空って言ってたよ。窓に暗幕つけて、電飾とか使って表現したんだって」
 めぐみたちが話し合っている姿を見ていると、私も藤田くんや美来にスケジュールのことを相談するべきか迷う。だけど、あまり乗り気ではなさそうなふたりを巻き込んでいいのだろうか。それに藤田くんに自動販売機の前で酷いことを言って以来、彼と会話を交わしていない。

 ——八方美人って感じ。
 美来と話していた子が、あまり話したことのない私のことを話していたとき、決めつけないでほしいと苛立ちが湧き上がってきた。けれど、私も同じだ。藤田くんみたいな人には、私の気持ちなんてわからないと決めつけてしまった。

 藤田くんがどんな思いで私にあの言葉をかけたのか、きちんと知ろうともせず、表面上や噂だけの彼で判断している。最低だ。だけどこんな最低な自分からどう抜け出せばいいのかがわからず、ずっと水中をもがき続けているような感覚だった。
 息苦しくて、酸欠になりそうになる。灰色の世界も、周りを気にしながら貼り付けた笑顔も、なにもかも投げ出したくなってしまう。

 だけど現実から逃げるわけにもいかない。今日のバイトのシフトは藤田くんと被っているので、そのときにちゃんと謝ろう。気まずさは残したくない。

「楓ちゃん、スケジュールありがとう! 今のところこれで大丈夫だと思う!」
「わかった! じゃあ、黒板の横に貼っておくね」
 カレンダーを元の場所に戻しに行く。あとは制作などの進行によって臨機応変に修正していけばいい。
 これ以外に、当日展示の前に立つ人のタイムスケジュールを考える必要がある。何人体制で何時間おきにするべきか。それに部活の出し物などで抜ける人もいるだろうし、友達と回る約束をしている人は、外してほしい時間帯もあるはずだ。逆に友達同士で一緒にシフトに入りたいという希望も出てきそうだ。

 ……私ひとりで全部できる?
 けれどやらなければいけない。そうしなければクラスの人たちに迷惑をかけてしまう。
 頭が痛い。灰色の視界がぐらりと揺れる。いっそのこと、なにもかも投げ出せたら楽になれるのに。

***

 その日のバイトは、学生たちが大人数で来店したらしく息つく暇もない。特に揚げ物の注文が多く、常にフライヤーでなにかを揚げている状況だ。二時間ほど経ってようやく落ち着き、溜まったお皿を食器洗浄機にかける。

「笹原、手空いたらこれ受け渡しまで持っていって」
 藤田くんは手際良くレタスやプチトマト、クルトンなどを盛り付けて、シーザードレッシングをジグザグにかけていく。それを言われた通りに受け渡し台にサラダを並べると、おぼんに乗せたスープを藤田くんがサラダの横に置いた。先ほどまではスープなんてなかったはずなのに、作業の速さに目を剥く。

「サラダとスープ二人前」
「はーい」
 藤田くんの声に反応してホールの人が完成した料理を取りにくる。そしてにこやかな表情を貼り付けたまま、ゆっくり丁寧に、けれど迷いのない足取りでフロアへ料理を運んでいった。
 厨房へ戻ると、先ほどの忙しさで散らかったまだだった調理台の片付けをしながら、器具の場所を改めて覚える。

「そんな他の店舗と変わらねぇだろ」
「うーん、でも違ってるものも結構あるんだよね……」
「わかんないことあったら聞けばいいじゃん。キッチンにひとりなわけじゃねぇんだし。俺だってわかんなくなると周りに聞くし」
 藤田くんが周りに助けを求めることが意外だった。でもそれは学校での彼の姿からきている、勝手な私のイメージだ。

「暇になってきたし、季節メニューのレシピ暗記してていいけど。食器、俺が戻しておく」
 あのときのことを謝るのなら、今しかないかもしれない。

「この間は、ごめんなさい!」
「なにが?」
「自販機の前で藤田くんにはわからないとか、酷いこと言っちゃったから」
「あー……あったな。そんなこと気にしてたわけ?」
 私が気にしすぎていたみたいだ。藤田くんにとっては、記憶の片隅に追いやられる程度のものなのに、ひとりで過剰に反応してしまって恥ずかしくなってくる。

「色々気負いすぎじゃねぇの」
 藤田くんが顔を顰める。けれどこういう表情をしても機嫌が悪いわけではなく、おそらく癖なのだ。最初は少し怖かったけれど、今は慣れつつある。

「ひとりでなんでもやろうとしたり、考え込みすぎっつーか。疲れねぇ?」
「私は大丈夫だよ」
「笹原の大丈夫は、真逆に見える」
 持っていたベンが手から滑り落ちそうになった。心の中で何度も自分に、大丈夫だと言い聞かせてきた。

「展示のスケジュールのリーダー、本当はやりたくなかったんじゃねぇの」
「でも、誰かがやらないといけないから」
「だからってなんでもひとりでやろうとする必要あるわけ」
 じわりと、嫌な感情が胃のあたりから湧き上がってくる。リーダーという役割は私にとって重い。けれど、途中で投げ出すようなこともしたくない。

「同じグループなんだし、俺とか菅野に指示出せばいいのに」
 言えないよと、口に出してしまいそうだった。
 私はいつも当たり障りない言葉を口にして、笑って誤魔化して流されるだけ。ずっと意見なんて言えなかった。そんな私が急にリーダーをして、指示を出すなんてできるはずがない。

「別に難しいことじゃないだろ。ただ〝手伝って〟って言えばいいじゃん」
「……手伝って?」
 もっと具体的にこれをしてほしいとかではなくていいのかと、私は首を傾げる。

「リーダーなのにいいのかな」
「わかんねぇことは三人で考えればいいだろ」
 肩の荷がすっと降りていく。まとめなくちゃいけないと思って、気負いすぎていたみたいだ。

「スケジュールの件、他になんの作業が残ってんの」
「当日のタイムスケジュールを考えるのと、クラスの人たちの希望の時間帯とかを聞かなくちゃいけなくて……」
 まだ時間に余裕があるとはいえ、全員分のタイムスケジュールを決めるのは大変だ。

「アンケートのアプリでも使って、希望時間の集計取ればいいんじゃね?」
「え、そんなアプリあるの?」
「無料であったはず」
「ありがとう、藤田くん。あとでアプリのこと調べてみる!」
 私ひとりでは思いつかなかったことだ。藤田くんのおかげでいい案をもらえた。一人ひとりに聞いて回らなければいけないと思っていたので、簡単な方法がわかって安堵する。

「菅野にも相談したら? 集計だって三人でやった方が早いだろ」
「……うん」
 美来に頼んだら、どんな反応をされるか少し怖い。地味で面倒な作業だし、やりたがらない気がする。

「なんで菅野にそんな遠慮してんの」
「遠慮っていうか……美来はあまり展示の作業乗り気じゃなかったから」
「でもクラス行事なんだから、笹原がひとりでやるべきことじゃないだろ」
 藤田くんの言う通りだ。私の個人的なお願いではなくて、クラス行事のための作業。けれど、私の発言で美来の機嫌を損ねたくない。

「私みたいなのって八方美人だよね」
 美来たちに言われたことを自虐気味に口にする。

「言いたいこと飲み込みすぎんのはよくねぇけど、相手に合わせたり親切にできるのはすげぇと思う」
「……そうかな」
 私は周りの目ばっかり気にしてしまうので、時々窮屈な檻の中に詰められている気分になる。穏便に過ごす手段だと思っているし、自分で選んだはずだけれど、こんな生き方が無性に嫌になるときがあるのだ。

「藤田くんの方が、ちゃんと自分の意思持っていてすごいと思う」
 周りがじゃなくて、自分がどうしたいのかで生きることは簡単ではない。

「すごくねぇよ。俺は笹原みたいに人と上手くやれねぇし」
 私の場合は波風立てないように表面上は良好に見せているだけで、上手くやれているとは言い難い。

「それに自分の考えがわからなくなることが一番怖かったから、人と一緒にいるのやめただけ。俺は自分勝手なんだよ。周りのことよりも、自分を優先してる」
 たとえ本当に彼が自分勝手に生きているとしても、厳しい言葉の中には思いやりがある。赤色の中に混ざる緑色を見つめていると、「笹原」と呼ばれた。

「もっと自分勝手に生きてもいいんじゃね」
「だけど思ってること言ったら、関係が崩れるかもしれないし……」
「言いたいことを言って人を傷つけろってわけじゃなくて、笹原の気持ちを大事にした方がいいって話」

 藤田くんは、注文が届いたタブレットに手を伸ばす。話を中断し、お皿の用意をしながら、先ほど言われたことについて考える。私は今まで居場所を守るために、自分の気持ちを蔑ろにして心を傷つけ続けていたのかもしれない。







 翌朝、スケジュールの一部が変更になったと制作の子が教えてくれた。

「テーマが昨日決まったから、次は具体的になにを作っていくか今日から決めていく予定になったよ」
「なにがテーマになったの?」
「海!」
 クラスカラーが青なので、それで連想したらしい。海なら小物のイメージがつくので作りやすそうだ。

「少し予定が早まる感じだね。書き直しておくよ」
「ありがと〜、楓ちゃん」
 黒板の横に貼っているカレンダーの前まで行き、内容の一部を修正する。
 着々と展示の準備が進み出している。私もタイムスケジュールの件、早く考えないと。当日は何人ずつにするべきか、どのくらいの時間で交代か。そこを考えてからじゃないと、みんなにアンケートがとれない。

「楓? なにしてんの?」
 背後から抱きつかれて、身体がよろけた。この声は美来だ。

「スケジュールの修正してて」
「ああ……」
 美来の声のトーンが落ちる。話を変えたほうがいい気がして、口角を上げると、藤田くんに退屈そうだと言われたことを思い出す。退屈なわけじゃない。けれど顔色ばかりをうかがっているから、窮屈に見えているのかもしれない。

「私のことなんか言ってた?」
「え?」
「めぐみ」
 美来の口から、彼女の名前がでてきたのは夏以来だった。最近では〝あの子〟と呼んでいて、嫌悪感を露わにしていたのに、今は叱られた子どものような弱々しさを感じる。

「ううん、特には」
「……そっか」
 美来の表情からはなにを思っているのかわからなかった。だけど今の美来からは嫌悪は感じない。元々美来はめぐみのことが大好きだったのは、一緒にいた私はよく知っている。感情的になって好意が一時的に裏返っただけで、本心ではどう思っているのだろう。そしてめぐみも、美来を嫌ってはないと言っていた。

 だけど——

『私、時々息が詰まりそうだった』
 めぐみにとって、なにが一番苦しかったのか。答えが出かかっている気がするのに、それを表す言葉が浮かんでこない。
 私は三人でいるとき、なにを思っていた? 今、苦しい原因はなに?

『楓は私たちと一緒にいて、本当に楽しい? 不満はないの?』
 黙り込んでいた私を不思議に思ったのか、美来が顔を覗き込んできた。

「楓、なんか元気なくない?」
 ——〝手伝って〟って言えばいいじゃん。
 今がそのタイミングだ。けれど口を開いて、出たのは「そんなことないよ」という誤魔化しの言葉だった。

「そっか。ならいいけど」
 簡単なように思えて、私にとっては難しい。

「ね、楓これ見て! 昨日見つけたんだけどさー」
 スマホの画面を見せてきた美来が、SNSの投稿を見せてくる。美来の好きなアイドルの動画だった。

「めちゃくちゃかっこよくない⁉︎」
 上機嫌な美来に私は相槌を打つ。けれど上手く口角が上がらない。このままだとなにも変わらない。

「あのさ」
 口の中が乾き、喉が痛んだ。声が微かに震えてしまう。

「展示の当日のタイムスケジュールなんだけど」
「あー、決めないといけないんだっけ?」
 手のひらに汗がにじむ。緊張を押し込めるように、ぎゅっと握りしめた。美来から笑みが消えていく。

「できれば美来にも、考えるの手伝ってほしくて」
 美来があまりやりたがっていないのは知っている。嫌がられるかもしれない。けれど、これはクラス行事でできれば協力してほしい。すると「わかった」とあっさりと返されて、私は目を大きく見開く。

「……いいの?」
「だってやらないといけないことなんでしょ? てかなんでそんな泣きそうな顔してんの」
 乗り気ではない美来に手伝いを頼んだら不満を抱かれないかとか、他のクラスの友達に愚痴を言いに行くかもとか、不安なことがいくつも頭の中に浮かんでいた。

「もしかして、結構気にさせてた?」
「美来、あんまり展示の作業したくないのかなって思ってて……」
 美来が壁に貼られたカレンダーに視線を流す。そして気まずそうに歯切れ悪く、「ごめんね」と口にした。

「正直展示ってつまんなそうって思ってやる気なかったんだよね。しかも、楓にリーダー押し付けちゃったし……本当は嫌だってでしょ?」
「え……と」
 普段ながらここで〝気にしないで、大丈夫〟と答えていた。だけどほんの少しだけ勇気を出して、美来に自分の言葉を告げる。

「リーダー任されたとき、ちょっと困った」
 本音の中に弱音も混ざり、溜め込んでいた不安が溢れ出していく。

「それに私リーダーとか今までやったことがないから、今もちゃんとできているかわからなくって」
 自分でも気つかないうちに、ひとりで空回って、いっぱいいっぱいになりかけていた。

「ごめん、楓」
 困惑した様子で美来が私の手を握ってくる。その眼差しには焦りが見えた。

「そんなに悩ませてるって思ってなくて……」
 本音を話したら、美来を怒らせるかもしれない。そればかり考えていた。けれど、伝え方や状況次第で、相手に届くことだってある。
 美来の喜怒哀楽がわかりやすいところに惹かれて仲良くなって、体育祭では積極的にみんなをまとめている姿にも憧れた。同時に美来の発言力が大きいことや、気分屋なところを知っていく。そうして顔色をうかがうようになって、私は美来の空気を読むようになってしまったのだ。嫌われたくない。離れていかないでほしい。そういう感情に私は縛られていた。

「さっき言ってたタイムスケジュール、昼休みに一緒に考えよ」
「うん、ありがとう」
「あ、先生にさ、毎年のタイムスケジュールどんな感じなのか聞いてみない? そしたら考えやすそう!」
 美来のやる気が出たわけではないけれど、声をかけたことによって、抱えていたものが軽くなっていく。言えてよかった。あのままいつもみたいに飲み込んでいたら、いずれ私には限界がきていた。

 不意に視線を下げると、手のひらに滲んでいる灰色が少し薄くなっているように感じた。

 なんで……?
 目を凝らしてもう一度見ても、やっぱり薄くなっている。もしかして、私に変化があったから?
 そうだとしたら、私のオーラは人に合わせて自分の本音を飲み込んでしまったから、色が混ざった灰色になってしまったのかもしれない。

***

 昼休みに担任の先生に、昨年先輩たちが作ったタイムスケジュールの紙をもらいにいった。微調整は必要だけど、だいたいはこの通りでいけそうだった。
 教室でご飯を食べながら、昨日藤田くんに教えてもらったことを美来に話す。

「アンケートアプリ? そんなのあるんだ」
「藤田くんが提案してくれて。私もその方法がいいかなって思うんだけど、どうかな」
 美来はコンビニのおにぎりを食べながら、空いている右の指で丸を作る。

「全員に聞いて回るより絶対楽でいい! てか、藤田くんって案外協力してくれるんだ。行事とか嫌がるタイプかと思ってた」
 五月にあった体育祭では競技には出場していたものの、あまり積極的に参加している感じではなかった。打ち上げにも不参加だったのは藤田くんだけだ。そのためそういうイメージがついている。

「アンケートの集計も一緒にしてくれるって」
「へー、意外。あ、藤田くん」
 ちょうど藤田くんが教室に戻って来た。美来の声が聞こえたらしく、一度立ち止まってからこちらへやってくる。

「なに」
 藤田くんが机の上に視線を落とす。過去のタイムスケジュールが書いてある紙を見て、「展示の件?」と問われた。

「美来の提案で、去年先輩たちが使ったタイムスケジュールもらってきたんだ」
「じゃあ、組みやすいな」
 近くの椅子を引っ張ってきて私たちの横に座った。藤田くんは紙を手に取り、目を通していく。

「俺らのクラス、これよりふたり少ないから、人数の調節した方がよさそうだな」
「朝は人があまりこなさそうだから、そこを減らすのがいいかな」
 私の案に藤田くんが頷いてくれる。

「笹原。昨日話したアンケートのアプリ、どれかわかった?」
「あ、うん。これだよね?」
 昨夜スマホでダウンロードしておいたアプリを開く。試しに使ってみたけれど、アンケートの項目もたくさん作れるので使いやすい。

「それ。とりあえず何時の担当がいいか希望を第三まで取るのと、無理な時間帯も聞いた方がいいよな」
「そうだよね。待って、今メモ取る」
「メモ取んの好きだな」
 バイトでもメモを取っていたことを思い出したのか、藤田くんに笑われてしまう。

「だって後で抜けがあったら嫌だから……」
「悪い意味じゃねぇって。真面目なのはいいと思うし」
 私たちのやりとりを見ていた美来は目を瞬かせた。

「なんかふたり仲良くない?」
 藤田くんと視線が交わる。けれどすぐに逸らされ、藤田くんは「別に」と濁してくれた。私に気を遣ってくれたみたいだ。
 なんとも言えない気持ちになる。でも少し前の私だったら、美来にどう思われるのかを気にして話せなかった。私たちに関わりがあるからといって悪いことなんて、なにひとつないのに。

「バイト先が一緒なんだ」
 美来だけじゃなくて藤田くんまでもが驚いたように私を見た。

「マジ? すごい偶然じゃん!」
 予想外なことに美来は食い気味で、本気で吃驚しているようだった。
 バイト先がファミレスだということや最寄駅が同じことなど、一通り美来に打ち明ける。私たちに関わりがあることを知っても美来の態度は変わらない。

 身構えていたけれど、話してみればたいしたことはなかった。ただの想像に私がずっと怯えていただけだった。
 それから私たちは昼休みが終わるまでタイムスケジュールについての話し合いをして、アプリをつかってアンケートを作成した。他のグループの子にURLを送り、グループ内で拡散してもらう。あっというまに作業が進んでいった。それは私ひとりではできなかったことで、ふたりが手伝ってくれたおかげ。

 私は相談をしたり手伝ってもらうまでに、何度もうじうじと悩んでいた。けれど、自分の気持ちを伝えることで、いい変化をもたらしてくれることだってたくさんある。

『楓は、なに考えてんの?』
 もしもあのとき、めぐみに私の本当の気持ちを伝えることができていたら、私たちの関係は今と変わっていたのだろうか。

 ***


 展示のスケジュールのアンケートもちらほらと集まり始め、新店舗でのバイトも九月が下旬に差し掛かった頃には慣れてきた。

「笹原」
「はい! 唐揚げ、今揚がったよ」
 バイト先でも藤田くんと息があってきているように思う。指示を受けなくても、よく注文がくるメニューの動きは読めてくる。
「唐揚げと、フライドポテトです!」
 受け渡し台に完成した料理を置く。スピーディーにこなすことばかりを考えていたせいで、丁寧さが欠けて唐揚げの盛り付けが崩れてしまった。まずい。このまま出すわけにはいかない。

「すみません、すぐやり直してきます!」
「私が直すから、大丈夫だよ」
 岡辺さんが近くにあったお箸をとって、唐揚げを整えて盛り付け直してくれた。

「ごめんなさい!」
「あとちょっと忙しい時間続くけどがんばろ!」
 励ますように、にっこりと微笑んでくれる。岡辺さんだって混んでいて大変なはずなのに疲れを一切見せない。どんなに忙しくても周りのフォローをしたり、気を配ってくれている。料理を運んでいく彼女の姿を眺めながら、私は気を引き締めた。
 それから一時間くらいして、ようやくピークが過ぎた。
 調理台を片付けていると新しい注文が入る。藤田くんはタブレットをいじり、レシピを画面に表示させた。

「ベリーパフェ、作ってみる?」
「作りたい!」
 食いつく私に、藤田くんがおかしそうに笑う。眉間にシワを寄せることが多い彼が、こういう表情をするのは珍しい。段々と打ち解けてきているような気がする。

「じゃあ、頼んだ」
 パフェを作るのはほとんど藤田くんが担当していたので、私が作るのはあの日以来だ。ソースの色の見分けは心配ではあるけれど、ストロベリーソースはつぶつぶとした果肉が少し入っているので見分けがつく。

 パフェグラスの中に、角切りのミルクスポンジケーキやシリアル、小さめのマシュマロなどをレシピ通りの順番で入れていく。アイスをディッシャーでくり抜いて盛り付けてから、ホイップクリームを絞る。結構上手くできた。
 あとはソースをかけるだけだ。調理台の上にあるソースの容器を手に取ろうとして、動きが止まる。

「笹原?」
 つぶつぶとしたものが入っているソースの容器がふたつ並んでいた。ブルーペリーソースの存在をすっかり忘れていた。どちらがストロベリーなのかがわからない。

「仕上げは、ストロベリーソース」
「あ、うん……」
 ストロベリーソースの方がよく使うので減りが早いはず。そう考えて、手を伸ばそうとすると手前の容器を藤田くんが掴んだ。

「早くしねぇと、アイスが溶ける」
「ご、ごめんなさい!」
 危なかった。間違えてブルーベリーの方の容器を手に取ってしまうところだった。
 無彩色の視界でも問題なくやれていたけれど、ソースのことは避けられない。毎回味見をしてからかけるわけにもいかないし、なにかいい方法を考えなくては。焦りを覚えながらも最後にミントを乗せて、パフェのオーダーを完了した。
 あと三十分ほどで上がる時間になった頃、藤田くんが私の目の前に飲み物が入ったグラスを置いた。

「笹原、イチゴミルク飲める?」
「うん、飲めるよ」
 グラスに注がれたジュースをまじまじと見つめる。視界がモノクロとはいえ、二層になっているのはわかる。

「フルーツ系のソースとミルクが賞味期限の問題で今日で廃棄だから、店長が使っていいって。飲む?」
「そうなんだ。じゃあ、もらうね。ありがとう」
 長いスプーンで、かき混ぜてからひと口飲む。校内に広がった味に、違和感を覚えて眉を顰める。

「あの、これ……」
 ——イチゴミルクじゃない。
 甘いけれど、イチゴソースの味ではなくて、酸味も控えめだ。

「なに?」
 もう一度飲んでみる。けれどやっぱりイチゴの味ではない。それにこの味には覚えがある。わかりそうでわからないのがもどかしい。

「これ……本当にイチゴミルク?」
 藤田くんは目を伏せて、「ごめん」と口にする。

「気になることがあって、試すようなことした」
「試すようなことって……」
「それ、ブルーベリーソース」
 答えを言われて、かかっていたモヤが晴れていく。けれど、それと同時に試すようなことをしたという発言に動揺が走る。

「笹原、色が見えてないよな」
 首に手をかけられたような息苦しさを覚えて、喉が痙攣するように震えた。

「パフェのときに違和感があって、今確信した」
 知られてしまった。いずれは自分から言うべきことだったのに、こういった形で知られてしまい、不信感を抱かれたかもしれない。

「もしかして、自販機のときも色が見えてなくて間違えて押した?」
「ぁ、あの……っ、ごめんなさい!」
 藤田くんは理解できないといった表情だった。

「色が見えないのに働いてるなんてダメだよね……本当は私からちゃんと申告しないといけないことなのに」
「謝ることではなくね?」
「え……」
「色が見えないことって、いけないことなわけ」
 首を横に振る。色が見えないこと自体は、不可抗力で悪いことなわけではない。だけど、私自身が黙っていたことに問題があるのだから、責められてもおかしくない。

「生まれつき見えねぇの?」
「……夏休み前から」
「は? 夏休み? それって最近じゃん」
 あるときから周囲が無彩色に見えるようになったこと。そしてネットで見た灰色異常という都市伝説のような症状に似ていて、人が纏っている色だけは唯一見えるということを打ち明ける。

「聞いたことねぇな」
「あんまり有名な症状じゃないみたい。それにいくら調べても医学的な病名が出てこないんだ」
「とりあえず事情はわかったけど……早く治るといいな」
 藤田くんは怒ることなく、むしろ心配をしてくれるように気遣う口調だった。いつ治るのかもわからない。もしかしたら一生のこのままなのではないかという漠然とした不安に駆られる。

「親に話した方がいいのかな」
「言ってねぇの?」
「うちの親、心配性っていうか……多分話したら大騒ぎしそうで言えなくって」
 バイトだってさせてくれるし、特に門限もなく、過保護なわけではない。けれど姉が高校のときに病気になったことがあり、それ以来体調面に関しては過敏に反応するようになったのだ。
 私が原因不明の灰色異常というものを発症したと聞けば、おそらくは病院に連れて行かれる。それに突然人のオーラが見えるなんて言ったら、おかしくなったと思われてしまいそうで怖い。

「話すかは笹原の自由だとは思うけど。日常生活で困ることとかねぇの?」
「最初は食べ物とか、変な感じがしたかな。でも見なければ味はちゃんとするから気にならなくなった。あとは私服が困るかも」
 以前から持っている服なら色がわかるけれど、新しい服は色がわからないので買えない。組み合わせだってイメージがつかない。そのため去年も着ていた無難な服を選んでいる。

「なんか困ったことあれば、できる限り協力する」
「……いいの?」
「バイトで困ることがあれば、その都度聞いて」
 藤田くんは私が灰色異常を黙っていたことを叱ることはなかった。むしろ優しい言葉をかけてくれる。自分の中で決めつけて完結せずに、早く話していたらよかった。

「ありがとう、藤田くん」
「礼言われるほどのことしてねぇけど」
 苦手なはずの赤色。だけど彼を知るにつれて、苦手意識が薄れていく。隠れていた緑色は、接してみないとわからない彼の一面なのかもしれない。

***

 バイトが終わって裏口から外に出ると、突如肩に重みが降りかかってくる。前のめりになりながら、体勢を立て直すと、明るい声が頭上に響いた。

「楓ちゃん、おつかれ〜!」
 肩を組んできた岡辺さんは、なにかを企んだように口角を上げる。

「これからさ、ちょっと時間ある?」
「え、うん」
「やった〜!」
 派手な雰囲気の彼女からの誘いに戸惑いながらも、了承してしまった。断りにくいというものあったけれど、ちょっとした好奇心も混ざっている。でも岡辺さんの用事に見当がつかない。後ろをついていくと、お店の駐車場までたどり着いた。そしてその近くにはひとりの男の子が立っている。

「藤田〜! お待たせ!」
「おー」
 気怠げに返事をする藤田くんと何故か合流し、私たちは夜道を歩き始めた。この三人で話すのは初めてで、なんだか落ち着かない。行き先を知らぬまま、私は岡辺さんと藤田くんに挟まれて歩いている。

「これからどこ行くの?」
「聞いてねぇの?」
 藤田くんが呆れたように岡辺さんを見た。

「岡辺、なんて言って誘ったわけ?」
「ちょっと時間ある?って聞いたよ」
「もう少しまともな誘い方しろよな」
「あー、ごめんごめん。言葉足らずだったね〜」
 ふたりの会話から、仲の良さがうかがえる。ホールとキッチンであまり関わることはないだろうけれど、岡辺さんが人懐っこい性格だからか、藤田くんとも打ち解けているのかもしれない。

「コンビニに行こうと思って!」
「コンビニ⁉︎」
 行き先がコンビニだとは思わず、素っ頓狂な声を上げてしまう。

「アイス買って、それで公園で食べようよ〜! 楓ちゃんと話してみたかったんだよね〜!」
 無邪気な笑みが眩しくて、つられるように私は頬が緩んだ。

「笹原、嫌だったら断っていい。こいつ面倒くさいし」
「え、楓ちゃん嫌?」
 子犬のような潤んだ眼差しの岡辺さんに、私は首を横に振る。

「アイス食べたい!」
「やったー‼︎」
「……声、うるせ」
 バイト帰りの夜の街に、まだ知り合って間もない同級生のふたりとアイスを外で食べる。私はそのことにわくわくしていた。

 近くのコンビニでそれぞれアイスを選んでから、夜の公園へ向かった。木製でできた大きなアスレチックを登り、コンビニ袋からアイスを取り出す。岡辺さんは棒つきのアイスを掲げた。

「では、楓ちゃんの歓迎会ってことで!」
「私の歓迎会だったの?」
「せっかく同い年だし、親睦深めたいなーって」
 藤田くんがここにいる理由がようやくわかった。乗り気には見えないので、内心帰りたがっているかもしれない。

「嫌々来たわけじゃねぇからな」
「えっ」
「気にしてそうだったから」
 見抜かれてしまっていたようだ。けれど、その言葉を聞いて安心した。心に芽生えた感情はくすぐったくて、頬がほんのりと熱くなる。

「ありがとう。私、こういうの初めてで……嬉しい」
 岡辺さんはにっこりと微笑んでくれた。藤田くんはわかりにくいけれど、口角が先ほどよりも上がっている気がする。

「じゃあ、食べよっか!」
「いただきます」
 私は小さな箱に入ったお餅の形をしたアイスを取り出す。
 中に入っていたピックでさして、口に運ぶと柔らかい求肥の食感とバニラアイスの甘い味に口内が満たされていく。岡辺さんが食べているのはソーダ味の棒つきアイスで、藤田くんはチョコレートでコーティングされているバニラアイスだ。

「これ、やる」
 藤田くんが私の前に差し出したのは、ペットボトルだった。サイダーと書かれていて、小さな気泡が立ち昇って消えていくのが見える。

「貰っていいの?」
「笹原の歓迎会だし」
 サイダーと藤田くんを交互に見ながら、目を瞬かせる。

「いらねぇなら俺が飲むけど」
「い、いる! ありがとう!」
 ペットボトルの表面に手のひらが触れると、冷たい水滴が付着する。割れ物を扱うように大事に受け取って、そばに置いた。藤田くんが私のために買ってくれたのだと思うと口元が緩む。

「そんなの売ってたんだ! 色きれ〜!」
「水色、珍しかったから」
 藤田くんと視線が交わる。きっとあえて色を口にしてくれた。そのおかげで、水色をしているのだとわかり、頭の中で淡い水色を想像する。実際に色を見ることができないのが少し残念だった。

「てか、私にも言ってよ! そしたら楓ちゃんに私もなにか買ったのに〜!」
「岡辺に言ったら声がでかいから笹原に筒抜けになる」
「秘密にしたかったんだ?」
 からかうようににやりとする岡辺さんに、藤田くんは不服そうに「うるさい」と返した。
 サイダーのキャップを捻る。爽快な音がして、甘い香りが漂う。口に含むと、しゅわと弾けて舌が刺激された。かき氷のシロップを炭酸に混ぜたような懐かしい味がして美味しい。炭酸が抜けないようにキャップをきつく閉めていると、岡辺さんが「そうだ!」と大きな声をあげる。

「岡辺さんじゃなくて〝知夏(ちか)〟って呼んで! 私も楓ちゃんって呼んでるしさ!」
 ね?と懇願されて、戸惑いつつも頷く。呼び方が変わるのはいつも少し慣れない。

「……知夏ちゃん」
 名前を呼んでみると、知夏ちゃんは顔を綻ばせた。

「友達、久々にできて嬉しいなぁ。てか、私も普通科にすればよかった!」
「商業科って授業とか大変なの?」
「授業より、先生がすんごい怖くて! こーんな目つきで〝スカートが短い!〟〝その耳についてる輪っかはなんだ!〟って叱ってくるの!」
 先生の話し方の真似をしながら話す知夏ちゃんがおかしくって、噴き出してしまう。日頃から、いろんな注意を受けているらしい。知人に囲まれていそうな明るい性格なので友達は多そうだ。

「中学の頃も似たような注意受けてたよな」
 ため息混じりに藤田くんが指摘すると、知夏ちゃんは眉を下げて笑う。

「確かに。なんで先生ってスカートの長さとか気にするんだろうね〜」
「もしかして、ふたりは同じ中学なの?」
「うん。中三のとき同じクラスだったんだよね」
 あまり人を寄せつけない藤田くんが、知夏ちゃんとは気さくに話していた理由がようやくわかった。
 アイスを食べ終わった知夏ちゃんが立ち上がり、アスレチックで遊び始める。軽快な足取りで滑り台の前まで行くと、なにかを拾い上げて顔を顰めた。

「うわぁ……こういう子どもが遊ぶ場所で、吸うのも捨てるのもやめてほしい」
 白くて細長いものを指先で摘むようにして、こちらに見せてくる。どうやらタバコの吸殻のようだ。

「この中、捨てれば」
 アイスが入っていた袋に、吸殻を入れるように藤田くんが促すと、知夏ちゃんは首を横に振った。
「いいって。なんかあったら嫌じゃん」
 タバコから連想するのは、藤田くんの停学の件だ。吸殻を持って帰るのは、万が一のことを考えると避けた方がいいという知夏ちゃんの気持ちもわかる。

「別に家で捨てれば大丈夫だし、気にすることねぇだろ」
 立ち上がり、私は片手を挙げる。

「私が持って帰る!」
「え?」
 ふたりの声が重なり、不安げな表情をされた。

「お父さんタバコ吸う人だから、それに紛れ込んで捨てるよ! だから、これは私が持って帰るね!」
 知夏ちゃんから吸殻を受け取って、コンビニ袋の中に捨てる。

「でも、楓ちゃん……親に見つかったらなにか言われちゃわない?」
 私に持って帰らせることを躊躇っているみたいだ。けれどどのみち誰かが持って帰るのなら、私は抵抗なく家に持って帰って捨てられるので適任だと思う。

「大丈夫! 公園で拾ったこと親に説明するよ」
「悪い、気にさせて」
 藤田くんが謝る必要なんてないのに、申し訳なさそうだった。

「てかさ、藤田。このままでいいの? 過ごしづらくない?」
 知夏ちゃんが指しているのは、今回の吸殻の件ではなくておそらく藤田くんの停学のことだ。
「噂なんて、いつかみんな興味なくすだろ。それにひとりでいるのは楽だし」
「タバコのことも、暴力のことも、藤田はやってないんじゃないの?」
 私も藤田くんと接していて、暴力を振るうような人には思えなかった。言葉はきついけれど、乱暴な人ではない。

「真実なんてみんなどうだっていいんだよ。ただ面白おかしく人のことを話のネタにしてるだけで、噂に俺の意思なんて求められてない」
「噂、嘘なの?」
 藤田くんは、なにか言いたげな眼差しで私を見た。自分がやったことは正直に認めそうなのに、彼の言い方では噂は事実ではないように思える。

「……なんかどうでもよく思えなくて。私だったら、そのままにするの嫌だなって」
 もしも自分の悪い噂が立って、嘘が混じっていたらもどかしくなる。綺麗さっぱりなかったことにするのは難しくても、できるだけ誤解を解きたい。それに藤田くんは否定することを諦めているようにも感じる。

「……タバコは俺のじゃない」
 藤田くんは食べ終わったアイスの袋を片手で握り潰しながら、苦い表情を浮かべた。

「一緒のグループにいたやつらので、俺のだって嘘つかれた。けど、そのあと揉めて喧嘩になったのは本当。先に殴ってきたのは向こうだけど、それも俺が殴ってきたからだって言って、俺が元凶って扱いになった」
 友達に罪をなすりつけられて、そのまま藤田くんだけが停学になったなんてあんまりだ。真相は一切学校で広まっていないようで、藤田くんだけが悪者にされている。

「藤田くんは噂を学校で否定しないの?」
「俺を知らないやつが、タバコ吸って友達と揉めて停学って聞いたら、そういうやつなんだって思うのが当たり前だし、誤解を解く証拠なんてねぇじゃん」
 表面だけを見て、多くの人が判断してしまう。私はこうして藤田くんと関わることがあって彼を知れたけれど、以前は噂を鵜呑みにしていた。

「話しかけてくるやつなんてほとんどいねぇし。それに否定したところで俺の方が嘘だって思われて終わりだろ」
 真実を明らかにするための行いが、必ずしもいい方向へ進むとは限らない。人によっては言い訳だとられてしまう。

「だったらひとりでいた方がマシ」
「でも、これで真実を知る人が私と楓ちゃんのふたり増えたってことだね」
「別になにかが変わるわけでもねぇけど」
 彼は強く見えるだけで、実際は強くいなければならない状況だったのかもしれない。ふとめぐみのことを思いだす。
 私たちから離れても、平気そうにしているめぐみは強いと思っていた。だけど彼女も同じで、強くいようとしているのだろうか。

「可愛くないなー。感動する場面じゃん!」
 知夏ちゃんは滑り台を使って砂利の上に降りると、今度はブランコを漕ぎ始めた。
「……なんで嘘をついたり、誰かを悪者にしたりするんだろう」
 ぼそりと呟いた言葉はどうやら届いてしまったらしい。知夏ちゃんが「きっとさ」と口を開く。

「みんな必死なんだよ」
 勢いよくブランコが前後すると、ブランコの金具が錆びた音を立てる。

「学校の中で自分を守って生きるために必死で、手段を選ばない人も中に入るから。だって、誰も守ってくれないじゃん。自分のことは自分で守らないと」
 知夏ちゃんの言う通り、藤田くんを悪者にした人も、自分がタバコを吸ったことをバレないためになすりつけたのだろう。

「自分を守るための手段だったとしても、そのせいで誰かが犠牲になるなんて……」
「窮地に立たされたら、守る方を選択するやつなんてたくさんいるだろ」
 吐き捨てるように藤田くんが言った。停学の件で彼はそれを目の当たりにしたのだ。自分を守る選択。私もそうだ。めぐみと美来が揉めたとき、間に割って入るべきだったのに、私は本音を隠した。

「さ、そろそろ帰ろっか!」
 ブランコを降りた知夏ちゃんが、再びアスレチックに登ってくる。

「楓ちゃん、藤田、今日はありがと〜!」
「こちらこそ、ありがとう。楽しかった」
 それぞれゴミの片付けを終えて、三人で公園を出る。解散するのが名残惜しい。そんなことを考えながら歩いていると、知夏ちゃんが立ち止まった。

「どうしたの?」
「お願いがあるんだ」
「……お願い?」
 笑みを浮かべているように見えるけれど、表情が硬いように見える。

「うん。藤田にも、楓ちゃんにも」
 夜を纏った空の下で、知夏ちゃんの周りだけが街灯に照らされていて、スポットライトを浴びているようだった。寂しげな表情に視線が奪われる。


「学校で私を見かけても、絶対に話しかけないで」
 拒絶するような言葉に耳を疑う。

「なにがあっても。お願い」
 先ほどまで楽しく談笑していたはずなのに、親しいことを知られるのを嫌がっているように聞こえた。

「わかった」
 何故か藤田くんはなにも聞かない。私だけが戸惑っていて、置いてきぼりを食らっている。

「ごめんね」
 困惑を察したのか、なにも聞かないでというように知夏ちゃんが微笑んだ。






 学校で話しかけないでほしいという知夏ちゃんの意図はわからない。けれど理由がわからないまま告げられた言葉は心に引っかかっていた。
 せっかく仲良くなれたと思ったけれど、知夏ちゃんにとって私は関わりを知られたくないような存在なのだろうか。そのことに複雑な気持ちになる。

 今週はシフトが被っていないので、知夏ちゃんと次にバイト先で顔を合わせるのは来週だ。会うのが少しだけ気まずい。

「楓〜? 次体育だよ!」
「あ、ごめん! 準備する!」
 授業の教科書を仕舞って立ち上がり、机の横にかけていた体育着を入れているトートバッグを手に取った。そのまま美来と廊下に出る。

「アンケート、順調に集まってる?」
「結構集まってるよ。でも部活の人たちは来週にならないとわからないみたい」
 美来がこうして展示のことを気にしてくれたことに、変化が出てきていることを実感する。あのとき、手伝ってほしいと言えてよかった。

「じゃあ、まとめるのは来週か再来週くらいかな〜」
 体育着の入ったカバンを持ち上げながら、美来が伸びをした。

「てかさ、藤田くんって意外と怖くないね! 普通に会話してくれるし」
「バイト先でも困ったときはすぐフォローしてくれて優しいよ」
「へー! 今まで喧嘩っ早いとかそういう話ばっかり聞いてたから、キレやすい人なのかと思ってた!」
 タバコに暴力。そういった噂がひとり歩きしている。だけど話してみれば、美来みたいに思う人だっている。私もそうだった。
 角を曲がると、お喋りをしている男女の姿が目にとまった。男子ふたりと話している女子は緩く巻かれた髪を耳にかけていて、フープピアスが見える。

 ——間違いなく知夏ちゃんだ。
 出会ってしまったことに戸惑いながらも、彼女の望む通りに知らない人のふりをする。美来と一緒に階段を下っていくと、女子三人組とすれ違う。その瞬間、「うわぁ」と蔑んだような声が聞こえた。

「岡辺、また男といる」
「男しか喋ってくれる人いないからじゃん?」
 嫌悪を含んだ話し方をしながら、嘲笑っている三人の女子たち。〝岡辺〟と言ったように聞こえて、胸騒ぎがする。
 一階につくと、美来が一度振り返ってから声を潜めるようにして言った。

「商業科、怖いなぁ」
「……今の子たちみんな商業科なの?」
「そうだよ〜。あの派手な子、クラスでかなり嫌われてるらしくってさ」
 派手な子というのは、おそらく知夏ちゃんのことだ。明るくて人懐っこくて、友達に囲まれていそうな知夏ちゃんが嫌われているなんて、思いもしなかった。

「クラスの友達の彼氏奪ったんだって。それで揉めたときに、謝りもせずに自分はなにもしてないとか開き直ったらしくてさ」
「……そう、なんだ」
「しかもそのあとも人の彼氏と仲良くしたとかで、さらに揉めたんだって」
 男好きだとか、人の彼氏を欲しがるだとか、そんな風に言われているらしい。
 本当に知夏ちゃんの話なのかと疑いたくなる。バイト先での知夏ちゃんは性別とか関係なく話しかけているように見える。それに藤田くんに対しての接し方も、さっぱりとしていた。

「女子が多いクラスだから、揉めると大変みたい。あの子、クラスの女子たちから無視されてるんだって」
 噂されている内容と、私の知っている知夏ちゃんは別人のようだった。
 私がまだ知夏ちゃんをよく知らないからなのか、あるいは藤田くんの噂のように知夏ちゃんの件も誤解が生まれている可能性もある。
 知夏ちゃんが話しかけないでと言ったのは、私が親しげに話しかけると飛び火してしまうと心配してくれたからなのだろうか。

***

 週末、藤田くんとバイトのシフトが被り、朝から忙しく過ごしていた。平日とは比べ物にならないほど、オーダーが入る。

「笹原、パフェの注文入った」
「え、でも……私」
 ソースの見分けがつかない私が作っていいものなのか困惑する。

「いいから、作って」
「う、うん」
 ソースは藤田くんに確認すればいいという意味なのかもしれない。タブレットで工程をおさらいした後、自力でできる工程までを作っていく。

「冷蔵庫、見て」
 そう言われて、調理台の下にある冷蔵庫を開けると、並んでいるソースに見慣れない横長のなにかがついている。

「え……これ」
「ラベルシール。それなら見分けつくだろ」
 指先でラベルシールをなぞると、つるっとした質感で水に濡れても弾きそうだ。

「これ、藤田くんが作ってくれたの?」
「あった方が便利かと思って」
 涼しげな表情でなんてことないように彼は言うけれど、私にとっては貼ってあるのとないのとでは、大きく異なる。ソースを使うメニューでの不安もなくなり、これで問題なく作れるようになった。

「ありがとう! パフェ作るときも、迷わないでできる!」
 嬉しくて少々興奮気味にお礼を告げると、藤田くんが目を細めて笑った。

「いいから早く、作れって」
 口調から厳しさは感じなくて、最初よりも素っ気なさがなくなっている。
 私の中でも藤田くんに対して変化が生まれている。今では緊張も綺麗さっぱり消えて、むしろシフトが被っているとバイトの時間が楽しく思えていた。

 半日のバイトがようやく終わり、外に出るとまだ空は明るい。家に帰ったらなにをしようと考えていると、裏口のドアが開いた。

「おつかれ」
「あ、おつかれさま」
 私よりも藤田くんの方がお店から出るのが遅いのは珍しかった。それに横切っていくこともなく、私に歩調を合わせるように歩いている。

「なんかあったわけ?」
「え?」
「今日、最初様子おかしかったから」
 知夏ちゃんのことで、藤田くんに聞いていいものなのか悩んでいたときのことだろうか。だけど結局切り出す言葉が思い浮かばなかったのだ。

「俺になんか聞きたいことありそうに、チラチラ見てきてただろ」
 そんなに見ているつもりはなかったけれど、無意識に藤田くんに視線が向いていたらしい。

「学校で、知夏ちゃんを見かけて」
「あー……そういうことか」
 なにについての話なのか、すぐに察したみたいだった。

「藤田くんは知夏ちゃんが話しかけてほしくない理由、知ってたの?」
「一応知ってる。学校で女子たちに、文句言われてんの聞いたことあったから」
「そうだったんだ」
 信号に差し掛かり、藤田くんが足と止めて私の腕を掴む。

「赤」
「あ……うん。ありがとう」
 大きな手はすぐに離れていった。熱がほのかに手首に残っていて、空いている方の手でそっと触れる。藤田くんは優しい。ぶっきらぼうでわかりにくいものの、気遣いは接していると伝わってくる。

「俺らにできることないだろ。本人が関わるなって言ってたんだから」
「でも、」
「岡辺だっていずれ笹原に知られるってわかってたから、ああ言ったんだろ。話しかけるなってことは、無理に助けようとしたり、気に病むなってことだよ」
 クラスの女子たちから無視をされて、陰口を叩かれている知夏ちゃんの状況を見て見ぬふりをすることに抵抗があった。だけど、確かにできることはない。

「一番厄介なのは中途半端な同情じゃね。他人が口を出したら、エスカレートする可能性もあるだろ」
 中途半端な同情。私の今抱いている感情は、そういうものなのか形容し難い。藤田くんが言いたいこともわかる。覚悟がないまま首を突っ込めば、知夏ちゃんに余計に被害がいくことだってあるのだ。

「もしも同じクラスだったら、できることもあったのかな」
「そういうの見て見ぬフリするやつなのかと思ってた」
 息をのみ、喉に針が刺さったような痛みと違和感を覚える。藤田くんはおそらく、クラス内での私のことを言っているのだ。

「……そうだね」
 私はそういう人だ。ひとりになっためぐみのことから目を逸らして、美来が言うめぐみの悪口も笑顔で流していた。それが私の自分の居場所を守る方法だった。

「私……人の表面上しか見ていなかったのかもって最近思うんだ」
 信号の上の絵が光り、青に変わったようだ。けれど私は動けなかった。
 私は最初、藤田くんのことを悪い噂と第一印象で決めつけていて、赤色だからこういう人だって勝手に分類していた。だけど意外な一面を知ったり、優しさに触れて、自分の視野が狭かったことを思い知らされたのだ。

「前までは噂に流されてたと思う。だけど、噂を鵜呑みにしちゃいけないってよくわかったから」
 だから聞いた噂話だけで知夏ちゃんのことを判断したくなかった。

「俺も噂がどこまで真実でなにが嘘かまでは知らないけど、岡辺が話してくれたら、それを信じればいいんじゃねぇの」
「……そうだよね」
 知夏ちゃんとは今まで通り接するのが一番で、本人も気遣われることを望んでいない。助けを必要としていたら、きっとあの夜に知夏ちゃんは打ち明けていた。あえて話しかけないでと言ったのは、巻き込まないため。
 頭では理解しているものの、複雑な感情はなかなか消えなかった。

***

 月曜日の放課後、日直だったため居残りをして日誌を書き上げていると、思いの外教室が賑やかだった。
「設計図こんな感じかな?」

「ここの板って、空き部屋に残ってる板使うんだっけ」
 文化祭に向けて作業しているようだ。展示について話し合いをしている人たちや、既に決まっている小物をハサミやカッターなどを使って作成している人たち。
 その輪から弾かれるように、私はひとりで席に座って日誌を書いていることが、虚しく思えた。同じクラスの一員なのに、私だけ別のクラスの人みたいに作業風景を眺めている。

「え、なにその形! 下手くそすぎでしょ!」
「えー! だって、この形難しくない?」
 真剣に作業に取り組んでいる人たちはキラキラとして眩しい。その光景が羨ましい。だけど今更団結している人たちの中に飛び込むのは、少し勇気がいる。
 ペンを持ってなにかを書きながら話し合っているめぐみが、ふいにこちら側を向いた。目があったものの、すぐに逸らされてしまう。

 鈍い痛みが胸を刺す。自分だって二学期からめぐみのことを避けていたくせに、自分が目を逸らされたら傷つくなんて身勝手だ。それに手伝いたいなんて言っても、困らせるだけに決まっている。急いで日誌を終わらせて、私は逃げるように教室を出た。

 職員室まで行き、先生に日誌を提出すると一気に脱力する。
 私のオーラは、相変わらず灰色に濁っている。自分のしたいことがあるはずなのに、それが怖くて踏み出せない。だけど変わるって簡単なことじゃない。

 自分の臆病なところが嫌で、どっちつかずな発言で自己防衛をするところも嫌で、たまに思考を放棄しようとするところも嫌だ。自分への負の感情がどんどん蓄積されていく。
 職員室の前で立ち止まっていると、隣の進路指導室のドアが開く音がした。中から出てきたのは藤田くんだった。訝しげな顔をして私の横に立つ。

「こんなところで、なにしてんの」
「あ……えっと、日誌の提出してきたところ」
「ふーん」
 藤田くんに続いて進路指導室から担任の先生が出てきた。私と藤田くんが話しているのを見て、物珍しそうにしている。

「先生、日誌机に置いておきました」
「おー、わかった。ありがとな。気をつけて帰れよー」
 特に私たちについて触れてくることはなく、先生は隣を通過すると職員室へ入っていった。

「藤田くんは、なにしてたの?」
「定期検査」
 一体なんの?と首を傾げる。藤田くんは疲れた様子で、いつもよりも声のトーンを落としながら話し出す。

「タバコ持ってないかどうかのチェック。学校の中じゃ前科もちってことになってるから。毎月一度カバンの中身チェックするんだとさ。こんなの形だけだけどな」
 定期検査の日程が決められているらしく、確かにあまり意味がない。もしも本当に吸っているのなら、検査日に持ってこなければいい。けれど無実の藤田くんにとっては、理不尽なことのように私には思えた。

「……本当のこと、先生にも話さないの?」
「嘘だって証明するものがねぇし。もうどうでもいいって」
 俯きがちに目を伏せた表情が傷ついているように見えて、胸が締めつけられる。他の人の罪を背負ったまま、藤田くんはこれからも高校生活を過ごさなければならない。だけど、それよりも友達に罪をなすりつけられたことの方が辛いのではないだろうか。

「藤田くん!」
 私は思い切って声を上げる。
「自販機に行こう!」
 力が入りすぎてしまって、僅かに裏返ってしまった。藤田くんはわけがわからないという様子で眉の間に深くしわを刻む。

「なんで?」
「え、えーっと、気晴らしっ!」
 藤田くんに気分転換してもらえる方法が、私にはこれしか考えつかない。
 断られる覚悟していると、藤田くんが噴き出した。笑っている姿は、教室での人を寄せつけないピリピリとした雰囲気とは異なり、あどけなさを感じる。

「似合わねぇ、気遣い」
「えっ」
 気遣いというよりも、ただ元気をだしてもらいたかった。それだけだった。でも上手い言葉が思い浮かばなかったのだ。

「まあでも、気晴らしするか」
 藤田くんの口角が僅かに上がった。不意打ちの笑顔に妙な緊張感を覚えて、目を逸らしたくなる。けれど瞬きさえ惜しいほどに見つめてしまう。心なしか顔が熱い。

「行かねぇの?」
「行く!」
 自動販売機がある食堂の方面へ歩いていく。放課後なので人が少なくて、残っている人がいても教室で文化祭の作業をしている人たちがほとんどだ。
 もしも生徒がたくさんいたら、私はこうして堂々と彼の隣を歩けただろうか。
 そう考えて、心に影が落ちる。藤田くんと仲良くなりたい。この関係を大事にしたい。それなのに周りを気にすることがやめられない。

「時々こうして話せるやつがいるっていいな」
 意外な言葉に目を丸くする。つい数秒前までの自分の感情が情けなくて、藤田くんの顔が見れない。私は自分の保身ばかりだ。

「ひとりが楽だって考えてるのは変わらねぇけど。でも話し相手がいた方が楽しいって最近思う」
 バイト先ではシフトが被れば他愛のない会話をするし、帰りは分かれ道まで一緒に歩く。学校でもこの間、ミルクティーをアイスに交換してもらったり、展示のスケジュールのことだって話し合いをした。今もこうしてふたりで話している。
 だけど藤田くんにとって、なにも特別なことではないと思っていた。

「私といて、退屈じゃない?」
 藤田くんは足を止めると不服そうに睨みつけてくる。眉がつり上がっていて怒っているように見えた。

「俺が今退屈そうに見えるわけ?」
「それは……」
 見えないと答えたい。だけど人の本心なんてわからない。

「楽しいって言ってんだろ」
 私といて、楽しい。その言葉によって、胸の奥から温かい感情がせり上がってくる。私みたいなのでも必要としてもらえているようで、鼻の奥がつんとした。

「めんどくせぇ性格してんな」
「……言い方酷い」
「相手にどう思われているか気にしすぎで、笹原がどうしたいのか全く見えねぇ」
 ——もっと自分勝手に生きてもいいんじゃね。
 バイト先での藤田くんの言葉を思い出す。

 私は、今どうしたい?
 自分に問いかけて、灰色の手を握り締めた。

「ほら、また考え込みすぎなんだよ」
 灰色の手を藤田くんが掴むと、ぐいっと引っ張った。止まっていた足が一歩踏み出す。二歩、三歩と進んでいくと、藤田くんの手が離れていく。
 そのまま私は彼の背中を追いかけるように、早歩きで進む。不思議と重たくなっていた心は軽くなっていた。
 自動販売機の前に着くと、ふたりでラインナップを吟味する。

「藤田くん、なににする?」
「冬仕様になって、少し変わったんだよな。あ、これにする。コーンポタージュ」
「ええ、これ買うの?」
「なんだよ」
 文句があるのかと凄まれてしまう。狼狽えながらも、私はコーンポタージュに視線を向ける。

「買う人、珍しいなって思って」
 粒々が入っていて飲みにくいし、他の飲み物とはジャンルが違っている。好んで藤田くんが選ぶとは思わなかったのだ。

「寒い時期しか飲めねぇじゃん」
「な、なるほど?」
 珍しいからこそ買うらしい。私はカバンからお財布を取り出して、硬貨を入れていく。そしてコーンポタージュのボタンを押した。

「はい、これ。この間のサイダーのお礼」
 受け渡し口から取り出した缶を差し出す。動揺しているのか、藤田くんが珍しく口籠る。

「え、いや……別に俺が勝手にしたんだからいいのに」
「嬉しかったから。だから私も、藤田くんにお返しがしたいなって思って。それに、ラベルシールのお礼も」
 藤田くんがバイト先にいてくれてよかった。彼の気遣いのおかげで、私はバイトを続けられて、不安を払拭できた。

「じゃあ、遠慮なく。ありがと」
 コーンポタージュを藤田くんに手渡して、私は小さいサイズの温かいお茶を買う。
 ふたりで自動販売機の横にしゃがみ込み、飲み終わるまでの僅かな時間で、バイトでの話をぽつりぽつりとしていく。
 陽が傾き始めた放課後の、いつもとは違うちょっとだけ特別な時間。
 藤田くんの隣は居心地がよくて、些細な言葉に心が跳ねる。きっとこの時間が特別に感じるのは、隣にいるのが藤田くんだからだ。
 名残惜しく思いながらも飲み終わり、ペットボトルをゴミ箱へ捨てた。

「帰んの?」
「……うん」
 教室でのことを思い出して、歯切れ悪くなってしまった。そのことに藤田くんは私がまた言いたいことを飲み込んだと思ったらしく、もどかしそうに見てくる。

「なんだよ、言いたいことあるなら言えって」
「文化祭の作業、まだ結構あるよね?」
「まあ、そうじゃねぇの」
「わ、私でもできることってあるかな」
「他のグループの作業を手伝いたいってこと?」

 こくこくと何度か頷く。器用なわけでもない私にできることなんて雑用くらいかもしれない。でも展示の作業に携わりたい。

「聞けばいいじゃん」
「でも、」
「手伝いたいのは悪いことじゃないだろ。気になってんなら、聞きに行けって」
 教室でめぐみに目を逸らされてしまったので、私が声をかけにいって迷惑そうにされたら心が砕かれそうだ。
 でもめぐみは私に話しかけにくいはずなのに、スケジュールのとき声をかけてくれた。けれど私はクラスの行事よりも、私情を優先して尻込みしている。

「また考えすぎ。深呼吸してみ」
「え」
「いいから」
 言われた通りに、肺まで深く空気を吸い込んで、ゆっくりと吐いてを繰り返す。身体の力が、程よく抜けた気がした。

「手伝いたいんだろ」
「……手伝いたい」
「じゃあ、聞いてこいよ。悩むくらいなら行動してこい」
 拒絶されるのは怖い。だけど、このまま動かなかったら私は何日もウジウジしてしまうはず。私は行く決意をして、足元に置いていたカバンを肩にかける。

「藤田くんは帰るの?」
「帰るけど」
「……そっか」
 心細いからといって彼を巻き込むわけにはいかない。気持ちが萎んでしまわないうちに動き出さないと、私はまた同じことで悩んでしまう。

「私、行ってくるね!」
 そのまま大きく一歩を、今度は自分から踏み出した。軽くステップを踏むような足取りで、藤田くんとバイト帰りに星屑を散りばめたような道を歩いたときのことを思い浮かべた。

 私はどうしたい?
 迷いや不安が邪魔をして、自分自身に問いかけても、ずっとわからなかった。辿り着く場所がその答えだ。後ろから「頑張れ」と、背中を押してくれる声が聞こえた気がした。


 走って教室の前までたどり着くと、私は一旦足を止めた。逸る気持ちを抑えて、乱れた呼吸を整える。
 肩にかけたカバンの持ち手を握りしめて、教室へと足を踏み入れた。

 カッターやハサミを使ってなにかを作成している生徒たちや、紙になにかを書き込んで話し合いをしている生徒たち。その中で、めぐみは輪の中心になって、話し合いをしているようだった。
 私が近づいてきたことに気づいためぐみは言葉を発することなく、困惑しているようにも見える。

「あの……」
 私の声に数人が振り向く。集まってきた視線に、心臓の鼓動が速くなり冷や汗が背中に滲む。
 何度経験しても自分の言葉で気持ちを伝えるって、勇気がいる。どんな反応されるんだろう。困らせてしまうかな。手伝いはいらないと言われるかもしれない。不安が過ぎるけれど、もう後戻りはできない。したくない。

「っ、私にも手伝えることってないかな!」
 声を振り絞って言うと、一瞬場が静まり返る。何人かちらりとめぐみを見たのがわかった。きっと私たちの関係を察している人もいるのだと思う。
 膝が震えそうになったけれど、歯を食いしばって足に力を入れた。

「ありがとう」
 めぐみが一言口にすると、場の空気が柔らかくなった。きっと彼女は、私が入りやすくしてくれたのだ。気を遣わせてしまったかもしれない。
 ひとりの子が、大きな目をまん丸くしながら華やいだ声を上げる。

「人手が増えるの嬉しい! もしよかったらこれ一緒に考えてくれない?」
 うれしそうな表情で、こっちこっちと私を手招きしてくれて、拍子抜けするくらい簡単に私は空いた椅子に座った。

「いろんな人の視点があった方がいいからさ〜! これが設計図なんだけど、楓ちゃん的に見て、なにか問題点とかあると思う?」
「え、あ……ちょっと見てもいい?」
 A3用紙には、展示の概要が書いてあった。

 テーマは〝海の世界〟。ただの展示ではなく、記念撮影をするためのフォトスポットにする予定らしい。大きな木の板を三枚使うと書いてある。高さは二メートルほどらしく、これは買うのも運ぶのも大変な大きさだ。

「この木の板って、どこで調達するの?」
「卒業した先輩たちが文化祭で使った余りの大きな木の板があるんだって。だからそれを使う予定だよ」
 青のペンキを塗り、縦長にして三枚並べ、支える足を後ろに打ち付けて壁にするようだ。そしてスチレンボードを木の上の部分に頑丈に貼り付けると書いてある。
 その他には透明のビーズカーテンなどを吊す予定みたいだ。足場はシフォン生地で透けている青色の布を使って海を、そして黄緑の布で海藻を表現するらしい。

「あとは海の生物だよねぇ。なに作ろう」
 海といえば、単純に魚が頭に浮かんだ。クマノミとか可愛らしい見た目なら写真映えしそうだ。

「クマノミとか熱帯魚は?」
「サンゴとか魚は背景の板に描く予定なんだ。他に目立つやつを作りたいんだよね」
 せっかく輪に入れてもらったのに、全くいい案が思い浮かばない。海から水族館を連想して、中学生の頃に行ったときの記憶を引っ張りだす。ペンギンは無理だし、チンアナゴもちょっと違う。イルカは大きすぎるし、もっと小さな生物。

「あ……」
 思い浮かんだけれど、これは既に出ていそうな気もする。

「……どうしたの」
「え?」
 めぐみに声をかけられて、弾かれるように顔を上げた。

「なんか考え込んでるから」
中途半端な案を出しても微妙だと思われるかもしれない。いつもなら〝そんなことないよ〟と言って、適当に流してしまっていた。だけど、それをしてしまったら、なんのためにここに来たのかわからない。

「クラゲはどうかな……?」
「確かに可愛いけど、紙粘土でも作れないし、紙で作っても微妙そうじゃない?」
 ひとりの子が難色を示す。けれど、私の想像ではもっとふんわりとしたクラゲを作るイメージだった。これを伝えるにはどうしたらいいんだろう。スマホを取り出して、紙でクラゲを作る方法を検索してみる。すると様々な作り方が出てきた。平面のもあれば立体もあり、工夫次第では印象的な物になりそうだった。

「私のイメージはこういうやつなんだ」
「あ、これいいかも!」
「白い和紙で作って、水彩で色塗ったら綺麗かも!」
 みんなで画面を覗きながら、どういう風に作ったらいいかと話し合っていく。

「楓ちゃん、ありがと〜!」
感謝をしてもらえて、くすぐったい気持ちになる。私の意見は、みんなの力になれたのだろうか。

「めぐみ、ありがとう」
 こっそりと小声でお礼を伝える。するとめぐみは柔らかく微笑んだ。彼女のこんな表情を見たのは久しぶりだった。
「楓の意見、聞けてよかった」
温かい言葉がじんわりと胸に広がっていく。めぐみが私の意見を聞いてくれたことが嬉しかった。ちょっとした反応から察してくれたおかげだ。

 わだかまりが消えたわけではないけれど、分厚かった壁が今は薄くなっているように感じた。
 それからいろんな意見を出し合いながら、設計図について詰めていった。終始和やかな空気なので、気兼ねなくそれぞれが自分の考えや提案を口にできる。踏み出してよかった。あのとき、藤田くんが私の背中を押してくれたおかげだ。私ひとりだったら、今も思い悩んでいたはずだ。


 それからクラスの人が展示の件で声をかけてくれるようになった。意見を求められたり、報告をされたり、作業に関しての情報を共有してくれる。

「楓ちゃん、土台づくりの日数が足りなさそうだから、二日増やしたいんだけどいい?」
「わかった! 変更しておくね!」
「あとクラゲ、こんな感じでどうかな?」
 デザインのリーダーの子が、この間作り方を話し合ったクラゲの見本を作ってくれたらしい。机の上に置かれたのは、立体的なクラゲだった。

「すごい! これどうやって半円にしたの?」
「和紙って水を含むと曲げやすいらしいんだ。だから丸く切った和紙をテニスボールに被せて、水彩絵の具で塗りながら水を含ませて作ったよ〜!」
 私には色は見えないけれど、綺麗な半円になっていて、その中に細長く切られた紙が貼り付けられていてゆらゆらとしている。強度などまだ調節しないといけないことはあるそうだけれど、今日の放課後にみんなに見てもらう予定らしい。事前に私に見せにきてくれたことが嬉しい。

「じゃあ、また放課後に!」
 試作のクラゲをそっと手のひらに乗せて、デザインのリーダーの子が席に戻って行った。遠くで眺めながら羨ましがっていた場所に、私は今立てている。そのことに気分が高揚していく。
 私もできることを進めていかないと。壁からカレンダーを取り外して、先ほど聞いた内容の修正を書き込む。すると私の席に美来がやってきた。

「楓、作業手伝ってるの?」
 その質問にどきりとする。美来はあまりよく思っていなさそうだ。

「案出しとかを少しだけしてて……」
 咄嗟にまた自分を守るような言葉を選んでしまう。
「ふーん」
 こうやってやり過ごしていても、いずれは美来に知られることになる。それなら、きちんと私から意思を伝える努力をしたい。

「でも展示の制作も手伝う予定だよ」
「へぇ……そっか」
 明らかに美来のテンションが下がり、無言になってしまう。握っていたペンを指先でいじりながら、言葉を探した。
 美来が嫌がっているのは、私が展示の作業に参加していること? めぐみと関わっているかもしれないこと? それとも他の理由だろうか。けれど最近美来はスケジュールのことを気にかけてくれるようになったので、やる気が出てきているけれど、今からは参加しづらいという可能性もある。

「今日の放課後、打ち合わせするんだけど……美来も参加する?」
「え……」
 美来は表情を硬らせた。瞳が揺らいでいて、困惑しているようにも見える。

「でも私が入ったら、めぐみ嫌だろうし……」
 返答からは参加自体が嫌だという風には感じない。

「美来さえよければ、めぐみに聞いてみるよ」
「いいの?」
 美来の口角が上がり、嬉しさが滲み出ている。展示の作業に興味を持ち始めたのか、それとも美来はめぐみとの関係を修復したいのか。どちらにせよ、クラス行事に協力的になってくれたのは好機だ。
 早速めぐみに聞きにいくと、「人手が足りてないから助かる」とあっさりと承諾してくれた。美来も含めてみんなで作業ができたら、クラス全体が団結できるかもしれない。

***

 放課後の教室に集まりに美来が参加していることに、戸惑っている人たちは多かった。めぐみの顔色をうかがっている人もいて、口数が減っている。

「この間のクラゲの試作作ってみたんだけど、見てもらってもいいかな!」
 制作のリーダーの子が、空気を切り替えるように明るい声音で発言した。机に置かれたクラゲをみんな興味津々に眺める。かわいい。色が綺麗。と声が上がった。

「脆いから、崩れにくいように工夫しなくちゃいけないんだけど、なにか案があったら教えて!」
 テープで貼ったり糸を通すなど様々な案が出る中で、美来はひとりスマホをいじり始める。そのことにひやりとした。他の子たちに不満を抱かれないかと、落ち着かなくなってしまう。

「ねえ」
 美来が画面を私たちに見せてくる。なにかを検索していたらしい。

「それより、出来てるやつの方がよくない?」
 クラフトのクラゲが表示されているページだった。

「作るの大変そうだし、時間の無駄になるじゃん。こっちの方が壊れにくいんじゃないかな!」
 教室が静まり返る。まずい。これはよくない方向へ進みそうだ。

「……確かにそうかも! 私のあんまり綺麗に作れてないし、時間もかかるから」
 デザインのリーダーの子は、笑顔で言いつつも泣きそうだった。せっかく作ったものを否定されたと受け取ったのかもしれない。他の子たちもその様子を心配そうに眺めている。
 美来の提案は、手作りをやめて既に既製品を購入するということだ。その意見に反発する声も漏れ始める。

「せっかく作ってきてくれたのに」「ちょっと酷くない?」
 批判的な言葉が聞こえても、美来は臆することなく更に意見を述べた。

「それがダメってことじゃなくて、時間がないなら出来てるやつの方が早いから。間に合わせるひとつの手段だと思うんだよね。だってまだ土台作りとか色塗りとか残ってるんでしょ。そっちに時間使った方がよくない?」
 効率を考えれば美来の主張もわかる。でも複雑そうにしている子たちの気持ちも理解できた。それに体育祭ではリーダーシップを取るのが上手だったけれど、今回は途中参加ということもあって、周りの空気と美来が噛み合っていないように感じる。

「美来」
 真剣に考え込んでいためぐみが口を開く。
「それいくら? 大きさはどのくらい?」
「え? えーっと、ひとつ八百円で十センチくらいっぽいけど」
「それにプラスで送料もかかるよね。そうなると何個も買う予算がないよ」
 めぐみの否定的な意見に、美来が表情を曇らせる。

「だけどこの小さいクラゲ、存在感薄いじゃん。それにこれから改良していかないといけないんでしょ」
「時短のために買えばいいなんて無茶苦茶すぎる。予算のこと考えてよ」
「予算予算って、買えないわけじゃないんでしょ。絶対これあった方が綺麗だって」
「これだけにお金割くわけにはいかないの。あとから急遽お金が必要になったら、どうするつもり?」
 ふたりの言い合いが始まってしまう。どちらも自分の意見を譲る気がなさそうだった。周りの子たちが動揺していて、完全に置いていかれている。
 周囲の不満が蓄積される前に、なんとかしなくちゃ。でもどうやって……

 美来の意見とめぐみの意見は割れてしまっている。状況的にめぐみの肩を持つ人が多いだろうし、そうなると美来の居場所がなくなり、今後は参加したがらなくなりそうだ。だけどふと思った。どちらかに決めなくてはいけないのだろうか。
「あ、あの!」
 私の声で、会話が止まる。視線が私に集まった。怖い。だけど言わないと。
 心臓の音が全身に伝わるほど激しく脈打ち、手には汗が滲む。どちらか片方が間違っているわけではない。けれどもっといい方法がある。

「三つくらい大きいクラゲを買って、小さいクラゲは手作りにするのはどう……?」
 沈黙が流れて、慌てて言葉を続ける。
「それならお金も残るだろうし、クラゲを作る時間も少なめで済むと思うんだ」
 受け入れてもらえないかもしれない。焦りがじわじわと心に浸食して、思考がうまく働かなくなってくる。みんなの顔が見れない。

「それいいかも。予算も抑えられる」
 はじめに口を開いたのはめぐみだ。
「たしかに」
 美来も私の折衷案に納得してくれたようだった。

「菅野さんが探してくれたやつも綺麗で目立つし、その周りに子どものクラゲがいるのもかわいいね」
 デザインのリーダーの子の表情が柔らぎ、賛同してくれる。周りの子たちも、それでいこうと言ってくれて、私はほっと胸を撫で下ろした。
 思いついたのは、いつも波風立てないように過ごしてきた私だからこそだった。
 たったこれだけの意見を言うだけで、指先が震えてしまう。だけど意見を言えた自分が少し誇らしかった。

「おーい、そろそろ帰りの準備しろ〜。半には閉めるぞ」
 六時を過ぎた頃、先生が教室にやってきて帰宅するように促される。話し合いをしているとあっという間に時間が過ぎていく。
 初めはどうなることかと思ったけれど、行き詰まると美来がアイディアを出してくれたり、率先して話を進めてくれたので小物に関して決まったことも多い。

「美来」
 居残りをしていた生徒たちがカバンを持って教室を出ていく中、めぐみが美来を引き留めた。窓の外は暗くなっていて、教室の電気が眩しく感じる。

「話があるんだけど」
 廊下には楽しげな声がこだましていて、不釣り合いないなくらい私たち三人だけになった教室が静かだった。

「なんでああいう言い方したの」
 めぐみの口調から機嫌の悪さが伝わってきて、私は息をのむ。

「は? なにが?」
「クラゲのこと。作ってくれた子が泣きそうだったでしょ」
 美来はため息を吐くと、肩にかけていたカバンを机に乱暴に置いた。

「貶したかったわけじゃないし、ただ時間がないんだから買った方がいいって言っただけ」
「それでも言い方があるでしょ。今日から打ち合わせに参加した美来が、あんな風に仕切ったら反感買うのがわからない?」
「私が参加しない方がよかったってこと?」
「そんなこと言ってない。もう少し周りのこと考えて発言してってこと!」
 再び言い合いが始まってしまった。けれど、先ほどとは状況が違う。美来の大きな目には涙が溜まっていて、泣くのを堪えているようだった。

「……っ、なんですぐ言い合いするの!」
 溜め込んでいた感情が破裂するように私は叫ぶ。めぐみも美来も呆然と私を見つめていた。

「ふたりの言い分はわかるけど、でも……クラスの子たち困ってた! もっと言葉選んで! 美来もめぐみもお互い傷つけることばっかりどうして言うの」
 一気に言葉を吐き出して、息が上がる。緊張とか苛立ちとかもどかしさがぐちゃぐちゃに心に入り混じっている。他にも言い方があるはずなのに、喧嘩になるような言葉で話すふたりをどうしても見ていられなかった。
 美来がなにかを言おうとしたときだった。廊下から足音が聞こえてくる。

「まだ残ってたのか? もう閉めるぞ」
 先生が教室に入ってきて、教室の電気が消された。私たちは強制的に廊下に出される。めぐみは気まずそうにしながら、私たちの先を歩いて行ってしまう。

「私が空気悪くしたのはわかってるよ」
 鼻をすする音がする。泣いている美来に、どんな言葉をかければいいのかわからないまま、私は隣を歩く。

「傷つけたいわけじゃなかったのに。けど、めぐみだって言い方きついじゃん!」
 我に返ったように「ごめん、愚痴言って」と美来が苦笑する。こんなに弱気な姿を見るのは初めてで、美来なりに後悔や葛藤があることを私は今まで知らなかった。

「クラゲの件、楓がアイディア出してくれてよかった。あのままだったら、めぐみと大喧嘩になってたかも」
「あれはたまたまいい案が思いついただけで……」
「楓らしいなって思ったよ。だからちょっと羨ましい」
 美来の言葉に、私は目を見開く。

「楓みたいに周りのこと気遣えたら、よかったのに」
 何度も思ったことがある。美来やめぐみみたいになれたらいいのに。ずっと私は誰かに必要とされる存在になってみたかった。

「私は自分の意見を言うのが苦手で、八方美人に振舞っちゃうし……思っていることを言うのも苦手だから」
 心の奥に隠していた感情が唇から零れ落ちる。

「美来たちのことが羨ましい」
 足音が止まったことに気づき、振り返る。美来が表情を硬らせていた。

「……もしかしてあのとき、聞こえてた? 私が志保と話してたこと」
 心臓がどくっと跳ねて血の気が引いていく感覚がする。八方美人という発言で美来は察したようだった。
 なにが?と流せば、穏便に済む。だけどそれは自分の心を無視することになる。揉めることは怖い。私と美来の仲も壊れてしまうかもしれない。でも逃げずに向き合うのなら、今しかないように思えた。

「……聞こえてた」
「ごめん! あんなこと言って」
 この場を収めるために気にしないでと言うのも本心ではない。笑顔を作ろうしとても、口角が上がらない。

「私も自分の気持ち伝えてこなかったから」
 目に薄らと涙の膜ができる。気にしないようにと必死に自分に言い聞かせていた。実際は泣きそうはほど傷ついていたのだと、受けた傷を自覚する。

「でも……聞いたとき、ショックだった」
 けれど私が八方美人だと言われるのも、なにを考えているのかわからないというのも、自分の気持ちを飲み込んで合わせてしまうからだ。
 流されて他人の判断に身を委ねてしまう。言いたいことを口にするのを避けるのは楽で、自分の発言という責任もない。そうやって過ごしてきた私は、本音がどこにあるのかよくわからなくなって、きっと灰色に濁ってしまったんだ。

「ごめん、楓。……本当ごめん」
 美来は顔を歪ませながら大粒の涙を流し、謝罪を繰り返す。その光景に、私の涙は引っ込んでしまう。ここまで泣くなんて驚きだった。心のどこかで、美来にとって私は大した存在ではないと思っていたのだ。

「謝っても許されることじゃないけど、ごめんなさい。……我儘なのはわかってる。でも私、楓に嫌われたくない……っ」
 どうせ私なんかとか、私よりもあの子の方が好かれているとか。聞いてもいない本音を想像して、勝手に惨めになっていた。話してみて初めて知る思いもあるという当たり前のことに、気づけていなかった。自分の価値を下げていたのは、私自身なのかもしれない。
 私は美来の手を握る。微かに震えているその手からは、後悔が伝わってきた。

「嫌いになんてなってないよ」
 これは本心だ。悪口を言われて傷ついたことは消えないけれど、それでも美来が私を傷つけたかったわけではないのはわかっている。

 ぎゅっと手を握り返されて、美来は声を上げて泣きじゃくっていた。
 少ししてから学校を出て、ふたりでゆっくりと夜道を進んでいく。美来の涙も落ち着き、私は今まで聞けなかったことを口にした。

「……美来は、めぐみと話さなくていいの?」
 先ほどのことだけじゃない。亀裂が入ってから、美来はめぐみとふたりで話すことを避けていた。

「だって、めぐみが私と話したくないだろうし」
 まるで臍を曲げた子どもみたいに美来は不貞腐れている。

「めぐみは……美来のこと嫌いじゃなかったと、思う」
「……そうかな」
 あまり自信がなさそうな声だった。

「今までのこと色々思い出すと、めぐみって本当は私と嫌々一緒にいたのかもってどんどん悪い方向で考えちゃうんだよね」
 駅への近道で広い公園の中を突っ切っていく。この道を七月の途中まで三人で歩いていた。昨日見た動画の話とか、好きな漫画の話、他にも学校で起こった些細な話題で盛り上がって、たくさん笑った。
 三人で過ごしていたとき、めぐみはなにかを抱えていたことは事実だ。けれど心から笑っていたときもあったと信じたい。

「美来はめぐみのこと、どう思ってるの?」
 私の質問に美来は指先を弄りながら、煮え切らない様子で唸るような声を出して悩んでいる。

「嫌われてるなら、私だけが好きなのって馬鹿みたいじゃん」
 素直じゃない返答から、本心ではめぐみが好きなのだと伝わってくる。好きだからこそ、嫌われているかもしれないと思って、美来は怖くなったんだ。

「私は……美来の気持ちをめぐみと話した方がいいと思う」
 美来がめぐみの本心がわからないように、めぐみにだってそれはわからないはず。

「……考えてみる」
 美来の声には迷いがあるように感じた。一度拗れた仲が修復する保証なんてない。それでもモヤモヤとした感情を抱えたままでいるより、美来にとってめぐみが大事な存在だということを伝えたらなにかが変わるかもしれない。

***

 翌日、バイト終わりに更衣室でスマホを取り出と、文化祭の展示についての共有メッセージの通知がたくさんきていた。細かい部分は先生に確認しつつも、来週の月曜日から板に色を塗る作業に入るらしい。今のところスケジュール通りに順調に進んでいる。
 裏口から外に出ると、何故か私服の藤田くんがいた。今日はシフトがないのに、何故彼がここにいるのだろう。

「おつかれ」
「藤田くん、今日休みだよね?」
「ちょっと忘れ物。すぐ取ってくるから、用事ないならそこにいて」
「え?」
 一方的に話すと藤田くんは中に入っていく。特に用事もないので、私はフェンスに寄りかかりながら、彼が戻ってくるのを待つ。
 何気なく空を見上げてみるけれど、味気ない風景が広がっていた。モノクロの視界のせいかもしれない。けれど、お店の看板で明るいこの場所からは、元々星なんてほとんど見ることができないだろう。
 ブレザーのポケットに手を入れると、ほっとするような暖かさに包まれた。十月の夜は案外寒くないと思っていたけれど、今日はいつもより冷える。けれど空気の冷えた秋の夜も好きだ。

「おまたせ」
 本当にすぐに戻ってきた。バイトがないのに取りにくるほど大事なものはなんだったのだろう。それに今日はパーカー姿で普段よりもラフな印象だ。新鮮なので見入ってしまう。

「なに?」
 不思議そうな顔をされて、誤魔化すように髪を指差す。

「前髪が、くしゃってなってるよ」
「ああ、急いだからかも」
 そう答えながら藤田くんは片手で軽くならすようにして、前髪を整えている。

「急いだの?」
「待ってるかもって思って」
 急いだ理由が私だとわかり、口元が緩んでしまう。それに藤田くんはそういうことを気にする人なんだと、意外なところを発見した。

「なに取りにきたの?」
「スマホ」
「ええ! スマホ忘れたの? 今日一日なくて大丈夫だった?」
「いや、一日くらいなくても平気だろ」
 私だったら、スマホがないと一日中そわそわしてしまいそうだ。学校が終わったら速攻取りに行っている。

「さすがに次のバイトまで置いたままは嫌だったから取りにきたけど」
 藤田くんと私の中でのスマホへの価値観は異なるんだなと、衝撃を受けながらも、私たちは並んで歩いていく。

「今日はコンビニ寄る?」
「うん、寄ろうかな」
 私たちはバイトが終わると、こうして時々コンビニに寄るようになっていた。特別にほしいものがあるわけではない。ただ途中まで帰るだけなのは名残惜しくて、寄り道をしてしまう。
 コンビニでホットのミルクティーを買って、それを両手で握りしめながらゆっくりと歩く。彼とこうして一緒にいるのが、こんなにも心地よく思うようになったのは、いつからだろう。

「藤田くん、この間は話聞いてくれて本当にありがとう。展示の作業、最近私も一緒に参加するようになったんだ」
「よかったな」
 あっさりとした返答。だけど安心したような穏やかな声音だった。心配してくれていたみたいだ。

「で、今度はなにに悩んでるわけ」
「え?」
「わかりやすすぎなんだって」

 ——楓らしいなって思ったよ。だからちょっと羨ましい。

 美来の言葉を何度も考えていた。私って、どういう人? 私らしいってなに?
 聞きたかったけれど、答えが怖くて聞けない。けれど、気になってしまう。私はどんな風に見えているんだろう。灰色に飲み込まれた私には、自分らしさが見つからない。

「藤田くんにとって、私って何色のイメージ?」
「色? なんで?」
「この人はこの色のイメージとか思うことない? 色の性格診断とか、中学生の頃に流行らなかった?」
「俺は人を色と結びつけたことないからわかんねー。てかそれって大事なこと?」
 どう見られたいとか、そういう願望は藤田くんにないのだろうか。

「私は結構気にしちゃう。アイコン変えるとき、色が一番悩むんだよね」
 SNSやメッセージアプリのアイコンを変えるとき、色やイラストのタッチ、写真に映っているものなどで、どんなイメージを抱かれるかを考えてしまっていた。特に色の与える印象は大きい。
 藤田くんはますますわからないと顔を顰めた。

「誰にどう見られているかよりも、好きな色を纏えばいいじゃん」
「でも、それが私らしくない色だったら?」
 かっこいいからと黒系を選んでも、イメージと違うねと言われたら、その色を纏うことを私は躊躇ってしまう。

「纏ってたら、その色のイメージになるんじゃねぇの? てか、自分の好きな色に周りの意見なんていらねぇだろ」
 思い返せば私は、目立たないような無難な色ばかり選んでいたかもしれない。藤田くんが数歩先で立ち止まり、振り返った。

「笹原は、何色が好きなんだよ」
 射抜くような視線を向けられながら、彼の言葉を頭の中で反芻させる。
 ——私の好きな色。

「……わからない」
「色が見えなくなる前は、どの色をよく手に取ってたとか思い出せねぇの?」
 タイヤがアスファルトに擦れる音を鳴らし、私たちの横を自転車が横切っていく。その瞬間、自分の自転車の存在を思い出した。高校に入ってあまり使わなくなってしまったけれど、中学のときに乗っていた色は白だった。

「自転車を買うときに、親には汚れが目立つからやめた方がいいって言われたけど、どうしても白が欲しくて買ったんだ」
「それなら、白が好きなんじゃね」
「あ、でも……スマホカバーの色は、ピンクにしたんだ」
 桜のような淡い色で、ひと目見て気に入ったのだ。今年の四月に購入して今も同じものを愛用している。

「ピンクも好きってことだろ。それにペンケースは水色の使ってたよな」
「あ、うん。それも色が気に入って……」
 ライトブルーのペンケースも、かわいいと思って高校入学前に選んだものだ。

「これだと好きな色なんてわからないね」
「白もピンクも、水色も好きってことじゃねぇの?」
「多すぎないかな」
「なんで? 一色だけじゃなくてもいいじゃん」
 驚きと共に、心にすとんと言葉が着地する。藤田くんの言う通りだ。どこにも一色だけしか好きになってはいけないというルールなんてない。それなのに、私は自分自身で考えを狭めてしまっていた。
 そうだ、私——好きなものを、好きと認めるのが怖かった。色はもちろん、服装やアクセサリー、アーティストなど、これが好きだと誰かに伝えることを避けていたのだ。

『意外だよね』
 それは些細なきっかけだった。中学二年生の頃に、友達から私が好んでいるアーティストがイメージと違うと指摘されたことがある。

『楓ってそういう激しめの曲聴くと思わなかった』
『てか、これなんて言ってるの? 裏声に気が散って全然わからないんだけど!』
 ちょっとしたいじりだったのだと思う。それからなにかある度に、私の好きなアーティストの曲を真似して、ふざけてくることが多かった。

『も〜、やめてよー!』
 笑って誤魔化していたけれど、内心嫌だった。
 自分の好きなアーティストが馬鹿にされている気がして、好きな気持ちを話のネタにされて汚されたような複雑な思いを抱いた。そして好きだったはずなのに、自分の中の情熱が薄れていく。

 それから私はあまり好きなものを人に言わなくなった。知られてからかわれるのも嫌で、好きなものから熱量が失われていくのも怖かった。
 飲み込んで隠すようにしていくうちに、押し殺した感情は遅効性の毒のように私を蝕み、自分のことがよくわからなくなっていった。

「私……誰にどう見られるか、気にしてばっかり」
 揉め事は今まで避けることができたかもしれないけれど、それと引き換えに私は大事なものを手放してしまったようにも感じる。

「じゃあ、俺にどう見られたいわけ」
「え、ど、どうって」
 急な質問に私はまごついてしまう。真剣な眼差しは、わからないでは済ませてはくれなさそうだ。

「バイトで仕事できるように見られたい、かも? あとは、うーん、好かれていたいと思う。……嫌われたくない」
「嫌いになんねーよ。じゃあもう解決。なんも悩むことないじゃん」
「えっ⁉️ 嫌いにならない保証なんてないよ……」
「そんなのすべてのことに対してそうだろ。誰だって、この先の感情まで予測なんてできない。けど今の俺は嫌いになんねぇって思ってんだからいいじゃん」
 人の心はどう変わるかわからない。今後、私が藤田くんに自分勝手な態度ばかりとっていたら距離を置かれることだってある。
 美来たちだってそうだ。親しいからといって、私の態度次第で嫌われるかもしれない。そう考えるとますます接することが怖くなる。

 好かれているためには、どんな私でいたらいい……?

「また考え込んでるだろ」
 藤田くんに見透かされて、慌てて顔を上げる。
「笹原は臆病だな」
「……そうかも」
 人の顔色ばかり気にする私は小心者だ。でも、臆病だから仕方ないと思いたくない。臆病だけど、変わりたい。

「私、藤田くんみたくなりたい」
「なんだそれ。冷たい人間になりたいってこと?」
「ううん。……自分を持ってる人間になりたいってこと」
 強い意志を持っていて、こうして人に真っ直ぐな言葉をかけてくれる。彼のようだったら、私は灰色にならなかったはず。

「見る目ねーな」
 藤田くんは私に背を向けて歩き出した。彼が纏った赤色が揺らめいて見えて、小さな緑色は蛍の光のようだった。
「……少し前まではそうだったかも」
 呟くと、藤田くんが再び足を止めた。そして彼の前に回り込み、私は笑いかける。

「藤田くんは自分が思ってるより、冷たくないよ」
 怖い人だと周りが勝手に彼のイメージを持ったけれど、本当は友達に裏切られて、嘘の噂が出回ってしまっただけだ。悔しいはずなのに、先生に真実を言わないで黙って耐えている。

「少なくとも親切ではないだろ」
「藤田くんこそ見る目ないね」
 仕返しのように言うと、複雑そうな表情で藤田くんがため息を吐く。

「元気になってよかったな」
 皮肉めいた言葉に、私は声を上げて笑ってしまう。確かに気持ちが浮上してきた。藤田くんに話したことによって、気持ちの整理ができたみたいだ。

 灰色異常になる前から誰にどう見られるかばかりで、なりたい自分の姿を思い浮かべることが今までなかった。
赤色の人みたくなりたいのなら、自分なりの言葉で伝える努力をするべきで、平和に過ごしたいのなら緑色の人のように周りをよく見て、気を配れるように意識するべきだ。なりたい色に必ずなれるわけではないけれど、それでもどうせ私なんてと、自分自身を苦しめて色を濁らせたくない。

 自分を守ることばかりで視野が狭くなっていたけれど、この灰色も努力次第で変化していくはず。

「あ……」
「なに?」
「私ね、今思ったんだけど、藤田くんといるときの自分が結構好きかもしれない」
 冗談を言って笑ったり、心の奥底に隠した本音を打ち明けたり、気づけば自然体でいることができている。
誰かに好かれたいではなくて、私に好かれる自分になりたい。

「俺も。教室の笹原より、今の笹原の方がいい」
 近くを通りかかった車のヘッドライトが私たちを照らす。その光の眩しさに私は目を瞑った。車が通過していったのがわかり、瞼を上げると、飛び込んできた景色に思わず声を漏らす。

「え……」
 空は濃紺で遠くに見える木は黄葉している。そして、アスファルトに反射した街灯の光は青みがかって見えた。けれど、瞬きをすると、すぐにモノクロのフィルターがかかったように色味を失う。

 ——今、戻った……?
 目を擦ってみても、映る世界は無彩色だった。ほんの数秒だったものの、景色に色が戻ったのは間違いない。それに私を纏う灰色がまた少し薄くなっていた。

「笹原? どうした?」
「今……周りの色が見えたんだけど、また戻っちゃって……」
 動揺して拙くなりながらも、起こったことを藤田くんに説明する。

「笹原の心境に変化が起こったからじゃねぇの」
 いい方向に進めているということなのだろうか。悩みが消えたわけではないけれど、ほんの少しの希望が芽生えた。






 翌朝、登校すると廊下が騒ついていた。普段よりも人が集まっていて、小声でなにかを話しながら、みんな一点を見ている。

「だから、なんとも思わないわけって聞いてんの」
「私は後ろめたいことなんてなにもしてないけど」
 聞こえてきた声には覚えがあった。けれど普段私が聞く声よりも、鋭くて硬い。

「謝りもしないなんて最低」
「そんなに結愛が気に食わないわけ?」
「私は大丈夫だから……」
 視線が集まっている方向に足を進めていくと、知夏ちゃんと四人の女子がなにやら険悪な雰囲気で向かい合っていた。そのうちのひとりの子はおろおろとして、周りの子達の顔色をうかがっている。知夏ちゃんのことを睨んでいる三人は、以前陰口を言っていた子達だ。

「まあでも、岡辺さんもあの態度ないよね。結愛ちゃん可哀想」
「だよね。元はといえば、岡辺さんが原因で揉めてるんでしょ」
 すぐ傍にいる女の子達の会話が聞こえてきてしまった。以前美来が言っていた恋愛絡みの揉め事のことだろうか。

「私が岡辺さんに嫌われてるのは仕方ないし……」
「結愛は悪くないって!」
 結愛と呼ばれた子を慰めるようにひとりの子が背中に手を回す。弱々しくて意見を言うのが苦手そうに見えるけれど、纏っているのは橙色だった。美来のようなリーダー的な人が橙色のことが多いので、彼女みたいな人は初めて見た。

「大丈夫だから、もう行こ?」
「まあ、結愛がそう言うなら……」
 知夏ちゃんに食ってかかっていた子達は結愛という子の一言で、あっさりと怒りを納めて退散していった。
 一触即発だった空気が消えると興味を失ったように生徒達は、ひとり取り残された知夏ちゃんを避けながら通り過ぎていく。なにがあったのかはわからない。けれどこのまま放っておくことができなくて、声をかけようと一歩踏み出す。

「やめとけ」
 私の動きを制するように背後から声がする。振り向くと、近くに藤田くんが立っていた。

「話しかけるなって言われてるだろ」
「でも……」
「安全な場所にいたいなら、中途半端な優しさで関わらない方がいい。声をかけたら、笹原も巻き込まれる覚悟できてんの?」
 辛そうな知夏ちゃんに声をかけることに覚悟なんているの?と言い返したくなったけれど飲み込む。この感情は綺麗事だ。私は見て見ぬフリをする自分になりたくないだけ。
 本当は藤田くんが言いたいことはわかっている。迂闊に話しかけたことによって、私も周りから無視をされたり、悪意を持たれたらと思うと怖い。知夏ちゃんはそのことを配慮して、声をかけないでと言ったはずだ。

「だけど……悔しい」
「それは俺もわからなくはないけど」
 無力な自分が嫌でたまらない。知夏ちゃんが酷い目に遭っているのを目撃したのに、私はなにもできない。

「明日って、岡辺とバイト被ってるよな」
「え? うん、そのはずだけど……」
「帰りに三人で話すか」
 藤田くんからの提案に目を見開く。彼もこの状況を歯痒く思っているのかもしれない。

「岡辺が嫌がったら無理には聞かなねぇけど」
「うん。明日、知夏ちゃんに声かけてみる」
 話してくれるかはわからないけれど、それでもこのままなにもしないで放っておきたくない。明日のバイト終わりに裏口で待ち合わせの約束をすると、藤田くんは教室に入っていく。私も彼に続いて教室に足を踏み入れる。

「楓、おはよ〜」
 自分の席に鞄を置くと、すぐに美来がやってきた。空いている椅子を引っ張ってきて私の隣に座ると、声を潜める。

「商業科の子たちが喧嘩してるの見た? あの子が原因で彼氏と別れたんだって」
「あの子って……」
「岡辺さん」
 知夏ちゃんが原因で、彼氏と別れた子がいる。それが事実なのか私は知らないけれど、だからって関係ない人たちがたくさんいる場所で責めるのはどうなのだろう。

「あと二年間も一緒なのしんどそうだよね〜」
 私たち普通科と違って商業科はクラス替えがない。自分を敵視してくる人たちと卒業するまで同じ教室で過ごすなんて。私だったら毎朝教室に入ることすら怖くなってしまう。知夏ちゃんの笑顔を思い出すと胸が痛んだ。

「そういえばさ」
 美来がちらりと私を見てくる。なにかを話したそうだ。いつもは言いたいことを躊躇わないのに珍しい。

「昨日の夜ね……めぐみと電話したんだ」
「え!……どうだった?」
「一応この間よりも関係マシになったかも」
「仲直りできたってこと?」
「うーん、元通りってわけではないけど、でも私の態度とか謝った」
 声は硬いけれど、表情が穏やかで美来にとっていい方向へ進んだのがうかがえる。

「そっか。ふたりが話せてよかった」
 変わるための一歩を美来は踏み出したんだ。視線を下げて自分の灰色の手のひらを見つめる。私も変わりたい。
 このままでいてもめぐみは普通に接してくれる。けれど何事もなかったフリをしていても、気まずさは消えずに残ってしまう。私もめぐみと話すべきだ。めぐみがどんな思いでいたのかを私はまだ知らないし、私も本当の気持ちを伝えられていない。

 今日の放課後も展示で使う板にペンキで色を塗っていく予定だ。
「ごめん、楓。私先に帰るね」
「え? 今日美来、バイトだったっけ?」
「そうじゃないんだけど……私いると空気悪くしちゃうじゃん? あ、でも小物作るとか家でできそうな作業あったら言って」
 集まり始めたクラスの子たちを横目で見ると、美来は軽く手を振ってから教室を出て行ってしまう。歯痒さを感じながらも、私は引き留めることができなかった。めぐみと話し合えたとはいえ、この間のことを気にしているみたいだ。

「楓、ペンキ使う前にジャージにした方がいいんじゃない?」
「確かに……着替えようかな」
 めぐみの指摘の通り汚しそうなので、ロッカーへジャージをとりに行くことした。どうやらめぐみもジャージに着替えるらしい。
 ふたりで並んで廊下を歩くのは久しぶりで、気まずさがある。けれど話すなら今かもしれない。

「ねえ」
 私よりも先にめぐみが言葉を発した。

「さっき美来となんか話してたけど大丈夫なの? 帰っちゃったみたいだし」
「揉めたわけではないから、大丈夫だよ。めぐみは美来と話したんだよね?」
「一応、和解はしたと思うけど」
 歯切れが悪く、すっきりとした様子の美来とは違っている。

「また一緒にお昼食べようって誘われたんだ。でも今更戻るのは無理かなって」
 和解をしても、されたことが消えるわけじゃない。めぐみの中で消化しきれない感情が残っているように見える。

「私、楓にずっと——」
「あ、いたいた! 私たちもジャージとりに行く〜!」
 クラスの女子達が私たちの元に駆け寄ってくる。一気に六人に増えて、私たちは三人ずつ前後で並んで廊下を進んでいく。通りかかったクラスからは賑やかな声が響いていて、みんな文化祭準備に勤しんでいるようだった。

「そうだ! 着替えたら、職員室にいらない紙もらいに行こ! ペンキが床につかないように絶対敷けって先生に言われちゃってさ〜」
「板でかいから、紙結構必要だよね。何枚くらいもらう?」
 隣を歩くめぐみを見やる。先ほどめぐみがなにを言いかけたのか気になるけれど、聞けるような状況ではなくなってしまった。
 私、楓にずっと——。
 あの言葉の続きは、なんだったんだろう。

***

 翌日のバイト終わり、更衣室で知夏ちゃんに声をかけた。三人でまた公園に行こうと誘うと、快く承諾してくれる。
「楓ちゃんから誘ってもらえると思わなかった〜!」
 理由を話していないので嬉しそうな知夏ちゃんを見て、少し心苦しい。

 着替え終わってから裏口で藤田くんと待ち合わせて、前回と同じようにコンビニに寄ってから公園へ向かった。
 遊具の上に三人で登ると、知夏ちゃんが明るい声を上げる。

「すっかり寒くなってきたよね〜! でも寒い中で食べるアイスも最高!」
 上機嫌でチョコレートにコーティングされた棒つきのアイスの袋を開ける知夏ちゃんに、藤田くんはげんなりとした顔で「うわ」と声を漏らす。

「よくアイスなんて食えるな」
「ちゃんとあったかい飲み物も買っておいたから大丈夫です〜」
「あっそ」
 今日は夜風が吹いていて冷える。この中でアイスを食べたら凍えてしまいそうだ。私も藤田くんも温かい飲み物を湯たんぽ代わりに手に持っている。

「楓ちゃんの隣は私がもーらい!」
「俺はどこでもいいし」
 知夏ちゃんは私の隣に胡座をかいて座った。自然と膝に視線がいき、黒っぽいことに気づいた。モノクロに見えているけれど、普通の膝の色ではないことはわかる。

「知夏ちゃん、その膝……」
「あ、これ? バレーのときぶつかって痣できちゃってさ〜。てかあのボール、結構痛くない? びっくりなんだけど!」
 軽快に笑いながら、大したことがないように知夏ちゃんが話す。けれど、少しぶつけられただけでは、こんな大きな痣はできない。ボールをぶつけられただけではなく、突き飛ばされでもしたのではないかと疑ってしまう。

「いつまでヘラヘラ笑って平気なフリしてんだよ」
「えー、なに藤田。今日はやけに真面目じゃん」
 重たい空気になるのを、知夏ちゃんは避けているようだった。

「知夏ちゃん、なんで嫌がらせ受けてるの?」
 貼り付けられていた笑顔が一瞬強張る。

「きっと事情を聞いたら、くだらないって思うかも。それでも知りたい?」
 頷くと、知夏ちゃんはアイスをくわえながら「なにから話したらいいのかなぁ」と呟く。

「同じクラスの子の彼氏と、浮気してたって勘違いされてるんだよね」
「それって、昨日廊下で揉めてた中にいた結愛ちゃんって子?」
「あー……そっか、見てたんだ。そう、その子。最近別れたらしいんだけど、それも全部私が邪魔したからだって言われちゃって」
 結愛ちゃんという女の子は、知夏ちゃんに突っかかっていた子達を止めていて、困っている様子だった。それに彼女ではなく、周りが知夏ちゃんを一方的に敵視しているように私には見えた。

「私ね、隣のクラスに中学から仲の良い男子がいたんだ。藤田はわかると思うけど、小林って男子で、家が同じ方向だから時々帰りが一緒になるの。そしたらそれを見られたみたいで揉めたんだよね」
「話していただけで、浮気してるって思われたってこと……?」
「うん。結愛ちゃん側からしてみたら、いい気持ちはしないのかもしれないけどさ」
 なにも知らない結愛ちゃんにとっては、誤解してしまうのもわかる。だけど、帰り道に会って話していただけで決めつけられてしまうのは理不尽だ。でもこれは私が知夏ちゃん側の人間だからそう感じるのだろうか。

「小林に彼女の誤解といてってお願いしたんだけどね。また勘違いされたら嫌だから連絡すんなってメッセージが来てブロックされちゃった」
 それ以来、小林くんと話すことは一切なくなったらしい。これでは知夏ちゃんだけが悪者のようだ。

「あの子達の中では、彼女がいるって知ってて私が誘ったことになってる。真実なんて簡単に歪んじゃう。藤田の噂と同じ」
「でも……結愛ちゃんって子は……」
「優しい子に見えた?」
 知夏ちゃんが口角を上げる。けれど目元は笑っていなくて、結愛ちゃんに対して怒りを抱いているように思えた。

「SNSで私のことだってわかるように、浮気されて傷ついたけど、彼のことが好きだからやり直したいって結愛ちゃんが投稿して、それから私は同じクラスの子達から避けられるようになったんだ」
 低く微かに震える声で、知夏ちゃんが続ける。

「学校じゃ無視されるから、DMを送ったの。でももう誰も岡辺さんの話なんて信じないよって言われてブロックされた。それから一切話せてない」
 なにを言っても、相手にとっては嘘に聞こえる。声を上げれば悪目立ちしてしまい、黙っていれば認めたと思われる。形にできないものを証明するのは難しい。

「てか、SNSに書く意味あんの?」
 藤田くんの指摘に、知夏ちゃんは苦笑した。
「周りに報せるため、でしょ」
 私にはその意味がわかる気がする。名指しはしていなくても、教室での会話や視線などから、関係ない人たちもなにかを察していく。そしてその投稿によって、内容を把握してしまう。あとは広まるのなんてあっというまだ。

「私の中学の友達がね、小林の元カノなの。別れた理由は浮気で、その相手は結愛ちゃんだった」
 知夏ちゃんの抱えている苛立ちの輪郭が見え始める。勘違いからクラスで居場所がなくなったことだけではない。結愛ちゃん自身の行いや、中学の友達に関することなど、静かな怒りが知夏ちゃんの中に蓄積されているようだった。

「自分がしたことを、誰かにされるかもしれないって怖かったんだろうね」
 だからこそ、結愛ちゃんは過敏に反応を示して、SNSに書いてしまったのかもしれない。

「誤解されたままなのは悔しいけど、なんでも声を上げたら間違いを正せるわけじゃないから。受け取る相手がこうだって思い込んだら、それが真実になっちゃうし、誰かと関わることも、弁明することも面倒になっちゃったんだよね〜」
 いつもバイト先で見る知夏ちゃんの笑顔に戻り、声も明るくなる。無理をしていることは付き合いが浅い私でもわかった。

「……知夏ちゃんは、本当はどうしたい?」
 私が何度も自分に問いかけていた言葉。辛いときや、なにかを恐れているとき、きっと私たちは目を逸らして、日常をやり過ごそうとしてしまう。けれど傷ついた心と向き合えるのは自分だけで、放置をしても傷は残り続ける。

「どうしようもないっていうか、諦めてるんだよね〜」
 知夏ちゃんの手に、溶けたアイスが伝っていく。それに構うことなく、貼り付けられた笑顔のまま、なんてことないように明るい口調で知夏ちゃんは話し続ける。

「だってさ、誰もこんなやつに近づきたくないじゃん? 人の彼氏奪ったとか噂流されて、それがきっかけで仲が良かった人も私のこと空気読めないとか、自分勝手だと思ってたとか悪口を言い始めたし」
「俺はそんな噂どうだっていい。笹原もさっき言ってたけど、岡辺はどうしたいんだよ。今のまま学校で話しかけないでほしいわけ?」
 心の奥底に気持ちを仕舞うと、そこから言葉を取り出すのは容易なことではない。だけど口に出さなければ、伝わらないことだってある。

「それに噂なんて俺もあるし、巻き込むとかそういうの深く考えすぎんな」
「でも……」
 知夏ちゃんが私を見やる。その目には戸惑いが含まれていた。きっと巻き込むことを躊躇っているのだと思う。ポケットからティッシュを取り出して、知夏ちゃんの手についた溶けたアイスを拭う。

「私は自分の目で見た知夏ちゃんを信じてる」
 天真爛漫で分け隔てなく接してくれて、バイトでは困っていることがあるとさり気なく周りのフォローをしてくれる。それに一緒にいると楽しくて、苦しいことがあってもそれを見せずに笑って耐えている。私の中の知夏ちゃんは学校の噂で聞くような人ではない。私は彼女の言葉を信じたい。

「だから、知夏ちゃんの気持ち教えて」
 知夏ちゃんは目を大きく見開き、瞳を揺らした。睫毛がゆっくりと下がると涙が頬に落ちていく。

「……つ、らい」
 嗚咽を漏らしながら、振り絞るように知夏ちゃんが言った。

「なんで……っ、関係ない人たちに好き放題言われないといけないのってずっと思ってた」
 本音を聞かなければ、私は知夏ちゃんの抱えている苦しさや葛藤に気づきもしなかった。誰もがなにかと戦っていて、強く見えたとしても、弱さを隠しながら耐えていることだってある。

「誤解されてるのも本当嫌。でもひとりでいると、時々私が悪いのかもって思考が麻痺しそうになる。……私、あのときどうしたらよかった? だって偶然帰りに会っただけなのに。たったそれだけで……っ、なんでこんなことになっちゃうの」
 後ろめたいことなんて、なにもしていない。そう思っていても、責められ続けたことによって心のバランスが崩れてしまう。知夏ちゃんの傷ついた心は、とっくに限界がきていたんだ。

「ご、ごめ……こんなこと言われても困るよね。ちょっと弱ってただけだから、大丈夫。泣いたらすっきりしたし」
 から笑いをしながら、私から離れようとする知夏ちゃんの手を握りしめる。

「今度一緒にお昼食べよう!」
「え?」
 突拍子もない私の提案に、知夏ちゃんも藤田くんもきょとんとしている。もうちょっと知夏ちゃんが落ち着いてから提案するべきだったかもしれない。
 あのままだと壁を作られてしまいそうで、つい思ったことを口にしてしまった。

「あ、えっと、時々でいいから一緒にお昼過ごしたいなって!」
「……楓ちゃんは優しいね。だけど、私といるところ見られたら嫌な思いするよ」
 優しい。その言葉が棘のように胸に突き刺さった。

「私、優しくなんてないよ」
 今まで私は周りでなにかが起こっていても、目を逸らしていた。揉め事を傍観して、安全な場所でいい人を演じる。
 それが私にとっての最善だと思っていたのだ。でももしも今傍観者のまま、知夏ちゃんと距離を置いてしまったら、きっと後悔する。自分がどうしたいのか。臆病で踏み出せなかっただけで、私の中でその答えはもう出ている。

「知夏ちゃんと仲良くなりたいし、周りの目より自分の気持ちを優先したいって思うんだ。だからこれは私のわがまま」
 誰かにとって知夏ちゃんが嫌な人だったとしても、私にとっては違う。噂に惑わされずに、関わる人は自分で決めたい。
 私が知夏ちゃんと仲良くしていたら、美来になにか言われるかもしれない。でも交友関係はひとつである必要はない。それぞれとの関係を大切にすればいい。

「……ありがとう」
 知夏ちゃんは涙で濡れた頬を緩めた。
 私や藤田くんが学校で知夏ちゃんと話すようになっても、噂がなかったことになるわけでも、知夏ちゃんへの嫌がらせが消えるわけでもない。
 でも、ほんの少しでも知夏ちゃんにとって安らげる場所があってほしい。

 すっかり話し込んでしまい、あっというまに十一時を回っていた。
 毎週一日くらい一緒にご飯を食べようと話をして、気兼ねなく過ごせる場所で食べたいねと、三人で場所を提案し合いながら公園を出る。

「あ、パソコン室の近くの廊下がいいかも! あそこって広いし授業ないとき生徒全く来ないんだよね〜」
 先ほど泣いたせいか知夏ちゃんは鼻声だ。けれど空元気な感じではなく、いつもよりもリラックスして話しているように見える。視線を下げて地面を眺めると、あることが思い浮かんだ。

「藤田くん、星の道を通って行こう!」
 ここからなら数分で着くので、そこまで手間にはならないはずだ。

「帰りの方向だしいいんじゃね」
「星の道?」
 知夏ちゃんが首を傾げる。藤田くんと私は顔を見合わせて、にっと笑う。知夏ちゃんもあの場所を気に入ってくれる気がした。十字路へ案内すると、知夏ちゃんは感嘆の声を上げる。

「わぁ、キラキラしてる! こんな道あったんだ!」
「星みたいだなって思って、星の道って呼んでいるんだ」
「いいね! 私もこの道好き。なんでキラキラってしてるんだろう。不思議だね〜」
 アスファルトを観察している知夏ちゃんに、藤田くんが「ガラスが混じっている」と説明する。ヘッドライトの光によってガラスが反射して、車線や横断歩道などの存在が目立つように舗装されているそうだ。

「すごいね。ガラスって割れていても使い道があるんだ」
 モノクロの視界でも光っているのは見えるけれど、いつか色が戻ったらこの道を改めて見たい。星の道は色のある世界ではどう見えるのだろう。
 地面を眺めていた知夏ちゃんが顔を上げて、なにかを閃いたように目を輝かせる。

「よし、じゃああの電柱まで競争!」
「競争?」
 知夏ちゃんの提案に、私と藤田くんが同時に声を上げる。
「負けたら、今度みんなのジュース奢るってことで〜!」
「私負けそう……」
 藤田くんも知夏ちゃんも、私よりも運動神経が良さそうだ。

「いや、笹原は足速い。体育祭のとき、リレーの選手だった」
「え、なんでそれ知ってるの! それにあれは色々あって……元々穴埋めの補欠だっただけだから!」
 百メートルのタイムだって特別速いわけじゃない。偶然補欠になった私が代打で出場しただけだ。

「いいからやるよ〜! 電柱に最初に触れた人が勝ちね!」
 有無を言わせぬ知夏ちゃんの「よーい、ドン!」という掛け声で、私は鞄を抱えながら足を踏み出した。高校生三人がこんな時間に外を走っているなんて、変な光景だ。だけど、夜空のようなアスファルトに瞬く星屑は、私たちが進むべき道を照らしてくれているみたいだ。

「藤田ってさー、楓ちゃんに優しいよねぇー!」
「は?」
「え?」
 明るい声を響かせる知夏ちゃんに、私と藤田くんの動きが鈍くなる。

「隙アリ!」
 どうやら作戦だったようで、一番前を走っていた藤田くんを知夏ちゃんが追い抜かしていく。
「お前、それずるいだろ!」
「心理戦でーす!」
 知夏ちゃんと藤田くんの背中が視界に映る。私はビリだろうなぁと、まだ勝敗が決まらないうちに予想がついた。でも負けが確定していても、ただ走るだけのこの時間が楽しくてたまらない。

「いっちばーん!」
 電柱の前に最初に立ったのは知夏ちゃんだった。次に藤田くん、そして最後に私。乱れた呼吸を整えながら、あることを思いだす。そして電柱に手を伸ばした。

「電柱に最初に触れた人が勝ち、だったよね?」
「あ!」
 すぐに知夏ちゃんと藤田くんが電柱に触れたけれど、同時だった。

「私の方が先だった!」
「いや、俺だろ。自分で言い出したルール覚えてないとかありえないよな」
「藤田だって忘れてたじゃん!」
 子どもみたいな言い合いをしているふたりを眺めながら、私はおかしくって噴き出してしまう。

「私がビリだったのに、一番になっちゃったね」
 釣られるように藤田くんと知夏ちゃんも笑い出す。

 誰かにとってはくだらないこの時間が、私の中ではかけがえのないもので、この日のことを忘れたくない。そう強く感じた夜だった。





「え……お昼、別で食べるの?」
 美来の声が沈み、表情に陰が落ちる。

「毎日じゃなくて、美来が志保ちゃんと食べるときに私抜けてもいいかな……?」
 志保ちゃんを交えて三人でお昼を食べるときが度々あるので、そういう日に私は輪から抜けて知夏ちゃんと藤田くんと一緒にお昼を食べるつもりだった。

「志保が混ざるの嫌だった?」
「ううん。そういうのじゃないよ。ただ一緒に食べたい人たちがいるんだ」
「そっか……わかった」
 詳しく聞かれるかと思ったけれど、美来はそれ以上聞いてこなかった。他の人たちとはほとんど交流がないはずの私が、別で食べると言い出したことが意外だったのか呆然としている。
 どう思われたのか、いなくなった後にどんなことを言われるのか。考えると怖い。だけど、嫌われたくないからとひとつの居場所にしがみつくのではなくて、美来との関係も知夏ちゃんたちとの関係も大事にできるようにしていきたい。

 昼休み、志保ちゃんの元へ行く美来と別れる。私はお弁当を持って一階まで降りた。渡り廊下を進み、東館と呼ばれている増築された校舎に足を踏み入れる。授業以外でここの建物に訪れる生徒は少ないため、ひと気がない。
 パソコン室の近くまで行くと、階段付近の開けた場所に知夏ちゃんが座っていた。

「お待たせ、知夏ちゃん」
 ふたりで床に座り、他愛のない会話をしていると、少しして藤田くんがやってきた。どうやら購買までパンを買いに行っていたようで、両手にパンを四つ抱えている。藤田くんの食べる量に驚愕した。私だったらふたつでお腹いっぱいになる。

「そんなに食べれるの?」
「余裕。てか、岡辺それだけかよ」
 一方知夏ちゃんは小さなおにぎりひとつだけで、かなりの少食のようだった。

「お昼ってあんまりお腹空かないんだよねぇ。食べすぎると気持ち悪くなっちゃうときがあって」
 あっけらかんとした口調で話しているけれど、その原因はおそらく学校での人間関係が原因なのではないかと思う。気を張り詰めて過ごしているため、食事があまり喉を通らないのかもしれない。
 黙り込んだ私と藤田くんがなにを考えているのか察したらしく、知夏ちゃんが眉を下げて微笑む。

「でも今日は久しぶりにお昼休みが楽しいよ」
 鼻の奥がつんとして、目が潤んだ。心の支えというほど大きくはなくても、このひとときが知夏ちゃんの中で小さな希望になっているのなら、お昼ご飯を食べようと提案してみてよかった。

「そういえばさ、さっき先生に呼び出されたんだよね」
 知夏ちゃんは、複雑そうな笑みを浮かべながら言葉を続ける。

「体育でボール投げられたり、足引っ掛けられたりしてる私を見て、いじめのこと勘づいたみたい」
「教師が目撃してんだから言い逃れはできねぇんじゃねぇの」
「……そうだね。多分注意されてもあの人たちは変わらないと思うけどさ」
 藤田くんは良い方向に捉えているようだけれど、知夏ちゃんはどこか浮かない表情だ。できれば、いじめがおさまってほしい。でも相手がどう出るかわからない。

 誰かの悪意を止めるというのは、簡単ではないのだ。
 ご飯を食べ終わり、三人で東館を出た。あと十分くらいで昼休みが終わる。知夏ちゃんの表情は先ほどよりも強張っていて、教室に戻りたくないようだった。

 階段を上り始めてから、私たちの口数は減っていく。時折物珍しそうな視線が向けられて、藤田くんや知夏ちゃんに注目しているのがわかる。

 一年生の教室がある三階に着いて、左へ曲がった。教室の位置的に、一番近いのは知夏ちゃんのクラスだ。
 何事もなく無事に終えると思ったときだった。前方に女子四人組が立っていて、こちらを見ている。敵視というよりも戸惑いを含んでいるような眼差しで、コソコソとなにかを話しているようだった。無遠慮で嫌な視線だ。
「俯くなよ」
 知夏ちゃんの右側に立った藤田くんが、私たちにだけ聞こえるほどの声量で言った。その一言は、私の背筋までピンと伸ばす。
 そうだ。なにも悪いことをしていないのだから、俯く必要なんてない。私は知夏ちゃんの右側に立つ。

「大丈夫だよ、知夏ちゃん。なにかあったら、私駆けつける!」
 自分でもこんな言葉が出てくるとは思わなかった。目立つのは苦手で、陰口を言われるのは嫌だというのは変わらない。
 けれど苦しめられている知夏ちゃんを守りたいという気持ちが強い。大した力なんてないけれど、それでも傍にいることはできる。

「……ひとりぼっちじゃないって心強いね」
 泣くのを堪えるような震えた声。ずっと知夏ちゃんはひとりぼっちで戦ってきた。やってないことを証明するのは難しい。噂は勝手にひとり歩きをして、尾鰭がついていく。
 誤解している結愛ちゃんたちだけではなく、噂を聞いただけの無関係な人たちまで知夏ちゃんに勝手なイメージを貼り付ける。だけど、彼らと私も同じだった。あの人はこういう人だと決めつけて接していたのだ。

 私自身、他人に貼られたイメージで苦しさを抱えていたのに。
 真面目。周りと上手くやれる。しっかりしてる。八方美人。誰かの中での私は、そういう人で、それが窮屈に感じることがあった。私よりも私を知っているようにイメージが作られていき、本当の自分がよくわからなくなっていく。

 ——笹原の気持ちを大事にした方がいい。
 藤田くんがくれた言葉が頭に過ぎる。私はどうしたいのか。今まで何度も考え続けてきたけれど、今は自分の気持ちの形が見えてきていた。
 周りの目やイメージよりも、もっと大事にしたいものがある。私は自分を守り続けてばかりじゃなくて、大切な友達を守りたい。
 集まる視線から逃れるのは無理だけど、だけど怯まないように顔を上げて歩いた。

「ありがとう、ふたりとも」
 知夏ちゃんのクラスの前までたどり着くと、声はすっかり硬くなっていた。これからまた知夏ちゃんは味方のいない教室で過ごさなければならない。
 教室の中へ入っていき、知夏ちゃんの背中が遠ざかっていく。
 バイト初日に、なにかあったらいつでも相談をしてねと声をかけてくれた知夏ちゃんの笑顔や、困ったときに素早くフォローしてくれたこと、辛いと言いながら泣いていた姿が脳裏に浮かぶ。

 ほんの些細なことかもしれないけれど、それでも——

「知夏ちゃん、またね!」
 私は味方だよって、伝えたい。振り返った知夏ちゃんは、今にも泣きだしそうな表情のまま唇で弧を描く。

「うん! またね。楓ちゃん、藤田!」
 教室の真ん中で、知夏ちゃんがバイト先みたいに大きくて明るい声を出す。たくさんの視線を浴びながら、私たちは手を振り合った。

「俺と教室戻って大丈夫なわけ?」
 知夏ちゃんと別れて、私と藤田くんはふたりで廊下を歩いていく。
 私たちのクラスはここから少し離れている。今から別々で歩けば同じクラスの人たちからは好奇の目で見られない。そうしたいのなら今のうちだという藤田くんなりの優しさだ。私は「大丈夫」と答える。

「さっきので、ちょっとだけ吹っ切れちゃった」
「あんな大きな声出すのは意外だった。いや、笹原って案外大きな声出すよな。バイト初日とか、帰り道でびびったし」
「あれは力が入り過ぎちゃっただけだよ!」
 揶揄うように言われて、慌てて否定する。普段は特に声は大きくないけれど、緊張したり、力みすぎるとつい声量が上がってしまう。

「笹原も悪い噂流されるかもしれねぇぞ」
「それは嫌だなぁ」
「なら……」
「でもそれを気にするせいで、藤田くんや知夏ちゃんと一緒にいられないなら、そっちの方が私は嫌だなって」
「笹原がそう思うなら別にいいけど」
 素っ気なく言いながらも、表情は柔らかい。藤田くんは歩調を合わせてくれるし、話も真剣に聞いてくれる。ぶっきらぼうだけど優しくて、困っていると手を差し伸べてくれる人だ。噂なんて当てにならないなと改めて思う。

「今日のお昼、楽しかった?」
「久しぶりに誰かと昼飯食ったし、つまらなくはなかった」
 あと素直じゃないも追加だ。クスクスと笑ってしまうと、怪訝そうな顔をされる。

「なんだよ」
「藤田くんっておもしろいなって思って」
「そんなこと初めて言われたけど」
 歩いていると、無数の視線を感じる。だけど、それでも今は不思議と怖くはなくなっていた。私は自分の意思で、彼の隣にいる。

 学校という狭い世界の中で、私たちは自分の色(こせい)を隠したり、誰かの色に寄せたり、自己主張をする。人とうまくやるには多少の本音と我慢が必要だけれど、自分を飲み込みすぎていたら、やがてエラーが起こる。灰色は私自身のSOSだったのかもしれない。

 教室に戻ると、藤田くんと私が一緒に入ってきたことに特に驚いている人はいなかった。おそらく偶然同時に教室に入ってきたくらいにしか思われていないようだ。

「あ、楓〜。おかえり〜」
 私に気づいた美来が軽く手を振ってくる。

「ただいま!」
 お弁当を机の上に置いてから、美来の方へ歩み寄ると何故かほっとしたように私を見上げてきた。

「どうしたの?」
「楓がお昼別々なの初めてだったから……なにしちゃったのかなって思って」
 歯切れ悪く美来が答える。私が突然他の人とご飯を食べに行ったことに困惑をしているようだった。

「バイト先が一緒の子たちがいて、お昼時々食べようってなったんだ」
「それって藤田くん?」
「藤田くんと、商業科の岡辺知夏ちゃん」
「え、岡辺さん?」
 以前だったら、答えることに躊躇っていた。けれど隠す必要なんてない。

「うん。バイト先が同じで仲良いんだ」
 私たちの関係を意外そうにしながらも、美来は安心したように口元を緩める。
「そっか、そうだったんだ」
 めぐみのこともあって、揉め事が起こるのを不安がっていたみたいだ。
 顔色をうかがわれる側の人間だと決めつけていたけれど、美来だって誰かの顔色をうかがうこともある。強さの裏側に脆さも抱えていて、私と同じで嫌われたくないという思いが美来の中にもあるのだ。
 左腕につけているお揃いのバングルを指先でなぞる。これは自分を縛りつけるもの。いつの間にか、そう認識してしまっていた。

 けれど、美来が好意からくれた思い出の品のひとつであり、拘束力なんてないのだ。ひとつの居場所の証であって、留まらなければいけない鎖ではない。
 私は自分が思っているよりも、きっと自由だ。


***


 大きなスケジュール変更もなく、展示の準備は順調に進んでいる。板にペンキを塗る作業も一枚は無事に終わり、今日は残りのもう一枚に塗っていく予定だ。
 洗って乾かしていたハケや水を入れたバケツ、新聞紙などを抱えて歩いていると、隣にやってきた藤田くんがバケツを持ってくれた。

「貸して」
「ありがとう」
「作業順調?」
「うん。このままいけば間に合いそうだよ。あ、それとアンケート集まったから私たちも来週当日のタイムスケジュール組もう」
 何人ずつで組んでいくかなどをふたりで話していると、あっというまにピロティまで到着する。まだみんな来ていないようだった。

「運んでくれて、ありがとう。そこに置いておいてもらって大丈夫だよ」
 床にペンキが垂れないように新聞紙敷いていると、藤田くんもそれを手伝ってくれる。

「藤田くんも色、塗らない?」
「……俺いても邪魔じゃね?」
 私が板に手をかけると、藤田くんが一緒に持ち上げて新聞紙の上に置いてくれる。

「そんなことないよ。みんなでやった方が早いし」
 端っこに並べていた使いかけのペンキを板の前まで持ってきて、ハケに色をつける。

「ペンキで塗るの初めてだったんだけど、結構楽しいよ」
 たっぷりと色を含んだハケからポタリとペンキが垂れる。ぽたぽたと雨の雫のような染みが板に広がった。

「笹原、それ」
「え?」
「青じゃなくて赤のペンキ」
 ……赤?
 血の気が引いていく。慌ててハケをペンキの蓋の上に置いて、余っている新聞紙で板から色を吸い取ろうとするけれど、一度ついた色は消えない。

「っ、どうしよう、私……」
 間違えて他のクラスのペンキを使ってしまった。もっと気をつけてペンキに書いてある色の名前を確認するべきだったのに。なんとかしなくちゃ。でもどうやって?

「なんで赤塗ってるの⁉︎」
 叫ぶような声が聞こえて、びくりと肩を震わせる。
「どうしたの?」
「え、なにこれ……」
 めぐみやクラスの子たちが私の周りに集まってきた。板についている色を見て戸惑っている声が聞こえてくる。
 くしゃくしゃになった新聞紙を持っている私に視線が集まり、頭が真っ白になっていく。みんなに説明をしなくちゃいけないのに、言葉が出てこない。

「俺が間違えた」
 私を庇うように藤田くんが声を上げた。違う。藤田くんじゃない。私がしてしまったことなのに。

「ちが……」
「ごめん」
 みんなの非難するような視線が私から藤田くんへ向けられていく。このままじゃ藤田くんの責任になってしまう。

「……テーマ、海なのに」
「赤塗るとか、ありえなくない?」
 どくりと心臓が大きく跳ねる。私のせいだ。
 色がわからない私のために、藤田くんは名乗り出てくれた。このままやり過ごしたら、私のミスはみんなに知られない。誰からも責められることもない。だけど藤田くんの影に隠れていたら、こんな私は自分を許せなくなる。藤田くんの優しさに甘えちゃダメだ。

「私……っ」
 振り返った藤田くんがやめろというように眉を寄せた。

「赤を塗ったの私なの!」
 新聞紙を握り締めながら、声を上げる。

「間違えて赤をハケにつけちゃって、藤田くんがそれに気づいて止めようとしてくれたんだけど、ペンキが垂れちゃって……」
 理解できないといった様子のみんなの瞳。それでも自分の言葉できちんと説明をしないと。

「本当にごめんなさい!」
 静まり返り、痛いほど心音が加速していく。
 なにか言わなくちゃ。このままじゃダメだ。せっかくみんなで頑張ってきたのに。

「……っ」
「一旦落ち着いて。どうすればいいか考えよう」
 めぐみは冷静に言いつつも、気遣うように私の肩に手を乗せる。溢れ出てくる涙を服の袖で拭いながら私は頷いた。こんなときだからこそ、しっかりしなくちゃ。色が見えないからなんて言い訳にならない。確認を怠った私の責任だ。

「これって上から塗ったら一部だけ色変わっちゃったりするのかな」
 ひとりの子が漏らした疑問に、みんな黙り込んでしまう。彼女の言う通り、安易に重ね塗りしてしまったら混ざるのだろうか。

「白く塗れば」
 私たちの沈黙を裂いたのは、藤田くんの声だった。

「白いペンキ買うくらいの予算まだ残ってねぇの?」
 めぐみはカバンからノートを取り出して、ページを捲っていく。

「結構使っちゃったから、買えるか微妙」
 私が白いペンキ代を負担するのが一番いい方法かもしれない。だけど注文して届くまでの期間は作業ができない。それか近場でないか検索して探しにいくしかない。

「ペンキって先輩たちがまとめて購入してくれたんだよね? どこで買ったのか聞いてみる? もしかしたら余りとかもあるかも」
「でも先輩って三年のでしょ?」
 話したことないしと躊躇っている子たちの会話を聞きながら、あることを思いついた。

「美来に協力してもらう!」
 なんで美来の名前が出てくるのかと戸惑っている人が多い中、めぐみは私の考えがわかったようだった。

「確かに適任。三年に仲の良い人いるし」
 まだこの時間帯なら学校の近くにいるかもしれない。スマホを取り出して、美来に電話をかける。五コールほど鳴ると、『楓? どうしたの』と声がした。
「美来にお願いがあって……」
 私は展示の板に塗るペンキの色を間違えたことや、上から白いペンキを塗りたいことなどを説明していく。

「先輩たちがまとめてペンキを買ってくれたから、白のペンキがあったら少し分けてくれないかお願いしたくて……美来、三年の先輩の連絡先知ってたから、できれば聞いてみてくれないかなって」
 相槌を打っていた美来の声が止まる。こんなときに頼られて嫌な気持ちになっているのかもしれない。美来に聞いてと頼むより、連絡先を教えてと言った方がいいのだろうか。でもそれはそれで想いを寄せている相手なので、複雑な思いをさせてしまうはずだ。

『えーっと、つまり私から先輩に白いペンキあったら分けてほしいって頼めばいい?』
「……お願いできる?」
『おっけー! ちょっと今から聞いてみる。あとでまた連絡するね!』
 協力をしてくれたことに、再び目が潤んでいく。俯いたら涙がこぼれ落ちそうだった。まだペンキを貰えるかもわからないのだから、泣いている場合ではない。
 白いペンキを貰えた場合、私が塗ってしまった赤色が乾いていないと今日塗ることができない。なにか乾かす方法はないのだろか。下敷きで仰いでも限界がある。
 他にないかと考えを巡らせると、ある物が頭に浮かんだ。

「私、保健室の先生にドライヤーないか聞きに行ってくる!」
 居ても立っても居られず、動き出そうとする私の腕を藤田くんが掴んだ。

「落ち着けって。そもそも保健室にドライヤーなんてあるのかよ」
「……ないかな?」
 ひとりの子が「水泳部!」と声を上げた。

「部活が終わったらドライヤー使ってるって言ってたよ! 今日も部活あるはず」
「私、借りてくる!」
 じっとしていられず、動き出そうとする私を藤田くんが止める。

「まだ白いペンキ貰えるかわからねぇだろ」
 藤田くんの言いたいことはわかる。だけど貰えた場合のことを考えると、一秒でも早く乾かした方がいい。

「事前に準備しておきたくて!」
「水泳部に知り合いいんの?」
「……いない」
 急に知らない人がドライヤーを貸してと言いに行くのは、水泳部の人たちは躊躇うかもしれない。

「中学のときの友達、水泳部にいるよ。借りに行ってこようか?」
 めぐみが名乗り出てくれた。けれど、これは私に責任があることだ。めぐみだけに行かせるわけにはいかない。

「一緒に来てもらってもいい?」
「わかった。じゃあちょっと行ってくるね」
 他の子たちに断りを入れて、私とめぐみはピロティを出た。

 校舎の西側にある四角い建物が温水プールになっていて、水泳部の人たちがいる。中に入ると準備運動をしていた。
 めぐみの知り合いの子に声をかけて、事情を話す。部の物らしく、先輩や顧問の先生に確認をしてくれることになった。
 私とめぐみは部活の邪魔にならないように女子更衣室のベンチに座って待つ。

「一緒に来てくれてありがとう」
「……うん」
 こうしてめぐみがいてくれるだけで心強い。それに焦って取り乱していた私を落ち着かせようとしてくれた。

「それとスケジュールの件も手伝ってくれたり、いろいろ本当にありがとう。助けてもらってばっかりなのに、こんな迷惑かけちゃってごめんね」
 向き合わないといけないと思いながら後回しにして、私はめぐみに伝えられていなかったことがたくさんある。
「私……めぐみと話したいって思ってたんだ」
 あの夏の日、突き放されたように感じて、めぐみを避けるようになってしまった。だけど私たちはお互いにまだ言葉にできていない思いがたくさんある。

「自分の気持ち言うのが苦手で、流されて楽をしてたこともあったんだ。でも……めぐみのことも美来のことも大事だったの」
 好きだからこそ嫌われたくなくて、私はふたりの機嫌を気にしていた。

「不満がまったくなかったわけでもないけど、嫌々一緒にいたわけじゃなかったんだ。それだけは知ってほしかった」
 私がもっと本音を伝えることができていたら、壊れずに済んだのかもしれないとか、ふたりの間を取り持てていたらとか考えてしまう。だけどもう一度戻っても、正解なんてわからない。それに後悔をした今だからこそ、自分の気持ちを伝える大切さに気づけたのだと思う。

「……私の方こそ、ひどいこと言ってごめん」
 めぐみの声が微かに震えていた。泣きだしそうな眼差しで私を見つめている。

「私ずっと、楓に謝りたいって思ってたのに、なかなか言えなくって。……勇気がでなかった」
 予想外の言葉に呆然としていると、めぐみが諦めたように目を伏せる。

「ごめん、楓。怒ってるよね」
「……どうして?」
 文化祭の件で何度かやりとりをしたけれど、私はめぐみに対して苛立ちをむけたことはなかった。むしろめぐみが私を嫌っていると思っていたのに。

「八つ当たりでキツいことたくさん言ったし……。いつも楓は不満があっても我慢するでしょ。だから内心、私に呆れてるんじゃないかって思うと怖かった」
 人と上手くやるには表に出さない方がいい感情もある。けれど私の我慢は、めぐみにとって見えない壁のように感じていたんだ。


「ごめん……めぐみ」
 ——美来の顔色を気にしながら、私に話しかけるのはなんで?
 八つ当たりと言っていたけれど、きっとそれだけじゃない。

「私の行動がめぐみを苦しめていたんだよね」
 人の顔色ばかりうかがっていた私は、悪者になりたくなかった。めぐみを仲間外れにするのも嫌で、だけど美来から嫌われるのも恐れていた。

「揉め事が起こるのが嫌だったんだ。平和でいたかった。そのためならちょっとの我慢くらい大丈夫って思い込んでたの」
 それが原因で、私は気づかないうちに心にストレスが蓄積されていった。

「私、自分のことが嫌いで、でもこんな自分を手放せなくて、変わることも怖くって……そんな私をめぐみに見透かされた気がしたんだ」
 変わる努力をしなかった。なにをするにも自信が持てないまま、その場しのぎの言葉を羅列して、無害な善人を演じていたのだ。自分で首を絞めているのに、指摘された途端、中身のない笹原楓という存在が恥ずかしくてたまらなくなった。

「楓は優しいから、みんなに合わせてくれてたんでしょ」
「違うよ。ただ臆病なだけで、本当はめぐみみたいになりたかったんだ」
「私みたいって……?」
「はっきりと言いたいことを口にできるところとか、自分を持っていて強いところに憧れてたの。でもなれないって諦めてた」
 曖昧なことばかり言っている私とは違って、自分があるめぐみを眩しい存在に思えていた。そして手に入れられないものから目を逸らすように、苦手なタイプだと身勝手なラベルを貼って避けてしまった。

「強くなんてないよ」
 めぐみは手をきつく握りしめると、今にも泣きそうな表情で笑う。

「強がってただけ。本当は……結構しんどかった」
 美来と仲違いをしてもめぐみは平然としているように見えていた。無理して合わない人といるよりも、ひとりの方が楽なのだろう。そう思っていたのだ。だけど平気なフリをしていただけだったんだ。

「居場所が少しずつなくなっていくのがわかって、一緒にいるのが辛くって……」
 目頭に溜まった透明な涙が、めぐみの頬をなぞるように伝っていく。

「楓も私と美来に気を遣って大変そうだったし、私なんていない方がみんないいんだろうなって」
 〝いない方がいい〟そんな言葉をめぐみが口にしたことに耳を疑う。

「学校行きたくなくて直前まで悩んだときもあったし、教室で泣きそうになったこともあって、気持ちの切り替えができたのは最近なんだ」
 親しかったはずなのに、私はなにもわかっていなかった。めぐみは強いからと決めつけて、表面上だけで判断していた。
 教室の中で、みんな平等に席を与えられているはずなのに、誰かとの関係が悪化しただけで、居場所が狭くなったように感じて心地が悪くなる。
 もしも自分がめぐみの立場だったとしたら、じわじわと酸素が減っていくように呼吸が苦しくなって、声を出すことすら躊躇っていく。

「だけど……ごめん。自分がしんどかったからって、酷いこと言って楓のこと傷つけていい理由にならないよね」
 私たちはお互いのことを見ようとせずに、自分の痛みばかりに気を取られていた。もっと早く気づけていたら。そしたら私たちはここまで傷つけ合うこともなかったのかもしれない。

「めぐみが辛いことに気づけなくて、ごめんね」
 私と同じで、めぐみも弱さを持っている。でもその形が違うだけ。美来だってそうだ。当たり前のことに気づくまでに遠回りをしてしまった。
 めぐみは首を横に振る。

「……私もごめん」
 赤色の中に、ほんの少しだけ橙色が混ざっていることに気づいた。
 めぐみは藤田くんと同じ赤色を纏っていても全く同じというわけではない。それぞれ自分の個性(いろ)がある。そしてそれは、関わる人や環境、自分自身がどう在りたいかによって変化していけるのかもしれない。

 水泳部の子から無事にドライヤーを借りることができた。赤いペンキがついてしまった板を乾かしていると、元気な声が廊下に響き渡る。

「先輩から白いペンキ貰ってきたよ〜! これ全部使っていいって!」
 美来はペンキの缶を抱えながら、小走りでこちらにやってきた。どうやら美来は先輩に連絡をした後、学校まで戻ってきて受け取りに行ってくれたらしい。

「本当にありがとう!」
 白いペンキを塗る作業が追加になってしまうのは申し訳ないけれど、なんとか乗り切れそうで緊張の糸が解けていく。
 板に白く下塗りをすることになり、早速みんな準備に取り掛かる。放課後にできる時間は限られているので、今日はあと一時間くらいしか残っていない。

「……美来と藤田くんも手伝ってくれる?」
 おずおずとふたりに声をかける。美来も藤田くんも、周りの子たちを気にしながらも頷いてくれた。
 赤の部分が乾いたことを確認してから、みんなでペンキを板に塗っていく。黙々と作業をしていて、普段の和気藹々とした空間とは別物になっていた。そんな中、沈黙を裂いたのは美来だった。めぐみの塗りを見て、笑いながら指摘する。

「めぐみ、ペンキ多すぎなんだって! よれてるじゃん!」
「少ない方が綺麗に塗れないし」
「いやいや、藤田くんの見てみなよ! めちゃくちゃ綺麗に塗ってんじゃん!」
「……どうやったらそんな風に塗れるの」
 意外とめぐみが不器用で、藤田くんの方が几帳面だ。美来と私が笑うと、他の子たちもつられて笑う。それから段々とみんな口数が増えていき、いつもの活気が戻っていった。

 無事に白いペンキを塗り終えて、私と美来とめぐみはみんなのハケを回収して水道に洗いに行った。冷たい水でハケを手で揉むように洗い、ペンキを落としていく。

「ちょ、めぐみ! ジャージに思いっきりついてんじゃん!」
「洗ったら落ちるでしょ」
「ペンキなんだから、落ちなくない?」
「え、うそ! 落ちないの?」
 ふたりのやりとりに私は笑ってしまう。特別可笑しいことを言っているわけではないけれど懐かしかった。

「なんかこういうの久しぶりだね」
 美来もめぐみも「そうだね」と言って笑う。
 三人で過ごしてきた日々が、今では遠く感じる。廊下から誰かの笑い声が聞こえて、あの頃の記憶が蘇る。
 高校に入学してから初めて食堂に行ったとき、楽しみにしていたけれど、思ったよりもメニューが少なくてガッカリしたこと。

 でも揚げたての唐揚げが美味しくて、みんなでしばらくハマっていた。
 体育祭では、当日に美来が先輩に彼女がいることを知って泣き腫らしていて、リレーの選手だったけれど出られるメンタルじゃなかったので、補欠だった私が代打で出場した。応援してくれているめぐみの大きな声が聞こえたとき、恥ずかしかったけれど嬉しかった。
 めぐみの誕生日には、カラオケに行って、サプライズでお祝いした。
 いきなりバースデーソングが流れたときのめぐみの茫然とした表情がおかしくって、私たちは笑って途中で歌えなくなった。

 ——楓は私たちと一緒にいて、本当に楽しい?
 あのときの返事を今ならできる。

「私、めぐみと美来といて楽しかった。仲良くなれてよかったって思ってる」
 いいことも、ちょっと苦しかったことも、全てひっくるめて私にとっての大事な思い出。
「私も楽しかったよ」
 めぐみが迷いのない声音で言い切ってくれたことに、私は目頭が熱くなる。美来はどこか寂しげに微笑みながら「私も」と言葉を続けた。

「てか、卒業するみたいな空気じゃん! まだ二年あるのに!」
 しんみりしすぎだと美来は笑うけれど、涙声になっている。この先のことははっきりとはわからない。けれど、仲直りをしてもまた三人で一緒にいるようになるわけではないと思う。それでも終わらせたくなかった。

「どうしてもふたりには、私の気持ちを伝えておきたかったんだ。ふたりとも、ありがとう」
 めぐみは泣くのを堪えるような表情で、私に笑いかける。
「楓の気持ち、聞けてよかった」
 すれ違ったりぶつかったり、綺麗に片付かない思いも私たちは抱えている。けれど、一度拗れたからといって投げ出さずに、繋がりの形が変わっていっても、ふたりとの縁を私はこれからも大事にしていきたい。
 ハケを洗い終わり、ピロティへ戻る途中、藤田くんの後ろ姿が見えた。カバンを持っていたので、先に帰るみたいだ。

「ごめん、先戻ってて!」
 私は走って追いかけていく。まだお礼を言えていない。あとで連絡もできるけど、でも今面と向かって伝えたい。階段を下っていく彼を見つけて、「藤田くん!」と呼びかける。

「塗るの手伝ってくれてありがとう!」
 立ち止まった藤田くんは、浮かない表情だった。無理矢理手伝わせてしまったせいだろうか。

「あの、」
「余計なこと言って悪かった」
「え……?」
「赤いペンキの件、俺がやったってことにしたら大丈夫だって思って勝手なことした」
 だけどあのとき、藤田くんがいてくれなかったら、私はひとりで混乱したままだった。そしてなにも言えず、余計に状況は悪くなっていた。

「藤田くんがいてくれてよかった。あのとき、庇ってくれてありがとう」
 不器用な彼の優しさのおかげで、私は自分のしてしまったことに向き合うことができた。すると、藤田くんはほんの少しだけ口元を緩める。

「ペンキ、案外楽しかった。じゃあな」
 ひらりと手を軽く振って階段を再び下っていく。その背中を追うように私は手すりを掴み、一歩踏み出した。

「藤田くん! またね!」
「だから、声でけぇって」
 そう言いながらも「またな」と藤田くんは返してくれた。


***

 赤色のペンキのアクシデントがあったものの、展示の準備はその後順調に進んだ。
 いよいよ文化祭の明日へと迫り、校内がより一層落ち着かない雰囲気になっている。

 いまだに準備に追われて忙しそうな人もいれば、どんな髪型にしようかとはしゃいでいる人たちもいて、お祭り前の高揚感が学校全体を覆っているようだった。

「うちのクラスは、受付とか当日の雑用係だから今日はすることなくってさ〜。あ、そうだ土曜日の昼どこで待ち合わせする?」
 おにぎりを食べながら、知夏ちゃんが声を弾ませながら話す。

「外から回りたいし、昇降口のところにしよっか」
「おっけー! 一緒に回るの楽しみだなぁ」
 知夏ちゃんは明るくなった。元々賑やかな性格だったけれど、学校ではどこか無理をしていた。でも今は笑顔も自然で、本当に文化祭を楽しみにしているのがわかる。

 体育の授業がきっかけで先生が気づいたことによって、知夏ちゃんをいじめていた子たちは呼び出されて叱られた。とはいっても、大人が介入したって綺麗に丸くおさまったわけではない。
 今でもすれ違うと陰口を言われたり、舌打ちをされるし、クラス内では話しかけてくれる人もいないそうだ。けれど、怪我をさせられるような極端な嫌がらせはなくなったようで、以前よりは過ごしやすいと言っていた。

「藤田も空けといてよ!」
 気怠げに「はいはい」と藤田くんが返す。なにか興味を引くものがあれば、楽しみにしてくれるだろうか。

「たこ焼きとかお好み焼きとか、あとスープとか当日売ってるんだって!」
「うん? まあ、文化祭だしな」
 特に食いついてくれることもなく、だからなにとでも言いたげな眼差しに、がっくりと肩を落とす。藤田くんを乗り気にさせるのは難しい。

「あとは?」
「え?」
「他に笹原の行きたい場所ねぇの?」
 藤田くんは甘いものよりもご飯系が好きかと思って提案したけれど、私が行きたい場所の話をしていると思われているみたいだ。

「うーんと、二時からやる演劇が気になってるかな……」
 演劇部の催しは毎年人気があり、今年は卒業生が脚本を書いた大正時代の物語だとクラスの子たちが話していた。衣装や小道具も細部までこだわっているらしく気になっている。

「じゃあ、それ行くか」
「いいの?」
「観たいんだろ」
 すんなりと承諾してくれて、口をぽかんと開けてしまう。藤田くんは演劇には興味がなさそうなので、嫌がるかと思った。私たちのやりとりを見ていた知夏ちゃんが、目を細めてにんまりと微笑む。

「藤田は楓ちゃんには優しいねぇ」
「お前はそうやってからかうから優しくしたくない」
「え〜、からかってないじゃん? 本当のこと言ってるだけだし」
「だから、そういうところだつってんだろ」
 藤田くんと知夏ちゃんの口喧嘩にも最近は慣れてきた。仲が良いなぁと表情を緩めると、言い合っていたふたりの視線が一気に私へ集まる。

「文化祭、藤田なんて置いてふたりで楽しも! 楓ちゃん!」
「は? 俺と演劇観に行く約束しただろ」
「え、ちょ、ちょっと落ち着いて!」
 どっちと行くんだと詰め寄られて困惑していると、しかめっ面だったふたりが私の顔を見て数秒硬直する。そしておかしそうに笑い出した。

「慌てすぎ」
「だ、だって!」
 笑っている知夏ちゃんと藤田くんの姿を見ていると、恥ずかしかった気持ちが吹き飛んで、私までつられてしまう。三人の笑い声が、ひと気のないパソコン室前の廊下に響く。
 この居場所を大事にしたい。失いたくない。だけど、守ろうとし過ぎて言葉を我慢することがないように、自分のことも大事にしたい。

 立ち上がったふたりが私に優しい眼差しを向ける。もうすぐ昼休みが終わる時間だ。行こうと声をかけられて、私も立ち上がった。三人での穏やかなひとときは、あっというまに過ぎてしまう。
 一学年の教室のある階につくと、忙しく作業をしている生徒たちの声が廊下に聞こえてくる。どのクラスも最終調整しているところみたいだ。

「楓ちゃんところの展示、海がテーマなんだっけ?」
「うん。もうほとんどできてきたよ! あとは細かい飾りつけかな。見てみる?」
「見たい!」
 知夏ちゃんを連れて、私と藤田くんのクラスがある方へ歩いていく。普段はこちら側にあまりこないので初めて見るのか、知夏ちゃんは他のクラスが作っている物を物珍しそうに眺めていた。

「あれだよ」
 後ろのドアから教室を覗き、私たちが制作している海をモチーフにしたフォトスポットを指差す。
「わあ、きれー!」
 感嘆の声を漏らした知夏ちゃんが、いいこと思いついたと手のひらを叩いた。

「当日さ、三人で写真撮ろうよ!」
「なんで俺らのクラスの展示でわざわざ撮るんだよ」
「いいじゃん、記念! あ、でも当日並んだりするのかな〜」
 そんな私たちの会話が聞こえたのか、めぐみが「撮ろうか?」と声をかけてきた。噂のことがあるからか、遠巻きに見ている人たちが多くいる。けれど、めぐみだけはそんなこと気にしていないようだった。

「まだ完成じゃないけど、写真映えはするでしょ。楓、スマホ貸して」
「え! い、今?」
 早くと、めぐみが手のひらを差し出してくる。
「ありがと〜! ほら、撮ってもらおう!」
 乗り気な知夏ちゃんと、諦めたように引っ張られていく藤田くん。私はめぐみにスマホを手渡し、展示の前に立つ。今は無彩色に見えるけれど、それでもきっといつかこの写真を見返したとき、取り巻く世界の鮮やかさを知れる。
 藤田くんと知夏ちゃん、そして私が並ぶと、教室にいる人たちの物珍しいものでも見るような視線が集まっている。

「撮るよー」
 スマホをめぐみが構える。その瞬間、ああもうそんなこと考えなくていいやとなにかが吹っ切れた。みんなにどう思われているのかは、わからない。だけど私は、自分の意思でここに立っているのだ。
 ——カシャ、と機械音が鳴る。数枚撮り終わると、めぐみは私に近づいてスマホを差し出した。

「ありがとう」
 あとで送るねと約束をして、知夏ちゃんが教室を去っていく。注目されることは緊張したけれど、でも撮ってもらえてよかった。大切な思い出がひとつ増えた。

「楓ちゃん!」
 クラスの子たちが近づいてきて、どういうこと⁉︎と聞いてくる。私たちが一緒にいるところを数名に目撃されてはいるものの、親しいということはまだ浸透していないようだった。

「楓ちゃんって、あのふたりと仲良いの?」
 矢継ぎ早に質問をされながらも、私は躊躇うことなく頷く。答えは決まっている。
「友達!」
 噂なんて関係ない。私にとってふたりは、これからも仲良くしていたい大事な人たち。その返答に嫌悪感を表すこともなく、むしろ印象がみんなの中で変わったようだった。

「藤田くんって写真とか撮ってくれるんだ? ちょっと意外」
「岡辺さんってあんな感じの人なんだ」
 簡単に噂は消えないし、悪いイメージもすぐには払拭できないだろうけれど、少しずつ変化していっている。人から聞いたことではなく、自分の目で見たものを信じてほしい。そんな考えが浮かんで、変わったなと自覚する。

 私はずっと、心のどこかで自分ではない誰かになりたかった。
 めぐみみたいに自分の意見をきちんと持っている人や、美来のように輪の中心にいるリーダー的な人。知夏ちゃんみたいに明るくて場を和ませてくれる人。

 そんな鮮やかな色を纏う人たちが羨ましかったのだ。でも変わることが怖くて、同調して、飲み込んで、愛想笑いを繰り返していた。そうして私の色は、他人の色と混ざって灰色に濁ってしまった。
 どうせあんな風にはなれないと諦めて、波風立てないようにと本音を隠す。だけど、私はなに色にだってなれる。誰かの目を気にせず、自分らしくいられる色をゆっくりと見つけていきたい。

 肩にかかった私の髪が左右に揺れた。そして宙を裂くような音と共に、風が教室に吹き荒れる。灰色の正方形の紙や薄手の布がはためき、白いビーズカーテンがじゃらじゃらと揺れ動いた。
 髪の毛で視界が遮られて、反射的に目を瞑った。めぐみの焦ったような声が聞こえてくる。

「窓、開けたら紙が飛んで行っちゃうよ! 早く閉めて!」
「ごめんごめん! 今閉める!」
 空いた左手で髪を押さえながら、おもむろに目を開ける。

「——っ!」
 視界に映った光景に、私は息をのんだ。

 ひらひらと舞っているオーロラの紙は、海に降る雪のようだ。雲のように流れている薄手の布は深い緑色をしていて、ペンキが塗られた板は、少しムラがあるけれど空よりももっと濃く、目が冴える青だった。
 飾られているビーズカーテンは乳白色で、真珠のような煌めきを放っている。和紙でできたクラゲは水彩絵の具で色をつけられていて、淡い水色や紫色のグラデーションになっていた。

 世界の色を取り戻して、涙が滲んでいく。
 こんなにも綺麗なものを、私たちは作っていたんだ。

「笹原? どうした?」
 私の異変に気づいた藤田くんが心配そうに声をかけてくれた。
 涙を拭おうとすると、自分の指先から桃色や緑色などの鮮やかな色が溢れていくのが見えて、動きを止める。けれどそれは一瞬のことで、自分の纏う色も周りの人たちが纏う色も見えなくなった。

「藤田くん。私……」
 目尻に溜まった雫がこぼれ落ちる。

「自分のことが前よりも好きになれそう」
 たくさんのことを気づかせてくれて、ありがとう。

 ——さよなら、私の灰色の世界。






 教室にひとりでいると、自然と周囲の会話が耳に入ってくる。
「ねえ、今度ここ行かない?」
「私、甘いのはパス」
「えぇ〜! ご飯系もあるから! お願い、めぐみ!」
中でも、菅野美来と瀬尾めぐみの声はよく通る。席がそこまで近くなくても内容がはっきりと聞こえてくるほどだ。

「楓は? 行くよね?」
「……うん! 行く」
 ワンテンポ遅く笹原楓が反応をしたのが微かに聞こえた。
 横目で見やると、控えめに微笑んでいる。なんで無理に笑ってんだろう。笹原が菅野たちと話しているのを見るたびに、そう思っていた。誰かに合わせて過ごすのは息苦しそうで、俺だったらひとりでいた方がずっといい。

 タバコを吸ったと濡れ衣を友人ふたりに着せられて以来、俺は誰かと行動するのをやめた。あいつらとはクラスはバラバラで、特別な接点があったわけでない。
 廊下で話しかけられてから、なんとなく三人で一緒にいるようになった。自分のクラスの和気藹々とした空気に馴染めないらしく、俺もそのうちのひとりだった。
 最初は上手くやっていた。だけど、あるとき男子トイレでタバコが見つかって、目撃証言から俺以外のふたりが呼び出された。以前からそいつらが吸っているのは見ていたので、とうとうバレたか程度にしか思っていたなかった。
 けれど翌日、何故か俺が呼び出された。

 まるで取り調べのように数名の教師に囲まれ、沈黙が数分続く。
 ビニール袋の音が聞こえ、視線を巡らせる。担任が袋に入った吸殻を机の上に置いた。

『これは藤田が吸ったものだよな』
 決めつけるように言われたことに内心苛立ちながら、『違う』と答える。けれど呆れたように、ため息を吐かれた。

『他の奴らは藤田のだって言っていたぞ』
 俺に絶対黙ってろと言われ、そのときに殴られた痣まで見せてきたらしい。もちろんそんな覚えもない。
愕然として言葉を失っていると、教師たちは俺が友人に裏切られたことにショックを受けたと思ったようだった。沈黙が肯定のようにとられてしまったのだ。カバンの中をひっくり返されて、タバコがないことを確認しても、俺の疑いは晴れなかった。周りが疑われて、家に置いてきたと考えたのかもしれない。

 その後、俺がタバコを吸ったと嘘ついた奴らは、へらへらと笑いながら謝罪をしてきた。

『適当に嘘ついたらマジであいつら信じちゃってさ』『藤田はタバコ持ってねぇし、疑われても証拠出てこないだろ?』
 そんな呑気なことを言い、俺が本気で疑われると思ってもいなかったようだった。

『俺ら運がよかったわ』
 悪びれもない物言いに、俺は胸ぐらに掴みかかる。

『ふざけんなよ』
 適当なこと言って、人に罪なすりつけて笑っている奴らが許せない。完全に頭に血がのぼっていた。それからは言い合いになり、向こうに殴られて俺が殴り返して。結果的にお互いに顔に怪我を負い、教師が止めに入るほどの事件になった。
 それも俺が先に殴ったということにされて、おまけに担任から言い渡されたのは、毎月の持ち物検査。こんなのもう俺だと断定されたようなものだ。それでもあいつらは名乗り出なかった。

 停学になり、次に学校へ行ったときには白い目で見られ、俺に声をかけてくるやつなんて誰もいなくなった。初めは居心地の悪さを感じていた。でも慣れてきたら、ひとりの方がずっと楽だ。周りに誰もいなければ、裏切られることもない。

 そう思っていたはずなのに。気がつくと笹原とバイトを通じて関わるようになっていた。俺とは全く違う性格で、考え方も似ていない。最初は苛立つこともあったものの、今はなんとなく居心地がいい。
 隣を歩く笹原をちらりと見る。前よりも打ち解けてきた気がする。バイトが一緒になった頃は敬語を使ったり、俺のことが苦手そうだった。でも今笹原から話しかけてくることも増えてきて、表情も硬くない。

「私、藤田くんみたくなりたい」
 笹原楓の突然の発言に、一瞬動揺した。

「なんだそれ。冷たい人間になりたいってこと?」
 高校で浮いていて、悪い噂がある俺みたいになりたいなんてどうかしている。それにたとえ噂がなかったとしても、俺は笹原に憧れられるような人間でもない。

「ううん。……自分を持ってる人間になりたいってこと」
 自分を持っているなんて綺麗な言葉に聞こえるけれど、俺は自分を曲げられなくて周りに合わせられないだけだ。

「見る目ねーな」
「……少し前まではそうだったかも」
 足を止めると笹原が俺の前に回り込み、笑いかけてきた。

「藤田くんは自分が思ってるより、冷たくないよ」
 なんで無理に笑ってんだと以前は呆れていた。けど、誰にでもできることじゃない。
 俺は笹原のようにはなれないし、周りと上手くやろうと努力もできない。もしも俺が人と上手くやれるやつだったら、濡れ衣を着せられたとき、もっとマシな対応がとれただろうか。

 俺は間違ったことはしていない。そう思っていたのに、人との関係に一生懸命悩んでいる笹原を見ると、別の考えが頭を過ぎるようになっていた。

「私ね、今思ったんだけど、藤田くんといるときの自分が結構好きかもしれない」
 笹原が無邪気に笑う。その姿を眺めながら、複雑な心境になる。好かれて純粋に嬉しいという感情と、なんで俺なんかと一緒にいてそう思うんだという疑問。

 ……俺なんか、って。いつから俺は自分のことを卑下して、嫌になっていたんだろう。
 高校でひとりになって、なにもかもが面倒で、こんな風になってしまった自分を心のどこかで悔いていたのかもしれない。
 でも今は自分の中で変化が生まれつつある気がした。

「俺も。教室の笹原より、今の笹原の方がいい」
 ——俺も、笹原といるときの自分が結構好き。

 笹原といると、些細な表情が気になって、どうしたら傷つけないかと考える。誰かを想いやれるようになった自分は嫌いじゃない。
 みんなになんて優しくなれないけど。でも笑っていてほしい人はいる。そういう感情が、人を大切にするってことなのかもしれない。


***


「ねえ、ここのイルミネーションめちゃくちゃ綺麗なんだって!」
 バイト先でユニフォームに着替え終わると、上機嫌な岡辺がスマホの画面を強引に見せてきた。

「早く持ち場行けよ」
「せっかく教えてあげたのに!」
「頼んでないけど」
 信じられないと言いたげな岡辺が眉根を寄せながら、もう一度俺に画面を見せてくる。

「イベント大事!」
「なんの話」
「だからもー! 来月クリスマスじゃん!」
 その話題を俺に振られても。どう反応をしたいいのかわからない。なんで俺にこれを見せてくるのか意図が理解できなかった。

「せっかく藤田たちのことを思って情報共有してあげたのに!」
 ——そういうことか。
 最近妙に岡辺が気を遣ってくる。ただし、笹原が関連しているときだけ。

「そんな気にしなくていいって」
「だって、藤田はわかりづらいんだよ」
 昼休みやバイト終わり、三人で過ごすことがあるので、俺と笹原を見ていると岡辺はもどかしくなることがあるのだろう。
 友達なのかよくわからない距離感。だけど一緒にいると、伝わってんじゃないか?と思うこともある。だから尚更、どう切り出すべきなのか迷い、同じ場所を行ったり来たりしている気分だった。

 それに笹原がなにを望んでいるのか、それが見えなくて臆病になる。間違ったことをしてしまえば、ぎこちなくなるはずだ。
 多分はじめて、誰かに嫌われたくない。距離を置かれたくないと思っている。

***

 結局切り出せず、数日が過ぎていった。今まで決断力はある方だったし、すぐに行動していたのに。今回ばかりはそれができない。いっそのこと、このままの距離感を保った方がいいのだろうか。
 コンビニで飲み物を選んでいると、笹原からメッセージが来た。先ほど送っておいた明日は荷物検査のため、昼飯は三人で食えないという内容への返事だった。数回やりとりをして、そろそろ会話が途切れる頃だろうと思い「バイトおつかれ」と送る。
笹原からの返信は予想していたものとは異なっていた。

『明後日、バイト終わったら話したいです』
 そのメッセージの真意を聞くために、電話をかける。

「話ってなに」
 自分の声が強張っているのを感じた。少しの期待となにかあったのかという不安。

『え、あの、その……』
 戸惑っているものの、落ち込んでいる様子ではない。電話越しに車の音が聞こえる。バイトが終わって三十分以上は経っているはず。

「てか、まだ外?」
『うん。星の道についたところ』
「は? ひとりで?」
『そうだよ』
 この時間にひとりで寄り道は危ないだろ。と言いたくなったものの、言葉を飲み込む。

「そっち行く」
『え?』
「そこで待ってて」
 電話を切り、笹原が好きそうなミルクティーとレモネードを購入した。急いで自転車を走らせる。ここからならあまり遠くない。七分。いや、五分で着く。ベダルを強く踏むと、冷たい夜風が頬を切る。自転車のライトが揺れて行く先を照らし、光を追いかけるようにタイヤが地面を滑っていく。
 このタイミングでの電話ってことは、バイト先でなにかがあったのだろうか。

 星の道にたどり着くと、人影が見えた。振り返った笹原の姿を見て、力が抜けていく。寒い中、自転車を漕いで息が切れるほど疲れていたはずなのに、妙な感覚だ。
 笹原の話はバイトのことではなく、想像もしていなかった内容だった。

「私って藤田くんにとってどういう存在……?」
 白い吐息が俺たちの間に浮かび上がって、溶けるように消えていく。けれど消えてもまたすぐに浮かび、呼吸が整わない。自分でも驚くほど、戸惑っていた。
 平然を装いながら、なるべく普段通りの話し方を意識して口を開く。

「どういうって?」
「その、よく一緒にいるようになったし、私は藤田くんと一緒にいるのが楽しくって、すごく大切で……でも藤田くんが本心でどう思っているのかわからないし……」
 そんなの俺が言いたい。笹原といるのが楽しくて居心地がよくて、でもどう思われているのかわからなくなる。好意を持たれているように感じることもあれば、ただの友達として見られている気がすることもある。
 だけど目の前の笹原が俺をどう思っているのか、さすがにもう伝わってくる。でもきっと、笹原が求めているのはちゃんとした形な気がした。


「もっとちゃんとした言葉にした方がいい?」
 寒さからか、それとも緊張からなのか頬を赤めた笹原が頷く。

「俺と——」
 誰かにこんなことを言うのは初めてで、少し声が震える。
 そして目を見開いた笹原は、目に涙を滲ませながら笑って答えた。





<さよなら、灰色の世界> 完
※書籍版の番外編は楓視点になります。

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