「約束……結んだ」
銘悠は自分の小指を出して、見つめた。あの時の温度が蘇る。手を握ってもらえた、あの暖かさを。
そしてそれは、最初に清蘭に手を取ってもらった時の温度だった。
「私を守るって……えっ、じゃあ、あの時の男の子って……?それに、あなたはまさか……」
銘悠は恐る恐る顔を上げる。目線を上げた先に映る清蘭の顔がニッと微笑む。
「ああ、私だ。私はお前の従兄弟、清蘭なのだよ」
そう言って、清蘭は銘悠を抱きしめた。ぎゅっと包まれた手に、安心する温もりを感じる。
やっぱり同じだ。暖かい。
銘悠は思い出す。あの時、自分を慰めてくれた男の子は父親の弟の子だった、と聞いた。同じ建物に住んでいるものの、滅多に会えない親族。
「ずっと会いたかった。銘悠、私がどれだけお前を探したことか」
耳元で囁かれた声が、僅かに震えていた。
「すまなかった。時間がかかってしまって。約束を果たすのが遅くなってしまって……!」
「な、何で謝るの……?私、忘れてたのに。私が、謝らなきゃ行けないのに……」
何故か、涙が出てきた。心の奥底がじんわりと熱を帯びてきて、穏やかな感情を体に巡らせる。
清蘭は、約束を覚えていた。なのに、私は忘れていた。あんな大切な記憶、何で今まで閉まっていたんだろう?
「お前に苦しい思いをさせてしまって、本当にすまなかった」
「そんな、そんなことない」
銘悠はそっと涙を拭って、笑顔を作った。くしゃくしゃだけど、本当に嬉しそうな微笑みを。
清蘭はそれを、泣きそうな、悔しそうな、様々な感情が入り混じった表情で見つめる。
「ちゃんと迎えにきてくれたじゃない。私を、覚えていてくれた。それだけで、嬉しい」
「そうか……。お前にそう言われることが、何よりの救いだ」
清蘭も笑った。お互いに、決して綺麗ではない、だが、この世で最も美しいであろう微笑みを見せた。
清蘭は銘悠の手を自分の唇に持っていき、そっと口付けをする。
「これからは、ずっと一緒に暮らそう。共に食事をし、共に出かけ、共に寝よう」
「うん……」
その時、ハッと銘悠が何かを思い出したかのような表情を浮かべた。そして、それは徐々に疑問と怯えに満ちていく。
「あ、あの、そのことで……もう一つ、訊いてもいい?」
「何だ?」
清蘭は彼女の表情にただならぬ雰囲気を感じ取ったか、不安げな声色になる。
銘悠は恐る恐る口を開いた。
「旧皇帝の一族を殺したって、本当……?」
銘悠の言葉に、清蘭は顔をしかめた。
「何故それを……?」
「あの、ね。街を歩いているときに、聞こえてきちゃったの」
ああ、そうだったのか。
清蘭は後悔した。彼女を歩きで連れて帰るのは間違いだったか。馬車か籠で連れかえればよかったか。
「それは……」
清蘭は口を開いたが、その後にどう説明しようか悩んで口をつぐんだ。それで、銘悠は察する。
「今、あなたは一緒に暮らそうって言った」
「ああ」
「あなたは、私が本当の家族から虐げられていたのを知っていた」
「ああ」
「じゃあ、私のために、家族を殺したの?」
「……」
「ねぇ、もしかして、他に後宮にいた妃や女房達も?」
「っ!?それ、までか……?」
銘悠は視線を床に落として、遠慮がちに言った。
「嫌に静かだと思ったの。後宮にきてから、誰にも会わないし、誰も見ないし。旧皇帝の家族の噂を聞いたから、もしかしたらって思って……」
再び潤う瞳で見つめられた清蘭は口を開きかけて、思いとどまったように黙り込む。
「ねぇ、どうなの?ねぇ!」
何も話さない清蘭に対して、銘悠は詰め寄った。彼は目を瞑って眉間に皺を寄せた上で、無言のまま首を振って、銘悠から離れた。そこには、悲しみと申し訳なさを滲ませた笑みがある。
銘悠の脳内では、一瞬にしてさまざまなことが起こった。
清蘭の言葉を聞いた途端に空白のように真っ白になり、かと思えば責めるような真っ黒が押し寄せてきた。そして、青や黄色が混ざり合う。いろんな感情が色となってせめぎ合い、結果生まれたのは悲痛な声だった。
「そ、そんな……私のために、人を……」
彼女は自身を抱いて震えた。額から冷たい汗が流れてくる。
家族が殺されて、悲しくはない。虐げられた記憶しかないのだもの、慈悲は湧いてこない。
だけど、同時に不思議と苦しくなった。朧げに覚えているあの人たちを許したわけじゃないのに、殺されたと聞くと震えが止まらない。
そこに、清蘭の声が滑り込んできた。
「何故、そんなに怯えている?」
「だ、だって、私のために……私がいるために、あの人たちは殺されて……」
答えながら、恐怖で仕方なかった。
この人は、どうしてこう平然として質問できるのだろう?
「お前はあいつらに酷いことをされたのだろう?」
「それは、そうだけど……。でも、殺すなんて……」
「殺さない方が良かったか?」
「もちろん!」
声を張り上げた銘悠は、バッと顔を上げて清蘭を強く見つめた。その瞬間、彼女の瞳は見開かれた。
清蘭は、穏やかに笑っていた。さっきとは違う、優しさのありふれた笑みだった。
「良かった、お前がそう言ってくれて」
「えっ……?」
「私はお前に、一つ嘘をついた」
「嘘?」
「ああ」
清蘭は頷くと、じっと目を瞑って、やがて決心したように意志の強さを瞳に表した。
「私は、誰も殺していない」
「え、それは、どういうこと……?」
「聞くより見る方がいいだろう」
驚くのも束の間。
彼の言葉を合図に、扉が叩かれた。
「皇帝様、入ってもよろしいでしょうか?」
「ああ、構わない」
「失礼します」
唐突に、扉から何人かの人が入ってきた。老若男女、全ての世代が集っている。
銘悠の瞳は見開かれる。彼らに共通してある特徴は、曇りのない銀髪。そう、清蘭と同じ、透き通る白銀の髪の毛だった。
「あ、あの人たちって……!?」
「ああ。お前の家族、旧皇帝の一族さ」
一体、どういうことだろう?
辻褄の合わない話についていけず、銘悠はただただ目を白黒させた。
でも。朧げに浮かび上がる記憶の中の家族は、こんな顔をしていた気がする……。そんな見覚えが、銘悠の中で芽生えていた。
「いやー、扉の前で待てってこういうことだったんですね。全く、もうちょっと詳しく説明してくれても良かったのに」
最後に、のんびりとした口調で入ってきたのは、清蘭と共に行動していた苑鎧だった。頭を掻きながら入ってくる彼は、ははっと軽く笑った。
銀髪の人間が集まる中、銘悠と苑鎧の黒髪だけが際立っている。
「な、なんであの人まで……?」
銘悠は目を丸くした。
清蘭と共に行動し、時によく喋っていた姿から推測すると、彼は信頼できる部下のような存在なのだろう。だから、ここにも?
「ああ、もしかして、僕まで来たことに驚いていますか?」
「えと……まぁ、はい……」
こんな時、何で答えればいいのか分からない、と銘悠は視線を泳がせた。何となく、正直に答えることに引け目を感じていたから。
だけど、苑鎧はそんなのを気にせず微笑みを保った。
「実は僕も、皇族の血筋なんですよ」
「えっ?」
銘悠が予想外の言葉に腑抜けた声を漏らしたのも束の間。
彼は自分の髪の毛をかき分け、黒髪に覆われたその下から露わになった別の色の髪を見せる。
「ーーっ!」
「ほら、この通り」
苑鎧の黒髪の下の一部、月明かりを線にしたような銀髪が現れた。
「一部分だけ、銀だ……」
「そうなんですよ。僕の髪は生まれつき、一部分だけが銀髪なんです。皇族の血がどうにかして現れようとした結果なのかもしれませんね。なので、普段は皇族の者とバレないように隠しています」
「……」
声が出なかった。全部が黒でも銀でもなく、中途半端な髪色。だったら自分の方がまだマシなんじゃないか、なんて銘悠は思ってしまう。
「彼は私の弟だよ」
「お、弟!?」
背後から銘悠の肩を叩いた清蘭が言った。苑鎧は嬉しそうに微笑む。
「ははっ、実はそうなんです。だから、僕も銘悠様の従兄弟に当たるんですね」
「従兄弟……」
「ま、そんなことは気にせず召し使いのように扱ってもらって構いませんよ」
何と声をかければ良いか分からない銘悠に、苑鎧は軽く笑い飛ばす。
何も考えていないわけではないと思うが、軽薄に見える行動は気遣いという行為を忘れさせ、それが彼女の不安を拭った。
「まぁ、だから、なんだ、その。ここにいるのはお前の家族ってわけだ」
清蘭が何処かぎこちなく言う。それは、銘悠の表情を窺ってのことだろう。
彼女はもう、何が何だかわからない、という感情を隠すことなく表に出していた。
「な、何故ここにいるの?それに、どうして殺したと嘘をついたの?」
疑問が込み上げてくる銘悠を、静かな声が制した。
「私から、説明しよう」
年老いた男性だった。その人が声を発した瞬間、辺りの空気がしんと静まった気がした。
銘悠は目を見張る。皺こそ深くなったが、その鋭い瞳、引き締まった口元、キリッとした眉は、朧げな記憶にある旧皇帝ーつまり父ーと全く同じだった。
「清蘭は元々、正式に皇帝の座を継ぐはずだったのだ。だが、その際には皇后が絶対に必要である。彼は後宮にいたどの妃も受け入れなかった」
「清蘭はお前でなければ受け入れないと言ったのだ」
「私、だけ……?」
「ああ」
清蘭は優しい微笑みを讃える。その眼差しは柔らかく、そして愛おしそうだった。
「約束を破りたくはなかったからな」
「そこまでして、覚えていてくれたんだ……」
銘悠の中で、熱い想いが込み上げてくる。
「そこで、私たちは名目上、彼に殺されることにした。そうすれば、役人たちもうるさく責め立てることはしないだろうと思ってな」
銘悠の父は、はぁと大きくため息をついた。
そして、「大変だった」と小声で呟く。息を吐くように言われたその言葉には、確かに多くの苦労が込められていた。
「みんなは、良かったの?私が戻ってきて」
堪らず、銘悠は尋ねた。どうしても知りたかった。そこまでして私を連れ戻した理由を、私を連れ戻すことに納得した理由を。
「そうね、正直なところで言うと、あまり良くは思わなかった」
腰近くまで伸びる小川のような銀髪に、雪のように白い肌。厳格な雰囲気を纏いつつ、麗しさを兼ね備えている女性が言った。
ああ、母だ、と銘悠は思う。あの頃と、年齢の重ね以外は何一つ変わらない。
「私たち、その話を聞いて最初は反対したの」
「一度追放した者を、再び家族として、しかも後宮に迎え入れるなんてとんでもないって思ったわ」
まだ若い女性が口々に言う。ああ、この人も見たことがある、と銘悠は気づく。虐げられた思い出しかないけど、宮廷にいたお姉様だ。
「でも、清蘭に説得されて考えを改めたの。髪の色だけで家族の縁を切ることはないんじゃないかって」
「えっ、説得……?」
「ええ。清蘭が必死になって私達に話してね。それで私達、今まであなたに酷いことをしてきたのを後悔した。あんなこと、するべきじゃないんだって」
(そんな、そこまでして……)
銘悠は清蘭を振り返った。変わらない優しげな表情が、かくんと頷く。
ああ、本当なんだって銘悠は胸が打たれる。同時に、心が暖かくなる。説得で、家族も考えを変えてくれたんだって。
「だから、許してもらおうとは思っていない。だけれども、銘悠が良ければ、また一緒に暮らしたいの」
「……」
視界が滲む。今までにないくらい、目頭が燃えるように熱くなる。
「一緒に住むか住まないかは、お前が決めていい」
清蘭が震える銘悠の肩に手を置いた。まるで、彼女の身にのしかかっている責任を拭いとるように。
「一緒に住むとお前が許せば、彼らはこの宮廷で過ごす。だが、お前が嫌ならば追放させることもできる」
好きな方を選べ、と耳打ちする。その響きは甘く滑らかで、だが何処かに苦味も含まれていた。
「どうだ?お前は、彼らを許すか?」
清蘭の問いかけに、銘悠は零れ落ちた涙を拭って、それから彼らをじっと見つめた。
家族は祈るように瞳を伏せる。彼らに選択肢はない。今までの罪が罰として返ってくるか、銘悠の許しに頭を下げるか、どちらかしか出来ないのだから。
沈黙か続く。この静けさを破れるのは、銘悠のみ。彼女のみ、この場において言葉を発することを許されている。
彼女は悩みの渦の真っ只中だった。一体自分は何をすべきなのだろうと、自身に問いてみては疑問が深まる。
彼らは、自分を虐げていた。随分と昔のことだが、その感触はいまだに鮮明に思い出せる。自分の心を壊した元凶、人生の歯車を狂わせた道具。
一緒に住むなんて、真っ平ごめんだ、と、怒りが湧き上がる。
(なのに、何で……?)
何故自分は、こんなにも暖かいのだろう。こんな家族とはいえない人たちに、胸がほっこりとしてくるのは。彼らを消してはいけないと思うのは。
きっとそれは、家族という暖かさを少しでも知っているからだ、と銘悠は考える。
家族という温もりを欲しているからだ、と銘悠は考える。
(結局私は、誰かに支えられないと生きていけないんだ……)
それは鎖のように重く、だが、当たり前のことだった。人間は、支え無しに生きることは出来ない。
それに、もしやり直せるなら。今度こそ、幸せを手に入れることができるなら。
そこには、家族という存在が必要不可欠。
そうか、そうなんだ。
思考を巡らせていく中で、銘悠の視界は次第にぼやけていく。そしていつしか、頰に熱いものが伝っていることに気づく。
もう決めた。いや、元から決まっていたんだ。私の下す決断は、一つしかない。
銘悠は息を吸った。ほんの動作でしかないその動きに、周りの人間は敏感に反応する。
「私は……、正直あなた達が憎いです。幼い私を虐げて、宮廷から追放した」
家族は深く頭を下げる。当然だ、と言わんばかりの反省が、そこには見られた。そして、諦めの色も。
「だけど」
銘悠は胸元の服をギュッと握った。彼女の声の続きに、家族は再び顔を上げる。
「私は……、家族という温かみが欲しくて……やり直せるなら、やり直したくて……」
だんだんと声が震える。目の前の家族や清蘭の姿が滲んでぼやける。
(だめ、こんなところで泣いちゃ……!)
自身が泣いてはいけない、そう、銘悠は自分に言い聞かせて奥歯を噛んだ。
「だからっ!」
一段と大きくなる彼女の声。銘悠は必死だった。自分の負の感情をぶつけつつ、そこにある望みを伝えるために。
「私もっ、一緒に暮らしたい!」
水に濡れた彼女の瞳は、輝いていた。それはまるで宝石で、それはまるで硝子だった。
「どんなことをされても、やっぱり家族は家族だから」
その言葉に、ここにいた者全員が目を見開いた。無論、誰も銘悠の口からそんな言葉が出てくるとは思わなかったから。
「……だ、そうだ」
清蘭が言う。
「銘悠、本当に一緒に住むことでいいんだな?」
「うん」
彼女は目元に浮かぶ雫を拭って首を縦に振った。彼女はボロボロと涙している。
「彼女が許したのならば、私はこれ以上お前らを咎めない」
清蘭は家族に向き合う。その表情から、先ほどの堅さは失せ、代わりに柔らかな微笑みがあった。
「お前らはここに住むことを許そう」
清蘭、銘悠、そして苑鎧以外の者が、一斉に息を呑む。やがて、俯いた目尻がゆらゆらと揺れ、同時に口元を綻ばせた。
「ありがとう……本当にありがとう……」
そして、全員が同時に言う。
「「おかえり」」
銘悠は頬を伝る涙を指でそっと拭って、それから心からの笑顔を浮かべた。
「ただいま」
その場の空気が温まる。花が咲き乱れたような美しい空間へと移り変わる。
清蘭が不意に手を広げた。銘悠は彼の胸に飛び込む。
「ありがとう、私を家族のもとに返してくれて」
「いや、私は何もしていない。導いたのは、お前自身の力だ」
「これからずっと一緒だね」
「ああ、何があっても、お前を離さない」
銘悠は涙の粒が光る瞳を上げて、清蘭を見上げた。同時に、清蘭もまた、彼女を見つめる。
まるで、そうなることが定められていたかのように、2人は顔を近づけていき、そっと口づけを交わした。
銘悠は自分の小指を出して、見つめた。あの時の温度が蘇る。手を握ってもらえた、あの暖かさを。
そしてそれは、最初に清蘭に手を取ってもらった時の温度だった。
「私を守るって……えっ、じゃあ、あの時の男の子って……?それに、あなたはまさか……」
銘悠は恐る恐る顔を上げる。目線を上げた先に映る清蘭の顔がニッと微笑む。
「ああ、私だ。私はお前の従兄弟、清蘭なのだよ」
そう言って、清蘭は銘悠を抱きしめた。ぎゅっと包まれた手に、安心する温もりを感じる。
やっぱり同じだ。暖かい。
銘悠は思い出す。あの時、自分を慰めてくれた男の子は父親の弟の子だった、と聞いた。同じ建物に住んでいるものの、滅多に会えない親族。
「ずっと会いたかった。銘悠、私がどれだけお前を探したことか」
耳元で囁かれた声が、僅かに震えていた。
「すまなかった。時間がかかってしまって。約束を果たすのが遅くなってしまって……!」
「な、何で謝るの……?私、忘れてたのに。私が、謝らなきゃ行けないのに……」
何故か、涙が出てきた。心の奥底がじんわりと熱を帯びてきて、穏やかな感情を体に巡らせる。
清蘭は、約束を覚えていた。なのに、私は忘れていた。あんな大切な記憶、何で今まで閉まっていたんだろう?
「お前に苦しい思いをさせてしまって、本当にすまなかった」
「そんな、そんなことない」
銘悠はそっと涙を拭って、笑顔を作った。くしゃくしゃだけど、本当に嬉しそうな微笑みを。
清蘭はそれを、泣きそうな、悔しそうな、様々な感情が入り混じった表情で見つめる。
「ちゃんと迎えにきてくれたじゃない。私を、覚えていてくれた。それだけで、嬉しい」
「そうか……。お前にそう言われることが、何よりの救いだ」
清蘭も笑った。お互いに、決して綺麗ではない、だが、この世で最も美しいであろう微笑みを見せた。
清蘭は銘悠の手を自分の唇に持っていき、そっと口付けをする。
「これからは、ずっと一緒に暮らそう。共に食事をし、共に出かけ、共に寝よう」
「うん……」
その時、ハッと銘悠が何かを思い出したかのような表情を浮かべた。そして、それは徐々に疑問と怯えに満ちていく。
「あ、あの、そのことで……もう一つ、訊いてもいい?」
「何だ?」
清蘭は彼女の表情にただならぬ雰囲気を感じ取ったか、不安げな声色になる。
銘悠は恐る恐る口を開いた。
「旧皇帝の一族を殺したって、本当……?」
銘悠の言葉に、清蘭は顔をしかめた。
「何故それを……?」
「あの、ね。街を歩いているときに、聞こえてきちゃったの」
ああ、そうだったのか。
清蘭は後悔した。彼女を歩きで連れて帰るのは間違いだったか。馬車か籠で連れかえればよかったか。
「それは……」
清蘭は口を開いたが、その後にどう説明しようか悩んで口をつぐんだ。それで、銘悠は察する。
「今、あなたは一緒に暮らそうって言った」
「ああ」
「あなたは、私が本当の家族から虐げられていたのを知っていた」
「ああ」
「じゃあ、私のために、家族を殺したの?」
「……」
「ねぇ、もしかして、他に後宮にいた妃や女房達も?」
「っ!?それ、までか……?」
銘悠は視線を床に落として、遠慮がちに言った。
「嫌に静かだと思ったの。後宮にきてから、誰にも会わないし、誰も見ないし。旧皇帝の家族の噂を聞いたから、もしかしたらって思って……」
再び潤う瞳で見つめられた清蘭は口を開きかけて、思いとどまったように黙り込む。
「ねぇ、どうなの?ねぇ!」
何も話さない清蘭に対して、銘悠は詰め寄った。彼は目を瞑って眉間に皺を寄せた上で、無言のまま首を振って、銘悠から離れた。そこには、悲しみと申し訳なさを滲ませた笑みがある。
銘悠の脳内では、一瞬にしてさまざまなことが起こった。
清蘭の言葉を聞いた途端に空白のように真っ白になり、かと思えば責めるような真っ黒が押し寄せてきた。そして、青や黄色が混ざり合う。いろんな感情が色となってせめぎ合い、結果生まれたのは悲痛な声だった。
「そ、そんな……私のために、人を……」
彼女は自身を抱いて震えた。額から冷たい汗が流れてくる。
家族が殺されて、悲しくはない。虐げられた記憶しかないのだもの、慈悲は湧いてこない。
だけど、同時に不思議と苦しくなった。朧げに覚えているあの人たちを許したわけじゃないのに、殺されたと聞くと震えが止まらない。
そこに、清蘭の声が滑り込んできた。
「何故、そんなに怯えている?」
「だ、だって、私のために……私がいるために、あの人たちは殺されて……」
答えながら、恐怖で仕方なかった。
この人は、どうしてこう平然として質問できるのだろう?
「お前はあいつらに酷いことをされたのだろう?」
「それは、そうだけど……。でも、殺すなんて……」
「殺さない方が良かったか?」
「もちろん!」
声を張り上げた銘悠は、バッと顔を上げて清蘭を強く見つめた。その瞬間、彼女の瞳は見開かれた。
清蘭は、穏やかに笑っていた。さっきとは違う、優しさのありふれた笑みだった。
「良かった、お前がそう言ってくれて」
「えっ……?」
「私はお前に、一つ嘘をついた」
「嘘?」
「ああ」
清蘭は頷くと、じっと目を瞑って、やがて決心したように意志の強さを瞳に表した。
「私は、誰も殺していない」
「え、それは、どういうこと……?」
「聞くより見る方がいいだろう」
驚くのも束の間。
彼の言葉を合図に、扉が叩かれた。
「皇帝様、入ってもよろしいでしょうか?」
「ああ、構わない」
「失礼します」
唐突に、扉から何人かの人が入ってきた。老若男女、全ての世代が集っている。
銘悠の瞳は見開かれる。彼らに共通してある特徴は、曇りのない銀髪。そう、清蘭と同じ、透き通る白銀の髪の毛だった。
「あ、あの人たちって……!?」
「ああ。お前の家族、旧皇帝の一族さ」
一体、どういうことだろう?
辻褄の合わない話についていけず、銘悠はただただ目を白黒させた。
でも。朧げに浮かび上がる記憶の中の家族は、こんな顔をしていた気がする……。そんな見覚えが、銘悠の中で芽生えていた。
「いやー、扉の前で待てってこういうことだったんですね。全く、もうちょっと詳しく説明してくれても良かったのに」
最後に、のんびりとした口調で入ってきたのは、清蘭と共に行動していた苑鎧だった。頭を掻きながら入ってくる彼は、ははっと軽く笑った。
銀髪の人間が集まる中、銘悠と苑鎧の黒髪だけが際立っている。
「な、なんであの人まで……?」
銘悠は目を丸くした。
清蘭と共に行動し、時によく喋っていた姿から推測すると、彼は信頼できる部下のような存在なのだろう。だから、ここにも?
「ああ、もしかして、僕まで来たことに驚いていますか?」
「えと……まぁ、はい……」
こんな時、何で答えればいいのか分からない、と銘悠は視線を泳がせた。何となく、正直に答えることに引け目を感じていたから。
だけど、苑鎧はそんなのを気にせず微笑みを保った。
「実は僕も、皇族の血筋なんですよ」
「えっ?」
銘悠が予想外の言葉に腑抜けた声を漏らしたのも束の間。
彼は自分の髪の毛をかき分け、黒髪に覆われたその下から露わになった別の色の髪を見せる。
「ーーっ!」
「ほら、この通り」
苑鎧の黒髪の下の一部、月明かりを線にしたような銀髪が現れた。
「一部分だけ、銀だ……」
「そうなんですよ。僕の髪は生まれつき、一部分だけが銀髪なんです。皇族の血がどうにかして現れようとした結果なのかもしれませんね。なので、普段は皇族の者とバレないように隠しています」
「……」
声が出なかった。全部が黒でも銀でもなく、中途半端な髪色。だったら自分の方がまだマシなんじゃないか、なんて銘悠は思ってしまう。
「彼は私の弟だよ」
「お、弟!?」
背後から銘悠の肩を叩いた清蘭が言った。苑鎧は嬉しそうに微笑む。
「ははっ、実はそうなんです。だから、僕も銘悠様の従兄弟に当たるんですね」
「従兄弟……」
「ま、そんなことは気にせず召し使いのように扱ってもらって構いませんよ」
何と声をかければ良いか分からない銘悠に、苑鎧は軽く笑い飛ばす。
何も考えていないわけではないと思うが、軽薄に見える行動は気遣いという行為を忘れさせ、それが彼女の不安を拭った。
「まぁ、だから、なんだ、その。ここにいるのはお前の家族ってわけだ」
清蘭が何処かぎこちなく言う。それは、銘悠の表情を窺ってのことだろう。
彼女はもう、何が何だかわからない、という感情を隠すことなく表に出していた。
「な、何故ここにいるの?それに、どうして殺したと嘘をついたの?」
疑問が込み上げてくる銘悠を、静かな声が制した。
「私から、説明しよう」
年老いた男性だった。その人が声を発した瞬間、辺りの空気がしんと静まった気がした。
銘悠は目を見張る。皺こそ深くなったが、その鋭い瞳、引き締まった口元、キリッとした眉は、朧げな記憶にある旧皇帝ーつまり父ーと全く同じだった。
「清蘭は元々、正式に皇帝の座を継ぐはずだったのだ。だが、その際には皇后が絶対に必要である。彼は後宮にいたどの妃も受け入れなかった」
「清蘭はお前でなければ受け入れないと言ったのだ」
「私、だけ……?」
「ああ」
清蘭は優しい微笑みを讃える。その眼差しは柔らかく、そして愛おしそうだった。
「約束を破りたくはなかったからな」
「そこまでして、覚えていてくれたんだ……」
銘悠の中で、熱い想いが込み上げてくる。
「そこで、私たちは名目上、彼に殺されることにした。そうすれば、役人たちもうるさく責め立てることはしないだろうと思ってな」
銘悠の父は、はぁと大きくため息をついた。
そして、「大変だった」と小声で呟く。息を吐くように言われたその言葉には、確かに多くの苦労が込められていた。
「みんなは、良かったの?私が戻ってきて」
堪らず、銘悠は尋ねた。どうしても知りたかった。そこまでして私を連れ戻した理由を、私を連れ戻すことに納得した理由を。
「そうね、正直なところで言うと、あまり良くは思わなかった」
腰近くまで伸びる小川のような銀髪に、雪のように白い肌。厳格な雰囲気を纏いつつ、麗しさを兼ね備えている女性が言った。
ああ、母だ、と銘悠は思う。あの頃と、年齢の重ね以外は何一つ変わらない。
「私たち、その話を聞いて最初は反対したの」
「一度追放した者を、再び家族として、しかも後宮に迎え入れるなんてとんでもないって思ったわ」
まだ若い女性が口々に言う。ああ、この人も見たことがある、と銘悠は気づく。虐げられた思い出しかないけど、宮廷にいたお姉様だ。
「でも、清蘭に説得されて考えを改めたの。髪の色だけで家族の縁を切ることはないんじゃないかって」
「えっ、説得……?」
「ええ。清蘭が必死になって私達に話してね。それで私達、今まであなたに酷いことをしてきたのを後悔した。あんなこと、するべきじゃないんだって」
(そんな、そこまでして……)
銘悠は清蘭を振り返った。変わらない優しげな表情が、かくんと頷く。
ああ、本当なんだって銘悠は胸が打たれる。同時に、心が暖かくなる。説得で、家族も考えを変えてくれたんだって。
「だから、許してもらおうとは思っていない。だけれども、銘悠が良ければ、また一緒に暮らしたいの」
「……」
視界が滲む。今までにないくらい、目頭が燃えるように熱くなる。
「一緒に住むか住まないかは、お前が決めていい」
清蘭が震える銘悠の肩に手を置いた。まるで、彼女の身にのしかかっている責任を拭いとるように。
「一緒に住むとお前が許せば、彼らはこの宮廷で過ごす。だが、お前が嫌ならば追放させることもできる」
好きな方を選べ、と耳打ちする。その響きは甘く滑らかで、だが何処かに苦味も含まれていた。
「どうだ?お前は、彼らを許すか?」
清蘭の問いかけに、銘悠は零れ落ちた涙を拭って、それから彼らをじっと見つめた。
家族は祈るように瞳を伏せる。彼らに選択肢はない。今までの罪が罰として返ってくるか、銘悠の許しに頭を下げるか、どちらかしか出来ないのだから。
沈黙か続く。この静けさを破れるのは、銘悠のみ。彼女のみ、この場において言葉を発することを許されている。
彼女は悩みの渦の真っ只中だった。一体自分は何をすべきなのだろうと、自身に問いてみては疑問が深まる。
彼らは、自分を虐げていた。随分と昔のことだが、その感触はいまだに鮮明に思い出せる。自分の心を壊した元凶、人生の歯車を狂わせた道具。
一緒に住むなんて、真っ平ごめんだ、と、怒りが湧き上がる。
(なのに、何で……?)
何故自分は、こんなにも暖かいのだろう。こんな家族とはいえない人たちに、胸がほっこりとしてくるのは。彼らを消してはいけないと思うのは。
きっとそれは、家族という暖かさを少しでも知っているからだ、と銘悠は考える。
家族という温もりを欲しているからだ、と銘悠は考える。
(結局私は、誰かに支えられないと生きていけないんだ……)
それは鎖のように重く、だが、当たり前のことだった。人間は、支え無しに生きることは出来ない。
それに、もしやり直せるなら。今度こそ、幸せを手に入れることができるなら。
そこには、家族という存在が必要不可欠。
そうか、そうなんだ。
思考を巡らせていく中で、銘悠の視界は次第にぼやけていく。そしていつしか、頰に熱いものが伝っていることに気づく。
もう決めた。いや、元から決まっていたんだ。私の下す決断は、一つしかない。
銘悠は息を吸った。ほんの動作でしかないその動きに、周りの人間は敏感に反応する。
「私は……、正直あなた達が憎いです。幼い私を虐げて、宮廷から追放した」
家族は深く頭を下げる。当然だ、と言わんばかりの反省が、そこには見られた。そして、諦めの色も。
「だけど」
銘悠は胸元の服をギュッと握った。彼女の声の続きに、家族は再び顔を上げる。
「私は……、家族という温かみが欲しくて……やり直せるなら、やり直したくて……」
だんだんと声が震える。目の前の家族や清蘭の姿が滲んでぼやける。
(だめ、こんなところで泣いちゃ……!)
自身が泣いてはいけない、そう、銘悠は自分に言い聞かせて奥歯を噛んだ。
「だからっ!」
一段と大きくなる彼女の声。銘悠は必死だった。自分の負の感情をぶつけつつ、そこにある望みを伝えるために。
「私もっ、一緒に暮らしたい!」
水に濡れた彼女の瞳は、輝いていた。それはまるで宝石で、それはまるで硝子だった。
「どんなことをされても、やっぱり家族は家族だから」
その言葉に、ここにいた者全員が目を見開いた。無論、誰も銘悠の口からそんな言葉が出てくるとは思わなかったから。
「……だ、そうだ」
清蘭が言う。
「銘悠、本当に一緒に住むことでいいんだな?」
「うん」
彼女は目元に浮かぶ雫を拭って首を縦に振った。彼女はボロボロと涙している。
「彼女が許したのならば、私はこれ以上お前らを咎めない」
清蘭は家族に向き合う。その表情から、先ほどの堅さは失せ、代わりに柔らかな微笑みがあった。
「お前らはここに住むことを許そう」
清蘭、銘悠、そして苑鎧以外の者が、一斉に息を呑む。やがて、俯いた目尻がゆらゆらと揺れ、同時に口元を綻ばせた。
「ありがとう……本当にありがとう……」
そして、全員が同時に言う。
「「おかえり」」
銘悠は頬を伝る涙を指でそっと拭って、それから心からの笑顔を浮かべた。
「ただいま」
その場の空気が温まる。花が咲き乱れたような美しい空間へと移り変わる。
清蘭が不意に手を広げた。銘悠は彼の胸に飛び込む。
「ありがとう、私を家族のもとに返してくれて」
「いや、私は何もしていない。導いたのは、お前自身の力だ」
「これからずっと一緒だね」
「ああ、何があっても、お前を離さない」
銘悠は涙の粒が光る瞳を上げて、清蘭を見上げた。同時に、清蘭もまた、彼女を見つめる。
まるで、そうなることが定められていたかのように、2人は顔を近づけていき、そっと口づけを交わした。