過去3

 岬さんと話していると、学校で友達とくだらない話をしている時に比べ、いつも時間が一瞬で過ぎていった。

 友達との会話に不満を持っているわけじゃない。僕自身、学校での生活に完全に満足していたとはとても言えないが、友達とだらだらと過ごす時間も嫌いじゃなかった。

 けどそれ以上に、岬さんとの会話はいつだって印象的だったというだけだ。

 彼女と話すのは放課後だけだったが、毎回、彼女との会話が終わって一人になると、彼女の声や仕草、そして彼女の選んだ言葉が脳内で何度も繰り返され、心が苦しくなった。

 こんな感覚になるのは初めてだった。その感覚は、好きな小説を読んでいる時のような心の動き方に似ていて、息が苦しくなりながらも、体の奥でどこかポカポカ暖かくなるような、そんな気持ちだった。話しているだけでなぜか心地よかった。





 ある日の放課後、僕は華奈と一緒に帰宅していた。

 早いもので、彼女と初めて話してから既に数ヶ月が経過していた。この頃には、僕たちは互いのことを下の名前で呼び合うようになっていた。

 天気予報では熱帯夜のことが取り上げられるほど気温が高く、町中にセミの鳴き声が響き渡っていた。

 街路樹の根元で暑さを凌いでいる野良猫を見つけ、華奈はゆっくりと近づいていく。

 この景色も何度見たことか、華奈は野良猫を見つけたら必ず触りに行っていた。どこか、猫を探しながら歩いているようにも見えた。

「猫ってさ」

 灰色の猫の背中を撫でながら、しゃがんだ彼女がふと呟いた。僕は彼女の髪が反射する陽の光を見ていた。

「何回も生き返るんだってさ」
「ああ、なんか聞いたことある」

 確か、九回。魂がどうとか、という話だったと思う。それを題材とした小説を読んだことがある。

「この子、何回目の猫なんだろう……って、なにその顔」
「いや」

 頬が緩んでいた。だって、大真面目な顔でそんなことを言うから。

「猫はなんで生き返るんだろう」

 華奈は細長い指で猫の頭をすっとなぞる。猫は、気持ちよさそうに目を細めていた。

 華奈の表情がやけに真剣で、僕は頬を意識的に引き締める。

「どうしてだろうね」
「この子たちには、何度も生き返ってまでしたいことがあるのかな」

 僕は何も言わず、彼女の言葉の続きを待っていた。

「どうなの? 君はどうして生き返るの? 何か後悔とかあるの?」

 答えを聞けるわけでもないだろうに、彼女は首を曲げ、猫と目線を合わせるようにして訊いていた。彼女の首の動きに合わせて、艶やかな髪がはらりと流れる。

「東弥は死んでもまた生き返りたい?」

 彼女が顔を戻し、僕の方を見上げる。

 生き返りたいか……か。答えにくい質問。

 華奈が口をつぐんだまま待っているので、僕は猫の緑色の瞳を眺めながら少し考える。

 単純に人生が何倍にもなるのなら、勉強も何もせずにもっと遊んでいられるだろう。何にも縛られることなく自由に楽しく過ごせるのかもしれない。けど。

「――別にいいかな」
「どうして」

 楽しいことがないとは言わないし、思っていない。辛いと思いながら生きているわけじゃないし、苦労のない日常を送らせてもらっている。でも、だからといって、何倍も生きたいと思うには毎日は退屈すぎる。夢中になれることを持たないまま、持てないまま生きていくには、人生は長すぎる。

 それを彼女に伝えると、彼女は僕の顔をまじまじと見つめていた。僕は思わず顔を逸らす。

「……なに」
「いやぁ、東弥はやっぱり優しいなーと思って」
「優しい?」

 冷めている、の間違いじゃないだろうか。毎日を退屈だと思いながら生きているなんてつまらない考え方だし、こんなことを話しても面倒な人だと思われる。普段なら絶対言わないことだし、華奈にだから話した内容だ。全くもって褒められる考え方じゃない。

「華奈って感性変わってるよね」
「そう?」
「うん、今の話のどこに優しいと思われる要素があったのかわからない」
「えー、優しいよ。だって、そんなふうに思っているのに、東弥は学校でそんな雰囲気全然出してないじゃない。みんなに気を遣って隠してるってことでしょ。小説を学校では読まないようにしてるのも、それでしょ」
「いや……」

 そんなふうに真っ直ぐ褒められるとは思ってもいなかった。

 気まずさに耐えられず、僕は訊き返す。

「じゃあ、華奈は? 生き返りたい?」

 華奈は静かに首を振る。

「私は、生き返りたいと思わないようにしたい」
「どうして?」
「だって、生き返りたいと思うのは、一回目が物足りなかったってことでしょ。私は物足りない生活なんて送りたくない。何かにちゃんと打ち込みたい。それに、そんなに長く生きちゃったら、多分疲れちゃう」

 綺麗な答えだと思った。僕には出せないその回答。理想だとは思いつつも、口に出す勇気が出ない答え。

 その通りだとはわかっているのだけど、物足りなくない生活を続けるのには、相当な労力が必要だ。

 だから多分、そんな風に言い切れる人は、密度の濃い時間を過ごしている。

 そうじゃなきゃ、小説家になんてなれないのだろう。





 事実華奈は、言葉のとおり小説に打ち込んでいた。

 本気、という曖昧な言葉で表してもいいのかわからないが、彼女はいつだって小説のことを考えていた。子供の頃、親に買ってもらったゲームのことを一日中考えていた時のような、そんな風に、彼女の生活の中には小説が当たり前のように溶け込んでいた。

 華奈はいつも鞄にパソコンを入れて持ち歩いていて、何か思いつけばすぐに書くことができるようにしていた。

 ある休日の昼、家の周りを散歩していた時だ。例の喫茶店ポワレで、氷も溶けて露も蒸発しきっているグラスを脇に置いたまま、パソコンに向かっている華奈を見つけた。小さな子供が必死に遊ぶような表情でキーボードを叩く彼女を見て、改めて彼女が小説家であることを理解した。





 それを見た数日後、華奈と一緒に帰っている途中に「私ちょっと書いていくから」と彼女が言って近くのベンチに座るタイミングがあった。

 思わず「僕、ここにいてもいい?」と訊いていた。

「なにも面白くないよ」と言いつつも笑って許可してくれた彼女の横に座る。

 華奈はパソコンを取り出した瞬間スイッチが入ったのか、集中の糸が張り詰めて、そこから小一時間顔を上げなかった。

 それ以来、僕と一緒にいる時に書きたくなったら、僕に気にせず作業するように言っていた。

 彼女はそんな時、いつも「先帰ってていいよ」と言う。

「どうせ公園で読む本をここで読んでるだけだから」

 毎回のように僕がそう言い、彼女の「わかった、ありがとう」を受け取るという一連の流れが出来上がっていた。

 だから、いつもなら軽い感謝の言葉で終わるのに、ある日、スイッチが切れて顔をあげた彼女が申し訳なさそうにしていた時には驚いた。

「ごめんね。一緒にいても、こんなんじゃ面白くないよね」

 伏し目がちにつぶやいた華奈の声。その声が耳に届いた途端、心の奥がざわりと揺れ動き、思わず言い返した。

「なんでそんなこと言うんだよ」

 彼女も軽く謝りたかっただけなのだろう。僕が退屈を隠すことを優しいと言う――そんな感性を持つ彼女の優しさから出てきた言葉なのだろう。

 頭の中ではわかっていた。いつものように「僕も小説読んでるし、気にしないで」くらいの言葉を返せばいいだけだ。

 頭ではそう理解しているのに、なぜか彼女の謝罪の言葉を受け入れられない自分がいた。小説家でもない僕は、自分の感情を正確に表すことなんてできない。けど、わかりやすく、その時の僕は彼女の言葉に苛立っていた。

 僕の勝手で一緒にいたのに彼女が謝ってきたことに対する申し訳なさと、気を遣われていることに対する残念な気持ち。

 一緒にいて心地いいと思っていたのは、もしかして僕だけだったのだろうか。

 初めて彼女を見たときに感じた胸の高まり。教室で見せるのとは違う彼女の表情。会話している時の心地よさ。彼女が選んだ言葉、意志のこもった彼女の瞳。

 今更、自分の感情に気づかされる。

「いや、ごめん。そうじゃなくて」

 僕のきつい言葉に、彼女の目は驚きに見開かれていた。僕は慌てて謝る。

「僕が好きで一緒にいるだけだから。それに、好きな小説が作られる瞬間に立ち会えるっていう、僕にとっては贅沢な時間だから」

 うまくオブラートに包めているだろうか。

 華奈の表情には、さっきとは違う驚きがのる。その驚きはゆっくりと変化していき、小説のヒロインのように柔らかく微笑んだ。





 この頃から僕は、少しずつ変化していった。

 努力し続けている華奈のことを間近で見ていると、羨ましい、と敵わないが混ざったような感情になり、同時に、なぜか心の奥からやる気が湧いてくる気がした。厚かましいかもしれないが、隣に並べるようになりたいと思っていたのかもしれない。

 とにかく何かをしなければならない気になった。

 朝起きる時間がほんのちょっとずつ早くなり、親に頼んで予備校に通い始めた。

 勉強をしようと思ったのは、一番身近にあった頑張りやすいことがそれだからで、深い意味はない。ただ、勉強を頑張っていると、少しだけ真っ直ぐ華奈のことを見られる気がしていた。

 夏休みまで秒読みとなったある日のこと。

 放課後、僕たちは学校から少し離れた場所にある広場にいた。華奈は手にシャボン玉の容器を持っている。さっき百均に寄って華奈が購入したものだ。化学の授業中ふと思いたったらしい。

 ジャングルジムに座った彼女が、容器の中に浸けたストロー型のプラスチックを咥える。

 華奈の口が膨らんだ直後、ふわりと、無数の球体が彼女の周りに飛ばされた。

「おお」

 久しく見ていなかった光景。七色の輝きの綺麗さに、思わず声が漏れる。

 ふよふよと風に流された球体は、僕のもとへとたどり着く。人差し指でその玉に触れると、ぱっと弾け飛び、微細なしぶきが顔にかかる。

「うわ」

 華奈は小学生のように無邪気に笑っていた。

「小さい頃、なんで空中で潰れないのか疑問だった」

 僕が呟くと、彼女が首をこちらに向ける。逆光で、表情がわかりにくかった。

「ビニール袋とかって地面に置いたら上の部分へこむから、同じようにシャボン玉もへこみそうなのに、って思って」
「おお」

 さっき僕が出したのとは違う種類の声が、彼女から発せられる。

「すごい、私そんなこと思ったことなかった」

 そんな気がする。前も言っていた。

「わからないところで考えるのがいいから?」

「考えてもなかったけどね」と笑う彼女。そしてこう続ける。

「けど、シャボン玉を見ていたら心躍るのは確かだよ」

 華奈が空を見上げ、鼻から空気を吸う。

「夏のかおり」
「する?」

 僕も彼女の真似をして息を吸うが、よくわからなかった。

「するよ。もうすぐ夏休みだもん」

 上を向いた彼女の鼻筋や顎のラインが、シルエットとなって僕の目に焼きつく。

 そうか、夏休み。

 夏休みに入ると、なかなか会うことができない。

 それに、高校二年生の夏というのは勝負の夏のようで、予想以上に予備校の夏期講習が詰まっていた。

 放課後、学校がある時のように簡単には会えないということに、今更ながら気づく。

「週末は書店回り?」
「いや、書店回りは最近してないの」
「じゃあ」

 考える前に口に出した。妙な間が開くことを避けたかった。

「よかったらさ、一緒に映画行かない?」

 彼女が小説を出している出版社から出ている文庫が映画化され、つい数日前に公開されたのだ。元々観に行くつもりだった。

 いつもより少しだけ高い声で彼女を誘うと、彼女は明らかに困惑した表情を浮かべた。その顔を見て、胸の奥に穴が空く。

 彼女の表情がどういう感情から出たものなのかはわからない。ただ、彼女が映画に誘われたことに無条件に喜んでいないことを知り、僕は傷ついた。傷ついた理由は容易に理解できた。オブラートに包んだはずの感情は、一度気づいてしまってからは僕の心の中を支配していた。

「いや、忙しいとかだったら全然……」
「――大丈夫だよね」

 僕の言葉を遮るように、彼女が意味のわからない呟きを漏らす。

「うん、一緒に映画、観に行こう」
「全然無理しなくていいよ」
「ううん、行きたいの。最近ちょっと煮詰まってるし」

 彼女は、何かを決心したような顔でもう一度「行こう」と笑っていた。





 華奈が困ったような顔をした理由は、当日になったらすぐに理解できた。同時に、僕の傷心は思い違いだったということに気づく。

 映画中から映画が終わってしばらくの間、彼女の涙が止まらなかった。

 映画は確かに感動的な物語で、終わった後目元を押さえている人もいたが、彼女はそんな比ではなかった。

 終始、涙を流し続けていた。

 隣に座っている、それも自分の心を掴んでいる女の子が目を濡らしていることも一つの原因だったけれど、そんなことよりも、感情を爆発させている人が隣に座っている事で、なかなか映画に集中できなかった。

 何度も読んだ小説なので僕は内容を把握できたが、そうでなければ隣にいる彼女のことを邪魔に思ってしまう人も少なくないはずだ。

 事実、僕は、近くに人がいなかった事に安心していた。

 そんなことを思って、ある事に思い当たる。

「クラスの子たちと遊ばないのって」
「うん、こういうことがあるから」
「誘った時に一瞬迷ったのも」

 隣を歩く華奈は恥ずかしそうに頭をかく。

「そう、流石に迷惑がられるかもしれないと思って。……ちょっと怖くて」

 彼女は「昔、同じようなことがあったの――」と切り出した。

「私ね、中学生の時に、クラスで仲良くなった女の子がいたの。その子はすごく優しい子で、ドラマとかアニメが大好きで、いつも私に好きなものの話をしてくれていたの。休日に初めて遊ぼうってなって、その子が映画に観に行こうって言ってくれて」

 華奈は頭の中でその時のことを思い出しているのだろう。空中を見つめ訥々と話していた。

「一緒に映画観てたんだけど、今日みたいになっちゃって。帰り道、その子に怖いって言われちゃった。それで、その子は次の週から別のクラスメイトの輪の中に入っていて、気づいたら私は一人だった」

 彼女はそんな内容を淡々と語る。その平坦さが、彼女の奥に根付いた傷を隠すために思えて、むしろ痛々しかった。

「けど、その子が別に悪い子ってわけじゃないの。ただ、その子からしたら、私は合わなかっただけで。私の悪口を言っていることもなかったし」

 放課後教室を出て行く時の、華奈の物足りなさそうな表情を思い出す。あの表情の裏には、そんな事情が込められていたのだ。

「けど、でもね」

 一拍おいて。

「東弥だったら大丈夫かなと思って」

 あの時呟いた「大丈夫だよね」という言葉はそういう意味か。

 それを知った途端、腹の奥がじんわりと暖まった気がした。彼女が――そんな過去を経験している彼女が、僕のことを認めてくれたのだ。

「それに、映画館でデートするのって、やっぱり憧れるじゃない?」

 嬉しそうな顔でそんなことを言い出す彼女。僕は、敵わないと思いつつも、今度は彼女のことを包み込むように言う。

「そっか、うん。そうだね。安心して。大丈夫だよ」





「ここ一回来てみたかったの」

 僕たちは、映画館の近くにある和菓子屋さんを訪れていた。

 涙はさすがに収まっていたが、店の入り口に設置された木彫りの看板を嬉しそうに眺めている彼女の目は充血していた。

 わらび餅が店の看板商品らしく、彼女は午後には売り切れるというそのわらび餅を食べたかったらしい。店内には注文した商品を食べることのできるスペースがあり、僕たちもそこで食べる事にした。

 イートインスペースは全体的に和を感じられる庭のような空間で、端にはししおどしが設置されていた。冷房の効いた清閑な店内には数秒おきに、ことん、という音が心地よく響く。

「んんっ」

 とろとろのわらび餅を口に入れた彼女の目が輝いて、それだけで美味しいのだろうと想像できた。

「生き返るー」

 彼女に続いて僕も食べると、するっと冷えた餅が喉の奥へと消えて行く。

「これも夏っぽいね」

 思ったことを口にだすと、華奈もそう思ったのか、こくこくと頷いた。

 なんとなく、彼女は同じことを思っている気がしていた。

「私、わらび餅は一番この時期が美味しいと思うの」
「わかるよ」
「透明な見た目とか、喉に入れた時とか、涼しい感じがするよね」
「和菓子は季節感考えて作られてるよね」

 僕の言葉に、彼女が興味深そうに身を乗り出す。

「結構和菓子好きなんだ、僕」

 小さい頃、祖父母の家に行くといつも様々な和菓子が揃っていた。並んだ和菓子は見ているだけでわくわくして、帰省の楽しみの一つになっていた。祖母に「好きなの選んでいいよ」と言われ、選ぶのが難しかったのを覚えている。

 シャボン玉の時はわからなかったけど、これは思う。

「わらび餅は、夏のかおりがするよ」
「そうだよね」

 僕たちはかみしめるように夏を味わった。

 食べ終わった彼女は楽しそうに呟く。

「贅沢」
「ん?」
「夏のかおりと糖分が同時に運ばれてきた」
「糖分?」

 僕が言うと、彼女は「頭使ったからね。けど、疲れ吹き飛んだ」と破顔する。

 僕は映画を見て、疲れたと思ったことはない。

 彼女はけど、本当に疲れていたのだろう。店に入る前より確実に元気になっていた。

「全然、責めてるとかそんなんじゃないんだけど」と前置いてから、僕は聞いた。素朴な疑問だった。

「映画見てる時に、気持ちを抑えよう、とか思ったことは?」

 そういう気持ちは、環境で左右されるものだと思う。僕だって、家だったり、誰もいない公園でなら涙が出ることなんか気にしないけど、映画館のように人の目がある場所であれば、涙は我慢する。

 物語による違いはそれほど大きな問題じゃなく、場所で自然と切り替わってるのだと思う。

「気持ちを抑えるのはもったいない気がするの」

 華奈は小さく呟いた。

「涙が出てくるとか、物語の中の誰かに苛立ったり哀れに思ったり、そういう風に思えるのは、私にとっては大切なことで」

 僕は黙って続きを促す。

「自分の気持ちの一番大事な部分、そこから出てきたはずのものを、なんのためであったとしても、抑え込むのはだめだと思うから。それをしたら、ちょっとずつ自分の心が死んでいくみたいになる」

 華奈は自分の内を見つめ直すようにしながらそう答える。

「だから私は、気持ちは抑えようとは思えない――」

 彼女の言葉が切れてしばらく経って、僕は唾を飲み込む。

 そこで初めて、わらび餅で潤ったはずの喉が乾いていた事に気づく。

 彼女と話して、まだ数ヶ月しか経っていない。けど、彼女と話していると何度も目の当たりにする彼女の考え方。彼女が考え方を提示してくれて、それを聞く度に僕は、その考え方を美しいと思っていた。毎回、心臓が締まるような思いになっていた。

 彼女にずっと訊いていなかったことがある。

 華奈を初めて認識したあの日の彼女の瞳、華奈と話し、彼女のことを尊敬したこと。

 おそらくそれら全てが帰結する質問。

 単純だけど、普通の人には答えることのできないその質問。

「華奈はどうしてそんなに本気になれるの?」

 猫が生き返る話をしている時にも彼女は言っていた。

――私は物足りない生活なんて送りたくない
――何かにちゃんと打ち込みたい。

 そんなこと、みんな心の底では考えているし、そう考えることが理想だと、みんな思っている。

 それでも、その言葉のように、何かに夢中になり続けることも、始めたことを妥協せずにやり遂げることも、普通はできない。できるのは一握りの人間だけだ。

 けど、自分には何もないと思い続けることが嫌で、みんなうまくごまかして生きている。割り切って、少し楽をしながら生きている。僕だってそうだ。

 僕が人のことを尊敬できなかったのは、それが原因だ。

 けど、僕は初めて、尊敬できる人に出会えた。

 彼女は紛れもなく、その一握りの中にいた。

 気づいてしまった華奈への想いもある。

 けどその時は純粋に、華奈のことを、深く知りたいと思った。

「どうしてそんな風に、夢中になって、真剣に生きられるの?」

 彼女は僕のその質問に、眉を顰めた。そしてしばらく虚空を見つめていた。

「私の身の上話ばかりになってしまってるけど」

 彼女は、「重くならないでね――」と言い添えてから語り出す。

「私、おじいちゃんが亡くなってるの」

 僕は空気が固まる前に、あえて「うん」と声を出した。

「おじいちゃんのことが好きで、毎週末おじいちゃんの家に遊びに行ってた。いつも週末が楽しみだった。私が小説を書き始めたのも、おじいちゃんがきっかけ。おじいちゃんの書斎にはたくさんの本が並んでいて、いつも読み聞かせてくれたの。いつも私の相手をしてくれて、元気なおじいちゃんは、けど、一瞬で亡くなった。私が、いつも通りおじいちゃんに手を振って、その次に見たのはおじいちゃんの眠った姿だった」

 私が小説家になったことさえ知らないまま、天国に行ってしまったの、と彼女は言った。

「遅かった。おじいちゃんのおかげでプロにまでなれたよって、私小説家になれたんだよって、おじいちゃんに伝えるつもりだった。私の中で、決めていたの。私が小説家になって、おじいちゃんに私の本を見せに行く。それが私にできるおじいちゃんへの恩返しだと疑わなかった。小説を通して気持ちを伝えたい、そう思っていたの」

 けど、無理だった。そう呟く彼女の悲しそうな表情。

「間に合わなかった。小説家になれたことだけじゃなく、おじいちゃんのおかげでこんなに小説を好きになれたよって、ありがとうって、伝えることさえできなかったの」

 彼女の目がまた赤らむ。

「後悔した時にはもう遅いの。多分、何やっても、どれだけ努力し続けても、圧倒的に遅すぎる。遅いって事に気付けるのはいつだって後から。何と比べて、とかじゃない。もう、いつだって早いことなんか何もないって身にしみたから。物足りない生活を送っていたら、取り返しがつかないと思っているだけ」

 いつも追われてるの、と彼女はわざとらしく笑った。

「それにずっと、私には小説しかないの。確かに、一つは大切にできるものを持っているかもしれない。一つもないと感じている人からしたら、恵まれていると思われるかもしれない。けど私にとっては、これしかないの。だから、怖いよ。逃げ道がないの」

 彼女は困った様に「それにね」と付け加える。

「そういうふうに思っているし、こうやってたいそうなこと言ってるけど、今の状態が正解かわからない。だって、小説のために犠牲にしているものも沢山あって。一回失敗もしてるし、学校で友達を作るのとか、私は諦めてるの。普通の青春を、諦めたの」

 作ろうとしない、じゃない。諦める、その言葉が出るということは、可能ならば作りたいという感情があるということだ。

「正解なんて、わからない。今正解だと思っていたとしても、いつかどこかで後悔するかもしれない。小説を書かずに勉強していた方が、友達を作って学校生活を楽しんでいた方が、後から考えたら圧倒的にいいかもしれない。誰にもそんなことわからないんだよ。だから、死ぬまで失敗じゃなかったら、それは正解なんだと思うし、そうだったらいいなって思ってるだけ……なんだ」

 迷っているようにゆっくりと、でも、そう言い切る彼女の目はあまりにも真っ直ぐで、僕には眩しいほどで。

 けど絶対、その眩しさから目を背けたくないと思った。

「だから。本当に感謝してる。そんな私に、もう一度こんな楽しいことを体験させてくれて、一緒にいる私のことを認めてくれて、大丈夫って言ってくれて、ありがとうね、東弥」

 来年はどんなふうに過ごしているのだろうか、そんなことを思いながら、華奈の目の中に映った自分を見ていた。

――ありがとうね。

 僕に向かってそう笑った華奈が、高校三年生なることさえなく亡くなるとは、その時の僕は夢にも思っていなかった。