現在5
「――だから、その模試の帰り、華奈は猛スピードで突っ込んできたトラックに轢かれたんだ」
僕の話を黙って聞いていたトウヤは、状況を噛み砕けない様子だった。
昨日、話している途中に僕の体が薄れていったので、また今日公園にきたトウヤに説明し直していた。意識が消えていくと、やはりトウヤからも見えなくなるようだった。
彼は、何かを言おうと口を広げるが、声は出てこない。なにを言えばいいのかわからないのだろう。
「足が動かなかった」
足が、地面にくっついて、自分の意思で動かせなくなる。
駅のホームで女性が落ちて行くのを見ている時も、全く同じだった。
「一瞬だった。なにもできなかった」
「……」
暫しの間、沈黙が流れる。
その沈黙を破ったのはトウヤだった。
「……僕に」
「ん?」
「僕に、何かできませんか」
トウヤは決意に染まった双眸をこちらに向ける。
「そのために戻ってきたんですよ」
「そのため?」
「華奈を救うために、東弥さんは過去に戻ってきたってことでしょ」
当たり前のように言うトウヤを見て、僕は胸の奥に鋭い痛みを覚える。
「そう……なのかな」
「僕だけに話しかけられるっていうのは、何か意味があると思うんです」
――意味か。
トウヤにだけ僕のことが見えている意味。僕が今過去にいる意味。事故を見たことがきっかけで過去に飛んだことの意味。
「後悔してからじゃ遅い。まだ、助けられます。だったら、できることは全てやりましょうよ」
その言葉は意識的か無意識か。トウヤは、あの夏の、華奈と同じ発言をした。
「事故当日ももちろん……だけど、まだ当日までは時間がある」
トウヤは独り言のようにぶつぶつ呟いている。
「これから事故当日までで、華奈の何かを変えることってできないですか?」
「えっと」
過去を変えたのは、脚の傷だけ。だから他の、ちゃんと過去を変えられるという根拠になるもの、ということだろうか。
「――あ、ある」
事故当日まで一週間ちょっとしかない。そのあたりの記憶を遡り、閃く。
「確か、華奈模試の前に風邪ひいたはず」
「それ!」
トウヤが飛びかからんとばかりに声を上げる。
「それ! いつですか? 正確に!」
「いつだったかな……確か、事故の一週間くらい前だったはず……いや、二週間前かな」
「風邪引いたのって、当日知りますか?」
「うん、その日学校休むから」
「じゃあ、まだ大丈夫です。まだ華奈は風邪ひいてないので、もうすぐって事になりますね」
「う、うん」
トウヤの勢いに圧倒される。
「それ……なんとかして防げないですか」
「なんとかって言われても……風邪だし……あ」
「なんですか」
「――アイス」
「アイス?」
「風邪引いたの、多分直接の原因アイスだ」
思い出した。華奈はあの頃、ずっとアイスを食べていて、風邪を引く前日、アイスを三つも開けていた。心配して注意したから覚えている。
もし、アイスを食べるのを止めさせて、華奈が風邪をひかなくなるのなら。それは過去を変えられる根拠になるかもしれない。
ーーーーー
過去5
秋口にかけ、華奈は月に何度か学校を休むようになっていた。
休んだ理由を聞くといつも、本を書いていたと言っていたが、華奈の目元には以前にはなかった隈が目立っていた。
十月末の日曜日。僕は予備校に行く前に広場に寄った。
広場の真ん中で立っている華奈と目が合った瞬間、華奈が大きく体を回転させて何かを投げてきた。僕は真っ直ぐ飛んできたそれをキャッチする。安っぽいフリスビーだった。
受け取ったそれを持ち直し、彼女に向かって投げ返す。
彼女は、ぎこちない動きでそれを掴む。
しばらく、無言で投げ合う。フリスビーが僕たちの間を数回往復した後、華奈がつまらなそうな表情で「やめよう」と言った。
懐かしい遊びをするにしては一瞬すぎる気もしたが、僕は投げ返すのをやめて彼女の元へと歩いていった。
「これ、どこで買ったの?」
「来る途中、百均で」
「そっか」
以前シャボン玉を買った百均だろう。ただ、前のシャボン玉とは違って、今回のフリスビーは、何かを紛らわせるために使っているように見えた。事実、あの時のような無邪気な笑顔はそこになかった。
返そうとしたフリスビーを、華奈は受け取らない。
「あげるよ」
彼女のその声は投げやりに聞こえた。
「いいよ」
「私もいい」
「……じゃあ、また今度気が向いたらやろう」
彼女はゆっくりと頷く。
その後、彼女の「なんか飲み物飲まない?」という言葉で、僕たちは例のように喫茶ポワレに行くことにした。
「よいしょ」
席に案内されてすぐ、僕は背負っていたリュックを下ろす。季節が進むにつれ、勉強道具が増えて、どんどん鞄が重くなっている。羽織っていた薄手のコートも脱ぎ、軽く畳んでリュックの上に載せた。
「時間大丈夫?」
僕が荷物を完全に置いたからだろう、彼女が訊いてくる。
「今日は自習だから多少遅くなっても大丈夫」
「そっか、よかった」
飲み物が運ばれてくる。華奈が頼んだ物が、アイスティーではなく、アイスコーヒーであることに気がついた。
それは、彼女の感情の変化の現れのようにも見えて、思わず尋ねる。
「アイスティーじゃないんだ」
すると彼女は、肩を竦め、頼りなく笑う。
「……ここ、アイスコーヒーも美味しいらしいから」
「そうなんだ」
そう言った割に、少し飲みにくそうにストローに口をつける華奈。
「コーヒー苦手なの?」
「うん、実は」
じゃあなんで頼んだんだ、という心の中の疑問は、表に出さずとも彼女が答えてくれた。
「ちょっと気分変えたくて」
「……そう」
彼女が小説で煮詰まっているのであろうことは知っている。それゆえに、僕はどう返せばいいかわらかなかった。
しばらく会話をしていたら、区切りのいいところで彼女が「書いていい?」と聞いてきたので、僕は食い気味に首を縦にふる。
邪魔する気はそもそもないし、それに。
華奈の小説のスイッチが入る瞬間を、最近見ていなかった。だから、せっかく書けそうなら、僕のことなんか気にせず書いて欲しい。
僕はリュックから単語帳を取り出す。
本当に気分がいい方向に変わって、彼女の調子が戻ればいい。そう思っていたが、期待はすぐに裏切られた。
華奈の手はなかなか動かなかった。
華奈は、コーヒーをちびちび飲んではため息を漏らし、パソコン画面を睨んでいる。
数分経っただろうか、華奈が突然声をあげた。
「だめだー書けない」
彼女の声で顔を上げると、華奈はもう一度言う。
「だめだー」
そう言って、華奈は渋い顔でコーヒーを一気飲みした。
「気分転換失敗。東弥、まだここいる?」
「ううん、華奈が出るなら僕も予備校行くよ」
「じゃあ出よう」
「予備校行く前に本屋寄るんだけど、一緒に行く?」
「行かない」
今度は華奈の食い気味な返事。
「わかった」
予備校に行く前に寄った本屋には、華奈の本が一冊も置かれていなかった。
十一月上旬の放課後、僕は職員室の扉の前にいた。水澄に呼ばれていたのだ。用件は伝えられていなかったが、なんとなく予想がついていた。学校では華奈とほとんど話していなかったが、水澄は勘がいい。
「失礼します」
扉に手をかけ、スライドさせる。
「おお、吾妻。わざわざすまんな」
呼ぶと、水澄は申し訳なさそうな表情で近づいてくる。
「いえ」
「最近、勉強の調子はどうだ」
十月にあった三者面談で、水澄には予備校に通い始めたことを伝えていた。
「まあ、勉強始める前よりは随分と」
「そうか、それはよかった。なんかあったらいつでも相談してこいよ」
「ありがとうございます」
「……で、来てもらったのには別の理由があってだな。教室では話しにくいから」
僕は、話を促すため、わざとわからないという顔をする。
「岬のことなんだが……」
やっぱりそうか。
「最近、岬の調子はどうだ?」
「なんで僕に訊くんですか?」
「岬のこと、吾妻は知ってるんだろ?」
「…………」
僕は黙る。水澄のその質問が何についての質問かわからなかったからだ。
最近の華奈の体調のことか、それとも……小説のことか。華奈に学校では言わないで、と言われているのでうかつに答えられない。
僕が口を開かないのを見て、水澄はふっと笑った。
「なるほどな。岬が吾妻にだけ教えた理由、なんとなくわかった気がしたよ。すまんな、別に隠さなくて大丈夫、俺らは岬が小説家って知ってるから」
知っていたのか、そう思い、すぐ納得する。そうか、確かに学校側にも完全に隠すというのは無理がある。
「……はい、知ってます」
「前の三者面談の時に、吾妻にだけは伝えてるって聞いたんだよ」
その言い方で、本当に僕にしか伝えていないと知る。そのことに、じわりと喜びが広がった。悟られないよう、興味がないふうに返す。
「なるほど」
水澄はわざとらしく、咳払いをして座り直す。
「それでだ。岬と……いや、なんだ。岬と放課後に会ったり、とか、連絡とかしたりしてるか?」
先生は訊き方を迷っているようだった。
「ああ、すまん。別に、吾妻たち二人の関係についてどうか訊きたいとかそういう話じゃないんだ」
「わかってます」
水澄は生徒が嫌がる距離感をちゃんと理解している教師だ。その距離感をわかっていない教師のことが嫌いな僕は、その点に関して水澄のことを信用していた。
それに、僕が知らないことを水澄が知ってるのなら、それを知りたかった。
「連絡も会うのも、ちょくちょくって感じです」
「岬、最近たまに休むだろ」
「はい」
「大丈夫かな、と思ってな」
「先生電話したりとかしてないんですか?」
「いや、電話はするんだけど、なかなか詳しいことはわからなくってな。無理に訊いて負担になるのもよくないし」
「そうですか」
「担任としてどうなんだって言われるかもしれないけどな……。大人が口を出すのは簡単だけど、教師と生徒っていう関係はそんなに都合の良いものじゃないから」
水澄はやっぱりよくわかっている。
「ちょっと気をつけて見てやってくれるか」
「わかりました」
「頼んだぞ」
水澄はやはり生徒のことをよく見ていたらしい。
華奈は、以前にもまして追い込まれているように見えた。
「屋上に来て」
水澄と話した約一週間後。華奈にそう言われ、僕はマンションの最上階から続く非常階段を上っていた。金属でできた階段は、歩くたびに音が反響して不気味だった。
屋上へと続く重厚な扉のノブを回すと、ギイィと不快な音が鳴り、ゆっくりと開いていく。
顔を出すと冷たい風が頬に吹き付けてきて、僕は思わず体を震わせた。
夜風は体を芯から冷やしていく。もうそこまで冬がやってきていた。
華奈は制服の上にコートを着たまま、屋上の床に寝転んでいた。
「汚れるよ」
僕の言葉を聞いても、彼女は起き上がることをしなかった。
「体調悪くない?」
「……ん? 大丈夫。眠れてるよ。一応」
「私の見えている世界は、思ったより狭いのかもしれない」
彼女は天へと細い手を伸ばす。画家がモチーフを観察する時のように、親指と人差し指で小さな額を作る。
華奈の言葉が小説について指しているということは容易に理解できた。
「そんなことないよ」
「そうだよ」
「ほら、こうやって見上げると星が見えるでしょ」
僕は華奈の隣に座り、空を見上げる。冷え切った夜空には、無数の光が散っていた。
「こんなに広くて、たくさんの星があるけど、私が知っているのは、星一つ分。地球だけ」
そう語る彼女の声がやけにか細かった。
「……それでも、想像できるのはすごいよ」
僕は、自分の周りのことで精一杯だ。華奈の小説のように、自由じゃない。
「なかなか手が届かないもんだよね」
華奈の返答は少しずれている気がして、僕は目を落とし華奈の表情を覗いた。星の輝きのせいかもしれないが、華奈の目がゆらゆら光っている気がした。
不安になり、僕は思わず聞く。
「寒くない?」
「ふふふ、大丈夫だよ。やけに心配してくれるね」
今日の彼女は、どうしてかわからないが、儚い感じがした。いつもより、華奈が薄く感じられた。
「あ。じゃあ、何かあったかいもの持ってきて欲しい」
「……買ってこいって?」
「ううん」
そう言いながら、華奈は首を大きく降る。彼女の頭から放射状に流れた髪が彼女の首の動きに合わせてほんの少し動く。
「上がってくる前に台所で用意してたの。コンソメスープ」
「冷めちゃってるんじゃない?」
「魔法瓶に入れてるから大丈夫」
それならどうして持ってこなかったのだろう、と思ったが「わかった」と言って僕は立ち上がる。
「なんか羽織るもの持ってこようか?」
「それは大丈夫。はい、鍵」
彼女は寝転んだまま僕に向かって鍵を放り投げる。きれいに飛んできたその鍵は、僕の手に収まり、つけてある猫のキーホルダーが音を鳴らした。
「ありがとね、東弥」
「うん」
扉を開け、早足で階段を降りていく。今日の華奈は触ったら壊れそうなほどか弱く見えて、早く暖かいものを飲ませたかった。
最上階からエレベーターに乗り、一回まで降りる。華奈の部屋までの数メートルがいつもより長く感じられた。
鍵穴に鍵を差し込み、回す。カチャリ、と音が聞こえ、僕は扉を開けた。
電気をつけたままだったらしい。部屋の中は明るかった。
ワンルームで、キッチンは入ってすぐの廊下に備え付けられている。シンクの横に、少し大きな水筒のようなものがあった。おそらくこれだろう。それを手に取って、代わりに持ってきた鞄を床に置く。
廊下の電気を消してから、少し立ち止まる。部屋の電気も消しておこうと思い、奥へと進む。スイッチに手をかけ消灯する直前、何気なく見た部屋の片隅に、目が釘付けになる。
暗闇の中で、しばらく動けなかった。
僕はゆっくりとスイッチを押し、電気をつけ直す。
「……どうして」
明るくなった部屋の隅、破られた彼女の処女作が転がっていた。無残な姿となったその文庫本を僕は拾い上げる。
背表紙のところが裂けていて、二つに分かれそうになっていた。彼女がやったのだろうか。
僕はしばらくそれを見つめ、静かに鞄の中にそれを突っ込んだ。