現在4

 血相を変えた様子のトウヤが僕の目の前に現れたのは、太陽が半分見えなくなった頃だった。

 トウヤは膝に手をつき、肩で息をしている。よっぽど急いで来たのだろう。

「ほん、っとに……はぁっ、火事っ、起こったんですけど」
「怪我は?」
「しなかった、です」

 ひゅうひゅうと息を切らす彼を見ながら思う。そうか、怪我を防ぐことはできたのか。

 心の奥に細い針で刺されたような痛みを感じたが、僕はそれを無理やり押し込んで呟く。

「よかった」

 目の前の彼は辛そうに咳き込んでいる。僕はトウヤの呼吸が落ち着くまで彼を待つことにした。

「――大丈夫?」
「……はい。だいぶ、ましになりました」
「じゃあ、とりあえず。ちゃんと火事のこと覚えててくれて、意識してくれてありがとう」
「いや、教えてくれたのはそっち――えっと」
「東弥、でいいんじゃない」
「教えてくれたの東弥さんですし……うわ、違和感」

 なかなか自分の名前を呼ぶ機会なんてない。口にだす方もそうだが、自分自身に名前を呼ばれるのもなかなか変な感じだ。

「信じてくれた?」
「いや、まあ……正直、まだ信じられてないですけど、とりあえずは、はい」
「それはよかった」
「ぶっちゃけ、最初に見た時になんとなく面影――自分で言うのも変だけど。東弥さんをここで見たとき、全く関係のない人には思えなかったけど、そんな夢みたいなことありえないと思ってたし……」
「不審者に見えた?」

 あのとき彼は不可解なものを見る目をしていた。

「そりゃ……そうですよ。ベンチの下にいたんで。何してたんですか」
「座れなかったんだ」
「座れない?」
「座ろうとしたんだけど、ベンチをすり抜けた」
「すり抜けた……」

 トウヤは、僕の言ったことの意味がわからないようだった。

「この体は、物に触れられない」
「えっと……」
「ここにきてからいろいろ試してみたけど、僕の体は全てのものに干渉できないらしい」

 トウヤは僕の言葉を聞いて小さく「え?」と呟いた。

「もしかして、幽霊…とか? 僕……未来で死ぬの?」
「いやいや」

 僕は首を振る。一度ここに来た時に考えたことだ。

「死んでないから、幽霊ってことはないはず。ただ、よくわからないうちに過去に来てこんなことになってるんだ」
「はあ……小説みたい」

 なんの憂いもなく小説という単語を口に出したトウヤに、僕は奥歯を噛み締める。華奈が死んでから僕はずっと小説を避けて生きてきた。

「……確かに。だから、まあ、とりあえず何にも触れないし、誰とも話せない」
「誰とも?」

 彼は目を細める。

「いや、えっーと、トウヤ……いや、君以外の人には僕の姿は見えないし、声も聞こえないみたい」
「こんなにしっかり見えてるのに?」

 トウヤは信じられない、といった様子だった。

「見て」

 そう言って僕は歩いていく。遊具に近づき手を伸ばす。
 伸びていった手が遊具の中をすり抜けた。

「ほら、触ろうとしたらこうなる」

 トウヤは、あっけに取られたような表情をしていた。
 彼もおずおずと手を伸ばし――当たり前だが、遊具に触れる。

「……まじか」

 貫通したままの僕の手を大きく開いた目で見つめるトウヤ。

「……なんで」

 僕は肩を竦める。

「なんでだろうね」
「え、じゃあ、今も他の人には見えてないってことですか?」
「うん、そのはず。確かめたからそれは間違いないと思う」
「じゃあ、一人で喋ってるように見えるってこと……」
「そうなるね」

 トウヤは急いで周りを見回す。

「大丈夫、誰もいないよ」
「よかった……でも、まじか」

 高校の制服に身を包んだトウヤは、僕の姿を穴が開くほど見る。何度も瞬きをしては、ため息をつく。

 しばらく観察した後、トウヤは口を開いた。

「えっと……で、東弥……さんは、幽霊とかじゃないなら、なんでこんなとこにいるんですか?」

 僕はトウヤに事の経緯を説明する。事故があったことは言わなかった。

 ただ、仕事場に向かう途中、目の前が暗くなって、気付いたら駅にいた。そう説明した。

「だから幽霊とかじゃないけど、なぜ今ここにいるのかは正直わからない」
 そう、わからない。そう言いながら胸の奥がざわつく理由もわからない。
 だから、おそらく事実である事のみを述べた。
「あと多分、もうちょっとしたら僕は消える」
「消える?」
「どうなっているのか僕自身もわかってないけど、毎日この時間になったら意識が消えるんだ。だから、もうすぐ君とも話せなくなる。それで多分、明日の昼過ぎになったらまた意識が戻って話せるようになると思う」

 理解はしていないだろうけど、トウヤはゆっくり頷いた。

「訊いてもいいですか」
「うん」
「僕は……未来では何をしてるんですか?」
「えっと……」

 僕は言葉に詰まる。つまらない未来が待っていることを聞かされるほど辛いことはない。

「それは多分、知らない方がいいと思う。その時になったらわかるから」
「……そっか、わかりました。じゃあ……華奈は? 元気ですよね? これくらいなら」

 来ると思った。十二月の華奈の様子を見ていたら、心配になるのは当たり前だ。
 これもごまかしてしまうと、本当に僕が過去に来た意味がなくなりそうで、僕は彼に言う。真面目な表情を作り、彼の目を見た。

「……華奈は、死んだんだ」

 トウヤは言葉をなくす。

 冗談だと思われないために、彼から目を離さないようにする。

「事故に遭った」
「……」

 トウヤの目の奥が揺れる。

「……嘘だろ」
「嘘じゃない」
「いつ……華奈はいつ事故に遭うんですか」
「十二月二十日。模試の日」
「模試って……華奈が受けるって言い出した」
「そう、その日、華奈は事故に巻き込まれたんだ」

 話しながら、僕は脚の傷のことを考えていた。

 トウヤが来る前に脚を確認していたが、その傷は消えていなかった。むしろひどくなっている気さえした。この傷がそのままなのに、トウヤが怪我を防ぐことをできたということは。

 胸の痛みを隠しながら、話を聞くトウヤの目を見る。意志がこもった真っ直ぐな目が、かつての華奈の目に重なった。


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 過去4

 夏休み明け。始業式の後、華奈と喫茶店ポワレに行く約束をしていた。

 休み中、テストや夏期講習が予想以上にきつく、なかなか会っていなかったので久しぶりだった。

 学校に着いて、一ヶ月ぶりに会うクラスメイトと挨拶しながら自分の席に行く。

 華奈の席に意識を向けながら友達と話していると、華奈が来る前に水澄がやってくる。

 結局華奈は学校に登校して来なかった。





 不安を拭えないまま喫茶店に向かうと、華奈はいつかの窓際の席で机に突っ伏して眠っていた。

 彼女の横に置かれたアイスティーのグラスは濡れていたが、中身は全く減っていなかった。眠り始めてそれほど時間が経っていないのだろう。僕は彼女を起こさない様にマスターを呼び、クリームソーダを頼んだ。

「ああ――東弥」

 僕がクリームソーダを飲み干したタイミングで、彼女はやっと顔をあげた。

「ごめん、寝てた」

 彼女の目の下の隈を見て、思わず訊く。

「大丈夫? なんか顔色悪いけど」
「疲れたー」

 そう言って、大きく伸びをする彼女。

「締め切り?」
「……うん」

 彼女の返答の前に開いた間が気になった。

「家で寝ててもよかったのに」

 何気に呟いた僕の言葉にピクリと反応した彼女は、こっちを向いて目を細める。少し、怒っているようにも見えた。

「じゃ、来てよ」

 アイスティーを一気に飲み干し無造作に立ち上がった彼女を見て、僕は訊く。

「来てって、どこに」
「うち」

 うち、ウチ……家?

 彼女は僕の混乱を知ってか知らずか「行くよ」とだけ言って店を後にする。慌てて僕は彼女を追いかけた。

 彼女に連れられて歩いて行くと、マンションへと案内された。

 さっきから心拍数が上がっているのは、照りつける日差しのせいではないと思う。

「えっと、華奈?」
「何?」

 彼女は眠そうな顔をこちらに向ける。

「いや……大丈夫なの?」
「なにが」
「お家の人とか」
「人いないから」
「え?」
「実家じゃなくって、小説用のワンルームだから」

 元々親が持っていたマンションの一室を、彼女が小説を執筆するための部屋として使わせてもらっているらしい。仕事をする時はいつもここに来る、という初耳の情報を教えられる。

「入って」

 鍵を開け、中へと通される。さっきから感じている緊張は、好きな小説の著者の仕事場に入るから、それとも、華奈という女の子の部屋だからだろうか。

 けど、部屋に入った瞬間、全てが圧倒に変わった。

 彼女の部屋、もとい小説部屋の中には、夥しい枚数の紙が積み上がっていた。その光景に僕は声を失う。明らかに異常だった。

 ゴミ屋敷、というにはあまりにも白すぎて。部屋中が原稿の海だった。おそらく全て彼女が作り出した物語だ。

 華奈のことを、なにもわかっていなかったと理解する。

 彼女の本気の度合いを測り違えていた。もっと、はるか高いレベルで彼女は闘っていたのだ。

「ごめん、散らかってるけど」

 彼女はゆったりとした足取りで、奥に埋もれた冷蔵庫を開ける。

「何か飲む?」

 彼女の声が少し掠れている気がした。

「うん、ありがとう」

 部屋を見渡していたら、麦茶を注いだグラスを持った彼女が言う。

「なんか言いたそうだね」

 彼女が鋭い目で僕のことを見ていた。

「すごいな、と思って」

 部屋中に散乱した用紙。

 小説に打ち込んでいる彼女の背中に、計り知れないほどの大きな重りが載っていたという事に気づかされる。本気の影に隠れた闇を見た気がして、言葉がうまく出て来なかった。

 教えてくれた、彼女の決意。何かをするのは、こんなにも大変なことなのか。

 あんな覚悟を持って行動している華奈がなにも背負っていないわけがなかったのだ。

「すごくないよ」

 その言葉は謙遜ではなく、華奈が自分のことを本当に低く見積もっているように僕の耳には届いた。

 僕が首を振ると、彼女はポツリと呟いた。

「今日……学校休んだの」

 なんでそんなわかり切っていることを? と思った。彼女もさっき、締め切りだったと言っていたはずだ。

 沈黙の中に彼女が醸し出す微妙な空気感を感じ取り、僕は眉間にしわを寄せた。

「知ってる……けど?」
「……さっきの、嘘なの」
「さっきのって」
「今日、別に締め切りなんかじゃなかったの」

 彼女の声が、少し震えているように思った。

「本当は寝てたの」
「書いてた、じゃなく?」
「そう。最近あんまり眠れない」

 知らなかった。いつからだろうか。

「不眠症。全然眠れなかった」
「病院とかは?」

 訊いてもいいのだろうかと思いながら、尋ねる。

「行ったよ。行って、薬ももらった。で、薬を飲んだら体が重くなって、昨日から今日の昼までずっと寝てた」
「それは、よかった……って顔じゃないね」
「うん、眠れないと、なにも考えられなくなるし、でも薬飲んだら、次の日頭が重くてなにも考えられなくなる」
「……いつから?」
「二週間くらい前から」
「急に?」

 思わずそう返すと、彼女は「理由はわかってるんだけど」と肩を竦めた。

「去年出した小説の二作目、準備していたのに、打ち切りになったの」

 その声には、感情がこもっていないように聞こえた。

「夏休みの途中にそれ知って、その日から眠りにくくなったの」

 彼女は大きなため息をつく。

「逃げ道なんかないのにね。私が歩いてきた道は、最初から袋小路だったのかな」

 この時の僕はまだ、そこまで小説を中心に生きている彼女のことを、その言葉さえも美しいと思っていたかもしれない。

「私、何か間違ったかな」